【闇シリーズ②】05~09(ホテルからゲーム屋ベガ)
2026/02/04 wed
※闇05~09を一気にまとめました
闇 05(新潟、浅草ビューホテル編)
2024/07/24 wed
2025/08/12 tue
前回の章
左足親指の爪粉砕による負傷。
歩く事もままならない。
あと一週間でどこまで回復できるか。
こんな状態で全日本プロレスに望まなきゃいけないのか?
プロテストは前回と同じなら、左足首を右ふくらはぎに乗せれば腕立て伏せは可能だ。
去年は大沢の乱闘で警察に捕まり、入門はパー。
今年はプロテスト手前で足の怪我。
あまりの運の悪さが嫌になってくる。
全日本プロレスプロテスト前日。
同じく場所は戸田スポーツセンター。
足の爪はまったく生え揃わない。
歩いてつま先に体重が掛かるだけで激痛が走る。
しかしそんな不安をよそに、レスラーの渕さんは笑顔で迎え入れてくれた。
体力は去年の分っているから特別なテストもなかった。
この点は本当に助かる。
この一年で体重十キロ上がっていた。
身体も大きくなったなと気付けてもらう。
渕さんとこれまでの事を簡単に話していると、背後から声を掛けられる。
「あんたね? 一回フェイドアウトした人間は……」
小柄なメガネを掛けたおばさんが立って俺を睨んでいた。
グッズなどを売る売店の人間か?
「うちはね…、一度フェイドアウトが務まるほど甘くないよ!」
その台詞で一気に頭へ血が上る。
どれだけ罵倒され屈辱を受けながら不遇の一年間を過ごしてきたのだ。
簡単に人のこれまでを小馬鹿にしやがって……。
「ふざけんじゃねぇ、ババァ! 男の世界に女が口挟んでんじゃねえよ!」
怒鳴りつけた瞬間、後頭部を強く叩かれた。
「おまえ、誰に向かってそんな口利いてんだ!」
真っ赤な鬼の形相の渕さん。
他のレスラーも駆け付け、殴られ地面へ押さえつけられる。
「謝れ、このクソガキが!」
売店のおばさんだと思った相手は、ジャイアント馬場社長の奥さんだったようだ。
それでも簡単に俺のこの一年を軽く見られた事には納得できなかった。
意地でも謝るものか。
身動き取れない状況でも、俺は顔を上げて睨みつける。
騒ぎの中、一人の大男が近付いてきた。
あの三沢光晴さんだった。
本当に緑のコスチュームを着ているんだと、こんな状況の中呑気にそんな事を思っていた。
渕さんが三沢さんに状況を説明している。
俺を押さえつけていたレスラーたちをどかし、肩を貸して起こしてくれる三沢さん。
「まだ若いんだから、おいおい教えていけばいいじゃない」
その一言でみんな黙るしかなかった。
粋がる事しかできない小僧を一人の人間として接してくれ、窮地から誘ってくれた。
ニコッと微笑む三沢さんを見て、俺は一発で陶酔してしまう。
強さだけ求めるのでなく、男として生まれたからにはこうなりたい。
偉大な背中を見せつけられた。
この一件から、俺は三沢光晴さんが人間的に大好きになっていた。
足の具合は本調子とはいかないものの、合宿所まで辿り着ける。
鶴田師匠は去年より身体を大きくしてくれた事を褒めてくれ、マンツーマンでよくトレーニングを見てもらう。
体力の消耗は激しいが、充実した日々を送れた。
「いいかい? レスラーってのはどんな攻撃も避けちゃいけないし、何を喰らっても壊れちゃいけないんだよ」
だからこそ日々鍛錬し、強靭な肉体を作り上げるのだ。
ここには強くなる環境だけがすべて揃っている。
俺もただこの不遇の一年を過ごしてきた訳ではない。
一度、以前編み出した自身の必殺打撃技の打突の事を話した。
鶴田師匠の形相が変わり、「おまえは相手を殺すつもりでやっているのか!」と酷い怒られ方をした。
馬場社長の伝えるプロレスは、どんな攻撃をも受ける気構えで構える。
そこへ相手は全力で攻撃を叩き込む。
俺の打突は、仁義に外れた卑劣な技でしかなかったのだ。
異様に発達した握力と親指。
全日本プロレスの中に入れば俺は背も大きくない。
バックボーンも無い。
力だって飛び抜けたものがあるわけでもない。
だからこそ編み出したのが打突だったのである。
確かに卑劣な強さを得たいわけではなかった。
しかし何の取り柄も無い俺が、この先どうすればいいのか。
一心不乱に練習して身体を大きくするくらいしか思いつけないでいた。
とある先輩レスラーの一人が妙にネチネチ絡んでくる。
おそらく俺が鶴田師匠に可愛がられているのが面白くないのだろう。
練習で着ているTシャツ一つにいちゃもんをつけ、何かしら絡んできた。
日々ちょっとした事でストレスが溜まる。
スパーリングの際、正面から両腕ごとクラッチしてそのまま沿って顔面をマットに叩きつけた。
ジャーマンスープレックスとは体勢が真逆の投げ技。
密かに受け身の取れない投げ技として開発していたものだった。
鼻血を出しながら怒る先輩レスラー。
身体はこっちの方が小さいが、技術では負けてない。
関節を取っても相手を動けなくしたところで、口元に笑みを浮かべながら手を離す。
リングの上なら何をやってもいい。
先輩後輩など何も関係ないのだ。
何だ、俺のほうが実戦じゃ強いじゃん……。
油断した瞬間だった。
相手は体重を活かし上に乗られ、左腕関節を取られていた。
相当これまでやられたのが悔しかったのだろう。
先輩レスラーは「タップせいや、オラッ」と凄んでくる。
底意地の悪さから本当にこいつが嫌いだった。
ギブアップ?
一度関節を決めた程度で、ふざけんなよ。
俺は顔面目掛けて唾を吐き掛けた。
その瞬間左腕があり得ない形に曲がり、左肘の骨が変な方向に突き出した。
まだデビューもしていない俺のプロレス生活は、これで終わりを告げた。

最初は警察。
次は怪我。
自分自身にも問題があったとはいえ、何故俺は何をしてもうまくいかないんだろう?
リングの上で戦う為にずっと鍛えてきた。
身長百八十センチ、体重九十二キロ。
ジュニアヘビー級程度の大きさにはなれたのだ。
しかしすべてが何の意味も無くなった。
もう生きている価値すら無い。
怪我で再び川越へ戻ってきた俺。
状況を知って、先輩の坊主さんは俺の部屋に一週間寝泊まりした。
ふさぎ込む俺に対し、とにかく自棄になるな、どうあっても生きろと説いた。
一人でもこんな俺を気に掛けてくれる人がいる……。
死ぬ訳にはいかなかった。
どんな恥を掻いても、死にたくても、生きていれば腹は減る。
金だって元々持ってない。
腕の怪我がマシになった頃、また一般社会で働く必要があった。
地元の知り合いから、人にかなり気を使う性格だから接客業をやってみたらとアドバイスを受ける。
配膳という業種の仕事。
まずはそこへ登録が必要らしい。
当初川越の氷川会館式場で働くつもりが、いきなり新潟のホテルへ行ってほしいとと頼まれた。
場所は新潟県にある上越国際スキー場にあるグリーンプラザ上越というホテル。
新幹線のチケットも用意され、俺は二十三歳の冬、新天地へ向かう。
北海道倶知安時代と同じ辺り一面銀世界に包まれた空間。
違うのはスキー目的で来る客の数。
そして雪質の違いだった。
北海道の雪は服について、手で叩いても中々落ちない。
新潟の雪は関東でたまに降る雪質とそう変わりはなかった。
二千人は集客できるスペースの大型ホテル。
俺は初日社員寮へ案内され、配属はアルプスというレストランになった。
誰から聞いたのか全日本プロレスにいたという事を知ったホテルの従業員たちは、俺のところへ色々聞きに来る。
またどんな奴が来たのだろうと眺めに来る人間もいた。
こんな途中頓挫した男がそんな珍しいのだろうか?
不思議な気分だった。
「岩上さん凄いっすよ」
「何が凄いの?」
同部屋の配膳人石原が声を掛けてきた。
彼は俺より一歳年下。
「あの嫌味な総支配人ですら、岩上さんの前ではペコペコじゃないですか」
厳しく性格が悪いと言われる他のスタッフたちから評判の悪い総支配人。
そんな彼は熱烈なプロレスファンらしく、俺のいるレストランアルプスへ来た。
俺などレスラーでも何でもない。
ただ短い期間、全日本プロレスに練習生としていただけなのに「握手してもらえませんか?」と立場も気にせずもの凄く畏まっている。
リスペクトさせるような事など何もしていないんだけどな……。
総支配人が去ると、俺は口を開く。
「あの支配人のどこが性格悪いんです?」
「岩上さんだからあんな態度取ってんですよ。前なんて、このホテルケチ臭くて一切ホテルのものを持ち帰っちゃ駄目なんですね」
「だってこれだけの従業員がいるのに、それを許可したら洒落にならなくなるでしょ」
「まあそうなんですけど、直に岩上さんも分かりますよ」
「分かる?」
「ここにいると、普通の食事をどうしても欲してしまうので、飢えてくるんです」
「飢える? だって社員食堂あるんでしょ?」
「ありますよ。まあ生活をここで一週間もすれば分かりますよ」
「……」
「自分、所属が和食の雪路なんですけど、アルプスへヘルプに行ったバイトの子がランチの時のバターロールを一つくすねたらしいんですよ」
「まあその人パンが食べたかったんじゃないんですか?」
「でも関係者が食べ物を持ち出すの禁止じゃないですか。それでその人、小さい四角いバターあるじゃないですか。あれも一つ持っていったらしいんですよ」
「まあパン一つよりもバターもあったほうがいいですからね」
「それで通路でそのバイトが総支配人にあり、立ち止まりお辞儀をした時ポケットからそのバターを落としてしまったんです」
「最悪の展開ですね」
「そうなると当然何でこんなもの持ってんだと身体検査。そしたら服の中からバターロール一つ」
「そのアルバイトはどうなりました?」
「その場でクビになり、翌日新幹線で帰されましたよ。それをするだけの権限がありますからね」
「さすがにそれ、パン一つで手厳しい…、いや、かなり酷くないですか?」
「だからあの総支配人は嫌な奴ですよって言ったんです。岩上さん、あなたは、いきなりそんな人間が畏まって握手を求めてきているんですよ? 周りがその話を聞いてどれだけ驚いたか分かりますか?」
確かに石原の指摘するように俺へあの総支配人は握手を求めてきた。
だがあれは俺というフィルターを通し、背後にある全日本プロレスという幻想に対しての行動に過ぎない。
中途半端でレスラーですらない俺。
この当時、それぐらいプロレスの人気はずば抜けて凄かったのだろう。
こんな形で俺の新たな生活は始まった。
アルプスはかなり大型のレストランで席数五百あった。
スキー場のリフト乗り放題、宿泊もタダという条件で釣られた大学生集団が大量にいるので、彼らアルバイト込みで一日辺り七十名前後のスタッフを使う。
所属スタッフだけでは人数が足りない日もあり、その場合和食レストラン雪路からヘルプを寄越してもらう。
昼のランチタイム時は客が自分で好きな料理を取りに来るカフェテリア形式。
夜は食べ放題のブッフェ形式。
サービス業自体このようなホテルでは初めてだったので、何もかもが新鮮だった。
五百席もあるのにそれでも行列ができるレストランアルプス。
いかに閉鎖された空間にいるかを物語っている。
ランチはミートソースのところに立ち、並ぶ客へパスタを盛ってソースを掛けた。
先にあるレジまで行って会計するので、手間はそう掛からない。
アルバイトたちは空いた席の食器をひらすら片付け、次へと回す。
七十名いても、追いつかないくらいの忙しさであった。
米と言えば新潟魚沼産コシヒカリ。
密かに楽しみにしていたが、社員食堂までアルバイトを使い作らせていたので、賄は酷い出来だった。
米も古米どころか古古古米でも使っているのかと感じるくらい潰れた不味い米。
責任者という立ち位置を使って、厨房のシェフたちからレストランの料理をもらう事はできたが、常に飢えているアルバイトたちを前にそれはできなかった。
他に食事をするところと言えば、リフトでスキー場の下まで降り、それから街に繰り出さねばならない。
一度試みた事があるが、下り途中でリフトが止まり、凍え死にそうになってさすがに懲りた。
私服で下りのリフトに乗り、買い出しに行くには割に合わない。
そんな状況も手伝い俺の体重は一か月ちょっとで十三キロ落ち、七十九キロになってしまう。
あれだけ体重を上げる為必死だったのに、落ちるのはこんな簡単に落ちてしまう現実。
あの食堂のご飯を食べるぐらいなら……。
せいぜい口にするのは生き延びる程度の最低限の量。
あれだけ食欲旺盛な俺がこうなのだ。
いかに社員食堂が不味かったかの証明になると思う。
ブッフェレストランで大事なのは回転率の速さ。
いかに迅速に空いたテーブルの上を固し、次の客を回せるかによる。
七十名前後のスタッフを用意しても、追い付かないほど客数が半端じゃなかった。
それでも体力だけはずば抜けて優れていた俺は、あまりにもホール状況が混乱すると、一旦従業員たちの手伝いへ入る。
トレイを何重にもして四隅にプラスチックのグラスを置く。
そのあいだに食器類やサーバーなどを置き、トレイを被せる。
また四隅にグラスを置きといった状態で五重層の状態にして持っていく。
食べるのに集中する客も、俺が五重層の食器類を持つ姿が視界に映ると食事の手を止め、姿が消えるまでずっと眺めていたと他のスタッフから聞いた。
スタッフたち…、特に女性陣が一番厄介な作業がトレイの積み重ねである。
俺は「任せてくれるかい」と声を掛け、自分の頭よりも高く積んだトレイをひょいと持ち上げた。
一気に沸く店内。
力という点だけについては、これまで鍛えぬいた身体を持て余す事なく発揮できた訳である。
今俺は、新潟にいるんだよな?
目が覚めるといつもカーテンを開け、二階まで積もった一面の銀世界を眺めた。
本当凄いところへ来たものだ。
川越にいたら一年に数回しか降らない雪。
それがここでは当たり前の日常になる。
北海道の時もそうだった。
十月頃だったか。
外の景色はいつも真っ白に覆われる。
同じ日本で電車や飛行機で数時間行っただけで、こうも違ってしまう。
これは、実際に体験すると摩訶不思議にしか感じない。
歪に突き出た左肘横の骨を眺める。
もう必要以上身体を大きくする事もないか……。
この頃ホテル内にあった簡易的な作りのゲームコーナーで、カプコンのストリートファイターゼロがみんなの間で流行る。
バーチャファイター派とストリートファイター派という妙な派閥もできたほどだ。
俺は稼いだ金を八割方ここのゲームセンターへ注ぎ込むほど熱中した。
管理人の熊谷と意気投合し、他の客がいない時なら「内緒ですからね」と彼は鍵を開けてクレジットボタンを押し無料でやらせてくれるほど。
大学生たちのアルバイトたちと仕事を終え、宿舎へ帰ろうとすると「岩上さん、結構可愛い女性客が岩上さんの事ずっと見ていますよ」と声を掛けてくる。
別に俺は有名人でも何でもない。
しかし気になったので指す方向を見ると、中学時代同級生だった綱川直美が立っていた。
「ひょっとして綱川?」
「岩上君だよね?」
もの凄い偶然。
彼女は月日と共にとても美しい女性へと変貌していた。
「おまえらは先に帰ってろ」
照れ臭さからアルバイトたちを先に行かせる。
中学生の頃あんなチンチクリンだった子が、こんな奇麗な女になっているなんて想像もつかない。
「ちょっと一杯飲んで行こうよ」
俺は本館一階にある居酒屋のみち草へ綱川を誘い、中へ入る。
責任者の阿久津は女性連れで来た俺を見て驚いていたが、普通に接客してくれた。
「身体大きくなっていたから、岩上君ってすぐ分からなかったよ」
「おまえも奇麗になったな……」
そのぐらいキザな台詞を言いたかったが、女性に対し免疫の無い俺にはとてもじゃないが何も言えなかった。
「レストランアルプスってところに俺はいるんだ。綱川も友達と一緒に来ているんだろ? 明日のランチタイム良かったらおいでよ」
「うん、絶対に行くね」
お互いの自宅の電話番号だけ交換し、彼女を客室まで見送る。
本当に驚くほど奇麗になった。
素直にそれを言えない自分を忌々しく思う。
翌日綱川は友達を連れてアルプスへ本当に来てくれた。
同じレストランで働く社員の佐藤貴子に「中学の同級生なんだけど、何かサービスできないですか?」と聞くと「岩ちゃんの知り合いなら、お会計タダでいいよ」とすべて無料にしてくれる。
このクソ忙しい状況で、俺の顔を立ててくれた。
綱川は何度も感謝を述べ、レストランを出て行く。
「凄い岩ちゃんに彼女、感謝していて良かったね」
貴子は後片付けが落ち着くと俺のところに来て笑顔で話し掛けてくる。
それは君の計らいだろうが。
何て粋な女なのだろうと佐藤貴子に対し好感を覚えた。
スキー場内という閉鎖された空間での生活の日々。
アルプスはいつも戦場のように多忙だ。
ある日同じ年上の配膳と仕事上の事で意見が衝突する。
理不尽な物言いに苛立つ俺。
接客しながらも表情に出ていたのだろう。
佐藤貴子が「岩ちゃん、何かあったんですか?」と首を傾げながら聞いてくる。
いちいち他の配膳の悪口を言うのも嫌だったので「何でもない」と素っ気ない対応をした。
すると彼女は右手を頭の上に置き、左手は顎の下へ持って行きながら「ゴリラの真似するんで、そんな怒った顔しないで下さいよー」と滑稽なゴリラの真似をする。
「何してんの、佐藤さん?」
「ウホウホ」
こんな可愛い子が、こんな事をするなんて……。
思わず吹き出す俺。
「あ、やっと笑ってくれた!」
「俺を笑わせる為に、そんな事をしたの?」
「だって岩ちゃんはいつもなら気は優しくて力持ちという感じなのに、そんな人が酷く怒った顔してましたからね。岩ちゃんは笑顔がいいですよ」
「……」
気は優しくて力持ち?
力は確かにあるけど、優しくなんてないぞ、俺は……。
その時こんな子がいつも傍にいてくれたら、俺は幸せなんだろうなと素直に感じた。
先日は綱川直美の奇麗さに惹かれ、今は佐藤貴子の性格の可愛さに惹かれている俺。
何て節操がないのだろうと自身を恥じる。
彼女と共に同じ職場で働き楽しく生活をしている。
今はこれでいいじゃないか。
これまで鈴木美千代としか付き合った事のない俺。
異性に対しどこかすべてに臆病だった。
変に意識せず、踏み込まなければこの関係だけは維持できる。
好意を伝え、もしフラれでもしたら、この雪に囲まれた山の中、逃げ場所すらなくなってしまう。
せめて同じレストランじゃなかったらなあ。
こればかりは配置を決めた人間を恨むしかない。
でもそれじゃこの子の性格の綺麗さをする事ができなかったか。
どうでもいい事で考え悩む。
せめて貴子が俺に対するイメージが歪むような真似だけは避けよう。
自分を戒め、これ以上佐藤貴子との仲が進展する事は当たり前だがなかった。
宿舎は当然の如く男しかいない。
四人一部屋の配置なので、息が詰まった者は一階へ降りていく。
広い談話室でカップラーメンを啜る者。
タバコを吸いながら友達同士楽しそうに話す者たち。
一つしかないテレビを無言で見る者たち。
それぞれが好きなプライベートの過ごし方をしていたが、突然怒鳴り声が聞こえる。
厨房で働く人間と、配膳でも上の方の地位の人間の口論。
同じホテルで働くとしっても、ホールと厨房では温度差が違う。
それぞれ考え方や捉え方も違うのは当たり前。
何が原因かまでは分からないが、配膳の人が明らかに見下すような発言をして小馬鹿にしているのだけは理解できた。
「だいたいあんたねー、料理だけ作っている人間と違って、こっちは接客やスタッフの管理もあるんですよ。もうちょっと脳みそ鍛えたほうが良くないですか?」
「何だとテメー、馬鹿にしやがって!」
思わず厨房の人間が掴み掛る。
俺は咄嗟に間へ入り、両者を止めた。
「離せ! 人を小馬鹿にしやがってあの野郎!」
「落ち着きましょうって! 気持ちはわかりますよ。悔しいですよね? でもだからって手を出すのは駄目ですよ。落ち着いて下さい」
手を出そうとした。
その事がホテル内でも問題になり、厨房の人間は総料理長の前で小さくなっていた。
このままでは下手したら彼はクビになるかもしれない。
男は項垂れたまま談話室を出る。
彼がいなくなってから俺は、総料理長にありのままの事実を正直に伝えた。
「確かに手を出そうとしたのは問題はあると思います。でも、傍から見ていたらまるで手を出してくれと言わんばかりの挑発的な言動はしていました。自分が言うのも憚りますが、彼だけが悪い訳ではないと思います」
俺の言葉に料理長は目を細め「ありがとう」と静かに言った。
後日聞いた話によると、あの厨房の男は注意だけで済み、首を回避できたようだ。
二ヶ月も経たない内に、俺は別の場所へ移るようお願いされる。
俺の所属する配膳会社からの辞令だった。
せっかく新潟にも馴染んできたところなのに後ろ髪を引かれる思いだ。
俺は断ろうと電話して必死に自分の気持ちを伝える。
「何故自分なんですか? 他にもいっぱいいるじゃないですか?」
「おいおい、周りからも評判のいい君だから選んだんだろ。出世という訳じゃないけどさ、あんな寒い雪だらけのところよりも、給料も上がり都会にいたほうがいいだろ。まあこれは決定事項だ。従ってくれよな」
多くの従業員が別れを惜しんでくれた。
俺は売店でミニノートを購入し『上越国際連盟』と名付けたものに、一人一人の連絡先を書かせる。
家に帰ればワープロがあるのだ。
この地で知り合った同志たちの連絡網を作ろう。
最後にホテルを出る際、以前談話室で揉めた厨房の男が俺に声を掛けてきた。
「あのー…、料理長からあとで聞きました。自分だけが不利にならないよう、あの時の現場を見ていた人がわざわざ意見を言いに来てくれたと…。岩上さんですよね? 本当にありがとうございました」
彼は俺の姿が見えなくなるまで深く一礼したまま見送ってくれる。
それを見て、俺がした事は間違っていなかったと実感した。
心の中が温かくなる。
中々新潟での生活も楽しかった。
そう思わせてくれた彼の感謝の言葉。
最後の最後でいい事をしたんだなと思えた。
こんな俺でも、感謝を向けてくれる人もいるって事か……。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。
「ほら岩上さん、忘れ物ないですか? もうすぐ出発しますよ」
アルプスの責任者の田中が、たまたま連休を取って帰るのでついでに車で川越まで送ってくれる。
俺はお礼に幼少の頃から通っていたジミードーナツへ連れて行き、彼にミートソースやハンバーガーをご馳走した。
暖かい気持ちで地元へ戻る。
配膳会社の長である西田と鶯谷駅で待ち合わせ。
駅を出てロータリー右手にある蕎麦屋へ入る。
普通のたぬきうどんで千六百円もする高い店だった。
「今回何故君をわざわざ新潟からこっちへ呼んだかと言うとね。浅草ビューホテルに入ってもらいたいからなんだよ」
「浅草ビューホテル……」
初めての浅草。
この鶯谷にしてもそうだ。
俺は世間を知らな過ぎる。
「普通の配膳は、結婚式の臨時スタッフとしてが多いけど、シフトに組み込まれ一つの飲食店に入れるなんて滅多にないんだぞ。俺に感謝しろよな」
新たな場所とは浅草ビューホテルの最上階にあるラウンジのベルヴェデール。
全日本プロレスを駄目になりずっと塞ぎ込んでいた俺にとって、仕事とはいえここまで多くの人間たちと触れ合い、話をしたのはいい転換期となっていたわけである。
十八歳で朝霞駐屯地。
十九歳で北海道倶知安駐屯地。
二十歳で川越へ戻り、二十一歳で横浜。
また地元へ戻り、全日本プロレスへの挑戦が始まった。
現時点で二十三歳、今度は浅草か……。
俺は家に帰ると『上越国際連盟』のノートを開き、一人一人の名前と連絡先をワープロで打ち込んだ。
浅草寺の近くの国際通りを向かい側に浅草ビューホテルはそびえ立っていた。
配属先は最上階スカイラウンジのベルヴェデール。
二十八階だった。
ゾワッとするような高い景色が見える状態での職場。
昼はスカイラウンジブッフェ、夕方からラウンジに変わる。
店内にはショーステージが設置され、一日に四回外国人歌手のステージがあった。
同じ接客業でも新潟とはまるで違う環境は、とても勉強になる。
気取った映画のワンシーンに出ているのかと錯覚するような空間。
色とりどりの綺麗なカクテルを飲みつつ夜景を楽しむ客。
ずっと彷徨っていた俺であるが、ここで根を張りしばらく真剣に頑張ってみよう。
そう心に固く誓った。
ビューホテル当初は新潟のグリーンプラザ同様色々な従業員が俺を見物に来た。
まだこの時代、プロレスはかなり人気があったので、とても珍しかったのだろう。
酒というものは非常に奥が深い。
醸造酒でビール、ワイン、酒。
蒸留酒でブランデー、ウイスキー、ジン、ウォッカ、ラム、テキーラ、焼酎。
混成酒がリキュール、ビターと大きく三つに大別される。
ウイスキーの五大生産国といえば、スコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダ、日本。
仕事が終わるとベルヴェデール内のカウンターで一杯飲みながら、上司から酒の知識を教わり、細かい接客術を学ぶ。
たくさんの酒が置いてある中、俺が一番気に入った酒は、スコッチウイスキーのグレンリベット十二年だった。
覚える事は多かったが、毎日が充実していた。
好きなウイスキーから深く掘り下げて勉強をしていく。
スコットランドが作った酒だからスコッチウイスキー。
スコッチウイスキーはモルト、グレーン、ブレンデットと三つに大別し、俺の好きなグレンリベットはモルトウイスキーになる。
モルトは主に四つの地域に分類され、スペイサイド、ハイランド、ローランド、アイラと地方別になっていた。
リベットはスペイサイド地方の酒。
いつかこの地へ行ってみたいと思う自分がいた。
現地の写真を撮って大きく白黒で引き延ばして、いつか自分で店を構えたらそれを壁にデカデカと貼る。
そんなバーがあったらきっと洒落ているだろうな。
まずこちらへ帰ってきてからした行動。
俺は綱川直美へ電話を掛けてみた。
あれだけの美しさだ。
他の男が放っておかないだろう。
「岩上君、ホテルの時は本当ありがとうね」
「いや、綱川が喜んでくれたなら良かった。あのさ…、今度良かったら食事でも行かないか?」
勇気を持って誘ってみる。
「うーん…、ごめんなさい…。私、彼氏いるんだよね……」
「……」
俺はこうして秒速でフラれた。
仕事以外特に無趣味な俺は『上越国際連盟』名簿を仕上げる。
俺は一人一人の宛名を書き、郵便局へ行き郵送した。
七十人分の郵送費は中々痛かったが、これで責任は果たせたのだ。
しばらくしてグリーンプラザ上越の社員佐藤貴子が地元越谷市に帰省したと連絡が入る。
俺は彼女を誘い、自分の働くベルヴェデールへ連れてきた。
「岩ちゃん、凄い場所で働いているのねー。ほんと景色が素敵」
ビューホテルを出て焼肉屋へ向かう。
「佐藤さん、何食べたい?」
「私は普通にカルビやロースとかで大丈夫」
格好つけて俺は上カルビや上ロース、上タン塩などを注文する。
こんな事くらいでしか格好をつける術を知らなかったのだ。
まだ飲酒運転がうるさくない時代も手伝い、俺は家の車で彼女を越谷まで送る。
レストランアルプスにいた頃はお互い笑顔で他愛ない内容でも話が弾んだ。
なのに何故こっちで会うとお互い無言になってしまうのだろう?
ほとんど会話もないまま奥手な俺は何一つ手を出す事もできず、ただ彼女を家まで送っておしまい。
そんなデートだった。
向こうを大して面白くない男だと思ったのかは分からない。
それでも彼女と会ったのはこの日が最後となった。
闇 06(浅草ビューホテル編)

2024/07/25 thu
2025/07/10 thu
2025/08/13 wed
前回の章
浅草ビューホテルの業務で一つ自覚した事があった。
他の従業員と比べ、俺は絶対的な経験値が足りない。
元々のスタートラインが違うのだ。
差があるのは当然。
ならば俺はどうすればその差を埋められる?
二十四時間バーテンダーとして意識し、プライベートでも常に接客を事を考えながら生活する。
これしか無いと思った。
給料が入ると高い酒を買い、数種類のリキュール、ベースとなるジンやウォッカなどを集め、部屋でもカクテルを作れる環境にする。
様々な酒に関する書物も注文し、仕事以外も勉強する事にした。
全日本プロレスが駄目になり、何の目標も無くなった俺。
こうして酒に対する事を勉強する事で、嫌なものすべてが忘れられた。
何故このような頑張るのか?
簡単だ。
居心地の良かったグリープラザ上越ホテルにはもう所属していない現状。
だから俺は自分の居場所が欲しいのだ。
その為には足を引っ張るような存在ではいけない。
何より全日本プロレスにいた奴って、あの程度なのと低く見られる訳になんて嫌だった。
俺の行動、態度一つで全日本プロレスを汚す事になってしまうから……。
時たま他のホテルのラウンジへ出向き、うちとは違う接客や店のシステム、内装などを見る目的で回る。
全部一からのスタートであるが、充実した日々を過ごす事ができた。
この頃携帯電話が徐々にではあるが、持つ人間が増える。
俺はDOCOMOより初期費用が安い、IDOの携帯電話を契約した。
ベルヴェデールで携帯電話を持っている人間は俺だけのようだ。
他に電話するところもないので、仕事が終わると坊主さんへ電話を掛けお互いの仕事状況を話す。
新丸子という場所に引っ越してしまった坊主さん。
裕子さんという彼女ができ同棲の為だった。
この頃休みになると、従妹の和ちゃんの家へ遊びに行く事が多い。
和ちゃんの同級生の武田が目を掛けてくれ、同じゲーム好きというのも手伝い次第につるむようになっていく。
だがこの二つ上の武田という男は度の抜けた大のゲーム好きで、給料の大半をアーケードゲームの基盤へ費やすほど。
元々我儘だった性格の彼は、休みになると自分の家に俺や周りの同級生たちを呼び、一日中対戦格闘ゲームをして過ごすだけ。
夜まで黙々とゲームをやり続け、最後にガストか松屋に行って食事をして終わる。
同じ川越でも彼の今福と俺の松江町ではかなりの距離があった。
実家からだと徒歩一時間以上、車でもないと到底行けるような距離ではない。
家の車が空いている時なら行ける。
しかし車が使えない時は無理があった。
その状況を説明しても、武田はバスでも自転車でもいいから約束したんだから家まで来いと言う無茶ぶり。
いくら先輩とはいえ、次第に嫌気が差していく。
行ったところでゲームをして飯を帰りに食うというだけなのだ。
この頃同じような境遇にあった神田さんと秋山さんという坊主さんの元同僚でもあり同じ年の先輩がいた。
帰り道も一緒なので、俺が武田の愚痴をこぼすと、三人とも意気投合する。
この時代のガストは三百八十円でハンバーグが食べられ、松屋ではチキン定食が五百円で食べられ重宝した。
浅草ビューホテルの社員用エレベーターの数は三基しかない。
なので時間帯にもよるが、本当に来ない時はかなり待つようだった。
最上階ベルヴェデールの二十八階階から、酒の仕入れは地下まで行かなければいけない。
待つのが面倒な時は、階段で地下まで降りた。
疲れるという感覚より、踊り場までをポンポンとリズリカルに三歩で降りて柱に手を掛けて身体を回転させ、また同じ風に行くので目が回りそうになる。
誰もこんな真似をするホテルマンはいなかったが、身体能力を活かしつつ時間の短縮を測る。
レーベンブロイの生ビールの長い方のタンク三本を右手なら片手で持ち上げる事ができた。
ビールの入ったケースなら四つを平らに置き、そこへ指を絡ませ持ち上げる。
「岩上…、おまえ、一体どんな身体してんだ? 化け物の領域だぞ?」
黒服のキャプテンである佐藤は、俺の行動を見てメガネを外して凝視しながら目を丸くしていた。
このような常人離れした事が普通にできるのも、全日本プロレス時代の鍛錬の賜物だろう。
もうあの世界とは関係なくなってしまったし、プロレスラーにもなれなかった。
しかしあの全日本プロレスにいたという事実は、これからもついて回る。
プロレスでは味噌っかすだった俺。
そんな最底辺でもここまで化け物級の力を持っているのだと、身体能力を誇示したかったのだ。
俺の日頃の行動一つで、あの団体がだらしなくみられるのだけは嫌だった。
故に常日頃その事は肝に銘じながら、俺は生活して生きて行かねばならない。
カクテルというものはとても奥が深い。
色々な酒を調合してオリジナルカクテルを作ってみた。
ラウンジの仕事が終わり、バーカウンターで飲んでいると、ショーステージで歌う二人組のヨーロッパモントリオールから来たエスカペイドデュオのピエールとキャサリンもやって来る。
たまたまグレープフルーツの差し入れがあったのであげると、ピエールは砂糖が欲しいと言った。
確かにグレープフルーツに砂糖を掛ける人っているよな……。
ウォッカベースのグレープフルーツを使った代表的なカクテルといえばソルティードックがある。

あれはスノースタイルというグラスの周りにレモンを塗り塩を付けたカクテル。
ジンにグレープフルーツジュースも相性は悪くない。
グレープフルーツに砂糖。
俺はスノースタイルでレモンの代わりにブルーキュラソーを半分、そしてもう半分にグレナデンシロップを付け、砂糖を擦り付けてみた。

そのグラスへジンとグレープフルーツジュースをシェイカーでシェイクし、上からゆっくりブルーキュラソー、そしてグレナデンシロップを注ぐ。
通常レインボーなどのプースカフェスタイルの何層にもなるカクテルは、比重の重い順から静かに注いでいく。
バースプーンの背をグラスの淵につけ、慎重に各酒を乗せるように。
それとはまっく真逆の作り方。
シェイカーで振ったもののあとに、リキュールやシロップを鎮めていくやり方はおそらく業界初ではないだろうか?
こうしてアルコールの糖分や重さを計算して作った俺のオリジナルカクテルが完成した。
俺みたいな人間がホテルのラウンジで働いているのって突然変異みたいなもの。
英語だとミューテーション。
このカクテルをミューテーションと名付けた。
ただこんなものは所詮小手先の技術に過ぎない。
バーテンダーに置いて大切なもの。
カクテルを注文する客の口に合わせていかに満足させられるか。
どのような酒を好み、どういった飲み方が好きなのか?
さらにマティーニなどの基本的なカクテルをいかに美味しく作れるか。
シェーカーでシェイクしてを使うものと、バースプーンでステアしてカクテルを作る違い。
それは作るカクテルの材料で決まる。
混ざり合い易い素材同士なら、基本はステア。
ステアして作る代表的なカクテルはマティーニだろう。
シェイクでもステアでも共通する目的は、混ぜ合わすと急速に冷やす。
ジンとドライベルモット、そしてオリーブにレモンピールしか使わないマティーニ。
ほとんどがジンの分量で占めるカクテルだが、いくらステアするスピードが速かろうと、常温で置いてあるジンを急速に冷やす分ミキシンググラス内の氷は溶けていく。
氷が溶けた分カクテルは水っぽくなってしまう。
俺は別の視点に目をつけた。
カクテルを作る際ほとんどの店がベースとなる酒を常温のまま置き、それらの分量を量り作る。
ならばジンを始めから冷凍庫でキンキンに冷やしていたとすれば?
そもそもジンなどのスピリッツ系は冷凍庫へ入れたところで凍らない。
ステア時にしても氷と温度差の無いジン。
そうする事によって究極に近いマティーニができるのではないか思いつく。
ホテルの人間からは「そんな面倒な事をやる奴はいない」と馬鹿にされた。
それは違う。
本来接客とは何だろうか?
心から客をもてなす気持ちがまず大切なんじゃないだろうか?
同僚から認めて欲しい訳ではない。
客の笑顔を純粋に見たいからこそ、最善を尽くすのだ。
全日本プロレスを挫折したあの一年間で一度開いた同窓会の時、再会した柴崎義明こと柴チン。
彼とは交流が続いていた。
以前彼女が初めてできたと紹介された時の子と、この度結婚が決まったと報告をもらう。
「柴チン、おめでとう!」
「それでさ、岩ヤンに友人代表のスピーチをしてほしいなあと思って」
「え、スピーチ? 俺、した事ないよ?」
「苦手だったら歌を唄うでも何でもいいからさ」
「えー、大勢の前で唄うの? もっと嫌だ。じゃあ何とかスピーチ内容考えておくよ」
「押し付けちゃってごめんよ、頼むね岩ヤン」
どうやってそんなのするんだよ?
仕事を終え川越に帰っても、いいアイデアが思いつかない。
街を歩きながら本川越駅の近くを彷徨い歩き、モスバーガー隣りのスナック『アップル』という店に飛び込みで入る。
「いらっしゃいませー」
出迎える女はとても綺麗な子だった。
名前を久美子。
切れ長の目をした細身の彼女に対し、俺は一発で一目惚れをする。
柴チンの披露宴での友人代表スピーチを頼まれた事を話し、親身に聞いてくれる久美子。
俺は連絡先を交換し、店をあとにした。
浅草ビューホテルで働いていて問題点が一つ。
底意地悪く「プロレスって八百長なんでしょ?」と小馬鹿にしてくる上司がいた。
真面目に返答すると、だってプロレスってさぁ〜と俺の精神を逆撫でするような言い方でおちょくられる。
駄目になったとは言え、必死に真剣にやってきたのだ。
ムキになって反論する俺の様子を見て楽しむ同僚。
その点だけが気になっていた。
他人の不幸は蜜の味というか、本当はそんなもの蜜の味などしない。
立っている位置が元々違うのだ。
そう常に自身へ言い聞かせる。
ラウンジの営業終了時間は夜中の一時。
当然終電も無くなるので、ホテルには仮眠室があった。
十畳ほどの部屋に二段ベッドが五個。
色々な他のレストランやバーのセレクションの人間がここへ泊まる。
仕事はシフト制だったが、過度なスケジュールで悲鳴を上げるスタッフが多かったので、自ら無茶なシフトを望んだ。
例えば初日はラウンジ開始の夕方五時から出勤して夜中まで。
そのままホテルへ泊まり、朝五時から和食の歌留多で十時までヘルプの手伝い。
昼の十一時よりベルヴェデールのスカイラウンジランチブッフェで昼の二時まで。
それからようやく休憩に入る事ができ、夜のラウンジで二日目の泊まり。
翌日朝五時から和食歌留多。
それからランチブッフェの準備をして昼の十一時にようやく終了。
二泊三日の泊まり込みシフトなどをこなす。
新潟のグリーンプラザ上越ホテルでもそうであったが、俺は元々人をもてなすといった行為が好きなのだろう。
そういった意味でホテルでの接客業は自身に向いていた。
プロレスを馬鹿にされる事を除けば楽しく仕事ができていたのだ。
ストレスが溜まると俺はスナックアップルへ行き、久美子の顔を見に行く。
嫌な事があっても彼女の笑顔を見られるだけで、幸せな気分になれた。
「岩上さん、スピーチは話す内容決まりました?」
「うーん…、友達がね、初めて付き合った子とそのままゴールインするからさ、そこを強調したものを考えているんだ」
「岩上さんの声もいいし、きっと大丈夫ですよ」
「ありがとう、久美子」
柴チンのように、いつか俺もこの子とゴールインできたらいいなと内心考える自分がいた。
柴崎義明の披露宴がやってくる。
場所は川越プリンスホテル。
暗めの紫のスーツで参加した俺。

スピーチの番がやってくる。
飲まれるなって。
ジャイアント馬場社長の前に立った時の事を思えば……。
マイクを片手に軽く息を吸ってから口を開く。
「えー、みなさんはじめまして。友人代表のスピーチを承りました柴崎義明君の知人である岩上智一郎と申します。過去何度かこのような場へ出席させて頂きましたが、本来スピーチなど短ければ短い方が場も白けずいいだろうと思います。それによりこれでスピーチを終わりにしたいと思います」
深々と頭を下げたままその姿勢を保つ。
みんな、これで終わりなのかと思ったようで会場内にざわめきが起こる。
ある程度の時間が経ってから頭を上げまたマイクを口にする。
「…と、言いたいところですが、さすがにそれでは新郎新婦に対しあまりにもご無礼です。なのでもう少しだけお時間を下さい」
ここで会場がドッと沸いた。
うん、シミュレーション通りの反応だ。
空気はこれで掴めたはず。
「まず会場のみなさんに問いたい。初めて付き合った異性とそのまま結婚を迎える。これ、一度でも別れた経験のある人は生涯無理になります。義明君はそれを実現した素晴らしい男性です。みなさま、そんな未来のあるお二人に言いたいの事は一つだけです。柴チン! 則子ちゃん! 本当におめでとう! あ、もう一つだけ…、柴チンさ…、妹と則子ちゃんが同じ名前だって最初の頃悩んでいたけどさ、そんなつまらない事なんて気にすんじゃねえよ。さあ、みなさん、こんな二人に嵐のような祝福を!」
割れんばかりの拍手が二人へ注がれる。
こうして無事スピーチは成功に終わった。
二次会の幹事も引き受けた俺は、プリンスホテルからすぐ近くにあるエストを使う。
ここで同級生だった幼馴染の安達すみれや増川清子なども呼び、楽しい宴を終えた。
すべて終了すると、俺は真っ先にアップルへ行き、久美子に結果報告をする。
「今度ゆっくり岩上さんと食事行きたいなあ」
「じゃあお互いの予定を照らし合わそう」
少しずつであるが久美子との距離は縮んでいく。
エスカペイドデュオのキャサリンが日本のカラオケに行きたいと言ってきた。
彼らは英語しか話せないので、いつもカタコトの会話とジェスチャーで意志を伝え合う。
喉を大切にするキャサリンは常に常温の水しか飲まない。
俺は彼女の唄うマイ・シェリー・アモールという曲が大好きだった。
あとで地元の幼馴染の斎藤陽吾の親父さんが経営する音羽屋というレコード屋でCDを買い、それがスティービー・ワンダーの曲だと知る。
陽吾の親父さんは「とうとう智ちゃんも、こういうのを聞くようになったかー」ととても嬉しそうだった。
浅草のカラオケ屋で豪華な部屋を借りたのに、キャサリンは私はプロだから一曲だけしか唄わないと、あとは他のみんなの歌を楽しんでいる。
じゃあ何故わざわざこんな部屋を借りさせたのだとつっこみたかったが、キャサリンはどこか可愛げのある一面もあり一緒に場を盛り上げる事に撤した。
浅草ビューホテルの目の前の国際通りを渡り少し進めば競馬のJRA場外馬券場がある。
それだけは業務中から嫌でも視界に入るので知っていた。
「おい、岩。明日の競馬さ、悪いけど馬券買いに行ってくれないか」
ベルヴェデール厨房担当のシェフ浅沼からある日そんな声を掛けられる。
彼には目を掛けられ、よく裏へ行った時「岩、これ食ってみろ。他の奴らには言うなよ」と俺だけ可愛がられていた。
競馬のマークシートの書き方を教わり、場外馬券売り場へ行く。
俺もその影響で初めて競馬をやってみる。
初の競馬は天皇賞・秋。
バブルガムフェロー、マヤノトップガンの馬連で当たる。
外れた浅沼は悔しそうな表情をしていた。
続いてエリザベス女王杯もダンスパートナー、フェアダンスで当たった。
ダンスダンスでフィーバーとふざけて買った馬券だった。
続いて年末最後のGⅠ有馬記念もサクラローレル、マーベラスサンデーをズバリ当てる。
秋の競馬GⅠを含め、十戦八勝。
もう今年ももう少しで終わる。
クリスマスの営業が終わり「こんな日に泊まりシフトなんて」と嘆く同僚たち。
競馬の勝ちで余裕のあった俺は、全日本プロレス時代のちゃんこ鍋をご馳走した。
途中からエスカペイドデュオの二人も来て一緒に食べる。
特にピエールはちゃんこ鍋をとても気に入り、レシピを教えてくれとうるさかった。
「カナダに白菜はあるのか?」と言うと日本語の分からないピエールは「ワット?」と不思議そうな顔をしている。
初詣も仕事だったので、近くの浅草寺へ連れて行く。
こういった儀式が初めてのピエールは興奮し楽しんでいる。
帰りに近所のデニーズへ寄り、パンプラムースという料理を注文する彼。
たまたま期間限定メニューだったようで、この時はもう取り扱いしていなかったようだ。
「パンプラムース。スモークミート! オー、ノー……」
悲しそうな顔で食事をしながらも、前にちゃんこ鍋をご馳走してくれたからと、食事代をすべて払ってくれる義理堅い一面もあった。
五百円玉を渡し「スキンヘッド、スローイング」と俺が坊主を指差して言うと、ピエールは「オー、ユー、バッドボーイ!」と笑っていた。
俺が浅草ビューホテルで働くようになって半年後に入ってきた子で、浅野美嘉という綺麗な子がいた。
真面目で融通がいまいち利かない彼女は、ホテル業での仕事に対し色々悩んでいるようだ。
よく彼女の悩みを聞いたので、相談に乗った。
そんな最中、久美子とのデートが決定する。
彼女の行きたい店は俺の働くベルヴェデールだった。
宮本マネージャーへ許可を取り、もちろん職場のみんなにもよろしく頼んだ。
そして厨房の浅沼にもよろしくお願いする。
これまでここで働いてきた俺が、彼女を引き連れて職場へ客として来るのだ。
あ、エスカペイドデュオのピエールとキャサリンにも伝えておかないと……。
当日が来て、俺は格好をつける為南大塚の従姉妹和ちゃんの親父さんから車を借りる。
夕方までビューホテルで働き、仕事を終えると急いで南大塚へ向かう。
車を借り、川越で久美子を拾った。
浅草までのドライブ。
途中ドライブスルーのマクドナルドへ寄り、ハンバーガーなどを三十個購入した。
「そんな買うの?」
「多分これでちょうどいいと思うよ」
職場のみんなに厨房、そしてピエールたち。
きっと匂いを嗅ぎつけて同じフロアーの小澤さんも食べたがるだろう。
好きなだけみんなに食べてもらおうと思ったのだ。
これまでホテルでどんな接客をしてどのように働いてきたかを説明する。
ホテルへ着くと、ベルヴェデール入口で林が出迎えてくれた。
マクドナルドの大量の袋を渡すと「こんな所で渡すなよ」と笑いながら怒り、従業員用のドアへ持っていく。
窓際の一番いい席を取っておいてくれて、案内される。
テーブルの上には大好きなグレンリベット十二年、そしてヘネシーXOまで置いてあった。
「久美子は何を飲む?」
「うーん…、岩上さんにお任せします」
「どんな感じのカクテルがいい? 例えばサッパリしたものとか、甘いものとか」
「最初はサッパリで」
後輩の江尻が近付きオーダーを取る。
「あのさ…、俺が考案したオリジナルカクテルのミューテーションあるだろ? 分からなかったらレシピ書くよ」
「ちゃんと覚えていますよ。あ、はじめまして江尻と申します。岩上さんにはいつも世話になり、兄のように慕っております」
「ふざけた事言ってないで早く作って持ってこいよ! あと彼女にバレンシアも頼むよ」
俺たちのやり取りを見て笑う久美子。
江尻には今度お礼をしないといけないな。
やがて大量の料理が次々と出てくる。
「厨房の浅沼からです。足りなかったらどんどん言ってこいだそうです」
「浅沼さんに好きなだけハンバーガー食べてくれと伝えておいて」
ショーステージが始まる。
相変わらず綺麗な歌声のキャサリン。
久美子はボーっとしながらステージだけに照明が注ぐ舞台を眺めていた。
突然俺たちの席へ照明が当てられ、店内の客の視線を一斉に浴びる。
キャサリンが俺のほうへ手をかざしながら口を開く。
「マイベストフレンド、イワカミ。イワカミズリクエスト、スティービーワンダー、マイシェリーアモール」
ベルヴェデールすべての人間が、俺と久美子を祝福してくれている状況。
こんな演出、映画だってないじゃねえかよ……。
照明が再びステージに行くと、思わず泣いてしまう。
そんな俺に対し、久美子は優しく右手を握ってくれた。
みんなに感謝を伝えながらキャッシャーへ向かう。
林は笑いながら「お会計二十万円です」と言ってくる。
「そんな無いですよ!」
「じゃあ本日のお代無料でいいとマネージャーが言っておりました」
こんなもてなしを受けておきながら、俺はハンバーガー三十個で済ませてもらった。
ホテルを出ると、近くにある焼き穴子の握りの美味しい緑寿司があるので、寄ってみる。
「もうお腹一杯ですよー」
「一つだけでも食べてみて。本当にここのは絶品なんだよ」
「え、何これ? 凄い美味しい!」
「でしょ?」
再び車へ乗り川越へ向かう。
自然と手を繋いでくる久美子。
信号待ちの時、俺の胸に顔を乗せてくる。
心臓の音が彼女に聞こえないかソワソワした。
「触れてると落ち着く……」
彼女の嬉しそうな表情を見て、何故みんなベルヴェデールへたくさんの金を掛けてわざわざ来るのか理由が初めて理解した。
みんな、あそこへ行って、大切な人の笑顔を見たいのだ。
だから無理をしてでも格好をつけて男は女を連れて行く。
俺をジッと見つめる久美子。
車を路上停止して、唇を奪った。
女の身体はとても気持ち良く、そして柔らかい。
自然な流れでホテルへ入り、朝までセックスをした。
いつの間にか寝てしまい、起きると横に久美子がいる。
俺はゆっくり口を開いた。
「結婚したいなあ……」
「もー、まだ一回しかデートしていないでしょ。馬鹿なんだから」
そう言いながら嬉しそうに笑う彼女。
幸せだった。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。
彼女を川越へ送り届け、そのまま南大塚へ向かう。
途中この事を誰かに自慢したくて坊主さん家に電話を掛けた。
彼は仕事に行っているようで、彼女の裕子さんが出る。
俺は久美子とのデートを大いに自慢した。
「あ……」
会話に夢中で車を壁に擦りつけてしまう。
慌てて電話を切り確認すると、軽い傷だがしっかりついていた。
もちろん弁償すると伝え、非礼を詫びる。
修理代で十万円飛んだ。
一度抱いた久美子には、独占欲のようなものが出てしまい、時には意地悪くしたり、冷たい言い方をしたりする事もあった。
そんな俺に幻滅したのか、気付けば彼女は去っていく。
調子に乗り過ぎた俺が馬鹿だったのである。
取り繕うと何度も機嫌を取るが、一度割れたグラスが二度と元に戻らないのと同じで、久美子の心が俺に向く事はなかった。
馬鹿な俺は徐々に距離を置かれ、ある日フラれたんだなあと悟る。
久美子との破局。
あれだけ応援してくれたみんなからは、その後どうなったのかよく聞かれるが、適当に誤魔化して過ごす。
心にポッカリと空いた穴。
その傷を癒すのに、ホテルの仕事が終わると別のスナックへ寄って飲む機会が増えた。
競馬も必然的に負けが込み、働いている給料の大半がギャンブルと飲み屋で消えていく。
「岩上さん、そんなお酒飲むのも身体に悪いし、お金も勿体ないですよ」
そんな俺に対し、真面目に注意してきたのは浅野美嘉だけだった。
いくら言われても俺の生活スタイルは変わらない。
たまにある携帯電話の着信を見ると、地元の先輩武田からぐらい。
どうせ、また休みの日にゲームをしに来いと言うだけだろうが……。
あまりにもしつこく着信はあるので一度だけ出る。
「智、おまえさー、最近冷てえよ!」
「浅草まで仕事なんだからしょうがないじゃないですか」
「たまには日曜日に仕事休んでゲームやろうぜ!」
「いや、武田さん…、ホテルでのシフトの都合もあるんですよ」
うんざりしながら働く日々。
ホテルへ泊まりシフトで働く時、唯一の楽しみはそのあとで行く近所の焼肉屋か、居酒屋の豚八、そして緑寿司だけだった。
そんな状況を迎えながら、浅野美嘉の退職の噂を聞く。
元々海外へ行く資金を貯める為に働いていたようで、あと数ヶ月で退職するようだ。
いい子だっただけに寂しくなるなと思う。
ある日、浅野から一度近くにある花やしきへ一緒に行かないかと誘われる。
指定されたのが休みの日だったので、俺も遊園地自体嫌いではないのでOKした。
約束の当日俺は川越の家で思いきり寝過ごし、すっぽかす形になる。
宮本マネージャーから電話が掛かってきて初めて起きた状態。
時計を見ると、約束の時間から二時間経っていた。
「岩上さー、あんまり可哀想な事するなよ。彼女、岩上がすっぽかす訳がな言ってずっとラウンジで待ってるんだぞ」
慌てて浅草へ向かう。
川越からどんなに急いでも一時間半。
合計三時間半も、彼女は俺を待っていてくれたのだ。
そのけなげな姿勢に胸の痛みを覚える。
当然の如く花やしきは閉演時間。
俺は彼女への償いをしなければならない。
「浅野ちゃん、本当に今日はごめんね」
「岩上さんはいつも頑張っているから、たまたま疲れが溜まっていただけですよ」
こんな優しい子はあと数ヶ月で辞めてしまうのか。
そう思うと遣る瀬無い気分になってしまう。
それでも浅草寺を一緒に回り、ビリヤードをした事がないと言うので教えながらプレイして過ごす。
前から気になっていた大皿料理のイタリアンの店カプリチョーザへ食事に連れて行く。
グリーンサラダにスップリ、ボロネーゼパスタに、包み焼きピザ。
肉料理も頼み、まだ何か注文しようとメニューを見ていると「そんなに食べられませんから」と注意される。
始めに出されたサラダの尋常ではない量を見て、それでも頼み過ぎたと感じた。
直径十センチ以上あるスップリ、大皿のパスタで二人共お腹が一杯。
包み焼きピザだけは持ち帰り用にしてもらった。
帰り道国際通りを歩いていると、強めの風が吹く。
冬の季節なので容赦なく俺たちの体温を奪う。
浅野が震えていたのでやせ我慢してコートを脱ぎ、彼女へ被せた。
気が付けば俺はこの子の事をとても大切な存在と思うようになっている。
でもあと数ヶ月で彼女は日本からいなくなってしまう。
俺は後ろから彼女を身体を抱き締め温めた。
この頃地元の同級生の影響で、仕事を終え川越へ帰ると西口の先にある飲み屋街のスナック五次元へよく飲みに行った。
グレンリベット十二年を扱うスナックは無かったので、当時はヘネシーVSOPのボトルをよく好んで入れる。
スナックのあとは家の隣にあるトンカツひろむへ向かう。
トンカツというよりも小料理屋といった表現が適切なひろむ。
ここでは五つ上の先輩である岡部さんが働いていた。
幼馴染のひろむの一ちゃんと同級生だったようだ。
俺が自衛隊で川越に帰ってきてから知り合うので、数年の付き合いになる。
この人の常識や良識、物の考え方はとても参考になり、気付けば地元で一番慕う人となった。
またよくスナック五次元で見掛ける川越のバーのジャックポットのマスターである野原さんともこの頃に知り合う。
岡部さんを介して野原さんを紹介してもらい、仕事明けよく共に飲んだ。
ホテルでは飲み過ぎの俺に浅野美嘉が身体壊しますよと、相変わらず注意してきた。
「俺はいくら身体を壊そうと、君は仕事辞めて海外へ行ってしまうのだろ?」
そう言いたかったが、今の俺は彼女へ何も言える身分じゃない。
気になった子が辞めてしまう現実に対し、俺は心の中で思う事しかできなかった。
ホテルの中ではレストランやバーの料飲部、それを管理する支配人。
料理を作る厨房、和洋中それぞれの部門に総料理長。
会計などレジを担当するキャッシャー。
各部門別に配属されている。
仕事を終え、バーカウンターで飲んでいると他部署の人間もご馳走になりに来るケースも多々あった。
キャッシャーの一人の子がよく相談してくるので聞いてあげると、彼女は半蔵門駅のダイヤモンドホテル総料理長の娘だと言う。
父によろしく伝えてあるから今度一度行ってみてくれとの事で、上司である林、浅野美嘉、俺の三人で行く事になった。
個室に通され至れり尽くせりの接客を受ける。
人参などの野菜を使った兎の飾り包丁。
高級素材をふんだんに使った中華のコース料理。
会計時、三人合わせて一万円でいいと破格の安さにしてくれた。
ある日泊まりシフトで仮眠室へ泊まる前に地下の大浴場でゆっくり湯へ浸かる。
身体が火照っていたので仮眠室の天井にダクトの穴が空き、強い風が吹く二段ベッドの上で寝た。
起きると体調がどうもおかしい。
声がガラガラなのだ。
身体も気だるさを感じる。
ラウンジのスタッフたちは、具合の悪そうな俺を見て「岩上さんが珍しく弱っている」と笑っていた。
途中声も出なくなり、翌日から連休だったので休んでいれば治ると甘く高を括る。
しかし状態はさらに悪くなる一方で、起きる事もできないくらいの高熱。
まったく声も出ないので、さすがに家の目の前の三井病院へ駆け込む。
すぐさま入院が決まった。
何故こんな状態になるまで放っておいたのかと医者から怒られる。
仮眠室のダクトの下で寝たせいで大量の埃を吸う状況になり、扁桃腺がパンパンに腫れていたのだ。
小学六年生の盲腸以来、二度目の入院生活になった。
メモ用紙に字を書いて「浅草ビューホテルへ入院した事を連絡してほしい」とお願いする。
点滴を何度か受けていると、すぐ体調は戻った。
仕事に穴を空けてしまったという罪悪感から、退院を願うも許可は降りない。
暇な入院生活。
抜け出し家からセガサターンを持ってきて遊んで過ごしていると、ホテルの浅野美嘉が突然お見舞いに来た。
浅草から川越まで一時間半以上掛かるのに……。
この時彼女を異性としてハッキリ意識したのを感じた。
一週間ほどで医者の意見も無視して退院し、職場へ復活する。
しかし入院が浅野の退職時期と重なった為、見送る事すらできなかった。
そしてショーステージのエスカペイドデュオのホテルとの契約期間が終了し、俺は彼らと別れの挨拶すらできずに終わる。
ピエールは俺の事を「ミスターイワカミ?」と何度も心配しながら帰ったと同僚から伝えられた。
次のステージ先は豪華客船の中でやるらしい。
世界を股に掛けて歌う彼らを羨ましく思う。
IDOの携帯電話を持っていたが、必要もないのにDocomoの携帯電話も契約し、二台持つ事にした。
復帰した俺に浅草ビューホテル専属でよく顔を出す日本生命の人から保険へ入るよう勧められた。
以前から誘いを受けていて断っていたが、先日の入院で身体の内部まで鍛えられないのを痛感し加入する。
しかし一ヶ月もしない内、また喉の扁桃腺が悪化し再度入院する羽目になった。
完全に完治していないのに強引に病院を抜け出たツケ。
声が出るようになると、退屈な入院生活が待っているだけだった。
もう浅野美嘉は海外へ行ってしまっただろう。
遣る瀬無さを紛らわすよう夜中になれば病院を抜け出て、スナックを飲み歩く。
急いで職場復帰したところで、またぶり返したら意味が無い。
一ヶ月ほど入院生活を送り、そろそろ職場へ戻らないとと病院を出る。
浅草ビューホテルも配膳会社も、業務上で起きた入院なのに治療費を一円も出してくれなかったのもある。
一生懸命仕事をした結果身体を壊し、自分で入院費を払っていれば世話はないだろう。
そして退院した俺に待っていたのは、来月からセクション移動の辞令。
泣きっ面に蜂状態。
ラウンジから婚礼の方へ回るよう言われたが、俺はカクテルを作って接客しているのが好きなので、自身の意志を伝えた。
しかし辞令は辞令。
決して覆らないので、ホテルを辞める事を伝えた。
日本生命の人には、狙って入院したみたいだから保障はいらないと伝えたが「ワザとじゃないのは私が一番分かっています。必ず出るので診断書と当社お抱えの医師の診断で休みを取って下さい」と二日間の休みを取らされた。
こうして俺の浅草ビューホテル時代は終わりを迎えた。
闇 07(新宿歌舞伎町編)

2024/07/26 fry
2025/07/10 thu
2025/08/16 sta
前回の章
浅草ビューホテル時代が終わり、俺は新潟のグリーンプラザ上越ホテル前に少しだけ行った川越の氷川会館で短い間だが働く。
披露宴中心の配膳の仕事は本当に面倒だ。
ベルヴェデールの変則シフトで働いていた頃を懐かしく思う。
居場所をあそこでやっと築けたと思ったんだけどな……。
元全日本プロレス、元浅草ビューホテルバーテンダー。
この二つの肩書に、氷川会館の人たちは気を遣う。
しかしそういう人間だけではない。
中には妙に突っ掛かってくる奴もいた。
「おい、岩上! バーテンダーだか何だか知らねえけどよ? ここは氷川会館なんだよ。図に乗ってんじゃねえぞ」
年も俺より少し年下で髪の毛も茶色
まず接客業務というものに対し、紳士的に取り組んでいる人間から注意されるなら分かる。
何だ、このチャラチャラしたクソガキは?
しかも俺はミスも何もしていないのだ。
どれだけ先に入っただけなのか知らないが、何をこの若造は粋がっているのだろうか?
まず配膳など披露宴のような神聖な場所で働くなら、髪の毛を黒く染めてこいと思う。
目つきが鋭くなると慌てて周りが止めに入る。
「岩上さん、落ち着いて落ち着いて! おまえも年上に対し口の利き方気をつけろよ、馬鹿野郎」
このガキ、この辺の人間じゃないのか?
知っていたら俺に喧嘩を売る人間など一人もいるはずもない。
人前では言わなくなったものの、陰で二人きりになると妙に絡んでくる若造。
俺は誰もいないのを確認すると、そのまま殴り飛ばす。
「おい、小僧。誰におまえは口を利いてんだ? 喧嘩してえなら、いくらでもやってやるよ」
力の差は歴然。
加減した一撃だけで大人しくなった小僧に対し、それ以上は追撃しなかった。
しかしそれで仕事を辞めたガキが、チクったのだろう。
暴力を振るったのかと疑惑を掛けられた俺は、面倒なので氷川会館の仕事を辞めた。
再び無職となった俺に、配膳関係者を通じて松縄を紹介される。
その彼が店長を勤める店クラブ五次元。
イベントでカクテルフェアをやりたいから数日間来て欲しいと声を掛けられる。
いつも言っているスナックのクラブ版の店なので、少し高級志向なのだろう。
ひょっとしたらあっちより、時給高い分いい女がいる率も高いはず。
クラブ女はいつも勉強をして接客しないといけないらしい。
小学生の時に聞いたクラブの女の知識。
昔の記憶だけで俺は変な期待をしつつ五次元へ向かった。
この時面白い偶然が起こる。
成田山川越別院の住職である平井さんが客として来店した事。
高校時代にアルバイトした山口油材で当時共に働いたお坊さんの有原照龍。
彼が成田山でお坊さんをやりながら合間で山口油材でアルバイトという変わった事をしていた頃に接触しているので、当時の俺もよく懐き川越別院には遊びに行ったのだ。
まさかここに俺が働いているなんて露ほども知らない平井さん。
クラブの女が「今日カクテルフェアだから飲みたいなあ」と甘え、カクテルの注文が入る。
「お待たせ致しました。ニコラシカとスカイダイビングになります」
テーブルへ運ぶと陽気に乾杯をして、こちらには気付かないようだ。
平井さんも指名するならもっとマシな女をすればいいものを。
この女、客が来る前彼氏と堂々と電話しているような性格なんだから。
耳元で「お久しぶりです、平井さん」と呟く。
ギョッとして俺を見て「うわっ! 何でここにいるんだ?」と焦り出す。
浅草ビューホテルを辞め、数日限定で手伝っている事を説明。
「寺で余計な事言うなよな」と釘を刺され、奥の厨房へ戻る。
平井さんについていた女が怒った顔でニコラシカを持ってきた。
「もっとレモンもらえます?」
苛立ったトーンの女。
自分でニコラシカを注文しといてさらにレモン?
意味がまるで分からない。
ニコラシカとはカクテルの中でも特殊で、ショットグラスにブランデーを注ぎ、レモンの輪切りを乗せその上にメジャーカップで砂糖を盛るもの。
飲み方が特殊であり、まずレモンと砂糖を口に放り込み一気にブランデーも入れる。
口の中でグチャグチャと混ぜながら飲む、別名口の中で作るサイドカーなのだ。
サイドカーでなくあえてニコラシカを注文したという事は、当然飲み方も知っての事だと思う。
俺の常識の中で、クラブで働くならそのぐらい当然分かると思っていた。
不思議に思ったので「レモンが何故必要なんですか?」と質問する。
「こんなんじゃ飲めないよ! 早くレモン頂戴!」
このクラブの女は飲み方も知らずに頼んでいたのだ。
数年は酒というものに趣を置き、懸命に勉強してきた。
バーテンダーとしての職業にも誇りを持ちながら。
「飲み方も知らずにニコラシカを頼んだのですか?」
「どうせ、奢りだしどういうのか頼んだだけじゃん。早くレモン頂戴って」
スナックの女ならまだ分かる。
より高い給料をもらいながら自身の勉強不足を顧みず、客の金だから実験で注文。
酒に対する冒とくと客に対しての侮辱。
高い金だけ自分はもらい、この女、接客舐め過ぎだろ?
「おまえ、ふざけんなよ」
俺と女は口論に発展してしまう。
店のママがすっ飛んできて間に入る。
状況を説明すると「ここは女の子主体の店なんだ。あんたはクビ! 帰っていいよ」と怒られる。
頼まれてカクテルを作りに来ただけで、ここの従業員でも何でもない。
見切りをつけて帰った。
性格的に一つの決まった場所で働いている方が性に合うのだろうか。
今日はどこどこ、明日はこっちへと毎回違う環境で働くのは大変である。
浅草ビューホテルでのラウンジからのセクション移動を断り辞めたのを後悔したが、もう遅い。
無職になって食べ物も困るような生活がはごめんである。
現状に対し不満を抱きつつも何かしら働かなくてはならない。
しかしホテル時代契約した日本生命の笛木から、ちゃんと保障は出るとお墨付きをもらい、診断書まで出している。
もう少しで金が入ってくるだろうと楽観視して過ごす。
ホテルを辞めてから半年が過ぎた。
あれだけ保障が出ると言っていた日本生命からは未だ何の音沙汰も無い。
毎月保険料だけが引かれている状態だったので、さすがに連絡を入れてみる。
数日して日本生命の何とか長というおばさんを連れてやって来たが、審査の結果出ませんと言われた。
最初に保障は狙ったみたいだからいらないと伝えたのを保障は出ますからと無理矢理休みを二日間取らせておいて、それはないんじゃないかと訴える。
しかし謝罪とバームクーヘンのみで誤魔化された。
俺はバームクーヘンを投げ捨て激怒する。
「岩上さん、これに懲りずに今後も日本生命を……」
「ふざけんな、ただの詐欺じゃねえかよ! 金だけ取って、入院して保証出ますからって診断書や問診まで人にやらせといてよ? 必ず出ますと嘘をつき、いざとなると審査の結果出ない? ふざけんじゃねえよ!」
「お気持ちは大変ご理解致しますが、今後とも懲りずに日本生命をお願いします」
「おまえ、頭に蛆虫湧いてんのか? こんな詐欺に遭い、懲りるに決まってんだろ! もう解約するよ、ふざけんな」
信用できないから辞めさせてもらうとハッキリ伝えた。
その数ヶ月後、驚く事案が発生する。
IDOとDOCOMOの二つの携帯電話を所有していた俺。
引き落とし先が混乱するのを避ける為、DOCOMOと日本生命の引き落とし分はこの銀行、IDOと別の支払いはこっちの銀行と分けていた。
ちゃんと口座に引き落とし分を入れていたはずなのに、ある日DOCOMOの携帯電話が止まる。
連絡しても引き落とし額が足りなかったのでと説明された。
金を入れているのに足りない?
そうこうしている内にDOCOMOから強制解約を言い渡された。
調べてみると、辞めたはずの日本生命がちゃっかり毎月保険料を引き落とししていたようだ。
文句を言うと、日本生命とまだお付き合い下さいとふざけた事を言うので、さすがに訴えると伝えた。
日本生命の笛木は辞めると伝えてから、さすがに引いていた金額を振り込んできたが、DOCOMOの携帯電話を失った事実は消えない。
こうやって保険会社はCMをテレビで打てるくらい人を騙して金儲けしているのかと思う。
まあIDOがあるからいいか。
元々DOCOMOは武田がしつこくこっちを契約した方がいいと、強引にした方である。
こんな事なら口車など乗るんじゃなかった。
後悔先に立たずというが、後先考えずに契約した俺が馬鹿だっただけ。
馬鹿はいつの時代も世の中から搾取されるだけなんだ。
中々自分の居場所が見つからない。
本当なら全日本プロレスのリングの上で戦っていたかった。
忌々しい左肘横の突き出た骨。
あの時のスパーリングで何故余裕など見せて油断してしまったのだろうか。

打突さえ使っていれば……。
いや、使ってどうする?
鶴田師匠に顔向けできるのか?
俺ももう二十四歳。
あれから二年は経つ。
未だ未練がましく全日本プロレス時代の思い出にしがみつくしか、自身を慰めるしか術が分からない。
ビューホテルにいた頃は、こんな事を考えた事もなかった。
人間、働ける場所があり、適度に忙しい生活を送っている方が幸せなのかもしれないな。
暗く沈んだ生活をして時間を持て余していた頃、坊主さんと裕子さんが新丸子まで遊びにおいでと連絡があった。
裕子さんは俺の一つ年上でとても優しい女性。
数回会ったがいつも俺の事を気に掛けてくれ、坊主さんもいい人を見つけたなあと思っていたので心から祝福できた。
馴れ初めは働いていたパソコン会社で一緒に働いている内に、気付いたらくっついていたらしい。
いい気晴らしになるかもと新丸子へ泊まりに行く。
坊主さんはこの頃スーパーファミコンの『かまいたちの夜』というゲームにハマっていて、壁に何枚も紙を使ったフローチャートを貼っていた。
泊めてもらったお礼に得意料理のトマトソースのパスタを作ると、裕子さんはとても喜んでくれた。
やる事が何もない俺。
暇な時間をクレアモール商店街にあるゲームセンター『モナコ』へ行く。
ここでは武田を介して知り合った先輩の神田さんが店長で働いていた。
優しい神田さんはいつも笑顔を絶やさない。
彼の仕事が終わると、よく食事へ行き色々な話をした。
「僕のほうが年上だから、ここは僕が奢るよ」
そう言ってご馳走をしてくれる神田さんには頭が上がらない。
同じ先輩の武田とは正反対の性格である。
家に帰ると武田からの着信が入った。
「……」
十九歳の時の面倒だった武田とのエピソードを思い出す。
「智! この間上福岡のゲーセン行ったらよー。不良が絡んできて、おまえの名前言ったら誰だそりゃとか舐めた事言ってたぞ? おまえ、いつ横浜から川越に帰ってくるんだよ? 毎週日曜はこっち来てるのかよ?」
当時単細胞だった俺は、理不尽な武田の言い分に対し舐められたという言葉に反応してしまう。
休みに金沢八景から川越へ帰ると、武田と合流し上福岡へ向かった。
どんな生意気な奴がいるのかと楽しみにゲームセンターへ入る。
すると五人連れで不良が視線を合わせないよう立っていた。
「おい、オメーよー。智を連れて来たけど、何黙ってんだよ?」
「……」
一言も口を開かず黙る不良連中。
本当にこんな奴らが生意気な事を抜かしたのかと疑問に思った。
「智、おまえからもコイツらに何か言ってやれよ」
武田がうるさいので仕方なく近付く。
同じ事を聞くと「そんな事言ってません!」と一点張り。
「もういいですよ。行きましょうよ」
わざわざ横浜からこんなところまで来て何をやってんだか呆れた俺は声を掛ける。
すると武田は無抵抗の不良相手に「おまえ、あの時言ってただろうがよ」と突然殴り出す。
「何やってんですか! 相手、無抵抗じゃないですか。止めましょうよ」
「コイツら本当に言ってんだよ、智。離せ!」
「言っていたからもしれませんが、今は無抵抗です。だから止めましょう」
この馬鹿の口車に乗って喧嘩を買いに行った俺が、何で横浜から遥々来て喧嘩を止めなきゃいけないんだよ……。
後々気付いた事。
揉めたのは事実かもしれないが、普通他所の土地で二つ年下の俺の名前を出すか?
こういった一面を知り、俺は武田との距離を徐々に置くようになった。
俺は目の前の電話が鳴りやむまで放置する。
一応先輩ではあるし、和ちゃんや坊主さんの同級生でもあるのだ。
何だか面倒臭い人と知り合いになっちゃったよなと憂鬱な気分になった。
アルバイトでどこへ行っても長続きしない俺。
二十五歳になっても、相変わらず中途半端な状態が続く。
どこでボタンを掛け違えたのだろう。
そんな中、坊主さんと裕子さんの結婚が決まる。
披露宴での友人代表のスピーチもお願いされた。
祝儀をたくさん包みたいが、今の俺は金もそんな余裕がない。
どうすればいいのか途方に暮れた。
現実逃避で川越の街をブラブラ歩き、腹が減ったので川越駅西口にある洋食屋のグリンキッチンTOGOへ行く。
気さくなマスターの作る味噌焼きチキンは大好物で、定期的に足を運んでいる。
彼はハンバーグが自信あるようだが、これだけは断じて違う。
料理を待つ間、東スポを眺めていると、とあるスペースに目が止まった。
『喫茶求人 十二 新宿』
十二って一万二千円の事だよな?
喫茶店の仕事でこんなにもらえるのか?
しかも一軒や二軒だけじゃない。
こんなにも深夜喫茶が新宿にはあるのかよ。
浅草ビューホテルで接客術を身に付け、酒についてあれだけ勉強したのに今の俺はそれが全然活かせていない。
新宿は行った事がない街であるが、深夜喫茶などで人もたくさん賑わっているのだろう。
もし働いたとして俺のカクテルの腕も活かせるようできたら……。
ちょっとした閃きが走る。
うん、深夜喫茶で働きながら、カクテルを披露して徐々に自分の立ち位置を明確にしていく。
うん、これって案外行けるんじゃないか?
俺は求人先の電話番号を控えると、早速連絡してみる。
二十五歳という年齢で数軒断られたが、ベガという店はすぐ面接の日にちまで決まった。
西武新宿線本川越駅から西武新宿駅まで一本。
一時間もあれば着く場所だ。
ベガなんて小六の時、角川アニメ第一弾と謳った映画の幻魔大戦に出てくるキャラクターと同じ名前だ。
小学六年生の頃テレビを弟の徹也と一緒に観て「何か格好いい音楽だね」と興奮しながら言い合った記憶。
あの映画の挿入歌であるキースエマーソンの地球を護る者のテーマで、入場したかったよな……。
未だプロレスに未練があった。
中途半端なまま終わってしまったあの世界。
ジャンボ鶴田師匠はあのあと内臓疾患で入院し、第一線から退いてしまった。
右拳を握り、親指を横に突き出す。
結局ここまで鍛えた打突を使う機会もないまま、宙ぶらりんになっている。
俺の人生って何でいつもこうなんだろうな。
そんな事を考えている内に電車は西武新宿へ到着した。
待ち合わせの場所はコマ劇場前。
初めての新宿なので、どこにコマ劇場があるのかすら分からない。
それにしてもたくさんの人で歌舞伎町はごった返している。
人に聞くのも恥ずかしいので、しばらく街を彷徨い歩く。
面接の時間が近付く。
仕方なく通行人に尋ねると、目の前にあった建物がコマ劇場だった。
しばらくボーっと立っていると、不意に後ろから肩を掴まれる。
瞬間的にその手首を掴み、関節を捻っていた。
モジャモジャパーマの男は悲鳴を上げて痛がりだす。
咄嗟の行動だったので非礼を詫びると、その男が面接をする予定の人だった。
初っ端からやらかしてしまったと思ったが、すでに過ぎた事である。
クドクド文句を言われたあと、肩身を狭くしながらあとをついていった。
コマ劇場から二本横の道に店はあったが、どう見てもマンションだろと思う。
第四NKビルとだけ外の壁に貼られていた。
こんなところで喫茶店?
疑問に思いつつも階段を上がる。
二階へ着くと、昔喫茶店で流行ったインベーダーゲームのテーブルが店内に十台二列で設置されていた。
何だ、ここは……?
中へ入るとオールバックの男が笑顔で立ち上がり「鳴戸です」と名乗る。
先程迎えに来たモジャモジャパーマが海野。
どうやらこの二人の共同経営の店らしい。
腕を捻られた海野は「こんな奴使うのやめましょう」とまだ怒っていた。
黙ったまま俺の履歴書を眺める鳴戸。
「岩上君、あなた、全日本にいたんですか?」
興奮気味に質問してきた。
中途半端なこれまでの経歴を説明すると、鳴戸は「プロレスからホテルマン。あなたはとても面白い」と妙に褒めてくる。
海野の反対を押し切って明日から仕事に入るよう言われた。
そして帰る際、交通費ですと一万円札を渡される。
どう見ても喫茶店ではない。
怪しい店であるが、坊主さんの結婚式も近付いている。
金を稼ぐ為、俺は明日から新宿歌舞伎町での生活を決めた。
共同経営とは言っていたが力関係では胡散臭い海野よりも、鳴戸のほうが上なのが分かった。
一日働けば一万二千円の金を得られる。
しかも日払いなのだ。
背に腹は変えられぬこの現状を飲み、働いていくしかない。
少なくとも坊主さんと裕子さんの祝い金を渡せるくらいは。
それにしてもあのテーブル筐体は何だったのだろうか?
インベーダーではなく画面にはトランプのポーカーのようなものが映っていた。
壁にはコーヒーやコーラといったメニューも貼ってはある。
一抹の不安を抱えながらも明日になれば俺は新宿へまた向かう。
帰りに渡された一万円札を眺めていると電車は川越へ到着した。
翌日の初出勤。
格好はワイシャツにネクタイ、そしてスーツのズボン。
元々私服はトレーニングウェア以外スーツしか持っていなかったので余計な出費が無い分助かる。
時間帯は夜十時から朝十時までの十二時間。
俺の他に世永という責任者しかいなかった。
たった二人しか従業員がいないのか……。
この店は喫茶店というよりも、ゲーム喫茶またはゲーム屋と呼ばれる業界で、目の前にあるポーカーゲームの機械を使い、実際に金をクレジットに換えてプレイする賭博場のようだ。
客が誰もいないので、世永は丁寧に色々教えてくれる。
俺は深夜喫茶かと思い、慣れたらカクテルを作って店を盛り上げたいと思ったと伝えると「そんな奴、歌舞伎町に一人もいやしないよ。岩上君は本当に面白いなあ」と大笑いしていた。
この日結局客は誰一人も来なく、世永との雑談だけで一日が終わる。
こんなんで一万二千円ももらっていいのだろうか?
罪悪感を覚えたが、金にそこまで余裕のない俺は素直に日払いを受け取った。
浅草ビューホテル時代でも思っていたが、俺は元々夜型タイプの人間なのだろう。
夜から朝に掛けての仕事時間もまったく苦にならない。
ホテルの時の給料とそう変わらないのに、こんなに適当な仕事内容で本当にいいのか少し不安だった。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。
喫茶ベガは十円レートのゲーム屋らしく、一クレジットが十円計算になるのでそう呼ぶらしい。
五千円分を入れるとクレジットは五百。
一万円で千といった具合だ。
置いてあるゲームの機種はフィーバーパックとラッキーフルが五台ずつ。
まったくチンプンカンプンだが、世永は「未経験だから分からないのは仕方ない、おいおい嫌でも分かってくるよ」とだけ言って笑っていた。
基本客が来ないので、オーナーのご機嫌取りで電バリというものを行う。
A4の紙に店名のベガと十円玉のマークが描かれ、あとは店までの簡単な地図しか載っていない。
その紙の裏に強力な両面テープを上下に貼り、あとはそれを電信柱に貼っていくのだ。
これは海野や鳴戸が店にいる時だけしかできない。
何故ならスタッフが早番遅番で二名ずつしかいないからである。
警察に見つかると逮捕される可能性もあるので、電バリは必ず二人で行う。
一人が電信柱にチラシを貼り、もう一人が警官が近くにいないか見張るのだ。
金の為とはいえ、どんどん自分が薄汚れていく気がした。
いつも笑顔の世永とは相性良く仕事がやれていると思う。
二つ年上なのに妙に偉そうにしたりしないのが良かった。
あと何も分からない俺に、色々教えてくれる。
たまに来る客を接客し、帰ればテーブルの上を簡単に片付けるだけの仕事。
ゲーム屋は毎日新規初回サービスというものがある。
来店して一万円を入れれば、サービスで一万分のサービスがついてクレジットは二千からスタート。
その代わりOUTできるのは倍の四千からのようだ。
お金をクレジットに入れるからIN。
クレジットをお金に換えるからOUT。
基本的な仕組みを徐々に覚えていく。
他に仕事といえば、二つ先の東通りにある二十四時間営業のスーパーエニーで不足した飲み物を買いに行く程度だった。
歌舞伎町で働き出し一週間も過ぎた頃、坊主さんの結婚式があった。
この日だけは休みをもらい、出席する。
あのゲーム屋のお陰で祝儀もちゃんと包めた。
そこだけは感謝をしないといけない。
披露宴の席では地元の先輩たちと同じテーブルに着く。
以前毎週のように遊んでいた武田、秋山さん、神田さんと同じ席。
対面には坊主さんの同級生でもある二つ上の従妹の和ちゃんやその仲間たちが座る。
武田だけ婚約しているというフィアンセを無理やり同席させていた。
二人分の席と料理食って、祝儀は武田一人。
披露宴では料理や引き出物の人数で値段も変わるんだぞ?
本当にこの人常識がない。
今日の主役は坊主さんたちなのになと内心思いつつも、披露宴は進行していく。
自ら立候補して友人代表のスピーチでしゃしゃり出る武田。
「坊主! 今日は本当おめでとうな。おい、おまえもこっち来いよ」
武田は婚約者をスピーチの場へ呼ぶ。
「俺たちもあとに続くからよー!」
遠くからその光景を眺めながら、会場が白けているのが分かる。
今日は坊主さんたちの結婚式なんだぞ?
ちょっとした不満を覚えた。

俺の友人代表のスピーチの順番が来る。
緊張しながらも大勢の前で坊主さんと裕子さんの夫婦を心から祝福した。
「この度土方智さんと最上裕子さんがこの場で結婚します。私にとって兄のような存在であり、また裕子さんも俺にとって姉のような存在になります。ん? 兄と姉…、これじゃ近親相姦になってしまいますね……」
会場がドッと沸く。
「ちょっと矛盾した言い方になるけど、言わせて下さい。坊主さん、裕子さん! いや…、兄さん、姉さん! 本日はご結婚本当におめでとうございます!」
深々と頭を下げる中、割れんばかりの拍手に包まれた。
ジャイアント馬場社長と会った時の緊張感。
あれに比べれば、ある程度の事は落ち着いて構える事ができるようになっていたのだ。
以前同級生の柴崎義明の披露宴でも行った過去も味方していた。
場所はディズニーランドの見えるホテルで行われ、無事披露宴は終わる。
俺以外のみんなは着実に前へ向かって進んでいた。
突然竹田が彼女と、坊主さんたちと同じホテルに泊まると急に言い出す。
明日は新婚の坊主さんたちは、裕子さんの希望によりディズニーランドで一日遊ぶ予定。
そこへ武田たちも加わると言い出したのだ。
人のいい坊主さんと裕子さんは断れないだろうけど、武田も少しは空気を読めよと思う。
生涯で一回しかない大事な日なんだぞ?
「智、神田も秋山の俺たちの部屋、ちょっと覗いていけよ」
あくまでも傍若無人な武田。
自分たちが泊まる部屋を俺たちに見せて自慢したいだけなのがよく分かる。
帰りの電車の時間帯もあるので、帰る際竹田の彼女に「あとは二人きりでごゆっくり」と声を掛けて帰った。
帰りの電車では俺と神田さんと秋山さんの三人で、武田の悪口の言い合いになる。
あそこで自分の事だけを考えられるなんて、ある意味幸せだとみんなで笑う。
「せっかくだから俺の部屋でサターンのファイプロやっていきませんか?」
当時家庭用ゲーム機のセガサターンを愛用していた俺は、定番シリーズになっていた『ファイヤープロレスリング』、略してファイプロにハマっていた時期だった。
神田さんと秋山さんはコンビを組んでいるのかと思うほど仲がいい。
武田を介して知り合ったとはいえ、二人共優しい先輩なのでよく個人的に食事へ行った事も数回あるほど。
うん、付き合うならこのような穏やかな人たちとのほうが本当にホッとする。
翌日武田から電話があり、ひたすら怒って俺を責めてくる。
何故そこまで怒るのか理由を聞くと、俺が昨日の帰り際「あとは二人きりでごゆっくり」と声を掛けたせいで彼女と気まずくなり、翌日のディズニーランドでもずっとご機嫌斜めだったと言う。
あとから聞いた話になるが、裕子さんたちはご機嫌斜めの武田の彼女の気分を損ねないよう気を使って過ごしたらしいので、とことん坊主さんたちの結婚式に武田は水を差してくれた訳だ。
この辺りから普段つるんでいた武田とは価値観の相違から決定的な距離を置くようになった。
歌舞伎町に来て十日が過ぎる。
相変わらずベガは暇な店のまま。
仕事中海野が店に来て、世永を外へ呼ぶ。
三十分もしない内に不機嫌そうな表情で世永は戻り「岩上君、俺は上がる事になったから。また何か縁があったらね」とだけ言って店から出ていく。
何が起きたのかまるで理解できない。
戻った海野に事情を尋ねると、世永は客を呼べないからクビにしたらしい。
それなら自分のほうがまったく店の役に立っていないはずだと言うと「岩上君みたいなタイプは珍しい。真面目だしね。鳴戸君も非常に君を買っているんだよ」と言われた。
俺はまだゲーム屋のイロハすら分かっていない。
もちろん客だって呼べるような人などいない。
ただ真面目というだけで、何をそう買うのか理解できないでいた。
もう世永と一緒に仕事する事がなくなったのだ。
歌舞伎町に来て初めて一緒に働き面倒見てもらった人間なので、何とも遣る瀬無い気持ちになる。
翌日から新しい人間が入るのと、半日置いて早番に代わるよう言われた。
時間帯は真逆の朝十時から夜十時になる。
夜型人間の俺にとって複雑な心境ではあるが金も無い雇われ側なので、店の決定に文句一つ言えた義理も無い。
明日の朝十時から店長である高橋ひろしと組んで早番。
これは店の決定事項なのだから。
闇 08(仕組まれた遊戯編)

2024/07/26 fry
2025/07/10 thu
2025/08/18 mon
前回の章
まったくの真逆になった生活。
普通のサラリーマンと似たような時間帯に出勤し、混み合った電車の中で揺られて帰る。
正直苦痛だったが贅沢を言えるような身分ではない。
遅番と違うところはパートナーが世永ではなく社長の高橋ひろしに代わった事。
この社長というのは実際の社長ではなく、名義を張って警察に捕まった際罪をすべて被る役割らしい。
当然名義料という形で給料とは別の部分でお金がもらえる。
高橋は陽気な性格で妙にチャラチャラしていた。
だが悪い人間ではなさそうだ。
元々ホストだったらしく現役ホストの先輩たちを店に呼び、ギャンブルをさせている。
それでもベガは基本暇な店だった。
共同経営の片割れの鳴戸は早番の時間だと、よく店に顔を出す。
高橋と店について話し合ったあとは、必ず俺にも気遣ってか他愛ない会話を振ってくる。
いい人だと感じた。
しかし恐ろしい一面を見て評価は一変する。
早番と遅番の入れ替わりの時だった。
両オーナーの鳴戸と海野もいて、たまたま俺の全日本プロレス時代の話を聞いてくる。
嘘偽りなく話していると、海野は額に手を当て「ポー」とジャイアント馬場社長の真似をしているつもりで小馬鹿にしてきた。
俺と入れ替わりで遅番に行ったスタッフが、それを見て大笑い。
駄目になったとはいえ、俺の原点である全日本プロレス。
その長である馬場社長を目の前で馬鹿にされるのは我慢できなかった。
「あの~、すみません……」
「ん、何だ?」
「自分のいた世界を馬鹿にしないで下さい」
静まり返る店内。
海野とスタッフは顔を見合わせていた。
「は? 何を言ってるんだ、おまえは?」
「何だ、急におまえは?」
「非常に不愉快です。やめて下さい」
二人の目つきが変わりだす。
威嚇しているつもりだろうが、こっちはその程度でビビるような軟な生き方などしていない。
「何だと?」
「以前、自分がお世話になったところの恩のある社長です。それを馬鹿にされるのは、正直不愉快です」
「何を言ってるんだ、いかさまプロレス上がりが……」
「そうだ、プロレスなんて八百長だろうが!」
反発した態度に腹を立てる海野。
しかし譲れないものは譲れない。
そんな状況の中、鳴戸が店に来た。
こりゃクビ決定かと腹を括る。
もう坊主さんたちの披露宴は終わった。
また一からどこかで働けばいいさ。
鳴戸は妙な店の空気に気付き、海野へ声を掛ける。
「いや、鳴戸君さ~」
「何でしょうか?」
「この新人の岩上君ね、やっぱ彼は駄目だよ」
顔つきが変わりだす鳴戸。
「どういう事ですか?」
目つきが鋭くなる。
「プロレスにいたというから、あれは八百長だろと言ったら怒りだしてね……」
何て話を自分本位に持っていくのだろうか。
呆れてものが言えない。
「私があのジャイアント馬場の物真似をしたら、急に怒りだしたんだよ」
「すみません…。お言葉ですが、自分、本当に身体張って、一生懸命やってきたものなんです。それを八百長呼ばわりされたり、世話になった社長を小馬鹿にされたりするような真似されたら、やっぱり我慢できません!」
「ほらね……」
フンと、口髭を指でなぞりながら、海野は勝ち誇ったような表情をした。
「ポォ~」
懲りずにまた馬場社長の物真似をしだす海野。
「本当にやめて下さい」
「ポォ~」
海野は、俺をからかって嬉しそうだった。
浅草ビューホテルの時もこれに近い事をやられ、憤慨した事もある。
「お願いします」
「何、そんなムキになってんだ」
鳴戸はその様子をしばらく静観している。
「もう一丁、ポォ~」
「……」
「八百長で、ポォ~」
「取り消して下さい!」
「ん、何だ?」
「取り消して下さい、お願いします!」
「まったくコイツは……。ほら、生意気なガキだろ、鳴戸君」
ゆっくり鳴戸は立ち上がり、俺を睨んだ。
心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
「海野さん……」
「ん、何だい?」
きょとんとする海野。
「あなた、何歳ですかー? えー? 岩上は岩上で一生懸命やってきたって、何度も言ってるじゃないですかー。何でそれをあなた…、そんな笑っていられるんです? 頭の中身、疑っちゃいますよ。海野さん、これから働こうという部下に、何でそんな事をできるんですかー? 教えて下さいよ~、海野さんー」
「え、いや…、その~……」
「答えになってないですよー! あのですね、いい加減人を馬鹿にして喜ぶ癖、改めたほうがいいですよー?」
「あ、ああ……」
まさか鳴戸がこんな対応をしてくれるなんて……。
少しグッとくるものがあった。
シュンとする水野を横目に鳴戸は笑っていたスタッフにも怒り出す。
謝りなさいと言われ鳴戸へ頭を下げ必死に謝罪するスタッフ。
「何で私に謝ってんですかー? 違うでしょー! 何故岩上君に謝らないんですかー?」
甲高い声で語尾を伸ばしながら恫喝する鳴戸は、今まで見た怖さとは違ったタイプのものだった。
ごめんと頭を下げるスタッフに対し、灰皿を掴みいきなり頭を叩き割る。
「何で私にはすみませんで、彼にはごめんなんですかー! あなたちょっと違うでしょうー!」
血だらけの頭を押さえながら懸命に謝るスタッフ。
俺は彼を庇うように立ち上がり「鳴戸さん…、やり過ぎです」と言った。
それを見た鳴戸は心から嬉しそうに笑いだし「うんうん、やっぱり岩上君、あなたはいいですよ!」と嬉しそうに口を開く。
普通の店じゃないのは分かっていたが、本当にヤバい職場で働いてしまったのだと実感した。
あんな危ない職場でこのまま続けていいのだろうか。
普通じゃないオーナーの鳴戸。
俺は一日休みを取れないか聞いてみる。
前の職場の件でと濁しながら適当な言い訳を伝えた。
社長の高橋ひろしはヘラヘラしながら「自分一人でも何とかなるから大丈夫ですよ。ゆっくり休んで下さいね」と陽気だ。
仕事を終えると、そのまま浅草ビューホテルの最上階にあるベルヴェデールへ久しぶりに顔を出した。
どこかで昔の同僚たちと会い、ホッとしたかったのかもしれない。
上司の林を始めとした同僚たちは久しぶりの再会を喜んでくれる。
今日はこのままラウンジで飲んでホテルに泊まれと半ば強引に仮眠室へ泊まる羽目になった。
淀んだ空気の中、狭い天井の上を見つめながら、昔を思い出した。
視界には、自分の右の親指が見える。
俺は、ジッとその親指だけを真剣に見つめていた。
通常のトレーニング以外で、最も鍛えた箇所でもある。
体重九十六キロ、身長百八十センチ。
元々レスラーとしては、小柄な部類に入る俺は、特別な強さの拠り所みたいなものを常に考えていた。
身体を使った技だと、小柄なので難しいものがある。
体重を乗せてといったところで、あまり効果がないのだ。
投げ技に頼ると、どうしても自分より重い人間を相手にする時厳しい。
関節はというと、実際に骨まで試合でへし折る訳ではないのでいまいちだ。
では、打撃だと?
拳や足を使ったものだと、俺より数段上の威力や技術を持つ人間は山ほどいる。
何かないだろうか……。
たまたま、針で自分の指を刺した時に、頭の中で閃いたものがあった。
大して力も使わないのに、先端が細いと簡単に人間の皮膚など突き抜ける。
針で刺すというのを打撃の理論で当てはめると、相手に当てる面積が狭ければ狭いほど、威力は大きい。
右手を開いてジッと見つめる。
俺の利き腕はもちろん右である。
指先をそろえ、抜き手で相手へ突き出す……。
いや、まだ弱いものがある。
先端が細ければ細いほどいい。
五本ある指の中で、一番細いのは小指……。
しかし、それでは弱過ぎる。
以前、指立て伏せをする際、試してみた事があった。
親指なら左右の二本でできた。
親指以外の四本指で左右、腕立て伏せの姿勢をとる。
それでやろうとしても、起き上がれず途中で潰れてしまう。
結論として、親指一本のほうが、他の四本指よりも力は強いという事になる。
そこで俺は徹底的に、右の親指のみを鍛え抜いた。
まず、広げた新聞紙の端を右手で持ち、グチャグチャと片手で丸めていく。
一枚だけなら、そんな辛くはなく普通に丸める事ができた。
しかし、新聞紙を二枚重ねて、同じ事をやろうとすると、中々大変な作業になる。
家でとっている朝刊、夕刊すべてを毎日、右手を使い丸めた。
そして左右親指のみの指立て伏せ。
毎日何回と決めるのではなく、暇があって指に余力があれば、出来る限り繰り返し反復する。
疲労を覚え身体が動くのをやめようとするが、脳みそから出る命令に逆らい、ひたすら限界を超え続ける。
バケツいっぱいに小石を詰め、そこへ親指を突き刺す練習をした。
さらに鉄の柱目掛けて同じ事をする。
当然、親指の爪は割れ、血は吹き出す。
痛いのは当たり前。
痛い事をあえてやっているんだから……。
俺は歯を食い縛って、毎日続けた。
こうして、俺の親指は凶器となっていく。
卑怯極まりなき打撃技の完成。

これを俺は自分で『打突』と名づけた。
真正面から繰り出す通常の打撃とは違い、クリンチ状態になった時のような密着戦において、初めて真価を発揮する打撃技。
相手の完全な死角、真横から鍛え抜いた親指をそのまま突き刺す卑劣な技である。
この打突を以前、ジャンボ鶴田師匠に話した事があった。
『馬鹿野郎! 人間を壊すつもりか?』
普段滅多な事では怒らない鶴田師匠が烈火の如く怒り、俺の頬を強く叩いた。
ジャイアント馬場社長の言葉を思い出す。
『いいかい。プロレスとは相手が攻撃を受ける為構え、そこへ力いっぱい攻撃を繰り出す事が大事なんだよ』
そう…、相手が試合中アクシデントで身体を故障する事はある。
しかし、誰も狙って相手を壊そうとはしない。
ただ単に攻撃を繰り出すだけなら、非常に陳腐でつまらないものになる。
カーンと試合開始のゴングが鳴り、相手の鼻っ柱目掛けて思い切りパンチを打ち込めばすぐに試合など終わり、勝つ事はできるだろう。
人間の鼻など折るのはたやすいのもである。
もし、そんな試合をしたら、見に来た客は大喜びするだろう。
しかし興行として成り立つ上でそんな事を繰り返していては、いずれ誰も興味を示さなくなる。
やられた相手も報復を考え、いずれ戦いは殺し合いへと変わっていくだけだ。
俺は不意をついて繰り出す卑怯な打撃技を見につける為、馬鹿みたいに一生懸命時間を費やしたのだ。
プロレスでは絶対に使ってはいけない技。
いや、人間にはやっていけない技なのである。
『打突』が完成してから俺は、今まで一度も人間相手に使った事はない。
言い換えれば、そこまで命を落とし兼ねるような事にまでなっていないという証拠であった。
俺は左肘をじっくり眺める。
先輩レスラーである〇〇に関節を極められ、この肘は一度壊れされた。
あの時、俺の右腕は空いていたのだ。
やろうと思えば、打突を突き刺す事ができた。
何故あの時左肘を壊されてまで、打突をやらなかったのだろう?
自分でも分からなかった。
生涯、この技を使う時はあるだろうか?
こればかりは、自分が寿命をまっとうする時でないと分からないだろうな……。
俺は天井に向かって右親指を突き出し、再度眺めていた。
俺の強さの拠り所……。
翌日目を覚ましベルヴェデールに顔を出すと、マネジャーがタダでいいからブッフェ食っていけと席に座らされる。
俺を慕う後輩の江尻が「ケーキとオレンジを絞った生のオレンジジュースを賞味期限近いから持って帰って下さい」と袋に入れて渡してきた。
断ろうとするも、江尻は譲らない。
「どうせ、明日になればこのオレンジシュースは捨てちゃうんです。ケーキなんてランチ終われば全部捨てるんですよ? だったら岩上さんに持って帰ってもらったほうがいいじゃないですか」
根負けした俺は、その誠意をありがたく受け取る事にした。
そういえば最近競馬をしていなかったよな。
せっかく浅草まで久しぶりに来たのだ。
景気づけに馬券でも買っておこうかな。
仮眠室にバックともらったケーキやジュースの袋を置いたまま、浅草JRA場外馬券場へ向かう。
戻ると俺のベッドの上に置いてあったバックが無くなっていた。
仮眠室のどこを探しても無い。
再度ラウンジへ向かい同僚へ聞きに行く。
すると暗い表情をしたまま江尻が「すみません」と謝ってくる。
状況を聞く。
支配人の一人がたまたま仮眠室のチェックに来た際、俺のバックを見つけた。
誰のバックだとなり、つい俺の名前を出してしまったようだ。
中身を見られたら俺のだと分かるのでしょうがないだろう。
総支配人まで出てきて、支配人室に俺が来たら来るよう言われたらしい。
江尻は泣きそうな顔で何度も謝るので、競馬しに荷物置いてった俺が悪いから気にするなと慰める。
面倒だが必要なものも入っているし、俺は支配人室へ向かった。
嫌な空気の部屋へ入ると総支配人の丸山は眼鏡の淵に手を掛けながら「何故辞めた人間がホテル内にいる?」と責めてくる。
他の同僚に迷惑が掛からぬようすべて自分で泥を被る言い訳をした。
「確かに自分は辞めた人間です。ただ、まだ一緒に働いていた仲間はいますので、顔を見せに来ただけです」
「本当か?」
「ええ、本当です」
「じゃあ何で仮眠室に、当ホテルのケーキやおまえのバックが一緒に置いてあるんだ?」
「……」
「ひょっとして従業員の誰かが、おまえにこれをどうぞとかくれたのか?」
もし、それをここで言ったら、良かれと思ってやった後輩に迷惑が掛かる。
「違います……」
「じゃあ、何だ?」
「自分が、もし、ケーキとか捨てちゃうなら、持って帰っていいかと聞きました」
「それで渡した従業員は、どうぞと渡したんだな?」
細かい性格のサディスティック野郎め…。こっちが困るような事をわざとついてきやがるきやがる。
絶対に後輩のせいにだけはできない。
「違います」
「じゃあ、何で仮眠室にあるんだ、これが」
「俺が、強引にいいじゃんと言いました」
「このケーキやオレンジジュースの入ったボトルは、当ホテルにとって何だ?」
「何だとは何でしょう?」
「当ホテルにとって、どういうものであるかと聞いているんだ」
「商品ですね」
「そう商品だ」
そう言うと、総支配人の丸山は、料飲部支配人今野へ首で合図を送った。
音を立てずに支配人室を出る今野。
顔は明らかに笑っていた。
「おまえがやった行為は、窃盗罪に値する」
そんな滅茶苦茶な。
泥棒呼ばわりまでするのか?
怒りが爆発しそうになったが、俺は懸命に耐えた。
「ち、違います……」
「違う? おかしな事を言うじゃないか。おまえは当ホテルの商品を盗んだのと同じ事をしたんだぞ」
「警察にでも突き出しますか?」
「そんな事はするつもりない」
「では、どうすればいいでしょう」
目に力を込めて丸山を見据える。
ふざけやがって……。
その時、今野が中へ戻ってきた。
何故か後ろには、隣りの会員専用のセントクリスティーナで働く田島が一緒についてきた。
何を考えてやがる、コイツら……。
「田島」
「はい」
「おまえのところで、オレンジジュースは一杯、いくらで売っているんだ?」
「はい、一杯、千円です」
手さげ袋からオレンジのボトルをわざわざ取り出し、目の前に差し出す丸山。
ウォッカスミノフのボトルを丁重に洗い、綺麗にラベルを剥がしてある瓶の中には、フレッシュオレンジが爽やかそうな色合いで詰まっている。
「このボトルで、だいたい何杯ぐらいとれるんだ?」
「う~ん、そうですね…。だいたい六杯から七杯はとれますね」
「値段にすると、六千円から七千円ってところか」
「はい」
ここまできて、ようやくこいつらの狙いが理解できた。
要は難癖つけて俺から金を毟り取りたいのである。
「ケーキはいくつあるんだ? ちょっと数えてみろ」
「はい。一つ、二つ、三つ……」
真剣な表情でケーキを数える田島。
その横顔を見ているだけで吐き気がした。
「全部で二十二個ですね」
「そうか…。一つ五百円だとしても、岩上…。おまえはボトルが三本で六千円だとして、一万八千円と一万千円分のケーキを盗んだんだぞ。合わせていくらだ?」
「……約三万すね」
「何だ、その言い方は!」
イライラが限界まできていた。
「金を払えば、窃盗でも何でもないでしょ?」
俺は財布から一万円札を三枚抜き出して、宙へ放り投げた。
「何だ、貴様!」
もういいや……。
こんなくだらないホテルの雑魚共。
すでに俺は辞めた人間だ。
もう上司でも何でもないのである。
「口の利き方に気をつけろや、ボケ! もう俺は、ここで働いている訳じゃねえ。しかも今、俺から強引に難癖つけて金も毟り取った。逆に何か忘れてんのは、おまえらだろうが?」
「き、貴様……」
「貴様だぁ~? おいおい…、俺は今、ここにいる訳じゃねぇんだぞ! 家にもいない。今は新宿歌舞伎町で裏社会にいる。どういう事か分かるか? 俺からは毎日のようにおまえのところ来て、いくらだって嫌がらせできるんだぞ? 少しは置かれた立場考えろや」
「……」
はなっからこうしておけば良かったのである。
俺が無心に仕事をして喉で入院した時も、何一つしてもらっていない。
おまえの管理するホテルで働いた俺は、業務中に倒れ入院したようなもんなんだぞ?
治療費はおろか、俺をベルヴェデールから外しやがって……。
馬鹿を増長させるとロクな事がない。
少し脅しておくか。
「帰り道、せいぜい気をつけて帰りな」
「……」
「おい、黙ってないで、お礼は?」
「え……」
「えじゃねえよ、ボケ! 俺は今、おまえらの余りもののケーキとかを買ってやった客だろが? しかも定価以上でな。ありがとうございましたぐらい言えねえのか?」
「あ、ありがとうございました……」
最初に田島がビビッて頭を下げる。
「おい、支配人とかいう立場で踏ん反り返ってるそこの馬鹿二名! おまえらは、挨拶すらできねえのか?」
「あ、ありがとうございました……」
残る二人も完全に飲まれていた。
「まあ、また暇できたら、ちょっくら寄らせてもらうようにするわ」
俺は捨て台詞を残し、支配人室を乱暴に閉め浅草ビューホテルをあとにした。
ホテル業界にもこういった腐った人間がトップを張る事もあるのだと思い知る。
この辺りから古巣とはいえ、部外者がもう立ち寄ってはいけない場所なんだと自覚した。
今の俺の居場所は新宿歌舞伎町。
ここで働き金を得て、生活をしているのだ。
鳴戸は仕事中だというのに高橋へ「岩上君少し借りますよ」と言ってよく外へ連れ出された。
お歳暮で酒を贈りたいが、ホテルでバーテンダーをしていた俺ならいい酒を選んでくれると酒屋へ連れて行かれたり、一枚一万円はするステーキを食べさせてくれたりと、あきらかに他のスタッフとはまったく違う待遇をされる。
よく言われたのが、従業員が変な事をしていたら教えて下さいという台詞だった。
変な事が何を意味するのかさえ分からない俺は、はいとだけ返事をしておく。

店は相変わらず暇で、高橋はよくテーブル筐体に鍵を差し込み、ボタンをポコポコいじってからゲームをしていた。
何をしているのか聞くと、オーナーが客数を気にするからある程度の帳尻合わせで客のふりをしてゲームを打っていると説明される。
店内の入口は常に鍵が掛かっている。
インターホンが鳴るとモニターに外の様子が映し出され、誰が来たかすぐ分かるようになっていた。
海野が映ると、高橋はゲームはすぐ止めてテーブルの上の遮光板を縦にずらす。
こうする事で客が外出する際、この台をキープしているといった意味合いがあった。
海野が誰がキープしているのか聞くと、高橋は自分の先輩のホストの誰々と適当に答えているのを見て、彼はオーナーサイドには内緒でやっている事なのかと感じる。
鳴戸や海野に言われた変な事を他のスタッフがやっていたら教えるように……。
高橋の事を告げ口するようなのかとちょっとした戸惑いを覚えた。
海野が帰ると、高橋は聞いてもいないのにオーナーたちは俺を騙したと話を勝手に始める。
ポーカーゲーム機には設定というものがあるらしい。
出るも出ないも設定次第のようだ。
以前海野からうちの店はこの設定だからと感熱紙で印刷された設定を見せられ、知り合いを呼ぶように頼まれた高橋。
良かれと思って呼ぶと、実はまったく出ない最低の設定で多くの信用を高橋は過去に失ったと言う。
彼がオーナーのいない時にゲームをして何がどうなるのかは分からない。
鳴戸に言うかどうか考えている内に、インターホンが鳴った。
見ると鳴戸が入口に立っている。
高橋は俺の右手に「岩上さんしまって!」と四つ折りにした一万円札を握らせてきた。
呆然とする俺に「早く!」とズボンにしまうジェスチャーをしながらドアを開ける。
咄嗟に札をしまう俺。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。
高橋は何事もなかったように澄まして鳴戸と店の状況を話していた。
パラパラと客も入り、その日はそのまま仕事を終えた。

給料とは別の一万円。
高橋はオーナーに内緒で何か悪い事をしている。
しかし流れとはいえ、俺も共犯になってしまったのではないだろうか?
翌日高橋は休み、海野と俺の二人で店にいた。
昨日の出来事をどうするか?
今なら取り返しがつくはず。
色々悩んでいると海野が食事はどうするか聞いてくる。
彼と同じものを注文した。
立場が上の人間よりも高いものを頼むわけにもいかない。
少しして出前が到着すると海野は手の平を差し出し「ほら、岩上君、千円だって」と金を請求してきた。
オーナーなのに奢ってもくれないのか?
動揺を出さないよう金を払う。
食事をしながら海野は「岩上君、他に変な事をしている従業員いたら、ちゃんと頼むよ」とご飯粒を飛ばしながら言ってくる。
これが鳴戸だったら俺も口を開いたかもしれない。
海野からそう言われ、とりあえず高橋の一件は内緒にしておく事にした。
休みから出勤すると、二人きりの時に高橋はこれまでの状況を詳しく説明してくれる。
嘘の設定を見せられ多くの知り合いを店に呼んだ高橋は総スカンを食らう。
お詫びにたくさんの金を払い、少しでも取り戻す為に毎日ちょっとずつ金をうまく抜いている事までハッキリ言う。
「岩上さんが黙ってくれていて本当に良かったです。これ、受け取って下さい」とまた一万円札を出してくる高橋。
状況的に共犯となるしかない立ち位置になってしまう。
いや、違う。
俺も余計に金がもらえるならと卑しい気持ちがあったのだ。
徐々に歌舞伎町の住民として闇に染まっていく自覚をした。
少し早い忘年会。
場所は焼肉の叙々苑だった。
鳴戸はちょっと早いが今年もお疲れ様と封筒を各自に渡す。
中身を確認すると十万円入っていた。
まだベガへ入って一か月も経っていない。
そんな俺にまでこのような金額をくれたのが嬉しかった。
鳴戸と海野は俺の事を真面目だと信用している。
一日置きくらいの頻度で旨い食事をご馳走してくれた。
オーナーから妙な信用を得ている俺を見て、高橋的に抜きがやりやすかったのだろう。
給料とは別に毎日副収入が入る。
気付けば俺は今まで持った事すらない金額が溜まっていた。
そう言ってもまだ百万円には届かない。
今日も鳴戸から店の外へ連れ出される。
ステーキをご馳走になり、もう一軒行くところがあると六本木方面へ連れてかれた。
如何わしいビルのところで車を停めると鳴戸は海野へ車を見ているよう伝える。
俺は共にビルの中へ入った。
厳重な扉をいくつか経て、映画で見たような景色が目に映る。
間違ってなければカジノだよな……。
黒服の従業員たちが鳴戸を見ると深々お辞儀をし、彼は一瞥もくれず奥へと進む。
別の部屋へ入ると明らかにここのボスなのだろうと分かる人相の悪い男がいた。
お互い笑顔で話をしているが目は笑っていない。
ボス格の男の横で、俺より身長の大きな太った男がこちらを睨んで立っていた。
「鳴戸さん、今日はまた強そうなの連れてきましたね」
「ええ、彼は全日本プロレス上がりなんですよ」
「ほう、うちのは空手ですからね。そりゃ楽しみだ」
妙な会話を聞いている内に、横にいる大男と俺を戦わせようとしているのが何となく理解できた。
空手家とか言っていたよな。
打撃で張り合うのはやめた方がいいだろう。
自然と右拳を強く握り、親指を横に突き出した。
大男が口を開く。
「俺は破門になったとはいえ、ヒクソングレイシーが来た時真っ先に立ち向かった流派の人間です。八百長もどきのプロレスラーなんて話になりませんよ」
「……」
やり合うつもりなどまったくなかった。
しかしこの言葉が俺の心の琴線に触れる。
「我が流派は打撃の突きや蹴りだけでなく、いち早く関節も投げも締めも取り入れている。レスラーがそれに何ができるんや」
視野が狭くなるのが分かる。
もういつの間にか逃げられないところまで連れて来られたのだ。
完全に上から目線で余裕を見せる大男。
俺は仕方なく口を開いた。
「鳴戸さん……」
「何でしょう?」
「こいつ、やっちゃっていいんでしょうか?」
「何やと、コラ!」
大男が怒り狂う。
「打撃以外にも色々やるんでしょ?」
「そうや」
「じゃあ、そんなの空手じゃねえじゃん。まずは空手って名前を外す事からしたほうがいいんじゃないの?」
鼻息が荒くなる大男。
俺はさらに駄目押しをした。
「いいかい? 空手なのに、締め、関節、投げ? 笑わせるなよ。それじゃ、すでに空手じゃないじゃん。それとさっきからおまえ、臭いよ。ちゃんと歯を磨いているの?」
「おい、もういっぺん言うてみいや」
「それよりさっきから気になっていたんだけどさ。何でそんな自分がまだ所属しているような言い方をしているの? 破門になったんだろ? 言い方を代えればクビ」
「上等や、コラ!」
真っ赤になった大男は大振りのテレフォンパンチで殴り掛かってきた。
振り被りモーションの大きな攻撃。
冷静でいれば何の恐怖すらないし、いくらでもこんな攻撃などいなせる。
俺は目をつぶらず、相手の攻撃の軌道に沿うように右手を差し出した。
いきなり試すからこそ効果のある技。
俺の秘中の秘的な防御策である『螺旋』。
こちらに向かって勢い余ってくる打撃に対し、相手の手首辺りに横から手首を当て、そこを中心にして手を巻きつける。
それだけで相手は攻撃の矛先がずれ、一気にバランスを崩してしまうのである。
当たった瞬間の感覚で、本能的に動かなくてはできない技であった。
大きな物音を立てて、前のめりに倒れる大男。
面倒なので、ここで勝負を決めておこう。
打突を使うまでもなかったようだ。
すぐさま体重を大男に被せ、右腕を両腕で取る。
左脇の下に腕を通し、通常の関節とは逆方向、つまりうつ伏せ状態のまま上に向かって持ち上げる。
プロレスでいう脇固めという技ではあるが、俺のは微妙に違う。
さらに相手の手首を空いている自分の右手でつかみ、捻りつつ関節を固定させる。
大男は、まったく身動きのとれない状態になっていた。
俺がその気になって体重を後ろに反り返れば、簡単にこいつの肩と手首の骨は粉砕する。
チラッと鳴戸の方を向く。
どう見ても勝負ありだろう。
早く止めてくれ……。
その時だった。
僅かに動く指先で大男は、俺の左目目掛けて指を入れようとする。
咄嗟に力を入れた。
「うぎゃぁ~……!」
気持ち悪い吐き気のする感覚が、全身を包む。
嫌な音がして、そのあと大男の叫び声が聞こえた。
固めていた関節をそのまま逆方向へ力任せに引いたのだ。
こんな卑劣な男の骨など、いくら壊しても構わない。
常にそう思う自分がいる。
だが実際に人間の身体を壊した時、いくら時間が経ってもこの嫌な感覚が消える事はない。
室内は、右腕を抱えながら大袈裟に喚く大男の悲鳴だけが木霊していた。
また一つ、これで俺は闇に近付てしまったのだろう。
俺の身体は小刻みに震えていた。
闇 09(ベガ地獄変)

2024/07/26 fry
2025/07/10 thu
2025/08/18 mon
前回の章
通路を歩く鳴戸。
俺は後ろをついていく。
この野郎…、一言文句を言わないと気が済まない。
「鳴戸さん……」
「岩上君、あなたは本当強いんですね~」
いい映画でも見終わったような表情で鳴戸は満足そうに両腕を上げ、わざとらしく大きな伸びをした。
「鳴戸さん……」
「う~ん。海野さんにも見せたかったなあ~」
自分のした事を誤魔化すように、俺の声など聞こえないふりしている。
「鳴戸さん!」
帰りの通路を歩きながら俺は強めに言った。
その声でようやく歩くのをやめる鳴戸。
「何でしょう?」
「最初からこうなるの、分かっていたんですよね?」
「さあ…、そんな事まで知りませんでしたよ」
白々しい奴め……。
あとは口を開かず、ビルの地下から出るまで黙っていた。
車の中では、海野が苛立ったような顔でこっちを見ている。
「遅いよ~、鳴戸君」
「ははは、すみませんね~」
上機嫌の鳴戸。
横から見ていて苛立ちを覚えた。
一歩間違えば、壊れるのは俺のほうだったかもしれないのだ。
そんな刹那的な戦いを鳴戸は、俺にやらせた……。
しばらく俺の頭の中は、壊したという罪悪感でいっぱいだった。
一歩間違えば、自分自身が大怪我をする『螺旋』と言う技。
うまく相手の攻撃を捌ききれなければ、そのまま自分に攻撃が押し寄せるのだ。
周りから見れば、あの勝負は俺の楽勝に見えただろう。
しかしとんでもない。
紙一重の勝負だったのである。
俺の挑発に乗ったからこそ、振り被ったパンチを出してくれただけ。
そうでなかったら、あんな簡単に捌けやしない。
極度の集中した中の究極の極限状態。
昔、あれだけ血の小便を流したのは無駄ではなかった。
今でもしっかり自分の身体の中に沁み込んでいたのだ。
この震えるような罪悪感とは別に、どこかこのような刺激ある生活にワクワクしている自分がいた。
食事をしに店に入る。
「好きなものを頼んで下さいね、岩上君」
「……。いりません」
「お、おい! せっかく鳴戸君がご馳走してくれんだぞ? ヒレ肉でも食べるか?」
空気の読めない水野が間へ入ってきた。
「いりません」
「何だ、おまえ! 不機嫌そうな面しやがって」
「……」
「随分偉そうな態度取るじゃないか、おい」
「水野さん、その辺にしましょう」
「だって鳴戸君、コイツの態度は何なんだい」
「水野さん! もういいと私は言ってんですよ!」
鳴戸独特のキンキン声が店内に響く。
一斉に客がこちらを見た。
昨日まではこの丁寧口調が怖かった。
しかし今ではもう何も感じない。
結局何も注文せずにステーキハウスを出た。
このまま逃げてしまおうかと思ったが、スーツの上着をベガに置きっ放しのまま。
財布も何も無い状況で、見知らぬ土地。
小銭入れだけでも持つ習慣を持っていれば……。
仕方なく車に乗り、海野の運転で再び先ほどのビルへ方向へ向かう。
まさかさっきのカジノへ、また俺を連れて行くつもりなのか?
一対一の勝負ならいくらだって自信はある。
しかし闇討ち、不意打ち、大人数で一気に襲われたら俺には防ぐ術がない。
自衛隊の時のリンチのトラウマが蘇る。
多勢に無勢。
あんなシチュエーションになるのだけは避けたい。
どうする?
この二人だけなら何とかなる自信はあった。
右の拳を握り締め、親指を真横に突き出す。
最悪打突を使うしか……。
いや、交番に駆け込んで助けを求める?
それだと俺の財布の入った上着は?
馬鹿な事を考えている内に車は停止した。
思考を巡らせるのが阿呆らしくなってきた。
俺は馬鹿だから、こんな流れに巻き込まれているのだ。
しかしそれは、これまでの自身の堕落した流れから全部そうなっている。
鳴戸の目的は、一体何なのか?
海野は大人しく車の中で待機している。
相変わらず無言の鳴戸。
ただドアを開けた。
次は何なんだよ。
まあ何でもいいさ。
大人しくあとをついていく。
ビルに入り、地下でなくエレベータへ乗り込んだので、少しだけホッとした。
「今度はどこへ行くんですか、鳴戸さん」
「……」
「鳴戸さん!」
通常のエレベータの二倍はありそうな大きく豪華な箱の中、俺の声だけが反響している。
鳴戸は何も答えてくれない。
「鳴戸さん! 聞いてんですか!」
エレベータの動きが停まる。
その時、蚊の鳴くような声で鳴戸は言った。
「いいですか…。静かに黙っていなさい。それが身の為です」
それだけ言うと、先にさっさと出てしまう。
「……!」
こんな造りの部屋があるのか……。
目の前の光景が信じられないほど、立派で壮大な造り。
エレベータを出た俺は、思わず辺りをキョロキョロ見回した。
会社のオフィスならある程度分かる。
しかし、どう見ても会社という感じではない。
無知な俺は物の価値など知らぬが、通路に置かれた壷や絵画がかなり高価なものであるぐらいは肌で感じた。
真紅色に染まった綺麗で分厚い絨毯。
どこもかしくも金の掛かったものであるのは、間違いないだろう。
大理石でできたような厚い扉の横にあるチャイムを慣れた手つきで押す鳴戸。
静かに扉は開きだした。
一般人では…、いや普通ではそこへ入れない空気がその奥にはいっぱい詰まっている。
「いらっしゃいませ」
部屋の入口には、二人の大男が直立不動のままビシッと立ち、左右綺麗に並んでいる。
只者ではない雰囲気を二人とも醸し出していた。
無造作に床には、本物であろう熊の毛皮が引かれている。
この上を土足のまま、歩いていいのだろうか。
俺がそんな心配をする中、鳴戸はお構いなしに歩き、嬉しそうな顔で先へ進む。
「先輩、お久しぶりです!」
奥の部屋にはゆったり座れる大きな黒いソファがあり、そのソファには二人の男がでんと座っていた。
一人は、狡猾そうな表情の初老。
頬に大きな傷跡が残っている。
もう片方は、よくこんな身体で生きていられるものだというぐらい、醜く肥えていた。
ソファに腰掛けているお尻は半分以上、中へ埋まっている。
体重、百五十キロを越えているのではないだろうか。
「おう、鳴戸やないけ」
「元気かいな?」
「もちろんです。お陰さまで」
そこには普段では考えられないような、おべっかを使う鳴戸がいた。
入口の屈強そうなボディガードといい、座る二人といい、非現実な人間ばかりである。
まるで映画のワンシーンの中へ放り込まれた。
そんな気がした。
鳴戸は手前のソファへ座る様子もなく、普通に立ったまま、前の二人を相手している。
どう見てもヤクザ者の親分クラスだ。
ただの親分ではない。
かなりの大物といった雰囲気が、身体全体から発している。
「聞いてくれや、鳴戸」
「はい、何でしょう? 先輩」
太ったヤクザが、面倒くさそうに喉から声を絞り出す。
こんな相手を先輩と呼ぶ鳴戸が薄気味悪い。
「この間な、マカオ行ったんや。一億の銭、持ってのう」
「凄いじゃないですか! それでどうしました?」
いつもなら人の話など聞きもしない鳴戸。
そんな人間が飼い猫のようにおとなしく従順でいる姿は、どこか滑稽に見えた。
「ツキあったんやなぁ~。一気に十億やで、十億」
「凄いですね、先輩!」
「ただな、帰りの税関で引っ掛かってしもうてなぁ~」
「あらら、それはそれは」
「ワテ、言ったんや。行きに持ってきた銭は良くて、何で帰る時だけ因縁つけんねん、ワレッってな」
「ええ、おっしゃるとおりですよ」
「したらのう。向こうも『それはそうですね』って、おとなしゅうなりよったわ」
「はは、さすが先輩ですね~」
「税関もタジタジやで」
会話の内容が尋常じゃない。
まるで異次元の会話。
聞いていて気が狂いそうだった
不思議とあり得ないような話でも、ここにいるとすべて現実に起きている事なのだと実感した。
派手な扇子を左手に持ち、パタパタと面倒そうに仰ぐデブ親分。
まるで漫画に出てくるキャラクターを見ているようだ。
「横の若いのは何や?」
頬に傷のあるヤクザが、鳴戸へ尋ねる。
「ああ、申し遅れました。コイツ、私のところに入ったばかりの従業員でしてね。まあ、ゲーム屋の従業員やらせるの勿体ないですから、とりあえず折を見て私の運転手から始めさせようかなと思いまして」
何を抜かしているんだ、この男は……。
鳴戸が店に来た時、上機嫌だった理由。
先ほどの死闘。
そして今まで俺に対してだけは妙に甘かったという事実。
すべてはこの為だったのか……。
気付いた時にはすでに遅い。
「なかなかええ面構えしとるのう」
「掘り出しもんやで」
室内の視線が俺に集まる。
非常に嫌な視線。
「しかも、先輩! こいつ、レスラー上がりなんですよ」
「おぅ、レスラー上がりかいな」
「外の二人に負けへん身体つきしとるのう」
顔を高潮させ、楽しそうに話す鳴戸の顔を俺は黙って見ていた。
「おい、兄ちゃん」
デブヤクザが初めて声を掛けてくる。
全身の毛穴が全部開いたような感覚。
ここが正念場になる。
「はい……」
飲まれるな……。
必死に自分へ言い聞かせた。
初めてジャイアント馬場社長と会った時のあの極度の緊張感。
まともに話せなかったが、俺は一瞬でもあの人の下にいたのだ。
無様な真似は晒せない。
「レスラーちゅうんは八百長なんやろ? 前に…、前にと言うても昔やけどなぁ~。興行仕切っとったら、星決めあるのないのって聞いた事あるで」
一般社会では人気もなくなり、すっかり地に落ちたプロレス。
それでもいまだに八百長かどうかと聞く人間は、どこに行っても多い。
自身にとっての強さとは何か?
誰の前でも同じ意見を言える人間になりたい。
どんな状況でも、誰に対しても同じ事を言える人間でいたかった。
人によって自分の意見を変える。
罪悪な事だ。
正直、怖かった。
泣き叫ぶ事で許してもらえるのなら、いくらでも涙をこぼしたい。
端も外聞も捨て、この場から走って逃げ出したかった。
優しかった鶴田師匠の顔が目に浮かぶ。
そうだ……。
俺は師匠の弟子なんだ……。
誰の前でも違うって言ってきた。
自分で飛び込み、あの世界で俺は地獄を見てきた。
それを八百長と言われるのが、どれだけ傷つく事か……。
誰にも分からないだろう。
ちんけなプライドとビビる心。
全日本プロレスとはもうまるで関係無くなった俺。
だが俺の行動一つで古巣を軽く見られてしまう。
それだけは絶対にできない。
目を静かに閉じた。
そしてゆっくり呼吸をした。
メジャー団体である全日本プロレス。
当時二十歳になった俺は、レスラーになるべくひたすら鍛えてきた。
とんとん拍子にプロテストに受かり、合宿へ臨む。
強くなる為に俺はここへ来た。
しかし神の悪戯か合宿前日、俺は警察に捕まる。
地元のヤクザ十五人と揉めたところを運悪く警察に見つかったのである。
当然プロ入りは駄目になった。
期待していた人は冷たい目で俺を見ながら罵倒してくる。
それでも諦めきれなかった俺は強引に合宿へ押し掛けた。
「何だ、おまえは。馬場社長から来るなと言われたろうが」
入口で門前払いをされた俺。
その時奥からジャンボ鶴田師匠の姿が見えた。
「まあまあ、せっかく来たんだし今日ぐらい一緒に練習させてあげましょう」
そう言って俺に優しく微笑んでくれた鶴田師匠。
これが俺と鶴田師匠との初遭遇だった。
たった一日だけ限定の入門として全日本プロレスの合宿の参加を許可してもらう。
最初は他のレスラーたちと同じトレーニングをしたが、やがて鶴田師匠は俺に付きっきりになる。
足が痙攣して倒れてしまうまで、俺は必死に頑張った。
先輩レスラーに担がれ、風呂場でマッサージを受ける。
最後に全日本プロレス特製のちゃんこ鍋までご馳走になった夢のような一日だった。
一日だけの合宿を済ませて帰ろうとする俺に、鶴田師匠は玄関先まで見送ってくれる。
「今日は、本当にありがとうございました……」
これで全日本プロレスともお別れ。
もちろん悔いはある。
だが、たった一日とはいえレスラーたちと同じ空間で一緒にトレーニングができたのだ。
深々と頭を下げお礼を述べた。
「またさ……」
頭上から鶴田さんの声が聞こえる。
「はい?」
「あと一年自分で頑張ってみてさ。まだまだ身体も細いから体重を十キロから十五キロぐらい増やして来年また来てみれば? 結構センスあるから何か勿体ないんだよね」
「……!」
こんな俺にセンスがある?
いや、それよりも来年また来いと言ってくれた言葉が、俺の心に深く刻み込まれた。
あのジャンボ鶴田さんにそう言われたのだ。
プロレスにしがみついてきて良かった。
自然に俺は跪き、両手をついてお礼を言っていた。
世間一般で言う土下座。
でもこれぐらいじゃ、喜びや感謝を表せられない。
「鶴田さん…、本当にありがとうございます……」
額を地面に擦りつける。
「おいおい、こんなとこでやめてくれよ」
「俺、頑張ります……」
こうして俺は不遇の一年を過ごす事を決意した。
二年間で体重六十五キロから八十五キロへの増量。
筋肉のみで二十キロ。
働いた給料の大半は食費で消えた。
それでも俺は幸せだった。
自分の身体が日々、徐々に大きくなっていくのを感じる。
それだけで充分だったのだ。
そして二度目のプロテストを受かり、俺はレスラーとしての道を歩こうとしていた。
左肘をあの一件で壊すまでは……。
何故こんな時、全日本プロレス時代を思い出すのか?
今俺がいるのは、どう見てもヤクザの事務所の中だ。
おそらくかなりの大物なんだろう。
身体中ガタガタ震えていた。
本当に怖かった。
ここで俺が泣きながら許しを乞うても誰も責めないだろう。
でもさ、そうじゃない。
俺はあの人たちに何も恩義を返せていないじゃないかよ。
だから、俺は俺を信じる。
自分が潜ってきた道を信じる。
何の為に強さを目指したんだよ。
身体がブルッと一瞬大きく震えた。
大丈夫。
プロレスってこっちはどんな攻撃来ても堪えられるようにさ、しっかりしっかり構えて……。
だってレスラーって、攻撃避けちゃ駄目じゃん……。
怖いなあ…、それはしょうがないか。
でもさ、師匠たちを侮辱すんなよ、このデブ野郎!
大きく息を吸い込み、口を開く。
「すみません…。プロレスは八百長じゃありません」
俺の言葉で目を丸くするデブヤクザ。
できれば大笑いしたかったが、さすがにそこまで肝は据わっていない。
これが今の俺の精一杯。
師匠がどこかで見つめてくれているさ。
そんな感じがした……。
「何やて、兄ちゃん?」
「八百長じゃありません」
もう一度ゆっくり言う。
その瞬間、火花が散った。
真横から鳴戸が、渾身の力で殴ってきたのだ。
「何だ、テメーはっ! 何て口を先輩に向かって利いてんだ、オラッ!」
鳴戸のキンキン声。
しかし不思議と怖くも何ともなかった。
不意打ちで鼻先を打たれたので、ドワッと血が垂れてくる。
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痛いなあ、このクソ野郎……。
ビビっている俺は、口に出しては言えない。
頭の中でしか。
もうちょっと勇気出せよ。
俺は鳴戸のほうへ向き、しっかりと視線を見据えた。
「八百長じゃありませんから……」
また火花が散る。
完全に怒った鳴戸が、また顔面を殴ってきた。
俺は避けようともせず、そのまま堂々と顔面でパンチを受ける。
『レスラーって言うのはね。何をやられても壊れちゃいけないんだよ』
師匠の言葉を思い出す。
そう、レスラーは壊れちゃいけない。
また痛みが走る。
痛いすよ、師匠……。
でもレスラーは避けちゃいけないんすよね?
鳴戸が何かヒステリックに叫びながら、俺の顔面を殴り続けていた。
「鳴戸さん……、レスラーってね…。攻撃を避けちゃいけないんすよ!」
鳴戸の手がとまる。
辺り一帯がシーンと静まり返った。
「八百長じゃありませんから……」
鼻と口……。
両方からかなりの血を流しても、俺は意見を曲げない。
殴られる……。
そりゃあ、痛いさ……。
凄いおっかねえよ……。
逃げられるなら逃げ出してえよ。
でもよ、それをしたら見ている人間が白けるだろう。
相手が全力で攻撃をしてくるから、こちらは避けずに思い切り受ける。
それがプロレスなんだよ。
だから避けちゃいけねえんだよ!
これは曲げたくない。
これだけは……。
ひたすら目に力を込め、いくら殴られても鳴戸をジッと見た。
何発殴られたか分からない。
それでも俺の心は折れない。
変わらない。
彼の目に、少し怯えの色が見えたような気がした。
「もうええわ、鳴戸」
「でも……」
「何や? ワテの言う事に口答えするんかい?」
「い、いえっ…。とんでもないです……」
鳴戸をとめたデブヤクザ。
遥か大物の男が今、ジッと俺だけを見つめていた。
「分かったわ、兄ちゃん。すまんかったのう」
「い、いえ…。こちらこそ、すみませんでした……」
全身の震えは、いつの間にか止まっていた。
「兄ちゃん、麻雀できるかいな?」
「え……」
「麻雀は?」
「は、はい…、多少は……」
こんな時にこの人は何を言い出しているのだろうか?
意図がまったく分からない。
「今晩、卓を一緒に囲もうや、のう?」
「……」
「ワテ、麻雀弱いんやで、ほんまや」
「そうそう、先輩は麻雀弱いぞ、岩上!」
鳴戸まで一緒に言い出してくる。
さっきまで無抵抗の俺を散々殴っといて、どの口が抜かしてんだよ……。
ん、俺って妙に落ち着いていないか?
なら考えろ。
多分正念場ってやつだ。
なるほど…、意図が読めた。
「すみませんが、レートはどのくらいなのでしょう?」
「レート? 兄ちゃんらがやってる麻雀はリーチでいくらや?」
「ほとんどの人がテンピンと呼ばれるルールでやるので、それだと百円です……」
「リーチで百円かい…。しゃーないわ、じゃあ、ちょっとレートをワテらも落としたるわ。リーチ五千円でどや?」
五十倍のレート?
冗談じゃない……。
そんなレートにしたら、一晩でいくら金額が動くというのだ?
違うって!
惑わされるなよ。
しくじるな、ここだけは……。
「兄ちゃん中々根性あるやんけ。で、ちょっと小遣い稼がしたろ思うてな」
騙されるな。
うまく断れ。
うまい話などない。
それに俺は金では転ばない。
俺がヤクザ?
冗談じゃない。
おじいちゃんへ何て説明する?
どう顔を向けられると言うのだ?
「お言葉ですが……。せっかくのお誘い非常に嬉しく思います。しかし私ではレベルが違い過ぎます。なので今回はご遠慮させていただきます……」
「おい、岩上! せっかく先輩がこうおっしゃってくれてんのに何を言ってるんですか」
肩を掴みながら、鳴戸は睨みつけてきた。
「鳴戸さん…。俺ね、何の身よりもなければ喜んでこちらからお願いしてます。家に帰れば、おじいちゃんや、弟…、家族がいるんです。それに俺がなると、悲しむ人間が多いんです…。勘弁して下さい……」
肩を握っていた鳴戸の手の力が緩む。
自分に集中していた視線が一気に引くのが分かった。
俺に興味を失ったのだろう。
全身疲労感でいっぱいだった。
それからあとの鳴戸たちの会話は、まったく耳に届いていない。
何を話しているのかさえよく覚えていない。
気づいたら帰りの車の中にいて、新宿のベガまで戻っていた。
ゲーム屋ベガの社長である高橋ひとし。
彼は顔面血だらけの俺を見て、全身を小刻みに震える事しかできないでいた。
無理もない。
彼はそこまでの修羅場を潜った事などないのだから……。
いや、あんな状況下の中なんて今後もう二度と無いだろう。
鳴戸の下にいなければ……。
何を言っているのかよく聞こえないが、三人共小声でひそひそと話をしている。
俺は天井を睨んだままタバコに火をつけた。
大量の煙を吐き出す。
タバコのフィルターには俺の血がついていた。
先ほどの出来事が夢では無い証拠。
しばらくして鳴戸と海野の両オーナーは帰っていく。
二本目のタバコに火をつける。
高橋ひろしは背を向けたまま、こちらを向こうともしない。
静寂だけが店内を支配した。
俺はこんなところで黙って何をしている?
もう腹は決まってんだろ?
敵陣の中に無策でただいるなんて、馬鹿のする事だ。
置いてある荷物をまとめだす。
立ち上がりドアのほうへ近付く。
「岩上さん…。一体、何があったんですか……」
そこで初めて高橋は声を掛けてきた。
ちゃんと俺の事を心配はしてくれていたのである。
どう考えてもこの店の金を抜いている彼。
鳴戸にバレたら殺されるだろう。
何回もその汚れた金を俺にくれた。
俺が罪悪感を覚えつつも受け取った。
確かに悪い人間ではある。
それでも俺に対してはどうか?
親切に接してくれたのだ。
じゃなきゃ抜いた金を俺にわざわざ渡す必要性など、どこにも無い。
どこか人がいいのだろう。
以前海野に嘘の設定を見せられ、ホスト仲間を呼び騙されたと愚痴をこぼしていた。
それは本当の事なのだろう。
ホスト仲間へ金を返す為に、抜きをしているような説明もした。
おそらくそれは嘘だ。
でも、不思議とこの男を嫌いになれなかった。
正直に言ってもいいが、彼はまだここに残るはず。
最初に聞いておくべき覚悟。
まずはそれからだ。
「誰にも言えない覚悟ありますか? かなりヤバいところへ行ってきました」
「え! それってケツモチのところって事ですか?」
俺は店のおしぼりを勝手に取り、血で汚れた顔を拭く。
高橋はそれをジッと眺めている。
「覚悟ありますか? 話し出したら全部正直に何があったか言います」
「ご、ごめん…。悪いけど聞きたくない。情けないけど俺じゃ何の力にもなれない……」
「いいんですよ、それで」
俺は優しく笑顔で言った。
さて、最後にやらなきゃならない事がある。
「鳴戸さんに話あるので、店の電話借りますね」
「は、はい……」
今日のカジノの件といい、ヤクザの事務所といい、鳴戸はやり過ぎた。
ハッキリちゃんと言っておかねば。
「もしもし、何ですか~?」
鳴戸が携帯電話に出る。
店の番号なので高橋からだと思っているのであろう。
「岩上です……」
少しの沈黙が流れる。
「あ、ああ…。どうしたんですか?」
「今日から最低でも一ヶ月…。俺、それで辞めさせて下さい。その間に人が新しく入れば、すぐにでも辞めますので……。いや、すみません。やっぱ今すぐ辞めさせていただきます」
「……」
鳴戸は無言のまま。
「嫌とは言わせません…。では、失礼します……」
電話を切ると、高橋が慌てて質問してくる。
俺はあえて何も言わずただ微笑んだ。
店の外へ出ると、血だらけのおしぼりをビルに向かって投げ捨てた。
仕事を終え、地元川越に帰る。
こんな事があった日など、とても家へ真っ直ぐ帰れやしない。
できれば女を抱きたい……。
しかしこんな精神状態で女を口説けるほど、女は甘くないのを知っていた。
じゃあどこへ行く?
行き場所も分からないまま、自然と家の方向へ向かう。
「……」
家の前まで来ても、ドアを開ける気にならない。
隣りの明かりが見える。
岡部さんのいるトンカツひろむ。
うん、ちょっと飲んで行くか……。
腫れた顔の事を聞かれたら、どうする?
うまく誤魔化せ。
それでいい。
ここは川越。
新宿歌舞伎町じゃない。
自動ドアを開けて中へ入る。
いつものようにジャックポットのマスター野原さんが、カウンターで梅サワーを飲んでいた。
親の敵でもあるかのように割り箸で梅干を突く姿を見て、思わず吹き出してしまう。
顔の傷が痛んだ。
「な、何だよ~、智一郎」
どんな目に遭ったところで、人間面白い事には無条件で笑えるものだ。
「おう、智一郎、いらっしゃい」
二人共俺の顔を見ているが、怪我の事についてまったく触れてこない。
席へ座る。
さすがに今日の一件を、岡部さんや野原さんに話す気にはなれなかった。
「おう、何か新宿で面白い話ねえのかよ?」
その問いに対し、面白おかしい事だけを抜粋して笑わせた。
わざわざ胸糞悪い話をする必要など、どこにもない。
今はこうやって馬鹿話をして酒を飲み楽しく笑っていられれば、俺はそれで幸せだ。
あれだけ恐怖感を覚えた鳴戸も、ひと皮剥けばあんなものである。
俺はプロレス界に少しでもいられた事を誇りに思う。
誰にも分かってもらわなくてもいい。
あの時の体験は、こうして俺の身にしっかりと今でも宿っているのだから……。
やはり地元はいいものである。
俺が一時間掛けて、わざわざ新宿へ通勤するのも、この地元が大好きだからなんだろう。
違うか、そんな自分自身へ格好つけるなよ。
金がないから…、それだけだ。
明日から無職か……。
だけど今日ぐらい朝まで飲んで、グデングデンに酔っ払いたかった。
そんな俺に、野原さんは笑顔で一緒に付き合ってくれた。
「智一郎。その顔のアザが何故できたのか。ゆっくり聞かせてくれよ」
野原さんは梅サワーを置き、静かに言った。
岡部さんの顔を見ると、ゆっくり俺の目を見て頷いてくれる。
順を追って俺は今日の出来事を一つ一つ整理しながら話した。
二人とも黙って聞いてくれる。
岡部さんが朝の六時になると「おい、いい加減閉めるぞ!」とシャッターを下ろし、その状態でさらに酒を浴びるほど飲んだ。
店を出て野原さんを見送る。
俺は出れば、すぐ隣が家なのだ。
だからすぐ布団の上で眠る事ができる。
「朝まで付き合わしちゃってすみません、野原さん」
「智一郎よ」
「はい?」
「嫌な事あったらさ、酒ぐらいいつだって付き合ってやるよ」
「ありがとうございます……」
いい感じで酔っていたタバコに火をつける。
もうフィルターに血はつかなくなっていた。
今日あった出来事は、夢の中で起こったように思える
しかしリアルに俺は体験したのだ。
野原さんと岡部さんのおかげで、かなりささくれ立っていた精神は優しさを取り戻していた。
俺は野原さんの後姿に向い、深くお辞儀をしてから家へ戻った。
ずっと自分の居場所を探していた。
それは浅草ビューホテルへ行っても無く、新宿歌舞伎町でも無かった。
ただ俺がこれまで気付かなかっただけなのだ。
後片付けをしているだろう岡部さんのいるトンカツひろむへ頭を下げる。
居場所か……。
ちゃんと俺にはあるじゃないか。
