ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第六話〖晴れの海と裸足・二〇二五年 四月二十六日〗#創作大賞2025
大型連休前の土曜日の午後、海音はJR札幌駅から普通電車に乗り、海辺の街へ向かった。春の陽が射しこむ車両には、穏やかな空気が漂っている。
座席に深く体を沈めながら、樫木萌絵の受精卵に思いを馳せる。受精卵は、液体窒素の中で今も眠り続けている。萌絵の月経周期が安定しないためだ。受精卵、と思って車両の中を見回す。耳に大きなピアス穴が開いた大学生くらいの男の子も、隣で髪を触る彼女らしい女の子も、眠りこけているサラリーマン風の男性も、最初は一個の受精卵だったのだ。受精卵の段階では、善人も悪人もない。ただ皆が、透明で神秘的な球体だったのだ。
一つ前の座席に座る老夫婦は、大型連休中に孫が家に遊びにくると話している。老婦人が湛える穏やかな笑みを見て、海音は破顔した。列車が進むにつれ、車窓の風景は市街地から海へと移り変わっていく。終着駅付近には大きな運河があり、運河沿いの土産物屋界隈は、海外からの観光客であふれかえる。海音は、終着駅の四つ手前の駅で電車を降りた。想像通り、海開き前の小さな港町に人はまばらだ。
海岸線を歩く。春の日本海は少しくすんでいて、曇天と海の境界線は鈍色だ。
ざざあ、ざざあと波が防波堤に当たっては砕ける。潮の香りが甘い。普段仕事をしている北都大学は、どちらかというと森に近い。だから気分を変えたい時は、いつもと違う環境に身を委ねたくなる。
仕事の時はいつも髪を結んでいるが、今日は、解いた髪を揺らす潮風が心地よい。靴を脱ぎ、裸足で波打ち際を駆ける。海音は、月に一度、大切な人に会いに、この町を訪れる。
浜辺に建つ、木造の小さな白い家を見つけた。この家の一階は、親愛なる人が営む喫茶店だ。ぎいっと鳴る木の扉を押し開けると、春の潮風が吹き込んだ。
入口付近の壁一面には、海岸を臨む大きな窓がある。店の奥の壁面には、本棚と、ガラスの筒に入った様々な植物の標本が整然と置かれている。二階から階段を降りてくる足音がして、海音の心が弾む。
「あら、海音さん。いらっしゃい」
女性にしてはとても低い、落ち着いた声だ。魔女の声みたいだ、と海音はいつも思う。ほとんど白い、真っすぐなベリーショートの髪は、ハーブの香りがするヘアオイルできちんと整えられている。生成りの麻の着物に、藍色をした手染めの帯が潔く映える。べっ甲色の丸眼鏡の奥の瞳が優しい。
「ハツ先生」
海音が大切に思う人、花枝ハツが、目尻に皺を寄せ、顔を綻ばせた。真っ赤な口紅が、大輪の笑顔に良く似合う。
「そろそろ来るんじゃないかって思っていたの。座って。今日はクッキーを焼いたのよ。我ながら、上出来だわ」
海が見えるいつもの窓側のテーブルに座り、いつものブレンドを注文した。ほどなくして、ハツ先生がお盆を持って現れた。コーヒーカップが二つ乗っている。ハツ先生もテーブルに着いた。
二人で一緒にコーヒーをすする。珈琲の香りが、空気と混ざりあいながら、天井へと昇っていく。
「今日もいい日だわ」
ハツ先生が海を見つめて呟く。海音はクッキーに手を伸ばし、さくりと頬張ると、たちまち笑顔になった。クッキーは香ばしくて甘く、かすかに塩味が効いている。
「桜の味がする」
「正解よ。去年裏庭に咲いた桜。塩漬けにしておいたの」
この喫茶店に静寂は存在しない。窓越しにいつも潮騒が聞こえる。頭の中の澱んだ空気が、波の音に乗り、風に溶けて散っていく。樫の木でできたテーブルの木目を人差し指でなぞる。体中で深呼吸をするような感覚を求めて、海音はこの喫茶店に通い続けている。
「順調そうね」
「まあまあですね。四年目にもなると、色々なことに慣れてきたっていうか」
「私は、あなたが胚培養士になるって聞いて、これ以上ない適職だと確信したの。ほら、あなた、昔から卵を孵すのが大好きだったじゃない? カエルとか、サンショウウオなんかの卵を、川で採って来たりしてね。あなたが突然、バケツに入ったカエルの卵を教室に持ち込んだ時は、さすがにびっくりしたけれど」
「その節は、大変お世話になりました」
海音はおどけて深々と頭を下げた。ハツ先生は、札幌で小学校の教師をしていた。海音は、ハツ先生の教え子だ。海音とハツ先生の付き合いは、二十二年目を迎えた。小学校を早期退職した後、この海辺の町に移り住んだハツ先生は、喫茶店「潮」を開いた。ハツ先生は、教師を辞めてから、とても綺麗になったと海音は思う。
ハツ先生が淹れてくれた珈琲が、波のように、じわりと胸に沁みていく。
「それで、今日のお話は何でしょうね」
頬杖をついたハツ先生に、見つめられる。海音は、テーブルの木目を再びなぞった。喫茶店の中には、珈琲と、季節ごとに変わるハーブの香りが、違和感なく共存している。
「ハツ先生。この前ね、難しい手技を任されて、上手くいったんです。顕微授精っていう、卵子に精子を注入する手技です。それで、芽衣さんっていうゴッドハンドを持つ先輩に褒められて」
ハツ先生の前では、つい子供のように振る舞ってしまう。生きていれば、海音の母親はハツ先生と近い年齢になっていたはずだった。海音はハツ先生を、密かに母親のような存在だと思っている。
「そう。それはすごいことね。よく頑張ったわね」
ハツ先生が目を細めて微笑む。ずいぶん髪が白くなったと、海音の心の奥がざわめく。ハツ先生との時間は、永遠に残されているわけではないのだ。
「今日のお話は、それだけではないんでしょう?」
海音はぎくりとして、肩をすくめた。ハツ先生の前では嘘がつけない。海音が最初の言葉を探していると、ハツ先生が、魔女のような低い声で、茶化すように笑った。
「光る君はお元気?」
「ええ、まあ……」
「光る君」とは、ハツ先生と海音だけの隠語だ。
「想いが叶うことは決してありません。変なんですけど、振り向いてもらえなくて、それでいいというか。この感情に名前を付けるとしたら、それが果たして『恋』なのかもわからないんです」
「毎日のように会うのでしょう? 心の方は大丈夫?」
「先生、私ね、気持ちを抑える方法を学んだんですよ。『ミュートをかける』って呼んでるんです。仕事が無事終わるまで、この気持ちの音量をゼロにしてしまうんです」
ハツ先生は、口角を少しだけ上げた。
「そんなんじゃ、苦しくないわけないわよね?」
「やっぱり、ハツ先生に嘘はつけないな。……はい。仰る通り、苦しいです」
海音は、白い天井を仰いだ。
「けれど私は、光る君に何も望みません。それに、光る君よりも、胚培養士の仕事の方が、何倍も好きです。だから今、私は幸せなんです」
ハツ先生は、「そう」と呟くと、視線を落してゆっくりと珈琲カップを持ち上げた。海音はふと窓の外を見た。春の波が、浜辺の砂と戯れている。
「綻びや矛盾のない人間はいないわ」
ハツ先生がぽつりと呟く。ハツ先生は、海音を、「教え子」というフィルターを介さず、一人の人間として扱ってくれる。海音は、自分を偽らなくていいこの場所に、改めて感謝を覚えた。
「あなたのように、抱えるものがあっても、自分を制御しながら歩いていける人は貴重よ。あなたのような人ばかりだったらこの世界は平和なのに、なんてよく考えるの」
「私がなんとか道を踏み外さずに生きていられるのは、昔も今も、こうしてハツ先生とお話ができるからですよ」
「まあ。嬉しいことを言ってくれるじゃない」
ハツ先生の目元に笑い皺が寄る。人生の中で、たくさん笑ってできた刻印だ。
「あなた、明日が誕生日でしょう」
本当は、光る君の話は二の次だった。ハツ先生にこの言葉を言って欲しくて、海音はこの喫茶店に来たのだから。
「はい。母の命日でもあります。明日、お墓参りに行ってきます」
「もう三十二年になるのね」
海音は目を伏せて、テーブルの上で重ねた両手を見た。微かに震えていた。ハツ先生が、海音の震える手に触れた。温かく、乾いた手だ。
「お母さまは、今の海音さんを空から見ていらして、きっと安心していらっしゃるわ」
「そうでしょうか」
「なぜ?」
ハツ先生と、目が合う。海音は言葉を飲み込んだ。
「私は、恐らく一生、子供を望みません」
「いけないことかしら?」
「わかりません。ただ、私は生殖機能に問題が無いのに、母親になることを放棄しようとしているんです。母親になることが、怖くて仕方がないんです。病院には、母親になりたくてもなれない人たちが溢れているのに」
「母のことがあったから」と言おうとして、海音は言葉を飲み込んだ。
「海音さん」
ハツ先生に名前を呼ばれて、海音は初めて、自分がはらはらと涙をこぼしていることに気付いた。ハツ先生が差し出した真っ白なハンカチを受け取る。微かに沈香の匂いがした。ハツ先生には、心の最も奥の無防備な部分を見せてしまう。その柔らかな皮膚のように敏感な感情を、ハツ先生は決して傷つけないからだ。暫く二人で何も言わず、波の音に耳を傾けていた。
「幸せの形は、ひとりひとり違うものね。万人に共通する『幸せの条件』なんてないのよ」
「ええ。そうかもしれません」
ハツ先生の珈琲は苦く、けれど微かに甘くて、まるで生きていることそのもののような味がした。窓の外、視界の端で、白い風車たちが午後の金色の海風を受け、気持ちよさそうに回転していた。
ハツ先生は、十二年前、成人式を迎えたばかりの海音に一度だけ言った。本当に子供が好きで仕方がないのに、病気で生殖機能を失い、一度も子供を持つことが叶わなかったのだと。
海辺の町を後にし、普通列車に揺られて帰宅した海音は、そのままベッドに倒れ込んだ。ベッドの上で、膝を抱いた。胎児の形になった海音は、すぐに気絶するように眠りに落ちた。
「ママは、命を懸けて私を産んでくれたのに」
「ママ、ごめんね」
呟いたのは、夢の中だった。
