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ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十三話〖家族の温度・二〇二五年 七月十七日 後編〗#創作大賞2025

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食事が終わった。芽衣が照を別室で寝かしつけている。海音と小林、松居と河瀬は、ダイニングテーブルで食後の珈琲を飲んでいた。海音はわかっている。今日自分がここに呼ばれた本当の理由を。

「間宮汐里さんのことだけれど」

海音の向かいで、河瀬が重い口を開く。白い木目調のリビングの空気が、沈殿する。

「七海ちゃんは、児童相談所に保護されて、乳児院に入所が決まったそうです」

海音は、テーブルの上に置いた両手を握りしめた。やはり、そうか。

「北都大の精神科の先生から、間宮さんと面会したと聞きました。間宮さんは、重度の産後うつ状態だと」

河瀬が目を伏せた。河瀬の隣で、松居が大きな体を揺さぶり、ゆっくりと腕を組む。

「乳幼児検診にもきちんと来て、保健師の質問にはいつも笑顔で、『大丈夫。何も問題ない。育児をするのが楽しくて仕方がない』と答えていたそうです。僕も、間宮さんが抱えていた心の問題には、気付くことが出来ませんでした。医師である前に一人の人間として、いくら悔やんでも悔やみきれません」

河瀬のテノールの声は、今は弾まずに、重い。

「私は」

海音は、河瀬の目を見て、ずっと心に抱えて来たことを話すことにした。

「私は、互いを望むご両親の元に、望まれた赤ちゃんがやってくれば、全てがうまくいくと思っていました。無事に出産が終わり、母子ともに健康であれば、家族は必ず幸せになれるのだと」

海音の中で、「やめろ」と小さな声がした。海音は声の主の口をふさいだ。母親に殺されそうになった七海には、数多の困難が待ち受けている。成長し、母親が自分にしたことを知ったら、その時七海は、真実に耐えられるのだろうか。

「望まれた赤ちゃんが、その後も幸せに育っていけるとは限らない。辛い不妊治療を乗り越えても、幸せになれない家族がいる。それなら胚培養士は、一体何のために存在しているのでしょうか」

やはり口にしなければよかったと思った。もう遅い。「すみません」と呟き、白木のテーブルの上の両手を見つめる。行き場のない手は、すがるように真っ白なマグカップを掴んだ。コーヒーの水面に波が立つ。トンネルの出口を自ら塞いでしまったようだった。

「母袋さん。僕も、同じことを思っています」

松居が、体の前で組んでいた太い筋肉質の両腕をゆっくりと解いた。表情は、動かない。

松居は、沈黙し、きっかけの言葉を探しているように見えた。

「僕の話をしましょう。僕には、十三年前、娘がいました」

松居の声が、珍しくぎこちない。

——十三年前、娘がいた?

「娘は、二歳の時、この世を去りました」

松居の目から、光が消えていく。

「ぐずって妻の手を振りほどいた一瞬の間に、娘は、飲酒運転の車に轢かれたんです」

海音の心に波が立つ。普段、感情を露わにすることがない松居の声には、今、深く醸成された怒りが込められている。海音の隣に座る小林の表情が硬直していく。

「娘が車に弾き飛ばされて歩道の上で息を引き取った時、僕は胚培養士として、リプロセンターの培養室ラボで仕事をしていました。何も知らずに命を始めていました。高揚感と懐かしさすら、覚えていました」

「懐かしさ」とは何だろうと海音は考えを巡らせ、ある一つの答えに辿り着いた。心臓がどくんと脈打ち、松居を見つめる。まさか。

「娘は、体外受精で誕生した子供でした」

松居は囁くように言って、目を伏せた。白いマグカップに入った飲みかけのコーヒーが、静かに冷めていく。

その場にいた全員が、衝撃に打ちのめされ、言葉を失った。

「それから僕は、受精卵に娘の姿を重ねて仕事をしています。受精卵だった時の娘を、思い出しながら。そうでもしないと、僕はきっと狂ってしまうでしょう」

淡々と自白をするように話す松居を見た。海音の鼻の奥がツンと痛む。

「母袋さんが言った通り、不妊治療の結果、望まれて生まれてきた子どもの全てが幸せになれるとは限らない。では、胚培養士という仕事は、何のためにあるのでしょう。僕はずっと考えていて、今でも答えが分からない。ただ、もう一度娘に会いたい。会って、あの時守ってあげられなかったことを、謝りたい」

松居は、テーブルの上で、祈るように両手を組んだ。左手に、指輪はなかった。

「今の話はどうか、忘れてください」

海音が松居に声を掛けようとした時、ドアが開く音がした。目をこすりながら、パジャマ姿の照がよたよたと歩いてくる。

「ねー。みんなであそぼうよお……」
「ごめんなさい。照、目が冴えたのか、全然寝なくて」

芽衣が照を抱きかかえると、照は不服なのか、ばたばたと手足を揺さぶった。海音は気づいた。今まで表情を動かさなかった松居が、照を見て、泣き出しそうな顔で笑っていた。

夜が更けた。河瀬家の玄関先で、松居と別れた。小林と二人、何も言わず同じ方角へ歩く。沈黙は重い。しっとりとした草木の匂いが、夜気に溶け込んでいる。今夜は、この時間でも蒸し暑い。熱帯夜だ。歩行者用の青い信号が明滅する。次の交差点で、小林とは別方向になる。

「母袋さん」

小林が、真剣な面持ちで海音を見た。

「僕、さっきの松居室長の話を聞いた後でも、やっぱり、胚培養士を続けたいです。僕、この仕事が好きです。これからも、赤ちゃんの卵を守りたいんです」

小林の純粋な言葉を聞き、海音の心が澄む。「気を付けて」と小林が手を振る。夏の夜風が、小林の髪をさらりと揺らした。海音は手を振って、横断歩道を渡った。

「今でも、答えはわからない、か」

海音は夜空を見上げた。夏の大三角形が見える。相思相愛のベガとアルタイル、そしてデネブが、瞬きながら、闇を照らしている。三角形の頂点は、河瀬と、芽衣と、照のようだった。

>>第十四話〖水平線・二〇二五年 七月十九日 前編〗


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