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「花散るらむ、それでも君と」7

第6章 薄暮の約束
 四月十八日の夜明け前、吉野京一は頭痛で目を覚ました。雨上がりの外壁を伝う雫が、時折ポツリと窓枠を打つ。その小さな音がこめかみに反響し、薄い痛みを何度も呼び戻す。
 鏡の前に立つと、頬がわずかにそげていた。寝不足の青い影が目の下に沈む。薬を飲み下しながら、京一は息を吐く。若松理香の「無理しないでください」という声音が、弟を亡くした痛みを伴って胸に重なった。
 
 午前の授業だけを許された身で、ホームルームに立った。廊下越しに見張る石川教頭の存在が背筋を張らせる。それでも黒板に助動詞の活用を書き始めると、生徒たちの視線が一斉に集中し、緊張がやわらいだ。教壇からノートを覗くと、中央の列で蔵内櫻華が静かに微笑む。昨日の検査の疲れが残るはずなのに、その瞳は「私は大丈夫」と告げているようだった。
 授業の終わり際、京一はチョークを置き、心の中で短く祈る。明日出る適合検査の結果が、どうか彼女の希望を奪いませんように。
 
 昼休み。面談室の窓を開けると、湿った午後の空気が書類の端を揺らした。机の上には保護者会の資料と、教頭から渡されたメモ。〈蔵内櫻華の個別補習、今週中停止〉と朱が入っている。京一は赤ペンで「図書室自習 巡回指導」と書き加え、ひと呼吸置いてから脳裏で小さく笑った。紙の上で線を引いたところで、学びの時間は止められない。
 そこへノックの音。若松理香が紙袋を抱えて覗き込んだ。
 「午前授業、お疲れさま。ハーブティー、頭痛に効くらしいから」
 差し出された袋を受け取りながら、京一は理香の瞳の底に沈む影を見た。弟を救えなかった悔恨が、まだ彼女を曇らせている。
 「ありがとうございます。気遣いすぎですよ」
 冗談めかすと、理香は視線をそらして微笑む。「気遣わせるほうが悪いの」とだけ言って扉を閉じた。
 
 夕方、昇降口。下校指導の当番で立っていると、春を運び去ったはずの雨雲が再び色を濃くした。人波が切れた頃、櫻華が傘を抱え、一段ずつ注意深く階段を降りてくる。父の車はまだ見えない。
 「検査、どうだった?」
 「結果は明日。でも『高い適合率』って……。怖いけど、ちゃんと向き合います」
 声は震えても瞳は逃げなかった。
 京一は自分の心臓が一拍だけ強く跳ねるのを感じた。
 「僕も逃げない。君が戦うなら、ここにいる」
 その言葉を支えにするように、櫻華は小さく息を吸い、傘の柄を握りなおした。
 雨粒が二人の間に落ちる。校門の向こうに黒い車が滑り込むと、彼女は振り向きざまに一礼し、濡れた舗道を跳ねるように駆けていった。
 
 夜七時過ぎ。時短勤務を守らず職員室に残り、補習プリントを増刷する。印刷機の温度が部屋を生ぬるく満たし、機械油の匂いが鼻先に絡む。紙束を抱えたとき、白い閃光が視界の端で弾けた。膝が崩れかけ、デスクに片手をつく。
 呼吸を整える。痛みは引くが、視界の霞は完全に晴れない。
 (倒れるわけにはいかない)
 ポケットのスマホが震えた。
 〈先生、大丈夫? 父が先生の体調を心配してます。無理しないでくださいね〉
 櫻華からの文字。指が震え、返事が遅れる。
 > ありがとう。大丈夫だ。結果が出たら教えて。何かあればいつでも連絡を。
 送信し、ソファに背を預ける。印刷機が紙を吐き出す音が遠ざかり、胸に静かな熱が残った。
 いつからか自分は、彼女の春を守りたいと願っている。守れる保証はどこにもない。それでも歩みを止めない限り、まだ間に合うはずだ――そう信じて立ち上がる。
 窓の外で街灯が雨粒を照らし、淡い光が揺れた。春は終わりかけても、桜の記憶はまだ校庭に残っている。プリント束を胸に抱え、京一は深く息を吸った。
 
 (明日こそ、良い知らせが来ますように)

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序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。