【闇シリーズ⑤】19~22(闇の住人と妹)
2026/02/12 thu
※闇19~22を一気にまとめました
闇 19(ゴマすり豚野郎追放編)
2024/08/12 mon
2025/07/14 mon
前回の章
「何で急にピアノを始めたの?」
ピアニストが素朴な質問をしてきた。
演奏を聴いてくれた彼女ならいいか。
俺は春美との出会いから今までの事を簡単に説明してみる。
人に話す事で、随分と気も紛れるものだ。
「ふ~ん、そういう情熱があの演奏の裏側にあった訳ね」
「もうどうでもいいですけどね……」
「ピアノはもう辞めちゃうの?」
ピアノを辞める?
それは少し違うような気がした。
きっかけは春美。
しかし駄目になったからといって、ピアノを辞めるのか?
「う~ん、それとこれはまた別だと思うんです。素人だった俺が、ここまで弾けるようになったんです。ピアノを弾く楽しさ、面白さは分かりましたからね。自分を教えてくれた先生ってクラシック専門なんですよ。だから恩返しという意味合いでも、いつかクラシックの曲を弾きたいなあって思ってはいます。何か俺に似合って弾けそうな曲って何かありますか?」
グダグダ話しながら考えた。
おそらくピアノを辞めたくない言い訳を必死に探しているのかもしれない。
「そうね、ドビュッシーなんかいいんじゃないかしら」
今日、先生が弾いてくれた曲の一つもそうだった。
確か舞曲のスティーリー風だか何だか、フランス料理みたいな名前の曲だったっけ。
「ドビュッシー……」
「私、何か弾いてみようか?」
「え、いいんですか?」
「その代わり、ビール一杯ぐらいは奢ってよね」
「了解です。マスター、こちらの方にビールをお願いします」
ピアニストはニコリと笑い、ピアノへ向かう。
綺麗な音色が不規則なリズムで聴こえてくる。
俺レベルでも右手で主音を奏で、左手で伴奏をしているの分かる。
ザナルカンドみたいな左右の共同作業とは、まったく種類の違う複雑な曲だった。
俺の弾く曲は、右も左も同時に押すタイミングは同じで優しい弾き方の曲になるのだろう。
左手と右手が別々のリズムで奏でられていながら、それが複雑に交差していく。
強弱はちゃんとあるのに、すべての音色が一定の美しさを保っているように聴こえた。
今の俺には、どう足掻いても弾けないレベルの曲だ。
それにしてもどこかで聴いた覚えのある曲でもあった。
どこで聴いたんだっけ……。
ピアニストの演奏が終わる。
気付けば盛大な拍手を送っていた。
久しぶりに心の底から手を叩いていた。
得意げな表情でピアニストは、俺の横に座る。
「すごい上手いです。左右の手が別々の生き物のように思えましたよ。綺麗な曲ですね」
「アラベスクの第一番。いい曲でしょ?」
「ええ、本当にいい曲でした。俺じゃ絶対に弾けない曲ですけどね」
ドビュッシーの曲は、これで二つ聴いた事になる。
全然感じの違う曲同士だったが、俺は両方とも甲乙つけがたいぐらい好きになった。
「そうですね。マスター、そろそろチェックいいですか」
明日も仕事だ。
さすがに今日みたいな日はゆっくり休みたい。
春美の一件は俺の心をズタズタに切り裂き、絶大なダメージを与えている。
「あなた、仕事は何をしているの?」
「バーテンダーです」
また嘘をつく。
それは五年以上前の話だろうが……。
どうでもよかった。
「へえ、格好いいなあ……」
「ピアニストのほうが格好いいですよ」
怪しげな瞳で俺を見つめるピアニスト。
顔立ちは綺麗だが、少し酒に酔っているようだ。
俺は席を立ち上がる。
「もっと飲んで行きなさいよ」
服を掴まれた。
「明日に差し支えますから」
「大好きな子に振られて悲しいんでしょ? こういう時はヤケ酒もいいんじゃない」
ヤケ酒か。
確かに今日ぐらいグデングデンになるまで飲んでいたかった
「そうしたいのは山々ですが、今は一人になりたいんですよ……」
マスターからお釣りを受け取ると、席を立ち上がる。
「じゃあ、ピアニストさん。演奏、ありがとうございました。ビール、もう一杯分払っておいたので、ゆっくりして下さい」
店の外に出ると軽く伸びをした。
あれから春美の返事は何もない。
いくら謝っても取り返しつかないのかもしれないな……。
春美の事を思うと、やるせない気持ちになってくる。
ピアノを弾いている時は、このやるせなさを音に代えて表現できた。
これから俺はどうすればいいのだろう。
その時、背後でドアの開く音がした。
振り返ると、ピアニストが微笑みながら近付いてくる。
「本当に家へ帰るのかしら?」
二人の距離がどんどん近付く。
ヤバい……。
ピアニストは俺の首に両腕を回してきた。
息が顔に掛かる。
少し酒臭い。
女の匂いが鼻をつく。
嫌いな匂いじゃなかった。
密かに興奮している。
唇と唇が触れ合う。
俺はそのままの状態で立っていた。
不思議と春美に悪いという罪悪感はない。
このまま流されたら、どんなに楽だろうか?
口の中に女の舌が捻り込んでくる。
アルコール漬けの匂いを染み込ませながら、女の舌は激しく俺の口の中で動いていた。
気持ちがいい……。
長いキスを終え、ピアニストは妖艶な瞳で俺を見つめていた。
「ねえ……」
「……」
「あなたのピアノを分かる女のほうがいいわよ」
「どういう意味です?」
「あなたがどれだけ苦労して、あそこまでピアノを弾けるようになったのか。その努力を理解できる女のほうが、あなたにはいいんじゃない?」
その通りかもしれない。
何もない状態から、春美に聴かせたい一心で頑張った。
それなのに彼女は一度も聴いてくれない。
その事が一番悲しかったのだ。
今、俺はこの人から誘われている。
このまま流されたほうがどんなに楽な事か。
他の女を抱けば、春美を忘れる事ができるかもしれない……。
美人ピアニストを抱く。
悪くない。
「ね、そう思うでしょ?」
再びピアニストの両腕が俺の首に巻きつく。
この女なら俺を理解してくるかもしれない……。
その時、春美の悲しい顔が頭の中に浮かぶ。
ザナルカンドの悲しい音色が聞こえてくる。
咄嗟にピアニストを突き飛ばす。
「な、何すんのよ!」
俺の行動に女は醜く顔を歪める。
「これ以上、俺を汚すな…。ピアノを始めたんだって、一人の女に…。春美に聴かせたかっただけなんだ! それ以外の女に、俺の弾くピアノを分かってもらおうとは思わない。俺は努力なんてしてない。ただ、春美に捧げたかっただけなんだ……」
俺はいつの間にか泣いていた。
こんなにも俺は春美が好きなのだ。
自分が情けなかった。
「ふん、ばっかじゃないの。どうぞ、ご勝手に……」
ピアニストは不機嫌そうに店の中へ戻っていった。
家に帰り、布団に包まったまま泥のように眠る。
疲れていた。
朝起きると、まだ若干酒が残っていた。
春美から来たメールを何度も読み返す。
そして泣いた。
一つ、分かった事がある。
こんな状態になっても、俺は春美が好きでいる。
一心不乱にキーボードを弾く。
十時間以上ザナルカンドだけを延々と……。
そろそろ仕事へ行く時間だ。
赤い目のまま、駅に向かう。
初対面で会ったばかりなのに、いきなりキスをしてくるようなピアニストの女。
昔は抱ければ良かったから、ああいう女を好んだ。
顔立ちも綺麗だし、女としての魅力も充分に兼ね備えている。
春美と出会う前なら絶対に抱いていただろう。
春美と逢ってから、俺はおかしい。
春美だけが俺を簡単に癒し、簡単に傷つける事ができる。
俺は何故、こんな窮屈な恋を選んだのだろうか?
電車に乗って揺られながら、何度も春美からのメールを読み直す。
彼女はどんな想いでこのメールを打ったのだろう。
俺は何故考えてやれなかったんだ。
十歳も年が離れているのに、これじゃ何の意味もない。
まず彼女に謝ろう……。
『本当に君を傷つけてしまった。深く反省している。君の事を何故もっと思いやってあげられなかったのだろう。今、とても後悔している。本当にごめん。君に俺のピアノを捧げたいよ。 岩上智一郎』
春美へメールを送る。
酷く女々しい内容。
年上としての威厳もクソも無い。
プライドも何も無いどうしょうもないメールを送ってしまった。
もういいさ、送信してしまったのだから……。
しばらく何も考えずに、ボーっと景色を眺める。
電車は高田馬場に到着する。
次は新宿だ。
その間、春美からの返事はない。
電車のガラスに水滴がつきだした。
雨が降り出したのか。
『何度もメールをごめん。今の俺の心境を言います。正直に…。とても辛いです。君からの連絡がないだけで、とても寂しくせつない。でもどんなに辛くても、どんなに雨が降ろうとも、俺は仕事に向かわないといけない……。 岩上智一郎』
再びメールを送る。
祈るような気持ちだった。
電者は新宿に到着する。
どしゃ降りの雨が降っていた。
傘も差さずに道を歩く。
雨の冷たい感触が心地良い。
この濁った心の中を雨で全部洗い流してほしかった。
ズブ濡れのまま歌舞伎町を歩く。
今日もワールドワンで仕事か……。
溜め息しか出てこない。
いや、そもそもこんな男が春美みたいな子を口説こうとしていた事自体、大きな間違いだったのだ。
今の俺は単なる裏稼業ゲーム屋の従業員である。
こんな何の将来性もない男が、彼女を口説けたとしてどう幸せにするというのだ?
フラれてちょうど良かったのである。
こんな薄汚い世界にいる俺と一緒にいるなんて、春美には相応しくない。
自身を大いに恥じる。
この街に来てから俺は、ずっと裏稼業をしてきた。
ゲーム屋…、警察に捕まる可能性のある仕事。
仕事中、番頭の佐々木さんから呼び出される。
俺は三門、山下、伊藤に店を任せ、深夜喫茶の上高地へ向かう。
「どうしました、佐々木さん?」。
いつもニコニコしている佐々木さんの顔は険しい。
嫌な予感がした。
「岩上君…、大変申し訳ないんやけど……」
「な、何でしょう?」
「トップの中川さんおるやろ? あの人に最近変な取り巻き増えてね……」
耳の早い早番の吉田が、引き継ぎの時意味不明な事を言っていたのを思い出す。
吉田の言う事だから右から左で、まともに聞いていなかったが。
「ワールドワンの設定…。新しい石を作ったから、店のシステムすべて変わるようになるんや」
「例えば?」
「まず五万あったビンゴは一律で一万になる」
「え! そんな事したら常連さんたちからクレームの嵐になりますよ?」
「もちろんワイも散々反対したんや…。でも新しい石がOUT率八十パーセントの設定やから、客も納得すると……」
「そんなもんで、客が納得する訳無いじゃないですか! 閑古鳥が鳴きますよ?」
「うん、もちろんワイもそう思う……」
「ですよね?」
佐々木さんは下を俯いたまま口から煙をゆっくり吐き出す。
一本のタバコを吸い終わってからゆっくりと俺を見た。
「それと給料が…、みんな一律十時間で一万、責任者は一万千円に下がって、あとは店の歩合になると……」
俺の日払い額は一日二万。
いきなり九千円も下がるのか……。
「そ、それに不満あるなら辞めていいと……」
「……」
半分近く給料が下がるなら、辞めてもいいか……。
いや、俺は責任者なのだ。
苛立ちから独断で勝手に進退を決めてどうする?
「それと…、早番と遅番…、一人ずつ従業員をクビにしてくれと……」
「何ですか、それは!」
思わず大声を張り上げ、席を立ち上がっていた。
周りの客が不思議そうな顔で俺を見ている。
俺は気にしないようにして再び椅子へ腰掛けた。
「もちろんワイも片桐さんもみんな反対したんや…。やけどな……」
別に店の入客状況や売上が落ちた訳ではない。
オーナー中川に引っ付いてきた蝙蝠のような奴の意見で、ここまでシステムを悪変させたのが気に食わなかった。
「岩上君、辛いやろうけど、誰か一人クビにせんと……」
「誰をクビにしろって言うんですか? みんな真面目に仕事をしています。それが突然給料下がって店内のシステムも変わり、そんな状況で一人クビにする? 冗談じゃない! 誰を切れるって言うんですか……」
途中でテーブルの上に突っ伏して大泣きしてしまう。
悪い意味での感無量。
あまりにも従業員に対し小馬鹿にしたオーナーの中川。
これまでこの歌舞伎町に何軒の系列店を立ち上げ、身を粉にして働いてきたのだ。
悔しさとせつなさ、そして怒り、様々な感情がグルグルと身体の中を駆け巡っていた。
情けない男だ。
深夜とはいえこんな公衆の面前で大泣きする。
いや、少し違う。
春美との一件もあり、度重なる悲劇に対し疲れていたのだ。
流す涙の中に春美の件も混ぜながら俺は泣いている。
でもこの感情は、俺しか分からないものだ。
もういいさ、恥掻きついでに言いたい事は伝えよう。
泣きながら誰か一人クビにする件だけは断固断った。
シフト上、毎日誰かしら休みを取る形にして人件費的に変わりがないならそれでいいのではと必死に説得。
必死に懇願するような俺の姿勢を見た佐々木さんはグッときたのだろうか。
「岩上君、よく分かった。岩上君の気持ちはよく分かったから」
上からの命令で元々本意ではなかった佐々木さんも、了承してくれる。
俺はワールドワンへ戻り、みんなに最悪の条件を伝えた。
しかし店を辞める選択をする従業員は誰もいない。
辞めたところで他店舗でまた一から。
どんな悪条件とはいえ残るという選択肢しか俺を含め、みんな無いのだ。
普段何もしないくせに店長風だけを吹かす吉田。
給料が一律落ちた翌日、突然仕事へ来なくなった。
大倉の話では膝に水が溜まって動けないと連絡はあったようだが、そんな都合よく病気になるものだろうか?
嫌いな奴なので、中川と陰でつるんでいるのではと、つい疑ってしまう。
ほとんどの客は新しくなった店のシステムに対し、帰り際「店長…、何で店こんな風にしちゃったの?」呆れた様子で文句を言われ、ほとんどが来なくなる。
「大変申し訳ございません」
俺の立ち位置では客へ謝る事しかできない。
だからこうなると言ったのにな……。
常に満席で歌舞伎町で一番忙しいと謳われたワールドワン。
あっという間に閑古鳥が泣く。
給料は減らされ、こんな暇な店になり歩合もクソもない。
俺は早番、遅番全従業員を集め、意思の統一をした。
「こんな時だからみんなの意思は一つにしなきゃならないと思う。吉田の豚野郎はいきなり来なくなった。ひょっとしたら今回の一件で上と繋がっているのかもしれない。でもさ、そんな事よりも店をどう回していくか。それが俺たちには大切な事だ。豚が一人いない分、遅番と早番のバランスを考えてシフトも回るよう何とかする。みんなで協力してさ、もう一回この店を盛り上げよう…。いや、それはこんなシステムにしたんじゃ無理か……」
「岩上さん、今はとにかく堪えましょう。それでどうなるか分からないけど」
「俺たちは一心同体だ。抜け駆けも何もない。辞める時はみんな一緒に散ろう」
底辺の職場の中での意思統一。
クソみたいな言葉を並べただけだが、それでも人間の心はまとまる。
状況は違えども、自衛隊時代のあの理不尽さの中俺たち十名の班員は誰一人欠ける事なく前期教育を乗り切った。
あの時のまとまった感覚を思い出せ。
それを俺はこのワールドワンの従業員たちに教えたい。
あれ以来、春美からも連絡は一切無いままだ。
あれだけあったはずのピアノへの熱意も自然と薄れていく。
俺は先生に適当な言い訳をし、くっきぃずへ顔を出す回数が減った。
金銭的な余裕の無さは、心の余裕にも直結している。
無料券をあちこちへ配り一か月ほどで自滅したラーメン屋馬鹿一代。
その跡地が牛すじ屋に変わった。
気になったので中へ入る。
牛すじ丼一杯五百円。
メニューはそれしかなく、奥では馬鹿一代の頃にいた老夫婦、そしてアルバイトらしきホールの人間が二名。
老夫婦を見て、オーナーが変わったのではなく店をモデルチェンジしての出直しだと分かる。
前の時より従業員は半分になっていたが、それでもこのスペースで四名もいるのかと感じた。
最近になって牛丼チェーンの松屋や吉野家は牛丼一杯二百八十円と値下げして売っているこのご時世。
新規オープンの個人店が、牛すじ丼五百円などで客を呼べるのか不安でしかない。
ただ馬鹿一代の頃からの縁もあるので、俺は出前もするよう伝え、ワールドワンでも率先して宣伝はしてみた。
さらに牛すじ丼だけでなく、他のメニューも増やしてみたらどうかと、牛すじ屋へ通いながらアドバイスしてみる。
するとオーナーらしき老夫婦はメニューを増やすも、ヤバい増やし方をした。
牛すじ丼五百円、蕎麦五百円、かやくご飯二百円。
何故主食ばかり増やしているのか?
センスの無かったこの店は、予想通り数ヶ月で潰れてしまった。
ピアノも弾かずただ新宿歌舞伎町へ仕事へ行き金をもらう。
そんな日々が続く中、一通のメールが届く。
『元気かいな。最近連絡ないけど元気でやってるの? ミサキ』
妹代わりに可愛がっていたミサキからのメール。
元気かいななんて変な言葉を使う奴だ。
春美の事と店の件で頭が一杯で、すっかり彼女の存在を忘れていた。
思わず笑みがこぼれる。
給料も減らされ、店の問題も抱えていた俺は余裕が無い状況。
たまにはミサキと会うか。
久しぶりに食事へ行く。
「ねえ、何か暗い顔しているけど、悩みでもあるの?」
覗き込むように俺の顔を見るミサキ。
俺は彼女だけでなく、地元の知り合いにもすべてに会員制のバーで働いていると嘘をついている。
ゲーム屋で働いているという事に対し、未だ恥と感じている自分がいた。
なので愚痴を言いたいが、こぼしようがない。
それでもミサキの存在はありがたかった。
給料が半分近くなったって、二十歳そこそこのあの頃に比べたら、格段にいい生活できているじゃん。
それに俺がこんな裏稼業の悪条件程度で挫けるという事は、全日本プロレス…、強いてはジャンボ鶴田師匠の名を汚す事になってしまう。
プロレスラーって何をやられても避けちゃいけないし、壊れちゃいけない。
そうっすよね、鶴田師匠……。
今までトントン拍子に色々うまくいき過ぎていたのだ。
「あ、やっと笑うようになった! その方がいいよ」
俺の顔を見てミサキが笑う。
うん、色々あるけど俺って幸せじゃん。
暗い雰囲気に包まれた店内。
たまに来る客も変なシステムへ変わった店を見て、溜め息をついて帰る。
変わらないのはオープン当初から週に四、五回来る大倉さんだけ。
もう七十歳は超えているおじいちゃんなのに、金もあるし元気がいい。
基本的にいつも一晩中打って十数万の金を店に落としてくれる。
ダブルアップを叩き続け、一万を超える一気を飛ばすと「フォッフォッフォッ」と満足気に笑う。
大倉さんとはよく競馬の話をした。
いつだったか宝塚記念付近のレースで馬連十五万馬券が出た事がある。
「こんなの取れっこないですよね」
そう言うと大倉さんはポケットから一枚の馬券を見せてきた。
思わず目を疑う。
その馬券だけで総額五十万は超え、色々な買い方はしていたが、その馬連に九千円買っている。
十五万掛ける九十で、配当千三百五十万円。
見掛けは小柄な老人なので「本当に気を付けて帰って下さいね」と、靖国通りでタクシーを捕まえるまで送って行く事もあった。
いつも元旦の夜から一月二日の朝まで打つと、うちの店で二十万以上負けているのに「勝負らー!」と言い出す。
今までポーカーを散々やったのにまだ勝負?と思い聞いてみると、競艇だか競輪がこの日よりあるらしく、みすぼらしいボロボロのジャンバーのポケットから百万の帯付きを取り出す。
俺が呆気に取られていると、全部で五つ取り出した。
総額五百万円……。
いつも「一晩中遊んで二十万程度で済むんじゃ、タダみてぇなもんだよ」と嘯く大倉さん。
これを聞いた時、ワールドワンを気に入って来てくれているのが理解できた。
この人には本当に感謝しかない。
新体制から数週間経ち、あれだけ忙しかったワールドワンも本当に閑古鳥が鳴く。
佐々木さんから外で話せるか呼ばれる。
「岩上君…、好きなようにやってもらって構わない。だからもう一度店を流行らせてくれへんか?」
現状を見たオーナーサイドがとうとう白旗を上げたのだ。
早番の吉田は相変わらず店に出てきていない。
全従業員が不満を抱きつつも、俺の元に一致団結をしている。
それならもう一度ワールドワンを流行らせてやろうじゃねえか。
「まず機械屋と話してダイナミックの改造から始めたいと思います」
機械屋とはポーカーゲームの基盤や設定を決める石を作る業者。
まずダイナミックというポーカー台。

醍醐味を簡単に言うと、ダブルアップ中。
黄色の札が出て当てれば掛ける三倍。
緑色の札が出て当てれば掛ける四倍。
赤色の札が出て当てれば掛ける五倍。
ラブチャンスと呼ばれる札が予めめくれていて絶対にそれを叩けば当たる。

ストレートフラッシュ、ロイヤルストレートフラッシュもダブルアップできる。
これはダイナミックしか無い部分だ。
ならギャンブル要素をもっとあげたら?
赤の掛け五倍を七倍に……。
そしてダブルアップを叩き続け一万を越えると一気になって画面が赤くなり、自動OUTになるのをもう一度更にダブルアップできたら?
機械屋へ相談すると、できなくはないそうで俺はダイナミックのスペシャル版を作ってもらう。
基本ポーカーの設定は基盤に付いているディップスイッチで決める。
ダブルアップの叩きの設定。
零零が一番良く、一零が次に良く、零一これがだいたい普通の店の設定、一一は最低設定。
設定がいいほどダブルアップが当たる。
出目率も同じ。
これはゲームをプレイしていてポーカーの役がどれだけ揃いやすいかの調整だ。
掛ける七倍やダブル一気使用は石で調整してもらい、OUT率を何パーセントくらいにするかも予め決める。
OUT率八十パーセントの石なら、例えば十万円INしたら、八万円は出るという訳だ。
あくまでもこれは目安に過ぎない。
一ゲーム百円レートのワールドワンでも、ストレートに二十万円INして何も出ない事だって稀にある。
ロイヤル、ストフラはゲーム数。
五千回転、一万回転、一万五千回転、二万回転とこれもディップスイッチで決められる。
ズルいやり方をするなら、基盤にこれまでのゲームの細かい履歴は記憶されているので、データをクリアしてしまえば、回転数は零になり、ロイヤルストレートフラッシュは出ない。
詳しい人間がメーターを見れば、その辺は分かってしまう為、画面を客に見せる事はこの業界で御法度となっている。
俺は何度もテスト打ちして、リニューアルの為に日々時間を費やした。
A四の紙に『ワールドワン・リニューアル 脅威のダブルアップ掛ける七倍 一気のあとの更に一気』と文字をデザインし、下の方に草原を絵を描く。
昔よくやった宣伝方法電バリ。
電信柱に両面テープで貼る作業をする。
歌舞伎町内にでなく、一番街通り、靖国通りのみに十ヵ所程度。
店長の吉田は今でも出て来ない。
連絡一本無い状況だ。
なので早番と遅番の人数とバランス調整をしなければならなかった。
早番に大倉、山下、新人二人。

遅番はメインになるので俺、三門、伊藤、残り二人は新人から育てる。
伊藤は変わった経歴の持ち主で、ここへ来る前ニューヨークで生活していたようだ。

音楽のラップというジャンルがあるようでDJマスターキーという人の元、第一弾アーティストのハイタイムス(Hi-Timez)として音楽活動をしている。

ただまだ音楽じゃ飯が食えず、たまたまワールドワンへ来た。
形は違えど、俺も以前は全日本プロレスへ身を捧げた。
なので伊藤の気持ちや感覚だけは理解できる。
週末になると合同ライブで主に東北行くケースが多いので、その辺は俺も了承し、できるだけ彼のスケジュールを尊重した。
新人たちにはゲーム屋の基礎を教え、客がドッと来ても混乱しないよう教育。
準備はできた。
店内のビンゴも以前と同じように戻した。
あとは待つだけ……。
オープンと同時に大量の客が雪崩れ込む。
過激な設定は歌舞伎町の住民たちの心を掴んだのだ。
前のように活気が戻ってきた。
ゲーム屋は客さえ入れば自然と売り上げに直結する。
派手なダブルアップに客は一喜一憂した。
「あっ! 岩上さんじゃないですか!」
当時のゲーム屋の入口は鍵などせず、誰でも自由に出入りできた時代。
フリーで入ってきた客が俺の顔を見て声を出す。
「え、高橋さん?」
俺が歌舞伎町へ来て初めて働いた店ベガ。
そこの店長をやっていた高橋ひろしがたまたま客で来ての再会だった。
もうベガ自体店は潰れ、鳴戸や海野と連絡一つ取っていないらしい。
元々悪い事をしていた人間なので、金はかなり持っていた。
そんな高橋は中口という相棒も一緒に連れてきて、連日ワールドワンの新生ダイナミックへ一気にハマっていく。
オープン当初から通ってくれる大倉さん。
ベガ時代の同僚高橋ひろし。
そしてその連れ中口と店の核になる客たちが揃ってくる。
この二人はほぼ毎日来て、合計三十万は店に金を落としてくれた。
忙しさは余計な事を忘れさせてくれる。
春美にフラれたショックも、気付けば多忙な日々により気にしなくなっていた。
リニューアルして一ヶ月が過ぎた。
かつての活気を取り戻したワールドワン。
給料は下がったまま。
しかし店を盛り返したという自負が精神的に自分を満足させていた。
問題の売上に対する歩合はどうか?
番頭の佐々木さんから二十万の歩合が出ると言われる。
これは責任者の俺に渡すものだから、分配しようが自分で全部取ろうが構わないと伝えられた。
未だ店に出てきていない吉田を除く九名。
一人二万ずつ渡しても残り二万あるので、それも分配しようと俺は部下たちへ提案した。
「岩上さんが一番給料落ちて被害受けているんだから、もっと多く取って下さい!」
従業員たちはそう言ってくれるが、金の問題じゃない。
みんなで窮地を頑張って盛り返したのが嬉しいのだ。
だからとりあえず歩合はみんなで平等にしたいと気持ちを伝えた。
みんな誰だって社会に出て、一度は躓きこの歌舞伎町…、裏稼業へ落ちてきたのである。
そんな中で、一致団結する店が一つくらいあってもいい。
いい雰囲気は一瞬にして壊れる。
早番の店長である吉田がいきなり復帰した。
膝に水が溜まったという意味不明な理由で今まで一カ月以上休んでおきながら、歩合が出ると決まったら突然の復帰。
しかし俺たちも所詮雇われに過ぎない。
上が吉田をクビにでもしない限り、現状は変えられないのだ。
俺が夜になり出勤すると、早番の人間たちの表情が暗い。
状況を聞くと吉田は夜の八時で上がったが、仕事途中佐々木さんが来たようだ。
何を思ったのか、歩合の半分の十万を吉田が受け取り奥の休憩室で一人ずつ呼ばれ偉そうな事を言われながら金を渡されたらしい。
「本当は全部俺がもらっていいって言われたけど、大倉は二番手だから三万やる。山下は一万と言いたいところだけど、数年やってるから二万やる。新人は一万だ」と何一つ働いていないのに歩合の金四万を懐に入れたようだ。
俺は番頭の佐々木さんへ文句の連絡をする。
「いや、前にも言ったように責任者へ配当は渡すものだから、早番半分、遅番半分で渡したんや」
「佐々木さん! 早番と遅番、人数だって一人遅番の方が多いんですよ? それに吉田は何一つ何もしてないじゃないですか!」
「分かった。ごめん。ワイの配慮不足や。ワイが二万余計に払うから、それで勘弁して」
「佐々木さん! そういう問題じゃないんですよ。みんなで頑張って俺は等分に分けるって言ってたし……」
「ごめん…、岩上君。言いたい事は分かる。でもワイも上から言われてやった事なんや」
恩のある佐々木さんに頭を下げられると、俺もこれ以上何も言えなかった。
十万プラス佐々木さんの二万で十二万。
五人で一人二万四千円ずつの配当を渡す。
「岩上さん、これじゃおかしいですって!」
みんなが俺にもっと取れと言うが、平等に配らないと何故か納得できない自分がいた。
遅番はこれでもまだマシだが、早番の人間たちが気の毒過ぎる。
俺が全員に号令を掛け、頑張った結果がこれか?
歯痒さを覚えるが、これ以上何もできない自分の力不足に嫌気が差す。
翌日佐々木さんより立場が上の片桐が、番の引継ぎの時間帯にワールドワンへ来た。
俺の顔を見るなり表情を変えて怒鳴り出す。
「岩上! おまえが店の設定やってんだろ? 少し売り上げの事に気を囚われ過ぎだ!」
元々俺が売上欲しさにそうしたのではない。
本来もらえるはずの給料を半分も落とし、勝手に歩合だと決めたのは上の人間である。
それでも佐々木さんが店を流行らせてほしいと懇願したからこそ、俺たちはこれまで頑張ってきたのだ。
結果、いくら店を流行らせても結局ゴマすりができる吉田の評価の方が上。
本当に阿呆らしくなる。
都合のいい事を言い出したのはそっちだろと言い返したかった。
理不尽な裏稼業。
しかし望んで俺はこの業界にいる。
自棄を起こし辞めたところで、他に何も無いのだ。
不安そうな表情で俺と片桐を眺めている山下と大倉。
「おう、大倉に山下! オマエら困った事あったら何でも言って来いよ」
片桐は相変わらず偉そうに言い、店を出た。
着替えを終えた大倉と山下が、俺のところへ来る。
二人とも神妙な顔つき。
「ん、どうした?」
「岩上さん…、俺たち店辞めます……」
「何でだよ! どうしたんだよ?」
「言いたくありません……」
「オマエふざけんなよ?」
気付けば俺は大倉の胸倉を掴んでいた。
「もう辞めるんだからいいじゃないですか……」
「おい、このガキ…、俺に喧嘩売ってんのかよ?」
何だかんだ二年以上この店で共に過ごしてきたのだ。
辞めたいくらい嫌な事があったのは理解できる。
ただその訳すら言わずに去ろうとする姿に苛立ちを覚えたのだ。
周りの従業員が俺を制し、山下が代わりに口を開く。
「俺ら…、もう吉田さんについて行けません…。ほんと限界なんです……」
「何があったんだ? 言え!」
先日の歩合の一件だけでなく、それ以外にもボロボロ出てきた。
吉田の弟と腹違いの妹が結婚をする……。
それは俺にも言ってきたから知っている。
「ああ、そうですか。おめでとうございます」
吉田にはそれだけ言って終わりにした。
アイツの祖母が亡くなった時同様、俺から祝儀でももらえると思ったのか、吉田は唖然としていたっけ。
後日系列のチャンプの飯塚から連絡あり、吉田が仕事中わざわざ店に来て「岩上さんは酷いんですよ。うちの弟と妹が結婚するって言うのに祝儀一つくれない」と愚痴を零したと報告があった。
「そりゃ吉田さんがおかしいよ。会った事も無い人間に何で祝儀出さなきゃいけないんですって言っておきましたけどね」
それはそうだ。
従業員ならともかく、自分の身内が籍を入れるから祝儀なんて、吉田は本当に図々しい。
それに弟と腹違いの妹が結婚とか抜かしていたが、そもそも法的に許されるのか?
俺はその件で何の被害も受けていない。
だが、早番は違った。
「オマエら上司の弟が結婚するのに、祝い金も出せないのかよ?」
そう吉田に詰められたそうだ。
「祝い金って、いくらぐらい包めばいいんですか?」
「良識の範囲だと三万が相場だよ」
そんな感じで大倉、山下、新人の江角の三人は三万を強引に徴収されたらしい。
披露宴もせず会った事も無い人間を話しただけで、よくそんな真似をできたものだ。
大倉に関しては前に中野のキャバクラへ仕事後呼び出され、ドン・ペリニヨンのロゼを買って来させ、その代金すら払わず、そこの飲み代まで割り勘にさせられたという理不尽な対応を受けている。
しかも吉田は一ヶ月以上店を休んでいて、復帰した途端この暴君状態。
二年以上働いた従業員二人が同時に辞めたくなるのも無理はなかった。
俺はワールドワンに来てから今までずっと店を支えてきた。
それが吉田はオープンから店にいるというだけで所の次に年功序列で店長になり、勝手に店は休むわ、部下たちから金を巻き上げるわ……。
しかも番頭の片桐など権力者にはゴマすりが半端ではない。
こんな現状がまかり通っていいのか?
いい訳ないだろう。
俺はまず遅番の従業員全員に話をした。
「大倉と山下が辞める件。俺は吉田が納豆いかない。これから上に対してクビ賭けて行かせてもらう。オマエたちはどうする?」
「岩上さんについていきます!」
三門、伊藤、そして新人の岡本、望月も声を揃えて言った。
翌朝になり早番の従業員が出勤してくる。
吉田はまた遅刻した。
ちょうど良かったので、早番の従業員たちにも意思疎通を取る。
これで吉田以外の全従業員が俺の元一つになった。
一時間以上遅れて出勤した吉田は、「いやー岩上さんすみませんねー。目覚まし掛けて起きたんですけど二度寝しちゃって……」と理由にならない言い訳をしている。
俺は無視して店を出て、真っ直ぐ家に帰った。
今日の夜、出勤したらまず番頭の佐々木さんと話し合う。
次に片桐と……。
考えると憂鬱になる。
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いや、思い出せ。
ベガの鳴戸に連れて行かれたヤクザの前。
あの時よりは全然マシだろ?
それに今回は吉田以外の従業員すべてが俺についてくれているのだ。
まずはゆっくり身体を休めよう。
ワールドワンへ出勤して、店内の状況を確認する。
まだ客はまばら。
佐々木さんと話すなら今だろう。
電話を掛け、佐々木さんに来てもらう。
俺は店の外でこれまでの吉田の無茶ぶりを伝え、これが今後もまかり通るなら吉田を除く、俺以下全従業員は店を辞めると話した。
ゴマすりだけの豚野郎と、俺以下の従業員たち。
どちらを選ぶかは明白だ。
佐々木さんは困った表情で片桐に連絡をする。
「おい、岩上この野郎! 全員が店を辞めるってどういう事だ?」
俺の前に来た片桐は怒涛の如く怒っていた。
「何かあったら言って来い…。片桐さんはいつもそう言っているのに、二年以上働いている従業員が二人同時に辞める事に対して、何の疑問も持たないんですか?」
「どういう事だ?」
「俺からでなく、大倉、山下の二人に直に聞いてみて下さい」
いつも上からの目線の片桐も、この時だけは何も言えないでいた。
翌日、大倉が不安そうな表情で話し掛けてくる。
「岩上さん…、何か今日仕事終わったら山下さんと自分…、片桐さんからいきなり飯行くぞって連絡あって……」
思わずニヤけてしまう。
「いいか、大倉。俺が全部ケツ持つ! だから言いたい事全部ぶち撒けて来い」
「え…、でも……」
「ケツは持つって言ったろ。そうなるように俺が仕組んだんだよ。オマエたちも辞めるって腹決めたんだろ? なら一度くらい腹決めろって」
俺は大倉の背中を押した。
あとはなるようになるだろう。
「食事終わったら、一回店に戻ってきます……」
心細そうに山下は大倉のあとをついて、店を出て行った。
今日も店に元ベガの高橋ひろし、そして中口も来て、ダイナミックをノーテイクでバチンバチン叩いている。
「いやー、ヤバいすね、岩上さん。一円でこんな過激台、歌舞伎町のどこにも無いですよ」
ギャンブル性の非常に高い台を作った。
本当に運が良ければ一撃の一気で二十万を越える事もある。
下手な十円の店よりも過激な一円ポーカー。
俺の予想通り客はその過激さにハマっていく。
数時間経ち、店に山下だけ戻ってきた。
「おう、山下。どうだった?」
何を話したのか気になる俺は、山下をせっつく。
「自分は言いたい事は片桐さんに何も言えませんでした……」
「はあ? せっかくセッティングしたのに何をやってんだよ?」
「でも…、大倉さんは自分の言いたい事まですべて言ってくれました」
そこまで言ってニヤける山下。
「何を言ったんだ、大倉は?」
「第一声が吉田を人間的に許せませんと……」
これまで溜まっていたものをすべて片桐へぶち撒けたようだ。
やるだけはやった。
あとは上の判断だが、なるようになるだけだ。
山下が帰り、少しして片桐が店に来た。
「岩上、何で今まで言わなかったんだ?」
「俺が言ったところで片桐さん聞く耳持ってくれなかったじゃないですか」
「そんな事ねえだろが!」
「ありますよ。先日片桐さんの奥さんが入院した時のお見舞いの件だって……」
俺は以前吉田がみんなから五千円ずつ徴収し、見舞いの品を渡した件を蒸し返す。
あの時吉田は早番だけの手柄のように伝え、片桐は俺に豚野郎を見習えと言ったのだ。
「すまなかったな、岩上。吉田はクビにする。そんな事をしていたなんてな」
「それなら片桐さんからアイツへ直に伝えて引導を渡してもらえますか?」
しばらく黙っていたが、やがて片桐は分かったと返事をして店から出た。
俺たちは仕事中にも関わらず、ハイタッチしながらこの展開を喜んだ。
朝が待ち遠しい。
これほどウキウキする事も中々ないだろう。
朝十時手前に片桐が来た。
吉田はまだ来ない。
また寝過ごしたとかで、遅刻だろう。
「アイツ、また遅刻か! 俺は店の外で待ってるぞ」
居辛かったのか店を出て階段を上がった入口で吉田を待つ片桐。
一時間ほど遅刻して吉田は来たようだ。
俺が奥の休憩室でタバコを吸っていると、吉田がノソノソと店に入ってきて俺の顔を見る。
目に涙が滲んでいた。
「岩上さん、従業員の給料下がったじゃないですか? 片桐さんに戻してくれと言ったら、オマエなんかクビだと……。俺、クビになっちゃいました……」
俺が何も知らないと思い、この期に及んで未だ嘘をつく吉田。
吸っていたセブンスターを大きく吸い込んでから、吉田の顔に煙を掛けた。
「ウザいから、荷物持ってとっとと失せろ、豚野郎!」
ここ数年の恨みを込めて罵った。
「……」
「最後の最後まで自分に調子のいい嘘ついてじゃねえよ、とっとと消えろ」
黙ったまま店から吉田は出ていく。
俺は嬉しさから従業員だけでなく、店内で打っている客すべてに寿司の出前を取り、振る舞った。
不思議そうな表情で寿司を見る客。
「内輪の話なんですが、本当に目出度い事があったんですよ。なのでこの場に居合わせたお客さんに、この嬉しさのお裾分けをしたいなと思っただけです」
「一体何があったんですか?」
「ごめんなさい。それはノーコメントです。寿司をただ食べて下さい」
そう言って俺はニヤリと不敵に笑った。
二千二年九月十三日、金曜日友引。
俺は三十二歳になっていた。
春美との連絡のやり取りはまったく無い。
何度俺から送ったところで返事一つ無い現状。
いつからか自然と俺も連絡しなくなる。
ピアノも全く弾かなくなった。
色々な事があり過ぎて、精も根も尽き果てたのだろう。
そんな頃、新宿歌舞伎町で世間を震撼させる事件が起きた。
パリジェンヌ事件と呼ばれるヤクザとチャイニーズマフィアの抗争。
場所は歌舞伎町一丁目と二丁目の堺になる花道通りと区役所通りが交差する風林会館。
その一階の喫茶店パリジェンヌで事件は起きる。
しかし俺には何の関係性も無い為、ほとんど興味を示さなかった。
ゴマすり豚野郎の吉田をクビにして、またワールドワンは番の編成が必要になった。
早番の責任者に三門。
残った大倉が二番手。
チビの江角。
あとは新人を入れる。
遅番で店長になった俺。
山下を二番手。
ラップをする伊藤。
口が達者な岡本。
そしてうずらデカい身長の望月。
また東京スポーツの三行広告を使うにしても時間が掛かるので、俺は以前働いていた安田へ連絡をしてみた。
俺、彼女殺したかもしれませんと物騒なメールを送り、そのまま辞めていった安田。
彼は何度も俺のところへ来て、また働きたいと言っていた。
あの時は従業員も補充し一杯だったので無理だったが、今なら問題ない。
それを思い出し、彼に連絡を取ってみる。
「久しぶりだな、安田。またうちに戻ってくるか?」
これまでの簡単な経緯を話す。
「え、いいんですか?」
「今度はいきなり店に来なくなるとかしないならな」
「ありがとうございます!」
「いつから来れそうだ?」
「明日からでも」
これで従業員の確保はOK。
新たな新体制はこのメンバーでやっていくのだ。
闇 20(闇の住人への堕落編)
2024/08/13 tue
2025/07/14 mon
前回の章
明日になれば安田が仕事へ復帰。
それまで早番の三門、大倉、江角で店は回してもらう。
遅番も、岡本は経験者なので店のシステムを覚えてもらうくらい。
望月は初心者なので、ポーカーゲームの理屈から、すべて教え込まないといけない。
山下哲也は相変わらずマイペースだが、仲良しの大倉と番を別れたのが悲しいらしく、いつもブツブツ愚痴を言っている。
伊藤はDJマスターキーの第一弾アーティスト『Hi-Timez』としての東北ライブが好評らしく、いつも週末休みを一日、二日取っていたが、多い時で三日間休む場合もあるというので了承した。
音楽の世界はよく分からないが、伊藤がそっち食えるようになるなら喜んで送り出したい。
ニューヨークに住んでいたという伊藤は少し変わっていて、肉がまるで食べられなかった。
コロッケですら多少の肉があるので断るほど。
ベジタリアンなの?と聞くと、いつの間にか肉だけ受け付けなくなったようだ。
ステーキとか最高じゃんと言うと、獣の味がするので嫌な顔をする。
そういえば番頭の佐々木さんも肉が食えないとか言っていたよな。
兄貴分がと酒を飲んでいる時ちょっとだけ言い掛けた事がある。
おそらく俺の推測だと、佐々木さんがヤクザ時代、何かしらの抗争でその兄貴分は亡くなっていると踏んでいた。
若い頃は肉が大好きだったというのも聞いていたからだが。

しばらく休んでいなかったので休みをもらう事にした。
正直、自分が不在の中、山下へ遅番を任せるのは少し怖かったが、休まない訳にもいかない。
久しぶりの休み、妹代わりに可愛がっているミサキの店『サンタナ』へ行き酒を飲む。
ここからなら本川越駅まで徒歩数分。
何かあったら新宿へ駆け付ける事も…、いや、それでも本川越駅から新宿まで一時間か……。
「どうしたの、今日は何か落ち着きがないよね」
ミサキが心配そうに覗き込んでくる。
「久しぶりの休みなんだけどさ、やっぱり心配と言うか、不安と言うか……」
安田から電話が掛かってくる。
「すみません…、明日の出勤、一日延ばしてもらえませんか?」
「はあ? オマエ何を言ってんの? シフト組んだんだから、出てこい」
「いえ、恥ずかしい話、借金している人間に会わなければいけないので……」
「だったら尚更だろ。安田、金だって持ってないんだろ? その日から日払い渡すから、その人には仕事終わってから会えばいい話だろ」
「そ、そうですね…。分かりました」
電話を切って五分もしない内にメールが届く。
『すみません。やっぱり俺は大馬鹿野郎です。 安田』
意味不明な内容。
考えられるのは、このまま来ないつもりだろう。
苛立った俺は、安田へ何度連絡するも出る様子がない。
以前何も言わず十万円貸してくれと言った時、貸しはしなかったが大変だろうと焼肉をご馳走し、一万円をあげた。
結局あの時のはタダの捨て銭だったようだ。
また広告打って、新人を募集しなければならない。
「ミサキ、ごめんよ。チェックして……」
「え、休みじゃないの?」
「新宿の店へ行く用事ができた」
恩を仇で返されるとは、このような事をいうのだろうな。
今後俺の人生において、あの男は二度と関わってくる事は無い。
多忙な日々を送り、ピアノもすっかり穴が空いていた。
あれだけ練習したザナルカンドも久しく弾いていない。
新人がある程度成長したら、またピアノへ向き合ってもいいと思えるくらい余裕ができた。
相変わらず春美から連絡は一つも無い。
まだ目の前でザナルカンドを弾けてもいないのだ。
無理だって。
もういい加減忘れろって……。
俺はあの子にフラれたのだ。
いい加減女々しい真似はやめろ。
必死に自分へ言い聞かせた。
過激な設定を導入し、かつての賑やかさを取り戻したワールドワン。
ゴマすり豚野郎の吉田をクビにしたのは大きい。
番頭の佐々木さんが来て、店を立て直したので給料を若干戻してくれた。
前ほどは戻らなかったが、日払いがプラスで五千円増えたのは素直に嬉しかった。
ゲーム屋業界の流行り廃れは早い。
ただ流行っているからと何もしないで楽観視していると、すぐに客に飽きられ廃れてしまう。
客足が落ちる前に、次の手を考えていかないと駄目だ。
…といってもゲーム屋でできる事など限られる。
闇雲に計算もせず、客に受けるだろうとやるイベントはあとで後悔する羽目になった。
以前『プロ』の時企画したイベントで、黄金の四十八時間というものがある。
これは単純にその期間、一気をしたらプラス一万円あげるというものだが、ワールドワンの一日の一気の本数は百本前後。
つまり一気一回につき一万円を百回以上渡し、忙しいだけで儲からないイベント。
考え無しにこれをしたおかげで、百万以上の経費が余計に掛かった。
客を煽りつつ、経費的にはそんな掛からないイベント。
そのバランスは中々難しい。
そんな最中客のギャンブル欲をくすぐるイベントを思いつく。
みんな、ダブルアップを叩き続け一気を狙うのが主流なので、そこを利用したイベントを開催。
一日限定の個人ビンゴカードを作る。
ポーカーは役を揃えてからダブルアップするので、三つの枠に分け、ツーペアとフルハウス、スリーカードとフラッシュ、ストレートとフォーカードに決める。
例えばツーペアからのダブルアップで一気になれば、その枠が消え、三枠消せば個人ビンゴ完成で三万円のプレミアが出る仕組み。
運が良ければ三回の一気で完成する。
俺はイベント開催の告知用広告を作り、従業員の岡本と望月に電バリを頼む。
一人が警察がいないかの見張り要員。
もう一人が電信柱へ広告チラシを貼る係。
貼る場所は数ヶ所でいい。
すると岡本は「このくらいなら俺一人で大丈夫ですよ」とバックを持つ。
本来電バリは違法行為である。
「おい、危ないから二人で行け」
俺の声が届く前に岡本は一人で外へ行ってしまう。
食事で外出していた客が、店に帰ってきてキャッシャーにいる俺へ話し掛けてきた。
「店長…、多分ここの従業員だけど、あそこの靖国通りと一番街の交差するところで、両脇を警察官に抱えられていましたよ」
「……」
あの馬鹿、いきなり警察官に見つかったのか。
俺は一番街通りへ飛び出し辺りを見渡したが、岡本の姿は見えない。
だからあれほど注意したのに…、言わんこっちゃない……。
まず捕まった可能性を考え、番頭の佐々木さんへ連絡。
電バリで捕まったとしたら、あのエリアなら新宿警察署しかない。
しかしこちらから警察署へ電話するわけにもいかず、しばらく様子を見る。
店の電話が鳴った。
相手は新宿警察署から。
あの馬鹿、店の電話番号を簡単に謳いやがった……。
いや、まあそれは仕方ないか。
「新宿警察署です。ワールドワンですね?」
「は、はい……」
「店長の岩上さんは?」
「は、はい…、私です……」
あの馬鹿、警察で何俺の名前を言ってるんだ?
何の為に名義社長がいると思っているんだよ?
「岡本分かりますね? 一応身元引受人として今から新宿警察署へ来て下さい」
「いや、あのですね…。私も一従業員でして…、社長へ連絡とりますから……」
「岩上さん、そういうのいいから。うちも面倒だから岩上さんが引き取りに来てってだけだから。別件だから安心しろって」
小便刑にもならないような事なので、警察のほうとしても俺が引き取りに来て終わりにしたようだ。
「分かりました……」
このような展開になってしまい誤魔化すのも後々面倒なので、俺は佐々木さんに連絡を入れる。
系列の店から一人ずつ二名をヘルプに寄越させ、到着すると店を出た。
新宿警察署へ単身向かう。
そこそこ長い期間の裏稼業。
自ら警察署へ行くなんて初めてである。
タクシーで向かい到着する。
扉を開けると「いやー」と頭を描きながら笑う岡本がいたので思わず頭を叩いた。
簡単な書類に名前を書き、すぐ解放される。
「だから一人で行くなって言ったろ!」
「すみません、最初の一枚目でいきなり警察官に見つかってしまって……」
そそっかしい岡本。
コイツの調子の良さには少し注意したほうが良さそうだ。
しかし仕事面での布陣は、ある程度整ってきた。
チビの山下は馬鹿だが、仕事はまあできる。
伊藤も育ってきた。
岡本も調子いいが、元々経験者である。
うすらデカい望月は、何だかんだ器用で卒なくこなす。
「じゃあ俺は休み取るからね」
「ええ、任せて下さい。ゆっくりお休みを」
不安ながらも久しぶりの休みを取った。
品川春美からはまったく連絡が無いし、そのあと知り合った佐々木真理子とは中途半端なままだ。

適当に飲み歩き、適当に女を口説く。
結局何をしてもうまくいかず、妹代わりのミサキの店へ最後は行く。
本当女っ気無いなあ、俺……。
「そうそう、うちの店で智君の事気に入っているの女の子が一人いるよ」
「え、誰々?」
「今日休みだけどさ、さおりちゃんって子。私と仲良くしているんだ」
「ねえ、ミサキ。その子を上手く仲介してくれよ」
「うーん……」
「ね、頼むよ、ミサキ!」
ミサキは渋りながらも俺が懇願すると、その子を紹介してくれた。
名前は雪喜と書いて、さおり。
ショートカットの似合う綺麗な子だった。

彼女は日本人の父親と韓国人の母親を持つハーフで、ミサキと同じキャバクラで働いている。
彼女も体格のいい男がタイプらしく、ミサキに俺を紹介するよう何度も伝えていたようだ。
最初だけミサキが同席し川越の街を歩いていると、小中学生時代の同級生のちゃぶーこと岩崎智典とバッタリ会う。
ミサキと雪喜、二人のいい女を連れて歩く俺を見て驚き、軽く挨拶してすれ違うと「おいおい、何だよ、岩上」としつこく後をつけてきた。
コイツは昔俺に彼女との仲介を強引に頼み込んできたくせに、その子の職場まで乗り込んでケツを膝蹴りしてくるような屑野郎だ。
「邪魔だからあっち行け」と追い払う。
ミサキに感謝しつつ淋しかった俺は、よく雪喜とデートを重ねた。
先輩の神田さんが店長をするゲームセンター『モナコ』へ一緒に顔を出し、プリクラを撮る。
俺の肩に顔を乗せて甘えてくる雪喜。
彼女の唇はとても柔らかかった。
地元の川越祭りにも一緒へ連れて行く。
これは今まで女連れで歩くなど一度もした事が無く、町内の人間たちから何人声を掛けられたか分からない。
「あ、智一郎さんが女性連れている」
「智一郎さん、彼女ですか?」
「おい、智一郎! 珍しいな、女連れなんて」
少し歩く度にこんな具合。
一旦先輩の経営する『蛇の目寿司』へ避難する。
しかし外へ出ると再び人に声を掛けられ囲まれる始末。
こうなる事ぐらい予想できなかった俺が悪い。
雪喜はゆっくり祭りも楽しめない状況に我慢できなくなり「知り合いばかりで嫌。二人でゆっくりできるところへ行きたい」と泣きべそを掻いたほどだ。
俺が連雀町の山車の傍を離れる訳にもいかない。
だが彼女は祭りの関係ない別の場所へと懇願。
もちろん雪喜の事は気に入っている。
しかし春美の時ほど燃え上がるような感情は持てなかった。
俺は雪喜だけ一人先へ帰す。
川越祭りの楽しさを教えようと思ったのが裏目に出たようだ。
ある日たまには店に来て欲しいというメールをもらい、営業だと思った俺は怒って返信する。
「岩上さんは釣った魚には餌をあげないタイプなんだね」と言われ、面倒臭かったので付き合いを辞めた。
多忙さによる心の余裕の無さが、相手に対する配慮を掛けさせていたのだろう。
先輩の坊主さんから連絡が入る。
内容はこれから先どうしてもパソコン必須の時代になってくるだろうというもの。
なので坊主さんが持つ知識を少しでも俺に教えときたいというものだった。
「えー、俺がパソコンなんて無理ですよー」
面倒臭そうに答えると「智、オマエは昔のゲーム大好きだろ?」と言われる。
「昔のゲームって?」
「インベーダーから始まった今までのアーケードゲームや、ファミコン、スーパーファミコン、ゲームボーイアドバンスとか何でもだよ」
学生時代、彼女も作らずゲームセンターへ通う日々。
セガのマークⅠからⅢ、マスターシステム、メガドライブ、セガサターン、ドリームキャスト……。
セガ系だけでない。
PCエンジン、ネオジオ、3DO……。
俺はほとんどのゲーム機を所有するほどゲーム好きだった。
「そういうの全部またできるぞ」

「サスケ&コマンダーもですか?」
「うん」

「ペンゴもですか?」
「うん」

「クレイジークライマーもですか?」
「だから全部だよ、全部」
俺のツボを完全に知っている坊主さん。
そんな訳で俺は坊主さんと共に秋葉原へパソコンを買いに行く事となった。
当時の標準的なパソコンは『Windows XP』。
俺はパソコン云々よりも、昔のゲームがまたできるという点だけでノートパソコンを買う。
値段は十七万ちょい。
プレステーション2が何台買えるんだとは思ったが、仕方のない投資だ。
坊主さんはUSB端子でプレステーション2のコントローラーを接続し、ボタンさえ割り振れば、どんなゲームでも操作可能になると説明する。
「パソコンは頭の良い赤ん坊みたいなものだから、何も無いところへこうしなさい、ああしなさいと命令してあげる事が重要なんだ」と説くが、俺には意味がまるで分からない。
しかし目の前で昔のアーケードゲームがあれもこれもできた感動。

川越に当時あったデパートニチイの三階でやったフロントライン。

イトーヨーカドーの屋上にあったスーパーパックマン。

蓮馨寺の敷地内にあった同級生河野隆二の親が営むピープルランドにあったグラディウス。

往年のSNKやADK、データーイーストといったネオジオの対戦格闘ゲームの数々。

これらのゲームにハマったからこそ、当時の俺は進化が遅れてしまったと言い訳をしたいぐらい。

餓狼伝説から龍虎の拳、真サムライスピリッツなど何万種類のゲームができた。
メニュレーターとか坊主さんは小難しい事を言っていたが、俺はパソコンで好きなゲームさえできればいい。
仕事を終えると部屋に籠もり、パソコンでゲームをする日々。
弟の徹也が画面を見て「兄貴のパソコン、何でそんなのできるんだよ? 俺のパソコンでもできるようにして」と興奮気味に急かす。
やり方が分からないので、俺のパソコンで一緒にゲームをした。
坊主さんに会うと、徹也のパソコンでも同じ事をできるようにするにはと質問する。
初歩的なファイルとフォルダー。
基礎中の基礎。
俺はまず大好きだったゲームの仕組みを覚えるところから始まった。
データをコピーしただけでは駄目で、ディレクトリ設定でROMイメージをどこから読み込むのか。
坊主さんの教え方は厳しかったが、システム的な事を暗記するようにして、日に日にパソコンへのめり込んでいく。
雪喜から仲直りしようと連絡があった。
だがゲームに夢中だった俺は、返信せず毎日パソコンばかりいじっていた。
仕事中、番頭の佐々木さんから終わったらちょっと話があると言うので時間を作る。
できれば人気の無い静かな所がいいと言うので、新宿プリンスホテルのロビーラウンジを利用した。
「話ってどうしたんですか、佐々木さん?」
「今から言う事はワイと岩上君だけの秘密にして欲しい。大丈夫?」
いつもとは違う雰囲気の佐々木さん。
これまでの付き合いを考えると信用できる人なので、俺は黙ったまま頷く。
「オーナーの中川さん…、株や土地開発の失敗で十数億の借金抱えとるんや」
「えっ!」
思わず漏れる声。
「それでワールドワンもあと三ヶ月間で終わりになる」
「……」
一度は荒らされたが、ここまで店を復活させたのに後三ヶ月?
「他の店の番頭だった湯沢君が数ヶ月前に辞めたやろ? あれは彼が中川さんに五百万貸すのを渋って辞めたと言うかクビにさせられたんや」
「つまり金を貸すか、クビかを選択させられたと……」
「ワイは五百…、貸している。でも、もう回収できへん」
「は、はい……」
「ワイと岩上君が組んだら上にはバレへん。だからワイの金取り戻したいから、岩上君! ワイと組んでくれへんか?」
つまり店の金を抜くという事だろうか?
佐々木さんは本当に人がいい。
これまでだって何度も手痛い目に遭っても、スタンスは変わらない。
「分かりました…。俺は佐々木さんに色々と恩があります。それで佐々木さんが助かるなら協力します」
「店が閉まるのは従業員にも客にもまだ内緒にして欲しいんや」
「はい、分かりました」
「それで方法なんやけど、店内ビンゴあるやろ? あれのチェックって、ワイがチェックしてそれでシュレッダーに掛けて終わりなんや。つまり…、あれが何本出たところでいくらでも誤魔化せる」
「……。はい……」
「一日何本か水増しするから、そこでその分の金を別にしといて欲しいんやけど……」
「分かりました…。それで佐々木さんが助かるなら……」
「もちろん儲けは折半でええ」
「いや! 俺はいらないですよ。佐々木さんさえ金を戻せるなら」
「駄目や。こういうのは折半で行かへんと必ず綻びが出る」
五百万もオーナーの中川にいかれて何を言ってんだ、この人は……。
「でも俺は佐々木さんにこれまで散々良くしてもらいました。だから俺の分まで……」
「岩上君! 頼むわ! この条件で引き受けてくれんか?」
真剣な眼差し。
折半以外の条件は一切受け付けないといった強い意思。
「分かりました……」
この日より俺と佐々木さん、たった二人だけの秘密が生まれた。
店内ビンゴを使った抜き。
一回で五万。
二回やれば十万。
毎日少ない時で二回、多い時で六回。
つまり給料とは別に五万から十五万の金が舞い込んで来るようになった。
最初の頃は佐々木さんが全部取るよう伝えるも、折半以外受けつけない。
たまにイベントなどをする時は、さらに拍車が掛かる。
本来の給料が店長手当込みで五十万ちょっと。
それ以外に抜いた金額が他の従業員には内緒で日々数万、十数万と入ってくるのだ。
出勤すればするほど、金は打ち出の小槌のように入ってくる。
俺は金銭感覚が一気に麻痺していく。
他の従業員に対する罪悪感はもちろんある。
しかし佐々木さんとの約束で言う訳にもいかない。
何でもない状況なのに従業たちへ食事をご馳走したり、たまに風俗へ連れて行ったりと不自然な行動をするようになる。
心が日に日にドス黒く染まっていく。
俺は最初のゲーム屋ベガ時代。
どこか高橋ひろしを軽蔑していた。
だが、実際にこんな簡単に金が抜ける仕組みを覚えてしまった今はどうか?
誰がどう見ても歌舞伎町の闇の住民として、日々堕落していくだけ。
仕事から家に戻ると、徹也が新しいパソコンを買ったので、またゲームをできるようにして欲しいと頼んできた。
やり方は熟知していたのでデータを移しながら、お互いの近況を話す。
一番下の弟の貴彦。
彼は家のクリーニングを継ぐまではいかないが、家業を手伝って生活している。
いつだったか「兄貴もてっちゃんも好き勝手やってるから、俺がこうなったんだ」と責められた事があった。
それなら従業員は一杯いるのだ。
勝手に継いだのはおまえの意思だから、嫌なら辞めろと返した。
そんな経緯もあり、貴彦は俺を毛嫌いしているところがある。
しかしその弟が趣味のサーフィンで脇の下を怪我し、仕事ができない状態が続いているらしい。
「アイツ金も無くて無口な引き籠もりみたいになってるよ」と徹也は言う。
徹也のパソコンをゲームがまたできる環境に整え、久しぶりに貴彦の部屋へ行く。
俺が高校卒業して自衛隊に行く事で、貴彦へ明け渡した部屋。
暗い表情で横になりながら漫画を読んでいた。
「おう、貴彦。オマエ怪我したんだって?」
「兄貴が家を継がないから……」
「もうその話はよせ。誰もオマエにやれなんて頼んでいない。嫌ならやらなきゃ良かったんだ」
「……」
「金も無いんだろ?」
俺は財布から適当に札を取り出し、貴彦の目の前に置く。
金額にして二万円いかない程度。
どうせ毎日必要以上に入ってくる金の一部をあげただけ。
俺には痛くも痒くもない。
「兄貴…、いいのかよ……」
「黙って受け取れ。今まで兄らしい事なんて何もしてなかったからな」
「あ、ありがとう……」
この日から毎日のように貴彦へ小遣いをあげるようになった俺。
月でだいたい二十万程度の金を渡すようになった。
それまで特別仲良くもなかった貴彦は、変に俺へ懐くようになる。
毎日のように金をあげているのだ。
繋がりは金とはいえ、俺を頼りにするだろう。
徹也からは「兄貴は貴彦を甘やかし過ぎだ」と何度も言われた。
自然と貴彦の部屋には同級生連中が集まるようになる。
俺にとっては四つ下の後輩になるから、ピザの宅配を取ったり、全員を近所の呑龍に食事へ連れて行き、驕ったりした。
ある日貴彦の彼女の麻美が声を掛けてくる。
「お兄さん、今週末歌舞伎町の〇〇ビル分かります? そこで私たちのダンスイベントあるので、良かったら顔を出してくれませんか?」
麻美はプロのダンサーをしているが、それで食べていけるほどではなかった。
「あみっこ、そんなの貴彦に言いなよ」
「だってたーちゃんお金もそんな無いし、まだ無職で部屋に籠もっているから行かないって…。その日私の誕生日なんですけどね……」
「分かったよ。俺から貴彦には説得しておく。絶対に行けと。あとその日新宿プリンスホテルなら顔利くから、部屋も俺が取ってやる。二人で泊まって祝ってもらいな」
「ありがとうございます、お兄さん!」
この子と貴彦が結婚したら、俺の本当の妹になる。
ミサキは俺が勝手に妹と見立てているだけ……。
今まで気を掛けてやれなかった罪悪感。
兄貴らしく妙に格好をつけたかった。
貴彦に金は払うから新宿プリンスホテルの部屋をその日取るよう指示する。
数日後状況を聞くと、週末で予約一杯で取れないと言う。
仕方なくプリンスホテルの支配人へ電話を掛ける。
ゲーム屋プロ時代に構築した関係は、未だ有効だった。
「お久しぶりです、岩上です。いい部屋を一つ、この日にお願いしたいのですが……」
支配人はすぐいい部屋を用意してくれる。
貴彦は驚いた顔をして俺を見ていた。
「いいか? 予約した部屋、俺だって泊まった事が無いほどいい部屋なんだからな。少しは感謝しろよ」と言いながら、貴彦へ一万円札を渡す。
黙って受け取る弟。
「無駄遣いするなよな」
俺はそれだけ言うと、部屋に戻って寝た。
麻美の誕生日当日。
俺はもちろん仕事でワールドワンにいる。
兄弟にも歌舞伎町でゲーム屋をしている事は内緒にしていた。
貴彦からメールが入る。
『兄貴、今日はありがとう。あみっこもすげー喜んでいたよ。 岩上貴彦』
今日はそこまで忙しくないので山下に状況を伝え、少しだけ外に出る事にした。
貴彦、麻美カップルと待ち合わせ、食事を振る舞う。
普通の一般人では近付かない風林会館近くの路地にある中華料理『叙楽苑』へ連れて行く。
別れ際麻美に一万円札を握らせ「せっかくの誕生日なんだから貴彦と最上階のバーのシャトレーヌでも行って乾杯して来い」と送り出す。
俺が何の仕事をして稼いでいるのか二人共気になって仕方がない様子だったが、裏稼業を理解してもらおうとは思わない。
いいから行けと追い払う。
弟カップルを見送ると、俺は店へ戻る。
自分自身彼女がしばらくいない状況なのに、一体何をしているのだろうな……。
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以前ミサキが紹介してくれた雪喜。
もう少し俺が辛抱してうまく付き合うべきだったか。
いや、自分のキャバクラに誘導するような女はイマイチ信用できない。
春美……。
今頃どうしているのだろうか?
あの子を口説けなかったのがすべてだ。
俺はとても淋しい。
貴彦の面倒など見ている場合かよ……。
何とも言えない気持ちになりつつ、今日もゲーム屋の仕事をこなす。
ワールドワンの従業員の岡本から店に電話があった。
「すみません、岩上さん。ちょっとトイレの大我慢できなくて…、少しだけ遅れてしまうんですが……」
「ああ、いいよ。漏らすなよ」
この日岡本は五分ほどの遅刻で出勤する。
また三日後に同じ電話をしてきた。
そのあとも似たような状況は続く。
「岩上さん、すみません…。ちょっとまた漏れそうで……」
俺は岡本が店に来てから呼び出して注意した。
「オマエさ…、毎度毎度同じ事言ってっけど、そんな遅刻するような時間帯に同じ事になるなら、電車を1、2本早く乗れば済む事じゃねえの?」
「は、はい……」
「次からは悪いけどそんなの通用しないから。みんな時間通りに来てんだよ」
「分かりました。すみません……」
緊急時を考慮するのと、甘やかすは違う。
どんな仕事だろうが、時間に必須なのは変わらない。
この日仕事終わりに佐々木さんと、新宿プリンスホテルのロビーラウンジで待ち合わせる。
今日はビンゴ五万を六回偽造で三十万。
佐々木さんは十五万を渡してくる。
少し前なら抵抗もあった。
今の俺は普通に受け取っている。
俺自身どんどん薄汚れているのだろう。
店の二番手として育てていた伊藤。
彼はラップのミュージシャンと兼用で働いているが、好評の東北ライブの回数が増え、どうしても四日間の休みが欲しいと懇願してきた。
伊藤にとってチャンスなのだ。
店はキツくなるが、みんなでカバーすればいい。
従業員に伊藤の件を伝えたところ、山下と望月はその間休みを取らなくても大丈夫と了承してくれる。
岡本だけはどうしても用事があるので、一日だけ伊藤と休みが被ってしまう。
今の状況を三人で回す……。
まあ俺が休み時間取らないでやれば、何とかなるか。
しかしこういう日に限って店は皮肉にも忙しい。
俺と山下とまだ入って数週間の新人望月。
ゲーム屋は忙しくなると、とにかくINが多くなるので必然的にホール内を所狭しと駆けずり回るようだ。
過去この忙しさから一日二日で根を上げ、辞めていった新人も数えきれないほどいる。
中々従業員を食事休憩すら回せない現状。
「望月、奥で一服してきなよ」
「いえ、まだ大丈夫です!」
「いいって無理すんな。俺がキャッシャーやりながらホールも見るから大丈夫だよ」
とりあえず望月にタバコの一服休憩を行かせるのがやっとな状況。
「岩上さん、飯休憩まだすか」
山下が隙を見て声を掛けてくる。
「悪いけど、まだ無理だよ。客が全然引かない」
「俺、早番の大倉さんと飯休憩で一緒に行く約束してて、まだ外で待ってんですよ!」
「知らねえよ、そんなの。オマエと大倉が勝手に決めただけで店には何の関係も無いだろ」
「でも、大倉さんまだ待ってるし」
「仕事中だ! 店の事を優先して考えろ。とりあえず望月が一服から戻ったら、山下行って大倉に電話くらいしておけ」
不服そうな山下。
気持ちは分からないでもないが、仕方ない事だ。
山下の一服も回し、望月に食事休憩行くよう促す。
「ごめん、いつもなら一時間いいんだけど、今日だけ四十分でお願いできる?」
「いや、俺飯大丈夫ですよ」
「いいから行ってこいって。こっちは大丈夫だから」
望月に飯代を渡し行かせる。
十五分もしないで口をモグモグしながらホールへ出てくる望月。
「おまえなあ……」
「もう食べ終わりました。大丈夫です」
素直に望月の好意を受け取る事にした。
そのぐらい二人で回すには、ワールドワンは広過ぎる。
「岩上さん、俺の飯休憩まだすか? 俺の飯休憩……」
横で山下がうるさいので、仕方なく行かす事に決めた。
俺さえいれば、四十分ぐらい何とかなるだろう。
「おい、山下。今日は本当人もいないし、忙しいから四十分だからな、悪いけど」
大倉に断りの連絡をしていなかったのか、山下はすぐ外へ飛び出した。
二人きりで回す地獄の忙しさの店内。
望月は汗だくになりながらホールを駆け回っている。
俺も片側の列のINとOUTをしつつ、四カード以上の役や一気が出るとキャッシャーへ戻り、プリントアウトしながら用紙へ記入しなければならない。
本来ならホールで最低二人、キャッシャーに一人はいないと難しい。
時計をチラリと見る。
正確な時間は覚えていないが、山下が休憩行ってから一時間は過ぎているはず。
この忙しい現状を知りながら、何をしてんだ、アイツは……。
こちらの都合などお構いなしに札を出しINを要求する客。
俺と望月はひたすら駆け寄りINキーでクレジットを入れる。
「ロイヤル!」
五卓の客が叫ぶ。
「少々お待ち下さいっ!」
キャッシャーへすっ飛び、プリントのボタンを押す。
その時入口の扉が開き、山下が戻ってきた。
食事へ出てから一時間半は経っている。
「オマエ何を考えてんだよ!」
思わず怒鳴りつける俺
「四十分って言ったろ! 何やってたんだ、ボケッ!」
少々顔の赤い山下。
酒でも飲んできたのか、コイツ……。
「おい、何を黙ってんだよ?」
「……」
「何でこの状況を知りながら酒飲んで、一時間半以上も飯食ってんのかって聞いてんだよ!」
「自分、責任取って辞めますよ!」
不貞腐れたように口を開く山下。
「あ? 今、何て言った?」
ホールでは望月一人が必死に駆けずり回っている。
「辞めればいいんでしょ、辞めれば」
俺は山下の胸倉を掴んでいた。
「オマエ…、ホールで新人の望月があんなに一生懸命やっているのに、何とも思わないのか?」
「だから辞めれ…、うぎゃーぁーっ!」
気付けば俺は山下の頭に頭突きをお見舞いしていた。
両手で頭を抱えながらホールの床を転げまわる。
あれだけポーカーに熱中していた客たちの音が止む。
みんな、転げ回る山下を見て、唖然としていた。
俺は首根っこを掴んで立たせ、奥の休憩室へ放り投げる。
「大袈裟なんだよ、オメーは」
すぐさまホールへ戻り、望月と客の相手を始めた。
さすがにもう限界だ。
隙を見て佐々木さんへ連絡をし、他の系列店からヘルプに来てくれるよう頼む。
三十分ほどして山下が頭を片手で押さえながら、フラフラとホールへ出てきた。
「殺すんなら殺して下さいよ!」
大声で怒鳴る山下。
俺は一発殴り、荷物と服を入口の外へ放り投げる。
山下も外へ投げ捨て「オマエはクビだ。とっとと出ていけ!」と怒鳴りつけた。
何とも遣る瀬無い気持ちになる。
二年以上共に働き、吉田のせいで辞める時だって俺は身体を張ったつもり。
何故こんな馬鹿なのか、アイツは……。
ようやく系列のアリーナから黒岩、チャンプから中島がヘルプに来てくれる。
そこで初めて望月をゆっくりさせる事ができた。
山下の奴、何故場面が読めなかったのだ?
あそこまで馬鹿だったとは。
とても情けない気分だった。
家に帰りとりあえず寝た。
精神的に非常に疲れている。
佐々木さんからはもう少しうまく従業員を使うよう言われたが、山下みたいな馬鹿をどうやってうまく使えと言うのだ。
妙な苛立ちがずっと残っていた。
いや、佐々木さんからしてみればワールドワンも残り数ヶ月でおしまい。
屑な従業員だろうと何だろうと、店がそこまで普通に回っていればいい。
俺の配慮が…、いや、無理だろ、そんなもん……。
部屋のノックが鳴る。
弟の貴彦が友達来てるからピザの宅配を取っていいか聞いてきた。
「おう、適当に頼みな。少し俺も食べたいけど、来るまで寝ているからピザ届いたら教えてくれ」
色々考えている内に俺はそのまま寝てしまう。
身体を揺さぶられ起こされる。
「やっと起きた。もうピザ来てるよ」
貴彦が目の前にいたので、一万円札を渡し支払うよう伝えた。
少し俺もピザをもらうか。
顔を洗い、三階の貴彦の部屋へ行く。
「あ、お兄さんご馳走になってます」
後輩…、貴彦の友達らがみんな頭を下げる。
ピザに手を伸ばし俺も一緒に食べた。
「そういえば貴彦。ピザのお釣りは?」
「ああ、あれは俺の手間賃としてもらっといた」
友達の前なのか弟は変に笑いながら余裕を見せている。
「オマエ、それはちょっと違うだろ?」
山下の一件もあり、心にイラつきが募る。
「兄貴は金持ってんだから、細かい事気にしない方がいいよ」
そう言って下品に笑う貴彦。
俺の表情が怒りで覆われていき、貴彦以外の同級生は下を向けて黙り出す。
「……」
散々金を無償であげ、コイツの彼女の麻美の誕生日には新宿プリンスホテルで豪華な部屋を取って金まですべて出してやり、途中途中小遣いだってやっている。
それでこの言い草は何だ、このガキ……。
「兄貴はさ、金稼ぐのはうまいけど、金の使い方を知らないから俺が使ってやってんだ」
得意げに話す貴彦。
俺は立ち上がり、顔面を蹴っ飛ばす。
「図に乗ってんじゃねえよ、小僧が!」
怪我して引き籠もって大変だと思い、少しは兄らしい事をと金を定期的にあげてきた。
それがこんないい気にさせ、図に乗らせていただけとは……。
「もうオメーには金なんてやらねえよ」
黙っている後輩たちを無視して俺はドアを思い切り閉め、部屋へ戻った。
闇 21(ゲーム屋地獄変)
2024/08/13 tue
2025/07/15 tue
前回の章
今までで一番長く働いた場所になったワールドワン。
思えば自衛隊から始まり、変な平子の広告代理業、原一探偵事務所、妙な教材売り、横浜のシーパラダイス、共同商事、全日本プロレス、グリーンプラザ上越、浅草ビューホテル、そして歌舞伎町……。

新宿でも十円レートのベガから始まり、チャンプ、エース、プロ、それから今のワールドワン。

俺も三十二歳。
社会に出てからもう十四年経ったのだ。
金が無かったあの若い頃に比べたら、比較にならないほどの金が入ってくる。
しかしこの夢みたいな現状もあと二ヶ月。
それでワールドワンは終わるのだ。
従業員や客へ言えないもどかしさ。
俺と佐々木さんの二人で店の金を抜く秘密。
本当はリングの上で戦って生きたかった。
不完全燃焼の総合格闘技。
ピアノもザナルカンドは弾けるようになったものの中途半端な状態。
そして一般人離れした肉体だけが残った。
あの店が無くなったら俺はどうするのだろう。
先の事を考えてみたが、何も分からなかった。
クビにした山下の代わりに新人の西森、そして廣木が店に入ってきた。
西森は明るくとっつきやすい性格。
廣木は俺と同じ年でとても無口だが、ゴルゴ十三をこよなく愛し、その話になると無性にお喋りになる変な男だ
系列店のチャンプの遅番に警察が入り、責任者の有路と新人の中谷が捕まったという情報を聞く。
プロレス好きの有路とは話が合い、たまに仕事を終えてから食事へ行く仲だった。
そんな時でも俺はいつも通りワールドワンで働くしかない。
チャンプの二番手の原から連絡があり、一緒に焼肉へ行った。
原と有路はとても仲が悪い。
俺がチャンプに顔を出すと、どちらもいない方の悪口をいつも言っている。
チャンプがパクられた二日後、新人の中谷だけが釈放。
本人曰く、自分には強力なコネがありそれを駆使して出てきたと原は言う。
まだ出てこれない有路の事が心配ではあるが、俺には何もできる力が無い。

同じく系列店のリングが捕まる。
歌舞伎町に来て最初に働いた世永もやられたらしい。
俺は彼の紹介があって今のワンオン系列で働く事になった。
世永には弟がいて、弟は系列店のチャンピオンで働いている。
佐々木さんが店に来て、もう無くなったプロの責任者の横道から連絡があり、一からのつもりで働くからワールドワンで雇ってもらえないかと言ってきた。
しかしあと一ヶ月くらいしかこの店は持たない。
プロが無くなり他の店で働いたものの人間関係で揉めては辞めを繰り返し転々としていたのか?
あの客と衝突する猪突猛進な性格は直っていないだろう。
そう思うと哀れに思う。
だが、あの横道が路頭に迷い、プライドまで捨てて頼んできたのだ。
一応伊藤や岡本に相談してみた。
「岩上さんの元上司なんですよね? しかも過去揉めた事がある…。そんな人来たら仕事働き辛いです」
可哀想だが、俺は佐々木さんに横道は無理と断った。
シャブに手を出しトザンの銭に手を出してチャンプをクビになった久保田から突然連絡が入る。
聞いただけの話だが、林と同じ〇〇連合のヤクザへ入ったものの、現在組の金を持って逃走しているはずだ。
「久保田さん! 今どうしているんですか?」
「た、助けて……」
彼の言う助けるとは何か?
ロクでもない事に引きずり込まれるのは明白だった。
「何でシャブなんかやったんですか……」
「だって…、しょうがないじゃん……」
「いくら必要なんです?」
「五百……」
さすがに無理だ。
今の俺の持金の額じゃ足りない。
一万、二万なら気楽にあげられた。
いや、昔からの付き合いだ。
十万くらいならあげても良かった。
しかし絶対に返ってこない金五百万なんて無理だった。
それにそこまでの金は持っていない。
俺は丁重に断る。
「ごめんね、岩上君……」
それだけ言って久保田は電話を切った。
通話を終えてから、何とも言えない虚無感に包まれる。
だって無理だろ、どう足掻いたってさ。
自分で勝手にシャブに手を出して、金持ってとんずらしたのだ。
自業自得だろう?
でも彼は最後に俺へ救いを求めてきた。
いや、だからできる事できない事があるだろ?
久保田のは完全な後者だ。
答えの出ない自問自答。
俺はジャズバーのスイートキャデラックに行き、グレンリベットを飲んで現実逃避をする。
吐き出した煙が空に消えていくのをただ黙って眺めていた。
歌舞伎町内だけで百軒はあると言われたゲーム屋。
世の中の流れが変わってきたのか少しずつ減ってくる。
以前なら街を歩いていると、必ず一円玉か十円玉のマークが入る電光看板がどこにでもあった。
客はそれでレートが一円か十円か理解して自由に入ってくる。
減ったのは我がワンオン系列にしても同じだった。
系列店のアリーナは、元々業績不振の為閉店。
責任者のロン毛の佐藤は今後どうするのだろうか?
彼がまだリングへ居た頃、よく仕事終わり食事へ行った。
でも俺にはどうする事もできない。
どんどん寂しくなっていく。
明日は我が身、だが佐々木さんと組んで店の金を抜いている俺はまだマシなほうだろう。
そんな中、地元の先輩である土方智こと坊主さんから中目黒にある会社プロハウスに一度招待され伺う。
パソコンだらけの会社は、セキュリティ万全なサーバー室まであった。
十二畳くらいの中にはモンスターサーバーが置かれている。
深夜、店を抜け出しての時間帯だったので、当然社内には坊主さんと俺しかいない。
「智、ちょっと待ってて。仕事片付けちゃうから」
そう言いながら大きなモニターの上に置いてあるキーボードに両腕を上げたままタイピングしている。
俺と他愛ない話をしながら、モニター横にあるレバーを下に倒し、今度は目の前のキーボードを叩いていた。
「それは何をやってんですか?」
「ん? ああ…、上のキーボードがマックで、下にあるのがウインドーズ。モニター横のレバーは上にやればマックの画面、下でウインドーズ。変換機だね」
言っている意味がさっぱり分からない。
坊主さんの意図は業界最先端を見せて、俺へさらにパソコンを興味持たせようとしたようだ。
これまで身体一つで生きてきた俺にとって、パソコンが便利なのはとりあえず理解はできる。
しかしさらに追求となると、頭がパンクしそうだ。
人間得手不得手がある。
翌日、有路がようやく釈放される。
一ヶ月近く拘留されていた。
通常なら刑事拘留の二十四時間。
そのあと東京地方検察庁により、十日交流が二回で二十日。
計二十二日で起訴されなければ釈放されるはずだが、目一杯中にいた事になる。
二日ほどですぐ釈放された中谷。
アイツせいで大変な目に遭ったらしい。
「あの馬鹿よ…。最初の刑事拘留の時にベラベラ喋りやがってよー」
「え? だって捕まったら系列毎のマニュアル通りにって話じゃないですか」
ここでいうマニュアル。
例えば俺が捕まったとする。
その時店内にいる従業員すべて捕まる訳だが、取り調べではみんなただの従業員で給料は一日一万、社長は店に電話くらいしかしてこないという決まり事があった。
ポーカーなど小便刑で軽いので、名義を張る社長が出頭して終わり。
だから変に誰が責任者で店長でなど余計な情報は警察へ話さない。
そうすれば二十二日も掛からず従業員は数日で釈放という感じだった。
だが中谷は組織の全貌を可能な限り、すべて謳ってしまったようだ。
一緒に捕まった有路が責任者で、夜中に番頭の佐々木さんや片桐が店の状況を確認しに来る刑事へ報告し、自分だけとっとと釈放へ持っていったらしい。
残された有路は悲惨である。
調書が全然違うじゃねえかと刑事に責められ、組織が弁護士を入れるまでひたすら黙秘して頑張った。
「出てきて佐々木さんから十万はお疲れでもらったけど、喫茶店で話してたら、オマエと原は仲良さそうに焼肉屋から出てくるしよう」
「それについてはすみません。ただ有路さんが出てきたのを聞いてないし、本当に知らなかったんですよ」
有路の誤解を解き、ここの食事を奢る事で何とか機嫌を直してくれた。
浅草ビューホテル最上階スカイラウンジベルヴェデール時代の上司、林から連絡があった。
話を要約するとホテルの給料だけでは生活がキツく、何か仕事がないかの相談。
「それはホテルを辞めたいって事ですか? それともホテルを続けながらの兼業として?」
「もちろんホテルをやりながら副業って言うの? 岩上、裏稼業って言っていたから何か無いかなと」
確かに裏稼業だが、ゲーム屋で週一、二だけ働く訳にもいかないだろう。
それにこの店で働くにしても、あと一ヶ月しかない。
「少し時間下さい」
俺は電話を切り、従業員に何か金になるいい仕事はないか聞いてみた。
岡本があると言ってくる。
内容を聞くと、クレジットカードを使った詐欺だと言う。
「犠牲になる人いるからヤバいだろ?」
「いえ、それがクレジットカード会社は保険があるから、犠牲になった人は後々保証受けるので、誰も被害受けないんですよ」
よく分からなかったが、とりあえず林に伝えると実際に会って話を聞きたいと言う。
二人同時に店は休めないので、夜十時の出勤に間に合うよう七時くらいに浅草へ行く約束をした。
ワールドワンの従業員岡本と浅草ビューホテルへ向かう。
最上階ベルヴェデールから同じ階の会員制バーのセントクリスティーナへ移動となった林。
今日は小沢も休みで林一人だったので、こちらへ通される。
クレジットカードを読み取る小型の機械を見せながら仕事の内容を説明する岡本。
俺は分からないので横で酒を飲みながら、久しぶりの浅草の夜景を眺めていた。
どうやら林はやると決めたようで、岡本から機械を受け取る。
専門外なので俺は何も言わなかったが、帰り際「あまり無茶だけはしないで下さいね」とだけ伝えた。
調子のいい岡本の話である。
紹介しておいて一抹の不安を覚えた。
チャンプの有路から連絡が入り、逃げていた久保田が警察沙汰になってニュースで報道されたと聞かされた。
「ニュースですか?」
「ああ、アイツよ…。組の金盗んで地方のストリップ劇場に住み込みで働いていたらしいんだよ。ヤクザの情報網ってそういうの警察より上だからさ。すぐ見つかったんだよ」
前にあった久保田からの電話。
あれは捕まるちょっと前だった。
「ヤクザに自分で運転しろって、車を運転させられ高速で新宿まで戻る途中、このまま戻ったら殺されると思ったんだろうな…。アイツ、中央分離帯へ車をぶつけたんだよ」
「そんな事したら警察来て大騒ぎですよね?」
「もちろん。それで久保田は駆け付けた警官の拳銃奪って、発砲したんだよ」
「ヤクザにですか?」
「いや、警官へ向かって」
久保田ってそんなヤバい奴だったの……。
そりゃニュースにもなるわと思った。
「ただ警官の拳銃って一発目は空砲で殺傷能力無いんだよ。それで二発目を撃とうたして、警察に取り抑えられって感じみたい」
話を聞いていてゾッとした。
あの時少しでも金を貸して関わり合いになったら、俺も巻き込まれていた可能性があったのだ。
この一件以来、久保田の消息はどうなったのか不明である。
いつもの常連客が揃い、今日もワールドワンは忙しい。
以前働いていた石黒が『天龍』という仇名をつけた客が来る。

当時俺は奥でタバコを吸っていたことろ、石黒がわざわざ天龍が来たと言うので本当かよとホールへ見に行くと、プロレスラー天龍源一郎のようなパンチパーマが伸びただけのひょろい身体の別人だった。
ただワールドワンの天龍は毎回そこそこいい勝負をしていくのでいい客である。
店の設定はすべて俺がしていた。

全十四台の内、三台は最悪設定。
本日の殺し台は一卓、八卓、十三卓。
ほぼ満席で空いているのは十三卓しかない。
天龍は結構使ういい客なので、できれば殺し台には座らせたくなかった。
「山下さん…、この台昨日派手に出ていたので、あまりやらない方がいいと思うんですよ……」
本当は山下という名前だか、従業員同士で分かり易く天龍と呼んでいるだけ。
「だってここしか台空いてないんでしょ?」
「ええ…、そうなんですが…。その内他の台も空くと思うので、あまりダブルアップでバンバン叩かず、テイク入れながらゆっくり打っていた方がいいかと……」
本当は最低設定だから座るんじゃねえと言いたかったが、そうもいかない。
俺はこの台から遠ざけるよう苦しい言い訳をするしかなかった。
こういう日に限って中々台は空かない。
天龍はどんどん熱くなり、ダブルアップをバシバシ叩いている。
小声で西森に「天龍、いくらくらい入れた?」と聞くと六万は使ったようだ。
その時前の十二卓が空いたので掃除してキープし、天龍の元へ行く。
「山下さん…、前の卓空いたんでどうでしょうか?」
天龍はジロリと一瞥してから「もう六万入れてんだよ、この台に」と怒っている。
だから最初に注意したじゃねえかよ、このパンチが……。
そう言いたいのをグッと堪え、出金伝票を目の前に出した。
再び俺を見る天龍。
「山下さん、特サで五千入れるんで、前の卓でやってみて下さいよ」
この特サとは特別サービスの事で、結構金が入ったいい客に俺の権限で五千円単位のクレジットを入れる事を指す。
天龍は黙って立ち上がり、十二卓へ座る。
一応ハマった十三卓もキープはしておく。
ヒュンヒュンと音が鳴る。
タイミング良く移ったばかりの天龍がストレートフラッシュを出した。
金額にして一万五千円。
天龍は間髪入れずダブルアップで叩く。
ヒュンヒュン、バー……。
ストレートフラッシュの一気。
これで天龍は三万円の金を取り戻す。
ポーカーフェイスを気取る天龍。
だが嬉しかったのか口元はニヤけている。
十二卓が赤い画面で強制OUTしている間、天龍は再び突っ込んだ十三卓へ戻って打ち出す。
まあこれでメインは十二卓になるからいいかと俺は業務へ戻り、ホール全体を意識しながら働く。
結局ポーカーにのめり込んだ天龍は、俺らが交代の時間になっても打っている。
懲りずに魔の十三三卓を選んで打つので、これ以上何も言いようが無い。
早番には天龍が五万入る毎に特サを切っていいからと言って帰った。
夜になり出勤すると、天龍はあのまままだ店で打っていた。
「いくら入ったの?」
大倉に確認すると、現時点で二十三万負け。
少し入れ過ぎだが、俺は天龍の元へ行き、十二卓で特サを入れ勧めてみる。
黙って移動する天龍。
いきなりフォーカードが出てダブルアップした天龍は「もうその台はいい」とぶっきらぼうに言った。
言われた通り、十三卓を掃除して空けると、ケンチャンの細かい客が入ってきてそこへ座る。
「いいんですか、あんなガジリに十三座らせちゃって」
伊藤が小声で近付いてきた。
ケンチャン…、別名をガジリ、または乞食と業界用語で呼んでいる。
「自分でもういいと、台を空けたんだから仕方ないよ。いつまでも二台キープなんて無理だし。それにあの台設定最悪にしてるから……」
「おっ、ロイヤル!」
十三卓へ座ったばかりのケンチャン客は、いきなりロイヤルストレートフラッシュを引く。
即テイクボタンを押し、三万を確約する。
台を移ったばかりの天龍には可哀想だが、しょうがない。
「……」
金も尽きたのか天龍は無言のまま立ち上がる。
キャッシャーの前を過ぎる際、こちらを見てニヤリと口元を歪めながら店を出た。
薄気味悪かったので、廣木に後を付けるようお願いする。
天龍が出ていっても店内は忙しい。
ロイヤルを引いたケンチャンはオリ二千円だけやって帰ろうとしたので、出入禁止にした。
廣木が戻ってくる。
「天龍どうだった?」
「最初はうちのビル…、壁に住所のパネルあるじゃないですか」
「うん、小さいのが貼ってあるよね」
「それ見て何かメモしていたんで、ヤバいなとは思ったんです」
「それで?」
「そのまま付けたら、真っ直ぐ駅の方向へ行って、アルタ前の新宿駅東口の階段降りて行ったんで、戻ってきたんです」
「そう…、最初のビルの住所を見ていたのが気味悪いね」
廣木を一服させる。
最低設定の台で二十四時間打ち続ければ、そりゃあ二十数万負けるよな……。
何とも後味悪い結果になったが、これも賭博商売。
次来た時良く接してあげればいいか。
合間を見て、西森から食事休憩を回す。
彼が店を出てすぐ電話が入る。
俺はキャッシャーに置いてある受話器を取ろうとして固まった。
キャッシャー奥には小さなモニターが二つ設置され、一階の入口から地下への階段、そして扉の前の通路が映るようになっている。

そのモニターに盾を持った人間がズラリと階段に並んでいるのだ。
しかも入口のガラスの扉を外からソーッと伺う警官…、いや、これ…、機動隊か?
「い、岩上さん…、そ、外に盾持った連中が店を囲んでいます……」
「ああ、カメラで見えてるから分かる。西森、オマエはどこにいる?」
「食事で外に出ようとしたら、盾持った連中がこっち来たので、慌ててビルの階段上りました」
「分かった、西森はそこにそのままいろ。もし何か聞かれたら、上の風俗の店員だと誤魔化せ」
電話を切る。
店内はほぼ満席状態。
機動隊は突入するタイミングを見計らっているように見えた。
ここに機動隊が盾持ったまま突入されたら、大パニックになるぞ……。
俺は従業員たちに小声で客全員にゲームをやめさせるよう伝える。
そして合図をしたら、すぐ逃げられるよう準備させた。
俺から外へ出てみよう。
店内が静まるのを待ってから、ドアを開け外へ出た。
ガシャガシャ……。
一斉に機動隊全員の盾が俺に向く。
「何ですか、一体!」
俺が大声を出すと、機動隊はポカーンとこちらを見ている。
入口近くにいた隊員が「な、中で何もないんですか?」と聞いてきた。
「何もないとは?」
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「百十番通報ありまして、こちらのビルで三十代の髪の長い男が銃を乱射していると聞きましてね」
「そんな訳ないじゃないですか!」
階段から機動隊をどけながら、スーツを着た中年男性が降りてきた。
この中の責任者だろう。
「どうも…、百十番通報受けといて、どうせガセだから出動しないなんてできないんですよ、私らは」
「は、はい…、仰る通りですよね……」
「中にお客さんいますよね? パニック起こされても困るんで、私が今から中で説明します」
まだ誰も客は機動隊が外にいるなんて知らないのだ。
そんな真似されたら、それこそ大パニックになってしまう。
「いえいえ、中の人たち誰も知らないんです! だから大丈夫です! うちは健全にやっていますので……」
「うーん、でもなあ」
「いや、刑事さん! 本当にうちはイカサマも無ければ健全に…、本当に健全にやってるんですって!」
裏稼業のゲーム屋で健全もクソもないが、とにかくこの機動隊の親玉を中へ入れないよう必死だった。
「うーん」
「ご多忙の中お疲れ様でした。ほんと中での説明は大丈夫ですので……」
俺は入口で壁になり、親玉を通せんぼするような形で必死に口を動かす。
「まあ、何も無いならいいでしょう…。これで引き上げますから」
「ほんとお疲れ様でした!」
俺は機動隊全員が階段を上がり外へ出るまで、深々と頭を下げたままでいた。
よし、やっと引き上げてくれたよ……。
店内へ戻ると、みんないつものようにポーカーをしている。
呑気なものだ
こっちは寿命が縮まる思いをしたのに……。
それにしても機動隊の群れに自分から突入したなんて、いい経験をしたものだ。
いやいや、二度とあんな真似ごめんだ。
とりあえず騒動は治まったので、佐々木さんに連絡を入れておくか。
従業員たちに簡単な先程の様子を伝えておく。
みんな監視カメラで、俺とのやり取りを見ていたらしい。
客は誰一人、外の騒動は知らないと言う。
「分かった、俺は外で佐々木さんへ連絡入れとくよ。こういう事があったって」
階段を駆け上がり、一番街通りにさっきの機動隊がいないのを確認する。
よし、いないな……。
俺は携帯電話を取り出し、佐々木さんへ電話を掛けようとした。
「おいっ! オマエここの店長か?」。
いきなり肩を掴まれ、目つきの悪そうな三人の男が立っていた。
全員スーツ姿。
どう考えても刑事にしか見えなかった。
目の前で俺を睨む刑事三人。
これ、絶対にヤバいよな……。
「おい、店長かって聞いてんだろ?」
「いえ、タダの従業員ではありますが……」
「さっき盾持った連中来たろ?」
「はい、来ました! ガセネタだったようで、ご多忙のところすみませんとお帰り頂きましたが……」
「テメーふざけてるとパクるぞ」
「勘弁して下さいよー、刑事さーん……」
「ふざけんな、テメー!」
絶対にコイツら、中に入るつもりだ。
何とかしないと……。
俺は一番街通りのほうを見て指をさし「あれ?」と口を開く。
「あ、何だ?」
一瞬の隙を作り、ダッシュで階段を駆け降りる。
店に入るなり「警察だーっ! みんな出ろっ!」と叫ぶ。
一斉に立ち上がる客たち。
ケンチャンの一人が「自分のクレジットはどうなるんですか?」と聞いてきたので「いいから早く出ろっ!」と外へ突き飛ばす。
「おいっ、奥のケーブル全部引っこ抜け!」
「え、どのですか?」
テンパっている伊藤。
「台の電源全部だよ!」
その時入口に刑事の姿が見えた。
一人の客を捕まえて尋問しようとしていたので、俺は両腕で刑事三人を壁に押し込む。
「テメー、このガキが……」
あたふたしている客に「早く行けっ!」と怒鳴りつける。
客全員が階段を駆け上がると、刑事は胸倉を掴んできた。
「よくもやってくれたな、このガキが……」
「あはは…、中へどうぞ、刑事さん……」
「テメーも一緒に来いっ!」
店内へ入ると刑事は警察手帳を出して「動くなよ!」と従業員たちを威嚇した。
俺は背後から「みんな、まだ入って一ヶ月以内のアルバイトばかりだし、給料も一万円しかもらえてないですよー」と大声を出す。
最悪これで全員警察署へ持って行かれても、調書は同じ事を言うはず。
刑事の胸倉を掴む手に力が入る。
「オマエ、さっきから……」
「無抵抗の人間にさっきから痛えっすよ、刑事さん」
俺は刑事の手首の関節を取り、そのまま転がした。
「この野郎! 抵抗しやがって!」
俺は両腕を天井に向けて上げた。
「抵抗なんてしてないじゃないですか。苦しかっただけです」
他の刑事は従業員を壁一列に並べ、質問をしていたので「そいつら何も分からないすよ! 一万円の給料目当てで入ったばかりの新人ですから」と叫んだ。
「オマエよ……」
「自分も入ってまだ三ヶ月のただの従業員なんですよ。あ、社長に電話します! ちゃんと社長いますから」
「ふざけやがって……」
俺は受話器を取り、キャッシャーテーブルに貼ってある名義社長の番号へ電話を掛けた。
「もしもし!」
店からの電話なんて初めてなんだろう。
名義社長の声は震えている。
「あ、社長! 実は刑事の方々がお店に来られましてね……」
「貸せっ!」
俺から受話器を乱暴に引ったくる刑事。
結局のところゲーム屋は現行犯逮捕なので、客がいないこの状況では何もできないのだ。
「いいか? 社長のオマエは今から新宿警察署に来い」
叩き付けるように受話器を置き、刑事たちは引き上げた。
最悪俺くらいは連れて行かれると思ったが、大丈夫だったようだ。
佐々木さんに現状を伝え、とりあえず今日は店を閉めて解散となった。
翌日もワールドワンは店を休み、店内工事の為と貼り紙を貼っておく。
俺は夕方くらいに新宿へ来るよう言われ、一番街通りの喫茶店上高地へ行った。
少しして佐々木さんも到着。
「昨日は大変やったねー、岩上君お疲れ様」
そう言いながら封筒を渡してくる。
「何ですか、これ……」
中身は十万円。
「名義が刑事から言われたみたいよ。あのガタいのデカい従業員、アイツは逃さないよう大事にした方がいいぞって」
咄嗟の機転で動いただけだが、本来敵である警察側からそう言われるのは何だかこそばゆい。
「面倒な自体になるのを避けたかっただけですよ」
俺は封筒を返そうとすると、佐々木さんはそれを制し「上から出たもんやから、受け取っといて」と言われる。
「じゃあせめて佐々木さんと折半で……」
「いやいや、それは岩上君が取っといてや」
しばらく考えたが、俺がいくら言っても受け取らないのは知っていたので封筒を受け取った。
「あの時いた従業員たちと等分させて頂きます」
「うん、岩上君にあげたもんやから、それは好きにしてや。多分店はあと二、三日大事を取って閉めると思う。…と言っても、どっちみちあと一ヶ月やけどね……」
そう…、あと一ヶ月ほどでワールドワンは無くなるのだ。
降って湧いた休み。
俺は地元のジャズバーのスイートキャデラックで飲み、ミサキのいるキャバクラのサンタナで朝方まで飲み、家の隣のトンカツひろむでさらに飲んだ。
「智一郎、店もう閉めるから、川越市場まで行って飲むか」
先輩の岡部さんが誘うので、とことん飲み明かす。
この人は一番街の四十四人のビル火災の時も真っ先に俺の身を心配して連絡をくれた。
トンカツひろむで岡部さんの良識、基本的なあり方を学び、また俺の見本とした先輩。
ちょっと前ならジャックポットの野原さんもここにいたはず。
でももうそれは無理な話。
野原さんは亡くなってしまったのだから。
俺と岡部さんはお互い口には出さないが、野原さんの分まで楽しんで酒を飲むつもりだ。
市場で飲み終わると帰り道途中にあるデニーズへ寄り、またそこで酒を飲む。
そんなこんなでもらった十万は無くなったので、従業員に等分すると格好つけたがまあいいかと思った。
俺と佐々木さんしか知らない十万円なのだ。
ここで野原さんのはなむけに使うのも悪くない。
「前だったらここに、野原さんも一緒にいたんでしょうけどね」
俺がそう言うと、岡部さんはしばらく考えてから「そうだな」と微笑んだ。
クレジットカードを使った詐欺行為。
あれ以来、林から連絡は無かった。
一度電話をしてみたが、元々優しい性格なので躊躇っているようだ。
「無理しないでいいですからね」とだけ伝えておく。
岡本はあの機械貸したままで、元の管理している中国人がどうなってるんだと毎日うるさいと、せっついてくる。
仕方なくビューホテルのセントクリスティーナへ連絡をすると、小沢が出た。
「あ、小沢さん。お久しぶりです。岩上です。あの…、林さんは……」
「おいっ、オマエ何をしたんだ? 林さん、警察に呼ばれたぞ?」
「……」
何故そんな展開に?
ホテル時代の仲が良かった後輩へ内緒で内情を聞いてみた。
どうやら自分でカードを通す勇気が無かった林は、キャッシャーの新人に機械を手渡し分け前をあげるからやれと命令。
ビビった新人は支配人へ報告。
それから警察介入。
そんな流れで林はクビになったと聞いた。
俺は一人の人生を台無しにしてしまったのだ。
ただ林は何を聞かれても俺の名前を出さなかったらしい。
実際今現在もこの件で、俺に警察から連絡が来た事が無い。
岡本に状況を伝えると、数日後機械を戻さないなら林の命を奪うと脅されたと言う。
俺がその中国人と直接話をつけると言うと、岡本はあの機械自体二十万するので、俺と折半で十万ずつ出し合って話をつけてきますと説得された。
仕方なく十万を岡本に渡す。
以来この一件は何事も無くなった。
あとに残ったのは林との連絡は、今後つかなくなった事。
そして俺が二度と浅草ビューホテルへ顔を出せなくなった事だろう。
ある程度時間が過ぎてこの話を知り合いにすると、恐らくその岡本は俺を引っ掛けて十万円をうまく騙し取っただけだと言われた。
過ぎてしまった過ちは取り戻せない。
俺が金を失った事よりも、林のホテルマン人生を壊してしまった事に対して、心が痛かった。
弟の貴彦にはもう小遣いをあげる事は一切しなくなった。
「兄貴は金を稼ぐのは上手いけど、金の使い方を知らないから、俺が上手く使ってやってんだ」
自分の友達の前だからと調子に乗り過ぎた。
俺から貴彦へ一度は歩み寄ったのだ。
親父の妹である叔母さんのピーちゃんにも、一度俺から歩み寄るべきではないのか……。
先日の林の一件で心を痛めていた俺は、現実逃避とはいえ何かしらしたかった。
出勤する家を出る前に一階の居間へ顔を出す。
「あのさ…、俺、朝方仕事終えて帰ってくるからさ、肉とか野菜とか何か必要なものあったら買ってくるけど……」
変な言い方ではあったが、俺なりの精一杯の心遣いのつもりだった。
「キャベツが欲しい」
こちらを見もせず、テレビを見ながら話すピーちゃん。
「分かった。明日になるけど買ってくるよ」
こちらから少しずつ歩み寄れば、家族間絶対にうまくいくだろう。
親父との雪解けはまだ難しい。
まずピーちゃんから懐柔していけばいい。
何故そんな心境になったのか分からなかった。
言い返すから口論になる。
相手を変えるんじゃなく、まず自分が変わらなきゃいけない。
店に出れば多額の金を佐々木さんと抜き、いつもと変わらない日常。
違うのは帰り道本川越駅ビル地下にあるぺぺのスーパーで、キャベツを買って帰る事。
俺は男なので、買い物カゴにキャベツ一つだけというのは恥ずかしかった。
なので日持ちするような野菜、じゃが芋や玉ねぎ、人参もカゴへ入れる。
肉も冷凍すればいいからな。
そこそこ値段の張る牛肉を五百グラム買った。
適当に調味料関係も入れ、五千円程度の買い物をして帰る。
ピーちゃんへ袋を渡す。
喜んでくれると思った。
「何だよ、私はキャベツだけって言ったのに余計なものまで買って……」
「キャベツ一つだけ買うなんて恥ずかしかったからさ……」
「こういう無駄遣いをしてるから、オマエは駄目なんだよ」
好意で買っただけ。
金だって俺がすべて出している。
何故こんな言われ方をされなければならないのだ?
いや、ここで怒るからいつも口論になるのだ……。
冷静に…、心を静めろ……。
「そうだね…、だから俺は駄目なのか……」
俺は二階の自分の部屋に戻り、思い切り壁を殴った。
分析しよう。
ピーちゃんは家の仕事の仕事が終わると、スポーツジムへ行き、帰ってきたら居間でテレビを見る習慣がある。
女性だけあってフルーツやヨーグルト、ケーキを食べながら……。
俺は帰り道、本川越駅改札手前にコージコーナーがあるのでケーキを持って行く事にした。
普段ケーキなど食べないから何を買っていいか迷う。
店員に尋ねると無難なのがショートケーキと言われる。
その種類だけでも様々だ。
「ちなみにお姉さんがここのケーキ…、ショートケーキをプレゼントされるとしたら、何がいいですか?」
「うーん…、私でしたら、この五百円のもらったら嬉しいですね」
「じゃあそれを二つ下さい。ひょっとしたら毎日のように買いに来るかもしれないです」
そんな感じでショートケーキを買って帰る。
ピーちゃんに渡すとケーキは喜んでくれた。
「中に苺がたくさん入っているけど、結構高かったろ?」
「一つ五百円のショートケーキ」
正直に言うと、おばさんは「私だったら二百五十円の二つ買うな」と言われた。
だから五百円のショートケーキ二つ買ってきてるじゃねえかよと言いたいのを我慢する。
一言いつもこの人は余計なのだ。
普通にありがとうだけでいいのに……。
揉めない方法。
この人とは長く会話をしちゃいけない。
何を言われても流せ。
同じ空間に長居するな。
部屋に戻って考えてみる。
こんなんで本当に仲良くできるのか?
先行き不安しかなかった。
闇 22(妹なのか女なのか編)
2024/08/22 thu
2025/08/28 thu
前回の章
仕事をして本川越駅に到着すると、構内のコージコーナーでショートケーキ二つ買って帰る。
ここ最近の俺のルーティン。
前ほど嫌味を言われず、叔母さんのピーちゃんは黙ってケーキを受け取るようになってきた。
うん、俺から歩み寄れば少しずつだけどうまくやっていけるんじゃないだろうか。
ギスギスいがみ合って過ごすより、できれば和気藹々と暮らしたほうがいい。
俺からの接し方一つでいくらでもまだいい方向へ行けるはず。
部屋へ戻りタバコに火をつける。
そういえばミサキから連絡無いな……。
いつもなら一週間以上メール一つも来ないなんて無かった。
何か困った事でもあったのか?
ただ忙しいだけならいいが。
一旦気になると色々考えてしまう。
メールで聞くのも面倒だし、俺から電話でもしてみるか……。
「おーい、ミサキ。元気でやってんのか?」
「……。あまり元気じゃない……」
「何だよ、どうした? 暇あったら飯でも行くか?」
「食欲も全然無い……」
「何があったんだよ? いつもと様子違うし、俺でできる事あるなら力になるから言ってみな」
できる限り明るく話す。
「前にね…、猫飼い出したって言ったでしょ?」
「ああ、写真見せてくれたよな。可愛い子猫二匹」
「ベランダに一度出ちゃって、それを多分隣の住民が不動産へ連絡したみたいで……」
ミサキの不安定な状況が理解できた。
ペット不可のマンションで黙って猫を飼い、住民のチクりで不動産から文句を言われた。
そんなところだろう。
「いや…、それがマンションを出て行ってくれと……」
「何だ、そりゃ?」
「毎日のように…、さっきも不動産の女の人から電話掛かってきて、いつ出ていくのかって……」
「オマエの近くまで今から行く。丸広あるだろ? あそこの隣のファーストキッチンで待ってるよ。会って話そう」
「いいけど…、でも…、多分話すだけ時間の無駄だったなってなると思うよ……」
鬱状態に近いミサキ。
「いいから支度して出てきな」
電話を切ると、俺はファーストキッチンへ向かった。
暗く沈んだ表情のミサキ。
「何も食ってないんだろ? 何か頼む?」
「食欲なんか全然無いよ……」
「駄目だ、そんなんじゃ! 適当に注文してくるからな」
俺はハンバーガー数種類、ポテトのバター醤油風味を頼んだ。
紙袋に入ったポテト。
バター醤油風味を振り掛けるのか?
「あー、違うよ! それを袋の中に入れてシャカシャカするの」
ミサキが作り方を教えてくれる。
袋を開け、中へ手を入れてポテトを取ろうとすると、ミサキは「ちょっと貸して」と取り上げた。
器用に袋の一部分を破り、テーブルに置いたままポテトを取れるようにしてくれる。
「うーん、最近の食べ物は難しいなー」
「別に難しくないよ」
少しだけ笑うミサキ。
俺は彼女からこれまでの経緯を詳しく聞いてみた。
住民の密告で猫を飼っているのがバレたミサキは、不動産から毎日のように連絡が来て出ていくよう言われる。
いつ出ていくか?
新しく入居先が決まったら不動産へ連絡する事。
一日に数回同じ内容の電話が来て、ミサキはノイローゼになったようだ。
たかだか猫を飼っただけで、ここまでする権利など不動産には無い。
ペット不可のマンションで飼った場合、当然それ以上ペットは飼えないが、不当に借り主を追い出す理由にもならないのだ。
ミサキはまだ二十代そこそこ。
そんな若い娘が、毎日不動産から追い詰められる現状。
「ミサキ、家賃がこれまで遅れたとかは無いんだな?」
「うん…、いつも早めに払っているよ……」
「猫はどうする?」
「可哀想だけど、友達が代わりに飼ってくれるって……」
「まだ今のマンションに住みたいのか?」
「色々と便利だし、そりゃ住みたいよ…。でも新しい物件探して引っ越すようだし…。見て、これ……」
ミサキは携帯電話の画面を見せてきた。
『今のマンションに居続ける。それは無理無茶無謀というものです。良ければ我が社が管理している物件を紹介できますよ。湯遊ランド向かい、綺麗ですが欠点はヤクザとシャブ中が多いところ。 下浜』
一通り読み、何だコイツは?と聞くと、キャバクラでミサキを指名している不動産業の客らしい
「不動産で働く専門の人が、無理って言ってるんだよ?」
「不動産で働いているかもしれないけど、まったく使いもんにならない馬鹿ってだけだ。こんな奴の話、まともに受け取るな」
精神的に弱っているミサキの心の隙間に付け込んでってだけの客に過ぎない。
「不動産の連絡先教えな。俺がおまえの目の前で話をつけるから」
「何話をしても無駄だよ…。ずっと…、何度も話してるんだよ。不動産の女の人がほんと気が強くて……」
「いいから! 俺が話をするから! 不動産が気が強いとか、そんなんどうでもいいんだよ。今のままじゃ、おまえが参っちまうぞ」
項垂れつつもミサキは不動産の桜産業の電話番号を教えてきた。

行きつけのジャズバー、スイートキャデラック。
早い時間帯なので、まだ店内には俺とミサキしか客はいない。
マスターには予め簡単な状況は伝えておいた。
簡単な委任状を書かせる。
「よし、これでこの件は俺に一任した事になる。あとは任せな」
不安そうな顔で俺を見るミサキ。
一瞬口元をニヤけさせ、それから電話を掛ける。
「はい、桜産業です」
俺はミサキの賃貸契約書を見ながら彼女の個人情報を話す。
「あー、はいはい…。それてですね。いつくらいに退去される予定なんでしょうか?」
「退去? 何、寝言抜かしてんですか? ペット飼っちゃいけないマンションでペットを飼ってしまった。注意され、借り主はペットを知り合いへ譲渡した。家賃の不払いも無いんたから、これでこの話は終わりでしょう?」
「はい? 何を言ってんですか? オーナー様も今回の一件でカンカンに怒っているんです。いつ出て行くんだという感じで」
「じゃあ、今回の騒動はおたくの不動産がでなく、オーナーの一存って事なんですね?」
「そうですが、だいたいあなたは何なんですか? 当社と彼女の話なんですよ」
「ああ、俺は岩上智一郎って言って義理の兄のような者です。今回の件で、彼女から委任状ももらってます」
「はぁ? 委任状貰ってんだが知らないけど、うちはすぐにでも出てってもらいたいんですよ! いつ出ていくんです?」
妙に偉そうに語尾を強調して話す不動産の男。
「もう少し…、もう少し冷静に話せないんですか?」
声のトーンを落とし、低音で静かに言う。
「だから、いつこっちはマンションを出て行くのか? それをハッキリさ……」
「おいっ!」
とりあえず大声で威嚇した。
「こっちはね…、丁寧に敬語で落ち着いて物事を伝えている。あなた、俺が何者かなんて情報何も知らずに上から目線で偉そうに話している。冷静に話し合いできないなら、あとで後悔する事もあるかもしれないんですよ」
「は…、はい……。それについてはすみません……」
別に脅しでも何でもない。
あまりにも相手の対応が礼節を逸していたので、正しただけ。
こういったやり取りは、ゲーム屋でゴネる客たちとやり合ってきた経験が活きているのだろう。
「先程も聞きましたが、今回の一件はそちらの不動産でなく、オーナーサイドの意見なんですね?」
「そ、そうです!」
「じゃあ、オーナーの連絡先教えてもらえます?」
「オーナー様は大変忙しい方で……」
「いやいや…、忙しいとかそういうの聞いてんじゃなくて、連絡先を教えてもらえますか?」
「ですからオーナー様は……」
「あー、そういうのもういいですわ。賃貸契約書見れば、オーナーの連絡先なんざ分かるんですよ。ただオーナーには、不動産が妙に連絡先を隠すようにしてたって、一言添えて報告するだけの話ですから」
「待って下さい! オーナー様の連絡先は……」
ミサキの今回の一件。
何やらきな臭い何かが見えてきた。
完全にこちらのペース。
俺は電話を切り、不敵に笑みを浮かべながら「多分何とかなりそうだぞ」とだけ言った。
オーナーとの連絡。
場所をスイートキャデラックから、ミサキのマンションへ移す。
恐らくこの騒動をオーナーは、ほとんど関係してないだろう。
不動産から報告程度はあったにせよ、わざわざペットを飼ったくらいでカンカンになって出て行けなんて無いはず。
まずはオーナーとの話し合いだが、不動産の一人相撲なのを確認する必要があった。
電話を掛け、これまでの経緯を話す。
「いやー、私も今回の件はキチンと家賃も滞納無く払ってくれている店子さんなんで、不動産から連絡聞いて驚いていたんですよ」
「ペットのほうはちゃんと知り合いへ譲渡し、今後飼う事はありません。本人も反省していますので、今回の件は何卒……」
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いしますよ」
どこがカンカンになり出て行けなのだ?
温厚そうな喋り方には好感が持て、一つハッキリしたのが予想通り、不動産の一人相撲だったという事
「ご迷惑お掛けしたのは事実なんで、今から菓子折り持って謝罪を兼ね、ご挨拶に伺いたいのですが……」
「いやいや、そんな気を遣わないでも……」
「今回の一連の騒動で落ち度があったのはこちらです。本人も反省しておりまして、一言お詫びをしたいと申しておりますので、どうか貴重なお時間を少々よろしいでしょうか?」
オーナーとの電話を終え、ミサキに拳を突き出す。
「な? 何とかなったろ?」
するとミサキはその場で泣き崩れた。
ずっと不安な日々を過ごしていたのだろう。
「ほら、まだ安心するのは早いって。ケーキでも買いに行くぞ。あ、ちょっと待って。今日店を休み取るからさ」
俺は佐々木さんへ電話して、どうしても今日休みをもらいたいと伝える。
「え、岩上君! 来ないと抜きができないよ」
「すみません、どうしても今日だけ重大な要件ありまして。落ち着いたらまた連絡します。明日は必ず出ますから」
まだ何かを言い掛けていたが、構わず電話を切った。
ミサキはまだ泣いていた。
肩を震わせている。
思わず後ろから抱き締めそうになるのを堪え、頭をポンポンと優しく叩く。
抱き締める?
俺はどうしたんだ?
妹だと割り切り、これまで接してきたつもりだった。
コイツは妹代わりなんだ。
春美の顔が思い浮かぶ。

そういえばピアノもやらなくなっちゃったな……。
ケーキを買い、オーナーの元へ。
ケーキ代くらい出すと言うと、ミサキは頑なに拒む。
「こういうのは自分でちゃんとやらないと駄目だよ!」
「ああ、オマエがそうしたいならそれでいいと思うよ」
恥ずかしそう笑うミサキ。
うん、やっぱりコイツは明るい方が似合う。
オーナーの自宅は、俺の家からすぐだった。
徒歩十分しないで着くくらいの距離。
オーナーからミサキとの関係性を聞かれ、兄貴みたいなものと苦しい言い訳をしたが、名前を名乗ると「え、そこの岩上さんとこの長男さんでしたか」と嬉しそうに声を掛けてくる。
「おじいさんの甲子郎さんにはよくお世話して頂いて……」
おじいちゃんの顔もあり、一件落着と。
「いえいえ、こちらこそご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした」
挨拶をすませ、再びミサキのマンションへ戻った。
「どうだ? 俺が出て何とかなっただろ?」
「ありがとう! 今日は本当にありがとう!」
部屋に着くなりミサキは抱きついてくる。
柔らかく小気味良い感触。
シャンプーからなのかいい匂いがした。
このまま抱き締めたら……。
俺は何を考えているんだ?
コイツは妹なんだ。
妹が困っていたから俺がしゃしゃり出ただけの事。
「まだ一つ残っているだろ」
俺は頭をポンポンと叩き、ミサキを離す。
ヤバい……。
俺はミサキを女として意識してしまっている……。

俺ら三兄弟を捨て家を出て行ったお袋。
一緒にいる二階堂さんとの間に生まれた子供。
あくまでも噂だが、俺と十歳離れてた妹。
ミサキと出会い、勝手に妹と重ね合わせてきた。
「一度も口説いてくれた事ないよね」
ミサキから何度か言われた台詞。
一体ミサキはどう思いながら、俺に接しているのだろうか?
俺が雪喜を紹介しろと無理やりさせた時、何を考えていたのか?
複雑な心境の中、欲望と良心がぶつかり合う。
欲望?
俺はミサキを抱きたいのか?
今、彼女へ手を伸ばせば拒まれず受け入れてくれると思う。
コイツは確かに可愛い。
そして美人だ。
俺はミサキに何を求めた?
抱くとかじゃない。
男兄弟の中で生活してきて、妹がいたらどうだっただろう?
よくそんな思いがあった。
そこへ降って湧いたお袋の隠し子情報。
タイミング良く出会ったミサキ。
俺はこの子と、心の繋がりを大切にしてきたのだ。
何故俺は、自問自答して必死に自制しようとしているのか?
妹代わりじゃない。
すでに今、俺は女としてミサキを見てしまっている?
違うだろ!
そうじゃない!
ミサキは俺が勝手に妹代わりと決めた。
じゃあ何故女を感じている?
さっきいい匂いがするとかほざいていたじゃねえか?
何故口説かない?
目の前の女は今なら簡単に手に入るぞ?
ふざけんな!
今まで兄貴面して面倒見て、ここまで仲良くやってきたんだ。
それを相手が弱っているから?
違うだろ!
そんな卑劣な生き方してきてねえんだよ!
頭の中で二つの人格が喧嘩をしている。
二つ?
じゃあそれを見ている俺は何だ?
チラッとミサキを見る。
ハンカチで涙を拭っているところだった。
綺麗だなと素直に思う。
右手が少しずつ彼女の肩へ近付く。
このまま強引に抱き寄せてしまえば……。
相手が弱っている時につけ込むなって!
そんなもの、空き巣に入る泥棒と変わらないだろうが!
口説くなら、正々堂々と口説けよ!
「ミサキ……」
俺の言葉に振り向く彼女。
言え。
好きだった。
異性として気付いたら好きになっていた。
そう言ってしまえ。
「……。も、もう大丈夫なんだよね?」
「あ、ああ…。もう大丈夫だ。おまえも大家さんと直に会って話したろ?」
「でも、また不動産から電話が来たら……」
「……」
ここまで心を傷つけられ、被害妄想に駆られる日々を送ってきたのだ。
このタイミングで告白?
卑怯だ。
今彼女に必要なのは、安心させる事。
気持ちを伝える事ではない。
「ミサキ、安心しろ」
「え?」
自身の気持ちを誤魔化すように、乱暴に携帯電話を手に取る。
「不動産に電話すっから…。これで晴れて堂々とここに住めるだろ?」
「うんっ!」
ミサキの笑顔を確認してから電話を掛けた。
「おい、オメーらはよ。どういうつもりだ? オーナーと直に話したら退去も何も…、どこがカンカンなんだよ?」
「いや…、それはその……」
「いいか? オマエたちのした事はな…。仲介手数料を他の奴入れてせしめたいが為に、まだ二十歳そこそこの若い子に対しよってたかって追い出そうとしたんだぞ! 恥ずかしくないのか? 恥を知れ!」
「いえ…、あの……」
「ゴチャゴチャ言い訳抜かすな! 今から電話変わるから、本人に誠心誠意謝れ!」
携帯電話をミサキに渡す。
「……」
「ん、どうした?」
「何も言わないよ……」
「貸せ」
ミサキから電話を取ると、大声で怒鳴りつける。
「おいっ! オマエ、まだ分からないのか? 今から桜産業まで俺が乗り込むか?」
「は、はい! 今からちゃんと謝らせて下さい!」
携帯電話を耳につけたまま、しばらく無言のミサキ。
俺は黙って横顔を見ていた。
ミサキの瞳から大粒の涙が流れる。
これまで張り詰めた糸が、一気に切れたのだろう。
まるでダムが決壊して一気に水が噴き出したのように見えた。
「酷いですよ…。本当に酷いですよ……」
頭へ軽く手を置き、携帯電話を取り上げる。
「いいか? オマエたちのやった事はだな…。こういう事なんだ。今後コイツにつまらない真似してみろ? 俺が直に行くからな」
完全勝利って感じの終わり方。
電話を切るとミサキに微笑み掛け「もうこれで安心して眠れるだろ?」と優しく言う。
ミサキは無言のまま抱きついてきて、しばらくその体勢で泣いていた。
コイツ、結構胸デカいんだな。
俺は膨らんでしまった股間を彼女の身体につけないよう気がける。
いや、これで抱き締めてベッドへ押し倒せば……。
鼻を近付けミサキの匂いを嗅ぐ。
女の匂いがした。
一瞬春美の顔が浮かぶ。
あいつはもう俺なんて想ってもいないだろ。
それにミサキと春美はタイプが違う。
じゃあミサキにピアノを捧げるのかよ?
それは少し違う。
彼女が聞きたいと言えば、俺はいくらだって弾く。
でもそれはザナルカンドじゃない。
ミサキの為に新しい曲をマスターしてからの話だ。
まずはその空いた腕で抱き締めろって。
そして顔を上げさせ、唇を奪え。
この女をものにしろ。
身体が小刻みに震え出す。
何故震える?
このままじゃミサキに伝わるぞ?
好きだと言って、断られたら?
「……」
まだこのままの関係で仲良く過ごしたい。
ならやる事は一つしかないだろ?
そうだよな……。
彼女の頭の上に手を持っていき、優しくポンポンと叩く。
これ以上このままだと俺の理性が持たない。
いや、自分の本音を言い、もしも断られたらと怖かったのだ。
俺はいつだって臆病だ。
失う事を常に恐れている。
「ほら、飯食いに行くぞ」
「そんなお腹減ってない」
「俺が減ったの。いいから付き合え」

不動産の一連の件が終え、俺はミサキを連れてクレアモール商店街をひたすら歩く。
「どこ行くの?」
「まだ決めていない」
真っ直ぐ進むと大正浪漫通りになる。
「ねえ、まだ歩くの?」
「そろそろだ」
目に付いた寿司屋の看板。
店内へ入る。
「ミサキ、マグるぞ」
「何マグるって?」
「マグロをたらふく食う事だ」
「えー! 私イクラとか雲丹が食べたい」
「おまえはそれでいいよ。俺はマグロの赤身しか食えないの」
「じゃあ、何で寿司屋なんて入ってんの……」
「マグロだけは俺の好きなものベスト五位だからだよ!」
「馬鹿みたい……」
あのままコイツの部屋にいたら、理性が吹っ飛びそうで怖かった。
壊れない関係。
それは俺が兄らしく、少しお馬鹿でいる事。
「何を握りやしょ?」
「マグロの赤身で」
俺と板前のやり取りを見て、ミサキは笑う。
「本当にマグロしか食べないんだねー」
「かっぱ巻とか梅ジソ巻きも食えるよ」
魚介類が苦手は俺は、普通の寿司屋よりも回転寿司へ行ったほうがいいと思うくらい食べられるレパートリーが少ない。
「夜は店に出るんだろ? 俺は今日長くなる事も想定したから仕事休みにしたんだ。ミサキがいるなら飲みに行くよ」
もう残り少ない日数のワールドワン。
俺が休むイコール佐々木さんは金が抜けなくなる。
なので状況を説明するのが大変だった。
「うん、ほんと色々ありがとう……」
「少しは頼れる兄貴っぽいところ見せられたか?」
「本当にありがとう…。本当にありがとう……」
また湿っぽくなってきたので寿司屋を出る。
斜め向かいの化粧品加賀屋へ連れていく。
「あら、智ちゃん。今日は彼女連れ?」
「違うんですよ、おばさん。コイツは俺が可愛がっている妹分なんですよ。今日は元気無かったから、寿司食って、ここで何か化粧品買ってやろうかなと」
「へー、智ちゃん妹分なんているんだ?」
「ほら、ミサキ。おばさんに挨拶しろ。俺の同級生の母親で、ガキの頃から世話になってんだよ」
「はじめまして、ミサキです。いつも岩上さんにはお世話になって……」
「そういうのはいいの! ほら、ミサキ。口紅でも何でも好きなもの選びな。おばさんもコイツに何かお勧めの商品見せてやって下さい」
会計時ミサキはしきりに金を出そうとしたが、許さず俺はすべて支払う。
「じゃあそろそろおまえも店の準備あるだろ? そろそろ帰りな」
「ありがとう! 本当にありがとう!」
加賀屋の前で、彼女と別れる。
後ろ姿を見ながら、本当にこれで良かったのだと無理に自分を納得させた。
帰り道『くっきぃず』の前を差し掛かる。
そういえばピアノもそうだけど、先生とも会ってなかったな。
俺はドアを開け中へ入った。
ザナルカンドはたまに家で弾いていたので、別の曲を習ってみる。
坂本龍一の戦場のメリークリスマス。
ジョーンコルトレーンのマイフェイバリットシングス。
恒例の如く先生が楽譜にカタカナを書いてくれた。
左手の伴奏までは覚えきれないのて、主音となる右手メインで弾き始める。
ジョーンコルトレーンのようなテナーサックスの音は当然出せない。
それでもリズム的に意識して弾いてみる。
携帯電話が鳴る。
演奏を止め画面を見ると、不動産の桜産業だった。
「先生…、ちょっとだけ外で電話して来ますね」
出ると前話した男とは違い、女の声。
「川窪愛さんの件でですね、お話があります!」
黙って聞いていると、早口で威圧的に捲し立ててくる。
この女が連日ミサキに連絡して、精神的に参らせた奴だろう。
「おいっ、オラッ!」
途中で会話を遮り恫喝した。
かなり強気な女であるが、明らかに不動産が間違った行為をしているのだ。
相手が男でも女でも変わらない。
俺はミサキをあそこまで追い込んだ桜産業という不動産自体が、気に食わないのである。
話す内容は男へ言ったのと変わりはない。
必要以上に女を電話口で脅す。
今後まだ余計な事をしてくるなら、本当に店まで出向くと散々恫喝しておく。
せっかく久しぶりにピアノを弾いて、気分良かったのが台無しだ。
二時間ほどのレッスンを終え、家に戻って寝た。

数時間程度の短い睡眠を取ると、俺はスーツに着替え、外へ出る。
ミサキのキャバクラへ行く前に、昼間寄ったスイートキャデラックへ。
グレンリベット十二年が無性に飲みたかった。
チェイサー代わりにアイスコーヒーを注文。
セブンスターに火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。
ずっと妹として接して来たつもりである。
今日の件だってアイツが困っていたから、俺が何とかしただけに過ぎない……。
本当にいるかどうかも分からない妹。
俺は勝手にミサキを妹として見立てた。
アイツと一緒にいると楽しい。
俺に抱きついてきたミサキ。
いい匂いがした。
とても柔らかかった。
他の女だったら、その場で押し倒していただろう。
「本当に口説いてくれないよね」
ミサキのこの言葉の真意は何なのだろうか?
あの時彼女を抱いたら……。
全身が熱くなる。
俺はミサキを抱きたいのか?
いい兄貴面したいのか?
こんな事を考えている時点で、俺はミサキを一人の女として意識しているのだ。
ミサキのキャバクラ『サクセス』へ向かう。
席へ案内される際、待機席にいるキャバ嬢たちが立ち上がる。
鋭い視線が突き刺さった。

以前ミサキが紹介してくれた雪喜からの視線。
春美にフラれ、短い期間とはいえこの子と時間を共有した。
店に飲みに来てくれと営業をしてきたのがきっかけで、俺は感情的になった。
自分で関係を終わりにしたんだろ?
彼女の発言に違和感を覚え、例え冷たく見られようと付き合いはやめよう…、そう判断したのである。
もう雪喜との事は考えるな。
席に着き、タバコに火をつける。
一本も吸い終わらない内に、ミサキが来た。
「もうマンションの件は問題ないはずだ。あれから不動産から何かあったか?」
「ううん…、何も無いよ。本当にありがとうね」
大袈裟に煙を大きく吐き出し、グラスへ口をつける。
「ふん…、兄として当然の事をしたまでだ」
俺はまだ変に格好をつけていた。
「ほんとね…、ここ数日まともに眠れなかったんだ……」
くっきぃずでピアノを弾いている時に掛かってきた桜産業の女。
あんなのに毎日威圧的に出て行けと言われ続けたら、ミサキでなくても参ってしまう。
俺はミサキと別れたあとの事をすべて伝え、問題は完全に解決したと説明する。
「もう大丈夫だからな。あの不動産も二度と連絡なんか無い。ただまた内緒で猫飼ったりするなよな」
「うん…、本当に可愛がっていたから名残惜しいんだけどね……」
「俺も動物は好きだから気持ちは分かるよ」
しばらく二人共黙って酒を飲んだ。
右腿に何かが触れる。
ミサキが少しだけ俺に近付き自分の膝を当てていた。
俺は気付かないふりをして、タバコに火をつける。
妹として接してきて、ここでいきなり一人の女として接して、今までの関係が崩れるのが怖かった。
春美にはフラレた。
雪喜とは終わった。
ミサキとは?
どうしたいんだよ、俺は?
関係を失うのが怖い……。
歌舞伎町のゲーム屋ワールドワンも、閉店まで残り数日となった。
二十五歳くらいで新宿へ来て、現在三十二歳。
七年ほどこの店にいるのか。
これまで色々な経験をさせてもらった。
変な奴も多かったけど、いい奴にも沢山会えた。
また身体を鍛え始め、総合格闘技の試合にも出た。
もうあれから三年は経つ。
番頭の佐々木さんとの共謀の抜き行為で、俺はいくら金をもらったのか?
金銭感覚が狂い過ぎていて分からなかった。
月に百万も二百万も入ってくる生活ももう少しで終わる。
いや、平均すれば一日十万ぐらいはもらっている。
三百万近くは一ヶ月で受け取った計算になるのかよ……。
それを図に乗って金遣いだけ荒くなり、偉くなった気分で貴彦に小遣いをやって、俺は本当に馬鹿だなあ。
すっかり元気になったミサキから連絡あり、音楽のラップがどうのこうの言うので、部下の伊藤に聞いてみた。
DJマスターキーとかの第一弾アーティスト、ハイタイムズとして活動する顔を持つ伊藤。
彼はマスターキーを始め他のアーティストたちの直筆のサインもしてある非売品のCDを数枚持ってきてくれた。
「岩上さんには本当お世話になったんで、これくらいしかできないんですけど」
ミサキにすべてあげると、とても喜んでいた。
よく分からない世界だが、ミサキが嬉しそうにしているのなら、それでいい。
伊藤にお礼も兼ねて食事へ誘う。
「焼肉でも行くか」
「岩上さん…、俺肉は駄目って言ってるじゃないですか」
そうコイツは獣の味がすると言って、肉を受けつけない体質なのだ。
食事を振る舞う際、いつも苦労する。
もうじきこの店も終わってしまう。
そしたら俺は一体次に何をするんだろうな……。
