「花散るらむ、それでも君と」10
第9章 白い夜明け
四月二十一日。
カーテン越しの薄明かりが病室に滲み、静脈ラインの液が淡い琥珀色で揺れている。夜勤看護師の靴音が遠ざかり、時計は午前二時を指した。手術「かもしれない」日まで二十一時間——まだ確定ではない。櫻華は浅い眠りと覚醒を行き来しながら、左胸に貼られた電極の冷たさを確かめた。
暁け方、検温ワゴンが回る。体温三十六度一分、血圧やや高め。看護師はカルテにメモを取り「緊張しているのね」と微笑んだ。
頷きながらも、心の奥で別のリズムが鳴る。昨夜、病室を忍んで来た京一の指先の温度。脈がひとつ重なった感触がまだ掌に灯っていた。
(卒業した瞬間に想いを告げる——)
胸が熱くなると同時に、遠い不安が黒い棘のように揺れた。先生の顔色、こめかみに手を当てる仕草——あの疼きは大丈夫なのか。
午前九時。
主治医の佐伯が回診に来た。
「肺音は悪くない。心拍は少し速いが想定内」
カルテに書き込む手が止まり、穏やかな目がこちらを見つめる。
「昨日の連絡、聞いたね。“適合するかもしれない心臓” がリストに上がった。ただ、今夜クロスマッチ(最終詳細検査)を取って、結果が出るのは明日の朝だ。陽性なら取り消し、陰性で初めて本決まり。……怖いかい?」
「生き残るほうが怖い気がします」
自分でも驚く言葉だったが、佐伯は否定も慰めもせず小さく頷いた。
「まずは明朝を迎えよう。それから悩めばいい」
昼前、父と母が現れた。母は小ぶりのカーネーションを窓辺に飾る。
「先生は?」と訊くと、父が苦笑し首を振った。
「職員室で締め切り地獄らしい。理香先生が花瓶を探してくれた」
「先生、倒れたりしてませんよね……?」
父は曖昧に笑ったが、言葉の端に揺らぎがあった。
午後二時。
手術室ではなく検査処置室へ。静脈路を増設し、輸血用血液型照合のラベルを貼られる。担当看護師が「もし今夜クロスマッチが陰性なら、早ければ明日夕方に移植日が決まる」と説明した。
(“もし”……)
点滴の滴下音だけが響く。
午後五時。
雨は完全に上がり、雲間から橙の光が射し込む。廊下では他科の面会客が行き交い、遠くで子どもの笑い声が反響していた。看護師がスマホの使用を許可する。
画面を開くと未読はない。それで十分だった。昨夜のメッセージの最後に引用された歌が脳裏に浮かぶ。
いのちだに しばしもおかで なげきつつ
よしのの山に 花をたづねむ
(探しに行ける。先生と、春の山へ——)
喉奥で小さな嗚咽が漏れたが、涙はこぼれず深い呼吸が満ちた。
午後九時。
クロスマッチ検体採取のため、再度採血。白衣の研修医が「結果は朝一番で」と小声で告げる。
ストレッチャーに横たわり、天井の蛍光灯を眺める。
(もし適合しなければ——また待ち続けるだけ)
意識の底で黒い渦が回るが、その中心に京一の声が灯りつづける。
「十、数えてください」
鎮静剤が静脈に入り、数字がぼやける。
いち、に……さん……
夜は柔らかな雪のように音を消し、眠りがすべてを包んだ。
序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ
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