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闇 05(新潟、浅草ビューホテル編)

闇 05(新潟、浅草ビューホテル編)

2024/07/24 wed
2025/08/12 tue
前回の章


左足親指の爪粉砕による負傷。
歩く事もままならない。

あと一週間でどこまで回復できるか。
こんな状態で全日本プロレスに望まなきゃいけないのか?
プロテストは前回と同じなら、左足首を右ふくらはぎに乗せれば腕立て伏せは可能だ。

去年は大沢の乱闘で警察に捕まり、入門はパー。
今年はプロテスト手前で足の怪我。
あまりの運の悪さが嫌になってくる。

全日本プロレスプロテスト前日。
同じく場所は戸田スポーツセンター。

足の爪はまったく生え揃わない。
歩いてつま先に体重が掛かるだけで激痛が走る。

しかしそんな不安をよそに、レスラーの渕さんは笑顔で迎え入れてくれた。
体力は去年の分っているから特別なテストもなかった。
この点は本当に助かる。

この一年で体重十キロ上がっていた。
身体も大きくなったなと気付けてもらう。

渕さんとこれまでの事を簡単に話していると、背後から声を掛けられる。

「あんたね? 一回フェイドアウトした人間は……」

小柄なメガネを掛けたおばさんが立って俺を睨んでいた。
グッズなどを売る売店の人間か?

「うちはね…、一度フェイドアウトが務まるほど甘くないよ!」

その台詞で一気に頭へ血が上る。
どれだけ罵倒され屈辱を受けながら不遇の一年間を過ごしてきたのだ。
簡単に人のこれまでを小馬鹿にしやがって……。

「ふざけんじゃねぇ、ババァ! 男の世界に女が口挟んでんじゃねえよ!」

怒鳴りつけた瞬間、後頭部を強く叩かれた。

「おまえ、誰に向かってそんな口利いてんだ!」

真っ赤な鬼の形相の渕さん。
他のレスラーも駆け付け、殴られ地面へ押さえつけられる。

「謝れ、このクソガキが!」

売店のおばさんだと思った相手は、ジャイアント馬場社長の奥さんだったようだ。
それでも簡単に俺のこの一年を軽く見られた事には納得できなかった。

意地でも謝るものか。
身動き取れない状況でも、俺は顔を上げて睨みつける。

騒ぎの中、一人の大男が近付いてきた。
あの三沢光晴さんだった。
本当に緑のコスチュームを着ているんだと、こんな状況の中呑気にそんな事を思っていた。

渕さんが三沢さんに状況を説明している。

俺を押さえつけていたレスラーたちをどかし、肩を貸して起こしてくれる三沢さん。

「まだ若いんだから、おいおい教えていけばいいじゃない」

その一言でみんな黙るしかなかった。
粋がる事しかできない小僧を一人の人間として接してくれ、窮地から誘ってくれた。

ニコッと微笑む三沢さんを見て、俺は一発で陶酔してしまう。
強さだけ求めるのでなく、男として生まれたからにはこうなりたい。
偉大な背中を見せつけられた。

この一件から、俺は三沢光晴さんが人間的に大好きになっていた。


足の具合は本調子とはいかないものの、合宿所まで辿り着ける。

鶴田師匠は去年より身体を大きくしてくれた事を褒めてくれ、マンツーマンでよくトレーニングを見てもらう。
体力の消耗は激しいが、充実した日々を送れた。

「いいかい? レスラーってのはどんな攻撃も避けちゃいけないし、何を喰らっても壊れちゃいけないんだよ」

だからこそ日々鍛錬し、強靭な肉体を作り上げるのだ。
ここには強くなる環境だけがすべて揃っている。
俺もただこの不遇の一年を過ごしてきた訳ではない。

一度、以前編み出した自身の必殺打撃技の打突の事を話した。
鶴田師匠の形相が変わり、「おまえは相手を殺すつもりでやっているのか!」と酷い怒られ方をした。

馬場社長の伝えるプロレスは、どんな攻撃をも受ける気構えで構える。
そこへ相手は全力で攻撃を叩き込む。

俺の打突は、仁義に外れた卑劣な技でしかなかったのだ。
異様に発達した握力と親指。

全日本プロレスの中に入れば俺は背も大きくない。
バックボーンも無い。
力だって飛び抜けたものがあるわけでもない。
だからこそ編み出したのが打突だったのである。

確かに卑劣な強さを得たいわけではなかった。
しかし何の取り柄も無い俺が、この先どうすればいいのか。

一心不乱に練習して身体を大きくするくらいしか思いつけないでいた。


とある先輩レスラーの一人が妙にネチネチ絡んでくる。
おそらく俺が鶴田師匠に可愛がられているのが面白くないのだろう。

練習で着ているTシャツ一つにいちゃもんをつけ、何かしら絡んできた。
日々ちょっとした事でストレスが溜まる。

スパーリングの際、正面から両腕ごとクラッチしてそのまま沿って顔面をマットに叩きつけた。
ジャーマンスープレックスとは体勢が真逆の投げ技。
密かに受け身の取れない投げ技として開発していたものだった。

鼻血を出しながら怒る先輩レスラー。

身体はこっちの方が小さいが、技術では負けてない。
関節を取っても相手を動けなくしたところで、口元に笑みを浮かべながら手を離す。

リングの上なら何をやってもいい。
先輩後輩など何も関係ないのだ。
何だ、俺のほうが実戦じゃ強いじゃん……。

油断した瞬間だった。
相手は体重を活かし上に乗られ、左腕関節を取られていた。

相当これまでやられたのが悔しかったのだろう。
先輩レスラーは「タップせいや、オラッ」と凄んでくる。
底意地の悪さから本当にこいつが嫌いだった。

ギブアップ?
一度関節を決めた程度で、ふざけんなよ。

俺は顔面目掛けて唾を吐き掛けた。
その瞬間左腕があり得ない形に曲がり、左肘の骨が変な方向に突き出した。

まだデビューもしていない俺のプロレス生活は、これで終わりを告げた。

歪に突き出た左肘

最初は警察。
次は怪我。

自分自身にも問題があったとはいえ、何故俺は何をしてもうまくいかないんだろう?

リングの上で戦う為にずっと鍛えてきた。
身長百八十センチ、体重九十二キロ。
ジュニアヘビー級程度の大きさにはなれたのだ。

しかしすべてが何の意味も無くなった。
もう生きている価値すら無い。

怪我で再び川越へ戻ってきた俺。

状況を知って、先輩の坊主さんは俺の部屋に一週間寝泊まりした。
ふさぎ込む俺に対し、とにかく自棄になるな、どうあっても生きろと説いた。

一人でもこんな俺を気に掛けてくれる人がいる……。

死ぬ訳にはいかなかった。

どんな恥を掻いても、死にたくても、生きていれば腹は減る。
金だって元々持ってない。

腕の怪我がマシになった頃、また一般社会で働く必要があった。


地元の知り合いから、人にかなり気を使う性格だから接客業をやってみたらとアドバイスを受ける。

配膳という業種の仕事。
まずはそこへ登録が必要らしい。

当初川越の氷川会館式場で働くつもりが、いきなり新潟のホテルへ行ってほしいとと頼まれた。
場所は新潟県にある上越国際スキー場にあるグリーンプラザ上越というホテル。

新幹線のチケットも用意され、俺は二十三歳の冬、新天地へ向かう。

北海道倶知安時代と同じ辺り一面銀世界に包まれた空間。
違うのはスキー目的で来る客の数。
そして雪質の違いだった。

北海道の雪は服について、手で叩いても中々落ちない。
新潟の雪は関東でたまに降る雪質とそう変わりはなかった。

二千人は集客できるスペースの大型ホテル。

俺は初日社員寮へ案内され、配属はアルプスというレストランになった。

誰から聞いたのか全日本プロレスにいたという事を知ったホテルの従業員たちは、俺のところへ色々聞きに来る。
またどんな奴が来たのだろうと眺めに来る人間もいた。

こんな途中頓挫した男がそんな珍しいのだろうか?
不思議な気分だった。

「岩上さん凄いっすよ」
「何が凄いの?」

同部屋の配膳人石原が声を掛けてきた。
彼は俺より一歳年下。

「あの嫌味な総支配人ですら、岩上さんの前ではペコペコじゃないですか」

厳しく性格が悪いと言われる他のスタッフたちから評判の悪い総支配人。
そんな彼は熱烈なプロレスファンらしく、俺のいるレストランアルプスへ来た。

俺などレスラーでも何でもない。
ただ短い期間、全日本プロレスに練習生としていただけなのに「握手してもらえませんか?」と立場も気にせずもの凄く畏まっている。
リスペクトさせるような事など何もしていないんだけどな……。

総支配人が去ると、俺は口を開く。

「あの支配人のどこが性格悪いんです?」
「岩上さんだからあんな態度取ってんですよ。前なんて、このホテルケチ臭くて一切ホテルのものを持ち帰っちゃ駄目なんですね」

「だってこれだけの従業員がいるのに、それを許可したら洒落にならなくなるでしょ」
「まあそうなんですけど、直に岩上さんも分かりますよ」

「分かる?」
「ここにいると、普通の食事をどうしても欲してしまうので、飢えてくるんです」

「飢える? だって社員食堂あるんでしょ?」
「ありますよ。まあ生活をここで一週間もすれば分かりますよ」

「……」
「自分、所属が和食の雪路なんですけど、アルプスへヘルプに行ったバイトの子がランチの時のバターロールを一つくすねたらしいんですよ」

「まあその人パンが食べたかったんじゃないんですか?」
「でも関係者が食べ物を持ち出すの禁止じゃないですか。それでその人、小さい四角いバターあるじゃないですか。あれも一つ持っていったらしいんですよ」

「まあパン一つよりもバターもあったほうがいいですからね」
「それで通路でそのバイトが総支配人にあり、立ち止まりお辞儀をした時ポケットからそのバターを落としてしまったんです」

「最悪の展開ですね」
「そうなると当然何でこんなもの持ってんだと身体検査。そしたら服の中からバターロール一つ」

「そのアルバイトはどうなりました?」
「その場でクビになり、翌日新幹線で帰されましたよ。それをするだけの権限がありますからね」

「さすがにそれ、パン一つで手厳しい…、いや、かなり酷くないですか?」
「だからあの総支配人は嫌な奴ですよって言ったんです。岩上さん、あなたは、いきなりそんな人間が畏まって握手を求めてきているんですよ? 周りがその話を聞いてどれだけ驚いたか分かりますか?」

確かに石原の指摘するように俺へあの総支配人は握手を求めてきた。
だがあれは俺というフィルターを通し、背後にある全日本プロレスという幻想に対しての行動に過ぎない。
中途半端でレスラーですらない俺。

この当時、それぐらいプロレスの人気はずば抜けて凄かったのだろう。

こんな形で俺の新たな生活は始まった。


アルプスはかなり大型のレストランで席数五百あった。

スキー場のリフト乗り放題、宿泊もタダという条件で釣られた大学生集団が大量にいるので、彼らアルバイト込みで一日辺り七十名前後のスタッフを使う。
所属スタッフだけでは人数が足りない日もあり、その場合和食レストラン雪路からヘルプを寄越してもらう。

昼のランチタイム時は客が自分で好きな料理を取りに来るカフェテリア形式。
夜は食べ放題のブッフェ形式。
サービス業自体このようなホテルでは初めてだったので、何もかもが新鮮だった。

五百席もあるのにそれでも行列ができるレストランアルプス。
いかに閉鎖された空間にいるかを物語っている。

ランチはミートソースのところに立ち、並ぶ客へパスタを盛ってソースを掛けた。
先にあるレジまで行って会計するので、手間はそう掛からない。

アルバイトたちは空いた席の食器をひらすら片付け、次へと回す。
七十名いても、追いつかないくらいの忙しさであった。

米と言えば新潟魚沼産コシヒカリ。
密かに楽しみにしていたが、社員食堂までアルバイトを使い作らせていたので、賄は酷い出来だった。
米も古米どころか古古古米でも使っているのかと感じるくらい潰れた不味い米。

責任者という立ち位置を使って、厨房のシェフたちからレストランの料理をもらう事はできたが、常に飢えているアルバイトたちを前にそれはできなかった。

他に食事をするところと言えば、リフトでスキー場の下まで降り、それから街に繰り出さねばならない。
一度試みた事があるが、下り途中でリフトが止まり、凍え死にそうになってさすがに懲りた。
私服で下りのリフトに乗り、買い出しに行くには割に合わない。

そんな状況も手伝い俺の体重は一か月ちょっとで十三キロ落ち、七十九キロになってしまう。
あれだけ体重を上げる為必死だったのに、落ちるのはこんな簡単に落ちてしまう現実。

あの食堂のご飯を食べるぐらいなら……。

せいぜい口にするのは生き延びる程度の最低限の量。
あれだけ食欲旺盛な俺がこうなのだ。
いかに社員食堂が不味かったかの証明になると思う。

ブッフェレストランで大事なのは回転率の速さ。
いかに迅速に空いたテーブルの上を固し、次の客を回せるかによる。
七十名前後のスタッフを用意しても、追い付かないほど客数が半端じゃなかった。
それでも体力だけはずば抜けて優れていた俺は、あまりにもホール状況が混乱すると、一旦従業員たちの手伝いへ入る。

トレイを何重にもして四隅にプラスチックのグラスを置く。
そのあいだに食器類やサーバーなどを置き、トレイを被せる。
また四隅にグラスを置きといった状態で五重層の状態にして持っていく。

食べるのに集中する客も、俺が五重層の食器類を持つ姿が視界に映ると食事の手を止め、姿が消えるまでずっと眺めていたと他のスタッフから聞いた。

スタッフたち…、特に女性陣が一番厄介な作業がトレイの積み重ねである。
俺は「任せてくれるかい」と声を掛け、自分の頭よりも高く積んだトレイをひょいと持ち上げた。
一気に沸く店内。

力という点だけについては、これまで鍛えぬいた身体を持て余す事なく発揮できた訳である。


今俺は、新潟にいるんだよな?
目が覚めるといつもカーテンを開け、二階まで積もった一面の銀世界を眺めた。

本当凄いところへ来たものだ。
川越にいたら一年に数回しか降らない雪。
それがここでは当たり前の日常になる。

北海道の時もそうだった。
十月頃だったか。
外の景色はいつも真っ白に覆われる。

同じ日本で電車や飛行機で数時間行っただけで、こうも違ってしまう。
これは、実際に体験すると摩訶不思議にしか感じない。

歪に突き出た左肘横の骨を眺める。
もう必要以上身体を大きくする事もないか……。

この頃ホテル内にあった簡易的な作りのゲームコーナーで、カプコンのストリートファイターゼロがみんなの間で流行る。
バーチャファイター派とストリートファイター派という妙な派閥もできたほどだ。

俺は稼いだ金を八割方ここのゲームセンターへ注ぎ込むほど熱中した。
管理人の熊谷と意気投合し、他の客がいない時なら「内緒ですからね」と彼は鍵を開けてクレジットボタンを押し無料でやらせてくれるほど。

大学生たちのアルバイトたちと仕事を終え、宿舎へ帰ろうとすると「岩上さん、結構可愛い女性客が岩上さんの事ずっと見ていますよ」と声を掛けてくる。

別に俺は有名人でも何でもない。
しかし気になったので指す方向を見ると、中学時代同級生だった綱川直美が立っていた。

「ひょっとして綱川?」
「岩上君だよね?」

もの凄い偶然。
彼女は月日と共にとても美しい女性へと変貌していた。

「おまえらは先に帰ってろ」

照れ臭さからアルバイトたちを先に行かせる。

中学生の頃あんなチンチクリンだった子が、こんな奇麗な女になっているなんて想像もつかない。

「ちょっと一杯飲んで行こうよ」

俺は本館一階にある居酒屋のみち草へ綱川を誘い、中へ入る。
責任者の阿久津は女性連れで来た俺を見て驚いていたが、普通に接客してくれた。

「身体大きくなっていたから、岩上君ってすぐ分からなかったよ」

「おまえも奇麗になったな……」

そのぐらいキザな台詞を言いたかったが、女性に対し免疫の無い俺にはとてもじゃないが何も言えなかった。

「レストランアルプスってところに俺はいるんだ。綱川も友達と一緒に来ているんだろ? 明日のランチタイム良かったらおいでよ」
「うん、絶対に行くね」

お互いの自宅の電話番号だけ交換し、彼女を客室まで見送る。

本当に驚くほど奇麗になった。
素直にそれを言えない自分を忌々しく思う。

翌日綱川は友達を連れてアルプスへ本当に来てくれた。
同じレストランで働く社員の佐藤貴子に「中学の同級生なんだけど、何かサービスできないですか?」と聞くと「岩ちゃんの知り合いなら、お会計タダでいいよ」とすべて無料にしてくれる。
このクソ忙しい状況で、俺の顔を立ててくれた。

綱川は何度も感謝を述べ、レストランを出て行く。

「凄い岩ちゃんに彼女、感謝していて良かったね」

貴子は後片付けが落ち着くと俺のところに来て笑顔で話し掛けてくる。

それは君の計らいだろうが。
何て粋な女なのだろうと佐藤貴子に対し好感を覚えた。


スキー場内という閉鎖された空間での生活の日々。
アルプスはいつも戦場のように多忙だ。

ある日同じ年上の配膳と仕事上の事で意見が衝突する。
理不尽な物言いに苛立つ俺。

接客しながらも表情に出ていたのだろう。

佐藤貴子が「岩ちゃん、何かあったんですか?」と首を傾げながら聞いてくる。
いちいち他の配膳の悪口を言うのも嫌だったので「何でもない」と素っ気ない対応をした。

すると彼女は右手を頭の上に置き、左手は顎の下へ持って行きながら「ゴリラの真似するんで、そんな怒った顔しないで下さいよー」と滑稽なゴリラの真似をする。

「何してんの、佐藤さん?」
「ウホウホ」

こんな可愛い子が、こんな事をするなんて……。

思わず吹き出す俺。

「あ、やっと笑ってくれた!」
「俺を笑わせる為に、そんな事をしたの?」

「だって岩ちゃんはいつもなら気は優しくて力持ちという感じなのに、そんな人が酷く怒った顔してましたからね。岩ちゃんは笑顔がいいですよ」

「……」

気は優しくて力持ち?
力は確かにあるけど、優しくなんてないぞ、俺は……。

その時こんな子がいつも傍にいてくれたら、俺は幸せなんだろうなと素直に感じた。
先日は綱川直美の奇麗さに惹かれ、今は佐藤貴子の性格の可愛さに惹かれている俺。
何て節操がないのだろうと自身を恥じる。

彼女と共に同じ職場で働き楽しく生活をしている。
今はこれでいいじゃないか。

これまで鈴木美千代としか付き合った事のない俺。
異性に対しどこかすべてに臆病だった。
変に意識せず、踏み込まなければこの関係だけは維持できる。
好意を伝え、もしフラれでもしたら、この雪に囲まれた山の中、逃げ場所すらなくなってしまう。

せめて同じレストランじゃなかったらなあ。
こればかりは配置を決めた人間を恨むしかない。
でもそれじゃこの子の性格の綺麗さをする事ができなかったか。

どうでもいい事で考え悩む。
せめて貴子が俺に対するイメージが歪むような真似だけは避けよう。

自分を戒め、これ以上佐藤貴子との仲が進展する事は当たり前だがなかった。


宿舎は当然の如く男しかいない。
四人一部屋の配置なので、息が詰まった者は一階へ降りていく。

広い談話室でカップラーメンを啜る者。
タバコを吸いながら友達同士楽しそうに話す者たち。
一つしかないテレビを無言で見る者たち。

それぞれが好きなプライベートの過ごし方をしていたが、突然怒鳴り声が聞こえる。
厨房で働く人間と、配膳でも上の方の地位の人間の口論。

同じホテルで働くとしっても、ホールと厨房では温度差が違う。
それぞれ考え方や捉え方も違うのは当たり前。

何が原因かまでは分からないが、配膳の人が明らかに見下すような発言をして小馬鹿にしているのだけは理解できた。

「だいたいあんたねー、料理だけ作っている人間と違って、こっちは接客やスタッフの管理もあるんですよ。もうちょっと脳みそ鍛えたほうが良くないですか?」
「何だとテメー、馬鹿にしやがって!」

思わず厨房の人間が掴み掛る。
俺は咄嗟に間へ入り、両者を止めた。

「離せ! 人を小馬鹿にしやがってあの野郎!」
「落ち着きましょうって! 気持ちはわかりますよ。悔しいですよね? でもだからって手を出すのは駄目ですよ。落ち着いて下さい」

手を出そうとした。
その事がホテル内でも問題になり、厨房の人間は総料理長の前で小さくなっていた。
このままでは下手したら彼はクビになるかもしれない。

男は項垂れたまま談話室を出る。
彼がいなくなってから俺は、総料理長にありのままの事実を正直に伝えた。

「確かに手を出そうとしたのは問題はあると思います。でも、傍から見ていたらまるで手を出してくれと言わんばかりの挑発的な言動はしていました。自分が言うのも憚りますが、彼だけが悪い訳ではないと思います」

俺の言葉に料理長は目を細め「ありがとう」と静かに言った。
後日聞いた話によると、あの厨房の男は注意だけで済み、首を回避できたようだ。


二ヶ月も経たない内に、俺は別の場所へ移るようお願いされる。
俺の所属する配膳会社からの辞令だった。

せっかく新潟にも馴染んできたところなのに後ろ髪を引かれる思いだ。
俺は断ろうと電話して必死に自分の気持ちを伝える。

「何故自分なんですか? 他にもいっぱいいるじゃないですか?」
「おいおい、周りからも評判のいい君だから選んだんだろ。出世という訳じゃないけどさ、あんな寒い雪だらけのところよりも、給料も上がり都会にいたほうがいいだろ。まあこれは決定事項だ。従ってくれよな」

多くの従業員が別れを惜しんでくれた。
俺は売店でミニノートを購入し『上越国際連盟』と名付けたものに、一人一人の連絡先を書かせる。
家に帰ればワープロがあるのだ。
この地で知り合った同志たちの連絡網を作ろう。

最後にホテルを出る際、以前談話室で揉めた厨房の男が俺に声を掛けてきた。

「あのー…、料理長からあとで聞きました。自分だけが不利にならないよう、あの時の現場を見ていた人がわざわざ意見を言いに来てくれたと…。岩上さんですよね? 本当にありがとうございました」

彼は俺の姿が見えなくなるまで深く一礼したまま見送ってくれる。

それを見て、俺がした事は間違っていなかったと実感した。
心の中が温かくなる。

中々新潟での生活も楽しかった。
そう思わせてくれた彼の感謝の言葉。
最後の最後でいい事をしたんだなと思えた。

こんな俺でも、感謝を向けてくれる人もいるって事か……。

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