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闇 16(ザナルカンド編)

闇 16(ザナルカンド編)

2024/08/08 thu
2025/07/12 sta
2025/08/19 tue
前回の章


春美と出会ってから、俺は少しおかしい。
冷静に物事を円滑に運んでいたはずなのに……。

急にピアノを習いだしてみようと思ったり、また絵を描き出したり、プライベートで一回しか逢った事のない春美の事ばかり考えている。

何だろう?
このせつなくむず痒い気持ち。
どう説明すればいいのか。

「抱きたいんだろ、春美を……」

わざと声に出してみた。
しかし何かが違う。

単に抱くだけなら、彼女よりいい女はもっといる。
顔だってスタイルだって、よりいい女は腐るほど抱いてきた。

今までで危なかったのは、出会い系サイトで知り合った女だけである。
携帯電話がようやくメール、そしてインターネットができるようになった頃。

流行り始めは俺もハマった。
もちろん最初は顔も名前も声も知らない。
だからこそ、その事にトキメキも感じた。

俺はいつも正直に自分を出し、接していた。
逆に相手も俺だけには正直に自分の事を話しているのだと思い込んでいた。

実際に会ってみると、自分の想像とは程遠い酷い女性ばかり。
うまい具合に仕事が入ってしまったと言い訳をして、逃げたケースがほとんどである。

一度『ユウナ』という名前の子に出会った事があった。
とても性格のいい子でメールのやり取りをする度、俺は癒された。

ファイナルファンタジーXのユウナ

ちょうどファイナルファンタジーXのヒロインと同じ名前のユウナ。

当時自分の気持ちを伝えた。

『俺は君の顔も声も知らない。でも君の優しいその性格だけで充分だ。俺と実際に会い、つき合ってほしい。 岩上智一郎』

『ユウナ』は喜んで返事をくれた。
二人の仲がどんどん縮まっていくと、彼女はどんな感じの女性なのだろうと勝手な想像をするようになる。
今のように携帯電話で簡単に写真が撮れるような時代じゃない。
まだ子供だましの文字だけのインターネットができる程度。

前に顔とか見るとかじゃなく、君の性格をとても気に入っていると嘯いた俺。
写真も何もいらない。
会う時はそのまま会おうと格好つけてしまったので、今さらこちらから写真を送れなんて言えやしない。

そんな俺に対し、彼女は芸能人に例えるとモーニング娘の安倍なつみにそっくりと言われると返してくる。
え、誰それ?
極度の芸能音痴の俺は、安倍なつみなど聞いた事もない。

安倍なつみ

行きつけのジャズバー、スイートキャデラックのマスターに聞くと「安倍なつみですか…。ん-、まあ誰が見ても可愛いと言うんじゃないでしょうかね」と答えた。
これにより俺の妄想は、さらに暴走モードへ突入する。
安倍なつみの顔は知らないが、誰が見ても可愛い。
そしてゲームのユウナプラスアルファの相乗効果。

実際に会う日を心待ちにしていた。
初めて会う日がやってくる。

待ち合わせ場所は新宿駅アルタ前にして、俺は新宿プリンスホテル地下一階にあるイタリアンレストラン『アリタリア』を予約。
支配人の蒲田さんへ「今日は今までで一番大切な女性を連れてきますので」と前日にお願いまでする始末。
部屋も普段では泊まらないようなスイートルームを予約し、この日の内に結ばれるつもりでいた。

そして近所の同級生の化粧品屋へ行き、女性がもらったら喜ぶ化粧品を聞く。
三万円分の化粧品を買いプレゼント用に包んでもらい、豪華な薔薇の花束まで注文して部屋に飾る。
それだけ期待度は大きかったのだ。
言い方を変えると、彼女を抱く為だけに金と時間を掛けシャカリキに動いていた。

会う前、彼女から電話があり「さっきね、参っちゃった。私の弟の近所の同級生なんだけど、私が出掛けようとすると『ユウナ姉ちゃん、どこ行くの?』って聞いてくるの。智一郎さんとデートなんだって言うと『駄目だよ。そんな奴と会っちゃ』って駅まで一緒に付いてくるんだもの」なんて言うものだから、さらに俺の期待は膨れ上がる。

実際に会う段階になって俺は正直固まった。

想像していた女性と『ユウナ』。
かなりかけ離れていたのだ。
どうやってこの子を説得して帰そうか、そればかり考えていた。

プリンスホテルの鎌田さんは、良かれと思って至れり尽くせりの接客をしてくれる。
次々と運ばれてくる料理。

『ユウナ』は夢心地になりながらデレデレしていた。
「プレゼントを用意してくれたんでしょ?」と恥ずかしそうに話す彼女。

俺は無下にできず、食事を終えると部屋まで連れていくハメになる。
これまでの綺麗事、格好をつけた言い回しを言った自身を呪う。

化粧品と薔薇の花束を手渡すと、『ユウナ』はゆっくり目を閉じた。
え、何その体勢は……。

ずっとキスを待っている。
ここでキスをしてしまったら、俺は生涯この子と一緒に過ごす事になるだろう。

漫画『あしたのジョー』のラストシーンを思い出す。

あしたのジョーホセメンドーサ戦前控え室

チャンピオン、ホセメンドーサに挑む矢吹丈が控え室を出る前、白木陽子が「あなたが好きなの」と止める。
丈は葉子の肩に両手を添え、「世界で一番強い男が待っているんだ」と去っていく。

俺はその光景を頭で描きながら『ユウナ』の両肩に手を添え、「会ったばかりだろ? それでこういうのってよくないよ。今日は帰ったほうがいい」と静かに言った。
彼女は大切にされていると思ったのか、目をウルウルさせている。

俺は申し訳ないが緊急の仕事が入ってしまったと嘘をつき、その場から逃れた。
それ以来俺は、『ユウナ』と連絡を取る事はもちろんない。
過度な期待をしていた分、俺の落ち込みようといったらなかった。

帰りにスイートキャデラックへ寄り、マスターがあんな事言うから騙されたと散々クダを巻く。
みんな、俺の姿を見て大笑いしていた。
このマスターには、未だにこの件で笑い話にされる。

よくよく考えてみたら、安倍なつみそっくりでファイナルファンタジーのユウナのような女が、出会い系サイトなど登録するはずがないのだ。


そういった過去の汚れている出会い系とは違い、春美とは運命的に出会ってしまった。
この喜びと感動をどう表現したらいいのだろう。

導き出した答えは一つしかない。
ピアノ。

俺はこれからピアノを始め、春美へ捧げるのだ。

ファイナルファンタジーⅩのCDケースを手に取る。
ザナルカンド……。

中に楽譜があるかどうか調べた。

「……」

そんなもの、あるはずがない。

時計を見ると、お昼近くになっている。
近所にできた楽譜屋の『くっきぃず』は、今日やっているかな?
とりあえず行ってみる事にした。

ガラス張りで外から丸見えの作り。
中には昨日話した四十代のおばさんがいる。
俺はドアを開けて中に入った。

「こんにちわ」
「あら、こんにちわ。昨日は、早速お買い上げ頂き、ありがとうございました」

おばさんは人の良さそうな笑顔で明るく話している。
素直に好感が持てた。

「いえいえ、とんでもない。実はですね。今日はお願いがあってきたんです」
「はい、何でしょう?」

馬鹿にされるかもしれない……。

でも、俺はザナルカンドを弾けるようになりたかった。
そしてどうしても春美に聴かせてあげたい。

「ファイナルファンタジーって、知ってます?」
「うーん、何のジャンルでしょうか?」

やはり知らない。
これ以上聞くのはやめておこうか。
いや、聞くだけ聞いてみよう。

「ゲームです。ゲームミュージックなんです」
「へえ、凄いですね。最近のゲームはCDにもなっているものもありますからね。ちょっと待って下さい。楽譜があるかどうか調べてみます」

おばさんはマッキントッシュのパソコンと向かい合い、モニタとしばらく睨めっこしている。
俺はパソコンを活用した事がないので、黙って見ているだけ。

「あ…、ありましたね…。いくつなのでしょうか?」
「え、何がです?」

「ギリシャ数字で、ⅩやⅨ…。色々ありますよ」
「テ、Ⅹです。Ⅹ……」

「ああ、ありますよ。CDじゃなく楽譜で…、ですよね?」
「そ、そうです!」

無いものだと思っていた。
思わず自然と俺の声は大きくなる。

心が弾む。
毛穴が全開に開き、興奮していた。

「すみません。それ、注文できますか?」
「ええ、もちろん」

おばさんは俺の喜びようを見て、クスクスと笑っていた。

「もう一つ、お願いがあるんです」
「はい、何でしょう?」

俺は覚悟を決めた。
やるしかない。
これだけ条件が揃ったのだ。

「その楽譜が届いたら、俺に……。ピアノを教えてくれますか?」
「え?」

突拍子もないのは充分自覚していた。
おばさんは…、いや、これから教えを乞うのだから先生か。

「俺、ピアノなんて、今まで弾いた事ありません。でも確か、最初はバイエルンからやるんですよね?」
「フフフ、バイエルね」

「そう、そのバイエルからとかじゃなくて、さっき頼んだ中に、どうしても弾きたい曲があるんです。それを弾けるように教えてもらえますか?」

無茶な要求なのは百も承知だった。
でも、俺は真剣に頼んでいた。
頭を深く下げ、目で必死に訴える。

「ええ、いいですよ」。

先生はこっちの予想に反し、あっけなく簡単に答えた。
拍子抜けしたが、もう一度確認してみる。

「ほ、本当ですか? 俺、ピアノなんてやった事、一度もないんですよ?」
「ええ、大丈夫ですよ。これから頑張りましょう」

これで…、春美にピアノを弾いてやれるかもしれない……。

天にも登るような気持ちだった。
あとは俺の努力次第。

「ありがとうございます」

心からお礼を言い、もう一度深々と頭を下げた。
そういえば習うのはいいが、月謝はどのくらい掛かるのだろうか?

「あの、お金はどうすればいいですか?」
「うーんと、そうね…。うちは週一のレッスンで、月謝が一万二千円だから…。一時間で三千円の計算になります」

俺の性格上、定期的に通うのは無理である。

「俺、今は新宿まで仕事へ行っています。定期的に通うの難しいので、来たい時習いに来てもいいですか?」
「ええ、いいですよ」

人生、不思議なものである。
昨日知り合ったばかりの人間が、今日俺の先生となった。

春美と出会ったタイミング。
近所に『くっきぃず』のオープン。
ピアノを弾いて捧げたいというこの想い。
これらすべてが噛み合うと、どうなるのだろうか?

偶然かもしれないが運命的なものを感じ、鳥肌が立っていた。


早速キーボードを購入しに行く。
少し気が早い感じもしたが、勢いというのが大事な時だってある。

俺はデパート丸広にある楽器屋へ向かう。
ピアノを弾けたら、まわりの人間はどんな反応をするだろうか。
春美は喜んでくれるかな……。

四階の楽器屋へ到着すると、店内を見て回る。
黒いスーツを着た俺。
他の客層と、少し空気が違うような気がした。
みんな、真剣に音楽へ取り組んでいる人ばかりなのかもしれない。

まあいい。
俺だって、これから真剣に取り組もうと思っているんだ。
誰にあれこれ言われる筋合いはない。

綺麗な音色が聴こえてきた。
ピアノでもギターでもない音色。

音のするほうへ行く。
すると、バイオリンを大きくしたような楽器を股の間に置いて、弦を引いている女が見えた。

こんなデカい楽器もあるのか。
素直に感心した。

音色が突然止む。
デカいバイオリンみたいなものを弾いていた女が、俺をジッと見ていた。
しかも嫌そうな表情をしながら……。

仕方ないので、その場を離れる事にする。
多数のキーボードが、羅列するコーナーへ向かう。
するとさっきのバイオリンのお化けみたいな楽器の綺麗な音色が聴こえてきた。

「ちっ、あのアマ……」

小声で呟く。
人に演奏を見られるのが嫌なら、こんなところで演奏などするなって。

キーボードが置いてあるコーナーへ行き、ひと通り鍵盤を叩いてみる。
電子音だけあって、どれも同じように聴こえた。

デザイン的に黒が好きな俺は、キーボードの値段を見ながら吟味をする。
様々な種類の音色。
ボタン一つ押すだけで、こうも変わるものなのか。
散々迷った挙げ句、俺は黒のキーボードを選ぶ事にした。

家に戻り、早速電源を入れるみる。
キーボードにつく機能は、説明書を見ないと分からないぐらい多かった。

ピアノの音の種類だけで五種類。
中にはギター、バイオリンのような弦楽器の音もあれば、フルート、サックスのような木管楽器もある。
何の為にあるのか分からないが、鐘の音まで入っていた。

鍵盤の上にある小さな液晶の画面。
そこには鍵盤が簡素に書かれている。
試しに鍵盤を叩くと、液晶画面も同じ場所を表示した。
面白い。

俺は適当に鍵盤を弾いてみた。
音を変えるだけで、それなりのメロディとして聴こえるから不思議である。

その日は、色々と適当にキーボードをいじっていた。
早くピアノを弾けるようになりたい。
早く春美にザナルカンドを聴かせてやりたかった。

俺は近所の『くっきぃず』へ、顔を出す事にした。
まだ店内は片付いてないようで、先生は楽譜を整理をしながらとても忙しそうだ。

俺の姿に気付くと、微笑んでくる。

「先生、忙しいところ、すみません。俺、キーボードを買ったんですよ」
「あら、やる気満々じゃない」
「ええ、もうブリブリですよ」

俺の話し方に先生は笑い転げていた。
こっちが思うより接しやすい人かもしれない。

「あ、そういえば、明日辺り頼んでいた楽譜、届きますよ」
「え、ファイナルファンタジーⅩの楽譜ですか?」
「ええ」

明日からでもピアノを習える。
そう思うと俺は嬉しくて飛び跳ねた。


次の日の仕事帰り、俺はそのまま『くっきぃず』へ寄る。

先生は笑顔で注文した楽譜を手渡してきた。
ファイナルファンタジーⅩの楽譜……。

これで俺はザナルカンドを弾ける準備がやっと整ったのだ。
ページをめくり、パラパラと簡単に眺めた。
ピアノの音符の羅列がびっしりと書いてある。

当たり前だ。
これはあくまでも楽譜なのである。

目次を見ながらザナルカンドのページを見つけた。

「先生、これなんです。俺の弾きたい曲」
「ちょっといいかしら」

楽譜を先生に渡す。
真剣に眺めている間、大人しく待っていた。

先生がグランドピアノの前に向かう。

「いい? 私が一度、弾いてみるね」
「よろしくお願いします」

先生の指がピアノの鍵盤の上を踊るように動き出す。
グランドピアノから、奏でられるメロディ……。

それはまさしくあのザナルカンドそのものだった。
感動のあまり、全身の毛穴が全開に開く。

俺もこんな風に弾いてみたい。
自分の理想の姿が今、目の前にある。
しばらく鍵盤の上を急がしそうに動く指先をずっと見つめていた。

耳に聴こえてくる音から、春美を連想した。
浅草ビューホテルの時に見た悲しそうな横顔が思い浮かぶ。
彼女にはこの曲がピッタリ似合うのだ。

どこか悲しげで、いつも一生懸命な彼女。
ついて回るのはいつも、はかなさとせつなさだった。

絶対にこの曲を弾いてやる。
そしていつか春美に聴かせるのだ。
俺は心に固く誓う。

ザナルカンドの曲が弾き終わる。

ピアノって素晴らしい。
心の底から思った。

「凄いですね、先生。メチャメチャ上手いです」

いつの間にか自然と拍手をしていた。

「いい曲を選びましたね。とてもいいメロディだわ」

「ありがとうございます。俺、この曲、弾けるようになりますか?」
「頑張ればできます。大丈夫ですよ」

初めて習うピアノ
三十歳を越えてから、初の挑戦でもあった。

「よろしくお願いします」

返事をする代わりに、先生はニコっと微笑んだ。

今のこの興奮をすぐピアノに投影したい。
時計を見ると朝の十時だった。

「先生、たった今から習ってもいいですか?」
「え、だって仕事終わったばかりなんでしょ?」

「ええ、でも構いません。一時間だけでもお願いできません?」
「う~ん、分かりました。それでは早速始めましょうか?」

先生は困った表情をしながらも、どこか嬉しそうだった。


早く彼女に逢いたい……。

しかし今は無理なのだ。

連絡一つない状況。
やるせない気持ちになる。
今は気持ちを切り替え、一日でも早くピアノを覚えるようにしよう。

『くっきぃず』のグランドピアノの前に向かう俺。
左側には先生が座っている。

「最初にここと、ここと、ここに指を置いてみて」

言われるまま、恐る恐る鍵盤の上に指を置く。

「はい、最初にそれを同時に鳴らして」

自分の鍵盤を押した音が聴こえる。

ザナルカンドの一番初めの音だ。
すぐに分かった。

たった一つの音でも、三つの鍵盤を一斉に押す。
俺は音符がまったく分からないので、それ以上は弾けなかった。

「先生、お願いがあるんですけど…何も」
「はい、何でしょう?」

「楽譜に音符にカタカナをふってもらえませんか?」
「構いませんよ」

嫌な顔一つせず先生はコピーをとった楽譜へ、丁寧にカタカナをふりだした。

最初の左手の押さえる音は『ミ』と『シ』。
右手は『ミ』。

「あー、岩上君。駄目よ。左手は中指で『ミ』、親指で『シ』を押さえる。右手は中指で『ミ』にして」

「は、はあ……」
「タンタンタンタンタンタンターン……」

先生は口で、ザナルカンドの始めを表現している。

「これで、一小節ね」

「はあ……」
「例えばね、四分の四拍子とか聞いた事あるでしょ?」

「ええ、それなら」
「四分音符というものが、四つ…、四拍子が一小節の中に入っているの」

俺にはよく意味が分からなかった。
不思議そうな顔をしていると、先生はさらに説明を続ける。

「うーん、そうねえ。メトロノームって分かる?」
「はい、あのカチッカチッって、やつですよね」

「そうそう、それが四回打ったのが、四分の四拍子で、一小節なの」
「よく分かりませんが、要はそういうものだって、覚え方してもいいでしょうか」

思わず、苦笑いをする先生。

「じゃあ、四分の三拍子だと?」

「メトロノーム三回分で一小節ですよね」
「そうそう」

算数の公式のようなものだと感じる。
理屈じゃなくて、一足す一は二……。

そのようなものだという認識で覚えないと駄目だろう。
あまり深く考えないようにした。
先生は続けて話す。

「ピアノはね、各鍵盤を押さえるにしても、ちゃんと押さえる指が決まっているようになっているの」

先生は俺の目の前で、手の平を見せるように両手を開いた。

「いい、左手は小指から一、二、三、四、五……」

小指が一番で、薬指が二番……。

「じゃあ、左の親指は五番って事ですか?」
「そうね」

左から順番になるのか。

「じゃあ、右手は親指が一番で始まって、小指が五番って事でいいんですよね?」
「そうです、よろしい。この場合は今、左の中指で押さえている『ミ』と親指の『シ』は、左の三と五って感じね。そうすると、次に弾く右の一オクターブ下がった『ミ』が、親指で簡単に弾けるでしょ?」

実際に弾いてみた。
タンタン……。

うん、本当に弾きやすい。
俺は、先生がふってくれた楽譜のカタカナの横に、小さく数字を記入した。三、五と三……。

何度も聴いたザナルカンドの出だし、それを俺は今、弾いている。
二つの音を同時に押さえた和音と、右親指で一つの音を押しただけなのに……。

とてもシンプルな行為。
しかし、それは紛れのないザナルカンドの音だった。

ピアノを初めて弾く俺でも、頑張ればできるのではないか。

「先生! 俺、今自分でこの音を鳴らしたんですよね?」
「そうよ」

先生は嬉しそうに言った。
俺はもっと嬉しい。

「じゃあ、次の音いいですか? あ、それより、楽譜に指の番号を書いてもらってもいいですか?」
「はいはい、いいですよ」

嫌な顔一つせず、先ほどのカタカタに続いて、番号まで記入してくれた。
先生の行為に対し、曲が完成するまで絶対に諦めないでやるのが最低限の礼儀だと感じる。
今後、どんなに辛くても、途中で投げたりはしない。

結局この日は、ザナルカンドのニ小節分を習った。

口ずさむと、タラタラタンタンターンって感じだ。
タラというのは、タンタンと同じ意味。
俺がそう勝手に決めた。
ほんの短い部分を一時間掛けて弾けるようになったのだ。

これを繰り返せば、俺でも何とかなりそうだ。
たった一時間という短さでも密度の濃い時間を過ごせたと思う。

最後に先生の言っていた台詞が耳に残った。

「あら、あなたって本当に優しい音色を出すのね……」

お世辞にしかとれなかった。

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