「花散るらむ、それでも君と」3
第2章 薄紅の予感
四月十二日、二時間目の英語が終わるころ――。
蔵内櫻華はノートに走らせたペンをそっと置き、ゆっくりと息を吐いた。教室の窓から差し込む柔らかな光は春らしく穏やかなはずなのに、胸の奥では小さな不協和音が鳴り続けている。
「次のページ、訳してみようか」
黒板の前で教師が声を張る。チョークが走る音が遠く聞こえ、文字が二重に揺れた。脈が速い。視界の縁が暗く滲む。
(落ち着いて。深呼吸……)
胸元にそっと手を当てる。制服越しでも心臓の震えが伝わり、鼓動は乱れた足踏みのようだった。
隣席の松本美羽が、こっそりメモを滑らせる。
〈大丈夫? 保健室、行く?〉
櫻華は首を横に振り、笑みを作ってみせた。大げさに心配をかけたくない。だが、手のひらは汗ばんでいた。
昼休み。
食堂は新入生であふれ、桜色の期間限定メニューがトレーを彩る。美羽は「映え写真撮ろ!」とスマホを構えたが、櫻華は「ごめん、今日は保健室で食べるね」と断った。
「やっぱり具合悪いんじゃん。午後の授業サボって寝てなよ」
美羽は半ば呆れ、半ば心配そうに眉を寄せる。
「少し休めば平気。……ありがとう」
笑い方がうまく行かず、頬が引きつった。胸に手を当てると、内側で針が跳ねるような痛みが走る。
保健室。白いカーテンの向こう、ベッドに横たわると天井の蛍光灯がぼやけた。
(どうして、今年はこんなに胸が痛むのかな)
思考が霞む中で、不意に“川沿いの桜並木”の映像が差し込んだ。
風に舞う花びら。制服の袖口を握る自分。――いや、誰? もう少し幼い声で笑う少女と、隣に立つ少年の影。
(京一、くん……?)
名前がうっすら浮かぶと同時に、心臓が跳ね、視界が戻る。
保健教員が聴診器を当てながら「少し脈が飛んでるわね。五時間目はここで休みましょう」と優しく言った。
夕方。校舎から生徒が引け、窓の外で桜の枝が淡い風に揺れる。
ベッドの脇に置いたカバンから短いプリント束を取り出す。そこには吉野京一の筆跡で、和歌と簡潔な語釈が並んでいた。
ひさかたの ひかりのどけき春の日に
しづ心なく 花の散るらむ (紀友則)
読み仮名の赤ペンが丁寧で、少しだけ線が震えている気がした。
(“どうして花は散るのだろう” って歌――桜は綺麗なのに、すぐ消える。命も同じなのかな)
文字を指先でなぞると、不思議な温かさが伝わってくる。教師としての義務を超えた真摯さが紙面に残り、それが胸の痛みをひととき忘れさせた。
カーテンが揺れ、見慣れたシルエットが現れる。
「大丈夫か?」
吉野京一。控えめな声に振り向くと、彼はプリントの追加分を手にしていた。眼鏡越しの瞳に、言いようのない疲労が滲む。
「はい。休んだら楽になりました。……先生こそ、お疲れじゃないですか?」
問い返すと京一は微かに笑い、「新人担任は慣れないことばかりでね」と肩をすくめた。だが額に浮く汗の粒が気になる。
「古文のプリント、ありがとうございます。あの歌……好きなんです」
京一は少し驚いたように目を瞬き、「紀友則?」と聞き返す。
「はい。“桜は穏やかな光の下でも散ってしまう”って……切ないけど、救いがある気がして」
“散ってもいい。咲いた瞬間は確かにあった”――そう解釈している、と続けると、京一の表情がわずかに揺れた。
「……高校生でその読み方ができるのはすごい。桜子──いや」
言いかけて、京一は言葉を切る。櫻華の鼓動がひとつ跳ねた。
(桜子……? 今、先生……)
空気が沈黙を帯び、廊下からチャイムが鳴る。
「点滴が終わったら帰れるから、迎えが来るまでここで休みなさい」
保健教員の声が割って入り、京一は「それじゃあ」と小さく頭を下げた。
去り際、ほんの一瞬――彼の背が揺らぎ、手が窓枠をつかむ動作が見えた。軽い眩暈か。
(先生も、無理してる……?)
言い出せず、京一の背が扉の向こうへ消える。カーテンが戻り、部屋に静寂が落ちると、櫻華は胸にプリントを抱えた。
帰宅の車内。父がハンドルを握りながら問う。
「体調は?」
「大丈夫。……でも、来年の桜って、どんなふうに咲くんだろうね」
唐突な独り言に、助手席の母が振り向いた。
「来年も、桜は咲くわよ」
“あなたも来年を見られる”という祈りが透けて聞こえる。櫻華は笑って頷くが、指先が震えてハンカチを落とした。
拾い上げた布には “O.K.” のイニシャル。自分の名前を縫い付けた桜色のハンカチだ。
(落とさないようにしないと。もし次に失くしたら、きっと取り戻せない)
そう思うと、ハンカチが見えない鎖で胸に繋がっている気がした。
夜。自室の机にプリントを広げ、百人一首の句を口の中で転がす。
“花の散るらむ”――散ることを嘆く歌。
“桜花、散るということはなんでもない”――散ることを達観する歌。
どうして古典の歌はこんなにも“終わり”を穏やかに語れるのだろう。ページをめくる指が止まり、瞳に涙の膜が浮く。
ベッドへ歩み寄った瞬間、胸が突然つかえる。
(また、発作……?)
壁を支え、膝を折る。視界がぐるりと回転し、耳鳴りが波のように押し寄せる。
「……嫌だ。まだ……」
声が掠れ、誰にも届かない。
そのとき、桜吹雪のイメージが脳裏を覆い、倒れこむ自分の隣で泣き叫ぶ少年の声が聞こえた。
“桜子!”
名前を呼ぶその声に、胸が強く絞られる。
目を開けると、床に尻もちをついた体勢で、机の明かりが眩しく揺れていた。
心臓は荒ぶる鳥のように暴れ、汗が額を流れる。
(桜子……? 私……?)
混濁した意識の中で、ひとつだけはっきりしていることがある。
――今年の桜が散る前に、伝えなければいけない想いがある。
それを逃したら、二度と届かない。
胸の鼓動が痛みに変わるまで、櫻華は震える指でプリントの文字をなぞり続けた。
“散る”という言葉が、暗闇で微かな光を放っている。
序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ
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