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【闇シリーズ④】15~18(ザナルカンド)

2026/02/10 tue
※闇15~18を一気にまとめました


闇 15(ピアノが弾けたら編)

2024/08/08 thu
2025/07/12 sta
2025/08/19 tue
前回の章


自衛隊時代の同期である富田。
久しぶりの再会は楽しかったものの、彼の家族関係を杞憂する。

家族間の上下関係は分からない。
普通初対面の俺の前で、自分の旦那を枕であそこまで滅多打ちするか?

富田も富田である。
激昂する訳でもなく、ひたすら無抵抗で嵐が過ぎ去るのを待つ感じ。
あまりにも惨めに思い、あと時はキャバクラを奢ってやった。

仕事帰りの小江戸号で考えていると、携帯電話の着信が入る。
ちょうど考えていた富田から。

「おー、岩上。今度いつ休みなの?」
「今仕事帰りで今日は休みだよ」

「それなら今日会おうぜ、俺が川越行くからさ」

あれから一ヶ月ほど経つ。
給料でも入ったから、お返しにご馳走するつもりなのだろう。

夕方に会う約束をして俺は寝た。

同じ釜の飯を食い、共に泣き、共に笑ったあの頃。
十八歳の時に三ヶ月間。
たったそれだけの期間なのに、とても濃密な時を過ごしてきたんだ、俺たちは……。

目覚めるとちょうどいい頃合い。
俺はシャワーを浴びて着替えを済ませる。
駅に向かい富田と合流した。

「お腹は?」
「腹は減ってないからさ…、この間のキャバクラ行こうよ」

前回の派手な遊び方をして一発でハマったのか。
家族持ちの富田に、悪い遊びをを教えてしまったのかもしれない。
あいつが図に乗って店ではしゃぐなら、いいところで止めるなり俺も半分くらいは金を出すなりしなければ駄目だろう。

ミサキのいるキャバクラへ入る。
俺はいつものようにミサキを指名。

「この間で誰か気に入った子いたの?」
「あ、店員さん。あそこで暇そうに座ってる子、全部付けてよ」

早い時間なので待機席には暇を持て余したキャバ嬢が四名いる。

「それとさ、フルーツの盛り合わせも」
「かしこまりました」

スタッフが一礼して下がったのを見てから声を掛けた。

俺はミサキ指名、富田はあの四人指名にフルーツ。
さすがに序盤から飛ばし過ぎだろう。

老婆心ながら声を掛けてみた。

「おい、富田。オマエ金大丈夫なの?」
「え、何で?」

富田はキョトンとしている。

「こんな飲み方したら会計十万二十万簡単にいくぞ?」

「え……、だって岩上が持ってんでしょ?」

始めはコイツが何を言っているのか意味が分からなかった。

「おまえ、何を言ってんだ?」
「だから岩上ならそのぐらい持ってんでしょ?」

「……」

苦しい時代を共に経験し、乗り越えた絆。
何だってこんな程度の年月が、コイツをこんな屑に変えた?

「何立ってんだよ? 座って早く飲もうぜ」

「もう一度聞く…。富田、おまえ金は?」
「俺がねえのはおまえが知ってんだろ?」

「おまえは金も無いくせに、女をたくさんつけろ…、そしてフルーツを頼んだのか?」
「前もおまえがそうやったじゃねえかよ。おい、店員さん! 女まだかよ?」

その言葉に俺は持っていたグラスの酒を富田の顔へぶっ掛けた。

「うわ、何しやがる!」
「ふざんけんじゃねえよ! このクズ野郎」

ミサキのいる店で無銭飲食する訳にもいかず、俺はスタッフを呼び富田が金を持っていない事を説明した上で、まだ来ていないフルーツの盛り合わせはキャンセル、席に付いていない女たちもキャンセルし、その状態で会計を済ませる。

「何怒ってんだよ、岩上」

俺はテーブルを蹴飛ばして富田にぶつけた。

「ミサキ悪い…。今日はもう帰るわ……」

あれから十二年経ち、こんなクソ野郎になっていたとは……。

何とも言えない虚無感。
馬鹿につける薬は本当に無いんだなと悟る。

この一件を境に俺は富田との縁を切った。
悲し過ぎて泣きたい気分だった。


シャブに手を出し十日で三割のトザンの高利貸しに借りて、店をクビになった久保田。
チャンプの原が林と同じ、〇〇連合で部屋住みになったと教えてくれる。

正式な組員かどうかは分からない。
ただ小間使いの下っ端をしているようだ。

あの久保田もヤクザ者に……。

シャブは本当に人間を壊す。
絶対にやってはいけないものだ。

系列のプロの時の同僚である大川からは、頻繁に連絡があった。
元ホストで甘い顔立ちをした大川は、辞めて数年経つのに未だ連絡してくる。
ワールドワンでの日々が忙しく、彼が辞めてから一度も会う時間を作っていなかった。

何だかんだあれから五年くらい経つのか。
チャンプの久保田のように放っておいたら、あんな風になる場合だってある。

富田の件といい胸糞悪い事が起こり過ぎている。
妙に懐く大川とたまに会うのも、いい気晴らしになるかもしれない。

俺は次の休みを伝え、彼と久しぶりの再会の約束をした。


元ヤクザ者の番頭である佐々木さんは本当に変わっているけど、いい人だ。

俺が深夜食事休憩で歌舞伎町を歩いていると、海老通りの真ん中辺りで、一人の大男のシルエットが見えた。
周りには小さく動く動物が何匹も飛び跳ねている。
近付くと「ほれほれ」と野良猫たちに餌を与えている佐々木さんだった。

「何をやってんですか」

笑いながら声を掛ける。

「おお、岩上君。ほら見て。ワイだと頭撫でさせてくれる」

確かここ五年間一度も休みを取らず、働きっ放しという事を言っていた。
佐々木さんにとって唯一心が和む時間なのだろう。

ある日ワールドワンに猫の缶詰を三十缶以上袋に持って現れた佐々木さん。

「岩上君、悪いんだけどさ、ワイ法事で四国へ行かなきゃいけなくなったんだ。だからあそこにいる猫たちに、これいない間あげてくれる?」

俺も動物は嫌いじゃないので、喜んで引き受ける。
佐々木さんの指定した場所へ行き、缶詰を開けた。

寄ってくる野良猫たちの群れ。
近くに猫の頭があるので撫でようとすると、飛びのき「フーッ」と威嚇してくる。

そうだよな…、普通なら頭など絶対撫でさせてくれやしない。

家に帰った時、親父の妹である叔母さんのピーちゃんが居間にいたので、その話をしてみた。
中々野良猫たちに五年間、毎日餌を与え続けるなんて普通はできない。

「野良猫に餌だけ与えて無責任な人だね」

確かに正論かもしれないが、人には状況というものがある。
佐々木さんは少なくとも五年間毎日ずっと無償で猫たちに餌をあげ続けているのだ。

「何を言ってんだよ? 五年間だよ、五年間! そのおかげで餓死しないで済んだ猫たちがどれだけいるって」
「それなら引き取って自分で飼えばいいだろ」

「何十匹いると思ってんだよ? だから毎日缶詰三十個買って、決まった場所へ持って行っているんだよ。それを休みなく五年だぞ? 俺はそれが尊い行為だって話をしているんだよ」
「だから無責任ってだけだろ」

「もういいや…。あんたとは話にならない……」

どれだけ大変な事か伝えたが、おばさんはずっと否定していた。
昔からだけど、この人とは永久に分かり合える事は無いのだろうと感じる。


川越でパクられた風俗嬢のマドカ。
何度か連絡しても通じず、ある日解約したのか繋がる事すら無くなる。

これで何の接点も無くなってしまった。
無性に淋しい。

「ハー……」

キャバクラ『サンタナ』でミサキを指名しながら、マドカの件を話してみた。
サクセス、サンタナと系列店を最近日によって行き来しているミサキ。
俺はミサキのいるほうの店へ行くだけなので、大した問題ではなかった。

「ほら、私を口説かないから、そんな目に遭うのだよ」
「ふざけんな! 何で妹代わりに可愛がっている女を口説かにゃならないんだよ? 俺は凄い心が傷ついているの。それをおまえにこぼしているんじゃねえかよ」

「風俗なんてこっそりいっちゃって、いやらしー」
「うっせーっ! 俺はもう暴走するからな」

「あら、私を口説く気になったの?」
「違うよ、馬鹿! そうだな…、ミサキはこのまま指名するけど、この店の気になった女も同時に指名して口説く! だからおまえはさり気なく俺をフォローしろ」

「はいはい…。まったくしょうがないなー」

ミサキにはちゃんと伝え、許可を得た上で色々な女を適当に口説き、見境なく抱いた。

部屋に戻っては我に返り、やるせない気持ちになる。
あれほど望んだ格闘技への熱も冷めていた。
何の目的意識も無いまま新宿へ行き、金を稼いでは競馬と酒に使う日々。

親父の事を遊び人だとずっと否定していたが、今の俺も似たようなものだ。

このまま年を取り、何の成長も無いまま生きていくのだろうか。
色々考えてみたが、明確な答えは出ない。

俺はまた休みになると外で彷徨い、適度に女を口説く。
目的意識も無く、ただ毎日歌舞伎町へ行き日銭を稼ぐ俺。

チャンプの原から情報が入る。

◯◯連合の元チャンプの従業員の林。
彼はシャブとルイヴィトンの偽物を売って成り上がり、組内では一番の稼ぎ頭になっていた。

その林が覚醒剤所持で捕まったらしい。

それから生意気だった林の弟も、新宿から姿を消した。
因果報応とはよくいったものである。

少しして久保田は組の金を盗んで飛んだ。
そんな情報を聞く。

近かった存在が様々な事を起こしたところで、俺たちの日常は変わらない。
新宿へ働きに行き、毎日INとOUTの繰り返し。
もう絵を描いてプレゼントする相手もいない。

ヤクザ同士の情報網は警察以上だと聞いた。

今頃久保田はどこで何をしているのか?
彼の身を案ずるも、何一つできない自分が歯痒い。


まだ見た事も無いお袋の娘。
最近では気になる事も無くなった。

おそらく俺が妹として勝手に見立てたミサキの存在のおかげだろう。

同世代の同級生たちよりも、俺は裏稼業のゲーム屋で多くの金をもらっていた。
三十歳で月に五十万。
キチンと登記した会社では無いので、税金も取られる事もなく稼いだ金はすべて自分のもの。

給料のほとんどは競馬、そしてミサキのいるキャバクラで大半使っていた。
家の隣のトンカツひろむへ一緒に行った時、ミサキはいい加減競馬を辞めたらと言ってくる。

「だって今までかなり金をJRAに取られているんだぜ?」
「やり過ぎなのよ。土日になると、ほとんどのレースやっちゃうんでしょ?」

「よし、分かったよ。大きいレース以外やらない。GⅠはまだ先だしね」
「じゃあもし約束破って競馬やったら、私に乾燥機付き自動洗濯機を買う事」

俺にデメリットしかない無茶苦茶な条件を言うミサキ。

「ふざけんなよ! 何でおまえに自動洗濯機を買わなきゃいけないんだよ?」
「だってやらないんでしょ? それならいいじゃない」

ミサキに言われるとどうも弱い。
俺は渋々その条件を受けた。

競馬禁止の週末。
基本毎週日曜日が休みの俺は、普段なら予想をしている昼間の時間帯何をしていいか分からない。

ミサキとあんな約束なんてするんじゃなかった。
ゴリでも誘って飯でも食いに行くか。

携帯電話を手に取ると、タイミングよく着信が鳴る。

「岩上さーん、お久しぶりです。大川です」
「ああ、久しぶり」

プロの元従業員である大川。
俺のゲーム屋のルーツがこの系列ではチャンプからスタートして、エースからプロ、そして現在のワールドワンになる。
彼とはプロのオープニングメンバーで一緒。

辞めてからこのように定期的に連絡はあったが、一度も時間を作った事がなかった。

ミサキとの競馬禁止ルールがあり暇を持て余していた俺は、大川と会う約束をする。
約五年ぶりの再会。

久しぶりに会った彼は、重度のシャブ中になっていた。

「岩上さんにほんと良くしてもらったんで」
「俺は特に何もしてないでしょ」

「いやー、ほんと感謝してんですよ、色々。だから岩上さんにはいい物あげたいなって」

シャブ中のいい物なんて、シャブでしかない。
大川が出したものは案の定シャブだった。

「いらないよ、そんなの。俺は興味無いし」
「これセックスの時使うと最高ですよ」

「え、ほんと?」

少しだけ興味が沸く。

「大切な女には使えないですけど、適当な奴でやってみればいいじゃないですか」

そう言って大川は結構な量の入ったビニール袋を渡してきた。

適当な女……。

風俗嬢だと店の中で騒がれたら一巻の終わりだからな。
こういうのは繁華街じゃないほうがいいだろう。

川越へ戻ると川越駅西口の飲み屋街へ向かった。
今まで入った事のない場末のスナックへ入り、大して可愛くもない女が席に着くと、とりあえず口説いてみる。

「何て言うかね…。君よりも奇麗な女はたくさん見てきたけど、こう話していて心が安らげる女性って中々いないもんなんだ」
「何それ、超ウケるんだけど」

「そう、それなんだよ」
「え、何が?」

「その自然な笑顔を見ていると、心がとても安らぐと言うか……」

口から適当に歯の浮く台詞を羅列する。

「お兄さん、何人にその台詞言ってきたのよ?」
「綺麗だ、可愛いは百人以上に言ってきたけど、安らぐって伝えたのは君が初めてかな」

「もう……」

ん、結構簡単に落ちるかも。

「ねえ、店終わったらご飯食べに行かない?」
「凄い強引なんだから。今日会ったばかりでしょ」

「この心臓のときめきを無駄にできなくて。迷惑だったら潔く引くよ」
「ん-、迷惑じゃないけどさー……」

「じゃあ行こうよ。いいものも今日は持ってんだ」
「いいもの?」

こっそりシャブを見せながら誘うとドン引きされた。

「わ、私…、お手洗い行ってきます!」

トイレから出てきた彼女が、俺の席に着く事はなかった。
当たり前か……。

大人しく家に帰ろうとしたが、隣のトンカツひろむが営業しているので顔を出す。

「岡部さん、シャブ中になった元部下からこれもらったんですが……」

岡部さんはシャブを見るなり「智一郎、馬鹿野郎! オマエそれ、百グラムはあるぞ! そんなの見つかったらヤバいぞ」と怒鳴られ、慌てて部屋に置いて戻る。

「あの量だと相当な値段になるぞ」
「まあ使うつもりも無いし、アイツから連絡あったら返しますよ」

俺と岡部さんの会話などまったく気にならない感じで、カウンター席の奥に一人のいい女が飲んでいた。
気になりつつ飲んでいると、他の客もバタバタ入ってくる。

「智一郎、悪い。奥へ席詰めてもらえる」

自然な形で女の横へ座る。

「隣すみませんね」と声を掛けると、女はジッと俺の顔を見てきた。

「すっぽかされちゃった……」
「はい?」

「すっぽかされちゃったの……」
「えー! こんなお姉さんみたいないい女を? 馬鹿だな、その男は」

「一緒に飲んで」

棚からぼたもちとは、こういう事を指すのだろう。
俺は彼女を元気付けつつ酒を勧めた。
次第に呂律が回らなくなる女。

「大丈夫?」
「横になりたい」

この頃まだ飲酒運転はそこまでうるさい時代ではなかった。
家に連れて行く訳にもいかず、俺は車に乗せ、嫌がらなければホテルへと思い発進させる。

途中信号で停まると、女が俺の腕にもたれ掛かってきた。
顔を近付けると嫌がる素振りもないので優しくキスをする。

あ、この女でシャブ試せばよかったのに、さっき部屋に置いてきちゃった。
まあこのクラスの女を抱けるだけでも幸運だよな。

ホテルまで我慢できなくなり、車通りの少ない道へ行き、路肩に寄せて停めた。
服の中へ手を入れ弄っても小さな声を出しながらあがらわない。
頭の中は性欲で一杯になった。

車内よりホテルでゆっくり抱きたい。
俺は再び発進させ、信号に捕まりブレーキを踏む。

信号待ち間、女へ顔を近付けようとすると、凄い勢いで突き飛ばされた。

「え、どうしたの?」

「こ、来ないで!」

また近付こうとすると、女は必死に抵抗する。
さっきまでメロメロだったのに、何故?

何を話し掛けても小刻みに女は震えていた。
この豹変ぶりから十五分ほど時間が過ぎる。

「ねえ、急にどうしたの?」

優しく声を出しゆっくり顔を寄せると三度突き飛ばされた。

「おい、さっきからいきなり何なんだよ? 俺が何かした?」

そこで女はようやく俺の目を見る。

「まだ分からないの?」
「え?」

「さっきからあなたと同じ目をした髪の長い女の人が、ずっとあなたの後ろから私を睨んでいるの!」

その瞬間酔いが一気に醒めた。
背中に冷たいものが走る。

女が指定した場所まで送ると、部屋に戻りマスターベーションをして寝た。


大きなレースまで競馬をやらない。
もしこの約束を破ったら、ミサキに乾燥機付き自動洗濯機を買う。

土曜日の競馬新聞を見ている内にウズウズしてきた。
ひょっとしてこれ、馬連一点で簡単に取れるんじゃないの?
一点買いだから、最低十万は賭けたい。
今の手持ちは約十五万。

ミサキの欲しがる洗濯機は約十三万したよな。
普通の洗濯機…、乾燥機付きでなければ五万程度で買える。

アイツに交渉してみるか。
俺は状況を説明し、ミサキを説得してみた。

「あのね…、私は買ってもらうなら約束通り乾燥機付きのを買ってもらう。普通のとかそういう風に誤魔化すなら、私は何もいらない。だって私との約束なんてそんなもの程度って事なんでしょ?」

ミサキの言葉で我に返る。
確かに誤魔化そうとしているのは俺だよな……。

自分の卑しい考えを恥じる。

「ミサキ、ごめんよ…。やっぱり競馬我慢する。気を悪くさせてすまないな……」
「別に気なんて悪くしてないよ。それより今度休みいつ? 美味しいものご馳走してもらうから」

妹代わりのミサキ。
この子の存在に俺は随分と救われている。
しかし精神的に少し俺は彼女へ甘え過ぎた。
たまには違うキャバクラでも行くか。

川越の風俗嬢のマドカがいなくなり寂しい。
ミサキの存在に助けられてはいるが、それは妹代わりなだけで彼女とかとは違う。

フラリとたまたま入った店

「いらっしゃいませ、本日本当にいい子が入ったんですよ」

飲み屋の店員の常套句。
期待しないでソファへ座る。

「失礼します」

チラッと顔を見た瞬間、身体が硬直した。

「由美です…、よろしくお願いします」

え、何なのこの超タイプな子は……。

清楚な振る舞い。
これまでミサキ以外の飲み屋の女をどこかで少し見下して眺めていた。

由美を見て、そんなものがすべて吹っ飛ぶ。
年齢は二十歳で俺より十歳年下。
ミサキと同じ年だが、妹的存在とかそんなものどうでもいい。
ショートカットより少し伸びた茶色い髪の毛の先は癖なのか跳ねている。
左目の下に大きなホクロ。

「そんなジーッと見ないで下さい……」
「名前聞いていい?」

「由美です」
「いや、それは源氏名でしょ? 迷惑じゃなかったら本名を聞いておきたい。あ、俺は岩上智一郎」

「春美です…、品川春美と言います」

無我夢中で口説き出した。
本能が彼女を求めている。
これまでの人生すべて賭けてもいいくらいの覚悟で必死に話す。

「すみません、そろそろお時間となりますが……」

店のボーイが割り込んで来たので、財布から札を取り出し「延長に決まってるだろ」と放り投げた。
黙ったままの春美。

「ん、どうかしたの?」

「岩上さん…、お金を投げるは良くないです……」

「ご、ごめんね。気を付けます……」

彼女の言う事を素直に受け取り、心から詫びる俺。

春美の誕生日は明後日と聞いたので、迷惑じゃなければお祝いをしたいと伝えた。
俺の申し出を快く受けてくれた春美。

「どこか行きたいところは?」
「先程話していた岩上さんが以前働いていた浅草ビューホテル…。迷惑じゃなければそのラウンジへ行ってみたいです」

「もちろん! 喜んで!」

彼女の言葉が嬉しくすぐ了承してしまったが、考えてみれば浅草ビューホテルとは総支配人の丸山と揉めていた過去があるんだよな……。

いやいや、何年前の話をしているんだ?
あれは千九百年代後半の出来事だぞ?

もうあんなクソ支配人など定年しているはずさ。
仮に会ったとしても、金を払う客として来た立ち位置なのだ。
臆する事もなければ気にする事もない。

春美を連れて昔の職場でデート。
帰り道ウキウキしながら帰る。
彼女の誕生日をいきなり祝うというオマケ付き。

俺はビューホテルのベルヴェデールへ電話をして、出た先輩の林に状況を伝えると、快く予約を受けてくれる。
間に一日挟むが、その時間さえも待ち遠しくて溜まらなかった。

春美とのデートの前にもう一つ関門がある。
俺はワールドワンに出勤すると、山下の前へ行く。

「山ちゃんさ…、悪いんだけど明日の休み代わってくれない?」
「えー、無理すよー。俺、予定入れてますし……」

「頼むよ! 明日ね、俺の一番大切な女の子の誕生日でさー。どうしても祝ってあげたいの!」
「無理すよ、無理すよー」

中々譲らない山下。

「俺さ、オマエが困った時金だっていつも貸してるだろ? 飯行ったって酒飲む時だっていつも奢ってるだろ? な? 川越に金借りに来た時だって、おまえの望み通りキャバクラも奢ったよな? 頼むよ!」

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「えー、でも……」
「分かった! タダとは言わないから」

強引に一万円札を山下に握らせる。

「俺だって用事あったんすよ」と言いながら札をポケットへしまう山下を見て、落ちたと確信する。

「ありがとう。また、旨い店連れてくからさ」

アッサリといかないまでも山下は籠絡した。

また仕事中、俺は絵を描き始める。
春美は茨城県。
海のある県だ。

海無し県ばかりいる俺は、頭の中でイメージしそれを絵にしてみた。


二千一年四月八日、日曜日大安。

春美とのデート当日がやってきた。
少しでも長く居たかったので昼間から会う事にしている。

東武東上線川越市駅で待ち合わせ、池袋駅乗換、山手線鶯谷駅で下車。
俺にとっても久しぶりの浅草。
タクシーでワンメーターほどなので、まずは浅草寺へ向かう。

茨城県から大学で出てきた彼女。
どこへ連れて行っても楽しそうに喜んでくれる。

本当ならビューホテル近くにある緑寿司の焼き穴子を食べさせたかったが、こんな昼間ではまだ営業しておらず、仕方なく浅草寺近くの店に来たのである。
仲見世通り近くにある適当な寿司屋へ入り、好きなものを注文するよう促す。

「な、並でいいです」

控えめな春美。
しかし今日は彼女の誕生日なのだ。

「板さん、すみません。並でなく特上でお願いします!」

俺は寿司屋へ行ってもマグロの赤身しか食べられない。
どうせならいいネタを春美には食べてほしい。

唯一食べられる赤身。
これは小学生時代、当時生きていたおばあちゃんの付き添いで千代田区の病院まで行った頃の話まで戻る。

帰り道寿司屋へ寄るのが習慣だったおばあちゃん。
お袋の料理は家族間の仲が悪かったせいもあり、簡素な料理ばかりで魚など食べた事が無かった。

「マグロなら美味しいから食べられるよ、ほら食べてみな」

唯一食べられる赤身はおばあちゃんの影響が大きい。

ベルヴェデールの酒している人数分の寿司をお土産用で頼んでおく。

「これ…、喜んでくれるか分からないけど……」

透明のカッティングシートに包んだ俺の絵を目の前に置く。

「えー、これ岩上さんが描いたんですか? 凄い!」

目頭が熱くなるのを必死に堪え、本当に魂込めてまた絵を描いて本当に良かったと思える。

夕方くらいになったので、俺たちはビューホテルへ向かった。
最上階二十八階のスカイラウンジ、ベルヴェデール。
オープンまで一時間ほど間があった。

しかしこの階には会員制のメンバーズバーのセントクリスティーナもある。
そこの責任者小沢とは働いている時仲良くさせてもらった。
セントクリスティーナの扉を開く。

「おぉっ! 誰かと思ったら岩上じゃねえかよ」

このホテルを辞めた以来だから結構な月日が流れているにも関わらず、すぐ俺を認識してくれた小沢には感謝である。
お土産の寿司を渡し、ベルヴェデールのオープン時間までここで飲ませてもらう事にした。

「寿司かー、ホテルの安月給じゃ中々行けねえからな。おい、オマエ随分可愛い子連れてるじゃねえかよ」

まったくホテルマンらしくない小沢の言動。
それでも面倒見が良くこの人懐っこい性格がいい方向へ彼を導いている。

「うわー、本当に高い! 凄く綺麗な景色です」

外を眺め感心する春美。

「今日この子の誕生日なんですよ」
「何だってー! じゃあお祝いにカクテル小沢スペシャルを作ろうじゃないか」

「ありがとうございます。あとですね…、下の中華の唐紅の車海老のエビチリを彼女に食べさせてあげたくて……」
「おーおー、それも任せろ! 俺が何とかしたらー。ちょっと待ってろ」

そう言うとその場からダッシュで向かう。
春美は終始楽しそうに笑っていた。

澄ました表情で出迎える先輩の林。

「何澄ましちゃってんですかー」

俺が突っ込むと他の客に見えないようケツを叩いてくる。

「席は浅草側、池袋側どっちがいい?」

セントクリスティーナだと浅草側の景色だったので、池袋側を選択。
春美はしきりに感心している。

「すべてのベクトルは君の誕生日を祝う為に……」

少しキザっぽく言うと春美は頬を赤らめた。

テーブルには俺の好きなスコッチウイスキーのグレンリベット12年のボトルが置かれ、春美には好みを聞き、カクテルを注文。

「本当に今日はありがとうございます、岩上さん……」
「君のその笑顔が俺にとって最高の報酬だ」

「忘れられない日になりそうです……」

人生至福の時って、こういう事を言うのだろう。
以前スナック『アップル』の長澤久美子をここへ連れて来た過去を思い出す。

あの時抱くつもりはなかったが、帰りの車の中で彼女からもたれ掛かってきた。
理性の吹き飛んだ俺は久美子の唇を奪い、そのままホテルへ行けたのだ。

今日ひょっとしたら春美とも……。

無限に膨らむ妄想。
それを搔き消すよう早いペースで酒を飲む。

時折見せる春美の寂しそうな横顔。
とあるフレーズが頭の中で流れる。
何だっけ、この曲……。

そうだ、ファイナルファンタジーⅩの挿入歌ザナルカンドだ。
うん、春美にはザナルカンドがよく似合う。
でも何故寂しそうな顔をするのだろうか。

尋ねると彼女には兄がいて、とても厳しい人らしい。
生活苦からキャバクラの仕事をしてしまったが、兄から厳しい言われ方をされ悩んでいた。

「春美のお兄さんが言っている事は、君を大事に想うからこそ至極真っ当な意見で、それはとても正しい思う。でもね…、不謹慎な言い方になってしまうけど、俺はそうじゃなきゃ君と出逢えなかった。そして今もこうやって祝えていない。だからとても感謝している」

できる限り丁重に言葉を選びながら口を開いた。

「春美、俺は君の事がとても好きだ。すべてを投げ出しても君が欲しい」

真っ赤な顔で俯きながら春美は小声で「私はそんな簡単に落ちません…」と言う。

お互い色々な話をした。
俺は正直にお袋の虐待に遭った事、全日本プロレス時代を伝える。

一つだけ黙っていた事があった。
今の裏稼業であるゲーム屋だけは言えない。
生活の糧として働きながらも、どこか俺はあの商売を卑下している。
とても真面目な性格の春美。
裏稼業で働いているという事を明かし、変に思われるのが怖かったのだ。


浅草ビューホテルを出て、少し先にある緑寿司へ行く。

「もうお腹一杯ですよー……」

そう言う春美に対し、ここの寿司の焼き穴子を一貫だけでも食べさせたかったのだ。
実際口にした彼女は大絶賛。
俺はそれを見て満足気に微笑む。

楽しい時間は過ぎるのが本当に早い。
そろそろ帰りの電車へ乗らないと間に合わなくなる。

酒は強いはずの俺。
何故か目の焦点がボヤケている。
春美に対しては紳士的に接していたかった。

新宿駅で一度降り、歌舞伎町を通過して西武新宿駅へ。
途中にあったゲームセンターでプリントクラブを発見した。
せっかくの初デートだし一緒に撮りたいと強請ってみる。

「いいですよ」

俺は春美とプリクラを一緒に撮った。

酔いがどんどん回る。
春美の顔が二十に見えた。
あれ、どうしたんだ、春美?
俺は彼女が消えないよう抱き締める。

俺って本当に幸せだー……。

目を開けると電車の中。
俺は春美に膝枕されたまま寝ていた。

起き上がろうとすると、春美は優しく頭の上に手を乗せ「まだ寝ていて下さい」と口を開いた。

まだ酔いが回っている。
俺は再び目を閉じた。
心地良い感触を覚えながら夢を見た気がする。

内容はハッキリ覚えていない。
気が付けば新所沢駅。

不覚にも酔って春美の前で寝てしまったのか……。

「ごめん、終電無くなっちゃったね。タクシーで送るよ」

春美は何故か返事をせず、心無しか顔を背けている。
ほとんど会話も無いままタクシーは川越へ到着した。

「私…、そんな軽くありません……。今日はありがとうございました……」

彼女は下を向いたまま蚊の鳴くような声で言う。

「え、俺何か君にしたのか?」

春美を乗せたままタクシーは発進する。
何か大変失礼な真似をしてしまったのでは……。


暗い気分のまま新宿へ向かう。
何度連絡しても春美は電話に出てくれない。
メールをしても返信は無い。

デートの途中までいい感じだったはず。

だがいくら俺が酔っていたとはいえ、あそこまで態度が急変するのか。
理由を…、俺が一体彼女へ何をしたのか知りたかった。

自然と頭の中にザナルカンドの曲が聞こえてくる。
あの曲はまるで春美の為に作られたようなものだ。

仕事をしていてもどこか上の空。
原因はすべて春美の事でウジウジしている俺。

三門に無理言って今日の休みを代わってもらう。
休みの従業員をわざわざ店に出させて、俺は休む…、最低だ。

情けない俺。
小江戸号の中でタバコを吸いながら吐き出した煙を眺める内に電車は川越へ到着した。

家へ帰る途中、すぐ近所にあるマンションのところを通り掛かる。
その一階にある空き店鋪は、こんな真夜中だというのに明かりがついていた。
自然とガラス越しの中の状況に目がいく。

中には三人ぐらい人がいて、慌ただしく掃除やら、荷物の整理をしていた。
どうやら、近い内、ここで何かしらの店をオープンする準備をしているようだ。

しかし何の店だろう?。
外の看板を見た。

『くっきぃず』

それだけしか看板には書いていなかった。

俺は気になりだすと止まらない。
どうせ近所なんだし、挨拶がてら聞いてみよう。

ドアを開けて中へ入った。
中は十畳ほどの広さで壁は清潔感あふれる白。
壁に沿って茶色の大きな棚があり、本がぎっしり詰まっていた。
奥にグランドピアノが置いてある。

しかしまだ引越しの片付けが終わっていないのか、目の前で三人の従業員らしき人が、たくさんのダンボール箱をゴソゴソと漁っていた。
誰一人、俺が入ってきた事に気付かないほど集中している。

しばらく様子を見ていたが、声を掛ける事にした。

「すみませーん」

俺の声に、三人の動きはピタッと止まる。
パーマの掛かった四十代ぐらいのメガネを掛けた女性。
同じくメガネを掛けた二十代半ばの男性。
またまたメガネをかけた高校生ぐらいの女の子。

親子同士だろうか。
みんなメガネである。
メガネファミリー…、俺は心の中で呟き危なく吹き出しそうになった。

「はい、何でしょうか?」

四十代の女性が、不思議そうな顔で掛けてくるくる。

「自分、すぐそこの近所の岩上なんですけど、たまたま目の前通り掛かったんです。何のお店ができるのかなと思いまして」
「そうですか。よろしくお願いします。ここで楽譜屋のお店をやるんです」

「え、楽譜を売るお店ですか?」

そんなんで商売が成り立つのだろうか?

「ええ、そうです。他には、ピアノのレッスンもしていますけどね」

ピアノか…、春美に弾いてやれたら、格好いいと思われるだろうか。

「凄いですね。自分、まったく音楽関係には疎いもんでして」

棚に詰まっているのは本でなく楽譜なのか。
俺は一つ一つ手にとって眺めてみる。

ベートーベン、ブラームス、ショパン。
小学校時代、音楽の時間で聞いた事のある音楽家の楽譜も多数あった。

「楽譜って、主にクラシック系を置いてるんですか?」
「ええ。でも、別のジャンルも取り寄せられますよ」

ゲームの楽譜なんてあるのだろうか……。

いや、初対面でこんな事聞くのは失礼だ。
しかもこんな真夜中に来ているし……。

とりあえず何か買って帰ろう。
俺は棚から、適当に一冊取り出した。

「これ、良かったら、買ってもいいですか?」

俺が偶然、手に取ったのは『マーラー』と書いてあった。

「いいんですか? こんなバタバタしている状態なのに…。何だか気を使っていただいて申し訳ないです」
「いえいえ、その内自分が欲しいものをお願いするかもしれませんから」

代金を払い、店をあとにする。

買った楽譜はまったく興味ないものだ。
いきつけのジャズバーの客にプレゼントすれば、誰かしら喜んでくれるだろう。


部屋で、ファイナルファンタジーXのオープニング曲であるザナルカンドを聴く。
何度繰り返し聴いたか、分からないぐらいだ。

それでも飽きがまったくこない。
さっきの『くっきぃず』。
確かピアノも教えているとか言っていたよな……。

曲のイメージと春美が被る。
目をつぶると、下をうつむいた春美の寂しげな顔が思い浮かぶ。

曲と春美の共通点は、少し悲しげで陰りのある部分。
それでいて優しく人を癒す。

新宿歌舞伎町の裏稼業でしか、顔を利かせる事のできない自分。

何かしら悲しみを背負って生きているような表情。
俺が何とかしたかった。
しかしこんな俺に何ができる?

色々考えてみた。

バーテンダー時代のスキルを活かし、カクテルを目の前で作ってあげる。
そしたら喜んでくれるだろうか?

美味しい料理を一緒に食べる。
楽しく会話しながら、同じ時を共有する。

いや、あのデートのあと不可解な避けられ方をされたままなんじゃないかよ。
一体何故彼女は俺を避ける?

最悪連絡が来ないなら春美の働くキャバクラへ行き、一度訳を聞けばいい。
まずは非礼を詫び、彼女の為に生きたかった。

脱線するなって。
俺にしかできない事……。

何かないか?

ん…、待てよ……。

三十を過ぎた俺が、初めてピアノを始める。
まあ幼少期のピアノを入れたら初めてではないが……。

でもまともにやってなかったんだから初挑戦には変わらない。
そして彼女の為に一曲でいいから弾けるように挑戦して、ザナルカンドを完成させ聴かせる。
そうすれば、ビックリしつつも喜んでくれるんじゃないか……。

こんな俺がピアノを弾けたら……。

春美に感動を与えられるんじゃないだろうか?
無謀と思いつつも、何かしらの行動を示したかった。

まず『くっきぃず』に行ってみよう。
行って頼んでみよう。
俺がピアノを…、いや、ザナルカンドを弾けるようにしてくれるかどうか……。

プレステーション二の電源を入れ、ファイナルファンタジーXのオープニングを眺める。

果たしてこの曲を俺は弾けるのだろうか?
何か彼女の為にしてやりたかった。

今日は早く寝て、早速明日にでも相談に行ってみよう。


闇 16(ザナルカンド編)

2024/08/08 thu
2025/07/12 sta
2025/08/19 tue
前回の章


春美と出会ってから、俺は少しおかしい。
冷静に物事を円滑に運んでいたはずなのに……。

急にピアノを習いだしてみようと思ったり、また絵を描き出したり、プライベートで一回しか逢った事のない春美の事ばかり考えている。

何だろう?
このせつなくむず痒い気持ち。
どう説明すればいいのか。

「抱きたいんだろ、春美を……」

わざと声に出してみた。
しかし何かが違う。

単に抱くだけなら、彼女よりいい女はもっといる。
顔だってスタイルだって、よりいい女は腐るほど抱いてきた。

今までで危なかったのは、出会い系サイトで知り合った女だけである。
携帯電話がようやくメール、そしてインターネットができるようになった頃。

流行り始めは俺もハマった。
もちろん最初は顔も名前も声も知らない。
だからこそ、その事にトキメキも感じた。

俺はいつも正直に自分を出し、接していた。
逆に相手も俺だけには正直に自分の事を話しているのだと思い込んでいた。

実際に会ってみると、自分の想像とは程遠い酷い女性ばかり。
うまい具合に仕事が入ってしまったと言い訳をして、逃げたケースがほとんどである。

一度『ユウナ』という名前の子に出会った事があった。
とても性格のいい子でメールのやり取りをする度、俺は癒された。

ちょうどファイナルファンタジーXのヒロインと同じ名前のユウナ。

当時自分の気持ちを伝えた。

『俺は君の顔も声も知らない。でも君の優しいその性格だけで充分だ。俺と実際に会い、つき合ってほしい。 岩上智一郎』

『ユウナ』は喜んで返事をくれた。
二人の仲がどんどん縮まっていくと、彼女はどんな感じの女性なのだろうと勝手な想像をするようになる。
今のように携帯電話で簡単に写真が撮れるような時代じゃない。
まだ子供だましの文字だけのインターネットができる程度。

前に顔とか見るとかじゃなく、君の性格をとても気に入っていると嘯いた俺。
写真も何もいらない。
会う時はそのまま会おうと格好つけてしまったので、今さらこちらから写真を送れなんて言えやしない。

そんな俺に対し、彼女は芸能人に例えるとモーニング娘の安倍なつみにそっくりと言われると返してくる。
え、誰それ?
極度の芸能音痴の俺は、安倍なつみなど聞いた事もない。

行きつけのジャズバー、スイートキャデラックのマスターに聞くと「安倍なつみですか…。ん-、まあ誰が見ても可愛いと言うんじゃないでしょうかね」と答えた。
これにより俺の妄想は、さらに暴走モードへ突入する。
安倍なつみの顔は知らないが、誰が見ても可愛い。
そしてゲームのユウナプラスアルファの相乗効果。

実際に会う日を心待ちにしていた。
初めて会う日がやってくる。

待ち合わせ場所は新宿駅アルタ前にして、俺は新宿プリンスホテル地下一階にあるイタリアンレストラン『アリタリア』を予約。
支配人の蒲田さんへ「今日は今までで一番大切な女性を連れてきますので」と前日にお願いまでする始末。
部屋も普段では泊まらないようなスイートルームを予約し、この日の内に結ばれるつもりでいた。

そして近所の同級生の化粧品屋へ行き、女性がもらったら喜ぶ化粧品を聞く。
三万円分の化粧品を買いプレゼント用に包んでもらい、豪華な薔薇の花束まで注文して部屋に飾る。
それだけ期待度は大きかったのだ。
言い方を変えると、彼女を抱く為だけに金と時間を掛けシャカリキに動いていた。

会う前、彼女から電話があり「さっきね、参っちゃった。私の弟の近所の同級生なんだけど、私が出掛けようとすると『ユウナ姉ちゃん、どこ行くの?』って聞いてくるの。智一郎さんとデートなんだって言うと『駄目だよ。そんな奴と会っちゃ』って駅まで一緒に付いてくるんだもの」なんて言うものだから、さらに俺の期待は膨れ上がる。

実際に会う段階になって俺は正直固まった。

想像していた女性と『ユウナ』。
かなりかけ離れていたのだ。
どうやってこの子を説得して帰そうか、そればかり考えていた。

プリンスホテルの鎌田さんは、良かれと思って至れり尽くせりの接客をしてくれる。
次々と運ばれてくる料理。

『ユウナ』は夢心地になりながらデレデレしていた。
「プレゼントを用意してくれたんでしょ?」と恥ずかしそうに話す彼女。

俺は無下にできず、食事を終えると部屋まで連れていくハメになる。
これまでの綺麗事、格好をつけた言い回しを言った自身を呪う。

化粧品と薔薇の花束を手渡すと、『ユウナ』はゆっくり目を閉じた。
え、何その体勢は……。

ずっとキスを待っている。
ここでキスをしてしまったら、俺は生涯この子と一緒に過ごす事になるだろう。

漫画『あしたのジョー』のラストシーンを思い出す。

チャンピオン、ホセメンドーサに挑む矢吹丈が控え室を出る前、白木陽子が「あなたが好きなの」と止める。
丈は葉子の肩に両手を添え、「世界で一番強い男が待っているんだ」と去っていく。

俺はその光景を頭で描きながら『ユウナ』の両肩に手を添え、「会ったばかりだろ? それでこういうのってよくないよ。今日は帰ったほうがいい」と静かに言った。
彼女は大切にされていると思ったのか、目をウルウルさせている。

俺は申し訳ないが緊急の仕事が入ってしまったと嘘をつき、その場から逃れた。
それ以来俺は、『ユウナ』と連絡を取る事はもちろんない。
過度な期待をしていた分、俺の落ち込みようといったらなかった。

帰りにスイートキャデラックへ寄り、マスターがあんな事言うから騙されたと散々クダを巻く。
みんな、俺の姿を見て大笑いしていた。
このマスターには、未だにこの件で笑い話にされる。

よくよく考えてみたら、安倍なつみそっくりでファイナルファンタジーのユウナのような女が、出会い系サイトなど登録するはずがないのだ。


そういった過去の汚れている出会い系とは違い、春美とは運命的に出会ってしまった。
この喜びと感動をどう表現したらいいのだろう。

導き出した答えは一つしかない。
ピアノ。

俺はこれからピアノを始め、春美へ捧げるのだ。

ファイナルファンタジーⅩのCDケースを手に取る。
ザナルカンド……。

中に楽譜があるかどうか調べた。

「……」

そんなもの、あるはずがない。

時計を見ると、お昼近くになっている。
近所にできた楽譜屋の『くっきぃず』は、今日やっているかな?
とりあえず行ってみる事にした。

ガラス張りで外から丸見えの作り。
中には昨日話した四十代のおばさんがいる。
俺はドアを開けて中に入った。

「こんにちわ」
「あら、こんにちわ。昨日は、早速お買い上げ頂き、ありがとうございました」

おばさんは人の良さそうな笑顔で明るく話している。
素直に好感が持てた。

「いえいえ、とんでもない。実はですね。今日はお願いがあってきたんです」
「はい、何でしょう?」

馬鹿にされるかもしれない……。

でも、俺はザナルカンドを弾けるようになりたかった。
そしてどうしても春美に聴かせてあげたい。

「ファイナルファンタジーって、知ってます?」
「うーん、何のジャンルでしょうか?」

やはり知らない。
これ以上聞くのはやめておこうか。
いや、聞くだけ聞いてみよう。

「ゲームです。ゲームミュージックなんです」
「へえ、凄いですね。最近のゲームはCDにもなっているものもありますからね。ちょっと待って下さい。楽譜があるかどうか調べてみます」

おばさんはマッキントッシュのパソコンと向かい合い、モニタとしばらく睨めっこしている。
俺はパソコンを活用した事がないので、黙って見ているだけ。

「あ…、ありましたね…。いくつなのでしょうか?」
「え、何がです?」

「ギリシャ数字で、ⅩやⅨ…。色々ありますよ」
「テ、Ⅹです。Ⅹ……」

「ああ、ありますよ。CDじゃなく楽譜で…、ですよね?」
「そ、そうです!」

無いものだと思っていた。
思わず自然と俺の声は大きくなる。

心が弾む。
毛穴が全開に開き、興奮していた。

「すみません。それ、注文できますか?」
「ええ、もちろん」

おばさんは俺の喜びようを見て、クスクスと笑っていた。

「もう一つ、お願いがあるんです」
「はい、何でしょう?」

俺は覚悟を決めた。
やるしかない。
これだけ条件が揃ったのだ。

「その楽譜が届いたら、俺に……。ピアノを教えてくれますか?」
「え?」

突拍子もないのは充分自覚していた。
おばさんは…、いや、これから教えを乞うのだから先生か。

「俺、ピアノなんて、今まで弾いた事ありません。でも確か、最初はバイエルンからやるんですよね?」
「フフフ、バイエルね」

「そう、そのバイエルからとかじゃなくて、さっき頼んだ中に、どうしても弾きたい曲があるんです。それを弾けるように教えてもらえますか?」

無茶な要求なのは百も承知だった。
でも、俺は真剣に頼んでいた。
頭を深く下げ、目で必死に訴える。

「ええ、いいですよ」。

先生はこっちの予想に反し、あっけなく簡単に答えた。
拍子抜けしたが、もう一度確認してみる。

「ほ、本当ですか? 俺、ピアノなんてやった事、一度もないんですよ?」
「ええ、大丈夫ですよ。これから頑張りましょう」

これで…、春美にピアノを弾いてやれるかもしれない……。

天にも登るような気持ちだった。
あとは俺の努力次第。

「ありがとうございます」

心からお礼を言い、もう一度深々と頭を下げた。
そういえば習うのはいいが、月謝はどのくらい掛かるのだろうか?

「あの、お金はどうすればいいですか?」
「うーんと、そうね…。うちは週一のレッスンで、月謝が一万二千円だから…。一時間で三千円の計算になります」

俺の性格上、定期的に通うのは無理である。

「俺、今は新宿まで仕事へ行っています。定期的に通うの難しいので、来たい時習いに来てもいいですか?」
「ええ、いいですよ」

人生、不思議なものである。
昨日知り合ったばかりの人間が、今日俺の先生となった。

春美と出会ったタイミング。
近所に『くっきぃず』のオープン。
ピアノを弾いて捧げたいというこの想い。
これらすべてが噛み合うと、どうなるのだろうか?

偶然かもしれないが運命的なものを感じ、鳥肌が立っていた。


早速キーボードを購入しに行く。
少し気が早い感じもしたが、勢いというのが大事な時だってある。

俺はデパート丸広にある楽器屋へ向かう。
ピアノを弾けたら、まわりの人間はどんな反応をするだろうか。
春美は喜んでくれるかな……。

四階の楽器屋へ到着すると、店内を見て回る。
黒いスーツを着た俺。
他の客層と、少し空気が違うような気がした。
みんな、真剣に音楽へ取り組んでいる人ばかりなのかもしれない。

まあいい。
俺だって、これから真剣に取り組もうと思っているんだ。
誰にあれこれ言われる筋合いはない。

綺麗な音色が聴こえてきた。
ピアノでもギターでもない音色。

音のするほうへ行く。
すると、バイオリンを大きくしたような楽器を股の間に置いて、弦を引いている女が見えた。

こんなデカい楽器もあるのか。
素直に感心した。

音色が突然止む。
デカいバイオリンみたいなものを弾いていた女が、俺をジッと見ていた。
しかも嫌そうな表情をしながら……。

仕方ないので、その場を離れる事にする。
多数のキーボードが、羅列するコーナーへ向かう。
するとさっきのバイオリンのお化けみたいな楽器の綺麗な音色が聴こえてきた。

「ちっ、あのアマ……」

小声で呟く。
人に演奏を見られるのが嫌なら、こんなところで演奏などするなって。

キーボードが置いてあるコーナーへ行き、ひと通り鍵盤を叩いてみる。
電子音だけあって、どれも同じように聴こえた。

デザイン的に黒が好きな俺は、キーボードの値段を見ながら吟味をする。
様々な種類の音色。
ボタン一つ押すだけで、こうも変わるものなのか。
散々迷った挙げ句、俺は黒のキーボードを選ぶ事にした。

家に戻り、早速電源を入れるみる。
キーボードにつく機能は、説明書を見ないと分からないぐらい多かった。

ピアノの音の種類だけで五種類。
中にはギター、バイオリンのような弦楽器の音もあれば、フルート、サックスのような木管楽器もある。
何の為にあるのか分からないが、鐘の音まで入っていた。

鍵盤の上にある小さな液晶の画面。
そこには鍵盤が簡素に書かれている。
試しに鍵盤を叩くと、液晶画面も同じ場所を表示した。
面白い。

俺は適当に鍵盤を弾いてみた。
音を変えるだけで、それなりのメロディとして聴こえるから不思議である。

その日は、色々と適当にキーボードをいじっていた。
早くピアノを弾けるようになりたい。
早く春美にザナルカンドを聴かせてやりたかった。

俺は近所の『くっきぃず』へ、顔を出す事にした。
まだ店内は片付いてないようで、先生は楽譜を整理をしながらとても忙しそうだ。

俺の姿に気付くと、微笑んでくる。

「先生、忙しいところ、すみません。俺、キーボードを買ったんですよ」
「あら、やる気満々じゃない」
「ええ、もうブリブリですよ」

俺の話し方に先生は笑い転げていた。
こっちが思うより接しやすい人かもしれない。

「あ、そういえば、明日辺り頼んでいた楽譜、届きますよ」
「え、ファイナルファンタジーⅩの楽譜ですか?」
「ええ」

明日からでもピアノを習える。
そう思うと俺は嬉しくて飛び跳ねた。


次の日の仕事帰り、俺はそのまま『くっきぃず』へ寄る。

先生は笑顔で注文した楽譜を手渡してきた。
ファイナルファンタジーⅩの楽譜……。

これで俺はザナルカンドを弾ける準備がやっと整ったのだ。
ページをめくり、パラパラと簡単に眺めた。
ピアノの音符の羅列がびっしりと書いてある。

当たり前だ。
これはあくまでも楽譜なのである。

目次を見ながらザナルカンドのページを見つけた。

「先生、これなんです。俺の弾きたい曲」
「ちょっといいかしら」

楽譜を先生に渡す。
真剣に眺めている間、大人しく待っていた。

先生がグランドピアノの前に向かう。

「いい? 私が一度、弾いてみるね」
「よろしくお願いします」

先生の指がピアノの鍵盤の上を踊るように動き出す。
グランドピアノから、奏でられるメロディ……。

それはまさしくあのザナルカンドそのものだった。
感動のあまり、全身の毛穴が全開に開く。

俺もこんな風に弾いてみたい。
自分の理想の姿が今、目の前にある。
しばらく鍵盤の上を急がしそうに動く指先をずっと見つめていた。

耳に聴こえてくる音から、春美を連想した。
浅草ビューホテルの時に見た悲しそうな横顔が思い浮かぶ。
彼女にはこの曲がピッタリ似合うのだ。

どこか悲しげで、いつも一生懸命な彼女。
ついて回るのはいつも、はかなさとせつなさだった。

絶対にこの曲を弾いてやる。
そしていつか春美に聴かせるのだ。
俺は心に固く誓う。

ザナルカンドの曲が弾き終わる。

ピアノって素晴らしい。
心の底から思った。

「凄いですね、先生。メチャメチャ上手いです」

いつの間にか自然と拍手をしていた。

「いい曲を選びましたね。とてもいいメロディだわ」

「ありがとうございます。俺、この曲、弾けるようになりますか?」
「頑張ればできます。大丈夫ですよ」

初めて習うピアノ
三十歳を越えてから、初の挑戦でもあった。

「よろしくお願いします」

返事をする代わりに、先生はニコっと微笑んだ。

今のこの興奮をすぐピアノに投影したい。
時計を見ると朝の十時だった。

「先生、たった今から習ってもいいですか?」
「え、だって仕事終わったばかりなんでしょ?」

「ええ、でも構いません。一時間だけでもお願いできません?」
「う~ん、分かりました。それでは早速始めましょうか?」

先生は困った表情をしながらも、どこか嬉しそうだった。


早く彼女に逢いたい……。

しかし今は無理なのだ。

連絡一つない状況。
やるせない気持ちになる。
今は気持ちを切り替え、一日でも早くピアノを覚えるようにしよう。

『くっきぃず』のグランドピアノの前に向かう俺。
左側には先生が座っている。

「最初にここと、ここと、ここに指を置いてみて」

言われるまま、恐る恐る鍵盤の上に指を置く。

「はい、最初にそれを同時に鳴らして」

自分の鍵盤を押した音が聴こえる。

ザナルカンドの一番初めの音だ。
すぐに分かった。

たった一つの音でも、三つの鍵盤を一斉に押す。
俺は音符がまったく分からないので、それ以上は弾けなかった。

「先生、お願いがあるんですけど…何も」
「はい、何でしょう?」

「楽譜に音符にカタカナをふってもらえませんか?」
「構いませんよ」

嫌な顔一つせず先生はコピーをとった楽譜へ、丁寧にカタカナをふりだした。

最初の左手の押さえる音は『ミ』と『シ』。
右手は『ミ』。

「あー、岩上君。駄目よ。左手は中指で『ミ』、親指で『シ』を押さえる。右手は中指で『ミ』にして」

「は、はあ……」
「タンタンタンタンタンタンターン……」

先生は口で、ザナルカンドの始めを表現している。

「これで、一小節ね」

「はあ……」
「例えばね、四分の四拍子とか聞いた事あるでしょ?」

「ええ、それなら」
「四分音符というものが、四つ…、四拍子が一小節の中に入っているの」

俺にはよく意味が分からなかった。
不思議そうな顔をしていると、先生はさらに説明を続ける。

「うーん、そうねえ。メトロノームって分かる?」
「はい、あのカチッカチッって、やつですよね」

「そうそう、それが四回打ったのが、四分の四拍子で、一小節なの」
「よく分かりませんが、要はそういうものだって、覚え方してもいいでしょうか」

思わず、苦笑いをする先生。

「じゃあ、四分の三拍子だと?」

「メトロノーム三回分で一小節ですよね」
「そうそう」

算数の公式のようなものだと感じる。
理屈じゃなくて、一足す一は二……。

そのようなものだという認識で覚えないと駄目だろう。
あまり深く考えないようにした。
先生は続けて話す。

「ピアノはね、各鍵盤を押さえるにしても、ちゃんと押さえる指が決まっているようになっているの」

先生は俺の目の前で、手の平を見せるように両手を開いた。

「いい、左手は小指から一、二、三、四、五……」

小指が一番で、薬指が二番……。

「じゃあ、左の親指は五番って事ですか?」
「そうね」

左から順番になるのか。

「じゃあ、右手は親指が一番で始まって、小指が五番って事でいいんですよね?」
「そうです、よろしい。この場合は今、左の中指で押さえている『ミ』と親指の『シ』は、左の三と五って感じね。そうすると、次に弾く右の一オクターブ下がった『ミ』が、親指で簡単に弾けるでしょ?」

実際に弾いてみた。
タンタン……。

うん、本当に弾きやすい。
俺は、先生がふってくれた楽譜のカタカナの横に、小さく数字を記入した。三、五と三……。

何度も聴いたザナルカンドの出だし、それを俺は今、弾いている。
二つの音を同時に押さえた和音と、右親指で一つの音を押しただけなのに……。

とてもシンプルな行為。
しかし、それは紛れのないザナルカンドの音だった。

ピアノを初めて弾く俺でも、頑張ればできるのではないか。

「先生! 俺、今自分でこの音を鳴らしたんですよね?」
「そうよ」

先生は嬉しそうに言った。
俺はもっと嬉しい。

「じゃあ、次の音いいですか? あ、それより、楽譜に指の番号を書いてもらってもいいですか?」
「はいはい、いいですよ」

嫌な顔一つせず、先ほどのカタカタに続いて、番号まで記入してくれた。
先生の行為に対し、曲が完成するまで絶対に諦めないでやるのが最低限の礼儀だと感じる。
今後、どんなに辛くても、途中で投げたりはしない。

結局この日は、ザナルカンドのニ小節分を習った。

口ずさむと、タラタラタンタンターンって感じだ。
タラというのは、タンタンと同じ意味。
俺がそう勝手に決めた。
ほんの短い部分を一時間掛けて弾けるようになったのだ。

これを繰り返せば、俺でも何とかなりそうだ。
たった一時間という短さでも密度の濃い時間を過ごせたと思う。

最後に先生の言っていた台詞が耳に残った。

「あら、あなたって本当に優しい音色を出すのね……」

お世辞にしかとれなかった。

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仕事を済ませると、俺は真っ直ぐ家へ帰る。
部屋へ戻り、今日習った二小節分を弾いてみた。
この程度の長さなら記憶しているのですぐに弾ける。
短い部分を何度も繰り返し弾いた。

一つ感じた事がある。
実際にグランドピアノを弾いてみて分かった事。
弦楽器は電子ピアノと比べると、当たり前だが音が違う。

電子ピアノは電子で作られた音でしかない。
いくら感情を込めても、聴こえる音は同じだった。

先生が言った言葉を思い出した。

「あら、あなたって本当に優しい音色を出すのね……」

あの時俺は、春美に聴かせたいと必死に感情を込めて鍵盤を叩いた。
自分がどれだけ彼女に聴いて欲しいか。
それだけの為にピアノを始めた。
俺がピアノを弾くのは、春美にザナルカンドの曲を捧げたいからだ。

一小節で七つの音。
どんなに小さな音でも、無駄な音符がないように思えた。

その想いが音色に現れたのだろうか?
もしそうなら素直に嬉しかった。

春美以外の人間がそう感じてくれるという事は、彼女にこれを聴かせた時、絶対に喜んでくれるはずだ。

俺は完璧にザナルカンドをマスターしたかった。
この曲だけは、世界中で一番うまく演奏できるようになりたい。

たったの二小節分を一心不乱に弾く。
気がつくと、それだけの為に三時間も弾きっ放しだった。

タラタラタンタンターン…、タラタラタンタンターン……。

先生風にいえば、タンタンタンタンタンタンターン、タンタンタンタンタンタンターン…って、感じか。

本当に最初の部分。
そこだけは完璧に弾けるようになれた。
もの凄い嬉しかった。


練習を終えると、いつものジャズバー、スイートキャデラックへ行く。

今日はライブも何もなく通常営業だった。
どっちかというと俺は静かなほうが好きなので、通常の営業のほうがいい。

ライブがある日以外、基本的に暇な店だったので客は一人しかいなかった。
カウンターへ座ると、グレンリベット十二年のボトルと、ショットグラスが置かれる。

チェイサー代わりに、アイスコーヒーを頼む。
つまみにカマンベールチーズを注文。

視界の隅にジャズバーのピアノが見える。
今は客、俺一人だ……。

チャンスは今だ。

「マスターすみません」
「はい?」

「音楽止めてもらってもいいですか?」
「え、何故?」

それは確かにそう言うだろう。
ジャズバーなのに、俺は音楽を止めろと言っている。

「ピアノ…、あのピアノをちょっと弾かせてもらえませんか?」
「岩上さん、何でまた?」

「実は俺、今日からピアノを始めたんですよ」

我慢しきれずに、とうとう言ってしまった。

「えー?」
「そんなデカい声、出さないで下さいよ」

「本当ですか?」
「ええ」

「何でまた?」
「もう、いいじゃないですか。今、俺一人でしょ? 他の客が来たらすぐにどきますから」

「分かりましたよ」

そう言って、マスターは音楽を消してくれた。
俺は立ち上がり、軽く首を鳴らす。
それからピアノへ向かって歩いた。

椅子を引いて、ゆっくりと腰掛ける。
鍵盤の上に静かに指を置いた。
一瞬、目を閉じて軽く息を吐く。

指先に気持ちを込める。
ジャズバーのピアノは、ザナルカンドのメロディを奏でだす。

ちょっとした違和感があった。
鍵盤を弾いた感じ、少しばかり重く感じたのだ。

たった二小節分の短い演奏を終え、カウンターのほうを振り返る。
マスターは目を丸くして驚いていた。

「い、岩上さん…、いつの間にピアノを……」
「へへ、今日やったばかりなんですよ」

「へー、それは凄い。気にしないで、次を弾いて下さい」
「いや、それがまだここまでしか習ってないんですよ」

俺とマスターは声を揃えて大笑いした。
この場所でいい……。

ここで、早く春美にザナルカンドを聴かせてやりたかった。


仕事を終えると一目散に地元へ帰る。
駅に着くと全力疾走で『くっきぃず』まで向かう。
俺は元気よく挨拶しながら中へ入った。

「先生、お疲れさまです」
「あら、こんにちわ」

「仕事を終え、急いで帰ってきました。今日もピアノを教えてもらえますか?」
「ええ、いいですよ」
「やったあ!」

早速、俺はピアノの前に座った。

「実は昨日いきつけのジャズバーで、あのあとピアノを少し弾いたんですよ。もう習った部分は完璧ですよ。ちょっと聴いてもらえます?」
「いいですよ」

昨日ジャズバーで弾いたピアノの感触と、先生のところのグランドピアノとは少し癖が違うような気がした。
同じ音を弾いても気持ち、音が違うように聴こえたのである。
俺の気のせいだろうか。

呼吸を整え、ザナルカンドの最初の二小節を弾く。
ミスもなく、完全に上手くできた。
あれからこの部分だけを何百回弾いただろう。

先生は満足そうに頷いて、俺の横に腰掛ける。

「じゃあ、今日はもっと先の部分を行くわよ」
「はい、よろしくお願いします」

ピアノを弾き始めて本当に良かった。
こうしている時間がとても楽しい。
今まで何も弾けなかった俺が、実際に自分で弾きたい曲を弾いているのだ。

興奮と感動に包まれながら、俺はザナルカンドの先の部分をどんどん覚えていく。

そういえば、ファイナルファンタジーⅩの主人公が、最後のエンディングでこんな台詞を言ってたっけ……。

「俺、あんたの息子で良かった……」

確かそんな台詞だと思ったが、今は「俺、ピアノを始めて良かった……」と、声を大にして言いたいぐらいだった。

二回目のレッスンは二時間頑張って習う。
だから覚えたのも初日の倍以上だった。
今日は新しく四小節分を吸収する
俺はニ時間分のお金、六千円を払ってから家に帰った。

部屋に戻ると、早速今日の分を何度も繰り返し弾き始めた。

三日間連続で俺は先生のところへピアノを習いに行く。
元々やる気のあった俺に、さらなるやる気が備わっていた。

先生が真剣に教えてくれるのを懸命に叩き込み、魂を込めながら鍵盤を奏でる。

少しでも早くこの曲をマスターしたい。
そんな想いがピアノの腕を上達させていた。

まだ先生の『くっきぃず』も、オープンして間もない状況というのも味方して、この日、俺は仕事を早引きしてから七時間ぶっ通しでピアノを習い続ける。
音符にカタカナをふってもらわないと駄目な俺は、必死に曲を丸暗記した。

鍵盤を押さえる指を目で確認する。
指で鍵盤の弾く位置を記憶する。
耳で奏でる音がおかしくないかチェックする。
俺にはその方法しかなかった。

「岩上君、そろそろ休憩を入れない?」

先生がそう言って、ピザの出前をとってくれた。
さすがにぶっ通しだったので、俺は少し疲れていたみたいだ。

でも今日だけで、ザナルカンドの四分の三以上を弾けるようになっていた。

デリバリーのスタンダードなピザをここまでおいしく感じたのは、生まれて初めてだった。
先生の優しさに感謝する。

帰る時になって思った。
三千円掛ける七時間……。

俺は財布を取り出し一万円札を数枚取り出すと、先生は笑いながら言った。

「あ、今日は三千円だけでいいですよ」
「何を言ってるんですか。俺、今日は七時間も教わったんですよ?」

「いいのいいの…。私も何だか楽しくなっちゃって、時間をすっかり忘れてたのよ」

「でも……」
「だから、頑張ってピアノを続けて曲を完成させてね」
「はい、ありがとうございます」

先生の心遣いがとても嬉しかった。
本当にいい先生に巡り合えたんだな……。

そう感じた。

先生のメガネ息子の健太が来たのでデジタルカメラを渡し、俺が弾くところの撮影をお願いする。

途中とちってしまうが、自分の指が奏でた音でもザナルカンドを弾けているのが分かった。
あと一回のレッスンで、ザナルカンドをひと通り弾けるようになるだろう。

そのぐらい今日は根を詰めて頑張った。


家に帰って、今日のピアノの復習をする。
たった三回のレッスンだが、合計のレッスン時間は十時間になっていた。
しかも週に一度じゃなく三日間連続である。

家での反復練習も十時間以上は費やしていた。
睡眠を削ってまでやって、身にならないほうがおかしい。

本当に先生には感謝である。
頭が上がらない。
こんな俺に付き合ってもらい、丁寧に指導してくれた。

あと一回のレッスンで、ザナルカンドが弾けそうなぐらいまできた。
俺は五時間掛けて、部屋でキーボードを弾く。
もうちょっとで仕事へ行く時間になっていた。

ピアニストは確か、一日中ピアノを弾いてられると聞いた事がある。
でも一つの曲を五時間ぶっ通しで弾けば、俺だってピアニストに、ザナルカンドだけは負けないはずだ。
一生懸命、一心不乱に弾いた。

何か形は違えども全日本プロレスを目指していた頃と近い感覚を覚える。
この自分の想いを音に……。

しかし、キーボードには俺の感情が伝わらない。
どんなに指先に感情を込めて弾いても、聴こえてくる音はすべて同じだった。
これが電子で出せる音の限界なのだろう。

ピアノ独特の音源。
あれが弦楽器の魅力なのだろう。
その事を少しだけ理解したような気がする。

調律士という仕事があるのを俺は知っていた。
何故なら最初にいたゲーム屋のベガに来る客で、調律士をしている人がいたからである。
ある日仕事の話を聞く機会があったが、その時はピアノ自体まるで興味がなかったので何も感じなかった。
今思えば、よく聞いておけばよかったと思う。

おそらくピアノの弦の部分を調整する作業なのだろう。
調律する人によって、ピアノの個人差が出てくるのではないだろうか。

だからスイートキャデラックのピアノと、先生のグランドピアノは弾いた感じが違ったと感じたのかもしれない。

春美からはデートの時以来連絡は無かった。
今無理して話そうとしても、嫌がられるだけ。

だから俺はまずピアノを…、ザナルカンドを完成させよう……。

現実逃避をしているだけなのかもな、俺は……。


闇 17(ドン・キホーテ編)

2024/08/08 thu
2025/07/12 sta
前回の章


休みの日、部屋でずっとキーボードを弾いていた。
曲名はもちろんザナルカンド。
俺にはそれしか弾けない。
しかも習ったところまでである。

こんな事なら、デートの前に曲を完成させれば良かった。

馬鹿な事を考えるな。
あの時はまだピアノを弾いてさえない。

頭が混乱している。

新宿で撮ったプリクラまでは仲良くできていたはず。
あそこまで戻りたい。
しかしもう遅い。
俺は何かしらの原因で、春美を傷つけてしまったのだろう……。

それは事実なのだ。

ザナルカンドの悲しい音色が胸に沁みる。
この曲ってこんなにも寂しい気持ちになるのか。

それでも俺はキーボードを弾く。
何度も何度も弾き続けた。
今の俺にはそれしかないのだから……。

先生に習った三日間のピアノ。
俺は今、習った部分のみ目をつぶって弾いている。
指先がキーボードの鍵盤の弾く位置を記憶してくれていた。
馬鹿みたいにずっと弾いたせいだろうか。

この曲を弾きながら聴いていると、いつも春美の寂しそうな横顔が思い浮かぶ。

奏でる音を耳で確認する。
多数の鍵盤を弾く際、音が一つでも間違うと俺の耳が反応した。

もう一度、目を開く。
指先を見つめながら弾いた。
指で曲を記憶し、目で確認し、耳で音を確かめる。
楽譜の読めない俺はそれしか方法がなかった。

ある閃きが、頭の中を走る。
右手で押さえる部分と、左手で押さえる部分。
それを逆に弾いたらどうなるのだろうか?

指先の配置を頭で整理しながら、静かにゆっくり鍵盤へ置く。
自分が何度も弾いたザナルカンド。
ゆっくりと鍵盤を押さえる部分を思い出しながら、ゆっくり弾いた。

思ったよりも難しい。
とても難しい事を俺はやろうとしている。

でもそんな事はどうでもいい。
この曲だけは、俺が世界で一番上手く弾きたいんだ。

右左を交互にして弾くザナルカンド。
慣れてくると、なんとか形になってきた。

よく押さえる鍵盤を間違えた。
俺は何度も反復して指先に記憶させる。
この作業に夢中になっていた。

時間は夜の八時を回っている。
春美からもちろん連絡はない。

だから一日中ひたすらキーボードを弾いていた。
そうする事だけが不安になる気持ちを忘れさせてくれた。

左右逆で奏でるザナルカンド。
ただでさえ悲しいメロディが、より、もの悲しく聴こえてくる。

せつなさ……。
悲しさ……。
愛しさ……。

様々な感情を抱かせるこの曲。
でも、不思議と俺を癒してくれる。

いつの間にか、キーボードを弾きながら眠ってしまっていたようだ。

もう、春美は連絡をくれないのだろうか?
胸の奥が苦しい。

俺は一人の女に何故、これほど入れ込むのだろう?
自分でも分からない。

これが愛するという事なのだろうか?
それも分からない。

心だけが苦しい。

春美はあんな俺を見て、どう思っているのだろう?
呆れてしまったのか?
情けない奴だと感じたのだろうか?
格好だけの奴って見られたのだろうか?

違う……。

俺は情けなくない。
格好悪くない。

あの時はどうかしていたんだ。
タイムマシーンがあったら、酔っ払うちょっと前に戻りたい。

新宿のゲームセンターで撮った春美とのプリクラ……。

思い出して財布から取り出す。
だらしなく酔った表情の俺の横で、春美は嬉しそうに微笑んでいる。
財布には五枚プリクラが入っていた。

どのプリクラも春美は笑っている。
俺と一緒に楽しそうに写っていた。
まだこの時まで春美は怒っていない。表情を見る限り……。

しばらくプリクラを見つめた。
陰りのある春美の表情が、明るく輝いている。

浅草へ行った楽しかった時間を思い出す。
ではいつ、俺が春美に失礼な事をしたのだろうか?

酒に酔った俺が悪いのか。
俺だって人間だ。
たまには酔いたい時だってある。

何故そのぐらいの事で春美は返事をくれないんだ?

俺は二枚の絵を描いた。

一枚は海の波が走る絵。

もう一つは以前書いた草原の絵の昼間バージョンで、品川春美のイニシャルである『H・S』を立体的に草原の上へ大きく描いた。

隅っこでその文字へ寄り掛かって人影をタバコを吸っている描き加える。
これは現在の俺の心境そのものだった。


いつも朝に帰ってから部屋でザナルカンドを練習する俺。
仕事を毎日している時間すらもどかしい。
本当はピアノだけをずっと弾いていたかった。

「テメー朝っぱらからうるせんだよ!」

廊下から親父の怒鳴り声が聞こえてくる。

「うるせーっ! 邪魔すんじゃねえ!」

やっとレッスンができる時間が作れたのだ。
馬鹿親父になんて構っている時間などない。

睡眠時間さえも削り、ひたすら鍵盤を叩く。

奏でた音はすぐに消えてしまう。
だから曲を耳の中へこびり付かせるように……。

音は儚いからこそ、価値があるのだろう。

春美からの返事は相変わらずない。
あまりしつこくして嫌われるのは嫌だったので、俺も連絡を控えている。

ピアノを完成させてからでもいい。
そう思って我慢してきたのだ。

今日の休みを使ってザナルカンドを完成させたい。
俺はピアノの先生のところへ行く事にした。

『くっきぃず』の扉を開け、元気よく入る。

先生は俺を見てニコニコしていた。

「先生、今日もザナルカンド、教えてもらえますか?」
「はいはい、いいですよ」

残り三分の一。
今日ですべて完成させてやる。

俺はその意気込みでピアノの前に座った。

「先生、とりあえず今まで習った部分を弾いてみていいですか?」
「どうぞ」

俺は目を閉じ、鍵盤の上に指を乗せた。

頭の中に春美の顔が思い浮かぶ。
何度も何度も繰り返し弾いたフレーズ。
心を清らかにして、魂を込め、鍵盤を叩き出す。

弾いた瞬間、感じた事。
キーボードと弾く感触が違い過ぎる部分。
以前そんな事は分かっていたはずだが、これほどまでこの違いに気が付くとは……。

「あれ、岩上君。あれから凄い練習したのね。この間と話にならないぐらい良くなっているわよ。音が前と違うもの」
「本当ですか?」

素直に嬉しかった。

俺は熱心にピアノを学んだ。
魂を込め、鍵盤を叩く。
未だ聴かせていない春美へ聴かせるよう丁寧に気持ちを込める。

セレナーデ……。

特定の音楽形式がある訳ではないが、愛する人に対し奏でる曲を差すとも言う。
ザナルカンド、これは俺が春美へ捧げるセレナーデである。

他の誰でもない。
春美だけが喜んでくれればいい。

目隠しをしても弾けるぐらい、俺は血の滲む努力をしてきた。
音符なんてまったく分からない。
だから必死に音を暗記するしかない。

不器用な形でしかピアノを弾けない俺。
それでも奏でる音で、少しでも春美を癒したかった。

ファイナルファンタジーを作ったスクエアーエニックスには笑われるかもしれない。
それでもいい。

俺は誰の前でもハッキリ言える。
この曲は俺が春美へ捧げる為に作られたのだと。

こうしてこの日四回目のレッスンで、俺はザナルンドを弾けるようになった……。

やっとやり遂げる事ができた。
何とも言えない達成感が全身を包む。

いや、まだだ。
春美へ完成したこの曲を聴かせていない。
彼女へ聴かせて初めてザナルカンドは完成するのだ。

行きつけのスイートキャデラックへ行く。
客がいなかったのでマスターにお願いしてピアノを弾かせてもらう。

マスターの彼女もいたのでデジタルカメラを渡し、撮影を頼む。

またもや途中でとちる。

春美には完璧な状態でのザナルカンドを聞かせたい。
まだまだ精進不足だ。

電話が鳴る。
元プロの従業員であるシャブ中の大川から。
あの時以来、彼からは毎日のように連絡があった。

ここ数日、仕事以外はピアノしか弾いていない。
集中する為に電話に出なかったが、こう毎日掛けられても面倒なので出てみる。

「あ、やっと繋がった。岩上さん、どうでしたか?」

おそらくシャブを使った効果を聞きたいのだろう。

「いや、全然使ってないよ」
「うっそだー」

「いや、本当に…。何も使っていないから返そうか?」
「えっ! 本当に返してくれるんですか?」

仕事へ行く前人通りの少ない場所を指定し、大川へ渡す。

「岩上さん、本当に使ってなかったんですねー。いいんですか?」
「いいも何も俺は最初から興味無いって言ってたでしょ」

こうして大量のシャブを返し、その後大川から連絡は一切無くなった。


ザナルカンドを完成させてから数日経つ。
相変わらず春美からの連絡は無いまま。
とうとう我慢できず、俺は久しぶりに春美の働くキャバクラへ向かった。

今日春美は、出勤しているだろうか?
入口で入るのを躊躇ってしまう。

ここで彼女に逢ったところでどうするんだ?
ピアノを…、ザナルカンドをどうやって聴かせる?

軽く深呼吸をした。

違う。
そんなんじゃない。

俺は純粋にただ春美に逢いたいのだ。
逢って顔を見たい。

少しでもいいから話をしたい。
それだけだった。

結果がどうであれここまで来たのだ。
行こう。

俺は精神を落ち着かせてから中へ入る。
ラップの音楽がうるさく鳴り響く店内。
ただの騒音にしか聞こえない。

黒服の従業員が近寄ってくる。

「あれ、岩上さん。お久しぶりじゃないですか」
「ああ、色々と忙しかったんだよ」

「本日のご指名は?」
「春…、いや、由美はいるかい?」

あぶなく本名を言うところだった。

「ええ、出勤されてますよ。ご指名でよろしいですか?」
「ああ、もちろん頼む」

良かった。
不本意であるが、これで春美と逢って話をする事ができる。

「それではご案内致します」

席まで案内をされながら、さりげなくホールを見渡す。
俺の視線は春美を探していた。

「……」

久しぶりに見た春美。
彼女は他の客と楽しそうに話をしている。
独占欲からなのか、俺は妙な苛立ちを覚えた。

黒服が何かを笑顔で話しかけてくるが、そんな事はどうでもよかった。
あの春美の笑顔は俺だけのものなんだ……。

席に座り、春美の横についた客を睨みつけた。

「どうも、いらっしゃい」

妙に明るい声が聞こえた。
振り向くと、知らないキャバ嬢が立っている。

「何だ? 悪いけど俺は指名してるぞ」

ぶっきらぼうに答える。
目の前の女には悪いが、ヤキモチからか冷静でいられなかくなっていた。

「そんな怖い顔しないで下さいよ。由美ちゃん今、指名入っているんで、私がその間ヘルプできただけですから」

いくら仕事とはいえ、俺が彼女に当たるのは筋違いである。
落ち着け……。

自分に言い聞かせた。

「悪かったよ。座れば?」
「はい、失礼します」

いい香水の匂いがほのかに香る。
昔だったら、この時点でこの女を口説いていただろう

「なんか格好いいですよね」
「そうでもないよ」

「何歳ですか?」
「それを言う前に、名前ぐらい名乗りなよ」

「明美です」

北海道倶知安時代のスナック『パピリオ』。
そこで出会ったゆかり…、彼女の源氏名も明美だった。

あの時から十一年も経つのか。

「岩上だ。三十歳。よろしく」
「へえ、もっと若く見えますよ。渋いですね」

「そんな事はどうでもいいから、酒を作ってくれ。ウイスキーをストレートでな」
「はい」

そう言いながら、明美はグラスに氷を入れだした。

「おいおい、ストレートだぞ。氷はいい」
「すいません」

明美の謝り方と、春美の謝り方を比較してしまう。
あいつなら「すみません」と言うだろう。

一瞬だけ春美の方向へ目を向けた。
相変わらず楽しそうに客と喋っている。
俺が店に入ってきた事すら気づいていない様子だ。

テーブルに置かれたグラス。
俺は手に取り、ウイスキーを胃袋に流し込む。

「ストレートなんて、強いんですね」
「酒が強いなんて、何の意味もないさ」

春美との初デートを思い出してしまう。
確かに俺は酔った。
でも一週間も連絡くれないぐらい酷い事を俺はしたのだろうか?
それならそれでちゃんと言ってほしいものだ。

視界に見える春美の姿を見ていると、イライラが募るばかりだった。
こんなところで笑顔を見せて他の客と話す余裕があるなら、何で俺にメール一つくれないんだ?

「岩上さんって、凄いモテるんじゃないですか?」
「そんな事はない。モテていたら、こんなところへ来ないよ」

何の為に必死に頑張り、俺はザナルカンドを今日完成させた?

春美へ聴かせる為だろうが……。

それが何故あいつは俺のところへ来ない?
あの一件で俺なんてもうどうでもいいと思っているのか?

俺はウイスキーをストレートのままガブ飲みした。

「凄いお酒つよ~い」

そう、俺はいくら飲んだって酔わないんだ。
この間が特別だっただけ……。

改めて明美の顔を眺めてみる。
春美とは違ったタイプの可愛さがある女だった。
誰が見てもいい女だというだろう。

遠くで春美が笑う姿が目に入る。
さらに苛立ちが募った。
いっその事、このまま明美を口説いちまうか……。

あれだけ春美に対して崇高な気持ちを抱いていたのに、それが一気にしぼんできたようだった。

このイライラを消したい。

酒を飲みながら明美の身体を眺めた。
胸は結構あるな……。

着痩せして見えるだけで、脱がしたら肉付きのいいムッチリとした身体をしているかもしれない。

「そんなジロジロ見ないで下さいよ。恥ずかしいなあ」
「いい女をジロジロ正々堂々と見て、何が悪いんだ?」

「やだ……」

恥じらいの表情を浮かべながら、明美は照れていた。
サディスティックな一面が顔を出す。
少しだけ気持ちが穏やかになる。

それでも春美は、俺の存在に気付く様子がない。

俺は出来る限り春美の席の方を向かず、目の前の明美の顔を見ていた。
あえてそうする事で、自分の感情を誤魔化しているだけ。

とにかく話した。
今働いているゲーム屋の事は隠し、ホテル時代のバーテンダーの話をさも今働いているように話す。
明美は感心したような表情で頷いている。
会話はどんどん弾んでいく。
過去と現在の違いはあるにせよ、嘘は言っていない。

「バーテンダーって格好いいですよね。憧れちゃうな」
「じゃあ、今度、俺がおまえに作ってやろうか?」

「えー、だって由美ちゃんに怒られちゃう」
「ケッ、指名しているのに、向こうの席ばっかり行ってる女なんてどうでもいいさ」

そんな事春美のせいでなく、店側の気の回し方が足りないだけというのは分かっていた。
無理に俺は強がっている。
それでも意地だってある。
いつまでもナヨナヨなんてしちゃいられない。

「お世辞でも嬉しいな」

明美もまんざらではなさそうだ。

「俺はお世辞なんか言わねえ。今日会ったばかりだけど、気に入ったからこんな台詞を吐いている。俺は自分に正直でありたい」
「えー、困っちゃうな……」

嘘だった。
春美へのジェラシーがすべての原因だった。
今の心理状況でいれば、明美でなく誰でも口説いていただろう。

「嘘じゃない。俺は嘘だけはつきたくない」

ジッと明美を見つめる。
よく俺の目は力があると言われる。
口説く時、俺は必ず目を相手の目をしっかり見据えて話すようにしていた。

「そんな目で見ないで…。恥ずかしいよ……」
「連絡先を教えてくれ。今度はプライベートで逢いたい」

すぐそばに春美がいるのにいいのか?
自問自答を繰り返す。

「えー、でも、由美ちゃんに悪い……」

チラッと春美の方向を盗み見た。
クソ、まだ他の男と楽しそうに話しやがって……。

「今はあいつより、おまえのほうが気になっている。前にここへ来た時、明美がついていたら、由美じゃなくおまえを指名していたよ」

嘘に嘘を重ねる。

「……」

明美は下をうつむいてモジモジしている。
顔は真っ赤だ。

「駄目か?」
「ちょっと、待ってて……」

何やらメモを取り出して、数字を書き込んでいる。
自分の電話番号とメールアドレスを書いているのだろう。

「明美。もしな、おまえが俺とデートしてくれたら、目の前でピアノを弾いてやる」

自分で言った台詞に罪悪感を覚える。
こんな軽い気持ちで俺はピアノを頑張ったのか?

そうじゃないだろう……。

「え、ピアノなんて弾けるの?」

セブンスターに火をつけながら、ひと呼吸置く。
ゆっくりと煙を吹き出しながら、さりげなく春美を見た。
俺がここにいるのを未だに気付いていないようだ。
妙にイライラが募る。

「ああ、三十を越えてから始めた下手くそなピアノだけど、おまえの為に弾いて捧げたい。まだ、誰にもピアノを捧げていないんだ。明美なら弾いてあげたい。迷惑か?」

半分ヤケクソで喋っていた。
すべてのベクトルは春美の為に向けて動いていたつもりなのに……。

「私…、こんな感じで口説かれたの初めて……」
「俺だって、ここまで一生懸命口説いているのは初めてだ」

真っ赤な顔の明美は、さらに顔を赤くした。

「嬉しいけど、恥ずかしい……」
「最初は俺ってツンケンしてただろ?」

「うん」
「誰にでも気安く口説いている訳じゃない。でもおまえと話していて、何故か気に入ってしまったんだ。多分本能が求めたんだと思う。俺はそれに正直に従ったまでだ」

「……」

もう一息、俺はさらに口説く文句を頭の中で整理した。

「すいませーん、明美さんお借りしまーす」

突然、黒服が声を掛けてくる。
いい雰囲気が一発で消し飛ぶ。
明美は電話番号を書いた紙を急いで俺に手渡すと、すぐに立ち上がる。

何故か気まずそうな顔つきだった。
彼女を見送ろうと横を振り向くと、いつの間にか春美が立っていた。

このラインより上のエリアが無料で表示されます。


春美の表情は真面目な顔つきだ。

「お待たせしました、由美さんでーす」

俺のテーブルの前に春美を残して黒服は去っていく。
気まずい雰囲気の中、お互い沈黙したままの状態。

まさかさっき明美が紙を手渡したのを見られたんじゃないだろうか……。

いや、俺がすべてをぶち壊しにしようと自棄になっただけなのだ。

この子の為にピアノを始め、ザナルカンドを完成させた。
単なるジェラシーがすべてを台無しにしてしまった。

「立ってないで、座ったらどう?」

少しぶっきらぼうに言う。

俺がキツい訳じゃない。
春美が冷たいだけなんだ。

俺は誰に何を言い訳している?
まだ二十歳なんだぞ?

十歳も年下の好きな女に向かって、どこまで俺は余裕がないんだ……。

「は、はい…。失礼します」

この間とは、打って変わった態度の春美。
まるで他人だ。

黙って俺の酒を作ろうとしていた。
あのデートからたった一週間で、何故こうなってしまうのだろう?

「お久しぶりです、岩上さん」
「ああ、久しぶり」

「怒ってるんですか?」

「何が?」
「前と感じが違います」

俺はここへ何をしにきたんだ?
春美へ怒りにきたのか?

それは違うだろう。
彼女が俺に対して、どういうつもりかを聞きに来たんだ。
言いたい事をちゃんと伝えよう。

「怒っている訳じゃない。いや…、多少は怒っているかもしれない。聞かせてくれないか? 春美とはいい感じで進んでいるって勝手に思っていた。俺の自惚れかもしれないけどね。初めてのデートの時、帰りになって何故あんなに態度が変わってしまったんだい? それにここ一週間、連絡一つない……」

春美は俺の台詞を聞きながら、黙ったまま。
他の客とは笑顔で話せるのに、俺が相手だと無視か。
嫌われたもんだよな……。

タバコをポケットに入れ、無言で立ち上がる。

「どうしたんですか、岩上さん」
「春美が俺と話すのが苦痛みたいだから、帰るよ」

「苦痛なんかじゃありません。何でそんな事を言うの?」
「君が何も答えてくれないのが、寂しい……」

「……」

先ほどまでジェラシーから目の前にいた明美を適当に口説き、自己満足していた俺。
春美が現れると明美など、どうでもよくなっている。
現金なものだ。

「迷惑じゃなかったら教えてほしい。何故、あの時に怒っていたのかを……」

春美はずっと下をうつむいていたが、やがて俺の目に視線を合わせ口を開いた。

「私、あの日はとても楽しかったんです。岩上さんっていい人だなって、ずっと思っていました。でも帰りのプリクラを撮った時、岩上さんは私に抱きつき、強引にキスしようとしたんです」

抱き締めたまでは覚えていたが……。

あとの行動は身に覚えがない。
言い方を代えれば、それだけベロベロに酔っていたのだろう。

「私が拒むと、汚いものでも見るような目で見たんです」
「え、俺が?」

「はい……」
「本当に俺が春美をそんな目で見たの?」

「え、ええ…。私、付き合ってもいない人と、そんな事できません」

二十歳を迎えたばかりの春美。
それまで紳士的だった三十の男がいきなりそうなったら、戸惑うのも無理はない。
頭をハンマーで殴られたようなショックを受けた。

「ごめん…。あの時、酔っ払ってしまい、本当に何も覚えていないんだ。でも、俺が酔ったとはいえ、春美に実際にそうしたんだよな。本当にすまない……」
「私もすぐにハッキリ伝えられれば良かったんですけど…。結構ショックだったんです」

「そっか、悪かった。俺、これからも春美と連絡をとってもいいのかい?」
「はい、ちゃんと話せて、スッキリできました」

満面の笑みで俺を見つめる春美の顔。
心に覆い被さっていたドス黒い暗雲のようなものが、一気に浄化された気がした。
暗闇の中に一筋の眩い光が差し込んだ感じである。

俺はこの笑顔が見たかったんだなあと、しみじみ思う。
やっぱり俺には春美が一番だ。

「岩上さん、ピアノはどうですか?」

彼女から返事が無い状態の時、俺はピアノを始めた事をメールで伝えている。
それでもまったく返信が無かったので、俺の行動などどうでもいいくらい嫌われたのかと思っていた。
それがちゃんと気に掛けてくれていたとは……。

「君に聴かせたかった曲。無事、完成したんだ」

目頭が熱くなるのを必死に堪え口を開く。

「本当ですか?」

嬉しそうに喜ぶ彼女の顔を見て、本当にピアノを始めて良かったと感じる。
あとはザナルカンドを春美に捧げるだけだ。

「ああ、君に聴かせたい。その為に俺は頑張ったんだ」

「……」

「いつでもいい。君に聴いてほしい……」

「はい……」
「ありがとう。それとこれ」

自分で描いた二枚の絵を渡した。

「また絵を描いてくれたんですか? 奇麗な海~。私、岩上さんの絵、凄い好きです。あれ、こっちって…。あ、私のイニシャルだ! この隅っこに座ってタバコ吸っている人影って、岩上さんじゃないんですか?」

「ん、いや…。想像に任せるよ」
「どう見てもこれ、岩上さんじゃないですか~。やだ、恥ずかしいなあ~」

いつもの空気に戻ったのを感じる。
今日ここに来られて良かった。

俺は笑顔で店をあとにした。


ようやく楽しい日常が戻ってきた。

春美とのメールのやり取り。
ほぼ毎日のように俺たちはメールを交換しあった。
内容は他愛ない事ばかりだったが、充分俺は満足している。

彼女と知り合ってから、早くも三ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。

お互いの予定が中々合わず、俺が店に行く以外、春美と逢う方法は限られていた。
彼女は昼間が大学で、夜はキャバクラ。
時間が合わないのも仕方がない。

人間は欲張りなもので、今の生活のリズムが合うと、もっと上の事を望もうとする。
俺の場合、春美との仲の進展が、ウエイトを大きく占めていた。
メールぐらいしかやり取りのできない関係に、もどかしさを感じている。

あれだけ可愛い春美だ。
大学で他の男が口説いてきてもおかしくはない。

最近その事が仕事をしていても、頭の中をよぎってしまう。

ヤキモチ……。

好きだからヤキモチを焼いてしまう。
自分にとって嫌な想像を勝手にして、ヤキモキしている。

焼いてしまうのはしょうがない。
しかしそれを春美に出すのは違う。
現在の彼女の状況もちゃんと理解してあげるべきなんだ。

徐々に愛を育んでいけばいい。
焦らずゆっくり時間を掛けて……。

十歳も年が離れているのだ。
俺が思いやりを持って接してやらなければいけない。

ピアノは毎日のように部屋でザナルカンドを弾いた。
いつ何時でも春美へ聴かせられるように……。

春美への純粋な自分の想いは、神聖なものとしていたかった。
だから他の女から誘いが来ても一切応じなかった。

仕事を真面目にして、家に帰るだけの単調な生活。
その品行方正さに内心イライラを感じている。

春美の店であの時知り合った明美からは、頻繁にメールがあった。
でも俺は、一度も返事すらしなかった。
春美とうまくやっていくには、他の女の存在は邪魔なだけ。

ほぼ毎日あった明美のメールは三日に一度、週に一度といった割合で減っていき、やがてメールは来なくなった。

以前よく遊んだ女たち。
彼女らも同様に連絡の回数が減り、今では誰からも連絡が無くなっていった。

あるのは一日の簡単な生活状況をまとめた春美からのメールだけ。
いつになったら、お互いの予定が合うのだろう?

ひょっとして俺は客としてしか見られていないのかも……。

日に日にジレンマが募っていく。

このままではいけない。
そんな危機感だけが大きくなり、春美との関係をあやふやな状態にしてはいけないと感じた。

仕事で新宿へ向う電車の中で、俺は春美へメールを打つ事にした。
もちろん、いつもの他愛もない内容のメールではない。
ある意味、ギャンブルともいえる行為であった。

『春美、突然だけど、俺の事をどう思っている? 俺は前にもはっきり言った通り、君が大好きだ。いつも君の事を考えている。いつだって君に逢いたい。君と一緒に時間を共有したい。君はどう思っているんだい? 教えてほしい。 岩上智一郎』

メールを打ち終わると、文章を何度も読み直す。
送信ボタンを押す指先が震えていた。

やっぱりまだやめておこう……。

自分本位の意見を言い過ぎている。
俺は打ったメールを保存するだけに留め、保管しておく事にした。


ピアノは毎日、日課のように弾いている。
これだけザナルカンドだけを弾いている人間などいないだろう。

今、この世の中で俺がザナルカンドだけは一番上手く弾けるんじゃないか。
そんな自信を持てるぐらい必死に繰り返し練習した。

でも、春美はザナルカンドを聴く時間すら作ってくれない……。

休みの日にブラリと春美の店へ寄ってみる。

彼女の顔が見たい。
そして癒されたかった。

店内に入ってビックリする。
店の女がすべてバドワイザーのピチピチの服を着ていた。
まるでレースクィーンが着るような服。

誰かの強い視線を感じる。
その視線は明美だった。
俺を睨むような視線で見ている。

無理もない。
あの時自分勝手に口説いておきながら、彼女からの連絡をすべて無視していたのだから……。

黒服の従業員が近付き、指名をどうするか聞いてくる。

春美は本日休みらしい。
こんな事なら事前にちゃんと彼女に聞いておけば良かった。

俺は同じ店で働く明美と何かがあったら困るので、いい機会だしキチンと話しておこうと考える。

「明美を指名でお願いできるかな」
「はい、かしこまりました」

席について、明美が来るのを待つ。
俺は勝手に自分で酒を作った。

「いらっしゃいませ。お久しぶりです」

グラスを片手に店内を眺めていると、明美が不機嫌そうな表情でテーブルに着く。

「久しぶり」

春美の為にも俺は、もっと身辺整理をしなくてはいけない。
堂々と彼女へ告白する為にも俺は自分に正直でいたかった。

「ちょっと、酷くない?」

明美はいきなり不満をぶつけてきた。

「悪かった」
「何で私がメール送っているに、何も返事がないの? 先に声を掛けてきたのって、岩上さんでしょ? 由美ちゃんが席についたら、急にニヤニヤしちゃってさ……」

「ごめん…。今日は謝りにきたんだ。俺が、君にした事は最低だ」

「……」
「言い訳にもならないかもしれない。俺は秋…、由美が好きなんだ。でも、聞いてほしい。あの時明美を口説いたのって、決していい加減な気持ちではないんだ」

「ふざけないで……」

目を吊り上げながら明美は怒っていた。

俺は黙って彼女の文句を聞く。
謝るしか方法はない。

キャバクラを出て、春美へメールを打つ。

『今日久しぶりに店に行ったけど春美は休みだったんだ? 逢えなくて残念だよ。 岩上智一郎』

ワンタイムで店を出たので、まだ時間は余っている。

このまま家へ帰るのも嫌だった。
たまにはスイートキャデラックにでも行ってみよう。

向かう途中、春美からメールが届く。

『あらら、言っておけばよかったですね。ごめんなさい。今日、実は出勤予定だったんですけど、恥ずかしい格好をしなくてはいけないという事だったので、お休みにしました。さすがにあの格好は仕事とはいえ、できません……。 品川春美』

それなら時間が空いているんじゃないのか?
俺は急いで返信をした。。

『うん、春美の言う通りだ。春美があんな格好していたら嫌だなって思うよ。でも俺だけこっそりと見てみたかったりして…。今日急遽休んだのなら、今時間あるのかな? 岩上智一郎』

見てみたかったのは余計かなと感じたが、俺の正直な男としての気持ちでもある。
送信ボタンを押してから店へ入った。

静かに鳴り響くノンヴォーカルのジャズ。
ドアを開けた瞬間に聴こえてくるこの風景が大好きだった。

キャバクラとは違った意味での薄暗い、静かで落ち着いた店内。
酒を飲むならこうのような場所が、俺にはピッタリだ。

マスターは挨拶しながら、グレンリベットをカウンターの上に置く。
ショットグラスに酒を注ぎ、一気に飲み干した。

愛しのグレンリベット……。

コイツが俺には一番お似合いだ。

同じカウンター席には、常連の水野という客が座っていた。
水野は五十後半を迎えたぐらいのサラリーマン。
初めて出会ったのは家の隣りのトンカツひろむ。

俺とは不思議と話が合うようで、いつも姿を見ると隣に来いと手を振ってくる。

「こんばんは、お久しぶりです」
「おう、どうも。元気そうだねー」

「ええ、おかげさまでして……」

水野は銀縁のメガネを動かしながら、卑しそうな笑顔で喜んでいる。
彼に好かれているのは自覚していたが、本能的に俺は拒絶をしていた。

「マスターに聞いたよ。ピアノを始めたんだって?」
「ええ、恥ずかしながらそうなんですよ」

「何の曲をやってんの?」
「うーん、それでしたら披露しましょうか?」
「いいねー、頼むよ」

俺はマスターに店内の音楽を止めるようにお願いし、静かにピアノのほうへ向かって歩いていった

少し古ぼけた黒のピアノ。
椅子を引いて腰掛ける。

静かに鍵盤の上に指を置き、軽く叩いてみた。

うん、『くっきぃず』の先生のところのグランドピアノとは違うが、やはり弦楽器はいい。

キーボードの電子音とは違う。
目を閉じて軽く深呼吸をする。

ゆっくりと息を吸い込み、大きく吐き出す。

俺はザナルカンドを弾きだした。
自分の指の奏でる音が耳に優しく聴こえてくる。
この感じだ。

この場にいない春美へ捧げるような気持ちで、一つ一つの鍵盤を大事に丁寧に押した。

おまえがこんなに好きなんだぞ。
この音色、春美に聴こえるよう届いてくれ。
俺の想いや情熱を乗せて……。

たくさんの想いを指先に込めて、一生懸命弾いた。

曲をひと通り弾き終わると、さり気なくアレンジして演奏を続けた。

頭の中に春美の寂しげな顔が浮かぶ。
ゆっくり目を閉じたまま演奏を続ける。

俺が奏でる音で、彼女を癒してやりたかった。


闇 18(決裂編)

2024/08/11 sun
2025/07/13 sun
前回の章


今、この曲を春美に聴かせていると思え。
焦らず、しっかりと鍵盤を押さえる指を目で確認し、奏でた音をに対し耳を澄ませ。
和音の内、一つだけ音を外す。

気にするな。
演奏で大切なのはとちっても途中で止めず、弾き続ける事。

何とか無事弾き終わる。

演奏が終わり、席に戻る。
たった二名だけの小さな演奏会。

マスターと水野は、俺を見て驚きつつも小気味いい拍手を送ってくれた

「凄いじゃないですか。いつの間にそんな……」

興奮しながら驚くマスター。

「いや~、いい曲だ。素晴らしい……」

水野も絶賛の嵐だった。

以前、この人に俺は署名運動の頼みを聞いた事があった。
詳しくは分からなかったが、知り合いの音楽家が大麻所持で逮捕された件についてだった。

「岩上君ね、彼は私のかけがえのない友人で、絶大な音楽家でもあるんだ。そんな彼が誤解で捕まってしまった。だから署名運動に協力してほしい」

当時、水野は必死な形相で俺に頼み込んできた。
大麻所持で捕まっているのに、誤解も何もないだろうとは思う。
しかし水野の顔を俺は立ててあげたかった。
だから新宿の店に署名運動の紙を持っていき、五十名の名前を集めてあげた事があった。

自分では楽器を弾かないが、音楽全般に詳しい水野。
そんな人に絶賛されて、素直に嬉しく思う。

「岩上さん、随分と頑張ったんですね。音を聴いていれば分かりますよ」
マスターがグラスを磨きながら、真面目な顔で口を開く。
「ありがとうございます」

「ほんと、たいしたもんですよ」
「そんなに褒めないで下さいよ。照れます……」

ピアノを始めて良かった。

「まだ曲は一曲だけなの?」

水野が聞いてくる。

「ええ、俺はやり始めたばかりなので、まだこれだけなんですよ」

まだ一曲なんて簡単に言うが、楽譜を読めない俺にとってザナルカンドを弾くのにどれだけ苦労したか分かっていないのだろう。
楽譜にカタカナを振ってもらい、それをひたすら弾いて暗記する。
俺にはその方法しか術はない。

「何て曲なの? さっきのは……」
「ザナルカンドです」

自信を持って答えた。

「何だろう。聴いた事がないなあ~」
「そうですか。プレステーション二のゲームで、ファイナルファンタジーⅩってゲームがあるんですよ。それのオープニングテーマとして使われている曲です。CMとしてテレビでも何度か流れていますよ。ゲームしていたら、すっかりハマってしまいましてね」

俺の台詞に、水野は何故か気難しい表情に変わっていた。

「何、ゲームの音楽だって?」
「ええ、そうです」

「駄目駄目…。ゲームなんかの音楽じゃ駄目だよ」

急変した水野の態度。
さすがにカチンときた。

「お言葉ですが、ザナルカンドの何が駄目なんですか?」
「だってゲームでしょ。たかがゲームの音楽に過ぎない」

ザナルカンドは俺の魂そのもの。
春美への想いだ。

「さっき素晴らしいって言ったのは誰ですか?」
「ゲームの曲だなんて知らなかったからね。音楽というものは、歴史ありきでもっと神聖なものなんだよ」

何が神聖なものだ。
それなら何でもいいから楽器の一つでも弾いてみやがれ……。

「俺がどんな思いでピアノをやったかなんて、水野さんには分からないでしょうね」
「いや、そのぐらい分かるさ。ただ選ぶ曲のセンスが悪い。私に言ってくれれば、ちゃんとアドバイスぐらいしたのにさ。よりによってゲームに使う曲を選ぶなんて……」

俺の崇高な想いの中に、土足で踏み込んでくる水野。

「ふざけんなっ!」

一気に火がついてしまった。

「さっき自分でこの曲いいねとか、抜かしたじゃねえかよ。それを俺がゲームの曲だって言っただけで、態度を急変…。悪いけどあんたみたいな人は、二度と音楽を語らないほうがいい。自分じゃ何もしないくせに、演奏者については偉そうに批評か? そんなのな…。誰にだってできるんだよ」

怒りだした俺をマスターがなだめる。

水野が許せなかった。
俺のピアノは確かに未熟かもしれない。
しかし一生懸命頑張ってきたんだ。

水野は何も言い返せず、ポカンと口を開けている。

一気に酒が不味くなった。
こんな下種野郎に曲を聴かせた自分が間違っていたのだ。
俺は会計をして、スイートキャデラックをあとにする。

もの凄く気分が悪い。
春美に癒してほしかった。


朝起きると、春美からのメールが届いていた。

『私があの服を着た姿が見たいなんて、そんな表現の仕方…。好きじゃありません。 品川春美』

短いメールだった。
しかしこの短い文面ながら、俺は彼女のスタンスが少し分かったような気がする。

二人の仲が進展しない理由。
まだ春美がガキ過ぎるのだ。

好きな相手なら抱きたい。
裸をみたいという感情は誰でも当たり前だと思う。

俺の彼女へ対する想い。
ただおまえを抱きたいといっている訳ではない。
春美のすべてを包み込みたいだけなのに……。

それに店を休んだ事で時間が空いているなら逢いたいという意味合いで書いた事には、何も触れてくれない。
もどかしさを覚えつつも、謝罪の文面を書く。

『気に障ったら、ごめん。悪かった。でも悪気があって言ったんじゃないって事を分かってほしい。女のエッチな服装がただ見たいというのではなく、春美だから見たいと素直に言っただけなんだ。下心とは違う、素直な俺の気持ちです 岩上智一郎』

返事をするのを一瞬、躊躇う。
何度か文面を読み直してから、送信ボタンを押した。
俺のスタンスを少しでもいいから理解してほしい。

結局この日、彼女からの連絡はなかった。

何日か経ち春美からメールは来るものの、内容は普通の日常話のみ。
このままでは駄目だ。
焦りを感じた。


再び休みの日に、春美の店へ行く事にする。

俺はまだ彼女に、ザナルカンドを捧げていない。
近い内に、プライベートで逢わないといけない。
そんな危機感もあった。

席に着いた彼女は、相変わらず綺麗で可愛かった。
顔を見ただけで幸せな気分になる。
またそんな春美がこんなキャバクラで働くという現実に苦しさを感じていた。

「岩上さん、少し疲れているんじゃないですか?」

相変わらず春美は優しい。
そんな言葉一つで、俺は癒される。

「そう? 顔に疲れ出てた? でも春美の顔を見たら癒されたよ」
「もう、相変わらず口が上手いですね」

「そんなんじゃないって、必死だよ。まだ君にピアノを聴かせていないし、やってない事がたくさんある。まだ、君を抱いてもいないし……」

俺の台詞に春美は表情を曇らせた。

「そんな言い方は、好きじゃありません」

また春美の機嫌を損ねてしまったようだ。
ここが正念場である。
俺は覚悟を決めた。

「仕方ない。俺は春美が好きなんだから……」

「……」
「好きだから君を抱きたいっていうのは当たり前だ。もちろん心も一緒にね。知り合えて嬉しいけど、店でしか逢えないもどかしさも正直感じている。春美も俺も忙しい。やらなければいけない事があるのも分かっている。でも、俺は現状を思うと少し寂しい。だから焦っているのかもしれない。好きだから、焦るのは仕方がないんだ」

「……」

春美は無言で黙っていた。
俺は構わず話す。

「君が好きだ。何度だって言う。だからピアノだって始めた。一つの曲を完成させた。それもすべて君に捧げたかったなんだ。迷惑かい、俺の気持ち……」

「迷惑なんかじゃありません。もちろん嬉しいです。こんな私の為に岩上さんが頑張ってくれるなんて……」
「ありがとう」

「お礼を言うのは私のほうです。いつも色々してもらって……」

俺の待ち望んでいたムード。
彼女をとことん理解したかった。

頭の中ではザナルカンドが鳴り響いている。

「まだまだ…。君に色々するのは、まだこれからだよ。カクテルだって作ってあげていない。デートだって一度しかしていない。しかも最期は俺の格好悪いところを見せてしまっている。名誉挽回もしたい」

「やだ…。まだ、気にしていたんですか?」
「それだけ、真剣なんだ……」

春美は頬を赤らめた。
黙って下をうつむいている。

「すいませーん、お客さま、そろそろ延長のお時間となりますが……」

従業員が、俺たちの甘いの桃色の空間に土足で上がり込んできた。
俺はジロリと睨みつける。
いいところを邪魔しやがって。
黙って財布から一万円札を取り、テーブルの上に放った。
金を受け取り、その場からいなくなる従業員。

「駄目ですよ。お金を投げるなんて……」

春美が怒った表情で俺に言ってきた。
そういえば前も同じ事で注意されたっけ。

優しいだけでなく、こういうしっかりした一面もあるんだ。
注意された事すら心地良く感じる。

「ごめんよ。以後、気をつけるよ」
「ええ、そのほうがいいですよ。粗末に扱わないほうがいいです」

俺が謝ると、春美はにっこり天使の微笑みをプレゼントしてくれた。

「でも、岩上さんって凄いですよね」

「何が?」
「バーテンダーってだけでも凄いのに、ピアノにまで弾けるようになっちゃうなんて…。私は何もできませんから」

罪悪感を覚えた。
そう、俺は春美に対し、バーテンダーだと一つだけ嘘をついている。

今、裏稼業ゲーム屋の仕事をしているなど、口が裂けても言えやしない……。

「酒の事に関しては、俺はとても大事な事として、とらえているからさ。ピアノに関しては前にも言ったろ。春美…、君と出逢えたからこそ、俺はピアノを聴かせたいと思ったってね。他の連中など、どうでもいい。君さえ聴いてくれればいいんだ」
「私のどこが、そんなにいいんですか? 私には分かりません……」

「どこがって全部さ。顔立ちも、性格も髪型も、目も鼻も唇も耳も、目の下のホクロもすべてが気に入っている。何よりも君の存在そのものが好きだ。君の声は俺を優しく癒してくれる。反対に君がその気になれば、俺を簡単に傷つける事もできる。どんなものにも代えられない世界でただ一人の大切な人なんだ」

「……」
「どうしたの?」

「恥ずかしいです…。そんな事、言われたら……」
「そっか。でも、どんどん恥ずかしがってほしい。俺はそんな君の表情も大好きだよ」

「もう…。話題変えましょう……」

プチトマトのように真っ赤な顔をした春美。
ここが店なのかじゃなければ、抱き締めたいぐらいだった。

「少し私の兄に似てるんです。岩上さんって……」
「顔?」

「いえ、考え方というか…、持っている雰囲気というんですかね…。上手く言えないですけど」
「どうだろう。でも、俺はね。春美がここで働いているのを知りながら、怒るだけの兄って違うと思う。自分は就職だって決まってないのに、春美を責める兄貴は馬鹿野郎だ。あと、俺に好きだとちゃんと言ってくれない春美も馬鹿野郎だ」

どさくさに紛れて我ながら、とんでもない事を言ったものである。

「そうですね…。でも、ここじゃ、言いたくありません」
「ありごとう。それだけで俺は満足だよ」

キャバクラとは本来、客と女の騙し合いの場所である。
男は女とセックスしたいが為に金を使う。
女は男から上手い具合に心を切り売りして金を貢がせる。

ただ例外だってあるだろう。
俺はその例外の一つになりたかった。

こんな場所だって、ちゃんとした恋愛ができる。
俺は春美と出逢ってそう感じた。
いや、そう思いたいというほうが適切か。

いい雰囲気のまま、俺は店をあとにした。


仕事へ向かう途中、春美へメールを入れた。

今日の内容は一味違う。
この間春美との話し合いで、俺はある確信があった。

そろそろちゃんと付き合ってもいいだろう。
そんな想いが日に日に強くなっている。
春美は俺に好印象を抱いてくれている。
それについて自信があった。

だからいい意味でメールを送ろう。
何度も俺の気持ちは伝えたつもりだ。

『これから仕事だよ。今日は雨が降って嫌だね~。春美と相々傘をしながらなら、きっと楽しいんだろうね。春美、突然だけど、俺と付き合ってほしい。好きだというのは言った。ただ、君とどうしたいかをちゃんと言ってなかった。俺と正式に付き合ってほしい。君は俺の宝物だ。それでは仕事へいってきます 岩上智一郎』

送信ボタンを押すと、心臓がドキドキした。
焦りはあったが、タイミング的にちょうどいいと思う。

久しぶりに電車から見える外の景色に、目を向ける事ができた。
いつも見慣れているはずの景色が新鮮に映る。
この駅と駅の間には、こんな田舎っぽい部分もあったのかと、改めて感じた。

新宿に着いても、春美からの返事はまだ来ない。
いつもならさほど気にならない事が、今日はピリピリしている。
心に余裕がないのだ。

まだメール送って一時間も経ってないだろ?
落ち着けよ。
自分へ言い聞かせるも、仕事中ずっとソワソワしていた。


いつもの事だが、ワールドワンは今日も忙しい。
中々一服に行けるタイミングすら取れなかった。

従業員たちの食事休憩を回し、その間ホールを駆けずり回りながら、キャッシャー業務もこなす。
最後に休憩へ行かせた山下が戻ってくる。

「ちょっとだけタバコ吸ってきていい?」
「ゆっくり行ってきて下さいよ」

奥の休憩室へ向かう。
俺は早速メールが来ていないかチェックしてみた。

「……!」

春美から待望のメールが届いている。
思わず心が躍った。

疲れきっていた精神がシャキンと回復する。
男って本当に単純な生き物だ。
悲しいぐらいに……。

『岩上さん、メールありがとうございます。岩上さんの気持ち、とても嬉しいしく思います。でも今の私は学業、アルバイトとプライベートの時間も少なく、ある自分の目標というか目的もあります。まだ、それについては実現していないし、まだ目標の段階なので詳しくは言えません。私の現状が忙しくいっぱいいっぱいなのです。もう少し考えさせて下さい。時間を下さい。お願いします。私のわがままかもしれませんが、本当に余裕がないのです。 品川春美』

春美にしては長いメールだった。
俺は何度も何度も読み返す。
彼女の気持ちがよく理解できないでいた。

忙しいのは分かる。
俺だってそれは同じだ。
だからこそお互いを支え合っていきたい。
何故そう言ってくれないのだ?

ある目的……。

確か初デートの時も言っていたが、何も言わないんじゃ俺には分かるはずがない。
知り合って三ヶ月以上は経っている。
俺はピアノをまだおまえに捧げてないんだぞ。

俺の何が不満なんだ?
神経がピリピリ苛立っていた。

仕事を終え、ずっと帰りながらも春美の事を考える。
とりあえず寝て一旦落ち着こう。

しかし起きて風呂に入っても、イライラ感はまるで無くならない。
出勤時間よりも早く家を出て、近くの焼鳥屋へ入る。
俺はウイスキーのストレートとチェイサー代わりにレモンハイを注文した。

飲む事で落ち着かせたかった俺は何杯もお代わりをして、胃袋へ不味い酒を流し込む。

「お兄さん、酒強いんだね~」

捻りハチマキを頭に巻いた店のオヤジが声を掛けてくるが、無視をする。
今の俺はそれどころじゃない。

春美からのメールを何度も読み返したあと、メールを打ち込んだ。

『春美、心して返事してほしい。イエスかノー。俺が聞きたいのはどっちかなんだ。それぐらい真剣に聞いている。お茶を濁したような言い方はしないでほしい。俺は君の本心が聞きたいんだ。 岩上智一郎』

もう一度ウイスキーを一気飲みしてから俺は、メールを返信した。

目の前へある焼鳥をがっつきながら食べる。
すると春美からの返事が届いた。

『ごめんなさい。岩上さんが私の気持ちを理解せず、そのような事を言うのなら、私たちもう逢わないほうがいいみたいですね。何かガッカリしました。 品川春美』

携帯を持つ手が震える。

何だ、このメールは……。

何故、こうなるんだ?
俺が悪いのか?

違うだろう。
春美は何故こんな事を言ってくるのだろう。
この間までうまくやってきたじゃないか。

それとも他のキャバ嬢みたいにいい加減な子だったのか。
俺を都合のいい客として、心の中でせせら笑っていたのか。

頭の中で色々考えたが、ネガティブな発想しか浮かばない。

「何だい、お兄さん。顔が青褪めてるぞ。ちょっと飲み過ぎじゃないのかい?」

店のオヤジがまた声を掛けてくる

「うるせえ! 少しは黙ってろよ」

「……」

シーンとなる店内。
回りの客は一斉に俺を見ている。

「すみません、少し苛立ってました……」

別にこのオヤジが悪い訳じゃないのに俺はどうかしている。
こういう時こそ落ち着かなきゃ駄目だと自分に言い利かせた。

会計を済ませ、外に出る。

先ほど届いた春美からのメールを何度も読み返した。
もう終わりだと言うのか?
何故だ……。

すっかり熱くなった頭が感情を暴走させる。
俺は返信メールを打ち出した。

『分かったよ。とても残念だ…。春美の本音がよく分かったよ。俺にもっと真剣に向き合ってくれてると思ったよ。俺の単なる自惚れだったみたいだね。まあ、君の本音が聞けて良かったよ。だったらもっと早く言ってくれよ。無駄な時間、使わなくても良かったのに……。 岩上智一郎』

あえて酷い内容を書いた。
頭の中を血が激流のようにグルグルと回っている。
ヤケクソだった。

こいつもしょせん、他のキャバ嬢と同じだったなんだ……。

ふざけやがって……。

言いようのない怒りが全身を覆う。
打ったメールを送ろうとした。
でも、送信ボタンを押せないでいる。

これを送れば、春美との仲は終わる……。

それだけは分かっていた。
何度も深呼吸をする。
落ち着きたかった。
自分でも混乱しているのが分かる。

帰りの電車に乗っても、自分の打ったメールを何度も読み直した。

男として俺は生きてきたつもり。
自分の言いたい事を相手に伝えれば、別れに直結してしまうかもしれない。
逆に言えば、これだけ真剣なんだと分かってほしい気持ちもあった。

春美なら俺のこのメールの本意が分かってくれるんじゃないか。
目を閉じ満身の想いを込めて、俺は送信ボタンを押した。


家に到着しても、まだ春美から返事は来ない。

「勝手にするがいいさ……」

俺はキーボードの電源をつけ、ザナルカンドを弾き出す。

荒んだ心を音色は優しく癒してくれる。
演奏をやめ、考えてみた。

今、俺は何の為にピアノを弾いている?
誰の為に始めたんだ?
自然とザナルカンドを弾いていたが、自分を癒す為だけにこの曲を必死にマスターしたのか?

いくら自問自答を繰り返しても、答えは出なかった。
もう何も考えたくない……。

再び俺は、ザナルカンドを弾き始めた。

目の前が滲む。
いつの間にか俺は泣いていた。
視界が曇る中、指の感覚だけでピアノを弾いている。

こんなに努力してまで弾けるようにしたんだぞ、俺は……。

あれだけ好きだった春美。
すぐに倒れそうな積み木を集中して一つ一つ丁重に積み上げる。
そんな感じで春美には接してきたつもりだ。

ちょんと押しただけで簡単に積み木は崩れてしまう。
俺は焦るあまり、信頼という積み木を自分で崩してしまったのかもしれない。

このラインより上のエリアが無料で表示されます。

「まだおまえにザナルカンドを捧げてないんだぞ!」

思い切り叫んでみた。

「春美、おまえに聴かせたいからこんなに頑張ったんだぞ!」

俺は一心不乱に鍵盤を叩き出す。
目を閉じたって弾ける。
それぐらい練習した。
視界が涙で曇っても、俺には関係がない。
この曲だけは、精魂込めて弾ける。

こんな時、電子音は悲しい。
これだけ感情を込めているのに鳴る音は同じ。
いつもと変わらない。

自分の感情がストレートに出る弦楽器のピアノで弾きたかった。
携帯を手に取り、春美にメールを打ち出した。

『何故返事一つくれない? そんないい加減な気持ちで俺に接していたのかよ? 岩上智一郎』

送ろうとして思い留まる。

やめておこう。
これ以上、俺の怒りの感情をメールで送っても虚しさを感じるだけ。
俺に対し、春美は完全に心を閉ざしてしまったのだ。
永久にザナルカンドを聴かせる日など来ない……。

仕事明けで疲れているはずなのに、中々眠れないでいた。

『くっきぃず』に行ってみようか……。

先生にグランドピアノを弾かせてもらおう。
一人で考えていると、頭がおかしくなりそうだった。


朝の九時過ぎだというのに、先生は嫌な顔一つせず、グランドピアノを弾かせてくれた。

俺は目を閉じて、一つ一つの鍵盤を丁寧に叩く。
自分の感情の乗った綺麗で寂しい音が、耳に流れ込んでくる。
耳を澄ませながら、心を込めて弾く。

「随分と頑張ったのね……」

真面目な顔で先生は話し掛けてくる。
俺は一瞬だけ微笑んで、左右逆にして弾く。
曲が弾き終わるまで室内は、俺のせつなさを乗せた音だけが飛び回っていた。

グランドピアノは残酷である。
弾いた演奏者の心を丸裸にしてしまう。
泣きそうになるのをグッと堪え、最後までザナルカンドを弾いた。

パチパチパチ……。

演奏が終わった途端、先生が拍手をしてくれる。

「驚いたわ。そんな弾き方までできるなんて……」
「俺…、これしか弾けないですから……。でもこの曲だけは、世界で一番俺が上手く弾きたかったんです……。もうどうでもいいんですけどね……」

「岩上君、ちょっと私に弾かせてくれるかな?」

「はい……」

俺は椅子から立ち上がり、先生の演奏を後ろから眺める事にした。

指が魔法を唱えるように動き出す。
俺には絶対に真似できない動きだった。

先生の奏でるメロディは力強く、そして元気を与えるような曲だった。
初めは細かく小刻みに。
テンポも凄まじい速さだった。
指があっちこっちに飛び乱れ、激しい曲を形成していく。

その姿を見て素直に感動した。
先生って本当に凄いんだ……。

どこか引っ掛かるような感じの音が、俺の沈んだ気持ちを徐々に奪っていく。
削られた部分に暖かい血液が注ぎ込まれ、暗雲漂う魔界のようだった心に光が差し込んでくる。
あれだけ激しかった指先がピタリと止まり、先生は静かに口を開いた。

「ショパンの英雄ポロネーズって曲よ」

「へえ……」

もっと他の曲も聴いてみたい。
素直にそう思った。
俺もまだピアノを続けていきたい。

「岩上君、もう一曲だけ、先生が弾いてもいいかしら?」
「え、はい。お願いします」

俺の心を読み取ったのか、先生は優しく微笑み、視線をピアノに向ける。

耳を澄まさないと聴こえないぐらいの小さい音。
丁寧に細かく奏で、リズミカルにだんだんと音がはっきり聴こえてくる。
白と黒だけの鍵盤で、指を縦横無尽に走らせる先生。
俺なんかとは、レベルが違い過ぎる……。

似たようなメロディをこれでもかというぐらい繰り返し、曲は一気に爆発した。
俺の体に電撃が走る。
音に俺は圧倒されていた。

一つ気付いた事がある。

先生はピアノを弾いている時が、本当に一番楽しそうだった。
まさにこの人にとって、ピアノの仕事って天職なんだ。
これじゃ亡くなる寸前、ピアノで棺桶を作ってちょうだいとか言い出しそうだ。

「格好いい曲ですね」
「でしょ?」

先生は少女のように、はしゃいで喜んでいる。

「迫力があって、曲の強弱も……」

「元気出た?」
「はいっ!」

「ドビュッシーの舞曲、スティリー風のタランティアって曲」

非常に綺麗で鮮やかさを感じさせ、尚且つ力強い曲だった。

「先生って、ピアノ弾いている時、本当に楽しそうですよね」
「うん、だって本当に楽しいもん」

嬉しくて仕方がないといった表情の先生。
まるで無邪気な子供のようだ。

「先生って、得意なジャンルは何になるんですか?」
「私はもちろんクラシックよ」

それなのにザナルカンドも受け入れ、俺をここまで弾けるように仕上げてくれたのか。
感謝しても仕切れない。

傷ついた俺の心を癒したのはザナルカンドではなく、先生の力強いクラシックだった。

ザナルカンドは、せつなさや悲しみを感じさせる曲。
今の俺を元気づける事は難しい。

一曲でいい。
クラシックの曲を弾けるようになりたかった。


先生にお礼を述べてから『くっきぃず』を出ると、家に戻りゆっくり寝た。

起きてキーボードの電源を入れ、ザナルカンドを何回も弾く。
これ一曲しか弾けないんじゃなあ……。

ジャズバースイートキャデラックへ向かう。

前回の水野との揉め事。
気になったが、あの程度の事でここへ来られなくなるのは嫌だった。

中へ入ると、カウンターに一人の女性客が座っているのが見える。
マスターに俺は申し訳なさそうに会釈をして、カウンター席に腰掛けた。

「いらっしゃいませ」

マスターは先日の水野との一件に何も触れず、黙ったままグレンリベットを静かに置く。

「先日はすみませんでした……」
「いえいえ、あれはしょうがないですよ」

軽く微笑みながら酒をグラスに注ごうとするマスター。

「あ、マスターごめんなさい。アイスコーヒーももらえますか」

ここのマスターのアイスコーヒーは絶品だった。

「アイスコーヒーなんですが、まだ豆を選別しているところなので時間掛かりますよ?」
「じゃあ、とりあえずトニックウォーターもらえます」
「すみませんね、岩上さん」

口当たりもよく、軽い甘味を感じさせるトニックも好きだった。

これを使った有名なカクテルは、ジントニック。
ジンを四十五ミリグラム入れ、トニックウォーターを適量注ぎ、カットしたライムを添える。
非常にシンプルなカクテルだが、人気は高い。

マスターはコーヒー豆を一粒一粒丹念に見分け、大きなザルヘ選別している。
いくらコーヒー通だと言っても、俺から見れば異常である。
しかしその異常なまでのこだわりが、うまいコーヒーを作り出す秘訣なのかもしれない。

俺はバーテンダー時代、一杯のカクテルを作るのに、どうしたらより美味しく作れるのか最善を尽くした。
その情熱…、マスターにとってのコーヒーが、俺のあの当時のカクテルと同じなのだろう。
いや同じどころかマスターは今も尚こだわって行動している。

俺のはただ過去を懐かしがっているだけだ……。

二十分ほどして、マスターは豆の選別を終える。
次は選別した豆を炒める作業だ。
この時、店内いっぱいに漂う優雅なコーヒーの香りが溜まらなく好きだった。

ポケットに入れていた携帯のバイブが振動しだした。
電話かな?
携帯を取り出し見てみると、春美からのメールだった。
俺の心臓はドキッと大きな音を鳴らしていた。

『随分と自分勝手な人だったのですね。こんな人だったのかってガッカリしました。私、本当にいっぱいいっぱいで余裕がないんです。今の現状が…。でも岩上さんとの時間作りたかったから20歳最後の前日、時間を作りました。付き合ってくれって言われ、一人でずっと真剣に悩んでいたのが、何だか馬鹿みたいですね。自分中心な意見、どうもありがとうございました。もうメールしないで下さい。 品川春美』

「……」

時間がすべて止まったような感じがした。
何だ、この感覚は……。

目の前の景色がグニャリとボヤける。

自分であんな酷い内容のメールを送り、割り切ったつもりでいた。

それでも春美からのメールは深く心に突き刺さった。
まるで鋭利な刃物でズブッと突き刺されたようだ。

鍵盤の流れる夥しい鮮血に染まったような感覚。
一人でずっと真剣に悩んでいた?
何故それを早く言ってくれないんだ……。

何度も春美のメールを読み返してみた。
こんな気持ちを持っていてくれたなんて……。

勝手に焦り、自分で墓穴を掘ったのか、俺は?
呼吸が荒くなる。

落ち着け……。
冷静になれ……。

気が動転している。
おかしい。
どうかしている。

春美が俺との事を真剣に考えていてくれた?
嘘だろ……。

何で今更こんな事、書くんだよ。

「マスターすみません。すぐに戻りますから……」

俺は慌てて店の外に出て、電話を掛ける。
何度コールを鳴らしても、当然春美は出ない。

悪戯に彼女を傷つけたのか?
また電話をする。
二十回コールを流しても出てくれない。

諦めてスイートキャデラックに戻った。

これで完全に終ったのか?
そんなのは嫌だ。
席に着き、メールを打ち始めた。
俺は土壇場になると女々しい……。

『本当にごめんなさい。どうかしてた。とても反省してる。君の気持ちを考えていなかった。春美に逢いたいよ。今すぐにでも……。 岩上智一郎』

メールを送る。
自分の馬鹿さ加減にうんざりした。

頭を抱え込み、カウンターに突っ伏すと「ねえ、あなた、ピアノを弾くの?」と横の女性が声を掛けてくる。
俺のいない間、マスターに何か聞いていたのだろうか?

「え? 弾くってそんな大層なレベルでもないですよ」
「ぜひ聴いてみたいわ。あなたのピアノ」

人が塞ぎ込んでいるというのに、この女性はどういうつもりだ?

「こちらのお客さん、ピアニストなんですよ。色々な場所で語り弾きをしているんです。今日はプライベートでいらしてますけど」

マスターが、間に入り説明してきた。
プロのピアニストか……。

本来、春美に捧げるはずだったザナルカンド。
もう俺にとって意味のないものになってしまった。

このままじゃやるせない。
このまま一人で考え込むぐらいなら、プロに演奏を聴いてもらうのも悪くないか。

「分かりました。俺、弾いてみます」

席を離れる前に、トニックウォーターを一口飲む。
ジュワッとした炭酸が、喉を刺激する。

店内の音楽がふとやんだ。
俺は席を立ち、ピアノの方向へ歩き出した。


ここのピアノを弾くのは何度目だろう。

今の心境に、ザナルカンドはしっくりくる。
何も考えず、今の気持ちを指先に込めて弾けばいい。

ジャズバーに似合わない音楽がこだまする。

春美……。

こんなにも俺は、おまえを想っているんだぞ。
このピアノの音色、春美に届け……。

聴こえているかい?
俺のザナルカンド……。

清らかな夜空を通って、春美にプレゼントしてくれ。
そして彼女を癒してほしい。

威風堂々、力強く。
この想い、天まで届け……。

いつものせつないメロディが、心なしか力強く聴こえた。

俺だけのザナルカンド。
この想いを鳴り響かせろ。

演奏が終わると拍手が起きた。

俺は立ち上がり、頭を下げる。
たった二人の拍手が今の俺に、優しく染み渡る。

「綺麗な曲を弾くのね。聴いた事ないだけど」
「ゲームの曲なんです。オープニングの……」

以前、水野がゲームの曲だと知った瞬間の豹変ぶりを思い出しながら、あえて言ってみた。

「いいじゃない。へえ…、ゲームの曲なんだ? 本当に素晴らしい曲だわ」

素直に嬉しく感じた。
ザナルカンドをいい曲と言われると、自分まで褒められているような気がする。





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