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「花散るらむ、それでも君と」13

第12章 新しい鼓動
 暗闇の底から浮かびあがる瞬間、世界は水面を叩く鈍い音で満ちていた。
 ──コン、コン。
 耳の奥で規則正しく鳴るその衝撃が、今や自分の生命の合図だと気づくまで数秒かかった。
 
 まぶたを上げると、天井の無影灯はすでに消え、薄橙の間接照明だけが病室を照らしている。口元に酸素カニューラ、喉は乾き、胸には包帯を跨ぐように心電図のリード線。
 “術後 ICU”。文字だけを見聞きしてきた場所が、視界の端で現実になっていた。
 
 「おっ……目、開いた?」
 声の方へ首を動かそうとして、鈍い痛みに肩が跳ねる。
 ベッド脇の簡易ソファで父・一徳が身を乗り出していた。真夜中らしく髪は乱れ、開きっぱなしのカルテを胸に抱えている。
 「お父さん……」
 声は掠れたが、かろうじて出た。父はぎこちなく笑い、ナースコールを押す。
 「先生! 意識戻りました!」
 
 数分後、佐伯医師と看護師が入ってくる。血圧、瞳孔反射、意識レベル。まるで離水したばかりの船体を点検するように素早く確認が続く。
 「血圧問題なし。意識清明。いい目覚め方だ」
 佐伯が聴診器を胸に当てた。ドクン――ドクン。
 聞こえる。耳よりも、胸板の奥深く、今まで感じたことのない厚みのある拍動。
 「この鼓動……」
 問いかけると、佐伯は視線を伏せて息を整えた。
 「詳しい説明は少し経ってから。でも、君にとって限りなく理想的な心臓だったとだけ言っておくよ」
 曖昧な言い方。その背後で、父が深く俯いているのが見えた。
 
 点滴ボトルが交換され、鎮痛剤が静脈を満たす。痛みが遠のき、代わりに微熱のような痺れが広がる。
 「お母さんは……?」
 「廊下。数分後に交代する」
 父はそう言ったまま声を失い、両手をきつく握る。
 その沈黙の重みが胸に落ち、だんだんと不穏な脈を刻み始める。
 (どうして……みんな、こんな顔を……)
 
 眠りと覚醒がいくつか揺れた後、昼の光がカーテンから漏れていた。母に支えられ、背を少し起こす。喉にまだ管が刺さっていないことに安堵しつつ、濃い鶏ガラの匂いが鼻孔を過ぎる。
 「お粥はまだ無理よ。氷だけ舐めよう」
 母の声は震えていた。水分を含むと途端に涙が込み上げる。理由はわからない。ただ胸の鼓動が、自分のものではないと訴えてくる。
 「ねえ、お父さん。……昨日の夜、何があったの?」
 父と母は顔を見合わせる。視線で会話しているのがわかる。
 「落ち着いてから話そう」
 それ以上は語らない。包帯下の拍動は、逆に雄弁だった。
 
 夕方。酸素カニューラが外れ、呼吸は浅いながら自力で安定した。ICU医師が転室の目安を説明し始めたところで、廊下から石川教頭と若松理香の声が聞こえる。
 理香はガラス越しに息を詰め、手を合わせてから一礼して去った。教頭は長く立ち尽くし、ドアを二度ノックしたが、結局入室を諦めるように背を向けた。
 (先生……学校で何が?)
 問いは喉まで上がるが、声にはならなかった。
 
 夜。父母が病室を出た後、佐伯が一人で現れ椅子に腰掛ける。
 「そろそろ話してもいい頃だと思う」
 モニターに映る心拍を確認し、静かに言った。
 「きのう予定していた心臓は、最終クロスマッチで適合しなかった。君も覚えているね」
 頷く。
 「その二時間後、別のドナーが現れた。若く、血液型も体格も君に合う希少なケースだ。検体は陰性、拒絶の可能性は最低ラインだった」
 (誰の……?)
 口を開けずとも、視線で尋ねていることを医師は読んだ。
 「……吉野京一先生だ」
 時間が止まった。ハートモニターのビープが一拍遅れた。
 「くも膜下出血で脳死判定。生前に臓器提供の意思を登録していた。家族も同意し、君が最優先に選ばれた。……医学的にも倫理的にも問題はない」
 言葉は届くのに、意味が脳内で分解しては溢れた。呼吸が浅くなり看護師が駆け寄るが、アラームは鳴らない。胸の中心が熱く、痛いほど脈打っている。
 (先生が……私の中に……? )
 涙が枕の端へ伝う。佐伯は立ち上がり、カーテンを少し閉めた。
 「ショック反応は当然だ。でも、この鼓動は確かに君を支えている。吉野先生の“逃げない”という言葉通り、ね」
 医師が去り、灯りが落ちる。
 
 夜更け。
 (先生、どこまで誠実なの……)
 胸に両手を重ねる。鼓動は力強く、規則的だが、自分の昔のそれとは質感が違った。
 (生きる。……この心臓で)
 決意が涙とともに滲み、まぶたを閉じた。遠くで換気扇が低く唸り、ICUの空気が静かに循環している。
 新しい春が、胸の奥で脈を刻んだ。

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序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。