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「花散るらむ、それでも君と」2

第1章 色のない春
 四月一〇日、薄曇り。
 聖南学院高校の講壇に立った吉野京一は、教室の空気の冷たさに思わず指先を揉み合わせた。春なのに、暖気だけが自分をよけて吹き抜けていく気がする。
 「担任の吉野です。国語──特に古典を担当します」
 生徒達にとって最初の“高校教師の声”を、京一は努めて平坦に届けた。後方の窓の外では桜が満開だが、教室内の視線はまだ硬直している。 
 名簿を開き、一人ずつ呼名する。返事は新入生らしい初々しい高音。
 その中で、ひときわ柔らかな声があった。
 「蔵内櫻華(くらうち おうか)です。よろしくお願いします」
 席次表の左端──窓際二列目。少女はゆっくり立ち上がり、小さく会釈をした。
 色素の薄い頬、少し大きなマスク。制服の袖口を握りしめる仕草が頼りなげで、京一の胸にかすかな既視感を点じる。桜子と同じ“桜”の字が、紙面で微かに滲んで見えた。
 ひと通り呼名を終えると、京一は授業予定表を配布した。
 「高校の古文は、中学より本文が長い。少しずつ慣れていこう。百人一首も扱うが、暗記のためじゃなく“気配”を掴むために読むつもりだ」
 “ひかりのどけき春の日に……” 頭の片隅で旋律が揺れるが、口には出さない。まだその歌を教室に持ち込む準備ができていない。
 ホームルームが終わると、担任への質問や部活の話題で教室はざわめき始めた。
 「吉野先生、進路相談の紙、いつ提出ですか?」
 前の席の男子──戸田が、きちんとした敬語で問いかける。京一は「来週でいい」と答え、プリントの束を整えた。
 生徒と目を合わせるたびに、一歩後ろへ下がる自分がいる。教師としての熱意が、心のどこにも宿っていないと悟られないように。
 ふと視線を感じ、窓際を振り向くと櫻華が頬に手を当て、遠くの桜を見上げていた。
 花を眺める横顔──どこか痛みに近い愛しさがこみ上げ、京一は慌てて視線を逸らした。
 「桜を見ると胸がざわつく」などという個人的感傷は、教室に持ち込むべきではない。だが、その決意は脆い薄氷だった。
 
 昼休み。職員室の中央では、教頭・石川が配膳当番表を掲げ、声高に規律を説いている。
 「新任の先生方、遅刻・欠席連絡は必ず私を通してください。外部入学の一年生はまだ緊張しています。担任はとくに目を配るように」
 “担任”という単語に、石川の視線が寸分の狂いもなく京一に向かう。
 理事長の息子──その肩書きが京一の背中を過剰に照らす。石川にとっては、庇う対象ではなく“厳しく扱ってこそ面目が立つ”存在らしい。
 配布された教務資料を黙々と整理していると、隣席の数学教師・若松理香が紙パックの紅茶を差し出した。
 「糖分、足りてます? 顔色、ちょっと悪い」
 「助かります」
 礼を言いながら受け取ると、甘い香りが微かに頭痛を和らげた。
 理香は弟を亡くして以降、周囲の体調に敏感だと噂されている。だが彼女の厚意すら、京一には重荷だった。桜子を救えなかった負い目が、人の善意を素直に受け取ることを許さない。
 
 放課後。古文準備室で教材研究のふりをしつつ、京一は〈新担任指導マニュアル〉を流し読みした。
 そこには“体調不良の生徒への個別対応は慎重に”“夜間の補習を単独で行わない”など、教頭が赤字で書き加えた注意事項が並ぶ。
 “蔵内櫻華──心臓疾患により要配慮”
 保健室から共有されたメモがクリップ留めされていた。
 ――また、桜と心臓。
 書類の文字が一瞬、霞んで揺れる。頭の奥に鈍い痛み。
 そこへ控えめなノック音。
 「失礼します……」
 声の主は蔵内櫻華だった。昼間より顔色が白い。
 「帰りがけに、プリントをお返ししようと思って」
 差し出された答案用紙。京一は受け取りながら、呼吸の浅さを見抜く。
 「具合が悪いときは無理をしなくていい。教室で倒れたら大ごとだ」
 櫻華は目を伏せ、小さく首を振った。
 「桜が散る前に、学校の景色を目に焼きつけたくて……」
 その呟きが、まるで“桜子”の残響のように胸に触れる。思わず問い返す前に、彼女は「ありがとうございました」と礼を述べ、足早に立ち去った。
 残された京一は答案を机に伏せ、深く息を吐く。
 何年経っても、桜は痛みとともにやって来る。
 そして今年は、桜を見つめる病弱な少女が現れた。
 これは偶然か、それとも――。
 微かな眩暈。頭の奥で、花びらが静かに崩れ落ちる音がした。

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序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。