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「花散るらむ、それでも君と」4

第3章 桜の補習
 四月十四日、放課後。
 聖南学院高校の図書室は、薄い日暮れの光と紙の匂いに包まれていた。閲覧席の一角に、京一はプリントと参考書を整え、そっと深呼吸する。頭の奥に鈍い痛みが残っているが、今日だけは崩れたくなかった。
 * * *
 補習を申し出たのは蔵内櫻華の方からだった。
 「古文をちゃんと読めるようになりたい」と、保健室で小さく頭を下げた。教頭への届け出を通し、図書室か職員室前の自習ブースなら“公開指導”として許可がおりる――石川教頭は念入りに条件を付した。二人きりの密室は不可、時間は一時間以内、終了後の戸締まりは司書と確認。
 規則の束に縛られつつも、京一の胸には奇妙な熱が宿っていた。生徒の学びに正面から向き合う機会を、十数年ぶりに“自分の意志”で掴んだ気がしたからだ。
 * * *
 開架から戻った櫻華が、ゆっくり椅子に腰掛ける。顔色は淡く、だが瞳は決意に澄んでいた。
 「今日は“散る桜”の和歌を集めてみた。読んでみよう」
 京一が差し出すプリント。墨跡のように並ぶ古語を、櫻華は唇の動きだけで静かに追った。
   世の中に たえて桜の なかりせば
    春の心は のどけからまし   ――在原業平

 「先生、この歌、好きです」
 囁く声には喜びと痛みが混ざる。「美しいけれど散るからこそ、人は桜を待ち焦がれて、散ると嘆く――。桜がなければ、心は穏やかなままなのに、って」
 京一は頷き、目を伏せた。桜子の死以来、春は決してのどかではない。桜があったから愛した。桜があったから奪われた。
 「……桜は痛みを連れてくる。でも、無かったら“待つ喜び”も失われるんだろうな」
 声が自分のものではないように掠れる。櫻華はペンを置き、そっと視線を上げた。
 「先生は、桜を嫌いですか?」
 問いは細いが真っ直ぐだった。呼吸が一拍、遅れる。
 「怖い、かな。でも憎めない。毎年、見るたび同じ場所に立ち戻らされる」
 “桜子”という名を出しそうになり、唇で飲み込む。机の縁を握る指に汗がにじむのを感じた。
 * * *
 小テスト形式のプリントを解き終える頃、窓の向こうで夕陽が薄紫へ滲んでいた。
 「今日はここまで。無理をしないで帰りなさい」
 櫻華は「はい」と立ち上がる。だが本の山を避ける際、ふらつき椅子に手を突いた。
 京一は思わず支え、図書室の静寂のなかで二人の距離が詰まる。桜のような香りが一瞬、鼻を掠めた。
 「ごめんなさい、低血圧で……大丈夫です」
 櫻華は照れくさそうに笑い、距離を取り直す。京一の胸に、不意に焼けるような感覚が奔った。教師と生徒――踏み込んではいけない線が図書室の床に細い亀裂を走らせる。
 「先生も、お疲れなのに……」
 気遣う声に、頭痛が再び鈍く脈打つ。薬を飲み忘れた。だが今は彼女を送り出すまで崩れられない。
 「平気だ。図書カード、返却して帰ろう」
 二人で貸出カウンターへ歩く。その背後から、衣擦れの気配が追いかけてきた。
 「吉野先生」
 石川教頭。腕時計を示し、「補習は終了時刻十七時と伺っていますが」と眉を吊り上げる。
 時計は十七時三分。
 「失礼しました、すぐに切り上げます」
 京一は頭を下げ、櫻華に「先に昇降口へ」と目配せした。彼女は小さく礼をし、図書室を後にする。
 石川は声量を抑え、「理事長室にも報告が上がっています。節度を守ってください」とだけ告げ、回れ右した。
 背が去るまでの数秒で冷汗が噴き出す。理事長=母に監視されている意識が、首筋を絞めつけた。
 * * *
 昇降口。靴箱の傍で櫻華が待っていた。
 「ごめんなさい、私のせいで叱られたんですよね」
 「生徒を叱る先生の前で説教されるのも、教師の仕事だ」
 冗談めかすと、彼女はほっと息をこぼす。
 外は灰色の雲が厚く、夕陽はすでに隠れていた。校門へ向かう途中、ふと櫻華が立ち止まる。
 「先生、来週も……またお願いします」
 小さな声。制服の袖が風に揺れ、髪が頬にかかる。
 「もちろん。でも体調第一。無理はしないと約束だ」
 「はい」
 頷く瞬間、カバンから花柄のハンカチがこぼれ落ちた。拾い上げ、手渡すと彼女の指先が震えているのがわかる。
 「これ、気に入ってて……落としたら嫌だなって。ありがとう」
 胸に大切そうに当てる仕草が、言葉以上の重みを伴って目に焼き付いた。
 門の外で待つ黒い車のライトが点る。父親が運転席で手を振った。
 櫻華はもう一度「ありがとうございました」と頭を下げ、車へ向かう。
 遠ざかる背を見送りながら、京一はこめかみを押さえた。
 思い出すのは、十数年前の川沿いで桜子が倒れた時の光景。
 制服の肩に落ちた花びら、弾む息、名を呼ぶ声――胸を貫く再生不能の記憶。
 図書室で重ねた短歌プリントが鞄の中で軋む音がした。
 桜は散る。それでも花を教えたい。
 頭痛薬の錠剤を指で転がし、京一は夜気の冷たさを吸い込んだ。

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序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。