闇 04(全日本プロレス編)
闇 04(全日本プロレス編)
2024/07/21 sun
2025/08/12 tue
前回の章


もう来なくていい。
ジャイアント馬場社長から言われた言葉が心をエグり、これまで頑張ったものすべてが音を立てて崩壊していく。
視界が狭まる。
何故暴力を振るわず、喧嘩を止めに入っただけの俺が、こんな目に遭わなきゃいけない?
悪いのは大沢史博。
しかし多勢に無勢で十数名で寄ってたかって暴行を加え過ぎたヤクザ連中もやり過ぎだ。
だから止めたまで。
警察が来て奴らは逃げ、捕まったのは俺と大沢のみ。
仲裁しただけの俺は問題ないと思い、堂々としていた。
それが何故こんな深夜、警察は馬場社長へ連絡など取った?
何故俺のプロレス入りが無くならないといけない?
隣りの取調室からは相変わらず大沢史博の暴れる声が聞こえてきた。
下を俯いたまま静かに立ち上がる。
「おい、貴様! 何、勝手に立ち上がってんだ!」
肩に手を掛けた警官の腕を捻り、投げ飛ばす。
すべての元凶の元。
俺が全日本プロレスの合宿があると知っていて、この凶行をしてくれたのだな……。
部屋を出ようとすると別に警官が掴み掛ってくる。
左腕を固定し力任せに壁へ叩き付けた。
俺を止めようとする人間すべてを破壊したい衝動に駆られる。
黙って大人しくしてりゃあ、随分と調子に乗りやがって……。
「岩ヤン! あいつらやりに行こうぜ! おい、離せよ!」
俺の姿が目に入った大沢は、警察官に取り押さえられながらも振り解こうと大声を出す。
目の前にいる同級生が人間に見えなかった。
あのつぼ八で飲んでいた時点で、こんな屑を放置していれば、こんな風には……。
警官が数名俺の身体に群がってくる。
指を掴み、そのまま投げ飛ばす。
せっかく辿り着いた檜舞台をこんな奴のせいで……。
「何やってんだ、貴様!」
近付いてくる警官をそのまま跳ね飛ばした。
コイツのせいで……。
明確な殺意。
黒い何かに全身を乗っ取られたような感覚。
もはや視界に映るのは大沢ただ一人だった。
蠅のように群がる警官を一人一人ちぎっては投げる。
「お…、大沢っ!」
瞬間的な感情の爆発。
怒りを込めた右の拳が、大沢の顔面に突き刺さった。
身長百九十センチの大きな身体が吹っ飛ぶ。
力の解放を済ませた俺は、呆然と立ち尽くす。
数名の警察官が俺に飛び掛かる。
床へ叩きつけられ、一切の身体の自由を奪われた。
ジャイアント馬場社長のもう来なくていいと言う言葉。
それだけが頭の中で絶えずリフレインしていた。
全身の力が抜け、あがらう事なく警察のされるがまま。
終わってしまった……。
何もかもこれで終わってしまったのだ……。
自然と出てくる大粒の涙。
視界が滲む。
俺はその場に突っ伏して大泣きする事しかできないでいた。
気付けば牢屋の中。
肌寒い温度。
中にいる暗い表情の人間たち。
目の前に映る鉄格子。
世界の終わりを見たような気がした。
牢屋の中に俺はいるのか?
ここは留置所というところだろうか?
頭を思い切り殴る。
少しだけスッキリしてきた。
何故こんなところにいる?
大沢を助けに行ってからだ。
警察に捕まったんだよな?
だから取り調べで自身の潔白を証明しようとした。
馬場社長の言葉は夢?
現実逃避するなよ。
思い切り現実じゃねえか……。
全日本プロレスは終わり?
もう来ないでいいと言われたじゃねえかよ……。
何でこうなった?
どこでこうなった?
俺の何が悪かったのだ?
整理しろ。
全日本プロレスの合宿前、飲みに行ったのが軽はずみだったのか?
酒乱だと分かりながら大沢と飲んだのが失敗だったのか?
ヤクザ者にボコボコにされていた大沢など、放って帰っていれば……。
いくら後悔したところでもう遅い。
すべては無に帰してしまったのだ。
壁を思い切り殴る。
同部屋の男が「うるせえ」と呟いたので、目を見開いて睨み付ける。
その男は視線を反らし口を閉じた。
血だらけになっていく拳。
鉄格子の外にいる警官が「静かにしろ」と事務的に言った。
大声を張り上げながら壁を殴る。
どのぐらいそうしていたのか分からない。
気付けば言いようのない虚無感、絶望感に包まれ、牢屋の中で項垂れていた。
一人の警官が出ろと命令する。
夜中なのに目の前にはおじいちゃんがいて、平謝りしていた。
身元引受人として親父は来なかったらしい。
代わりにおじいちゃんが来てくれたおかげで、俺は釈放された。
「おい、今回の件、俺は納得いかないからな。おまえら、思えておけよ?」
警察官に向かい、凄みを利かせる。
法律など関係無ければ、この場で皆殺してしてやりたい気分だった。
「止めないか、智一郎!」
おじいちゃんに諫められ仕方なくこの場を引く。
警察署の外へ出ると、隣りには大沢史博と、その両親が立っていた。
口元は俺の打撃でお化けのように膨れ上がっている。
「岩ヤン…、本当にごめん……」
「ごめんじゃねえよ……。何をしてくれたんだよ、おい?」
「本当にごめん……」
「そんなもんで済むのかよ、クソ野郎!」
大沢へ掴み掛ろうとすると、おじいちゃんに止められた。
「ガラス代はうちで弁償したんだ。君もいい加減落ち着きなさい!」
メガネを掛けた大沢の厳格そうな父親が俺を睨みつけながら口を開く。
辺りの景色が真っ赤になっていった。
うん、もうどいつもコイツも殺してしまおう……。
「はあ? おい…、おまえ今何て言ったんだ、おい……」
「止めないか、智一郎!」
間に入るおじいちゃん。
それがなければ確実に殴っていた。
「落ち着きなさい」
おまえが精子をぶっ放して作った息子のせいで、こんな目に遭った俺に対し何て言い草だ?
大沢の親父の台詞にまた感情が爆発しそうになる。
「オメーの息子が勝手にガラスを割っただけだろうが! 偉そうに抜かすな、ボケッが!」
「黙れ、智一郎!」
おじいちゃんに諫められ、俺はそのまま泣くしかできなかった。
家に帰るまで、どう帰ったのかすら覚えていない。
このくだらない一件で、俺はすべてを失った。
それだけは間違いない。
何をしていいのかまったく分からなかった。
レスラーになろうとしたこの一年間。
すべてがあの一夜で無になり、存在価値すら無くなったのだ。
死にたかった。
どの面下げて生きていけばいいのか。
部屋に先輩の土方智こと坊主さんが来た。
社会人になってから仲良くなった先輩で、俺は坊主さんと呼んでいる。
「智…、何であんな奴と酒なんて飲みに行っちゃったんだよ?」
「……」
坊主さんの言葉は正論すぎて、何一つ言い返せない。
あんな男とつるんでいたから、こうなってしまった。
「…で、全日はどうなったんだ?」
「……。馬場社長から来ないでいいって…、言われました……」
「これから合宿だろ?」
「……」
「行ってこいよ」
「だって…、来ないでいいって……」
言葉に詰まり大泣きした。
どのくらいそのままでいたのか分からない。
それでも坊主さんは黙って傍にいてくれた。
「もう…、死にたいですよ……」
「今、何て言った?」
「もう死にたいです! 何の価値もなくなりました……」
「……」
嗚咽を漏らしながらみっともなく突っ伏して泣く。
何度も泣きながら「死にたい」と連呼した。
「死んじゃ駄目だ! 生きろ!」
「生きてどうしろって言うんですか!」
「ジャイアント馬場から来なくていいって言われたかもしれないけど、明日全日本の合宿所へ行け」
「無理ですよ!」
「いいから行ってこい」
「どうやって? どんな面して行くんですか?」
「死ぬつもりだったんだろ? だったら行ってから死ね。嫌なら生きろ」
「……」
その言葉はどんな崇高な言葉よりも心に突き刺さる。
俺は口で死にたいと言っているだけ。
それなら合宿所まで行く。
行ったあと死ねばいい。
どうせ死のうとまで腹を括ったのだ。
少しだけ光が見えたような気がした。
いや、光などでない。
門前払いを喰らい、ただ追い返されるだけなのが目に見えている。
それでも駄目元で…、全日本プロレスへ行ってみよう。
そこに一筋の光も無かったが、俺にはそれしかなかった。
再び大泣きする。
坊主さんは肩を力強くポンポンと二回叩く。
東武東上線で川越市から池袋。
山手線で渋谷へ。
しかしたまプラーザ駅への行き方が全然分からない。
「すみません…、たまプラーザ駅って、どう行ったらいいのか……」
「……」
何度このやり取りをしただろう。
通行人に聞こうと話し掛けても、誰もが無視して相手にしてくれない。
東京の人間は何と冷たい事か。
これだけ駅構内を探してないのだ。
別のところから行くのかもしれない。
渋谷駅を出ると、一定の距離を保ちながら列を作っている集団が見える。
その内の一人が声を掛けてきた。
「あなたの幸せの為に一分祈らせて下さい」
「はあ? それよりたまプラーザは?」
「あなたの幸せの為に一分間まずはお祈り……」
「おい、この野郎!」
「は、離して下さい!」
気が付けば俺は胸倉を掴んでいた。
「幸せを祈るなら、たまプラーザまでの行き方を教えろ!」
「いえ…、あのー……」
「俺の幸せを本当に考えるなら、たまプラーザへの行き方を教えてくれって!」
その剣幕に押されたのか宗教活動家は、親切に道案内してくれた。
JR渋谷駅から出て少し歩いたところに地下へ降りる通路。
ここからたまプラーザには行けるようだ。
東急田園都市線……。
一度渋谷駅を出て、別の線に乗り換えなくてはいけないなんて、初めての俺に分かるはずもなかった。
無知な俺はそんな事すら知らない状況。
「お陰で幸せになれたよ、ありがとう!」
俺は地図を頼りに全日本プロレスの合宿所へ向かう。
玄関のチャイムを押す。
しばらくして渕さんが出てきた。
俺の顔を見るなり怪訝な表情で「何をしに来たんだ? 社長から来なくていいと言われたろ」と怒鳴られる。
必死に弁解した。
しかし門前払いだった。
当たり前だよな。
来るなと言われたのに勝手に押し掛けただけ……。
「……」
蜘蛛の糸など、どこにも垂れていない。
うん、やるだけはやった。
でも駄目だった。
さて、どう死ねばいいだろうか?
項垂れたまま帰ろうとした時、奥から一人の大男が出てくる。
「いいじゃない。せっかく来たんだからとりあえず入れてあげようよ」
大男はあのジャンボ鶴田だった。
不満そうな渕さんを横に僕が見るからと、説得するジャンボ鶴田。
練習できる格好になるよう指示される。
バックにはTシャツやトレーニングウエアが入っているので着替えた。
テレビでしか見た事のないプロレスラー。
思えばこの人と三沢光晴の戦いを見て、この団体を選んだ。
遥か雲の上の存在。
そんな人の視界に今、俺は立っている……。
他のレスラーがいる中、合宿所のリングに上がった。
明らかにみんな俺より身体が大きい。
テレビで見た秋山準の姿もいた。
見て一番衝撃的だったのは小橋建太の肉体だった。
まるで肉の鎧を纏っているかのような大きさ。
レスラーってこんなに大きいものなのかとカルチャーショックを受ける。
いかに自分が井の中の蛙大海を知らずだったのか。
すべてに圧倒される中、ジャンボ鶴田によるトレーニングが始まる。
腕立て伏せ、腹筋、スクワット各百回を十セット。
もちろん休憩時間は無し。
「僕がね、休憩時間をあげないと思っているでしょ?」
「そ、そんな事思っていません!」
「ちゃんとね…、腕立ての時は腹と足の筋肉。スクワットの時は腕と腹の筋肉に休み時間をあげているんだよ」
「……」
いやいや、俺動きっ放しだからと言いたかったが、こんな偉大なるレスラーに何も言えず、歯を食いしばりながら回数をこなすだけに撤した。
次にリングのコーナーを背に両脇のロープを掴んで身体を浮かせる。
その体勢で両足を上に持ち上げる足上げ腹筋。
俺ってこんなに体力無かったのか?
緊張からなのか、いつもの調子が出ない。
コーナーの上に乗り、そのままリングへ向かって飛び降りる。
簡単に言えば、トップロープの高さからただの自爆行為。
背中でうまく受け身を取ろうが回数を重ねる内に、皮がすり減り血が滲んできた。
いつまでこんな事が続くんだ?
自衛隊でのシゴキが軽く感じるほどだった。
エプロンサイドに首だけ出して、上から鶴田さんがタオルを被せ力を入れて押さえてくる。
「はい、この状態で首を持ち上げて」
身体の向きを変え、上下左右に百回ずつ。
途中で首にまるで力が入らなくなる。
赤ん坊の首の座らない状態、正にそんな感じだった。
「レスラーはジャーマンやるのも首鍛えてないとできないからね」
力を加減してくれていても、首がもげそうに感じる。
それ以外にも様々で過酷なトレーニングは続く。
レスラーがよくロープへ飛ばし戻ってくるロープワーク。
まるで鋼鉄の棒へ向かって自ら背中を叩きつけたような固い感触。
え、ロープってこんな痛かったの?
気付けば俺の足は痙攣し、立つ事さえできなくなっていた。
「うーん、まだまだ体力不足だなあ」
「……」
足を引かれ、リングのエプロンサイドへ出される。
かろうじて振り向き眺めた。
先輩レスラーの泉田さんが俺を担ぎ、リングから降ろそうとしているところだった。
風呂場へ連れてってもらい、大の字に寝転がる。
「足が釣っちゃっているなあ。初日じゃレスラーのトレーニングはキツいよな。ちょっと我慢して待ってな。もうちょっとで楽になるからさ」
丹念にマッサージをしてくれる泉田さん。
少しずつ緊張していた身体が楽になり、再び動けるようなる。
「せっかくだから風呂入って身体を温めてからきな」
「すみません…、色々とありがとうございました……」
四人ぐらいは一度に入れそうな大きな浴槽へ一人入る俺。
少し温度はぬるく感じたが、贅沢など言える身分ではない。
自分で鍛え抜いたという自負だけはあった。
しかしそれがプロの世界では話にならないという惨めさも痛感した。
まだ背があり体重が重ければいいが、体格でも最下位。
はなっから話にならないじゃん、俺って……。
湯に浸かったまま俺は泣いた。
風呂から出てリングのあるトレーニング場へ向かう。
まだレスラーたちはトレーニングをしていて、泉田さんは突然立ち上がり外へ行くとゲーゲー吐き出した。
「昨日飲み過ぎちゃったよー」
「え……」
吐くだけ吐くと、泉田さんはまたリングの上に戻り、腕立て伏せの続きを始め出す。
一体何なの、この人たちは?
俺は圧倒され、目の前の光景をボーっと眺める事しかできなかった。
気付けば自分の中で先輩レスラーたちをさん付けで呼んでいる事に気付く。
全員がトレーニングを終え、ちゃんこ鍋を作る準備に掛かっても、小橋建太さんだけは黙々トレーニングを続けている。
だからあの人は、あんな大きな身体を維持できているのか……。
秋山準さんが「今日は初日だからお客さん扱いだ。先に食え」と座らせてくれた。
四人掛けテーブルには左にジャンボ鶴田さん、右に渕さん、そして対面には先程トレーニングを終えたばかりの小橋さんが座る。
これ、プロレスオタクなら発狂するような面子だなと思った。
夢のような時間の中、俺はちゃんこ鍋を勧められる。
テーブルの真ん中にはくり抜かれた穴があり、そこへ鍋を置いて直に火がつけられるようガスが通ってあった。
大きな金物の鍋を持って泉田さんがテーブルの上に置く。
タッパに入った味噌を渡される。
ジャンボ鶴田さんが「ちゃんこ鍋にはこの味噌ダレをこうやって入れて食べるんだよ」と言いながらフーフーしていた。
「うん、旨い!」
真似して食べてみると、格別な旨さのちゃんこ鍋だった。
おそらく俺は、この味を生涯忘れる事などないだろう。
夢のような時間は終わるのも早い。
やるだけやった。
でも力及ばず。
自身の限界を知ったのだ。
頭を下げて合宿所を出ようとした時だった。
玄関で見送りに来てくれたジャンボ鶴田さんが口を開く。
「まだ線も細いけど、力もあるし勿体ない。また来年になるけど、またプロテストからおいでよ」
「……」
「もうちょっと体重を増やさないとな」
「はい……。鶴田さん…、ありがとうございました……」
誠心誠意頭を下げ、ジャンボ鶴田さんにお礼を伝える。
気付けば土下座をして何度も頭を下げていた。
「おいおい……」
この瞬間、心の底からこの人が俺の師匠なんだと固く誓う。
この人によって俺は救われたのだ。
夢のような一日を終え、地元川越に戻る。
全身がガタガタだった。
これまで応援してくれた大半の人は、手のひら返しで罵倒された。
当たり前だ。
仕方ない。
すべては自身が招いた不徳なのだ。
丁重に謝罪し、また茨の一年間を過ごす決意をする。
あの人に言われたのだ。
俺は諦める訳にはいかない。
またあの世界を目指してみようじゃないか。
ジャンボ鶴田師匠と接してみて、痛感したのは人間的な器の大きさ。
心の底から尊敬できる人。
あのようになりたいが、今の自分では無理なのは自覚できた。
元々備わっている器が違い過ぎる。
日々トレーニングして身体を大きく。
そして親指の鍛錬。
いつか編み出した打突を使う日が来るまで……。
あの世界に入れば俺などかなり小さい部類になってしまう。
誰と戦っても勝てるような技が必要。
新聞紙一枚を広げ、右手で端を掴む。
右手のみで新聞紙をグシャグシャ手の中に握っていくトレーニング。
新聞紙一枚なら簡単にできた。
二枚にすると、難易度は一気に上がる。
幸い家ではおじいちゃんが新聞を取っていたので量には困らない。
親指立て伏せ。
鉄の柱に親指を打ちつける。
小石の入ったバケツに指を突き刺す。
爪など何度も割れた。
そんなもの放っておけば、また勝手に生えてくる。
そんな狂気に俺はとり憑かれていた。
日々の鍛錬が、俺の右の握力をより強力なものにしていく。
ベンチプレスをするにしても、回数を決めずひたすら上げ下げを繰り返す。
終わるのは腕がバーベルを持ち上げられなくなった時。
台の下には汗が水溜りのように溜まった。
家から五キロほど先にある伊佐沼へ走り、着くと腕立て伏せ、腹筋、スクワットを各五百回。
丹念にストレッチをしてから帰る。
途中にある島忠で五キロのダンベルを二つ買い、振りながら家へ戻った。
最後は腕が持ち上がらないくらいの疲労。
働いて食べてトレーニングだけの生活。
それでも俺は幸せだった。
常にオーバーワーク気味の俺。
身体の疲れを癒やす為、近所にできたTBB総合整体へ行ってみる。
メガネを掛けた先生の腕は良く、筋を痛めた俺の身体を治してくれた。
俺の筋肉の質の良さを褒めてくれ、中々筋肉痛にならないと説明される。
一回り年上の先生とは非常に気が合う。
気付けば毎日のように整体へ足を運ぶ。
毎回施術を受けるわけではなく、時にはお茶を飲みながら話をするだけ時もあった。
ある日先生から自分の治しの施術も覚えてみないかと言われる。
もちろん患者がいない時ではあるが、先生は自身の持つ技術を俺に金も取らず無償で伝授してくれた。
人間の身体の構造を頭で理解する。
壊しと治しの両極的な差。
日々俺はこのような日常を送った。
全日本プロレス入りを潰した張本人である大沢史博は、何度も家に来て謝罪しに来る。
坊主さんは絶対に許してはいけないし、関わらないほうがいいとアドバイス。
しかし土下座しながら何度も詫びる大沢を見て、俺は酒にもう飲まれるなと言い、また付き合いを復活させた。
ある日、TBB総合整体へ行くと、先生は高周波の機械を入れていた。
実験も兼ね、これを使ったトレーニングを頼まれる。
治療だけでなくトレーニングにも使えるらしい。
実際に体験して感じたのが、通常の鍛錬では筋肉が付き辛い細部に部分までが鍛えられる事。
この科学的なトレーニングを非常に気に入り、日々の鍛錬の中に取り入れた。
先生はそんな俺に対し一日五百円の金しか取らなかった。
俺が金銭的余裕が無いのを知った上でなのだろう。
本当に頭が上がらない。

仕事といってもアルバイトのような形で色々な事をした。
土木作業員を経て、軌道屋の仕事。
これは自衛隊の北海道倶知安駐屯地で知り合った同期の鳥谷部が、青森から東京へ出てきてしていた仕事を紹介してもらったからだった。
昼と夜の両方を働く軌道屋。
しかし技術も何もない俺は夜の作業しかない事も多く、ほとんど金にならない。
それでも目黒にあるプレハブでできた小屋は家賃も掛からないし、食事も出る。
風呂場で湯船の淵に腰掛け、足を延ばして壁につけた状態で毎日千回以上の腹筋を心掛けた。
週末になると川越へ戻り、友達と酒を飲み、トレーニングをした。
握力と親指の鍛錬だけは欠かさず毎日していたので、指三本でリンゴを潰せるまでになっている。
一度握力を測ると九十六キロを記録した。
自身が求めるのは強さ。
それに強靭な肉体。
身体をデカくして耐久力を増やし、この打突で相手の身体に穴を開けてやる。
攻撃だけでも駄目。
防御だけでも駄目。
強さとはすべてを兼ね揃えたものだろう。
どんな状況下に置いても変わらない強さ。
いざという時の為に秘中の秘。
それにはこの握力と打突が一番自分には適していると思った。
着々と大きくなる身体。
とにかく食べ、トレーニングに励む。
しかしカロリー消費が凄いのか、体重は中々上がらないでいた。
去年の全日本プロレス合宿時で七十五キロ。
現在七十八キロ。
筋肉はつき見栄えは変わってきているものの、肝心の体重が増えない。
だからといってトレーニング量を落とすわけにはいかなかった。
唯一気が休まるのが坊主さんや知人と食事したり酒を飲んだりする時だった。
金も地位も何も無い俺。
こんな男に女が近寄ってくる訳がない。
つるむのは決まって同性の男だけ。
今はそれでもいいさ。
俺が世に出て大きくなった時、小馬鹿にしていた連中は吠え面を掻くなよな。
俺にあるのは常に反骨心。
今はこんな事をしながら生活の糧を得てギリギリの生活をしているが、今に見ていろよ……。
自分で選び招いた現状を俺は社会のせいにする事で精神を保っていた。
ある日目黒から川越に行き、大沢たち同級生と飲んだ時。
これはこちらに出てきて同世代の友達がいない鳥谷部の為に、彼らを紹介したいという思いもあった。
この頃大沢は駒澤大学へ通っていたが、成増に親が借りてくれたマンションで一人暮らしをしていた。
目黒へ帰る俺たちと方向が一緒なので途中まで帰ろうという事になり、川越市駅まで向かう。
「あ、ごめん。岩ヤン忘れ物しちゃったから、ちょっとここで待ってて」
一度実家へ戻って荷物を取りに行くと言う大沢。
帰りの電車を待っていても、いつまで経っても来ない。
この日は鳥谷部も一緒に川越へ遊びに来ていたので、一時間以上経っても戻らない大沢に対し、非礼を詫びる。
下手したらまた道端で誰かに絡み、喧嘩になっているのではないかと杞憂した。
終電が無くなりそうだったので、深夜に失礼とは思ったものの大沢の実家へ電話を掛ける。
受話器から聞こえてきたのは大沢と母親の口論だった。
彼の母親が言うには、酷い酔い方をした大沢がどこからか女を連れて実家に戻り、この子を泊めると言い出し揉めている最中だと説明される。
俺の全日本プロレスを自身の酒乱的な行動で潰し、散々土下座してきた大沢。
一体あれは何だったのだと頭に血が上った。
「鳥谷部…、悪いけど今日は俺の実家に泊まってくれや……」
「岩上、どこ行くんだよ?」
彼を引き連れた状態で大沢史博の実家へ向かう。
ドアを開けると、玄関先でまったく知らない変な女が立ち尽くしている。
その横で大沢は母親と揉めている状況だった。
「おい、おまえ…、どういうつもりなんだ?」
完全に酔った大沢へ凄みを利かせる。
「関係ねえだろ」
面倒臭そうに吐き捨てる大沢を見て、視野が狭くなる。
気付けば大沢を外へ連れ出し、拳を思いきり叩き込む。
そのまま倒れる大沢。
唇は潰れ数本の歯も欠け、酷い出血をしていた。
人生これまでで本気で人の顔面を加減せず殴ったのは、これで二度目。
二回ともこの大沢史博という因果。
こんな馬鹿のせいで俺はすべてを失い、また許したのにまた裏切られたのだ。
彼の両親はただ黙って俺を見ているだけだった。
「智一郎、おまえは甘過ぎる。だからあんな奴許す必要がないと言ったろ?」
坊主さんや仲のいい知人からは散々責められた。
当たり前だ。
自身の選択がすべてを台無しにしていたのである。
自分の甘さに対し反吐が出た。
相手の事を何も考えないような奴だからこそ、酒に飲まれあんな騒ぎを起こした。
いくら謝ってきたところで、そんなもの表面上的なだけ。
だらか許したところでまた同じ過ちを繰り返す。
もう他人につまらない感情や許しはいらない。
いい加減気付けよ。
自分の人生は自分で切り開くしかないのだから。
付き合う人間など最低限でいい。
より貪欲に身体の鍛錬を求めよう。
もう二度とあんな目に遭わないように気を付けながら……。
川越でいい仕事先が見つかり、目黒の軌道屋を辞めて地元へ戻る事にした。
新たな職場は協同商事。
西武新宿線本川越駅の一つ隣駅の南大塚から徒歩十五分くらいのところにある。
家から自転車だと約三十分で行けるので、交通費節約と運動の為にもそれで通う事にした。
有機野菜を扱い、これからビールの事業なども考えているようだ。
俺は入間市にある小学校の給食センターの有機野菜食材管理を任されるようになった。
もう少しでまたプロテストの時期がやってくる。
あの挫折と屈辱から一年が経とうとしていた。
体重もようやく八十五キロと去年より十キロ増やす事に成功している。
協同商事内で、野菜一箱十キロが五十個積んであるカゴ車を高台に上げたいと言われる。
しかし車内のフォークリフトはすべて使われていて時間がない状況もあり、俺がカゴ車を押して坂道を上る事を決めた。
純粋に五百キロの重さ。
渾身の力を入れ、カゴ車を押す。
少しずつではあるが坂道を上がり始めた時だった。
その時カゴ車を支える車輪の一つが壊れ、こちらに向かって倒れてくる。
一瞬支えようとしたが、五百キロの重さにはまったく意味がなかった。
寸前で身を翻し避けようとした時、カゴ車の角が左足親指に当たる。
思わず出る呻き声。
プロテスト前に俺の左足親指の爪は粉々に割れ、その破片が突き刺さりめり込んだ。
おびただしい出血。
その状況を見た周りから悲鳴が聞こえる。
俺は左足を両手で押さえ、必死に痛みを堪えるしかなかった。
専務である奥さんは俺の状態を見て「岩上君ごめんね、病院連れてってあげたいんだけど、これから帰って息子にご飯作らなきゃいけないから…」と信じられない言葉を吐く。
俺は近くに住む従兄弟の和ちゃんへ連絡し、迎えに来てもらった。
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