ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第二話〖モノクロームの姫と忘却・二〇二五年 四月十五日 前編〗#創作大賞2025
間宮汐里の体外受精から、一年が経つ。また、春がやって来た。病院の庭で、ハクモクレンが、砂糖菓子のような、白くやわらかな花をつけている。
始業時間の八時半までは、あと二十分ほど時間がある。海音は、机の引き出しからパステルイエローの封筒を取り出し、写真を丁寧に引き抜いて掌に載せた。優しく微笑む間宮汐里と、汐里の人差し指を小さな手で握りしめる、女の赤ちゃんが写っている。思わず、柔らかそうな頬の部分に指で触れて、微笑んだ。海音が初めて担当した患者が、三か月前に無事元気な赤ちゃんを産んだのだ。
「あ、可愛い」
隣のデスクの小林優助が、身をのりだして写真を覗き込んできた。小林の短い黒髪は、いつもふんわりと洗いたてで、清潔感がある。小林は、二十四歳の二年目胚培養士だ。年齢では海音の方が八歳上だが、胚培養士歴では二年差である。
「可愛いでしょ。昨日私宛に届いたお手紙なの」
「この方、母袋さんの初受け持ち患者さんですよね?」
「うん。間宮汐里さん。今年の一月に無事ご出産されたんだ」
思わず自慢げな口調になる。まるで親戚のおばちゃんだ。
「七海ちゃんって言うんだって。私の名前から一文字取って名付けてくれたらしいのよ。『海音』の『海』って言う字」
小林が「へえ」と、驚いて目を見開く。小林の表情を見て、海音は再認識する。自分の名前の一部が、新たな命として歩き出すことが、こんなに幸せだとは。
「僕、本当に赤ちゃんが大好きなんですよ。小さくて、あったかくて、ふわふわで。受け持ち患者さんの赤ちゃんを拝めるなんて、幸せの極みですよねえ」
ふわりと眉尻を下げた小林の表情も、親戚のおじちゃんのそれだった。小林は、進路を決める際、胚培養士になるか、保育士になるかを迷って、胚培養士の道を選んだらしい。手先が器用で、細かい作業が好きだし、胚培養士は、いわば赤ちゃんの卵の保育士のような存在だから、原点は同じだと言っていた。確かに小林には毒気がない。幼い子供たちが、たちまち警戒を解き、「遊んで遊んで」と群がる様子が容易に想像できる。
「僕、先週初めて媒精法を実施したんですけど、受精確認前の夜、ろくに眠れなくて」
「わかる。私もそうだったよ。けど、受精確認はゴールじゃないから」
「やっぱり、胎嚢と心音の確認までは落ち着かないですよね」
「いや、産まれるまで安心はできないよ」
「そうなんですか?」
「うん。無事に産まれてくることって、奇跡だよ。いくつもの壁を乗り越えなきゃ辿り着けない、とんでもない奇跡なんだよ」
海音の胸が、僅かに疼いた。
ここ、北都大学病院リプロセンターの強みは、不妊治療を担当した医師が、そのまま出産までのケアを一手に引き受けられることだ。担当する医師は、受精から出産まで母子を見守り、共に関門を乗り越えていく。
「母袋さん、いいこと言うじゃない!」
海音が小林につられて後ろを振り向くと、助産師の安藤里美が仁王立ちしていた。安藤は北都大学病院の産婦人科に三十年勤めており、産婦人科一の情報通で、教授さえもが一目置く人物だ。助産師資格は、看護師資格を有する者が、さらに助産師国家試験に合格して初めて得られる。安藤のグレーのショートヘアは、今日も寝癖ひとつなく決まっていて、太く整えられた眉が意志の強さを物語っている。
「培養士さんたちが、妊娠成立後のことも考えて仕事をしてくれてるって思うと、私たちの士気も上がるわ」
産婦人科の重鎮は、海音と小林が吹き飛びそうな声で、豪快に笑った。
「ところでお二人さん。今朝河瀬先生見た? さっきから探してるんだけど」
安藤は、仁王立ちをしたまま、辺りを見回した。
「あれ? 今日、母袋さん、河瀬先生と採卵ですよね?」
「はい。朝一で河瀬先生の患者さんの採卵があって」
「じゃあ採卵室か! 今ならまだ先生のPHS鳴らしてもいいよね?」
「大丈夫だと思います」
海音が言い終わらないうちに、安藤は「ありがと!」と手を振って、大股で事務室を出て行った。
「最近また、河瀬先生目当てで転院してくる患者さんが増えたらしいですよ。安藤さん、その対応かも」
小林が囁く。
「まあ、培養室のキャパを超えなければ、いいことだよ。幸せな親子が増えるってことだからさ」
お互いを望む夫婦の元に、望まれた命が降りてくる。芽吹いた命は、命を望んだ両親のもとで、すくすくと枝葉を広げる。海音は疑いもなく、そう信じていた。
時計を見ると、始業時間の十分前だった。海音と小林は頷き合って、培養室に向かう。
事務室のドアを開け、培養室へと向かう廊下を、小林と歩く。背後で電話の着信音が聞こえた。
「電話か……。事務室、戻ろうかな」
「今、看護師さんが一人、入って行きましたよ。杉森さんかな。電話、取ってくれるんじゃないですか?」
「そうだね。対応したら時間ギリギリになっちゃうし、今回は甘えようか」
海音は、三歩先を歩く小林を駆け足で追った。
「はい、北都大学病院産婦人科リプロセンターです」
後ろで、若い看護師の声がした。
「よかった。電話、取ってもらえた」
海音は、今日の採卵の手順を頭に浮かべた。その着信音を、徐々に忘れながら。
*
白い不織布マスクを着用し、使い捨ての手術用キャップを被る。石鹸を泡立て、肘までを入念に洗う。流水のザーザーと言う音が、気持ちを仕事へと没入させていく。
胸ポケットに、「Hokuto Univ.」と刺繍がある、揃いの濃紺のスクラブを纏った胚培養士たちが、培養室に集った。北都大学病院リプロセンターに勤務する胚培養士は十五人だ。培養室の規模は比較的大きめだと言える。ミーティングを取り仕切る室長の松居健吾は穏やかだが、言動に全く隙がない。培養室では、検体の取り違えや見逃しなどの、いかなるミス、即ち一切のヒューマンエラーが許されないからだ。「培養室全体でヒューマンエラーが発生しないシステムを作り、徹底すること」という言葉が松居の口癖だ。松居の声を聞き、海音は背筋を伸ばす。
松居の隣に立つ人物に目が行く。くっきりとした二重瞼の下の、長い睫毛に縁どられた瞳は、瞳孔の位置が分からないほどに黒い。帽子の中に隠されている、さらりとした短い黒髪は、額の真ん中で分かれている。色白な肌は、羨ましくなるほどに透明で血色がよい。
彼女の名前は、河瀬芽衣という。海音より一年前に北都大学リプロセンターに入職した芽衣は、入職の時点で既に、不妊治療専門のクリニックで九年間、胚培養士としてのキャリアを積んでいた。芽衣の手技は「神の手」と呼ばれ、業界でも非常に評判が高い。芽衣が以前働いていたクリニックには、数多くの胚培養士たちが、芽衣目当てで手技を学びに訪れたという。
松居の「今日もよろしくお願いします」という挨拶で、ミーティングが終了した。胚培養士の朝は、環境管理から始まる。毎日、最適な条件で精子や卵子を迎え、育てるため、まずは培養室の環境を徹底的に確認し、管理するのだ。培養室の温度や湿度、卵子や胚を育てるインキュベーターの動作とガス濃度などの数値、凍結保存に用いる液体窒素の残量などを隈なく記録し、全く異常がないことを確かめる。
「おはようございます」
環境管理が終わりに差しかかった時、朗々とした声が培養室に響いて、思わず後ろを振り返った。濃紺の術衣を纏った産婦人科医の河瀬肇が、培養室に現れた。胚培養士たちが次々に頭を下げて挨拶をする。河瀬は、北都大学産婦人科のエースと言われており、若干四十歳の極めて優秀な医師だ。身長は、百八十センチくらいあるだろうか。
シャッターを切るように、海音は一度瞬きをする。キャップの中の、少し癖のある髪。くっきりとした二重瞼と、暗褐色の瞳。
もう一度瞬きをし、切り取った画像を心の海深くに沈める。誰にも気づかれないように、マスクの下で息を吐き、頭を下げた。
「河瀬先生、今日はよろしくお願いいたします」
顔を上げると、河瀬と目が合った。ゆっくり一秒を数え、落ち着いたふりをして、視線を逸らし、芽衣を見た。
「芽衣さん。手技のご監督よろしくお願いします」
芽衣は、「はい」と静かに頷き、黒い瞳で海音を見つめた。芽衣が、皆に「芽衣さん」と呼ばれるのは、芽衣が「河瀬」芽衣だからだ。芽衣が、河瀬肇の妻だからだ。
芽衣は仕事中、結婚指輪をしない。胚培養士は培養室に出入りする度に、念入りに手を洗う。手洗いの回数は、一日十回を超える。手や腕を洗っているうちに指輪を落すことが無いよう、あらかじめ外しているのだと、他の培養士たちが噂していた。
「母袋さん、環境管理が終わったら、患者さんにご挨拶をお願いします」
河瀬の声は、男性にしては少し高いテノールで、いつも楽しそうに弾んでいる。河瀬の声を聞くと、自分が抱えている感情を、海音は否応なしに思い知る。
何でもないように、「承知しました」と頷き、人工的に少しだけ微笑む。落ち着いた手つきで環境管理を終わらせ、採卵室の前室へと向かった。ドアの前で頭を振り、邪念を払い落す。私情にミュートをかけたことを確認し、息を吸った。
前室のドアを三回ノックし、開けると、ベッドに腰かけて白い壁を見つめている女性の姿が視界に入った。
「おはようございます」
海音が声を掛けると、女性はのろのろと、壁に貼り付いた視線を剥がして、海音の方を向いた。二重瞼の下の瞳は、緑がかった褐色だ。化粧はしていない。クリーンルーム扱いの採卵室では、化粧品は汚染の原因となる。そのため、化粧をしないよう、患者に対して指示が出ているのだ。もちろん、胚培養士の海音たちも、化粧やヘアセット、ネイルを一切せずに業務を行う。萌絵の唇と頬は血色がよく、眉はふんわりと生えそろっている。海音は暫し、萌絵の顔の造形に見惚れた。
「ご本人様確認のために、お名前と生年月日をお願いします」
「樫木萌絵。一九九三年、九月二十三日生まれです」
少しだけ掠れていて、乾いた声だ。感情を持ち合わせていない言葉が、ただの文字としてばらばらになって宙に浮き、空間に漂っているようだった。萌絵は、現在三十二歳で、海音と同い年ということになる。
「ありがとうございます。樫木さんですね。本日、河瀬先生と一緒に採卵をさせて頂く、胚培養士の母袋と申します」
海音が頭を下げ、目線を戻すと、萌絵は暫くの間、海音を見つめた。顎より少し下くらいの長さの萌絵の髪は、後ろでハーフアップに束ねられている。髪は自然な褐色だ。おそらく地毛だろう。ピンク色の検査着から伸びる手足は、とても細く、華奢だ。
「色が無くなったんです」
唐突に萌絵が放った言葉の意味が分からず、海音は首を傾げた。
「色、ですか?」
「はい」
海音はとっさに、手元の患者情報に目を遣った。萌絵の職業は「絵画教室講師」と記されている。
「赤色が好きでした。でも、不妊治療を初めて五年が経ったあたりから、赤も青も、使えなくなりました。今は、白と黒だけ」
再びカルテに目を落とす。萌絵が不妊治療を始めてから、七年が経過していた。萌絵は、二十代半ばで月経不順を機に婦人科を受診し、排卵障害の一症例である、高プロラクチン血症と診断された。体の中でプロラクチンというホルモンが過剰に分泌され、排卵や受精卵の着床が困難となっていたのだ。
「なかなか赤ちゃんが出来なくて。子供を産めないなら、お前は要らないって、二度離婚されました。今の夫は、三人目です」
ガラス玉のような萌絵の瞳からは、一切の感情が読み取れない。大丈夫だろうか、と海音の心がざわめく。萌絵の過去は壮絶だ。ゆえに、萌絵の精神状態は今、実はかなり不安定なのではないか。過酷な不妊治療が終り、妊娠が成立したとして、その後に待つ出産と子育てに、萌絵は耐えられるのだろうか。
「この白い壁。こんなに大きなキャンバスに、思い切り赤い花の絵を描けたらなあ」
萌絵は、幼い少女のような眼差しで、また白い壁を見つめた。海音はすっかり動揺して、やり場のない視線を泳がせた。こんな患者は初めてだ。萌絵が母親になったとして、萌絵に宿った赤ちゃんは、幸せになれるのだろうか。命は不可逆だ。途中で引き返すことは絶対にできないのだ。
海音は、体の後ろに両手を回し、右手で左手の甲を抓った。気持ちを入れ替えなければ。
「河瀬先生は、高い技術を持つ不妊治療の名医です。麻酔も導入しますし、極力痛みのない採卵をしてくれるはずです。私は胚培養士として、樫木さんからお預かりした卵を守ります。だからどうか、ご安心ください」
海音が頭を下げると、萌絵が、静かに立ち上がった。ぱたり、とスリッパが床を蹴る音が響く。
「よろしくお願いします」
萌絵は呟くと、アンコールに応えるバレリーナのように、深々とお辞儀をした。
>>第三話〖モノクロームの姫と忘却・二〇二五年 四月十五日 後編〗
