闇 17(ドン・キホーテ編)
闇 17(ドン・キホーテ編)
2024/08/08 thu
2025/07/12 sta
前回の章
休みの日、部屋でずっとキーボードを弾いていた。
曲名はもちろんザナルカンド。
俺にはそれしか弾けない。
しかも習ったところまでである。
こんな事なら、デートの前に曲を完成させれば良かった。
馬鹿な事を考えるな。
あの時はまだピアノを弾いてさえない。
頭が混乱している。
新宿で撮ったプリクラまでは仲良くできていたはず。
あそこまで戻りたい。
しかしもう遅い。
俺は何かしらの原因で、春美を傷つけてしまったのだろう……。
それは事実なのだ。
ザナルカンドの悲しい音色が胸に沁みる。
この曲ってこんなにも寂しい気持ちになるのか。
それでも俺はキーボードを弾く。
何度も何度も弾き続けた。
今の俺にはそれしかないのだから……。
先生に習った三日間のピアノ。
俺は今、習った部分のみ目をつぶって弾いている。
指先がキーボードの鍵盤の弾く位置を記憶してくれていた。
馬鹿みたいにずっと弾いたせいだろうか。
この曲を弾きながら聴いていると、いつも春美の寂しそうな横顔が思い浮かぶ。
奏でる音を耳で確認する。
多数の鍵盤を弾く際、音が一つでも間違うと俺の耳が反応した。
もう一度、目を開く。
指先を見つめながら弾いた。
指で曲を記憶し、目で確認し、耳で音を確かめる。
楽譜の読めない俺はそれしか方法がなかった。
ある閃きが、頭の中を走る。
右手で押さえる部分と、左手で押さえる部分。
それを逆に弾いたらどうなるのだろうか?
指先の配置を頭で整理しながら、静かにゆっくり鍵盤へ置く。
自分が何度も弾いたザナルカンド。
ゆっくりと鍵盤を押さえる部分を思い出しながら、ゆっくり弾いた。
思ったよりも難しい。
とても難しい事を俺はやろうとしている。
でもそんな事はどうでもいい。
この曲だけは、俺が世界で一番上手く弾きたいんだ。
右左を交互にして弾くザナルカンド。
慣れてくると、なんとか形になってきた。
よく押さえる鍵盤を間違えた。
俺は何度も反復して指先に記憶させる。
この作業に夢中になっていた。
時間は夜の八時を回っている。
春美からもちろん連絡はない。
だから一日中ひたすらキーボードを弾いていた。
そうする事だけが不安になる気持ちを忘れさせてくれた。
左右逆で奏でるザナルカンド。
ただでさえ悲しいメロディが、より、もの悲しく聴こえてくる。
せつなさ……。
悲しさ……。
愛しさ……。
様々な感情を抱かせるこの曲。
でも、不思議と俺を癒してくれる。
いつの間にか、キーボードを弾きながら眠ってしまっていたようだ。
もう、春美は連絡をくれないのだろうか?
胸の奥が苦しい。
俺は一人の女に何故、これほど入れ込むのだろう?
自分でも分からない。
これが愛するという事なのだろうか?
それも分からない。
心だけが苦しい。
春美はあんな俺を見て、どう思っているのだろう?
呆れてしまったのか?
情けない奴だと感じたのだろうか?
格好だけの奴って見られたのだろうか?
違う……。
俺は情けなくない。
格好悪くない。
あの時はどうかしていたんだ。
タイムマシーンがあったら、酔っ払うちょっと前に戻りたい。

新宿のゲームセンターで撮った春美とのプリクラ……。
思い出して財布から取り出す。
だらしなく酔った表情の俺の横で、春美は嬉しそうに微笑んでいる。
財布には五枚プリクラが入っていた。
どのプリクラも春美は笑っている。
俺と一緒に楽しそうに写っていた。
まだこの時まで春美は怒っていない。表情を見る限り……。

しばらくプリクラを見つめた。
陰りのある春美の表情が、明るく輝いている。
浅草へ行った楽しかった時間を思い出す。
ではいつ、俺が春美に失礼な事をしたのだろうか?
酒に酔った俺が悪いのか。
俺だって人間だ。
たまには酔いたい時だってある。
何故そのぐらいの事で春美は返事をくれないんだ?

俺は二枚の絵を描いた。

一枚は海の波が走る絵。
もう一つは以前書いた草原の絵の昼間バージョンで、品川春美のイニシャルである『H・S』を立体的に草原の上へ大きく描いた。
隅っこでその文字へ寄り掛かって人影をタバコを吸っている描き加える。
これは現在の俺の心境そのものだった。
いつも朝に帰ってから部屋でザナルカンドを練習する俺。
仕事を毎日している時間すらもどかしい。
本当はピアノだけをずっと弾いていたかった。
「テメー朝っぱらからうるせんだよ!」
廊下から親父の怒鳴り声が聞こえてくる。
「うるせーっ! 邪魔すんじゃねえ!」
やっとレッスンができる時間が作れたのだ。
馬鹿親父になんて構っている時間などない。
睡眠時間さえも削り、ひたすら鍵盤を叩く。
奏でた音はすぐに消えてしまう。
だから曲を耳の中へこびり付かせるように……。
音は儚いからこそ、価値があるのだろう。
春美からの返事は相変わらずない。
あまりしつこくして嫌われるのは嫌だったので、俺も連絡を控えている。
ピアノを完成させてからでもいい。
そう思って我慢してきたのだ。
今日の休みを使ってザナルカンドを完成させたい。
俺はピアノの先生のところへ行く事にした。
『くっきぃず』の扉を開け、元気よく入る。
先生は俺を見てニコニコしていた。
「先生、今日もザナルカンド、教えてもらえますか?」
「はいはい、いいですよ」
残り三分の一。
今日ですべて完成させてやる。
俺はその意気込みでピアノの前に座った。
「先生、とりあえず今まで習った部分を弾いてみていいですか?」
「どうぞ」
俺は目を閉じ、鍵盤の上に指を乗せた。
頭の中に春美の顔が思い浮かぶ。
何度も何度も繰り返し弾いたフレーズ。
心を清らかにして、魂を込め、鍵盤を叩き出す。
弾いた瞬間、感じた事。
キーボードと弾く感触が違い過ぎる部分。
以前そんな事は分かっていたはずだが、これほどまでこの違いに気が付くとは……。
「あれ、岩上君。あれから凄い練習したのね。この間と話にならないぐらい良くなっているわよ。音が前と違うもの」
「本当ですか?」
素直に嬉しかった。
俺は熱心にピアノを学んだ。
魂を込め、鍵盤を叩く。
未だ聴かせていない春美へ聴かせるよう丁寧に気持ちを込める。
セレナーデ……。
特定の音楽形式がある訳ではないが、愛する人に対し奏でる曲を差すとも言う。
ザナルカンド、これは俺が春美へ捧げるセレナーデである。
他の誰でもない。
春美だけが喜んでくれればいい。
目隠しをしても弾けるぐらい、俺は血の滲む努力をしてきた。
音符なんてまったく分からない。
だから必死に音を暗記するしかない。
不器用な形でしかピアノを弾けない俺。
それでも奏でる音で、少しでも春美を癒したかった。
ファイナルファンタジーを作ったスクエアーエニックスには笑われるかもしれない。
それでもいい。
俺は誰の前でもハッキリ言える。
この曲は俺が春美へ捧げる為に作られたのだと。
こうしてこの日四回目のレッスンで、俺はザナルンドを弾けるようになった……。
やっとやり遂げる事ができた。
何とも言えない達成感が全身を包む。
いや、まだだ。
春美へ完成したこの曲を聴かせていない。
彼女へ聴かせて初めてザナルカンドは完成するのだ。
行きつけのスイートキャデラックへ行く。
客がいなかったのでマスターにお願いしてピアノを弾かせてもらう。
マスターの彼女もいたのでデジタルカメラを渡し、撮影を頼む。
またもや途中でとちる。
春美には完璧な状態でのザナルカンドを聞かせたい。
まだまだ精進不足だ。
電話が鳴る。
元プロの従業員であるシャブ中の大川から。
あの時以来、彼からは毎日のように連絡があった。
ここ数日、仕事以外はピアノしか弾いていない。
集中する為に電話に出なかったが、こう毎日掛けられても面倒なので出てみる。
「あ、やっと繋がった。岩上さん、どうでしたか?」
おそらくシャブを使った効果を聞きたいのだろう。
「いや、全然使ってないよ」
「うっそだー」
「いや、本当に…。何も使っていないから返そうか?」
「えっ! 本当に返してくれるんですか?」
仕事へ行く前人通りの少ない場所を指定し、大川へ渡す。
「岩上さん、本当に使ってなかったんですねー。いいんですか?」
「いいも何も俺は最初から興味無いって言ってたでしょ」
こうして大量のシャブを返し、その後大川から連絡は一切無くなった。
ザナルカンドを完成させてから数日経つ。
相変わらず春美からの連絡は無いまま。
とうとう我慢できず、俺は久しぶりに春美の働くキャバクラへ向かった。
今日春美は、出勤しているだろうか?
入口で入るのを躊躇ってしまう。
ここで彼女に逢ったところでどうするんだ?
ピアノを…、ザナルカンドをどうやって聴かせる?
軽く深呼吸をした。
違う。
そんなんじゃない。
俺は純粋にただ春美に逢いたいのだ。
逢って顔を見たい。
少しでもいいから話をしたい。
それだけだった。
結果がどうであれここまで来たのだ。
行こう。
俺は精神を落ち着かせてから中へ入る。
ラップの音楽がうるさく鳴り響く店内。
ただの騒音にしか聞こえない。
黒服の従業員が近寄ってくる。
「あれ、岩上さん。お久しぶりじゃないですか」
「ああ、色々と忙しかったんだよ」
「本日のご指名は?」
「春…、いや、由美はいるかい?」
あぶなく本名を言うところだった。
「ええ、出勤されてますよ。ご指名でよろしいですか?」
「ああ、もちろん頼む」
良かった。
不本意であるが、これで春美と逢って話をする事ができる。
「それではご案内致します」
席まで案内をされながら、さりげなくホールを見渡す。
俺の視線は春美を探していた。
「……」
久しぶりに見た春美。
彼女は他の客と楽しそうに話をしている。
独占欲からなのか、俺は妙な苛立ちを覚えた。
黒服が何かを笑顔で話しかけてくるが、そんな事はどうでもよかった。
あの春美の笑顔は俺だけのものなんだ……。
席に座り、春美の横についた客を睨みつけた。
「どうも、いらっしゃい」
妙に明るい声が聞こえた。
振り向くと、知らないキャバ嬢が立っている。
「何だ? 悪いけど俺は指名してるぞ」
ぶっきらぼうに答える。
目の前の女には悪いが、ヤキモチからか冷静でいられなかくなっていた。
「そんな怖い顔しないで下さいよ。由美ちゃん今、指名入っているんで、私がその間ヘルプできただけですから」
いくら仕事とはいえ、俺が彼女に当たるのは筋違いである。
落ち着け……。
自分に言い聞かせた。
「悪かったよ。座れば?」
「はい、失礼します」
いい香水の匂いがほのかに香る。
昔だったら、この時点でこの女を口説いていただろう
「なんか格好いいですよね」
「そうでもないよ」
「何歳ですか?」
「それを言う前に、名前ぐらい名乗りなよ」
「明美です」
北海道倶知安時代のスナック『パピリオ』。
そこで出会ったゆかり…、彼女の源氏名も明美だった。
あの時から十一年も経つのか。
「岩上だ。三十歳。よろしく」
「へえ、もっと若く見えますよ。渋いですね」
「そんな事はどうでもいいから、酒を作ってくれ。ウイスキーをストレートでな」
「はい」
そう言いながら、明美はグラスに氷を入れだした。
「おいおい、ストレートだぞ。氷はいい」
「すいません」
明美の謝り方と、春美の謝り方を比較してしまう。
あいつなら「すみません」と言うだろう。
一瞬だけ春美の方向へ目を向けた。
相変わらず楽しそうに客と喋っている。
俺が店に入ってきた事すら気づいていない様子だ。
テーブルに置かれたグラス。
俺は手に取り、ウイスキーを胃袋に流し込む。
「ストレートなんて、強いんですね」
「酒が強いなんて、何の意味もないさ」
春美との初デートを思い出してしまう。
確かに俺は酔った。
でも一週間も連絡くれないぐらい酷い事を俺はしたのだろうか?
それならそれでちゃんと言ってほしいものだ。
視界に見える春美の姿を見ていると、イライラが募るばかりだった。
こんなところで笑顔を見せて他の客と話す余裕があるなら、何で俺にメール一つくれないんだ?
「岩上さんって、凄いモテるんじゃないですか?」
「そんな事はない。モテていたら、こんなところへ来ないよ」
何の為に必死に頑張り、俺はザナルカンドを今日完成させた?
春美へ聴かせる為だろうが……。
それが何故あいつは俺のところへ来ない?
あの一件で俺なんてもうどうでもいいと思っているのか?
俺はウイスキーをストレートのままガブ飲みした。
「凄いお酒つよ~い」
そう、俺はいくら飲んだって酔わないんだ。
この間が特別だっただけ……。
改めて明美の顔を眺めてみる。
春美とは違ったタイプの可愛さがある女だった。
誰が見てもいい女だというだろう。
遠くで春美が笑う姿が目に入る。
さらに苛立ちが募った。
いっその事、このまま明美を口説いちまうか……。
あれだけ春美に対して崇高な気持ちを抱いていたのに、それが一気にしぼんできたようだった。
このイライラを消したい。
酒を飲みながら明美の身体を眺めた。
胸は結構あるな……。
着痩せして見えるだけで、脱がしたら肉付きのいいムッチリとした身体をしているかもしれない。
「そんなジロジロ見ないで下さいよ。恥ずかしいなあ」
「いい女をジロジロ正々堂々と見て、何が悪いんだ?」
「やだ……」
恥じらいの表情を浮かべながら、明美は照れていた。
サディスティックな一面が顔を出す。
少しだけ気持ちが穏やかになる。
それでも春美は、俺の存在に気付く様子がない。
俺は出来る限り春美の席の方を向かず、目の前の明美の顔を見ていた。
あえてそうする事で、自分の感情を誤魔化しているだけ。
とにかく話した。
今働いているゲーム屋の事は隠し、ホテル時代のバーテンダーの話をさも今働いているように話す。
明美は感心したような表情で頷いている。
会話はどんどん弾んでいく。
過去と現在の違いはあるにせよ、嘘は言っていない。
「バーテンダーって格好いいですよね。憧れちゃうな」
「じゃあ、今度、俺がおまえに作ってやろうか?」
「えー、だって由美ちゃんに怒られちゃう」
「ケッ、指名しているのに、向こうの席ばっかり行ってる女なんてどうでもいいさ」
そんな事春美のせいでなく、店側の気の回し方が足りないだけというのは分かっていた。
無理に俺は強がっている。
それでも意地だってある。
いつまでもナヨナヨなんてしちゃいられない。
「お世辞でも嬉しいな」
明美もまんざらではなさそうだ。
「俺はお世辞なんか言わねえ。今日会ったばかりだけど、気に入ったからこんな台詞を吐いている。俺は自分に正直でありたい」
「えー、困っちゃうな……」
嘘だった。
春美へのジェラシーがすべての原因だった。
今の心理状況でいれば、明美でなく誰でも口説いていただろう。
「嘘じゃない。俺は嘘だけはつきたくない」
ジッと明美を見つめる。
よく俺の目は力があると言われる。
口説く時、俺は必ず目を相手の目をしっかり見据えて話すようにしていた。
「そんな目で見ないで…。恥ずかしいよ……」
「連絡先を教えてくれ。今度はプライベートで逢いたい」
すぐそばに春美がいるのにいいのか?
自問自答を繰り返す。
「えー、でも、由美ちゃんに悪い……」
チラッと春美の方向を盗み見た。
クソ、まだ他の男と楽しそうに話しやがって……。
「今はあいつより、おまえのほうが気になっている。前にここへ来た時、明美がついていたら、由美じゃなくおまえを指名していたよ」
嘘に嘘を重ねる。
「……」
明美は下をうつむいてモジモジしている。
顔は真っ赤だ。
「駄目か?」
「ちょっと、待ってて……」
何やらメモを取り出して、数字を書き込んでいる。
自分の電話番号とメールアドレスを書いているのだろう。
「明美。もしな、おまえが俺とデートしてくれたら、目の前でピアノを弾いてやる」
自分で言った台詞に罪悪感を覚える。
こんな軽い気持ちで俺はピアノを頑張ったのか?
そうじゃないだろう……。
「え、ピアノなんて弾けるの?」
セブンスターに火をつけながら、ひと呼吸置く。
ゆっくりと煙を吹き出しながら、さりげなく春美を見た。
俺がここにいるのを未だに気付いていないようだ。
妙にイライラが募る。
「ああ、三十を越えてから始めた下手くそなピアノだけど、おまえの為に弾いて捧げたい。まだ、誰にもピアノを捧げていないんだ。明美なら弾いてあげたい。迷惑か?」
半分ヤケクソで喋っていた。
すべてのベクトルは春美の為に向けて動いていたつもりなのに……。
「私…、こんな感じで口説かれたの初めて……」
「俺だって、ここまで一生懸命口説いているのは初めてだ」
真っ赤な顔の明美は、さらに顔を赤くした。
「嬉しいけど、恥ずかしい……」
「最初は俺ってツンケンしてただろ?」
「うん」
「誰にでも気安く口説いている訳じゃない。でもおまえと話していて、何故か気に入ってしまったんだ。多分本能が求めたんだと思う。俺はそれに正直に従ったまでだ」
「……」
もう一息、俺はさらに口説く文句を頭の中で整理した。
「すいませーん、明美さんお借りしまーす」
突然、黒服が声を掛けてくる。
いい雰囲気が一発で消し飛ぶ。
明美は電話番号を書いた紙を急いで俺に手渡すと、すぐに立ち上がる。
何故か気まずそうな顔つきだった。
彼女を見送ろうと横を振り向くと、いつの間にか春美が立っていた。
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