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「花散るらむ、それでも君と」9

第8章 病室の告白
 四月二十日、黄昏。
 面談室の蛍光灯を落とし、京一は鞄に残ったプリントを滑り込ませた。窓の外は雨上がりの薄青。職員通用口を出ると、むっとした湿気がマスク越しに貼り付き、こめかみの奥がじわりと疼いた。
 (今日は、倒れるな)
 自嘲ぎみにそう念じ、タクシーを拾う。行き先を「県立医大附属病院」と告げると、運転手がバックミラー越しに目を丸くした。白衣姿の男が病院へ急ぐのは奇妙に映るのだろう。
 
 病院ロビーは夕診の余韻がまだ残り、消毒薬の匂いが灯の下に溜まっていた。面会時間は終了している。それでも行かねばならないと腹を括ると、守衛は事情を聞き「十六号室なら今は検温だけ」と耳打ちした。
 エレベーターで九階へ。心拍が廊下の足音に同期する。
 
 十六号室。薄灯りだけの個室に、櫻華は起き上がっていた。ガウンの袖口から点滴ラインが伸び、胸のドレーンとモニターが静かな電子音を鳴らす。
 視線が合い、驚きの色が揺れる。
 「面会禁止なのに……」
 「抜け穴を教えてもらった。……様子を見たくて」
 声を潜めて笑うと、脈がまた一段跳ね上がる。薬の副作用か、背中にうっすら汗が滲む。
 
 ベッドの脇に腰掛け、手すり越しに彼女の手を取った。包帯越しの体温はまだ弱いが、脈は確かに指先を押し返してくる。
 看護師の足音が遠ざかり、モニターの電子音だけが残った。
 ふたりの視線が絡む。言葉より先に、長い呼吸が行き交った。
 京一は思った――教室の窓際で桜を語った昼休み、図書室の木漏れ日、昇降口の雨粒。いつも彼女は恐れを押し隠し、それでも前へ進もうと肩を上げていた。その姿に救われていたのは、むしろ自分のほうだったのだと。
 (ここで伝えなければ、また取り返しのつかない後悔が残る)
 意を決し、そっと彼女の指を包み込む――その一瞬で、脈拍が互いに歩調を合わせるのを感じた。
 「俺は……いや、私は教師として線を越えないつもりだった。でも今日、君のいない教室が耐えがたかった。だから――線を引き直す」
 自分でも驚くほど静かな声になった。
 「君が生徒でいる限り、担任として最後まで責任を持つ。そして卒業した瞬間、君に想いを告げる」
 言葉が落ちたあと、モニターのリズムがわずかに跳ね上がった。櫻華の頬に涙の細い跡が光り、唇が震える。
 「約束……守ってくれる?」
 「教師だからこそ守る」
 手に力が宿る。彼女の指が弱く震えながらも、しっかりと握り返した。
 沈黙のなかで機械のリズムが重なる。窓の外に雲が切れ、暮れ残りの月がのぞく。
 京一の頭に鋭い痛みがまた走る。息を吸い、眉を寄せると、櫻華に気づかれぬよう笑った。
 (あと二十四時間。どうか意識が保ってくれ)
 
 看護師が検温に入る気配。京一はそっと立ち上がり、手を離す。
 「また来ます、と言いたいけど……明日は手術前にメッセージを送る。必ず読んでから眠ること」
 「うん。……先生も薬、忘れないでね」
 心配そうな瞳。嘘はつけない。
 「気をつける」
 それが精一杯だった。
 
 病室を出て踵を返すと、視界が揺れた。壁に片手をつき、深呼吸。
 白衣の胸ポケットの薬瓶を握る。嚥下すると苦味が喉を焦がし、痛みが刈り取られていく。
 (あと一日でいい)
 
 夜のロビーで守衛が眉をひそめたが、無言で頭を下げタクシー乗り場へ向かう。外気は生温く、雨はすでに去っていた。
 スマホを開き、未送信の文章を打つ。
 > 明日、君が眠りにつく前にもう一度だけ“古今集”を読んでほしい。
 > 「いのちだに――」。
 > 君が春を迎えるまで、私はここにいる。
 送信し、画面を胸ポケットに戻す。
 頭痛はまだ奥底で燻っている。だが夜空にわずかの星が瞬き、呼吸が静かに整った。
 
 (間に合わせる)
 自分にそう告げ、京一はタクシーのドアを閉めた。街灯が流れ去り、薄い月が後ろへ滑っていく。教師の境界線はなお彼の足元に引かれたままだが、その向こうに伸びる道は、もう恐ろしくなかった。

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序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。