【闇シリーズ③】10~14(ゲーム屋ワールドワン)
2026/02/10 tue
※闇10~14を一気にまとめました
闇 10(歌舞伎町一番街通り編)
2024/07/31 wed
2025/07/10 thu
2025/08/18 mon
前回の章
鳴戸との決別。
この表現は適切なのか?
しかしどちらにせよ無職になってしまった俺。
まだ金銭的な余裕はある。
高橋ひろしのおかげで給料以上の金が日々もらえていたのはおいしかった。
だが無職となり、このまま遊んでいる訳にもいかない。
歌舞伎町に来て初めて一緒に働いた人間である世永。
彼は理不尽にもクビを言い渡され、ベガを去ったが知り合いを通じ、さくら通りのリングという店で働いていた。
このまま新宿を去るにしろ、世永にはひと言伝えておこう。
リングへ挨拶しに来た俺に、彼は言う。
「岩上君、勘違いからこの業界に入ったのは分かるけど、君ならうちの系列紹介できるから足突っ込んだついでに、もう少しやってみたら?」
プロレスの道も無くなった。
先日の一件で浅草ビューホテルで再度働く目も無くなった。
次にどうしたらいいか何も決まっていない。
俺は世永の心遣いをありがたく受ける事にした。
あんな死に掛けそうな目に遭ったにも拘わらず、どこかこの街は居心地がいいと感じている。
自分を魚だと例えたら、浅草ビューホテルの水はどこか濁っていて泳ぎにくい。
歌舞伎町の水は本当に泳ぎやすかった。
暴力的なものが通用する場所。
力を持て余していた俺は、そこが気に入ってしまったのだろうと思う。
当時歌舞伎町のゲーム屋業界は三大系列と呼ばれる大きな組織があり、世永のいるワンオン系と呼ばれた組織は、リング、チャンプ、サニー、エースと四店舗もあった。
十円レートのサニーを除けば、あとはすべて一円レートの店。
西武新宿駅前通りのロッテリアのすぐ向かいにある地下一階のチャンプへ配属される。
本当に狭い店で、八畳程度の中には壁際にピッタリ押し付けるような形で十台ポーカーゲーム機があった。
機種はすべてワンオンワン入口すぐの場所にキャッシャー用テーブルがあり、窮屈そうな辛うじてある隙間に責任者が立ち、プリントや紙に状況を記載する。
キッチンも人が二人も入れないほど手狭で、そこに小さい製氷機と洗い場のみ。
こんな手狭な場所に従業員が四人も働く。
前の店ベガのように客も来なくて従業員二人だけの零細な店でない。
遅番のスタッフは責任者の有路、二番手の原、新潟からねずみ講で失敗し自己破産して逃げてきた林、元相撲取り上がりの久保田。
誰かしらが日々休みを取り、基本的に残りの四名で店を回す。
有路はプロレスが好きで妙に馬が合う。
原は仕事は黙々するが、完全なマイペース人間で他人には興味がない。
林はおおらかな性格だがインキンで股が痒いらしく年中指でかいている。
久保田は俺より大きな身体を面倒くさそうにチョコチョコ動く。
客数は常にほぼ満席。
確かにこの忙しさは二人では捌けないだろう。
「入れてー」
そう言いながら千円札を天井に向けて上げる客。
俺ら従業員は金を受け取り、INキーと呼ばれる鍵でゲーム機に捻ってクレジットを入れる。
この作業がIN。
「アウトしてー、オリ二本」
客にそう言われると、機械の横にあるボタンを押してクレジットを0。
例えばクレジットが七千なら一円レートなので、そのまま七千円になる。
一度この状態で金を渡し、また客が二千円INする手間を省くのがオリ。
つまりオリ二本なら、現金五千円渡し、クレジットに二千入れる。
この金をもらう作業がOUT。
一プレイ百円なので、千円なら十回何も出なければクレジットは無くなるという訳だ。
黙って千円札を右手で持ち、上に向かって手を伸ばすオカマの客。
俺がINをしようと近付くと、オカマはワザと金を床に落とす。
この嫌がらせに激高した俺はオカマの頭を叩く。
従業員が駆け寄り大騒ぎとなった。
確かに俺のやった行為はいけないものだと理解している。
ただ客とはいえ金をそんな風にしていいのか?
その一件からオカマは金をワザと下へ落とす事はなくなった。
店では自腹であるが出前も取れる。
年配の女性客がアマンドのカレーを取り、半分ほど残した状態で「もうお腹一杯下げて」と皿を渡してきた。
受け取ろうとすると、林がダッシュで皿を奪うようにして「岩上君、ワイが下げる」と洗い場へ消える。
中々出てこないのでチラッと様子を見ると、林は女性客の食い残しのカレーを「うめえ! うめえよー」とガツガツ食べていた。
新潟で自己破産し、こっちでも近くにあるサウナ、グリーンプラザ新宿で寝泊まりをしていると言っていたが、本当に金に困っているのだろう。
チャンプで働きだして二週間が経つ。
夜中になると寝た状態の四歳の娘を両腕で抱えて毎日来る客がいた。
汚いジャンバーをゲーム機の下の床に引き、娘を寝かせたままポーカーを始める。
奥さんに呆れられて出て行かれたのかと思うくらい、五千円から一万円の金を握り締めてポーカー賭博に熱中するオヤジ。
朝方娘が起きて騒ぎ出したので、俺は休憩時間を利用してロッテリアへ連れて行く。
好きなハンバーガのセットを買い与えると、口の周りをケチャップで真っ赤にしたまま嬉しそうに食べている。
そんなある日、前のゲーム屋ベガのオーナーの一人である海野がチャンプに姿を現した。
蘇る鳴戸絡みの死闘やヤクザとの対面。
俺の顔を見るなり時間を作ってほしいと言ってくる。
店の従業員に変な勘繰りされるのも嫌だったので、仕事の終わる時間を告げ、出て行ってもらう。
店長の有路から誰なのか聞かれたので、正直に前の店のオーナーという説明だけした。
仕事を終え外に出ると海野が待っていた。
一緒に歩いているところを系列の人間に見られるのも嫌なので、歌舞伎町交番横にある喫茶店トゥモローへ入るよう促す。
「ここ、コーヒー不味いんだよね」と言いながらコマ劇場方面へ向かう海野。
コマの横にあるロッテリアの自動扉を開けた。
注文はコーヒー二つ頼み、会計の際小銭をゴソゴソしながら中々支払わない。
もどかしいので俺が千円札を出すと「悪いねー」と言いながら席に座った。
要件は何か聞くと、鳴戸が経営から外れ、店の名前も一新してベガからオメガに変わるので、また戻ってきてくれとの事。
こんなしょぼくれた奴の下で働くのは二度とごめんだ。
俺は丁重に断り席を立つと、「鳴戸君から岩上君を絶対引っ張って来いって言われてるんだ」と口を開く。
鳴戸?
さっき経営から外れたとか抜かしたくせに、俺を引っ張る為の嘘だったのか……。
歌舞伎町という街は居心地が良い。
しかしあんな男の下で働くのは二度と嫌だ。
すでにチャンプで働いているのを知られている。
店に迷惑を掛けたくなかった。
あの鳴戸の事だ。
無茶な事を平気でやりそうな気がする。
「あんな目に遭ってまた戻ろうとは思いません。それにチャンプも地元で働くので辞める予定ですから」
俺は海野へ嘘をついて、ロッテリアをあとにした。
一度歌舞伎町から出る必要がある。
鳴戸たちとは絶対にもう関わりたくない。
真実を伝えるのも戸惑いがあり、俺は番頭の佐々木さんに「家がとても固い家で裏稼業で働いているのをバレてしまい地元で仕事しなくてはならない」と嘘をついて辞めた。
従業員の林などは目に涙を溜めながら「岩上君、辞めちゃ駄目だよ」と肩を掴んでくる。
馬鹿だけど悪い人じゃないんだよなと、嘘をついた罪悪感を覚えた。
一ヶ月ほどブラブラして過ごす。
坊主さんと裕子さんのところへ泊まりに行ったり、TBB総合整体の先生のところへ行きお茶を飲んだり、家の隣にあるトンカツひろむで岡部さんと話しながら飲んでいると、野原さんがやってくる。
ゲーム屋で働いていた事を恥ずかしく思っていた俺は、周りに会員制のバーで働いていると嘯く。
手持ちの金がだいぶ目減りしてきたので、そろそろまた仕事先を決めなければいけなかった。
また地元で適当にアルバイトしたところで何もならない。
もう腹を決めようじゃないか。
ゲーム屋の佐々木さんへ連絡して、今度は腹を決めてまた働きたいとお願いした。
俺はエースという一番街通りにある店へ配属される。
片番だけで七名もいた。
狭いチャンプとは違い、五倍の広さがあるエースは余裕を持った席スペースに、従業員たちが休憩でくつろげる部屋まである。
この店の店長は所。
俺は遅番に回され、責任者加藤の元で働く。
同僚の体重百キロ超える巨漢の横道。
元ホストだと妙に偉そうな態度の下元。
他に元ホテルマンだという中村。
妙に浅黒い髪型がカールしている三橋。
初日は一人休みで俺を含む六名。
一週間もしない内に、エースは閉店し別の場所へ移る事になっていた。
歌舞伎町一番街通りは家賃が高く、エースのような大箱では採算が取れないようだ。
ほぼエースのメンバープラス新規従業員で構成されたゲーム屋プロ。
場所はチャンプから三軒隣の地下一階。
西武新宿駅からロッテリアのところを入り、コマ劇場へ抜ける道沿いにあった。
プロの店長は同じく所。
前のエースの責任者だった加藤は辞めたらしい。
今回も俺は遅番。
夜十時から十時間か、十二時から十時間勤務。
給料は日払いで一万千円。
そして食事代で千円出る。
早番の責任者はチャラチャラした偉そうな下元。
遅番の責任者は太った横道。
店長の所にはペコペコするが、自分より下の人間には横柄な態度をする彼とうまくやっていけるか一抹の不安が残る。
遅番の従業員は全部で五人。
席数も九台しかない長細い店。
階段降りて左奥にキャッシャー。
壁沿いにくっついた状態でゲーム機が七台。
入口とは逆向きで二台の合計九台。
本当に狭い。
チャンプは正方形の狭さ、プロは横長な狭さ。
休憩する場所は階段の真下のスペースしかなく、天井が斜めなるので非常に窮屈だった。
責任者の横道。
そして二番手に細かい事をブツブツ言う関。
俺は位置的に三番手。
入った順番的なものだろう。
元ホスト上がりで甘いマスクの大川。
アメリカ帰りの英語ペラペラな関口。
オープンしたての店なので、さすがに暇だった。
そんな忙しい店でもないのに、いつも〆をする際金額が合わない。
金が合わなければ、従業員の給料で埋めなければならなかった。
毎日のように合わず、今日は二千円、昨日は千円を日払いから取られる。
客の入りも悪いままで横道は焦りからか常に機嫌が悪い。
ベガでもやった電バリをやる事になった。
「岩上君と関で電バリ行ってきて」
横道に指示され、二人で外へ出る。
五十枚も電信柱に貼り、店に戻っても客はまだいない。
帰り際「もう自分、今日で上がって」と突然関をクビにした。
何故か事情を聞くと、ここ数日の〆で合わない日は必ず関が出勤しているそうだ。
先程俺と関で電バリ行った際、横道は中〆をして金額が合っているのを確認。
遅番終了時間まで数名の客は入るものの、〆でいきなり金額がズレていた。
そこで横道は金を抜いていると関をクビにしたと説明。
そんな事確証もなくと俺が言うと、身体検査したら関のズボンのポケットから一万円札が四つ折りで出てきたらしい。
五人出勤している状況で一万円のマイナスたと、一人二千円ずつ埋める計算になる。
関は被害者ぶって埋めたところで懐には八千円持っているから埋めても痛くないのだと、横道は言う。
ベガの店長だった高橋も、やり方は分からないが金を抜いていた。
ゲーム屋ではこういった手癖の悪い従業員が後を絶たないそうだ。
まだ入って一ヶ月程度の俺が、関のクビにより二番手となった。
相変わらず暇なプロ。
チャンプの同僚だった久保田は仕事が終わると、うちの店にゲームを打ちに来てくれた。
俺の仕事が終わるのを待ち、よく食事へ行く。
一度何故相撲へ行ったのか聞くと「親に連れられて相撲を観に行ったら、高見山親方から相撲は好きかいと聞かれ、はいと答えたら入門する感じになったんだ」と答えた。
小さい頃から大きな身体をしていたのだろう。
相撲を廃業して調理の道へ。
そこから裏稼業のゲーム屋業界へ来たらしい。
プロレスからホテル、それからゲーム屋へ来た俺と似たような境遇を感じ、久保田とは妙に馬が合った。
基本不機嫌でいつも怒っている横道であるが、面倒見の良いところもあった。
「自分、仕事終わったらちょっと付き合って」
相手を呼ぶ時よく自分という特殊な言い方をする彼は、俺を焼肉の叙々苑へ連れて行く。
「働いて一ヶ月経った真面目な従業員はここに連れてきてご馳走するって決めているんだ」と横道はご馳走してくれた。
意外な一面もあり、プロレスが好きらしい。
一度コブラツイストを掛けてほしいというので、足を絡ませると「ちゃんとしたコブラツイストってこんな痛いの? 足を入れられた時点でヤバいなと思ったよ」と少し打ち解けた気がする。
少し年下の大川はやたら俺に懐いてきた。
ホスト、ゲーム屋の経験しかない彼は「岩上さんて本当優しいですよね」と仕事後食事にもよく誘ってくる。
日払いは同じだが俺のほうが年上だからご馳走すると、いつも感謝を述べ頭をペコペコ下げてきた。
一つ年上の関口はボソボソと小声で話すのが特徴的だ。
店に入ったのが数日俺のほうが早いだけで敬語を使ってくる。
クビになった関の代わりに新人で末光という未経験のチビが入ってきた。
店長の所が遅番に来る代わりに、俺が早番へ行く事となる。
新たにまた系列店が一番街通りに出きるそうで、所だけ抜けて新店に行き、その為のシフトチェンジだと説明された。
杜撰でチャラチャラした下元と同じ番になるのは憂鬱である。
大川のような柔らかい感じの元ホストならうまく対応できるが、同じ元ホストでも下元は年下にも関わらず常に上から目線で偉そうなのだ。
時間帯は真逆の朝十時か昼十二時から十時間勤務に変わる。
真面目な横道と違い、早番の下元は本当にどうしょうもなかった。
籍を入れたばかりらしく、毎日仕事中に元風俗嬢の嫁と電話をしている。
客がいても大声でお構いなし。
数名の客が「アイツ、うるせえよ」と苦情が出てもまったく気にしない面の皮の厚さ。
キャッシャーで客に聞こえるように電話せず、せめて階段下の隙間でやってくれとどかす。
彼は仕事をまったくせずに日払いだけもらう日々。
それでいて俺は責任者だと偉そうなので、いつも俺と衝突した。
ある日店長の所から外に呼び出される。
「岩上! 下元は俺が認めた責任者なんだ。アイツに文句があるなら辞めろ」と言われた。
俺は辞めても構わないが下元の滅茶苦茶ぶりを正直に伝え、それでも俺をクビにしたいならすればいいと堂々と伝える。
こんな理不尽さがまかり通るなら、辞めても悔いはない。
すると現状を知らない所は、酷く困惑し俺に頭を下げてきた。
この月の電話代の請求が来ると、十数万の金額だったらしく、番頭の佐々木さんは店の電話を使う際ノートに記載するよう伝えてくる。
出前を頼むのもどこへ電話を掛けたのか書かなければならないのか尋ねると、すべて書いてくれと言う。
原因は下元一人のせいなのだ。
毎日十時間以上、嫁と電話していたらこのぐらいの料金はいくだろう。
俺は所へこんなくだらない事をするくらいなら、下元の電話をやめさせればいいとハッキリ伝えた。
この一件もあり、俺と下元の仲は良くない。
ギスギスした空気の早番。
責任者と二番手の俺がいつも言い合いをしていたら、他の従業員たちも働き辛いだろう。
しかし悪いのは下元なのだ。
俺からへりくだる必要もない。
そんなある日、たまたま七名ほどの集団客が来た。
一気に忙しくなる店。
多忙時にさすがに従業員同士争ってもいられない。
集団客は金の使いっぷりが気持ち良かった。
金を使い果たしても、勝っている仲間が次々と金を回す。
綺麗に身支度を整えたサラリーマンのような雰囲気。
何となくホテルマンではないかと思った。
浅草ビューホテル時代の感覚と何か近いのである。
どちらにせよ、このプロにとって大切な核となる客には違わない。
俺は細心の注意を払い、接客に努めた。
タバコは客の自腹で従業員が頼まれたらすぐ買いに行く。
毎日のように来るので何を吸うか銘柄は覚えている。
俺は出勤前に彼らのタバコを自腹で買い揃え「あのー…、タバコいいでしょうか」と申し訳なさそうに言った瞬間、俺は吸う銘柄のタバコを出す。
驚いた表情で俺を見る客。
ホテルのラウンジで丁重に接客するよう心掛け「いつも鎌田さんの吸うタバコを覚えておいたので、予め買っておきました」と伝える。
金を渡そうとする鎌田さんを手で制しお代は結構ですと言うと、仕切りに深く頭を下げ感謝をしていた。
この行為を気に入られたのか、集団客は毎日のようにプロへ来るようになり、一気に店が活気づく。
客が客を呼び、ようやく流行っていると言われるようになったプロ。
日々忙しさに追われ、従業員同士の歪み合いも無くなる。
あれだけ毛嫌いしていた責任者の下元とも、うまく連携取れている内に関係は良くなった。
裏稼業であるが、別に人を騙して悪い事をしている訳でない。
俺は毎日一生懸命一心不乱に働いた。
休みの日金銭的にも余裕あったので、高校時代初めてデートした永井泉に連絡してみる。
高校卒業以来だから七年ぶり。
彼女は快く俺の誘いを受けてくれた。
連れて行く場所は浅草ビューホテルの自分がいたラウンジのベルヴェデール。
以前総支配人の丸山と揉めたが、女連れで客として行く分には問題ないだろう。
当時武蔵浦和駅に住む泉を密かに気に入っていた俺は、夏休みに連絡も約束もせず彼女の駅まで行ってから電話した。
「今、武蔵浦和の駅にいるんだ。良かったら映画でも行かないか?」
携帯電話も無い時代。
公衆電話から勇気を出して誘う。
その時もたまたま暇を持て余していたのか来てくれた。
俺は川越まで連れて行き、実家の目の前の映画館ホームランへ連れて行くのはさすがに恥ずかしく、少し離れたスカラ座へ行きマリリンに会いたいを観た。
クソつまらない内容だったが、隣りに泉がいるので幸せを感じる。
ロッテリアでハンバーガーを食べて、ビリヤードで遊び、再び武蔵浦和まで送っていく。
泉を家まで送るのに格好をつけてタクシーを使う。
おかげで高校二年生だった俺は帰りの電車賃すら無くなり、浦和から川越までの距離を歩いて帰った。
学校が始まると、よく話し掛けてくれた泉に対し、恥ずかしさから避けるようになる。
これが原因か、俺はフラレた。
自衛隊の倶知安時代も、再度告白したが、またフラレた。
二十五歳になって三度目のチャレンジだったのだ。
ベルヴェデールへ連れて行き、これまでを色々語り合う。
帰りにプリント倶楽部で肩を組んで写真を撮るのが精一杯だった。
またフラレるのが怖かったのだ。
大川にプリクラを見せると「高島礼子に似た美人ですねー」と褒めてくれた。
店長の所が新しくオープンする店ワールドワンに移動し、俺は再び遅番へ戻る事になる。
遅番の責任者横道、彼とも日々忙しい時間を過ごす中、大川の退職が決まった。
同棲しているという可愛い彼女まで紹介され、よく食事へ行った彼がいなくなるのは正直淋しい。
俺は近くにあるリカーショップの信濃屋で、デュカスタン別名『哺乳瓶』と呼ばれるブランデーを彼にプレゼントした。
「辞めてもちょくちょく連絡するんでご飯でも行きましょうね、岩上さん」
こうして大川と笑顔で別れる。
永井泉の誕生日を覚えていた俺は薔薇の花束を注文し、メッセージカードに筆記体の英語で洒落た台詞を書きたかった。
しかし英語が分からないので、従業員の関口に洒落た言葉を教えてくれと頼む。
関口はニヤニヤしながら「この言い方だとイヤラシすぎるなあ…」と、一人でああでもないこうでもないと四苦八苦している。
「普通でいいから!」
あまりにも変な言い回しの英語なんて書かれると最悪なので通常の口説き文句の言葉を書いてもらう。
ポニーテールがとても似合う彼女。
俺は家の近くのバーでメッセージカードに筆記体で書き、薔薇の花束と共に彼女の実家の庭に黙ったまま置いて帰る。
お礼の連絡はあったが、特に仲が進展する事もなく、泉とは現在も会っていない。
おそらく彼女との縁は、俺にとって無いのだろう。
最後に付き合ったのが、二十歳の頃。
零細で胡散臭い社長の平子に都合いいように使われていた時に、祭りで知り合い付き合った鈴木美千代…、俺にとって初の彼女でもある。
もう五年も一人で日々を過ごしていた。
そろそろ淋しいな。
彼女が欲しかった。

浅草ビューホテル時代、可愛いなと思っていた小川誉志子とは辞める前に連絡先を交換していたので、たまにデートを重ねている。
何度も会っているのに、フラレるのが怖く、いまいち仲は進展しない。
異性に対し、どこか臆病な俺。
一度彼女を連れ、歌舞伎町西武新宿駅のところにある新宿プリンスホテルへ行かないか誘う。
一緒に向かい、地下のイタリアンレストランのアリタリアへ行った。
「いらっしゃいませ」
出迎えるホテルマンの顔を見た瞬間、俺も相手も思わず大声を出して固まる。
出迎えたホテルの支配人は毎日プロへ数名で来る集団客の一人である鎌田さんだったのだ。
彼は俺が女性を連れてアリタリアへ来店したのを快くもてなしてくれ、二人なのに八人掛けテーブルへ通される。
コース料理を頼んだだけなのに、テーブルに置ききれない量の料理や酒をこれでもかと並べた。
大食漢の俺が半分も食べられない量。
他のホテルマンも鎌田さんが報告したのか、俺の席へ笑顔で挨拶に来た。
そのすべてプロに来る人たちである。
帰りにいくら請求されるのか冷や冷やしたが、鎌田さんは「六千円ちょうどでいいですよ」とかなり安くしてもらう。
誉志子に対して本当に格好良く見えるようお膳立てしてくれたのだ。
店は順調だったが、責任者の横道には一つ大きな欠点があった。
自分の気に入った以外の客が、ゲームで出すと不機嫌に大声でコールをする。
勝負事なんだから、誰が勝っても問題ないはず。
しかし横道はその融通がまるで利かず、客からクレームが出るほどである。
何度もその行為について話し合うも「自分さー、責任者じゃないんだからさー」と聞く耳を持たない。
店の主役はあくまでも客。
従業員はある程度黒子に徹しないといけないのに……。
この頃から横道と俺ら下の従業員との溝ができ始めた。
ある日新人で毎日のように時間になってもゴミ出しできないのがいたので今回も注意すると、横道が大きな腹を押し付けながら「自分さー、俺と言い争いになったからって、下に八つ当たりはやめろよ!」と怒鳴りだしてくる。
客前なので小声でやめるよう促しても横道は治まらない。
あまりにも体重を掛けてくるので、客の座る椅子までが動いた。
コイツ、人が大人しくしてりゃあずには乗りやがって……。
素人相手に暴力は使いたくない。
しかし向こうから暴力的に来るのなら話は別だ。
俺は「おい、こっちが無抵抗なのにそう来るなら、俺もそう行くからな」と恫喝する。
すると横道は顔色を変えキャッシャーに戻り、番頭の佐々木さんに「岩上が怒って暴れています」と電話をした。
自分から仕掛けておいて、こっちご怒るとそう行動するのか。
俺は客前というのもあり、黙ったまま佐々木さんの到着を待った。
地下から外へ出され、佐々木さんが状況を聞いてくる。
俺は一部始終を説明し、このままでは客もどんどん減るし、下手したら警察へチクられる可能性まであると諭す。
もちろんここまでの事をしたのだから仕事を責任取り辞めるつもりでいるのを言うと「店は責任者の横道君に任せてあるから…、ちょっと待ってね」と佐々木さんはどこかへ連絡をしだした。
「岩上君、所君ところのワールドワンが人手不足で向こうで働いてみないかい?」
俺一人プロを抜けたところで、残りの従業員が神経的に持たず、みんな一ヶ月くらいて全員辞めてしまうと忠告するも、無駄だった。
「岩上君は新しいほうで頑張ってくれればそれでいいから」と言われ、一番街通りにある新店ワールドワンへ移動する事が決まる。
歌舞伎町一番街通り。
この時代、サラリーマンなど普通の人間が一番歩く通りだった。
以前あったエースほど大きくはないものの、ワールドワンは通りの真ん中くらいに位置する地下一階の店で、台数も十四台設置してある。
店長の所以外、全員ゲーム屋未経験。
一から従業員を育ててきたのでオープンからまったく休みが取れず、俺が来たのを歓迎してくれた。
俺の配属は所と同じ遅番。
簡単な説明だけされ、明日は休ませてほしいと頼まれる。
従業員は早番五人、遅番六人。
早番の責任者は吉田。
遅番は所、俺、中田、中島、赤井、鎌田。
カチッとした七三分けな所。
女みたいななよっとした仕草をしている中田。
太田プロに所属し、お笑い芸人を目指す中島。
千代大海と同じ中学の同級生だと言う蚊蜻蛉みたいなガリガリな赤井。
太ってだらしない顔をしている鎌田。
これから一緒に働く従業員たちだった。
ワールドワンの置いてあるゲーム機種はダイナミックという台で、歌舞伎町どこのゲーム屋に置いてないものらしい。
十四台中九台がダイナミックで、残り五台はワンオンワンという前から置いてある叩き台。
ここでいう叩き台とは、ポーカーの役を揃えた時ダブルアップでビッグかスモールを叩くので昔からそう呼ばれた。
ちなみに前の店プロは赤ポーカー一色の台。
赤ポーカーはダブルアップの際、叩いて七が出たら純粋に三倍になるだけのシンプルな機種。
それに比べてダイナミックは派手で画期的なシステムだった。
ダブルアップ画面になると、運が良ければ色付きの札が出てくる。

黄色の札で当てれば三倍。
緑で四倍。
赤なら五倍。
また更に運がいいとラブチャンスと呼ばれる叩く前からトランプの札がめくれ、例えばKなら七より大きいのでビックを叩けば絶対に当てる。

付け加え、ストレートフラッシュとロイヤルストレートフラッシュの二大役が出ても、それさえダブルアップができる過激台なのだ。
そのせいか連日客がわんさかやって来る。
新宿プリンスホテルの支配人連中もワールドワンへ一度来てくれたが、赤ポーカーに慣れていたのでどうもダイナミックは受け付けなかったようだ。
顧客の一人に大倉さんというおじいちゃんがいた。
レート一円だと一人当たりの使う相場はだいたい三から五万。
大倉さんは夜中に来ると、朝方までずっとポーカーをするので一晩で十五から二十万ほどいつも負ける。
それでもまったく怒る気配すら無く温和で余裕のある人だった。
年を取ったらこんなほがらかに生きていたいものだなと思うようなおじいちゃん。
俺はたまにワザとINキーを多く滑らせてミスを装い、彼のクレジットの数字へオマケした。
俺がワールドワンで働き出して一ヶ月経つ。
その間でプロは横道の性格に耐えられず、末光が辞め、関口まで揉めて辞めると連絡があった。
俺は番頭の佐々木さんに話し、何とかならないかお願いしてみる。
ちょうどこの頃一番街通りから西武新宿駅へ抜ける海老通り沿いにあったサニーで事件が起きた。
ケツモチの千葉連合を名乗るヤクザ者が店に来て、これから警察のガサが入るから金と〆用紙渡して店から出るよう言われたらしい。
サニーの店長も、佐々木さんに確認の電話一本すればいいものを焦ってそのヤクザ者の言う通り動き、結局はその情報すら嘘で店の金をすべて持ち逃げされたようだ。
歌舞伎町内にゲーム屋は百軒ほどある。
新たな店はボウフラのようにどんどん沸き、流行らない店はどんどん潰れていった。
街中の至る所に『一円』や『十円』と数字の書いた看板がどこでも見掛ける。
これはレートの違いを表すものであり、基本的に金の無い客は一円、ある客は十円の店へ行く。
一円の中でもダブルアップの叩きが好きな大倉さんのような人の場合、好んで来る稀な客もいる。
歌舞伎町交番奥にあった潰れた店をうちのワンオン系列が買い取り、チャンピオンという新たな系列店が加わる。
俺はそこへ関口を入れられないか頼み、面倒見のいい佐々木さんは彼を配属させてくれた。
コマ劇場の斜め横、セントラル通りからさくら通りへ向かう途中の地下一階にアリーナという系列店もできる。
この店はオープン時、細かい客はすぐ出禁扱いにし初動を失敗した。
世永のいるリングから佐藤が急遽責任者でアリーナへ行き、立て直しをするようになり大変そうだ。
彼とは何度か食事に行く仲だったので、俺も仕事帰りアリーナへ寄り閑古鳥の鳴いた店をどうするかよく話し合った。
俺がワールドワンへ移動して半年もしない内に、プロは閉店となる。
原因は遅番の時間帯だけで二週間で五回警察が警告来たらしい。
プロを辞める際、俺は番頭の佐々木さんに忠告した。
横道の横暴な接客スタイルは多くの敵を生み、従業員はついていけず、客から警察にチクられる可能性があると。
正にその通りの結末を迎えたプロ。
早番の責任者だった下元は、金融業界へ行き、十日で五割の利子を取る通称トゴで弱い人間から金を毟り取る仕事を選ぶ。
これは以前辞めた大川から聞いた話である。
彼はプロを辞めたあと下元に誘われ金融の仕事をしたが、詐欺紛いの内容に疲弊したようだ。
大川が辞めた原因は命令で客へ追い込み掛けている時、目の前で手首を自ら切られ、地獄のような出来事の連続で精神的に参ったらしい。
後日ニュースでも取り上げられたが、テレビに映る形で下元は警察に捕まっている。
俺がワールドワンへ入った当初からいた中田。
途中から来た俺を目の上のたんこぶ的な邪魔に思っている節があった。
ゲーム屋の基本は客が札を出したら素早く走って迅速にINをする事。
中田は所がいない日は必ずキャッシャーから離れず、奥の椅子に腰掛けてメモ帳に何か常に書いている。
俺は動けよと怒ったが、パソコンが少々できる中田は印刷物などを作っては店に持ってきた。
その変の器用さだけ番頭の佐々木さんに買われ、出勤しているのに座ったままの状況が許されている。
ある日所が中田へ「タバコを買ってきてくれ」と言う。
中田は赤井に金を渡し行かせようとすると「俺は中田、おまえに行ってくれと言ったんだ」そう言い半ば強引に買い物へ行かせた。
こういう強引なやり方の所を見た事がないので不思議に思っていると、中田が戻ってくる。
いきなり所は中田の胸倉を掴み、顔に頭突きをし出す。
「所さん! 客前ですよ。一旦落ち着きましょう」
とりあえず止めに入る。
あとで状況を聞くと、中田は毎日のように店の金を抜いていたらしい。
客は一日一度来店した際、始めに新規サービスが入る。
ワールドワンの場合、三千円分のクレジットがサービスで入るので、客が二千円出したとして新規サービス三千円、合計五千円分のクレジットが入る仕組みだ。
その際客には偽名でもいいので出金伝票に名前を書いてもらう。
中田の抜き行為はその新規サービスを狙ったもので、出金伝票に適当な名前を書き、架空の客が来た形にする。
つまり一枚書く毎に三千円の現金を盗める訳だ。
「今までどのくらい抜いたんだ?」
「お、覚えていません……」
また中田を殴る所。
今度は止めない。
少しして番頭の佐々木さんが中田を連れていき、階段を上がる際ゴンと派手な音がした。
こうして抜きがバレた中田はクビになったが、その後どういう風になったかまで消息は分からない。
ゲーム屋の従業員は本当に入れ替えが激しい。
左手首に数箇所の躊躇い傷のあった赤井は、気付けば店に来なくなった。
「アイツ、飛ぶとは思ったけど、やっぱり飛んだか」
所に飛ぶとは何か聞くと、仕事を無断で辞める事を指すようである。
お笑い芸人を兼業でしている中島も、いつの間にか飛んだ。
何か芸を見せてと頼むと、その場にしゃがみ込み「何をしてるの?」と聞くと「回転寿司を回す人」と寒い芸しか持っていないので、すべて諦め田舎に帰ったのだろう。
辞める時くらい最低限の礼節を済ませればいいものを……。
浅草ビューホテルの同僚であった小川誉志子とは何度か食事へ行くも、あまりにも俺がちゃんとした気持ちを口にしないのごもどかしかったのか、急に連絡がつかなくなった。
異性に情けない俺は、彼女からフラレたのだろうと悟る。
全日本プロレスにも行き、ヤクザの前でも自分の信念を押し通した。
それなのに女にはいまいち勇気を出せない俺。
人並みに性欲だってある。
俺はチャンプの久保田に風俗店へ連れてってもらう事にした。
コマ劇場の近くにある十一チャンネルという店へ案内される。
三十分六千円という料金システムで出勤している女の子の写真が壁に数名貼られ、この中から好みのタイプを選ぶらしい。
裕美と書かれたショートカットの子を指名し、金を払って待合室へ通される。
久保田は選ぶが現在プレイ中で時間が掛かると言われ、別の子を探すのに時間が掛かっていた。
今まで知らない女性の前で裸になる行為が恥ずかしく、これが初体験。
妙な味わった事のない緊張が全身を包む。
ソワソワしている中、スタッフから番号を呼ばれ部屋に案内された。
ドアを開けると写真と変わりないショートカットの裕美が立っている。
思わず可愛いと褒めるとキスをされた。
一緒にシャワーを浴び、ベッドへ横たわる。
一生懸命プレイする裕美。
しかし俺は時間になっても逝く事ができない。
何度か過去に女性経験あるが、俺は一度も逝った事がなかった。
鈴木美千代も駄目。
長澤久美子も駄目。
北海道のゆかりも駄目だったのだ。
それでいて自分でするマスターベーションだけは逝く事ができた。
普通にセックスをしているのに射精できない俺は、男としてどこか壊れているのだろう。
申し訳なさそうに平謝りの裕美に気にしないよう伝え、良かったらプライベートで食事へ誘う。
裕美は名刺に電話番号とメールアドレスを書いてくれ、俺は舞い上がって店をあとにした。
ワールドワンで新人が入る。
この日は千円札が少なく新人に一万円札を渡し、コンビニでジュースでも何でもいいから買って千円札を九枚もらってくるよう指示した。
三十分経っても帰ってこない。
「アイツ、飛んだな」と所は言った。
店内に私服を置いたまま、たった一万円の為に仕事を飛ぶ人間がいる事に驚愕する。
所の話ではそんな新人は過去何人もいたらしい。
その日の新人の日払い分で持っていかれた金を補填できるから問題ないそうだ。
ただ東京スポーツ紙などの三行求人広告をまた載せる費用が掛かるのと、新人が来るまでの間、俺らの休みが取れない。
浅草ビューホテル時代調子が良かった競馬をまた始めた。
この年のクラシック戦線はアドマイヤベガ、ナリタトップロード、テイエムオペラオーの三強と呼ばれ、俺はほとんどのレースを外す。
年末の有馬記念はグラスワンダーから当時四歳馬(この頃一歳上にJRAは表記していた)のテイエムオペラオーとナリタトップロードの馬連に十万円ずつ賭けた。
これはチャンプの原が、天皇賞秋とジャパンカップを連勝したスペシャルウィークは有馬記念だと連闘のし過ぎでガレてコケるだろうという予想を参考にしたものだ。
勝負は無情にもグラスワンダー、二着にクビ差でスペシャルウィーク、三着にテイエムオペラオーだった。
この頃からJRAはワイド馬券の発売を始める。
ワイドだったら当たっていたのに……。
こうして俺はまた競馬へのめり込んでいく。
それからのレースのほとんどテイエムオペラオー、メイショウドトウのワンツーフィニッシュを嫌った俺は、稼ぎのほとんどを競馬で失った。
十一チャンネルの風俗嬢の裕美から連絡あり、新宿プリンスホテルのアリタリアへ連れて行く。
支配人鎌田さんのもてなしに裕美は驚き、食事のあとすんなりラブホテルへ入れた。
俺は相手の職業など気にせず裕美を口説く。
すると裕美には子供がいて別れた旦那に娘を親権で取られ、取り返す為に風俗を仕事に選んだと自身の生い立ちを話してくれた。
何か自分に協力できないかと真剣に伝えると、裕美は娘の為にこの仕事を始め、今はそれしか考えられないと謝られる。
「あなたは優しい人なんだから、私のような人間でなく、ちゃんとした人を彼女を作って幸せになって」と言われ、俺はフラレた。
早番の新人で山下哲也という目の細いチビが入ってくる。
落ち着きのない奴で仕事が終わると毎日他のゲーム屋へ行き、日払いを使い果たし、常に金に困る生活をしていた。
同時期に小さな体格の大倉圭吾という四国から出てきた大人しい人間が入ると、山下とコンビでも組んでいるのかと思うほど仲がいい。
ここ数ヶ月の遅番固定メンバーは所、俺に吉田の紹介で入った島村、同じ年の小山、中里で固定されていた。
ゲーム屋は、基本的に遅番の時間帯が忙しい。
遅番で欠員が出ると、早番である程度使えるようになった従業員を夜に上げ、新人は早番に入れるようにしている。
現在の早番は小さいのが多いので、チビっ子ギャングと仇名し笑いを誘っていた。
この時代、まだ非常に珍しかったパソコンを巧みに使いこなす中里。
俺は彼のスキルを素直に絶賛したが、元々漫画家かパソコン会社に就職する事を目標に働いていた。
漫画も目が出ず、パソコン会社もコネが無いので就職が決まらない。
半年ほど経ち、諦めて田舎へ帰ると行ってきた。
俺の先輩である坊主さんの会社『プロハウス』は当たり商品をヒットさせ、かなり上り調子だと聞いている。
そこで俺は坊主さんに中里が入れるよう紹介した。
「智の紹介だから面倒見るけど、ちょっと彼はうちの会社で働くには勉強が足りてないね」
そう坊主さんは言い、自信あって業界に入れたのに壁の厚さで中里は辞めて田舎へ戻ったようだ。
中里の代わりに鈴木裕二という線の細い色男が入ってきた。
彼は不動産の宅地建物取引士、略して宅建の免許を取る目的で金を稼ぎに来ている堅物。
基本的に十時間勤務なのでどうしても一人は残業二時間する形になるが、鈴木は少しでも金を稼ぐ為率先して残った。
小山はトボけた顔をしているが、元ホストだと言う。
格好良さはないが、とても温和で物腰も柔らかい。
彼との会話は何故か心地よく感じた。
確かにこれならホストでも通用するのだろうなと変な納得をする。
こんな形で数年過ぎ、俺は二十七歳になっていた。
闇 11(総合格闘技現役復帰編)

2024/08/02 fry
2025/07/18 fry
2025/08/18 mon
前回の章
地元川越のスナック五次元。
俺はマナー良く飲んでいるつもりであるが、過去に二回だけ怒った事があった。
一回目は浅草ビューホテル時代。
スナックだから特に指名制でもなくカウンター席でグレンリベット十二年を飲んでいると、いつも俺の席につく女がいた。
特別気に入った訳でもないが、邪険に扱う理由もないので他愛ない会話をする。
ある日女がいついつが誕生日だと言う。
何かプレゼントしようかと聞くと、ドン・ペリニヨンが欲しいと抜かす。
五次元ではドンペリなど扱ってもいない店。
たまたまホテルで白のドン・ペリニヨンのフェアをしていたので思い出して、彼女用にボトルを購入。
仕事帰りスナックへ寄り、その女に誕生日おめでとうと渡した。
すると女は「岩上の馬鹿! 赤じゃない」と俺の顔目掛けておしぼりを投げてくる。
俺は金を払っている客。
口説いてもない女にドン・ペリニヨンが欲しいというから誕生日にボトルをプレゼントしただけ。
客の顔面におしぼり投げるとは、あり得ない最低な行為。
烈火の如く怒った。
今後この女は俺に近付けるなと。
それだけで済ます俺も甘い。
決まってスナックのあとは、家の隣りにあるトンカツひろむへ行き、岡部さんや野原さんへ愚痴をこぼす。
二度目は別の女で俺が全日本プロレスにいたのを知った上で「この間の橋本真也と小川直也の試合。私は小川が勝って本当に良かった」と言ってきた。
ゲーム屋でいえばプロからワールドワンへ移った頃の話。
理由を聞くと「だって柔道は日本の心でしょ? プロレスはただの八百長じゃない。だから小川が勝って私は本当にスッキリした」と答える。
不機嫌になっている俺のグラスに酒を注ぎながら「プロレスが八百長じゃないって私に証明してみなさいよ」と言われ「ふざけんな、このクソ女! 汚え手で俺の酒に触るな!」とボトルを奪う。
金払ってこんな気分悪くさせる店で飲む必要もない。
同級生の篠崎が五次元の隣の店で渡辺がチーママをやっていると情報を聞いたので、店を変える事にした。
いつまで経っても彼女ができない俺。
こうして異性のいる店で寂しさを紛らわせたかったのだ。
ワールドワンに新人の長野という細い目の男が入ってきた。
彼は非常にケチで、出勤すれば給料とは別に食事代千円がもらえるが、常におにぎり一つだけを袋にも入れず店に持ち帰ってくる。
「おまえ、盗んだりしてないよな?」と聞くと「袋が勿体無いので」と滑稽な愛想笑いをした。
コーヒーが好きな俺は、豆を買ってきてミル機で煎って飲んでいる。
一服している時長野がマジマジと俺を眺めていた。
「そういう喫茶店みたいなコーヒーって美味しいんですか?」
意味不明な事を聞くので理由を尋ねると、缶コーヒーなら百円で飲めるので勿体無いから喫茶店に入った事がないらしい。
彼にも煎ったコーヒーを飲ませるととても美味しいですと喜ぶ。
「程度に豆は買ってきているから、一服時勝手に飲んでいいよ」と伝える。
ある日俺の豆がゴッソリ無くなっていた。
しかもブルーマウンテンの豆は全部無い。
原因は長野で美味しいから家に持ち帰り飲んでいると抜かす。
俺は長野の頭を引っ叩いた。
この頃総合格闘技という新たなジャンルが発祥し、PRIDEという大会で高田延彦がヒクソン・グレイシーに二戦連続完敗。
レスラーは強くないという変な風潮が世の中で出だし、全日本プロレスとは関係無くなった俺は複雑で面白くない心境だった。
系列店のアリーナの責任者佐藤から、仕事終わったら来て欲しいと連絡があった。
何でも新人でプロレスファンがいて、どうしても俺と会ってみたいらしい。
アリーナへ行くと、天然パーマのメガネを掛けたデブの黒岩が嬉しそうに握手して下さいと求めてくる。
悪い気はしない。
「アキレス腱固めって痛いんですか?」とオドオドしながら聞いてくる黒岩。
「完全に極めないけど形だけ掛けてあげようか?」と言うと興奮してお願いしますと喜んでいる。
客は一名もいない暇な店。
俺が関節技を掛けると短い手足をバタバタさせて苦しむ。
その様子がツボにハマり、俺は毎日のようにアリーナへ顔を出し、その度何かしらの技を掛けて遊んだ。
ある日番頭の佐々木さんから呼出され「岩上君、違う店の従業員まで苛めに行っちゃ駄目だよ」と怒られる。
黒岩がチクったのだ。
仕事帰りイライラしながら西武新宿駅へ向かうと、バイクがクラクションを鳴らしてきた。
何だと睨みつけるとバイクの男はヘルメットを取る。
黒岩の顔が出てきた瞬間、俺は飛び蹴りを喰らわしバイクごと倒す。
「テメー、何佐々木さんにチクってんだよ、このガキ。おめーが最初に技を掛けて欲しいって言ってきたんだろうが」
倒れる黒岩を足蹴にしていると、道路で渋滞している車からクラクションが鳴る。
さすがに迷惑なので俺は道端に黒岩を連れていき怒鳴りつけた。
「どうしたら許してもらえるでしょうか?」と言うので「今からアルタ行って、笑っていいとも!の年齢不詳コンテストに出てこい」と言うと、彼は本当にテレビに出て驚いた。
五人の内三人は役者を使ったヤラセらしい。
黒岩ともう一人はそのまま自然に振る舞ってもらっていいとプロデューサーから言われたようだ。
五次元の隣りのスナックへ行く。
「久しぶりだねー、岩上」
同級生の渡辺優姫がすぐに気付いた。
店内は忙しく別の女をつけられる。
その女は俺の事をとてもタイプと言い、しつこくデートに誘われた。
見た目は綺麗な感じ。
なのに生理的に嫌悪感を覚える。
彼女がいる訳でないのに何故そう感じるのか自分でも不思議だった。
チーママの渡辺からも「こんだけ言っているんだから一回くらい時間作ってあげなさいよ」とうるさい。
一度抱く程度ならいいかとデートをした。
実際に会ってみて自覚した事。
金払って酒を飲んでいてもイライラするのだから、プライベートならもっと苛立つという事だった。
早くこの場を去りたいとまで思うほどだ。
少し話し何故嫌悪感を覚えるのか理解できた。
彼女はバツ三で子供も三人いたが、すべて父親が違うらしい。
男にだらしない性格。
失敗をまるで教訓として活かしていない。
自分の母親に対する嫌悪感に似たものを本能的に感じ取っていたのだ。
俺は金をテーブルの上に置き、そのまま女をバーに置き去りしたまま帰った。
同じ年の従業員小山。
彼は色男でもないのに妙に女を作るのが上手かった。
元ホストだからなのか。
仕事帰りよく食事にも連れて行ったが、一度彼女も連れてきた。
「コイツ、十一チャンネルで働いているんですよ」
自分の彼女が風俗嬢という事をまったく悪びれずに飄々と話す。
前に聞いた話だとシャブ中毒で抜けさせるのを苦労したと聞いたが、彼女の緑ちゃんはそんな事を感じさせないほどいつも笑顔で明るい子だ。
風俗繋がりでフラれた裕美を思い出す。
彼女の幼馴染が上京してくるので可愛い子だから紹介すると言われる。
期待して会うと本当に可愛い子だったが、どうやら俺はタイプでないようですぐフラれた。
ワールドワンは常に忙しい。
十四席がほぼ二十四時間満席状態の賑わいである。
出勤時一時間の食事休憩は回すようにしていたが、本当に多忙な時はみんなに我慢してもらう。
その代わり自腹で全員の弁当を買ってご馳走した。
俺は小銭入れにいつも五、六千円の細かい金を入れている。
長野にみんなの分をこれで弁当買ってきてと頼む。
デザートも食べたかったら勝手に買っていいと伝えると、セントラル通りにあるコンビニのポプラへ買いに行った長野から電話が入った。
「お金が足りません」
そんな訳ないだろうと言うも、長野は金が足りないしか言わない。
仕方なく買えるだけ買って戻ってくるよう命令した。
絶対足らないなんて事はないはずなのに……。
戻ってきて中身を見て、俺は思わず長野の頭を叩く。
自分用に五千円のユンケルを買っていたのだ。
セコいくせに人の金だと高いものを平気で頼む長野。
俺はいつも良識の範囲という事について説教した。
千九百九十九年一月三十一日、日曜日先勝。

みんなが格闘技に走るので、私プロレスを独占させていただきます。
そう謳っていたジャイアント馬場社長が、入院したという情報は聞いていた。
誰もが知っているプロレス界の重鎮。
スナックで飲んだあと、チーママの渡辺と一緒に家の隣のトンカツひろむへ行った時だった。
うちらの五つ年上の先輩である岡部さんに向かって「お兄さん、おかわり。それと刺身ちょうだい」と気安くタメ口で話す渡辺に俺は注意する。
「私はね、この店に客で来ているの。中学の先輩かもしれないけど、客という立場のほうが上でしょ」と偉ぶるので「ここの支払いは俺が払う。だからおまえは客と偉そうにするべきではない。俺が先輩に対し敬語を使っているんだから、少しはおまえも気を使え」と怒った。
「岩上あんたねー、女に中出しした事ないでしょ?」
意味不明な台詞を抜かす渡辺。
先輩に対する口の利き方と、女へ中出しする共通点の主張。
まるで意味が分からない。
「意味不明な事抜かして誤魔化すな! 俺は岡部さんに対する口の利き方を気を付けろって言ってんだよ!」
「ふん…、これだから中出しのした事がない男は……」
会話にならない状況の中、岡部さんが口を挟んできた。
「智一郎! 馬場死んだぞ!」
最初何を言っているのか理解できなかった。
ジャイアント馬場社長は永眠。
正直俺はあの人に対して世話になっていない。
俺が感謝を覚えているのはジャンボ鶴田師匠であり、三沢光晴さんだ。
それでもこんな俺をあの時迎え入れてくれたのは、ジャイアント馬場社長。
そして敬愛するジャンボ鶴田師匠と三沢光晴さんを一から育てたのも社長なのだ……。
俺はその場で突っ伏して大泣きする。
渡辺結姫はそんな俺を見て「何で岩上が馬場死んで泣くのよ?」と不思議そうにしていた。
何故涙が出たのか?
おそらくそれが分かってくれるのは岡部さんだけだろう。
どんなに悲しみを抱え込もうが、俺は翌日新宿へ向かう。
裏稼業の日常。
決められたシフトは守る。
本当にシンプルなルール。
宅建の免許を取ろう日々頑張っている鈴木。
彼は相変わらず残業を自分から申し出てしている。
同棲したいた彼女が鈴木には節制させているのに十二万もするホームベーカリーを買ったと愚痴をこぼしていた。
一つ年上の島村は身体つきがかなりいい。
何かやっているのか聞くと、ジムでウエイトトレーニングをしていると言う。
「岩上さんも全日本プロレス辞めたとは言え、身体がまだ化け物ですよ。このまま何もしないのは勿体無いですよ」と島村。
先日馬場社長が亡くなり、鶴田師匠、力道山の息子である百田さん、そして三沢さんのトロイカ体制になると報道された全日本。
無関係の立ち位置であるが、常に動向は気になっていた。
PRIDEなどの総合格闘技に出ると負けが多いプロレスラー。
トンカツひろむで飲んでいると、川越のバーのジャックポットの野原さんが「最近のレスラーは弱くなったなあ」と口走る。
俺はムキになって反論した。
向こうのルールに従って試合をしている事。
明らかにプロレスラーが不利な条件なのに出て試合を受けている事。
俺が何を言ったところで野原さんは認めてくれない。
「俺が総合出れば、簡単に勝てますよ!」
ここ数年トレーニングもしていないのにムキになっていた。
「おまえ、今は何もしてないだろ」
俺には打突がある。
歌舞伎町初期の頃、鳴戸にやらされた死闘を思い出す。
何でもありの試合なら、俺は強い。
「また始めますよ! 身体戻します」
変に焚き付けてしまったかと大人の野原さんは謝るが、変な火種が根底に燻り出した。
仕事をしながら帰るとトレーニング。
そんな習慣が始まる。
久しく鍛えていなかった身体。
ベンチプレスの回数を決めず、腕が上がらなくなるまでやり続けた。
しばらくして自身の細胞が歓喜の悲鳴を上げるのを感じる。
特に目的などない。
しかしこのまま仕事をして月日がただ流れるのが嫌だったのだ。
馬場社長が亡くなり、俺はプロレス界に何の恩義も返せていない。
鶴田師匠は内臓疾患からか第一線から身を引いている。
三沢さん、川田さん、小橋さん、田上さんが中心になり、四天王と呼ばれるようになった。
これは強かった外国人レスラーのスタンハンセン、テリーゴディ、スティーブウィリアムス、ダニースパイビーにそれぞれが勝利し、週間プロレスにこの言葉を使ったのが起因だと思う。
仕事を終え地元川越に戻る。
近所のTBB総合整体へ行き、身体をメンテナンスしてもらう。
施術後先生がお茶を出してくれ、世間話が始まる。
いつもの光景。
「岩上さんの筋肉は本当に質がいいですね」
褒め過ぎの先生。
俺が謙遜すると「だって岩上さんトレーニング始めて筋肉痛とかほとんどならないでしょ? これは持って生まれたセンスであって通常は柔らかく力を入れるとガチガチに固くなる筋肉が一番柔軟性もあっていいんですよ」と説明される。
確かに体重六十五キロから最大九十二キロまで身体を作った。
あの左肘の怪我以外、俺は丈夫なままだ。
「レスラーが不甲斐ないですからね…、俺があの手の試合出て強さ証明したいんですよね」
「岩上さん、左肘のところ…、骨は歪になっていますが治っていますよ」
「え、試合に出ても大丈夫なんですか?」
「これだけの身体と筋肉を装備しているんですよ。まあこんな肉体をもってしても、プロレスラーとしては小さいほうになってしまうんでしょうけど」
右拳を握り締め、親指を横へ突き出す。
いざとなれば俺には打突がある……。
総合格闘技に俺は挑戦できる。
そう自覚した瞬間、俺の中で何かが弾けた。
川越に帰ると家から五キロほどの場所にある伊佐沼まで走る。
トレーニングの中で走る事が一番嫌いだった。
でも遊びじゃない。
食事であえて一番嫌いな納豆を食べる必要性はないが、走り込みをする必要性はある。
向こうへ着くと筋トレとストレッチを丹念にやった。
空き地を利用してダッシュを織り交ぜた走り。
帰り道途中にある島忠で鉄アレイを買い、腕を振りながら帰る。
家に着く手前で腕が上がらなくなるほどの疲労。
部屋ではベンチプレス。
鉄アレイだけが無駄に溜まっていく。
神経がどんどん研ぎ澄まされる感覚。
しかし体重だけが食べているのに中々増えない。
過度なトレーニング量でカロリー消費のせいか、七十九キロまでは増える。
しかしそれ以上どれだけ食べても増えない。
八十キロの壁。
体重増加の問題だけが歯痒かった。
日に日に引き締まる俺の身体を見て、島村は本当に凄いと驚く。
小山はスカウトとしての顔を持っていたので「AV男優の仕事、紹介しますよ。いいギャラでいけますよ」と言うが、そんなものをする為にやって来たのではない。
鈴木は面白そうに筋肉を触っては「固えっ!」と喜んでいる。
所は「俺も大学の頃はボクシングをやっていたんだ」とまるで的外れな意見を言う。
俺より十歳年上なので夜の時間帯の仕事を働くのが辛そうだった。
長野は自分の事以外興味ない感じで負けて悔しがる客を見て、ほくそ笑むところがある。
内心小馬鹿にしているのだろう。
俺は何度か注意しても一向に直らない。
一度仕事帰りに他のゲーム屋へ連れて行く。
自分の日払いでやれと命令。
少しは負けた時の客の心境を分かってもらいたかったのだ。
一万千円があっという間に溶け、長野は頭を抱えて意気消沈している。
反対に俺は絶好調だった。
ポーカーの役を揃え、ダブルアップでずっと叩いていく。
二ペアなら二百、四百、八百、千六百、三千二百、六千四百と上がる。
叩いて当たり点数が一万を越えると画面が赤く点滅し、自動的にOUTされる。
これをゲーム屋では一気と呼ぶ。
何台の画面を一気しただろう。
俺はオリで五千円入れ、長野へあげた。
出れば全部自分の金にしていいと伝えるも、運気の無い長野はクレジットを事如く無くす。
結果俺は十万ほど勝ち、長野は日払い分負け。
コイツにオリの分を上げていなければ、十五万くらいの勝ち。
泣きそうな顔をしていたので「飯でも食いな」と五千円札を帰りに渡した。
その日の夜、長野は飛ぶ。
あのクソガキ、あれだけ良くしてやったのに……。
俺は彼の携帯電話に掛けても留守番になるので、怒りながら罵詈雑言を吹き込んだ。
飛んだ長野の代わりに安田という目の小さな幸の薄そうな男が新人で入る。
鈴木が見事宅建に受かり、本来の不動産業務へ戻る為辞めた。
代わりに石黒という蟹みたいな顔をした男。
二人共ゲーム屋を未経験なので、一から色々教えていかなければいけない。
店長の所はこのところ疲れが溜まっているようで、満席の状態でも奥にある休憩室で寝ている事が多い。
石黒はよく小声で所が邪魔でグラスの洗い物もできないと愚痴をこぼす。
島村も呆れた表情でブツブツ言っているほど、所の劣化は続く。
立場上店長を立てつつ、店の業務をこなし、尚且つ従業員同士のバランスを保つ。
俺もストレスが溜まりつつあった。
そんなある日、携帯電話に着信が入る。
画面を見ると浅野美嘉と表示されていた。
浅草ビューホテル時代の同僚である彼女は俺より先に退職し、海外へ旅に行っていたはず。
「お久しぶりです、岩上さん!」
「どうしたの、浅野ちゃん」
ちょうど数年に渡る旅から日本へ戻り、俺に連絡をくれたようだ。
「近い内お時間取れますか?」
俺が入院した時も一時間半以上掛けてお見舞いに来てくれ、花やしきのデートを寝過ごしてすっぽかしても四時間以上待ってくれた子だ。
特別な異性として意識していた。
その浅野からの誘いを俺が断るはずがない。
できる限り早めに仕事を休み、浅野との再会を心待ちに過ごす。
新人の安田はとても真面目な性格で、俺の指示通りテキパキ動く。
奥でタバコを吸っていると誰かの携帯電話が鳴る。
誰のか分からないが、光った画面には『けいこ』と表示が出ていた。
一本吸う内だけで着信は三回ほど鳴る。
石黒か安田のどちらかだろうと、ホールに出て伝えると安田の方の携帯電話だった。
夜の十時から朝までだけで二十回以上の着信。
安田は仕事中なので電話には出ないが、あまりの頻度に着信音を下げるか電源を切るよう言う。
「彼女、凄い心配性なんですよ」と彼は言うが、あの頻度で毎日掛かってくる電話は異常だ。
「愛されてるんですねー」と島村は笑っていた。
地元の本川越駅を降りてすぐのところにジャズバーを発見する
全日本プロレスを駄目になった大沢史博が暴れた因縁のある居酒屋つぼ八の跡地。
中へ入ってみると、カウンターメインのバーで奥にステージがあった。
バーテンダー時代自分で店をやってみたかったが、正に自分が理想とする店造りと雰囲気。
一発で気に入り通い出す。
店名はスイートキャデラック。
寡黙で口髭を生やしたマスターはとても凝り性で、早い時間行くと大きなザルに白い状態のコーヒー豆を乗せ、一粒ずつ選別している。
俺はグレンリベット十二年のボトルを入れストレートで嗜む。
チェイサー代わりにアイスコーヒーを注文すると、マスターは選別した豆を炒め、そこからミル機で煎る。
手間と時間を掛けたアイスコーヒーは濃厚で最高の味だった。
これで一杯六百円しか取らないのだから、非常に良心的な店である。
浅野美嘉との約束の日がやってくる。
結局気持ちを伝えないまま彼女はビューホテルを辞め海外へ行ってしまった。
でもまた連絡来てこれから会うのだ。
あの頃の続きを夢見てもいいよな。
数年ぶりの再会。
浅野は日焼けで褐色の肌になっており逞しくなったように見える。
それでも大きな目、端正な顔立ちは昔と変わらない。
彼女はインドやタイ、エジプトなど様々な国を周り、色々なものを見てきたようだ。
現地で買った色々な物のお土産をくれた。
向こうではサイババという占い師が神格化されているようで、人気のあるお守りもくれる。
海外に一度も行った事がないので彼女の話す内容はほとんど分からない。
だけど浅野と共有する時間はとても楽しかった。
俺は唯一顔が利く、新宿プリンスホテル地下一階のイタリアンレストラン、アリタリアへ連れて行きご馳走を振る舞う。
こうしてまた定期的に浅野とは会う事となった。
小山がノーパンしゃぶしゃぶで働く女と仲良くなったも話してくる。
一時SMAPの中居やプロ野球ジャイアンツの松井などが行ったとニュースで話題になった店。
時間給九千円で雇われているというどうでもいい情報を明るく話す小山。
「凄い美人なんですけど、Мでこの間酒飲んだあとホテルで四つん這いにしてケツ叩いたら、あなたの奴隷ですって……」
「もういいから、ほら五卓さんINだよ」
あののんびりした顔の小山が緑ちゃんのような彼女もいて、他の女ともうまくやっている現実。
まあいいか、俺には浅野美嘉とまた会えるのだから。
人は人、自分は自分でしかないのだ。
俺は新宿歌舞伎町までいつも地元川越から西武新宿線を使い通う。
始発の本川越駅から終点の西武新宿駅までの距離。
端から端までの区間を乗っているが、特急列車のレッドアロー小江戸号というものがある。
電車賃とは別で片道四百十円。
急行で約一時間。
小江戸号だと四十分で到着する。
何故わざわざこの電車に乗るかというと、一車両だけ喫煙車両があったのだ。
その為俺は行き帰り常に小江戸号を利用した。
西武新宿駅のところの売店の横に崎陽軒がある。
そこでよくシウマイを買い、喫煙車両で酒を飲み、タバコを吸いながら帰るのが定番だった。
ある日小江戸号に乗って新宿へ向かっている途中、携帯電話にメールが届く。
『すみません。俺、彼女殺したかもしれません。 安田』
文面を見てギョッとしたが、すぐ安田へ電話を掛けた。
何回コールしても出ない。
何度しても連絡が取れないまま電車は新宿へ到着する。
当然店に安田が来なかった。
俺はメールで、『何があったか分からないけど、とりあえず連絡欲しい。 岩上』とだけ返した。
欠員が出たので店を回すのが苦しい。
番頭の佐々木さんへ連絡し、系列のアリーナから黒岩がヘルプで来てくれる。
途中食事休憩を一時間取らせ、出前でいいなら俺が奢ってやると伝えると黒岩は喜んで店屋物を取った。
クソ忙しい店内。
汗だくで島村、小山、石黒の面々はホールを駆けずり回る。
チラッと時計を見た。
黒岩入れてから一時間は過ぎているよな。
三十分しても出てこない。
俺は奥の休憩室へ行き、あと何分くらいで休憩が終わるのか尋ねた。
「うーん、あと五分くらいですかねー」
その瞬間頭を叩き「とっくに過ぎてんだよ、ボケ! 他のスタッフの休憩が回せないだろ!」と怒鳴った。
多忙な中、日々のトレーニングは続けていた。
研ぎ澄まされていく肉体。
体重だけが上がらない。
総合格闘技PRIDEはブームにもなり、良い時間枠でテレビ中継までやっている。
深夜放送枠のままのプロレス。
世間の人気は一目瞭然の状態だった。
身体を鍛えたところで俺に何ができる?
常に自問自答する。
ピンと真横へ伸ばした右の親指。
俺にはこの打突が……。
総合格闘技は真剣勝負でプロレスは八百長。
世間ではそんな風潮が多くなった。
真剣勝負?
プロレスは相手の攻撃を避けず、やり合っているだけだ。
非常に歯痒い。
真剣勝負というならプロレス界最底辺のみそっかすである俺が行く。
成果を出した時初めてリングの上で言ってやるのだ。
「俺がジャンボ鶴田師匠の最後の不肖の弟子だ」と……。
そう心に堅く誓う。
数日後あれだけ連絡がつかなかった安田が突然ワールドワンに顔を出した。
事情を聞くと、彼女と口論中出勤時間になり行こうとしたら目の前に立ち邪魔をされる。
何を言っても効かない彼女。
強引に部屋を出ようとすると、服にしがみついてきた。
髪の毛を掴み、床へ投げつけると頭を打ち、両手で頭を抱えたまま大声で騒ぎ出す。
気がつけば安田は彼女の首を絞めていて、気が付くとグッタリなっていたのが、あの時送ったメールらしい。
結局グッタリしただけで済み、後遺症も問題無かったようだ。
「それであの…、またここで働かせて欲しいのですが……」
五日ほど仕事を無断欠勤し、こちらはその間何度も連絡するも返事は無し。
「安田、悪いけど店はどんな状況でも動いているんだよ。俺はあの時何回も連絡したろ? もう求人出したしこの間面接も終えた。悪いけど戻るのは無理だ」
項垂れて帰る安田。
可哀想だが仕方がない。
自業自得なのである。
浅野美嘉とのデート。
もうこれで何回目になるだろう。
恋人のように会い、楽しく食事をする。
しかしそれ以上の関係にはなっていない。
俺から何の気持ちを伝えず、普通に会い普通に会話をしているだけ。
今回もプリンスホテルのアリタリアへ来ていた。
「岩上さん…、今日何の日だか分かりますか?」
ビューホテルで初めて会った日?
いや、違うよな……。
いくら考えても分からなかった。
「実は今日…、私の誕生日なんです……」
恥ずかしそうに小声で言う浅野。
「え、早く言ってよ! 事前にプレゼントだって用意したのに」
「いえ…、それを会う前に言うと岩上さんなら絶対にそうして…、いつも美味しいものをご馳走になったいるのに、また余計なお金を使わせちゃうので……」
素直にその言葉に対し感動した。
帰り道の別れ際、俺はそっと宝物を扱うように優しく抱擁してから別れる。
少しは距離が縮んだ気がした。
一週間ほど経って妙にやつれた表情の安田が店に顔を出した。
「岩上さん、何も言わず十万貸してもらえませんか?」
状況をとりあえず聞く。
俺は部下に店を任せ、目の前にある焼肉屋ドンドンへ入る。
何故か早番の責任者の吉田まで呼んでもないのに一緒に来た。
他の一円ゲーム屋で働いたが、ワールドワンほど面倒見が良くない。
不満で店を辞め、生活に窮しているようだ。
できればここへ戻りたいと安田は言う。
求人で新人は入り、早番へ送った代わりに川端が遅番に来た。
金を彼に貸したところで戻ってくる保証も何も無い。
安田に対し隣で吉田が偉そうに説教をしていたが、不器用な性格なだけなのだ。
俺は焼肉代をご馳走し、帰りに「これは返さないでいいぞ」と一万円札を握らせる。
吉田はちゃっかり「ご馳走様です」と一円も出さず、安田は俺の姿が消えるまで深々とお辞儀をしたままだった。
二千年五月十三日、土曜日先勝。
ジャンボ鶴田師匠が亡くなった。

マニラで手術失敗出血死と報道される。
呆然となるしかなかった。
新聞を買い「嘘をつくんじゃねえよ!」と一人で怒声を出す。
クシャクシャになった新聞を広げ、何度も見出しを読んだ。

嘘のニュースだよな?
信じたくなかった。
小江戸号に乗って新宿へ向かう。
俺、これから少しは恩返しできるかもって……。
電車の中で大泣きした。
ワールドワンに着く。
目が真っ赤だった俺に、店長の所が「大丈夫なのか?」と心配そうに聞く。
その日だけは仕事をするのが無理だった。
コールをしようとすると涙声になってしまい、客がその度不思議そうに俺の顔を見た。
「岩上! 分かった、今日はもういい。帰って休め」
「今日と明日だけ…、申し訳ないですけど休んでもいいですか……」
みんなゆっくり休んでくれと誰一人嫌な顔をせず送り出してくれる。
当時知り合ったばかりの小野圭子が横浜にいたので、何故か川越に帰らずそのまま横浜へ行った。
とにかく泣いた。
一晩経って少しだけ落ち着く。
横浜は道路沿いに大きな観覧車があるのかと驚いた。
川越へ戻る。
テレビでは鶴田師匠の追悼番組が放送されていた。
恩返しするんだろ?
俺は外へ飛び出し全力で走った。
我武者羅に身体を動かし、限界まで体力を使い果たす。
大きな木に向かい、素手で何発も打撃を打ち込んだ。
拳の皮は擦り剥け血だらけになっていた。
鶴田師匠は本当に凄かったんだ。
俺がそれを証明してやる。
この日体重計に乗ると、あれだけ八十キロの壁を越えられなかったが八十二キロを指していた。
師匠が俺のケツを叩いてくれたのか。
より一層トレーニングに明け暮れた。
浅野美嘉から連絡があり、食事をしていた時に、また戦うという決意表明をする。
応援してくれるものだと思っていた。
「怪我したらどうするんですか? いつまでも若くないんですよ」
彼女からすれば俺の身体を心配したつもりでの台詞。
鶴田師匠が亡くなり、俺は前に進むしか考えられず余裕など微塵もなかった。
「俺は強いんだよ! ここまで鍛えてきた。あとは総合格闘家の連中をぶっちめるだけなんだ!」
いくら力説しても彼女には伝わらない。
「何か今日の岩上さん怖いです……」
「俺は君が好きなんだよ!」
勢いに任せて長年の想いを告げた。
抱き寄せようとすると、浅野は顔を背ける。
「何で分かってくれないんだ!」
本当に強引過ぎた。
だがこの時は焦りから何の余裕もなかった俺。
この日より浅野美嘉からの連絡は一切無くなった。
俺はまたフラレた訳である。
最も敬愛した師と、想いを寄せた子、二人の消失は俺の心を粉々にした。
言いようのない喪失感に包まれ、俺は狂ったように風俗、飲み屋へ行き、惰性で数え切れないくらいの女を抱く。
携帯電話が進化して、インターネットというものができるようになった。
出会い系サイトというものへアクセスし、顔も名も知らない女を会っては抱いた。
九州まで行って抱き、面倒で怖い目に遭った事もある。
中にはこんな俺に夢中になる女もいた訳だ。
しかしワザと冷たい態度を見せ、たくさんの異性を傷つけた。
日々イライラしている。
仕事ではその苛立ちをできるだけ出さぬよう我慢した。
ある日島村が雑誌を持ってくる。
格闘技通信という本。
「岩上さん、元U系の山本や安生がマウント状態で素手で殴ってもいいルールでトーナメント開催しますよ」
詳しく内容を見てみる。
出場者募集中。
うん、総合格闘技の初陣はここでいい。
早速電話を掛けた。
格闘技経歴はと聞かれ、全日本プロレスの名前を出す訳にもいかず、喧嘩百段と答えたら切られる。
再度かけ直し「本当に今は関係ない。だけど全日本プロレスにいた者だ」と伝えると少し待たされ、奥で何やら話し合っているようだ。
全日本プロレスの名前を公言しない。
その約束をした上で、俺の出場が決まる。
ただベースとなる格闘技を掲載するよう言われたので、お袋がまだ家に強制的に通わされた八つの習い事の一つである合気道にした。
地元のTBB総合整体の先生に報告すると、両手放しで喜んでくれる。
丹念に俺の身体をメンテナンスしてくれた。
家の隣のトンカツひろむへ行く。
先輩の岡部さん、客でジャックポットの野原さんもいたので同じく報告すると「怪我するからやめろ」と止めてくる。
「俺は強いんすよ! 証明してきますから」
もう誰にもこの勢いを止められなかった。
クリンチ状態まで持ってけば、俺には打突がある。
セカンドを最低一人つけなければいけないと説明された。
一人しか思いつかない。
俺は先輩の坊主さんに連絡を入れる。
「智…、俺は何もできないよ……」
「一緒にいてくれるだけでいいんてす。俺、強いすから」
誰の前でも誇張し強がりを言う。
そうする事で背水の陣を引きたかったのだ。
店の系列の番頭である佐々木さんにも報告。
「怪我して仕事できなくなったらどうするの?」
俺よりも身長が大きく元ヤクザ者の佐々木さんは、手首足首まで入れ墨が入っている。
「男は角刈りかパンチや」と口癖のように言う佐々木さんは、誰がどう見てもコテコテのヤクザにしか見えない。
より立場が上の片桐。
いつも野球帽を被って偉そうにしいる。
「おい、岩上! うちの系列で頑張っていたらPRIDE出してやるからな!」
言い方は悪いが、たかが裏稼業の人間がテレビ局も噛んでいるあんな大手にツテがあるとは思えなかった。
当時話半分で聞いていたが、俺が今回総合格闘技に復帰する旨を報告すると「いやー、若いっていいなー」とだけで、やはり何のツテすら持っていない。
別に今さら何かしてもらおうなんて思いもなかった。
俺は自分の力で進むだけ。
ワールドワンは日本人以外の客をすべて断っていた。
昔からタチが悪いと言われるのは中国人や韓国人。
プロ時代店に来ていた客の一人が、ゲームにハマった中国人の一人から「この台食いしん坊。お金返して」と無茶を言うので断ると、それだけでアイスピックを使い胸を刺されたらしい。
シャツをめくり、穴の空いた皮膚を見せられた事もある。
いつも来る度追い返す中国人がいた。
髪の毛は薄くメガネを掛けモサッとした感じの彼は、「これは人種差別です。私は中国の新聞記者で帰ったらこの事を新聞に書きます」
何度もこの言葉を使う。
「勝手に書けよ。もう来ちゃ駄目だよ」
いつもそう追い返すだけだった。
俺が食事休憩から店に戻ると、島村が困った顔で近寄って来る。
「岩上さん、川端が間違って入れてしまったんですけど……」
十四卓の台に一人の中国人が座っていた。
何度言いに行くもゲームをやめる様子がない。
「いいよ、俺が行ってくる」
「岩上さん気を付けて下さい。アイツ、確か蛇頭の一味ですよ」
蛇頭ってチャイニーズマフィアだったよな。
気にせず席へ向かう。
「お客さん! 申し訳ないけど、当店は日本人しか入れないお店なんですよ」
俺の声を無視したまま、ゲームを続ける中国人。
何度声を掛けても無視をするので、俺はOUTボタンを押し強制的にクレジットを0にした。
クレジット分のお金を渡し「これ持ってお帰り下さい」と伝えると、もの凄い形相で睨みを利かせ凄んできた。
「オマエ、歌舞伎町何年いる?」
「そんなの関係ないですよね? 日本人だけの店なので帰って下さい」
中国人は黙ったまま入口へ向かうがその先にトイレがあり、そっちへ入る。
出てきてまた席に行こうとしたので、身体を張って行かせない。
「おしぼり」
言われるまま推しウォーマーから取り出して渡す。
するといきなり俺の顔面目掛けて投げてきた。
「おい! おまえ何をしてんだよ?」
手でキャッチしたものの、その行為に感情的になる。
中国人は早足で出口へ行き、急いで階段を上がった。
あとを追い掛けて肩を掴む。
「歌舞伎町何年いる?」
気付けば中国人らしき集団に囲まれていた。
十人はいる。
「オマエ歌舞伎町何年いる?」
仲間が来たからか男はイヤらしい笑みを浮かべ、何度も同じ言葉を言ってきた。
俺を囲む全員がニヤニヤしながら片手をポケットに入れる。
武器も持っているぞというジェスチャー。
正直怖かった。
この人数で襲われたら絶対に勝てない。
「オマエ歌舞伎町何年いる?」
例の男はまた同じ質問をしてくる。
総合格闘技の試合まであと一週間。
何で俺は強さを目指してきた?
ここでへこたれたら、今までの事がすべて意味無くなる。
「そうっすよね、師匠……」
俺はそう呟いてから揉めた男だけ見て言った。
「やるならやれよ! ただな…、おまえの顔面だけは俺の拳で絶対に砕いてやる」
この男一人やれるなら、あとはどうなってもいい。
捨て身の覚悟。
これからプロレス界を少しはマシな方向へ持っていくんだろ?
それなら絶対に引くな。
引くくらいなら潔く死ね。
鶴田師匠に恥をかかせられない。
これまでの情念を目に込め、拳を握り近づく。
気付けば集団は男の命令で目の前から去っていく。
姿が見えなくなると、俺は一番街通りの道路で力無く座り込む。
これが腰が砕けるというやつか……。
島村が心配で駆け寄ってくるまで、俺は起き上がれなかった。
生きてる……。
店の階段を降りる時、全身に震えが走る。
武者震いというやつか。
俺はビビりながらも無事助かったのだ。
店に戻ると間違って中国人を入れてしまった川端が平謝りしてくる。
「次から気を付けてくれればいいよ」
落ち着きを取り戻せていたので笑顔で冷静に言えた。
短髪メガネを掛けた真面目な川端は、それでも申し訳なさそうに何度も頭を下げる。
鳴戸の一件以来の修羅場だった。
何かの一線を越えられた気がする。
二千年九月二十八日、木曜日先負。
明日はいよいよ復活の日。
コンディションは万全。
仕事も数日休みを取り、あとは寝て試合に備えるだけ。
早めに寝る事にする。
眠そうになった頃だった。
部屋のドアのノックが鳴る。
何だ、こんな夜中に?
ドアを開けると廊下には俺が幼少時代生理的に受け付けなかった女、加藤皐月が立っていた。
高校生の頃パートの緑さんら三人で家に押し掛けてきた人妻の一人。
一番我が強く傍若無人。
何度か親父を家の外でストーカーするように、車で待っていたのを見掛けた。
親父との仲は相変わらず良くない。
しかし親父が加藤を避けているのも風の噂で知っていた。
「何ですか? こんな夜中に人の家に……」
泣きべそをかきながら加藤はキンキン声で口を開く。
「あのね、あなたのお父さんが…、これから埼玉医大のあなたと同じ年の看護婦連れて、コイツと結婚するって…。私、捨てられちゃう。どうしよう……」
「いい加減にしろっ! 俺は明日試合なんだよ! 人様の家に深夜勝手に上がり込んで、ふざんけんじゃねえ!」
乱暴にドアを閉めた。
廊下越しに加藤のキンキン声が響く。
本当に親父がこんな時間帯に別の女を連れて来たようだ。
寝たいのにうるさ過ぎて寝れない。
加藤と女のやり取りが聞こえる。
自分の敵となる女に容赦のない罵声を浴びせていた。
相手も覚悟を持って家に来たはずなのに、加藤の前では一分もたず心が折れている。
「私…、もう…、帰ります……」
女の啜り泣く声。
「ええ、帰りなさい! 一人で帰れるでしょ!」
加藤のキンキン声。
三階から弟の徹也と貴彦が降りてきて、親父を責める騒ぎが始まる。
本当にうるせえな…、眠れないじゃないかよ……。
布団を頭から被っても騒々しい。
不意にドアが開く。
弟の徹也だった。
「兄貴っ! 兄貴からも親父に何か言ってやれよ!」
くだらない事に巻き込まれ、完全に目が覚めた。
俺は廊下に出ると親父を睨み付け「明日俺が試合あるのに、こんなクソ騒ぎしやがったな? 祭りが近いから今はまだ生かしといてやる…。終わったら殺してやるからな」と静かに言う。
「ちょっと智ちゃん、落ち着いて」
気持ち悪い加藤の猫撫で声。
「オメーもだよ! 勝手に家に上がってんじゃねえよ、ボケッ!」
乱暴に突き飛ばし、俺は家から出た。
二十九歳になってすぐ、しかも試合当日に何故俺はこんな理不尽な仕打ちを受け続けるのだろう?
怒りが治まらない。
明日試合なんだぞ?
俺は隣のトンカツひろむへ入る。
表情を見て、ひろむのおばさんが「何かあったの?」と声を掛けてきた。
簡単な状況を説明している内に、情けなくて俺は泣き崩れる。
岡部さんがグレンリベットを出してきた。
「いいから飲め! そんな心境じゃ試合もクソもないだろ」
俺は酒を飲み干し、そのままひろむで朝まで飲んだ。
途中野原さんも来ると「おまえの親父さんは相変わらずだなー」と笑いながら一緒に酒を付き合ってくれた。
二千年九月二十九日、金曜日仏滅。
試合会場は代々木体育館。
先輩の坊主さんをセコンドに会場入りする。
奥さんの裕子さんもまだ生まれて一歳の怜くんを抱っこしながら連れてきた。
昨夜の一件で徹夜のまま来た俺。
精神的にもコンディションも最悪。
坊主さんは「だから智は早くあの家出ろって言っているのに」と言う。
昔から家の状況をリアルに知る坊主さんは、環境が悪過ぎるから家から出て一人暮らししたほうがいいとよくアドバイスされていた。
親父の妹であるおばさんからの執拗な嫌がらせ。
女遊びのツケを家まで持ち込む親父。
だからこそおじいちゃんが心配だったのだ。
どちらにせよこの最悪なコンディションのまま、試合に臨まねばならない。
控室に通される。
十数名詰め込んだ中。
ワンナイトのトーナメントと謳っているのに、くじの抽選も何もせずに勝手にトーナメント表が張り出され、俺の名前も載っている。
「あ、あのー…、今日はよろしくお願いします」
オドオドしながら話し掛けてくる奴がいた。
どうやら俺の対戦相手らしい。
山本の主催するジムの門下生だけ別の控室。
俺らは対戦相手も一緒くた。
真剣勝負、何でもありなんて謳ってはいるが、本当に何でもありでこういう真似を平気でしてくるのか。
坊主さんは俺にアップするよう言ってくる。
どんな状況下であろうとも俺はやるしかないのだ。

試合が始まる。
シュート二位という触れ込みの小池はいきなりタックルをしてきた。
俺はステップバックし勢い止め、上から覆い被さる。
横腹に一発パンチを浴びせた。
相手の胴へ両腕を回し、パワーボムで持ち上げようにも必死で亀になる相手。
俺はジリジリ身体をずらし、ジャーマンスープレックスで投げてやろうと思ったが、足のフックがズレて瞬間宙に舞う。
またパワーボムを狙うも相手は亀の状態で必死にガードをしたいるだけ。
この状態なら上から肘か膝を落とせば終わる。
だがそれじゃつまらない。
俺は体勢を解き、相手を自由にした。
すぐさま掛かってくるので両脚を首に巻き付け、三角絞めを極める。
それも解き、立ち上がった。
一発くらい殴らせてやろう。
プロレスは相手にも見せ場を作らないといけない。
妙な余裕があった。
殴られ、これからという時にレフリーが間に入り相手の腕を上げる。
「何だ、そりゃ?」
ダウンもグラつきもしていない。
不可解な裁定に俺はマウスピースを取り叩きつける。
解説席には新日本プロレスの長州力とやって有名になった安生の姿が見えた。
「おまえ、掛かってこい! 食い足りねえんだよ」
こちらを見るだけで何も始まらない。
「けっ…、プロレスのほうが全然エグいじゃねえかよ!」
捨て台詞を言い残し、俺は坊主さんを連れ、リングを降りた。
控室までの通路を歩いていて、主催側のジム生たちがいたので「どけよ、オラッ!」と乱暴にどかす。
完全な不完全燃焼。
こんなつまらない事をする為に身体をまた鍛えてきたのか?
スーツに着替えていると視線を感じる。
先程乱暴にどかしたジム生らが入口を取り囲み睨んでいた。
左の小指から血が出ている。
見ると爪が半分剥がれ掛け、そこから出血していた。
俺は爪を噛むとそのまま噛み千切る。
荷物を振り回しながら「どけよ、オラッ!」と向かう。
俺を避けるジム生たち。
「今から格闘技やめろ、おまえら」
それだけ言い残し、会場をあとにした。
坊主さんからは「百パーセント勝ってた試合なのに」と惜しがられる。
裕子さんは息子の怜君が興奮して呼吸が一瞬止まったんだからと言ってきた。
この人たちのおかげで俺は温和に生かされている。
坊主さん夫婦は俺に食事をご馳走してくれ、他愛ない話をして別れ、川越に戻った。
俺と対戦した小池は、インターバル十五分程度でシードだった運営側の選手と試合し敗れ、結局そいつがトーナメントを優勝したようだ。
俺が当たっていればなあと、タラレバではあるが未練がましい事を考える。
翌週の格闘技通信では、トーナメントも載せていない。
全体的に撮った写真でも、俺は一切映っていなかった。
気持ち悪い業界だなという感想を抱き、また俺は自分の居場所新宿歌舞伎町へ戻る。
闇 12(44名を巻き込んだ爆破事件編)
2024/08/04 sun
2025/07/11 fry
2025/08/19 tue
前回の章

二千年六月十六日、金曜日先勝。
俺の総合格闘技の試合よりも数ヶ月前に、三沢光晴さんが全日本プロレスを退団。
新しい団体プロレスリング・ノアを立ち上げた。
これは俺が総合格闘技タイタンファイトへ出場する前の話。
この発表を聞いて、何故俺はプロレスでなく総合を選んでしまったのだろうと後悔する。
しかし証明すると決め、周りにも出る事を伝えていた俺に軌道修正はできなかった。
全日本には川田さんと淵さんのみ残り、あとのレスラーは全員三沢さんについて行くという異例の事態。
ここまでの選手大量離脱は前代未聞である。
日本プロレス史に於いて類を見ない現象だ。
少数精鋭となった全日本プロレスは、新日本プロレスとの対抗戦で活路を見出そうとしていた。
両団体の残されたエースである川田利明さんと佐々木健介の一騎打ちが組まれ、ジャンピング顔面ハイキックにより川田さんの勝利に終わる。
全日本プロレスに行った武藤敬司は「小結同士の戦い」と称した。
プロレスの垣根を超えた双璧といえば、三沢光晴さんと武藤敬司。
武藤の台詞に頷き賛同する人間も多かった。
馬鹿な俺はキャバクラやスナックで遊び惚け、最後に家のひろむへ行き岡部さんたちと面白おかしく過ごしていた時期。
いつだって俺の行動や考えは世の中と少しズレている。
ワールドワンで俺が休みの日に、強盗が来たらしい。
この時代のゲーム屋は入口に鍵を掛けず、誰でも自由に出入りができた。
店長の所がキャッシャーに座り金を数えていると、フルフェイスのヘルメットを被った男が突然入ってきていきなり目の前にチキチキの簡易カッターを突きつけられたようだ。
ちょうどテーブルにあった現金二十万を差し出し、相手は金を持って逃げた。
その話を聞き「チキチキカッターじゃ、切れても刺す事はできないんだから、そんなんで金出しちゃ駄目っすよ」と所に言う。
所は「おまえは目の前でナイフ出された事あるのか!」と涙目で睨む。
そんなものいくらでも機会はあった。
俺は過去切られた傷を数ヶ所見せ「俺がいたら金を渡してない」と言うと、所は会話を止め黙ったまま向きを変える。
この経緯辺りから、俺と所の仲は決定的に悪くなったようだ。

「岩上さん…、仕事終わったらちょっとお時間頂けますか?」
従業員の川端が仕事の、合間声を掛けてくる。
できれば静かな場所でとの希望だったので、新宿プリンスホテルのティーラウンジを使う。
「改まってどうしたよ?」
「桶川ストーカー殺人事件って知ってますか?」
知っているも何もあれだけ連日マスコミが大騒ぎした事件である。
この一件からストーカーという言葉が世の中に認知され、埼玉県警の不手際が際立った。
「俺、あの事件の全貌をすべて知っているんです」
冗談を言ってのかと思ったが川端の表情は真剣そのものである。
確か真面目な女子大生を風俗の店長がストーカーして従業員らに中傷ビラを巻き、桶川駅のところで刺殺された事件だったよな……。
簡単に俺の知っている内容を伝えると、川端は口を開く。
「その中傷ビラを巻いた従業員の一人が自分なんです……」
俺は彼の話をまず聞いてみる。
真面目な女子大生というよりも、被害者はその風俗で働き、店長とネンゴロの仲だったらしい。
スカウトを受け、店の金まで持ち出して他の店へ移る。
可愛さ余って憎さ百倍。
憎悪からあの事件に発展したようだ。
川端があの事件に関与?
ここ数ヶ月彼の勤務態度や性格を見ていると、とてもそんな風に思えない。
できれば今日この会話が嘘であってほしかった。
「自分、当時保険証なくて、あの店長の借りたまま事件になってさまい、まだ保険証持っているんです……」
「…という事はオマエも指名手配という事?」
「はい……」
「それを俺に言って、どうしたかったの?」
「実は黙っていようと思っていたんです…。ただ、色々良くしてもらって何かあった時では遅いので正直に話しました」
正直店の店長は所である、何故彼が休みのタイミングで俺に言ってくるんだと思った。
「仕事を辞めたいのか?」
「いえ、そんな事はないです。できれば続けたいとは思っています」
俺じゃまったく手に負えない話である。
しかし川端の気持ちも汲んでやりたい。
「分かった。今日俺は何も聞いていない。但し何かあって実際に捕まった時、うちで働いていたなんて名前出すなよ?」
「岩上さん、ありがとうございます!」
深々頭を下げる川端。
あの事件の全貌を聞いた。
新聞や雑誌は、刺し殺された女子大生をひたすら擁護するような記事ばかりだったが、川端の話は全然違った。
元々、逮捕された店長の店で働いていた女性は、店長とプライベートでできていた。
店長は彼女にメロメロになり、色々と金などを貢いだそうだ。
突然、彼女は店を辞めると言い出し、口論になったらしい。
散々、利用するだけ利用してポイッと捨てた女性に、店長の怒りは収まらなかった。
その怒りは、凄まじかったようだ。
店長は川端を含む従業員たちを脅し、いたずら電話をさせたり中傷ビラを撒かせたりと、随分無茶苦茶な行動をやらせた。
それでも怒りが収まらず、あのような結果に……。
人の命を奪うのは、一番いけない事である。
それは一番やっちゃいけない事。
でも、考えてほしい。
そこまで人の怒りを買うような真似をしたほうにも責任があるという事を……。
男尊女卑の時代から、時は流れ、女のほうが強くなったといわれるような世の中に変わりつつある。
男も女も少しモラルを無くし過ぎのような気がした。
これも携帯電話がインターネットを使えるようになり、便利になった分だけ人は思いやりを無くしていった結果だとしたら、それはとても悲しい事だ。
十年前は携帯電話など無く、あってもせいぜい自動車電話だけだった。
便利さが生んだ歪んだ末の事件とも言えるのではないか。
ストーカー……。
やられるほうにしてみれば、いい迷惑だろう。
でも、世間で騒いでいるほとんどが、本当にそうなのだろうか?
片方は純愛で付き合っているつもりなのに、相手はそこをうまく利用する。
そんな図式が壊れた時、純情な心が壊れた時……。
真面目な誰にでも好かれる女子大生が、あんな無残な殺され方をするのだろうか?
数ヵ所刺され、亡くなった女子大生。
周りの人間はさぞかし悲しんだろう。
でも、そうなる前に何故もっと早く彼女の異変を注意出来なかったのでだろう?
何かがあってからでは、もう遅いのだ。
埼玉県警の初動ミスという声が圧倒的に多い中、もちろんそれも原因ではあるけど、それだけではないような気がする。
もっと、みんなモラルを持つべきなのだ。
思いやりをそして優しさを。
最近この事について考える自分がいる。
もちろんその一件を聞いたからといって、俺の仕事に対する評価は変わらない。
いい意味でも悪い意味でも。
ある日、川端が遅刻をした。
真面目な勤務態度に反比例するかのように多かったのだ。
本当の理由は分かる。
だが、俺は聞いていないと彼に伝えたつもり。
度重なる遅刻の時は「やる気ないなら辞めろ」と突き放し、島村や小山が川端をフォローして初めて「やる気があるなら今から出てこい」と、あとでこっそりタクシー代は俺が自腹であげた。
地元の北海道へ里帰りした時、お土産で俺にまりもを持ってきてくれた事もあった。
仕事終了後、俺は金に余裕の無い川端や小山を連れて、コマ劇場にある『フライキッチン峰』へよく連れて行き驕った。
そんな川端の告白から一ヶ月後……。
彼は連絡もなく、突然、店に来なくなる。
最初はただの遅刻だと思っていたが、そのまま彼は来なかった。
俺はあえて連絡をしていない。
店のみんなにも連絡するのを止めさせた。
予想通り警察に捕まったのだろう。
何ともやるせない気持ちになった。
川端が抜けた穴を早番から山下が遅番に来て欠員を埋める。
「遅番はいいですよね。いつも早番から従業員持ってくから。こっちは1から初心者育てるようですよ」
早番の責任者である吉田の嫌味。
ここ数年一緒の店で働いて分かったのが、どうしょうもないグズだという点だ。
朝、出勤前にモーニングコールしてくれというからして起きているのに三日連続一時間以上の遅刻を平気でするような奴である。
もちろんその尻拭いはすべて俺が残りやっていた。
山下は遅番に来るなり吉田に対しての愚痴が凄かった。
まだ早番にいる三門や大倉も仕事帰り、食事や酒をタカられ不満が相当溜まっていると聞く。
「あの吉田の豚野郎、何がそんな酷いの? 遅刻常習犯でうんざりはしているけど」
「あの人、責任者のくせに、平気で下の人間からタカるんすよ!」
遅刻だけでなく金に対しても意地汚いのかよ。
俺は店長の所へ相談しようとした。
だが、来てもほとんど奥で寝て過ごす店長の所。
細かい内輪の問題が徐々に山積みになっているのを感じた。
島村が他の店で名義社長を頼まれ、ワールドワンを辞める事になる。
ゲーム屋なのか聞くと、新しい商売のインターネットカジノという店らしい。
「インターネットカジノ? どんな仕事なの?」
「いやー、自分もとりあえず名義社長をやってくれって話なだけで、内容まではよく分からないんですよねえ」
年も近く中々頼もしい存在だったので、彼が辞める事はとても残念に思う。
島村は有線で流れる洋楽について、俺が「この曲って何?」という質問にほとんど答えられるほど知識があった。
そしてほぼ毎日と言っていいくらいマクドナルドのポテトのLを二個と、柿の種を好んで食べる。
柿の種はせんべいしか食べないので「良かったら食べて下さい」とピーナツだけを渡してくる変人だ。
当たり前のようにいた人間がいなくなる現実。
寂しいが、それはしょうがない。
みんな金を稼ぐ為に裏稼業へ手を染めたのだから。
事前にいついつ辞めると伝えてくれた島村には、店の人員確保の準備もあるから非常に助かるし、飛ぶ人間が多い中彼の姿勢には共感を覚えた。
ゲーム屋は一日一度新規サービスが入る。
だから初回のプレイだけで辞めるのを禁止にしていた。
業界でケンチャンと呼ばれる客がいる。
これは新規プラス二、三千円の五千円勝負しかしない細かくセコい客を指す。
店的には新規サービス入れているから、勝ち負け関係無しに一万円くらいの勝負はして下さいねというのが本音である。
俺より十センチほど背は低いが妙に体格のいいケンチャン集団がいた。
「岩上さん、あいつら一応プロレスラーですよ」と島村は言う。
「え? あんなんでレスラーなの?」
「高木三四郎という名前でDDTというインディ団体なんですけどね」
「何それ? デンジャラスドライバー天龍の略の技じゃん」
「何でそんな団体名にしたんだか分かりませんけどね」
「だってあいつら本当にレスラー集団なの? 身体が細いのもいれば、俺より体格いい奴一人もいないじゃん」
「岩上さんは元メジャーの全日本じゃないですか。あんなインディ連中と比べちゃ駄目ですよ」
「あんな金も無いケンチャン集団が、レスラーだってリングに上がってんでしょ? 何かムカつくなー」
毎日四人五人の集団で来て、使っても五千円のみ。
役や一気を飛ばすと即辞めな連中ばかりなので、正直客としていらなかった。
ビンゴをたまたま取られでもしたら、ワールドワンの太客の打ち気を削がれる事になってしまう。
「ねえ、店長。あんな乞食集団入れないでよ。ちゃんとゲームしているこっちが阿呆らしくなるからさ」
「俺は別に店長じゃないですよ。でも、意見はちゃんと上申しておきますね」
常連からのクレームも増えてくる。
あまりにも目立つケンチャン行為の集団だったので、俺は見せしめに一人出入禁止にした。
二千一年九月一日、土曜日友引、二百十日。
相変わらず常に満席状態でクソ忙しいワールドワン。
「この店が歌舞伎町で一番忙しい店でしょ」
こんな風に言ってくる客も多い。
ホールで従業員がタバコを吸う訳にもいかないので、順番に一服休憩を回す。
この時が唯一ゆっくりできる時でもあった。
「あれ? 豆切れちゃってんじゃん…。島村君、小山君、すぐ戻るからコーヒー豆買ってきてもいい?」
「ええ、どうぞ」
自分が飲む用のコーヒー豆が切れたので、島村らに断りワールドワンを出る。
外へ出ると何やら一番街通りが騒がしい。
トンカツにいむらの向かいにあるビルがボヤ騒ぎを出したようで野次馬が凄かった。
尋常じゃない人だかり。
見物している場合じゃない。
すぐ戻って休憩を回さないと。
遠目から煙の出ているビルをちょっとだけ眺め、俺は靖国通りを渡って豆を買いに行く。
店も満席で忙しいままだろう。
すぐ買い物を済ませ一番街通りへ入ろうとすると、警察官がかなりいる。
「何だ、ありゃ?」
思わず出る声。
一番街通りの入口を有刺鉄線でバリケードを作っていた。
入口の封鎖。
通りには誰も入れないようだ。
「ちょっと…、中に入りたいんだけど」
警察官に言うと「立入禁止だ」と断られる。
物々しい雰囲気。
何か異常事態があったのだろう。
だがワールドワンは動いているのだ。
「ふざけんなよ! 中に店があって客が満席でいるんだ。いきなりこんなバリケードして入れないで、知らない客たちはどうなる? とりあえずいいから入れてくれ」
そう言うと、警察官は渋々バリケードの隙間を作り中へ入れてくれた。
俺のあとをついて、いかついヤクザ者も一緒入ろうとすると、警察に止められている。
「おいっ! 俺は◯◯組のなー……」
「はいはい、警察相手に組の名前出しても意味無いから」
ヤクザと警察が揉めているのを横目に歌舞伎町へ入った。
ガランとした歌舞伎町。
警察官、消防士、マスコミの姿しかいない。
記者らしき人がマイクを向けてきたので「勝手に撮るんじゃねえ! 俺の試合とかスルーしたくせにふざけんなっ!」とただの八つ当たりをしながら店へ向かう。
あれ?
さっき煙が出ていたビルの周り、消防車凄いな。
ひょっとしてあれが原因か?
いやいや、早く戻らないと。

確かお触りパブの『ルーズソックス』とか雀ピューターの『一休』の入ったビルだよな?
いやいや、早く戻らないと。
階段を駆け下りる。
店内は変わらず満席。
外の異様さなど誰一人気付いていない。
小山に「外、何か知らないけどバリケードで封鎖されてヤバいぞ」と言うと、キョトンとしていた。
とりあえずこのままではいずれ警察も事情聴取で店に来るだろう。
ゲーム屋は賭博法違反なので現行犯逮捕。
まずは客をすぐ出さないと……。
「今外がヤバい状態です! みなさん、外へ逃げて下さい!」
俺は大きな声で客に外へ出るよう促す。
店の太客である大倉さんは何があったのか聞いてくるので、手短に外の状況を説明した。
ケンチャンの細かい客は「僕のクレジット残っているんです。OUTすればいいんですか?」と緊急時にセコい事を言うので「クレジットはそのままにして、あとで何とかします。今外が警察も一杯います。迅速に店から出て下さい!」と客を早く出した。
一人だけ客が残っている。
面倒臭い阿部という客。
「いいから阿部さん、早く外出て下さい!」
「嫌だ! 外、警察一杯なんでしょ?」
大方シャブか何か悪いものを持っているのだろう。
だかこんなのを匿ってトバッチリでこっちまで被害が来るのは溜まったものではない。
台にしがみつき、立とうとしない阿部。
「阿部さん、とりあえず落ち着きましょう。無理に追い出したりしませんから」
俺の言葉に阿部は安心したのか台から手を離す。
その瞬間俺は身体を持ち上げ「早く足持てっ!」と強引に店の外へ投げ捨てた。

強引に客全員を出すと、従業員たちに出てすぐ右手にある喫茶店の上高地で私服を持っていき待機するよう伝える。
最後に残った俺は、各台のクレジットを紙に控え、店の現金、〆用紙など必要なものだけバックに入れてすぐ外へ出た。

上高地へ着いてから初めて番頭の佐々木さんに電話を入れる。
「一番街のビルで大火事みたいよ。店に警察とか来そうだから岩上君だけ店に残っててよ。他の従業員はみんな帰していいから」
「えー、嫌ですよ!」
「頼むよ。今日所君休みだし、二番手の岩上君しかいないからさ」
仕方なく嫌な役目を受け、みんなを帰す。
店に戻りゲーム機の電源、ホールの電気などすべて消した。
無音で暗い空間の中一人佇む。
携帯電話を見ると、着信履歴の数が凄かった。
何なのこの数は?
とりあえず始めに着信のあった地元の先輩である岡部さんへ連絡を入れる。
「おー、智一郎無事だったか!」
状況を聞くとテレビでは一番街通りの雑居ビルが大火事で歌舞伎町を封鎖している様子が放送されていたようだ。
俺はゲーム屋という仕事を隠し、会員制のバーで働いていると嘘をついていた。
知り合いが俺の店に来たいと言われても、会員制だから無理と常に断っている。
歌舞伎町という事で、みんな俺の安否を気に掛けてくれたのだ。
ドアには鍵も掛けていない。
しかし特に店へ警察やら消防が来る事はなかった。
朝まで待って、佐々木さんに連絡を入れて川越に戻る。
精神的に疲れたのか帰りの小江戸号では熟睡してしまい、本川越駅に着いて駅員に起こされた。
改札を出ようとした時携帯電話が鳴る。
見た事のない番号。
049から始まるので川越の人間だろう。
出て「もしもし?」と答えると、無言で切られる。
何だ、コイツ?
失礼な奴だな……。
頭に来たので俺からその番号に掛け直す。
二回コールが鳴り、相手が出た。
「に…、二階堂です……」
十年は会ってなくても声を聞いて一発で誰か分かる。
身体中の細胞がざわつく。
「何で俺の番号知ってるんですか……」
「新宿で火事あったって言うからね。電話したら出たから無事なのかと思っただけ」
俺は何も言わず携帯電話を耳に押し当てていたが、少しして電話は切れた。
幼少時代の悪夢が鮮明に蘇る。
相手は小学校二年生の冬、俺ら三兄弟を捨てて家を出て行ったお袋だったのだ。
勝手に捨てて好きなように生きながら、今さら俺の心配?
左瞼の上のこめかみの傷が疼く。
俺の根底にはドス黒い憎悪が蓄積している。
これはお袋だけではない。
親父の妹である叔母さんのピーちゃんとも、仲が悪いまま。
台所に立つと常に邪魔され、キャベツの葉一枚使っただけで泥棒扱い。
試合前日の夜中、女絡みで大騒ぎを起こした親父。
どれだけ女遊びをすれば気が済むのだ?
また試合当日徹夜で臨む羽目になったその張本人である加藤皐月。
俺の憎悪は様々な人間によって構築されていた。
全日本プロレス、浅草ビューホテル、歌舞伎町と日々忙しく過ごしていたから、ほとんど過去を思い出す事もなかっただけ。
「智、おまえ早くあの家から出なよ」
会う度言われた先輩の坊主さんの台詞が蘇る。
俺の為を思っての言葉。
だが何もできないけど、俺が家を出たらおじいちゃんがどうなる?
常にそんな想いがあった。
だからこそ川越からわざわざ新宿まで通っているのだ。
「何が二階堂ですだよ……」
俺はボソッと呟き家に向かった。
あんな大惨事があったのに、歌舞伎町はいつもの賑わい。
当然ワールドワンも翌日から普通に営業している。
新宿の住民たちの情報をまとめると、あの雑居ビルの大火災で四十四名が亡くなった。
三階の雀ピューター屋の一休。
ゲーム屋がポーカーゲームなのに対し、雀ピューター屋は麻雀のゲーム機を使う。
そこで火事になり、中の客は全滅。
一番街通りに面したところに簡単な調理ができる厨房があった。
従業員三名はそこから飛び降りて足を折ったようだ。
上の四階にはお触りパブで当時流行っていたスーパールーズ。
そこの客や女の子たちは一酸化炭素中毒で全員死亡。
男が椅子に腰掛けその上に女が乗って向き合う姿をラッコちゃんスタイルという呼び名があった。
あんな格好で死んだら、目も当てられないだろう……。
マスコミもこの四十四人亡くなった雑居ビル大火災を連日取り上げていた。
俺は三十歳になった。
島村が辞め、新人の二宮が入ってくる。
他のゲーム屋で経験あるらしく遅番採用となったのだ。
二宮は二十歳。
十歳も年下。
時代の流れを感じた。
店のシステムの説明をしていると、二宮は相槌に「なるほど」という言葉を乱発する。
聞いていてあまり気分がいい言葉ではないので、乱発して使わぬよう注意した。
彼は変な運気を持っていて、ワールドワンへ来る前あの大火災雑居ビルの一休の面接を受けていたようだ。
大火災の前、本能的に嫌なものを感じて結局一休には行かず、うちを選んだらしい。
あれから少し経ち、最近店に私服警察官が数名で来るようになった。
その度構える俺。
客のこの状態でどう逃がすかが頭によぎってしまう。
まず「別件だから安心しろ」と言われ、一枚の写真を見せられる。
こちらを振り向いている途中の後ろ姿の男が写っていた。
「この男、店に出入りは?」
「コイツ、何をやったんです?」
「例の雑居ビルの三階の店の入口に、爆弾を仕掛けた中国人だ」
え…、火事でなく爆破?
もちろんワールドワンは日本人以外の客は入れない
なので見た事も無いし、外国人は入れてない説明をした
凄かったのが今度はどこどこ署と別の所轄の生活安全課の刑事が多い時で一日三組ほど同じ事を聞き込み調査で来た事だ。
ある日いつものように例の中国人の写真を提示して同じ質問をする刑事が来た。
今までと違うのが、「随分流行っているお店ですね〜、何席あるんですか?」と聞きながら席数を数え、メモに取っている。
きな臭い何かを感じ、俺は佐々木さんに連絡を入れた。
「さっき来た刑事、何か雰囲気違いましたよ。気味悪いんで数日店を閉めたほうがいいんじゃないですか?」
佐々木さんが上のオーナーである中川や片桐に相談したところで、儲け優先らしくそのまま通常に営業するだけだった。
今までの警察と明らかに違った対応のあの刑事。
杞憂に過ぎなければいいが俺は雇われ、上の命令には従わなきゃならない。
二宮が突然休みを代えてほしいと俺に言ってきた。
理由を聞くと、その日急に知人の結婚式が入ったからと言う。
そんなたった一日でいきなり結婚式なんて入らないだろうと突っ込みたかったが、特に用事も無いので休みを代わる。
地元のジャズバー、スイートキャデラックでゆっくり過ごそうと思っていたが仕方ない。
本来なら休みなのを出勤。
この日もいつものように店内は忙しかった。
所に食事休憩をそろそろ回すか話している時、目つきの悪い三人組が入ってくる。
一人は見覚えがあった。
あの時違和感を覚えた刑事だ。
客はほぼ満席。
俺は客を外に出そうとすると、刑事がポケットから警察手帳出して「全員動くなっ!」と怒鳴る。
凍りつく店内。
「流行っていますね、何席あるんですか?」と下っ端のふりをしていた若い刑事が一番偉そうな態度だった。
残りの部下に客の連絡先などを聞きに行かせ、終わった客から随時外へ出される。
若い刑事は一人で怒鳴りながら奥の休憩室へ行き、従業員の吊るしてあった私服を床へ投げた。
カチカチに固まり、刑事の質問にどもりながら答える店長の所。
俺はあの時の聞き込み調査自体が茶番なのが分かり、妙に苛立っていた。
「お巡りさん!」
「お巡りさんじゃねえ! 刑事だ」
「じゃあ刑事さん、俺の服床に落ちて汚れっから拾っていいすかねー?」
あえて小馬鹿にした口調で言う。
「あ、ああ」
ムカついたので刑事を威嚇してやる。
今回は捕まえに来たというよりも、警告を入れに来ただけらしい。
刑事から名前と住所を聞かれたので、神威龍一、住所は所沢市と嘘を書く。
刑事たちが出ていくと、所はいきなり俺に怒鳴ってきた。
「岩上っ! 警察に向かってあんな威圧的な態度はやめろ!」
散々ビビっていたくせに、セーフティな状況になった途端これか……。
「はいはい……」
俺は小馬鹿にした声で返事をした。
ベテランだった島村が辞め、新人の二宮は休みを代わってから店を飛んだ。
俺、小山、山下、石黒と所が休みで四人で店を回す時なら問題ない。
誰か休み、所が出勤する時は基本奥で寝てしまうので地獄のような忙しさになる。
石黒が目に涙を溜めながら「岩上さん、所さんが寝ててグラス溜まってるからソーッと洗っていたら、水を飛ばすなって怒鳴られました」と言ってきた。
「寝てんのにそんな状態でグラスなんて洗わなくてもよかっただろ?」
「洗わないと溜まり過ぎてて、客に出すグラスのストックが無いんですよ!」
「そっか…、ごめんな。そうだよな……」
店長だから多少の楽ぐらいはしてもいいと思っていた。
年上だし敬った対応をしていたつもりだ。
しかし最近の所の業務姿勢は明らかに酷い。
俺はホールを従業員に任せ、奥の休憩室へ向かう。
寝ている所を起こし「所さん、いつまでぬるま湯に浸かってんですか?」と文句を言った。
睨んではきたが何も口を開かない。
「みんな休憩も入れず、ホールを駆けずり回りヘトヘトですよ。少しは店の事考えてくれても良くないですか?」
所は終始無言だった。
翌日になり早番の吉田が帰り際俺に声を掛けてくる。
「岩上さん…、さすがに所さんにぬるま湯発言はマズいですって。所さんにそんな事言うの岩上さんぐらいですよ」
確かに言い方は悪かった。
しかし所の最近の行動は酷い。
その数日後、所はワールドワンを辞める事になった。
先日の警察や強盗の一件、俺との関係の悪化、年齢的な問題もあったのかもしれない。
送別会をやったが、所が俺に対し話し掛けてくる事はなかった。
この系列に入ったのは俺が先ではあるが、ワールドワンオープン当初からいる吉田が店長になる。
俺はそのまま遅番の責任者へ繰り上がった。
闇 13(会った事も無い妹編)
2024/08/05 mon
2025/07/11 fry
2025/08/19 tue
休みの日はスナックで飲んだあと、隣りのトンカツひろむへ行くルーティン。
歌舞伎町の裏稼業であるゲーム屋で働く俺。
ひろむに来る客は、みんな俺が新宿で何の仕事をしているのかいつも聞いてくる。
「会員制のバーで働いているんですよ」
おじいちゃんの手前があるので、裏稼業と言えない自分が歯痒い。
「智一郎はアレだよ。ヤクザの用心棒をしてんだよ」
岡部さんが笑いながら口を挟んでくる。
なるほどと頷くひろむの客連中。
「そんな事した事ないですって!」
「ヤクザをボディーガードするぐらいなんだから、見ろよ、この身体」
悪ノリする岡部さん。
俺がいくら必死で言い訳したところで信じてくれない。
「新宿の智一郎の店、飲みに行っていいか?」
「いや、会員制なので無理なんですよ」
苦しい逃れ方をしつつ、嘘を嘘で塗り固めていく。
一度親父の弟である修叔父さんが「今、新宿にいるから智一郎、おまえの店どこだ?」と電話が掛かって来た事があった。
昼間だったのが幸いし、家で寝ていたところだったので川越にいると上手く誤魔化した。
この一件は今でも会う度、修叔父さんから「おまえは本当に冷てー奴だよな」と嫌味を言われる始末。
ヤクザの用心棒か……。
別にそんなものになるつもりじゃなく、純粋に身体を鍛え、自身の強さを総合格闘技のリングで証明したかっただけなのだ。
不完全燃焼、消化不良……。
そんな表現しか思いつかなかったあの時の総合格闘技復帰戦。
一年以上経った今でも、日課になっていたのでトレーニングだけは未だ続けていた。
伊佐沼の帰り道、島忠で鉄アレイを買うのでゴロゴロ余っている。
バックに五キロの鉄アレイ二つ入れ、新宿へ向かう。
従業員の誰かしら欲しがるかもしれない。
特急小江戸号で行くので、基本的に出勤時間より三十分くらい早めに着く
西武新宿駅前通りを渡ろうとすると、見覚えのある顔が通り過ぎる。
中田の野郎だ。
ワールドワンで店の金を抜いてクビになったクズ。
そんな事をしておいて、まだ歌舞伎町を堂々と歩いている姿に苛立ちを覚えた。
俺は中田の横にピッタリくっついて歩く。
気付かないはずがないほど接近しているのに、中田は知らんぷりをして前に進む。
「おいっ!」
俺が声を掛けてようやく止まる。
中田はパンチパーマを掛けスーツ姿。
「誰?」
俺の顔を覚えていないはずがないのに、あえて知らないふりをしている。
「岩上だよ。テメー俺の顔忘れたのかよ?」
「あーあ…、いたねー」
何を持って余裕持っているのか知らないが、中田は悪びれもせずスカしていた。
「おまえよ、よく金抜いてクビになってこの辺彷徨けんな?」
「今俺は◯◯組の事務所出入りさせてもらっ…、グハッ!」
俺は持っていたバックを中田の顔にぶつけていた。
大袈裟な奴だな…、あ、バックの中鉄アレイ二つ入れっ放しだったか。
蹲る中田の顔を下から蹴り上げる。
その上で番頭の佐々木さんに連絡を入れた。
「どうしたん、岩上君」
「佐々木さん! 中田の野郎が歌舞伎町を偉そうに歩いていたんで蹴飛ばしてやったところです。どうします? コイツどこか連れて行きましょうか?」
「いや、岩上君。店も構えているんだし、その辺にしといて。もうそれ以上やっちゃ駄目だよ」
「分かりました。俺はこれから店へ向かいますね」
電話を切ると倒れている中田の顔を踏みつけてから、一番街通りへ歩いていった。
新生ワールドワンの遅番は、責任者の俺、小山、山下、そこに新人の室屋と五十嵐が入ってくる。
病弱だった石黒は、体調不良から店を辞めた。
本当にゲーム屋の世界は人の入れ替えが激しい。
仕事の引き継ぎ時、吉田が声を掛けてくる。
「岩上さん、番頭の片桐さんの奥さんが入院したんですよ。それでみんなから金を集めて見舞いの品を送ろうかと」
コイツはそういった情報だけは、いつも耳が早い。
普段だらしないくせに、上の人間に対するゴマ擦りだけは天下一品。
どこでそんな情報を聞きつけてくるのか本当に不思議だ。
「じゃあ遅番からは一人千円ずつ集めときますよ」
「千円? 岩上さん何を言ってんですか? 早番は一人五千円ずつ徴収していますから」
ワールドワンは全部で十名。
五万円の見舞いの品を贈るつもりなのか?
「いや、あまり高価な物あげても逆に向こうが恐縮するでしょ」
「それならいいですよ。早番は早番で渡しますから」
本当に吉田のこういうところが大嫌いだった。
俺は仕方なく了解し、遅番の従業員たちには千円だけ出させ、残りは俺が負担してあげる。
面倒だから吉田には五千円出した体でいるよう言う。
これで俺は一万六千円分多く出している事になる。
本当に余計で無駄な出費だ。
本当にアイツの見栄から始まった。
いい加減にしてほしい。
系列のチャンプの従業員の林。
彼が店を辞めたようだ。
在籍期間は短かったとはいえ、仲良く仕事をしてきた仲である。
食事休憩を使い、チャンプへ聞き込みに行く。
有路の話だと◯◯連合というヤクザの組織に入り、ルイヴィトンのバックの偽物やシャブを売り捌いているらしい。
林は当初ネズミ講で自己破産し、新潟から新宿まで逃げてきたのに今さらヤクザ?
彼が何を考えているのか分からなった。
店で小山が「岩上さん、◯◯連合の林さん知ってるんですか?」と言われたので、状況を聞く。
スカウトも兼業でしていた小山は、新宿駅東口から真っ直ぐ歌舞伎町へ向かうスカウト通りで通行人の女性に声を掛けていると、背後から肩を叩かれる。
林が立っていてルイヴィトンのバックを買わないかと色々言われ断ると「どこの所属や?」と聞かれたのでワールドワンの名前を出したらしい。
「何や、岩上君とこかいのー。よろしく言っといて」で話は済んだようだ。
「岩上さん、ヤクザにも顔利くんですね」
「利く訳ねえだろ! たまたま知り合いが後付けでなっただけだ」
俺は仕事が終わると林がたむろっているところを探す。
小山の話では新宿駅まで向かう途中のスカウト通りで声を掛けられたと言っていた。
見つけたので声を掛ける。
「林さん! 絶対うちの従業員にシャブとか偽物売りつけないで下さいよ」
「おうおう、岩上君とこ手出す訳ないやろ」
杞憂に過ぎないが、一言伝えずにはいられなかった。
「何でヤクザ者になっちゃったんすか?」
「いやー、ワイも一介のゲーム屋の従業員じゃ、うだつ上がらんからのー」
「ほんと頼みますからね」
「おう、わかっちょる」
気弱で優しかった林も、ヤクザになった事で自分を大きく見せる為か話し方も前とは変わった。
もう俺がいくら声を掛けたところで、元には戻らないよな……。
同じ裏稼業だった元同僚。
しかしもう彼は違う世界の住人になってしまったのだろう。
元系列店エースの責任者だった加藤が客としてワールドワンへ打ちに来た。
「お久しぶりですね、加藤さん」
面倒見の良かった加藤。
今日は彼女と二人連れ。
期間は短かったが恩義は残っている。
この人があの時責任者でなかったら、俺がこうしてゲーム屋に残っていなかっただろう。
寝坊し仕事へ行けない俺は、知人が亡くなったと嘘をついた過去。
普通この業界なら即クビだ。
それを加藤がそのまま受け入れてくれたのだ。
何故かワールドワンを気に入ってくれ、こうしてたまに客として打ちにきてくれる。
ひたすらダブルアップをノーテイクで叩き続けあっという間に十万が溶けた加藤。
しばらく椅子に座ったまま放心状態である。
手持ちの金をすべてゲームで使ってしまったようで、彼女から「ご飯食べに行くの、どうするのよ?」と責められていた。
俺は自分の気に入っている中華料理の叙楽苑の出前を二人前頼み、加藤と彼女へ出してみる。
不思議そうな顔で俺を見る加藤。
「加藤さんには当時良くしてもらったんで、もしお腹減っていたらこれ食べて下さい」
「ありがとう…、岩上君ありがとうね」
今にも泣きそうな顔で加藤は出前を食べる。
この一件から加藤はワールドワンをより贔屓に来てくれるようになり、多くの仲間も連れてきて多額の金を落としてくれた。
ある日朝の十時手前になり、珍しく番頭片桐が店に顔を出す。
着替えいる吉田の顔を見るなり「おう、吉田! この間見舞いありがとうな。うちの女房も凄い喜んでいたぞ」とお礼を言っていた。
先日店で集めた見舞いのお礼を言いに来たのかと思っていると、片桐は俺を睨み付け「おい、岩上! オマエな、店で数字だけ出せばいいと思ってんのか? 少しは吉田見習え!」と怒鳴るだけ怒鳴り帰ってしまう。
何故俺が怒られなきゃいけないんだ?
おそらく吉田の事だ。
みんなの集めた金を店からと言わず、自分一人だけの手柄にしようと見舞いの品を送ったのだろう。
そうでないとあの片桐の対応はおかしい。
俺は吉田を睨み付けた。
すると「あれ、おかしいなあ…。ちゃんと片桐さんには店からですって言ったんだけどなー……」と言いながらホールに出て、仲の良い客と話をし始める。
早番と遅番で金は半分ずつ。
遅番に限っては俺が従業員の人数分掛ける四千円余計に払って補填して、この結末か。
客前で怒りをぶつける訳にもいかない。
本当にあの豚はこういうところだけ抜け目ないのだ。
俺は壁を殴って無言で店をあとにした。
加藤の紹介で尾崎という客がいた。
いつも来るとだいたい五万円くらいの勝負はしてくれるので、良い客である。
ある日仕事終わりに五十嵐を連れ食事へ行き、一番街通りの突き当り、靖国通りのドトールの前を歩いていると、妙に人だかりができていた。
何かあったのかと覗くと、客の尾崎が鼻血を出して道端に倒れている。
慌てて人混みを掻き分けて尾崎を抱き起こす。
「尾崎さん、どうしたんですか?」
肩を貸して起こすと背後から「何だ、おまえは?」と大きな声で怒鳴られる。
見るとホスト三人組が立っていた。
「俺が女連れて居酒屋で飲んでたら、トイレ行った隙にコイツらが声掛けて来やがってよー。顔見て何だよって言いやがって、表出ろって出たら三対一だからやられちゃって……」
状況は理解できた。
単純にホストが悪い。
「何だ、オメーは?」と凄むホストの顔面を右手で鷲掴みして壁に叩き付ける。
もう一人の首目掛けて右手で喉輪の態勢で壁に押し付けた。
「尾崎さん、コイツらどうします?」
「土下座しろ、この野郎!」
睨んでくるホスト。
俺は首を絞めていた指から爪をたて激しく皮膚に食い込ませる。
「聞こえてないのか、兄ちゃんたち」
ホストの首から血が滲みだす。
「す、すみません!」
呆然と立ち尽くしているホストの髪の毛を鷲掴みした。
「おまえら、耳聴こえないのか?」
そのまま頭突きをお見舞いする。
俺の一撃でホストたちは大人しくなり、靖国通りの道端で土下座させ解放した。
「尾崎さんもう帰るんですよね?」
肩を貸しながら西武新宿駅前のタクシー乗り場へ向かう。
「あなた、大丈夫?」
後ろから妙にハスキーボイスが聞こえ、振り向くとハイヒールを履いているとはいえ俺と身長が変わらないニューハーフが立っていた。
え、あなた?
俺が呆然としていると、尾崎はバツの悪そうな顔をしながら「コイツはよー、見てくれはアレかもしれないけど、その辺の女より女らしいしよー」と意味不明な台詞を喋りながらタクシーへ乗って消えた。
俺が正義感ぶってやった事って何?
確かにあのホストも顔見て何だよぐらい言うよな……。
この日から尾崎の姿をワールドワンで見掛ける事は無くなった。
こんな話をトンカツひろむでしたら、また岡部さんが「やっぱヤクザの用心棒だろ?」と得意そうに言うのが目に見えていたので地元では黙っておいた。
ある日、朝方になり売上金を佐々木さんから事務所まで持ってきてと頼まれ、セントラル通りを通過する。
普段なら店まで取りに来るのに珍しいな。
以前行った事のある風俗『11チャンネル』の前を通ると、店のスタッフ五人が一人の客を取り囲んでいるのを見掛けた。
客の顔を見ると、チャンプの従業員の久保田だったので思わず足を止める。
何か揉めたのか?
しばらく見ない内に久保田は随分ほっそりしていた。
多勢に無勢だもんな。
よし、助けに入るか。
俺は近付き「どうしました、久保田さん」と声を掛けた。
スタッフの一人がこちらを見て睨み付けてくる。
「おまえら俺の連れ囲んで何してんだ、おい!」
凄むとスタッフは「このお客さんが女の子に本番強要したんですよ!」と答えた。
ひょっとして俺、とんでもない勇み足しちゃったのかと固まる。
「久保田さん、本当にそんな事したんですか?」
「し…、してないよ……」
嘘なのは分かっていた。
ただ俺は金を事務所まで届けにも行かなきゃいけない。
久保田の腕を掴みながら、「オマエらよ? 客がしてないって言ってるのに言い掛かりつけてんのか?」と怒鳴りながらスタッフたちをどかす。
「ほら、行きますよ、久保田さん!」
多少強引だがドサクサに紛れ、俺は久保田の窮地を救ってそのまま逃げた。
「久保田さん、本番したいなら川越に一万円…、全部一万三千円だったっけかな? そのぐらいで本番できる店ありますよ」
「え、ほんと! 川越のどこ?」
目を輝かせる久保田。
これは11チャンネルの従業員が言ったように、あの店でも本番強要したんだろう……。
いつか時間作って川越へ案内してやるか。
この頃仕事出勤前に本川越駅前のジャズバーのスイートキャデラックで軽く飲んで新宿へ向かい、終わると家に帰ってトレーニング後、近所の整体へという繰り返しだった。
休みの日はスイートキャデラックこら始まり、キャバクラを梯子して終わりは家の隣のトンカツひろむで飲んで寝るような生活。
ある日バーのジャックポットのオーナーである野原さんが入院したと先輩の岡部さんから聞く。
次の休みにでもお見舞いへ行こうかなと考えている内に、野原さんは退院した。
トンカツひろむで相変わらず飲み続ける彼は、岡部さんから「酒で入院したばかりなのに、あんたは一回死ななきゃ治らない」と皮肉なジョークを言われながらも、笑いながら梅干しサワーの梅を割り箸でつついて飲んでいる。
そしてその一週間後、亡くなった。
葬儀の時泣き崩れる岡部さんを見ているのが辛かった。
その姿を見て、俺も涙が自然と零れた。
たまにひろむで会って一緒に飲んだだけの仲。
なのに何故こんなにも悲しいのだろう。
いや、この人と言い合いになったからこそ、俺はまたリングに立とうと決意したのだ。
付き合いは短い。
でも、俺にとっても重要な意味合いを持つ人だった。
棺桶に入ったガリガリに痩せこけた野原さん。
亡くなるの早いんだよ!
いつもひろむで梅干しを割り箸で突きながら酒飲んでよ……。
思えば俺の窮地には、何だかんだ隣りにいていつも話を聞いてくれていた。
いつだって無精髭生やしてさ……。
俺はあんたに何一つしてやれなかった。
そっか…、分かった。
せめてさ…、今日から俺があんたのヒゲ受け継ぐよ。
最後のお別れの時、俺は勝手にそう誓った。
但しあんたのような無精髭じゃねえ。
モミアゲから顎まで繋げるけど、俺はキチンと整えるからな。
自然とまた涙が流れた。

この日より俺は髭を伸ばしだす。
野原さんとの繋がり、そして継承を勝手に誓った。
そしてこの日から数週間後、今度はまだ四歳くらいだったスガ人形店の跡取りで先輩でもある須賀栄治さんの子供が病気で亡くなる。
身近な人間がこんな短期間で亡くなってしまうなんて……。
葬儀で気丈に振る舞う栄治さん。
奥さんはガリガリに痩せ、見るのも辛かった。
二つとも葬儀場は川越のやすらぎの里。
人生の因果ともいうのだろうか?
遣る瀬無い気分のまま、俺は今日も新宿歌舞伎町へ向かう。
チャンプの原から食事に誘われる。
自分より唯一立場が上の責任者の有路の悪口が凄い。
俺は有路とも仲が良いので、いつもまあまあと彼を宥めるだけだ。
「そういえば久保田、あれそろそろヤバいな」
突然久保田の話題になる。
以前も風俗店の前で本番を強要し従業員たちに囲まれていたが、また何かしでかしたのだろうか?
詳しく聞くと、ヤクザ者になった林がこれ使えば痩せるよと久保田へシャブを打っているらしい。
林の奴、あれほど身内にシャブを流すなと言ったのに……。
俺が問い詰めにいったところで、岩上君の店の人間にはとすり替えられるだけだろう。
久保田はここ数ヶ月で見る見る痩せて、最近ではシャブ汗と呼ばれる首の後ろ側しか汗を掻かないようだ。
確かに一般人なのに体重百キロ超えは大変だ。
元相撲部屋にいたというだけでの大きな身体。
特に運動する事もなく、仕事して風俗の繰り返し。
店は違えど俺がこの系列へ入った時の最初の仲間であり、お互いに仲良く付き合ってきたつもり。
しかし最近俺も自分の店の従業員たちとの付き合いで、彼との付き合いを疎かにしていた。
まさかシャブに手を出していたとは……。
何とかしたいが、極度のシャブ中に何を言っても無駄なのは過去色々見てきている。
結局のところシャブは自己責任であり、自分で何とかするしかないのだ。
何かで話せる機会があれば、彼のプライドを刺激しないよううまく話を持って行かないと。
複雑な気分のまま川越に戻る。
「あ、兄貴さー。何か変な噂聞いてよ」
弟の徹也から変な話を聞いた。
うちら三兄弟を捨て出て行ったお袋。
今一緒に住んでいる二階堂さんとの間に娘がいるらしい。
普通に成長していれば俺の十歳年下。
男だらけの兄弟。
もしその話が本当なら俺たちには片親だけだが血の繋がった妹がいるという事になる。
会ってみたいが、あのお袋とは関わりに遭いたくない。
相手の二階堂さんはいい人である。
自衛隊に入った頃であるが、親父と離婚させる際話し合いをした時に人柄が良いというのは理解できた。
お袋と関係が無ければとても慕っていただろう。
あの人とお袋の間に、娘がいたのか?
半分だけ血の繋がった顔も名も知らない妹か……。
徹也に聞いてから、最近この事ばかり考えている俺。
本川越駅に着き、長い商店街サンロードを歩く。
向かいからは乳母車を押したおばあさんがゆっくり歩いていると、背後からもの凄いスピードで車が来てクラクションを派手に鳴らす。
おばあさんは驚き危うく転倒しそうになる。
何て酷い運転をしやがるんだ。
俺は車が通れないよう道路の真ん中に立ち塞がった。
けたたましいクラクション。
それでもどかないと、車は急ブレーキで止まる。
「どけよ、このやろ……」
窓から顔を出して怒鳴りつけてきた男の声が途中で止まった。
「朝からうるせえんだよ、ボケッ!」
俺を車のドアを思い切り蹴飛ばしてやる。
馬鹿な運転を朝っぱらからしていた主は、俺の全日本プロレスを台無しにした同級生の大沢史博だった。
彼は下を向き、無言のままである。
俺はおばあさんに「大丈夫でしたか?」と声掛け、身体を起こすのを手伝ってから家に帰った。
休みの日、行きつけのバーであるスイートキャデラックでグレンリベットを嗜み、小腹が減ったので店を出てくれモールを歩く。
ふらんす亭が目に入る。
小学時代の同級生だったオギノ化粧品。
その向かいにあった同じクラスにもなった事のある加藤金物店。
その場所がふらんす亭になっていた。
加藤…、下の名前まで覚えていないが、仇名はカトハン。
もうどこかへ引っ越して川越にいないかもな。
俺はふらんす亭に入り、レモンステーキを食べた。
斜め向かいのビルの二階にキャバクラがあったので、ふらりと入ってみた。
女の飲み屋で飲む場合、ほとんどがスナック。
総合格闘技の試合へ出る前、中央通り沿いの地下にあったキャバクラのシンデレラ。
キャバ嬢のさえと口論になってからは、キャバクラ自体行っていなかった。
たまには違う店でも探索してみるか。

「お客様、ご指名のほうは?」
「初めてだから指名も何もないよ」
席に通され、タバコに火をつける。
「お客様、お待たせしました」
たまたまフリーで俺の席に付いた可愛い飲み屋の女。
「名前は?」
「ミサキだよー、よろしくね」
「何歳なの?」
「二十歳になったばっか」
俺が三十歳だからちょうど十個下。
徹也の言ってた妹と同じ年……。
この子との会話はとても楽しかった。
まだ見ぬ妹と、ミサキを勝手に重ねてしまう。
お互いの連絡先を交換し、こうして俺とミサキの妙な付き合いが始まった。
ワールドワンの床が結構前からであるが、ガタが来ている。
床の一部が凹み、今日も仕事中室屋が足を取られてコケた。
客がもしこれで転んで怪我したら、面倒な事態になる。
番頭の佐々木さんはオーナーへ相談し、店の改築工事が決まった。
期間は一ヶ月ほと。
毎日出た分の給料しかもらえない俺たちに対し、ワールドワンを休んでいる間は保証で一日五千円払うと言われる。
一ヶ月で約十五万はもらえるという訳だ。
余裕の無かった室屋と五十嵐は店を辞める選択をした。
小山は別件からの誘いでどうしても義理があるようで、このタイミングで辞めてしまう。
いつもの給料が入る訳ではないので、部屋でゲームでもして過ごすか。
一番下の弟の貴彦に何かいいゲームないか聞くと、ファイナルファンタジーⅩと即答した。
早速買ってプレイステーション2で遊んでみる。
オープニング曲のザナルカンドの素晴らしさ。
綺麗なグラフィック。
異様にハマるゲーム性。
ヒロインのユウナの可愛らしさ。
俺は見事ファイナルファンタジーⅩにハマった。
一日のほとんどをゲームに費やした。
ここまでゲームにハマったのは、若くて何もしていなかった時代、先輩の坊主さんと対戦格闘ゲーム以来
あの時は金も無いのに稼いだ金を食費、あとはネオジオの高いゲームソフトに使っていたっけ。
二週間ほどゲームに没頭していると、従業員の山下から電話があった。
「岩上さん、すみません。金貸してもらえないでしょうか?」
「別にいいけどいくらよ? それに俺今川越だよ? こっちまで来るならいいけど」
「行きます、行きます! 川越ですよね?」
たかが数万の金を借りに、山下は川越まで本当に来た。
「岩上さんがいつも行くキャバクラ行きましょうよ。ほら、何でしたっけ? 妹分がいるとかいう店」
「オマエ、金ねえじゃん」
「いや、岩上さん奢って下さいよー。せっかく川越まで来たのにこのまんま帰れって言うんですかー」
山下は前から本当に人にタカるのが上手い。
金を借りた上にキャバクラまで奢れと言う。
まあ久しぶりミサキの顔も見ていない。
今回遥々川越まで来たのを考慮して連れて行く事にした。
ひたすらゲームをして日々を過ごす。
たまに外へ出たくなるとミサキを誘い、スイートキャデラックやトンカツひろむへ連れて行く。
ミサキはいつも元気でとても明るい。

知り合って結構経つのに、女として口説こうではなく、妹として可愛がる感覚のままだった。
いつものようにジャズバーで飲んでいると、年配の常連客たちはよく筋肉を触らせてくれと言ってくる。
気分良く話していると、同じカウンター席に座る年配の人が声を掛けてきた。
「君は一体何をやってる人間なんだね? 周りは格闘家格闘家言ってるけどさ」
初対面で随分偉そうな態度のオヤジだな……。
親しい人間にも新宿の裏稼業ゲーム屋の事は伝えていない。
もちろん隣りにいるミサキにすら仕事を誤魔化していた。
なので大した知り合いじゃない人間には面倒なので格闘技をやっているとだけ説明している。
「何の格闘技なんだね?」
「総合格闘技ですね」
「総合? 私は柔道の道場を経営しててね。それがどういうもんなのか分からないんだが……」
「テレビでやってるPRIDEって分かります? あんな感じの試合です」
分かりやすく簡単に説明したつもりだった。
「ああ、あれね…。うちの道場生が言ってたよ」
「何でです?」
「楽でいいなと」
この瞬間一気に頭に血が上った。
「組むとすぐ抱き合って寝て膠着。柔道は投げが花形だから、あんな体勢になったらすぐに待てが掛かり立たされるよ」
俺は他の競技を小馬鹿にした事などなかった。
ただ自分のやってきたを小馬鹿にされたら話は別だ。
「おい、さっきから黙ってりゃふざけんなよ? 何様のつもりなんだよ? オマエんとこの道場生今ここに全員連れて来いよ! 一人残らず、その楽でいいっ言うのがどういうもんか教えてやっからよ!」
失礼なオヤジは終始黙っていた。
俺はマスターにチェックを伝え、金を払うとスイートキャデラックを出る。
ミサキは「ほんと失礼な人だよね。私も聞いててイライラしちゃった」と話し掛けてきた。
「まあ、何かしら機会あったら、あのオヤジには思い知らせてやるよ」
横にミサキがいたからまだ冷静さを保っていられたのかもしれない。
家に帰ってファイナルファンタジーXは山場を迎える。
猛烈な感動が全身を覆う。
新しいビデオテープを入れ、ゲームの名場面を録画した。
ミサキに電話してそのビデオを見るか尋ねると、一発返事でいらないと言われた。
「何だよー、せっかく人が感動するものを作ったのに」
「そんなのいいからご飯食べに行こうよ」
「そんなのってオマエ…。あとちょっとでクリアできそうなんだよ」
「早くー、どのくらいで出てこれるの?」
「分かったよ、今から支度する」
ミサキに言われると、ついつい甘くなってしまう自分がいた。
食事に行き、バーで酒を飲み、ミサキを家まで送る。

「ねえ、ほんとに一度も私を口説いた事無いよねー」
真面目な顔をしながら言うミサキ。
確かに彼女は可愛い顔立ちをしている。
「まだ見ぬ妹を俺が勝手に重ね合わせただけだって、何回も説明したろ」
「ふーん、そー。眠いから寝るね、おやすみー」
「ああ、おやすみ」
女として口説くか……。
そういえばそう考えた事もなかった。
適度に可愛がり、適度に面倒を見る。
確かに彼女と一緒に過ごす時間は楽しかった。
うん、俺はミサキを勝手に妹代わりに見立てているだけなんだ。
そう自分自身を納得させる。
俺は帰ってからゲームの続きをした。
闇 14(風俗嬢に捧げた絵画編)
2024/08/06 tue
2025/07/11 fry
2025/08/19 tue
前回の章
以前ミサキとスイートキャデラックで絡んできた柔道の道場主。
暇を持て余した俺は、あの時の借りを返さなきゃなと考えていた。
弟の徹也と貴彦に知り合いで柔道を本格的にやっている奴がいないか聞く。
「蓮馨寺の前の川越水族館。あそこの三兄弟の一番下のター坊が柔道かなりいいところまで行ってるよ」
早速連絡を取り、ター坊を食事へ誘う。
保坂忠弘、仇名がター坊は俺から見たら七つ年下の後輩。
「兄さん、格闘技やってるんですよね? 俺も挑戦したいなとおもっていまして」
「俺なんて何のツテも無いよ。それよりさ、柔道の道場主をしているメガネ掛けてて……」
俺は先日ジャズバーのスイートキャデラックで失礼な事を言ったオヤジの特徴を言った。
「ああ、◯◯道場ですね。あの人いつも偉そうで評判悪いんですよ」
これまでの経緯を簡単に話す。
ター坊は呆れたほうに「本当に柔道と総合じゃ別物なのに…。そりゃ先輩も怒りますよね」と同調してくれる。
とりあえずあの道場の舐め腐った道場生とやりたかった。
「気持ちは分かりますが、さすがに先輩行っちゃただの虐めになるし、柔道ルールじゃないと無理っすよ」
「なら柔道着も買うし、柔道ルールでいい」
「先輩、柔道の経験は?」
「高校生の頃授業でくらいかな」
「身体能力あるし体格凄いのも分かります。ただ無茶ですよ」
「少しは柔道で努力するよ。ター坊協力しろ」
近い内ちょっとした大会があるようで、ター坊の通う道場へ行く事になった。
まだワールドワンの床工事は時間が掛かる。
タイミング的にちょうど良かった。
柔道の基本的な事をター坊自ら教えてもらう。
後輩とはいえ真面目に習った。
力とスピードは本当に凄いと絶賛される。
「もし智さんが昔から柔道やってたら凄い事になってますよ」
「柔道は今だけだ。とりあえずあの道場の奴、柔道でぶん投げてやるだけだ」
柔道を実際やってみて関心したのが、重心の重さ。
プロレスは自ら飛んで受け身を取るが、柔道でそれをやったら負け確定。
しかも学校でも部活があるように柔道人口は本当に多い。
その中で国際強化選手…、オリンピック一歩手前の人間は化け物揃いなのが分かった。
ター坊の行く道場に一人国際強化選手がいたが、とんでもない体格をしている。
身長百九十センチ、百六十キロでアンコ型ではなく逆三角形。
プロレス界でも中々いない体格である。
腰を壊しチャンスを逃したと言っていたが、こんな化け物を壊せる奴が上にはいると言う事だ。
本当に柔道の世界は奥が深い。
川越の大型商店街クレアモールを昼間に歩いていると、目の前で一台の自転車が急ブレーキで停まる。
顔を見た瞬間戦慄を覚えた。
そこには縁を切ったはずの俺を産んだお袋。
十年近く会っていなかったはず。
久しぶりにバッタリ会ったお袋は、何故か俺を睨み付けている。
左目の横にある傷が疼く。
幼少期無力だった頃、虐待によりつけられた二ヶ所の傷。
未だ鮮明に蘇る過去のトラウマ。
「これを持ってろ」
俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。
電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていくお袋。
幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。
分かっていながら怖くて離せなかった。
受話器を……。
手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。
まだ幼い俺には、その想像のほうが怖かった……。
どんどん伸びていくコード。
それでも俺は電話の受話器を震えながら持っている。
恐ろしかったのだ。
抵抗して、これ以上殴られるのが嫌だった。
おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、お袋の手元から離れていた。
「……!」
いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。
思わずその場にうずくまってしまう。
目の上が焼けるような痛みを発している。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
逃げようと立ち上がり、後退した。
その時おもちゃのブロックを踏んでしまい、足の裏に痛みが走る。
胸を押され、床に倒れ込む。
合気道に行った時の風景が思い出される。
稽古を始める前に正座して一礼。
そのあと正座をして目を閉じているところを不意に先生が胸を押してくる。
そこで倒れてはいけない。
精神を集中させるのが、本来の目的らしかった。
でもそんな事は、当時の僕には分からない。
「何、勝手に転んでんだ。立て!」
俺は言われるまま立ち上がる。
足元にはおもちゃのブロックが散乱していた。
お袋はいくつかのブロックを拾っている。
「動くなよ。きょうつけして目をつぶってろ!」
「はい……」
これから何をされるのか。
身体を震わせながら、目を少しだけうっすら開けた。
お袋がブロックを投げつける途中だった。
青色のブロックが俺の頭に命中する。
幼い俺は再び倒れた。
「何、大袈裟に倒れてんだ!」
起き上がれば、また同じ目に遭う。
分かっていながら立ち上がった。
そうするしかないのだ。
何度もお袋は、俺にブロックを投げつけた。
このまま殺されるのかな。
素直にそう感じた。
その時、部屋のドアが勢いよく開く。
「おまえは何をやってんだ!」
おじいちゃんだった。
今まで見た事のないような厳しい目でお袋を見ていた。
二階の騒ぎを聞ききつけ、助けに来てくれたんだ。
真っ暗闇な中、一筋の光明が見えたような気がした。
必死にその光ある方向へと向かう。
「おじいちゃん……」
自然とその方向に駆け寄ろうとした時、背中に激しい痛みを感じた。
床に倒れ込む際、スローモーションのように映し出される。
そして、目の前に割れた白いブロックの破片が見えた。
「わぁっ……」
俺は目を押さえながら、床に転がった。
たくさんの血が出ていた。
俺は強くならないと、いつか殺されちゃう……。
それからあとは記憶にない。
勝手に俺ら三兄弟を捨てて、離婚もせずに別の男と暮らしだし、おばあちゃんの悪口を言った。
「私が育てていれば、こんな馬鹿には育たなかった」
絶対に言ってはならない禁句を口にし、それ以来俺はこの人と縁を切った。
母方の仲町のおばあちゃんが亡くなった時、当時浅草ビューホテルで働いていた俺はそのまま駆け付けた。
礼服を着ていなかった俺を汚いものでも見るような目で、線香一本あげさせてくれなかった。
歌舞伎町の四十四人が亡くなった大火災の時、何故か俺の携帯電話番号を知っていて生死確認の連絡をしてきただけ。
それからしばらく経ち、偶然道端で出くわしたら睨み付けてくる。
一体、何なんだこの人は……。
臆するなよ。
無抵抗でただ殴られていたあの頃の俺ではない。
俺は強さを目指し、強くなったんだ。
何の為に強さを目指した?
強くならないと殺されちゃうと子供も頃思ったからだろう。
もう臆さない。
もう怯えない。
怖さなど何も感じない。
目に力を込めお袋へ睨み返す。
昼間なので通行人が多い為、次第に俺らを不思議そうに眺める野次馬たち。
しばらくして「あのひろむの若いのが偉そうに言ってたけどね……。覚えてらっしゃい!」それだけ言うと、お袋は踵を返しその場を去った。
突然十年ぶりに会い、何をいきなり怒っているのだ、あのキチガイは?
ひろむの若いのって、先輩の岡部さんの事を言っているのだろうか?
何ともいえない後味の悪さを覚えつつ俺は家に戻った。
夜になり隣りのトンカツひろむへ行く。
岡部さんがいたので、昼間お袋と会った事を伝え、ひろむがどうのこうの言っていたが何かあったのかを聞いてみる。
「智一郎大変申し訳ない! ちょっと待っててくれ」
いきなり岡部さんは頭を下げて謝ってくる。
呆然としている俺に構わず、二階の階段を上がっていく。
一緒にひろむのおばさんが降りてきた。
事情を聞くと一週間ほど前、ひろむのおばさんが原寿司へ行くと、たまたまお袋と二階堂さんに遭遇したらしい。
おばさんにしてみたら、俺が小二の時出て行った以来二十数年ぶりの再会。
「智ちゃんを始め、てっちゃんもたあちゃんも、みんないい子で元気に育っているから心配しなくても大丈夫だよ」
「いや、それは全然気にしていない」
そう返すお袋の言葉に愕然としながら、色々近況を話して別れる。
すると翌日お袋がひろむへ突然来たようだ。
居合わせた岡部さんに「お母さんは?」と聞くお袋。
プライベートでたまたま他の店でバッタリなら分かる。
トンカツひろむは、俺の家の隣りなのだ。
おばさん的には非常に体裁が悪く、岡部さんに居留守を使ってもらったらしい。
普通ならそれで話は終わるのだが、お袋は連日ひろむへ来た。
そこで岡部さんがおばさんの許可を取った上で機転を利かせ「大変申し訳ないのですが、隣りの岩上家とは智一郎を始め、そのお父さん、おじいさんともいい付き合いをさせてもらっています。私のような者が言うのも何ですが、このお店にはあまり来られないほうがよろしいのでは…」と言うと、お袋は烈火の如く怒り出し、ひろむを飛び出したようだ。
頭に血が上るとキチガイのように錯乱するのは、時間が経っても治っていないようである。
一応俺には言っとかないとと、おばさんと相談していう内に一週間経ってしまい、今日の昼間の一件に繋がった。
「智一郎、大変申し訳ねえ!」
平謝りの岡部さん。
「そんな謝らないで下さい」
別に岡部さんが悪いわけではない。
お袋の行動に問題があるだけなのだ。
見えないところで俺は、今も周りに気遣われて生きている。
仲町の信号のところにある後輩の松崎スポーツで注文していた柔道着ができた。
俺は段も無いのに黒帯を作らせていたので、後輩の松崎が「岩上さん、柔道やってましたっけ?」と不思議そうな表情で渡してくる。
「俺が黒帯締めたところで誰も文句言わないだろ」
当時の俺はこんな感じで思い上がり図に乗っていた時期だった。
大会当日、スイートキャデラックで揉めた◯◯道場の道場生が相手。
俺は開始と同時に飛び付き腕ひしぎ十字固めを極める。
畳を叩く道場生。
靭帯を伸ばすではなく、相手の肘を腿の上支点に力を入れれば骨が折れるよう持っていき止めた。
「柔道ルール分からねえからギブアップって分かり易く言ってくれ」
今思うと、とても傲慢の塊だった俺。
◯◯道場主のオヤジは俺を遠くから睨んでいた。
これで少しは面目躍如できた。
相手側の土俵に乗っ取って始めた柔道。
かなり不利とはいえ、どう足掻いても勝つ必要があったのだ。
次の相手は柔道二段。
素人の俺は何度も足払いを掛けられ、体勢を崩さないようにするのがやっと。
タイミング良く宙に浮かされた時、プロレスの癖で受け身を取ろうとする自分がいた。
このまま畳で受け身したら、俺負けじゃん……。
咄嗟に身体を反転させ畳についた際、俺の左肘が肋骨にめり込む。
鈍い音がする。
肋骨が今ので折れたようだ。
痛みで少し起き上がれなかったが、審判が声を掛けてきたので無理して立ち上がる。
「君! 大丈夫なのか?」
顔色を変えて様子を伺う審判。
対戦相手は俺の身体の異常事態に気が付いているようだ。
「何でもないっすよ。おい、続きをやろうぜ、兄ちゃん」
それでも普通に試合をやろうとする俺に対し、怯えの色が見えた。
明らかに相手は腰が引けていた。
痛みを我慢しながら相手に組み付き、右腕で後頭部を押さえ下に押す。
左腕を絡ませ、右腕も回そうとすると開いては必死に堪えた。
力技で強引に両手を相手の背中でクラッチする。
柔道、相撲だと五輪砕き、プロレスだはダブルアームスープレックスの体勢。
抵抗しながら膝を畳につける相手。
俺は渾身の力で持ち上げながら身体を反り、ダブルアームスープレックスでぶん投げた。
「一本!」
審判の手が上がったのが見える。
痛みで身体を真っ直ぐにする事もできない。
頑張って立ち上がり、何とか礼を済ます。
試合を終え戻ろうとすると、先程の審判が声を掛けてくる。
「長年柔道に携わってきましたが、決まり手がダブルアームスープレックスなんて初めて見ました。いいものを見せてもらいました」
肋骨を折ってまで拾った勝利。
俺のただの意地だった。
病院へ行き痛み止めの薬をもらいに行くと、医者から座薬を出される。
ケツに薬を入れるのをどうしても抵抗あった俺は、痛みを我慢しながら身体を丸めて寝るしかない。
伸ばすと肋骨が折れているので丸まるしかないのだ。
その状態でファイナルファンタジーⅩをやってクリアした頃、ワールドワンの床工事が終わった。
腹にコルセットを巻いたまま仕事へ向かう。
あと数日の我慢。
安静にしていた甲斐があり、通常よりも早めに骨はくっついているようだ。
約一ヶ月ぶりに会う吉田から、彼の祖母が亡くなったと言われたので、裸のまま一万円札を香典代わりに渡す。
俺は遅番のまま。
二番手に早番から来た三門。
チビの山下。
新人の伊藤重文、佐々木健介が入る。
新日本プロレスのレスラーである佐々木健介と同姓同名。
彼は性格がかなり歪んでいた。
新人は金も無いので仕事終わりよく食事へ連れて行く。
しばらく女っ気も無いというので佐々木を風俗11チャンネルへ連れて行った。
店内に飾られる一人の写真に目が止まる。
工事前に辞めた従業員小山の彼女である緑ちゃんの写真。
佐々木は彼女を指名しようとしたので、事情を説明して止めさせた。
翌日出勤すると吉田の家族が先日の香典のお礼をと電話を代わる。
感謝を色々言われたが、同じ職場で働く人間なので、香典を渡したまで。
別にいらないが、吉田から香典返しが届く事はなかった。
緑は小山が辞めてもワールドワンへたまに遊びに来る。
妹のように扱っていたので可愛がり、負けた時は食事休憩に合わせご飯をご馳走してあげる。
彼女をイヤらしい目つきで見る佐々木。
「今度一人であの店行ってみようかな」と抜かしていたので、本気で怒った。
仕事後ソワソワしていたので彼のあとを付けると、11チャンネルへ入る。
俺は慌てて入り、緑ちゃんを指名しようとした佐々木の手を叩き「今日は俺が奢ってやるから別の女にしろ!」と言った。
迷っているのか、中々指名を決めない。
俺が先に呼ばれたので、適当な写真を指して「店員さん、コイツにはこの子指名で」と強引に決めた。
最近仕事中、やたら股間を手で押さえる佐々木。
注意すると、小便する時痛いと言う。
病院へ行くと性病に掛かったようだ。
説明しているのに人様の彼女に手を出そうとするから神様が罰を当てたのだろう。
そんな中、「ラーメン馬鹿一代です」と封筒を持った営業が来た。
中身を見るとラーメン無料券が十枚も入っている。
海老通りでオープンしたばかりの店らしく、俺は従業員に「ビール飲んでもいいから、金はちゃんと使ってこいよ」と食事休憩で行かせた。
戻ってきた三門にラーメンの感想を聞く。
「あんな店、タダ券で充分ですよ」と吐き捨てるように言う。
続いて馬鹿一代から帰ってきた山下、伊藤も酷評。
佐々木だけが「結構いけましたよ」と違った。
最後に俺が店へ食べに行くと、ラーメン馬鹿一代はほぼ満席。
無料では申し訳ないからビールと餃子も注文する。
来たラーメンを食べて、うちの従業員たちが酷評したのも分かるくらい不味かった。
楕円のカウンター席のみで十二席。
それなのに店のスタッフは厨房三名にホールが五名の総勢八人。
少し人数使い過ぎじゃないかと思ったが、他人の店なので黙って見ていた。
「岩上さん、お久しぶりです」
見ると新宿プリンスホテルの支配人たちも来ている。
一番街通りにあるうちのような店だけでなく、新宿プリンスホテルにもタダ券をばら撒いていたのか……。
会計の様子を眺めていると、客のほとんどがラーメン無料券のみ。
金を払う客はほぼいない。
この店潰れるだろうなと感じたが、案の定一ヶ月もせず潰れた。
ラーメン馬鹿一代は、名前の通り本当に馬鹿だった訳だ。
早番の大倉が引き継ぎの際、変に焦っていた。
「じゃ、岩上さんこれで俺帰りますね」
「何だよ、ちゃんと業務内容を引き継げよ」
「いや、時間がですね……」
「大倉! 仕事なんだからちゃんとやれって。何か急ぎの用事でもあるのか?」
「そ、それが……」
事情を聞くと、店長になったばかりの吉田から中野で飲んでいるから仕事終わったら来いと連絡あったらしい。
「岩上さん、ドンペリのピンクってどこで売ってますか?」
この辺だとコマ劇場の裏にある信濃屋だと説明。
誰かの家で誕生パーティーでもするのかと思ったが、吉田が絡んでいるので深くは聞かなかった。
次の日、大倉が暗い顔をしていたので話を聞く。
吉田が中野のキャバ嬢を気に入り昨日は誕生日らしく、大倉に仕事終わったらドンペリ買って持って来いと命令される。
店で持ち込みのシャンパンなど勝手に開けられる訳がない。
開けるなら五万円持ち込み料で取ると言われ、そこまで金の無かった吉田は渋々諦めた。
大倉も飲んでけと席に座らせれ、会計時割り勘で金を払わされたそうだ。
しかも開けられなかったドンペリのピンクの代金を吉田は大倉へ払わず帰った。
俺が文句言ってやると動こうとするのを止める大倉。
「岩上さんにチクったみたいで、あとでまた俺がネチネチ言われます」
泣きそうな表情で言う大倉を見て、図に乗った吉田を何とかしなきゃいけないと感じた。
少なくとも大倉はドンペリの五万以外に、多めにキャバクラの料金まで払わされているのだ。
責任者が部下に対してやるような事じゃない。
このまま放置していると、まだ誰かしらの犠牲者が出るだけだ。
何かしらの手を打ちたかったが、ワールドワンの遅番の時間帯は本当に忙しい。
仕事をこなすだけで精一杯だった。
深夜、番頭の佐々木さんから店に電話が入る。
「あ、岩上君、あのさーゲーム得意でしょ? クルー船長とトナカイ取って欲しいんやけど……」
何を言いたいのかさっぱり分からない。
オマケに店内は満卓でかなり多忙な状況。
「あとで掛け直します! 今ちょっと忙しいんです」
「分かった、忙しい時にごめんね。クルー船長とトナカイね」
そう言って電話は切れる。
クルー船長にトナカイ?。
何だ、そりゃ?。
三門に聞くと「おそらくワンピースのキャラじゃないですかね」と教えてくれた。
朝になり番頭の佐々木さんが店に来る。
状況を聞くと、UFOキャッチャーでその二つのぬいぐるみを取って欲しいと言う。
「岩上君得意でしょ? 金はワイが出すから。頼むよ、甥っ子と約束しちゃって」
佐々木さんには色々世話になっている。
仕事後、斜め向かいにあるゲームセンターへ向かった。
実際にプレイすると、台の設定はかなり渋め。
俺がぬいぐるみをクレーンで照準で合わせても持ち上がりすらしない。
「金なら崩してくるから」と両替機に行く佐々木さんを止める。
「これ、無理ですよ。五千円使ってピクリともしないじゃないですか。諦めましょうよ」
「甥っ子と約束しちゃったから、金は出すから頼むよ」
約束を絶対に果たしたい佐々木さん。
いくら諭しても諦める気配は無い。
俺はゲームセンターの店員を呼び出した。
「おい、これさ…、どうやって取れんだよ? 持ち上がりすらしないし、取りようないよな? 金出すからあんたが見本見せてくれ」
怒り心頭の俺は凄んで言った。
その横に俺より体格の大きなパンチパーマの手首まで入墨の入った佐々木さん。
メガネを掛けた店員は身体を震わせながらガラスの扉を開け、クルー船長のぬいぐるみを差し出してきた。
「ど…、どうぞ……」
「金出すから、そっちも欲しいんやけど」
佐々木さんがそう言うと、メガネはトナカイのぬいぐるみも取り、震えながら渡してくる。
彼には気の毒だったが、店の詐欺のような設定が悪い。
佐々木さんは満足気に帰った。
自衛隊時代の同期である富田から久しぶりに連絡があった。
十八歳の頃俺は北海道へ行き、富田は高田へ行った状態で別れたままだから十二年ぶりの再会になる。
「どこで会う? 新宿まで来る?」
「いや、俺さ今、狭山市駅の近くに住んでいるんだよ」
「じゃあ狭山に行けばいいの?」
俺は休みを取り、久々の再会に胸を踊らせた。
夕方になり、家を出て狭山市駅へ到着。
連絡を入れると「徒歩五分だから駅前のスーパーで惣菜とか買って家まで来てよ」と言われる。
不思議に思ったが、一番大きなビニール袋二つに惣菜やら酒をたくさん買い、彼のマンションへ向かった。
富田という名前の書かれた表札のインターホンを鳴らす。
彼の奥さんが出てきた。
「はじめまして、自衛隊の同期の岩上と言います。良かったらこれ買ってきたので……」
俺が挨拶をしている途中、奥さんは無反応で奥へ消えていく。
「あ……」
え、俺何か失礼な事したの?
呆然と玄関で立ち尽くしていると、富田がか俺を出し「上がってこいよ」と声を掛けてきた。
部屋に通され、小声で「あのさ、奥さん大丈夫なの?」と尋ねる。
昔から適当な性格の富田は「ちょっと夫婦喧嘩しちゃっててよ。まあ気にすんな」とだけ説明。
そんな状況の中、人を家に呼ぶなよとは思ったが、久しぶりの再会を楽しむ。
「最近岩上は何して遊んでんの?」
「ほとんど競馬だね。あれで金すげぇ溶かした。たまにジャズバー行ったりキャバクラ行ったり…。うーん、振り返ると本当ロクな使い方してないな」
「俺もよー、この間競輪でさ……」
その時いきなりドアが開き、奥さんが長い枕を持ったまま立っていた
「あんたね、くだらない事ばっかりに金を使って、私は……」
唖然とする俺を気にせず、富田を枕でバンバン叩き出す。
「友達来てんだよ。止めてくれよー」と情けない富田。
俺は奥さんを宥め、とりあえず外へ出るよう促した。
夫婦間で奥さんに頭が上がらないのだろうが、さすがに可哀想過ぎる。
ようやく嵐が通り過ぎ、富田はそーっと様子を伺う。
「アイツさ、看護婦やっててよ。俺より稼ぎあるからさ……」
「いいよいいよ。とりあえず飲みに行こう。キャバクラ行こうぜ」
あんな惨めな場面を久しぶりの再会で見られたのだ。
「俺、キャバクラ行った事無いんだよな…。それに金も無いし……」
「何だっていいよ。今から川越行くぞ。キャバクラ行こう」
何とか元同期を元気付けたかった。
俺は富田を引き摺るようにして駅へ向かう。
本川越駅に着き、ミサキのいるキャバクラ『サクセス』へ行く。
当然俺はミサキを指名。
待機している女が五人いたのですべての女を富田の席に付けた。
フルーツの盛り合わせを頼み、彼に勧める。
両手に華どころか、辺り一体が女だらけの富田は「キャバクラって楽しいなあ」と鼻を伸ばしていた。
家庭があるのであまり遅くに帰る訳にはいかない。
三回延長して会計は二十万円以上。
金は掛かったが、久しぶりの同期との再会は素直に楽しかった。
「少しは奥さん大切にしろよ」
彼を駅まで見送りして、俺は日常に戻る。
チャンプの従業員を辞めヤクザ者になった林。
その弟がワールドワンに来るようになった。
兄の威を借りてか非常に態度がデカい。
出勤して着替えていると「うぉいっ!」と言う大きな声が聞こえてくる。
ホールへ出ると吉田が「またアイツ来てんですよ」と苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「いくらぐらい使ったんですか?」
「まだ十万も使ってないですよ」
その時「うぉいっ!」とデカい声を出して林の弟が千円札を手で上げる。
山下がINしに行こうとするのを手で制し、俺が彼の席まで向かう。
「他の客もいるんで、普通に言ってもらえないですかね」
「あ? 俺、普通だけどー」
睨みつけながら威嚇してくる弟。
俺もその場でしゃがみ、睨み付けながら「普通じゃねえから注意したんだろ?」と怒鳴った。
「俺の兄貴知ってんだろ?」
「ああ知ってるよ、林さんだろ? 兄貴に言ってみな。岩上と揉めようと思うって」
他の客たちも一斉に弟へ視線が集まる。
「うちの兄貴はヤクザなんだぞ?」
「ふーん…、それで? 全部ちゃんと報告しろよ? 岩上のいるワールドワンで、行儀悪く偉そうに打っていたら注意されたって」
「ふ、ふざけんじゃねえ!」
弟はバツが悪そうにそのまま帰った。
「いやースッキリしたよ、見ていて」
客たちに褒められる。
ゲーム屋ではたまにこうした勘違いした客も多々いた。
番頭の佐々木さんから、チャンプの久保田が店をクビになったと聞いた。
仕事を終え、事情を聞きに行く。
原が言うには、ここ毎日のようにサラ金の取り立てが店に来ていたらしい。
十日で三割の高利貸し、通称トザンにまで手を出してしまった久保田はそれでクビになる。
何でそんなにしてまでシャブを……。
しかしそれがシャブ中なのだ。
もはや救う救えないの話じゃない。
俺がチャンプを辞めた後に入った従業員の飯塚が「岩上さん! 岩上さんならワンポイント二万で彫りますよ」と声を掛けてきた。
彼は有名な彫何とかの入墨を彫る元彫師らしく、会う度同じ科白を言ってくる。
身体に入墨やタトゥーなどまったく興味が無い俺は、いつも適度にやり過ごす。
クビになった久保田の動向が気になるが、俺では助けられない無理な領域にいるのだろう。
お硬い街川越に珍しく風俗店ができたようだ。
家から近いので入りにくいが、かなり興味があった。
サンロード沿い、湯遊ランドの先にある雑居ビルの三階にできたヘルス。
俺は休みを利用して行ってみる。
入る際、辺りをキョロキョロ見回してからなので、かなり挙動不審に知らない通行人から見られただろう。
可愛い系で胸の大きなマドカという子を指名する。
実際に見てみると写真より良い女である。
プレイの途中、マドカの股間へ俺のをつけた。
「だ、駄目だよ! 本番禁止だから」
「先っちょだけ」
そう言いながら近付くと、マドカは大きな声を出して感じだした。
俺は興奮しながら徐々に中へ入れる。
大きく揺れるマドカの胸。
気が付けば完全なセックスの形になっていた。
何も言わず俺を受け入れるマドカ。
五分もしない内に、俺は射精してしまう。
生まれて初めての事だった。
今までどれだけ女を抱いたのか自分でも覚えていないほど数を抱いたが、まともに逝けた事が無い。
俺はどうしてもこの女が欲しくなった。
「マドカ…、真面目に付き合ってくれないか? こんな仕事しなくても、俺が頑張って稼いでくるから」
真剣に真面目に気持ちを伝える。
マドカは少し考えてから口を開く。
「私ね…。ヤクザ者の女なんだ……」
「ヤクザじゃ、オマエを幸せにできない。だから別れろ。俺が幸せにしてやる」
その言葉に泣き出すマドカ。
俺は黙ったままセブンスターに火をつけて待った。
「あのね…、本当に嬉しいんだけど、私の彼氏ね…。今、刑務所入っているの……」
辿々しく話す。
「それなら余計だ。そんな刑務所行くような奴とは別れろ」
「この仕事するの、私初めてなんだ…。彼が入った時、待つって自分で決めて…、覚悟してこの業界に入ったの…。だからごめんなさい…。こんな私に本当に嬉しい…。嬉しかった……」
諦めたくなかった。
しかしこの子の心境も考え、今日は帰る事にする。
この出会いから俺はマドカの事で頭が一杯になった。
ワールドワンで働いていても、どこか上の空。
俺は余っていた発泡スチロール性のボード板を適度な長方形の大きさに切り、仕事中ポスカを使って絵を描き出した。

何故こんな絵を描いたのか、自分でも分からない。
イメージ的に暗い草原に佇む俺を頭の中で描き、そのまま絵をしてみた。
店の作業用に透明のクリアシートもあったので、空気が入らないよう絵を包み、水が溢れても大丈夫なようにする。
「岩上さん、絵上手いんすねー。いきなりそんなの描いてどうしたんですか?」
山下が覗き込んで声を掛けてきた。
「うるせぇ、何だっていいだろ! ほら、一卓さんINで呼んでるよ」
慌てて誤魔化す。
妙に落ち着かない。
俺はこの日も川越へ戻ってから、マドカと会いに風俗へ寄る。
「どうしたの、これ」
描いた絵をとても喜ぶマドカ。
俺は毎日のように風俗へ行き、連日彼女を抱く。
小出しにしながら徐々に口説く。
あれだけ色々な女を抱いて逝けなかったのに、マドカだとすぐ射精してしまう。
性欲からか、心が欲しいのか。
混沌とした感情を抱えつつ、その為だけに様々な絵を描いた。
「ねえ、マドカ。源氏名と本名が同じなのは分かった。あとさ、苗字も知りたい。それと連絡先も」
「うーん…、ちょっとそれは待って…。あなたにだけ私は本番を来る度受け入れてしまっている…。彼を待つと決めてこの仕事を始めたのに…。携帯電話の番号はいいよ、交換しよ」
彼女なりの葛藤。
しかし心の中で揺れ動いているのも分かった。
「分かったよ。今日はもうこれ以上何も言わない…。俺はこれからも君の為に絵を描くし、できる限りここに来てマドカを抱く」
余裕なんてまったく無い。
だけど彼女の前では余裕を見せたかった。
少しずつ心が解れればいいのだ。
焦っちゃ駄目。
自分に言い聞かせるよう心の中で呟く。
まだお袋が家にいた幼少の頃。
俺は強制的に八個の習い事を通わされた。
ピアノ、習字、絵画教室、水泳スクール、学習塾、体操教室、合気道。
当時は一杯一杯でよく覚えていない。
だが幼い頃に習ったものは、三十歳になった今でも覚えているのだろう。
絵を描くようになって自覚できた。
マドカは俺の絵を喜んでもらってくれた。
それだけのスキルを持たせてくれたのは皮肉な事にお袋。
あの頃お袋は家を出ていくまでは、俺へ彼女なりに期待をしていたのだ。
今となってはお互い空回りで、修復不可能ではあるが……。
出て行って続けたのはピアノだけ。
あれは先生がいつも俺の愚痴を聞いてくれ、甘やかしてくれたから続けただけなのだ。
高校を卒業し、ピアノの先生へ会いに行った時の事を思い出す。
何故先生の家族は汚いものでも見るように俺に関わるなと言ったのだろう?
あれだけ俺を可愛がってくれた先生の家族たちなのに……。
未だにいくら考えても分からなかった。
今日辺りマドカも落ちるんじゃないか……。
風俗嬢に恋して真剣に口説いているなんて、近所のTBB総合整体の先生にしか言えなかった。
あの時から空けて二日が過ぎている。
マドカにも考える時間をあげたかったのだ。
明日、仕事終わったら帰りに寄ろう。
この手で抱き締めたかった。
川越に着き、マドカの店へ向かう。
おかしい……。
いつもなら一階の入口に看板があるのに無い。
俺はエレベーターで三階まで行く。
店は営業している雰囲気がまるでなかった。
恥ずかしさも手伝ったが、地元の知り合いに何か知っているか聞き回る。
もちろん俺が行ったというのは内緒にして、川越に風俗ができたんですよねとトボけた感じで……。
家の目の前にある映画館ホームランを継いだばかりの社長をする櫻井さんが知っていた。
「昨日さ、あそこ警察にパクられたんだよ。湯遊ランドの先のビルだろ?」
「え、パクられた?」
「店の女の何名かは、隣の屋根づたいに逃げたのもいたらしいよ」
「……」
格好つけて余裕なんて持とうとするんじゃなかった。
マドカは間違いなく警察に捕まった。
もちろん店も……。
俺は先日マドカの携帯電話を聞いている。
駄目元で電話を掛けてみたが、警察に押収されたのか電源が入っていない。
警察へ面会行くにも彼女の本名すら俺は知らないのだ。
結局この日を境に、マドカとは連絡がつかないまま終わってしまった。
