「花散るらむ、それでも君と」11
第10章 砕ける閃光
四月二十一日、午前五時。
枕元のアラームが鳴るより早く、京一は目を開けた。頭の奥で鈍い拍動が波打ち、わずかな吐き気が喉を擦る。処方された鎮痛薬を指でつまみ、コップの水で流し込むと胃がきしんだ。
(あと一日――それさえ乗り切れば)
ベッド脇の書棚から『古今和歌集』の薄い冊子を抜き取り、昨夜送った歌を開く。ページの余白に走り書きしたメモがにじんで読めない。それでも指先で文字をなぞるだけで、胸の奥に熱が灯った。
午前七時三十分。
通勤列車は雨上がりの湿気を閉じ込め、吊り革のビニールが手のひらに張り付く。車窓の向こう、雲はまだ低い。
スマホが震えた。
> 検査、順調。昼に詳細わかるって。
署名はない。されど一読で櫻華の声が蘇る。
> 聞かせてくれてありがとう。君は大丈夫だ。
入力しかけたが、言葉が見つからず送信をやめた。画面を閉じると視界が二重にぶれ、こめかみにまた痛みが走る。吊り革を握る手に力が入った。
午前八時五十五分。
職員朝礼。教頭が週報を読み上げる声が遠くから響く。光が斑に揺れ、文字が黒い雨粒のように踊る。
(耐えろ)
指先で脳裏の地図をなぞるように、今日の授業と提出物だけを抜き出す。痛みがわずかに引いた。が、その隙を突くように激しい閃光が視界を貫いた。
噛みしめた奥歯が軋む。頬を汗が伝うのを感じる。若松理香が不安げにこちらを見たが、京一は首を振った。
午前十時。
最初の現代文の授業。活字が霞むたび、黒板に線を引きながら誤魔化した。ノートを取る生徒たちの顔が遠く、教室の換気扇が掠れた音で回る。
板書を終える頃、後頭部に「ゴン」と内側から殴られたような衝撃。胸が悪寒に収縮し、視界が白く波打つ。
(まだだ――あと三十分)
チョークを置き、声を保ったまま残りを自習に切り替えた。生徒がざわめく。歩いて廊下に出た瞬間、膝が少し折れた。
午前十一時十分。
古文準備室。机に肘をつき、額に手を当てる。痛みは刃の形を変え、左右から交互に刺してくる。プリント束を抱き、図書室へ向かおうと立ち上がったその瞬間、天井が崩れた。
――音は聞こえなかった。ただ遠くにガラスが軋むような高い響きがあり、視界が反転し、右半身から床へ倒れ込む感覚。
(桜が散る音に似ている)
そんな空想が脳裏を掠めたところでブラックアウトした。
☆
暗闇に水滴が落ちる音がする。
「……吉野先生、わかりますか?」
誰かが呼ぶ。返事をしようとするが舌が動かない。
(体が浮いている?)
耳奥で脈拍の轟が跳ね上がり、次の瞬間、鋭い痛みが頭頂を裂いた。声にならない声が喉に詰まり、意識が深い闇へ落ちていく。
☆
微かな光が瞼の裏に差し、断片的な会話が行き交う。
「くも膜下……大量出血……」
「連絡先……理事長……ご家族」
「C T準備……意識レベル三」
(櫻……華)
名前を呼びたいのに、声帯は沈黙したまま。
遥か後方で心拍モニターが警告音を上げ、光は完全に途切れた。
☆
時間の感覚がない。暗い河の底をゆらゆら漂う中で、何度も何度も同じ映像が再生された。
青い制服の少女が桜吹雪の中で倒れ、少年――かつての自分――が泣き叫ぶ。そこへ現在の自分が現れ、二人を抱きしめるつもりで腕を伸ばすのに、指は光となって崩れ落ちる。
終わりのないループ。
(逃げない、と言った。まだ言っていないことがある)
思いが闇に溶けるたび、もう一度立ち上がろうとする。しかし身体は欠片に砕け、また映像が逆回転した。
☆
遠くで電子音が引き伸ばされ、誰かが言う。
「脳波、平坦。確認――」
そこへ別の声が重なる。泣き咽ぶ声。父か母か、判然としない。
(やめてくれ。まだ――)
叫ぼうとしたが、闇は返事をしなかった。
☆
最後に光を感じたとき、微かな安堵が胸を満たした。
雨上がりの校庭、葉桜の下に立つ櫻華がこちらへ微笑む。制服の襟が風で揺れ、胸に手を当て「行ってくるね」と口が動く。
姿が霞み、光が収束し、景色が一枚の短歌に変わる。
ひさかたの ひかりのどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
(春は、まだ続く)
そう思った瞬間、映像の中心に白い閃光が走り、すべてが途絶えた。
序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ
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