114.パーシヴァル①
画像は以下のサイトから転載。
現実のキャメロット
今回からはキャメロットについてお伝えしていきます。
キャメロットは、アーサー王の王国ログレスの都です。
アーサー王はかの地にキャメロット城を築き、多くの戦いに出陣したということになっています。キャメロットは有名な円卓が置かれていた場所でもあります。
アーサー王伝説はもちろんフィクションですが、これまでにキャメロットと結びつけられてきた場所は数多く存在しています。
つまりアーサーやらマーリンやらガウェインやらケイやらは史実を元に書かれたのではないか、という前提での推理、調査です。

有名なウィンチェスター城の大広間には、何百年ものあいだ「円卓」が吊り下げられていました。
このテーブルのまわりには、アーサー王と二十四人の騎士たちの名前が描かれています。
ウィンチェスターはイングランドの町です。ではイングランドが伝説発祥の地なのかというと、そう単純にはいきません。
真のキャメロットはどこなのか、というわけで、現在も多くの人間が調査研究を重ねています。
アーサーがらみの書籍も山のように出版されています。
おさらいになりますが、中世の民間伝承によると、ルクセンブルク家、アンジュー家、そしてその子孫のプランタジネット家とフランスのリュジニャン家は、竜の精霊メリュジーヌを祖先としています。
バイエルン出身の騎士でドイツの詩人、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(一一六〇年ごろ~)は、十三世紀に白鳥の騎士ローエングリンを『パルチヴァール』に取り入れました。
『パルチヴァール』はアーサー王伝説を模した騎士文学で、『ニーベルンゲンの歌』をはるかに上まわる量の写本が残されています。
十二世紀後半のフランス詩人、クレティアン・ド・トロワは、ランスロット、パーシヴァル、聖杯、などを最初に書いたことで知られています。
クレティアン・ド・トロワにこれらを書かせたのは、アリエノール・ダキテーヌの娘、マリー・ド・シャンパーニュです。
ヴォルフラムは聖杯についての記述をクレティアン・ド・トロワに依拠しつつ、その情報はKyot de Provenceなる人物から得た、と主張していました。
このKyotは、実在したギヨー・ド・プロヴァンだと広く考えられています。
ギヨーはトルバドゥール(吟遊詩人)で、クリュニー修道院の修道士でもありました。
十三世紀初頭、ヴォルフラムの情報源ギヨーは、有名な著書『La Bible Guiot』において、自分の庇護者たちを名指しで記しています。
ちなみに『La Bible Guiot』の「バイブル」は、聖書ではなく風刺という意味です。
庇護者たちの中には、バルバロッサ(赤髭)の愛称で知られる神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(一一二二年~)、フランス王ルイ七世、イングランド王ヘンリー二世(一一三三年~)、ヘンリー若王(一一五五年~)、獅子心王リチャード一世(一一五七年~)、アラゴン王アルフォンソ二世(一一五七年~)、トゥールーズ伯レーモン五世(一一三四年ごろ~)が含まれています。
この人たちは全員、メリュジーヌの血統と密接に関わっていました。伝説によって結びつけられた「兄弟」たちです。
事実これら統治者たちとその一族たちは、お家どうしの同盟ネットワーク、いわば「現実のキャメロット」を形成し、聖杯伝説誕生の背景となった人たちでした。
本名とニックネーム
スイスの学者、アンドレ・ド・マンダッハは、「パーシヴァル」はペルシュ伯ロトルー三世(一〇九九年~)の愛称(ニックネーム)である、という可能性を示唆しました。
つまりパーシヴァルのモデルはロトルー三世かもしれない、という説です。
念のため付け加えておくと、パーシヴァルは円卓の騎士の一人です。

ウィンチェスター城の円卓には、玉座にすわる王様っぽい絵が描かれています。
これはアーサーではなくイングランド王ヘンリー八世(一四九一年~)で、後世に描き加えられたものです。
もちろんヘンリー八世はアーサー王のモデルではありませんが、いわんとすることはよくわかります。
編年史家のジェラルド・オブ・ウェールズ(一一四六年~)によると、獅子心王リチャード一世は、自分をアンジュー伯夫人(実体はメリュジーヌ)の子孫とする物語を好んで語っていた、とのことです。
そしてリチャード一世は、自分たちの一族を「悪魔から来て悪魔へ帰る」と結論づけたといいます。
このリチャードはいうまでもなく、プランタジネット朝(アンジュー朝)第二代のイングランド国王です。
悪魔の一族を自称する男が国王、というのは、なかなか穏やかではありません。取り巻きももれなく悪魔の一族だからです。
以前もお伝えしましたが、リチャードが語るアンジュー伯夫人(実体はメリュジーヌ)は、母親のアリエノール・ダキテーヌがモデルとされています。
アリエノール・ダキテーヌはギレム家の子孫で、由緒正しいダビデの血統です。
アンドレ・ド・マンダッハの説に戻りますが、西洋史では同じ名前が登場しすぎて区別に困ります。
「このリチャードはどのリチャードか」を判別するためには、一般的にニックネームを探します。獅子心王ならあのリチャードです。
ちなみにペルシュ伯ロトルー三世については日本語でググってもなにひとつヒットしないので、浮気せずこのNoteを読み進めるしかありません。
以下の赤い地域がペルシュ領です。フランスの一地方で、メーヌ、ノルマンディー、オルレアン、ボースに囲まれていました。

ペルシュ家として最初に知られる当主は、ジョフロワ一世(一〇四〇年没)です。
このジョフロワはブロワ伯ウード一世(九五〇年ごろ~)と結びつき、のちにペルシュ伯領となる勢力圏を確保しました。
ちなみにこのジョフロワは、アンジュー伯ジョフロワ一世とは別人です。万事がこの調子なので安易にググらずこのNoteを読み進めてください。
ジョフロワ一世の息子ロトルー一世(一〇三一年ごろ~)は、お家の影響力を拡大させた人です。
ロトルー一世の息子ジョフロワ二世(一一〇〇年没)は、カロリング朝・カペー朝のフランス王家の子孫ベアトリス・ド・ルシーと結婚しました。逆玉です。
ここからはいったん、ルシー家、嫁の家の話に移ります。
エブル二世
ベアトリス・ド・ルシーの兄ルシー伯エブル二世(一一〇三年没)は、有名なロベール・ギスカールの娘シビラと結婚していました。
シビラ - ルシー伯エブル2世と結婚、娘マビーユはヤッファ伯ユーグ1世・デュ・ピュイゼと結婚[3]
ようやく日本語のウィキペディアにも情報が出てきました。
ベアトリスの妹フェリシー・ド・ルシーは、アラゴン王サンチョ・ラミレス(一〇四二年ごろ~)と結婚しました。
地理的にもスケールの大きい婚姻です。フランスのペルシュからいきなりスペインに飛んだので、違和感を覚えたかもしれません。
ベアトリスの兄エブル二世は、その時代としてははやくから「十字軍」に参加していた人です。
一〇六三年にはスペインに軍隊を率い、バルバストロ十字軍に参加しました。第一回十字軍以前の話ですが、いわゆる「レコンキスタ」も十字軍的活動に含まれます。

エブル二世は都市を陥落させたあともスペインで戦いつづけ、アラゴン王サンチョ・ラミレスがナバラの王位を奪取するのを助けました。
このような経緯があったので、フェリシーとサンチョ(スペインの人)との結婚はむしろ自然な成り行きです。妹の血統も問題ありません。
ちなみにエブル二世は、第一回十字軍には一族ともども参加しませんでした。イタリアなどでも戦いまくったのですが思うように領地を得られず、また年ということもあり疲れ切ってしまったのだそうです。
第一回十字軍の真の目的は、自分たちの一族を「エルサレムの王」として確立することでした。イスラム勢から聖地を奪還する、というのは建前です。
あの十字軍以前にも、イスラムを絡めた十字軍的な領土獲得の動きがふつうにあったわけです。
ヴォルフラムの『パルチヴァール』では、スペインが舞台の一つとして登場します。
アンショウヴェの王ガンディーンの息子ガハムレトは、冒険のためスペインのドーレト(トレド)に赴きました。
アンショウヴェは、アンジューのことです。

ガハムレトは主人公パルチヴァールの父で、すべてのはじまりの人です。
フェリシー・ド・ルシー
サンチョ・ラミレスの嫁フェリシー・ド・ルシーは、有名人と結婚したのでウィキにもこのように画像が出てきます。

フェリシー・ド・ルシーは、結婚同年にサンチョ・ラミレスがナバラ王位についたことで、アラゴン人としてはじめてナバラ王妃の称号を得ました。
アラゴン王兼パンプローナ(ナバラ)王のサンチョ・ラミレスは、初代アラゴン王ラミロ一世(一〇〇七年ごろ~)の息子です。

ラミロ一世の嫁、つまりサンチョ・ラミレスの母は、ビゴール伯ベルナール=ロジェ(九六二年ごろ~)の娘、エルメシンダ・デ・ビゴーラです。

エルメシンダ・デ・ビゴーラの父ベルナール=ロジェは、フォワ伯の始祖でもあります。
このフォワ家は耳にしたことがあるかと思いますが、日本語のウィキペディアにはページが存在しません。
フォワ伯は中世の時代、現在の南フランスにあたるフォワ伯領を統治しました。
フォワ家はのちにピレネー山脈を越えて勢力を拡大し、ベアルン家と合流しました。

アラゴン王国は、サンチョ・ラミレスと息子のペドロ一世(一〇六八年ごろ~)の治世中、南方に領土を拡大し、首都サラゴサの均衡エル・カステリャーノとフスリボルに要塞を築き、新しい首都となるウエスカを占領しました。
サンチョの嫁のフェリシー・ド・ルシーは、三人の息子を産みました。
フェルナンド、アラゴン王ラミロ二世(一〇八六年~)、そしてアラゴン王とナバラ王のアルフォンソ一世(一〇七三年ごろ~)です。

先に出てきたペドロ一世は、フェリシー・ド・ルシーの息子ではなく、ウルジェイ伯アルメンゴル三世の娘イザベルの子です。
その後サンチョはイザベルと離婚し、フェリシーと再婚しました。
このペドロ一世のあとを継いだのが、異母弟のアルフォンソ一世です。
アンフォルタス
アルフォンソ一世は、レコンキスタをしまくって二十九の戦いに勝利したことから、武人王、戦士王と呼ばれました。
またアルフォンソ一世は、テンプル騎士団の熱烈な支持者でもありました。
いかにもその筋の年代史家に採用されそうなキャラクターですが、アンドレ・ド・マンダッハによると、アルフォンソ一世のニックネームはアンフォルタスです。
このアンフォルタスは、『パルチヴァール』の登場人物、モンサルヴァート城で聖杯を守っているアンフォルタス王に対応します。
アンフォルタス王は、アーサー王物語では「漁夫王(いさなとりの王)」として登場します。名前はちがいますが役割は同じです。
アンフォルタスの元ネタかもしれないアルフォンソ一世は、カスティーリャ女王ウラカと結婚しました。

このウラカは有名なアルフォンソ六世(一〇四〇年ごろ~)の娘で、唯一幼少期を生き残った子供です。
いずれ統治者となる運命です。なのでウラカは幼少のころより男のように学ばなければなりませんでした。
ウラカの最初の夫は、レーモン・ド・ブルゴーニュ(一〇七〇年~)でした。
このレーモンは、コンスタンス・ド・ブルゴーニュの甥です。
そしてこのコンスタンスは、アルフォンソ六世の二番目の妻です。

コンスタンス・ド・ブルゴーニュは、クリュニーの大修道院長、クリュニーのユーグ(一〇二四年~)の姪です。母のエリー・ド・スミュールはクリュニーのユーグの実姉でした。
クリュニーのユーグは、クレルモン公会議で軍事遠征(第一回十字軍)を呼びかけた教皇ウルバヌス二世(一〇四二年~)に多大な影響を与えた人です。
詳細は省きますが、母のコンスタンスはダビデの血統です。つまりウラカもダビデです。
レーモン・ド・ブルゴーニュとその周辺も、以下の過去記事で書いています。おもしろいので読んでみてください。
ウラカはアルフォンソ七世(一一〇五年~)などを産みましたが、旦那のレーモン・ド・ブルゴーニュは一一〇七年に死んでしまいました。
なので父親のアルフォンソ六世は、カスティーリャとレオンの貴族間対立が激化するのを恐れ、ほかの求婚者と結婚させるよりは武人王アルフォンソ一世と再婚させるほうがいい、と判断しました。
その結果、レオンとカスティーリャをアラゴンと統合する機会を開きました。
ちなみにアルフォンソ六世とアルフォンソ一世はもちろん別人で、しかもアルフォンソ六世のほうが年上です。家がちがうからです。
さらにアンドレ・ド・マンダッハによると、アルフォンソ七世は『パルチヴァール』のKailet(カイレート)王に対応します。
このカイレート王は、スペインでガハムレトとともに冒険した人です。
アルフォンソ一世はウラカとの結婚後、義父のアルフォンソ六世がかつて用いた「スペイン皇帝」という壮大な称号を使用しはじめました。
一一三〇年代、アルフォンソ一世は進行中のレコンキスタを支援するため、大好きなテンプル騎士団を自国に迎え入れました。
一一三一年、アルフォンソ一世の遺言によって、アラゴン王国は聖墳墓騎士団、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団に遺贈されました。
三つの騎士団たちは遺産すべてを主張できませんでしたが、テンプル騎士団は数多くの要塞とさまざまな収入や特権を獲得しました。
血統をたどればこの行動も納得です。
長くなったので残りは次回にお伝えします。
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