温故知新(147)屯倉 壬生部 金色姫(倭文神 倭迹迹日百襲姫命) 古代都市セリヌス 有田遺跡群
大生部多(多氏) 秦河勝 聖徳太子(阿毎多利思比弧 用明天皇) 厩戸皇子(崇峻天皇) 舂米女王(上宮大娘姫王) 壬生車塚古墳 大生神社 倭文神社 蚕養神社 蚕霊神社 ローマ うつろ舟 うつぼ舟 白村江の戦い 中臣鎌足 豊璋 国造制 屯倉制 古モンゴロイド 長江文明
屯倉と壬生部、国造
静岡県富士市の須津千人塚古墳から、百済ルーツの帯金具が出土したという記事がありました(朝日新聞2026年5月7日)。富士市周辺は、「稚贄屯倉(わかにえのみやけ)」が設置された場所で、上宮王家と関係のある壬生部などの集団が居住していたと場所とも推定されています。帯金具の作られた時代は、538年~660年と推定されています。
『日本書紀』によれば、吉備国に設置された白猪屯倉(しらいのみやけ)には、555年に高句麗系の渡来人と推定される蘇我稲目ら、574年に蘇我馬子が遣わされ、児島屯倉(こじまのみやけ)には、556年に蘇我稲目らが派遣されたとされています。
壬生部(みぶべ)は、皇族に結びつく部民(部曲)で、部民を全国に配置する際、国造(くにのみやつこ)がその管理や動員を実質的に統括していました(国造と部民)。ヤマト王権は国造の支配領域の中に直轄地である屯倉を設置することで、その地域の経済基盤を握り、地方支配を強化しました(国造と屯倉)。
国造制は、邪馬台国(やまとのくに)の制度で、屯倉制は、渡来系のヤマト政権が、邪馬台国を制圧するためにつくった制度と推定されます(国造制・屯倉制の研究)。
阿毎多利思比弧(用明天皇)と厩戸皇子(崇峻天皇)
中国の『隋書』倭国伝によると、600年の第1回遣隋使では、「阿毎多利思比弧(あめたりしひこ)」が隋の文帝と対面したとされています。阿毎多利思比弧と推定される第31代用明天皇(聖徳太子と推定)は、607年頃亡くなったと推定されます。622年頃に亡くなったと推定される第32代崇峻天皇(厩戸皇子、聖徳太子と推定)は、蘇我馬子(551年ー 626年)によって暗殺されたと考えられています。
舂米女王(上宮大娘姫王)と壬生車塚古墳、セリヌス
『日本書紀』には、大化改新(645年~)の始まる一年前に、駿河国の富士川付近に居た大生部多(多氏と推定)が、新羅系の渡来人とされる秦河勝によって討伐されたとあります。倭文部によって奉祭された静岡県富士宮市星山にある倭文神社と、山背大兄王の妃の舂米女王(上宮大娘姫王)の墓と推定され、乳部(壬生部)があった地にあると推定される壬生車塚古墳(栃木県下都賀郡壬生町)を結ぶラインは、飯富一族(多氏)が氏神として祀った大生神社(茨城県潮来市)とアナトリア半島の古代都市セリヌス(Selinus ancient city)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近に車塚古墳があります(図1)。倭文神社と車塚古墳を結ぶラインの延長線上には、牛馬家畜の守護神としても信仰される相馬太田神社(福島県南相馬市)があります(図1)。このラインは、神武天皇の皇子である神八井耳命を祖とする多氏と同族と推定される丹生氏の祖である神皇産霊尊が、古代都市セリヌスと関係があると推定されることと整合します。

金色姫(倭文神 倭迹迹日百襲姫命)
茨城県日立市の蚕養神社と倭文神社(富士宮市)を結ぶラインは、茨城県神栖市の蚕霊神社とローマを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは大生神社の近くを通ります(図2)。これらのラインから、大生部多の「常世の虫」は常世国(常陸国と推定)の蚕と推定されます。

蚕養神社と有田遺跡群
蚕養神社(日立市)と平絹が出土している有田遺跡群を結ぶラインは、蚕霊神社(神栖市)とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差し、白鬚神社(滋賀県高島市)の近くを通り、後者のラインは、鹿島神宮奥宮(鹿嶋市)の近くを通ります(図3)。倭文神社(富士宮市)と蚕養神社(日立市)がつながっていることや(図2)、有田遺跡群と蚕養神社(日立市)を結ぶラインが、倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼と推定)の城があったと推定される岡山城の近くを通ることから(図3)、養蚕を九州から常陸国に伝えたのは、倭迹迹日百襲姫命(倭文神と推定)で、蚕霊神社の近くにある星福寺の金色姫は、倭迹迹日百襲姫命ではないかと思われます。

星福寺と静神社、スケリッグ・マイケル
星福寺(神栖市)とスケリッグ・マイケルを結ぶラインは、鹿島神宮奥宮、水戸東照宮(水戸市)、建葉槌命(倭文神、倭迹迹日百襲姫命と推定)を祀っている常陸二之宮 静神社(那珂市)の近くを通ります(図4)。徳川家康は、鹿島神宮に建葉槌命(高房社)を祀っています。このレイラインは、金色姫が倭迹迹日百襲姫命と推定されることと整合します。

金色姫が倭迹迹日百襲姫命とすると、金色姫の「うつろ舟」と倭迹迹日百襲姫命の「うつぼ舟」がつながります。
白村江の戦い
660年には、百済が唐・新羅連合軍に敗れて義慈王が降伏し滅亡しています。天智2年8月(663年)には倭国が大敗した白村江の戦い(日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦い)が起こっています。
中大兄皇子と中臣鎌足は、人質として滞在していた義慈王の王子・豊璋(扶余豊璋)を帰国させ、百済の復興を支援するために援軍を派兵しましたが、豊璋は高句麗に逃亡し、百済は完全に滅亡しています。白村江の戦いに際し、岡山県倉敷市真備町二万地区より二万の兵が集められたともいわれています。関裕二氏は、中臣鎌足と豊璋は同一人物であるとする説を提唱しています1)。百済の第31代、最後の王(在位:641年-660年)である義慈王の異母弟の翹岐を豊璋とする説もあり、義慈王の母は、新羅の王女の善花公主という説もあります。中臣鎌足(藤原氏)が豊璋で、実際は新羅系の渡来人だったとすると、白村江の戦いは、邪馬台国の本拠地だった吉備を弱体化するための策略だったのかもしれません。
天児屋根命のY染色体は、ハプログループO1b2a1aであると推定される。これは、天児屋根命の子孫1名から得られたサンプルの解析結果などによるものである。
新羅 杞溪兪氏の始祖・兪三宰のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1である。旧新羅国である慶尚道地方は歴史的には倭の領地であったため、倭人の子孫が多いと言われる。
古モンゴロイドと新モンゴロイド
檀国大・金ウク教授のミトコンドリア DNA ハプログループの調査研究によると、高句麗人の遺伝的特性は、中国漢族集団より韓国人集団により近いようです。かつて朝鮮半島全域に広がっていた古モンゴロイド系の民族は、中国東北地方から広まった新モンドロイド系の民族に追われて南下し、弥生時代末には古モンゴロイドは、朝鮮半島南部や日本列島に広がっていました。そして、古墳時代には、大量の新モンゴロイドが、朝鮮半島北部、中部から日本に移住してきたと考えられています2)。
夏王朝や燕国と関係があると推定される邪馬台国とつながる投馬国と推定される青谷上寺地遺跡の住民は、殺傷痕のある人骨の分析から、大部分は弥生時代に大陸から移住してきた古モンゴロイド系の民族だったことがわかっています2)。神功皇后に七枝刀を贈ったと推定される第13代百済王(初代王の可能性が強い)の近肖古王(在位:346年ー375年)は古モンゴロイド系だったと推定され、第25代武烈天皇と同一人物と推定される第25代百済王の武寧王(在位:502年-523年)は、新モンゴロイド系だったと思われます。
中国南部に長江文明を残した古モンゴロイドの形質は、新モンゴロイドの形質とは明らかに異なっていて、南方系のホアビニアン人の形質とはそれほど違わないといわれています。また、縄文人のDNAは、ホアビニアン人と似ていることがわかっています2)。
文献
1)関裕二 2019 「豊璋 藤原鎌足の正体」 河出書房新社
2)武光 誠 2026 「古代史の真実」 青春出版社
