ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十八話(最終話)〖手紙・二〇二五年 十月二十日〗#創作大賞2025
夏が終わり、次いでやって来た秋が、駆け足で過ぎていく。風は日に日に冷たくなる。今朝、海音は、木々の葉が紅や黄色を帯びていることに気がついた。
季節は秋でも、培養室の中は、常に二十七度に保たれている。海音は、今日も顕微鏡を覗き込み、ミクロの世界で格闘を続ける。隣の採卵室から、規則正しい心拍のモニター音が聞こえる。胚の着床を望む患者が、壁の向こうで待っているのだ。
芽衣と二人、胚を凝視する。
「予想通り、透明帯が厚くて硬いね。このままじゃ、胚が殻を破れない。アシステッドハッチングをしようか」
芽衣はいつも通り、淡々と判断する。芽衣の冷静な声が、海音の集中力のスイッチを入れる。
「母袋さん、アシステッドハッチングは三回目だよね」
「はい」
芽衣が、目で頷いた。
「私は、必要な時にだけ声を掛ける。だから今日は、まず一人でやってごらん」
「わかりました」
海音は、レーザー光の照射機能を搭載した顕微鏡を操作した。レーザー光を当てる位置を、素早く、かつ確実に決める。胚を包む透明な殻に一定の間隔でレーザー光を当て、削っていく。間違ってもレーザー光で胚本体を傷つけてはならない。一周ぐるりと殻に穴を空けると、海音はひとつ息を吸った。
「いいね。丁寧で速かった。上出来だよ」
芽衣の声に頷き、海音は胚を極細のチューブに吸い込む。
「#328992植野香枝さん」
「#328992植野香枝さん、確認しました」
芽衣と声を合わせ、頷き合う。
「胚、準備できました!」
パスボックスを開ける。採卵室側にいる看護師に、胚を託す。採卵室から河瀬の声が聞こえた。
「受け取りました!」
息をつくと、隣で芽衣が頷いていた。
「母袋さん。あなたはもう、どんな卵が来ても大丈夫」
*
キャップとマスクを脱ぐ。午後の業務の前に、スタッフルームに寄ることにした。カフェオレを片手に、ドアを開ける。研修医の吉田と、激辛ラーメンをすする看護師の杉森の姿があった。海音を見た吉田が、子犬のような大きな瞳を輝かせて思い切り笑う。
「母袋さん! 聞いて聞いて。私が担当している赤沢尚子さん、今日、リプロセンターを無事卒業したんですよ! 今、妊娠十二週です」
吉田が、「えっへん」と胸を張る。
「吉田先生。顕微授精と胚培養、それから胚の凍結融解をしたの、母袋さんでしょ? 全部母袋さんのお陰じゃないですか!」
杉森が、吉田の肩をつつく。
「ごめんなさい、嬉しくて、つい。母袋さん、その節は本当にありがとうございました」
「いえ……。それは、本当に良かったです」
かつて海音の胸ぐらを掴んで泣いていた赤沢に、新たな命が宿った。その命を始めたのは、他の誰でもない、海音自身だ。よかった。本当に、よかった。こみ上げるものを感じ、海音は天を仰いだ。
「あれ? 母袋さんもしかして泣いてます? まだ早いですよお、泣くのは」
吉田が、悪戯っぽく笑って、トートバッグからピンク色の封筒を取り出した。
「これ、赤沢尚子さんから、母袋さんへ」
吉田が差し出した封筒を受け取る。封を切ると、ふんわりと薔薇の香りがした。便箋を広げる。可愛らしい丸い文字で、丁寧に綴られた手紙だ。
母袋海音先生
初めてお会いしたときは、大変失礼をいたしました。深く反省しております。採卵の前にもお伝えいたしましたが、最後にもう一度だけ治療に挑戦してみようと思い、夫と二人、進んできました。
母袋先生に顕微授精をしていただいた私の卵子と夫の精子が、無事受精をしたと聞いた時は、また流産になるのではと、本当はすごく怖かった。
けれど、信じて待ちました。その結果、無事に壁を乗り越え、妊娠を継続でき、本日、リプロセンターを卒業することができました。
母袋先生。私たちの受精卵を、私のお腹に帰るまで育ててくださった母袋先生は、この子のもう一人の家族です。本当にありがとうございました。
出産まで、赤ちゃんと一緒に頑張ります。無事この子が生まれたら、母袋先生にご挨拶に伺わせてください。その日まで、どうかお元気で、待っていてください。
海音は、溢れて止まらない涙を手の甲で拭った。封筒の裏には、住所が記されていた。
「私、赤沢尚子さんに、お返事を書きます」
泣きながら笑う海音を見て、吉田も、杉森も笑って頷いた。
胚培養士の仕事は途切れなく進む。命はこの世界を絶え間なく巡っている。海音の仕事は、この世界に生まれたいと願う命を、その命を望む人々に、繋ぎ続けることだ。
スタッフルームのドアが開き、若い男性医師が海音を呼ぶ。
「母袋さん、いる? 培養について相談したいことがあるんだけど」
「はい! 今行きます!」
海音は、カフェオレを机の上に置いたまま、走り出した。
今日も、ガラス細工のようにきらめく受精卵が、海音を待っている。輝く太陽のような、お母さんとお父さんからの、大切なギフトが。
ねえ、知ってる?
あなたは、幾つもの奇跡が重なって生まれた、この世界にたった一つの、大切な大切な、いのちなんだよ。
<了>
