87.クリュニー修道院
画像は以下のサイトから転載。
マロツィア
クリュニー修道院については何度もお伝えしてきました。
細かいところは省きますが、クリュニー修道院は「ユダヤ人」が創建した修道院です。
クリュニー修道院は九一〇年に創建されました。九二五年、創健者のアキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)は、ベルノン(八五〇年ごろ~)をクリュニー修道院の初代修道院長に指名し、修道院をベネディクト会の支配下に置きました。
ベネディクト会はカトリック教会最古の修道会で、創建したのはヌルシアのベネディクトゥス(四八〇年ごろ~)です。
戒律は「服従」「清貧」「童貞(純潔)」で、ベネディクト会士は黒い修道服を着ていたので「黒い修道士」とも呼ばれました。
クリュニーの修道院長ベルノンは、教皇セルギウス三世(八六〇年ごろ~)の支配下にありました。

この人がいたあたりの時代は、「暗黒の時代/世紀」(Saeculum obscurum)または「ポルノクラシー (娼婦政治)」と呼ばれています。
ポルノクラシーの時代には、セルギウス三世の愛人マロツィアとその家族テオフィラクト家、その親族や同盟者たちが「政治」に関与していました。

マロツィアは、トゥスクルム伯テオフィラクトとテオドラの娘です。
ポルノクラシーの時代は、セルギウス三世から第百三十代教皇のヨハネス十二世(九三〇年~)の約六十年間を指します。
この時期は、ローマの都市貴族であるテオフィラクト家が事実上ローマを支配していました。
そしてポルノクラシーがクリュニー修道院創建の時期と重なっているのも興味深いところです。
マロツィアと息子のスポレート公アルベリーコ二世(九一二年ごろ~)は、ローマ市を思いのままに支配し、教皇を立てつづけに擁立しました。
教皇セルギウス三世(娼婦の愛人)は八九七年、ヨハネス九世と教皇位を巡って争い、一時的に勝利しましたが、イタリア王でローマ皇帝のランベルト・ダ・スポレート(八八〇年ごろ~)によってローマから追放され、結局皇帝の支持を得ていたヨハネス九世が教皇位に就きました。
九〇三年に先代のレオ五世が対立教皇のクリストフォルスに廃されると、セルギウス三世は九〇四年、クリストフォルスを追放して新教皇に就任しました。これはトゥスクルム伯テオフィラクト(娼婦の父)の要請を受けてのことでした。
セルギウス三世は教皇に就任後、ヨハネス九世に対する報復として教皇位の剥奪を宣言したり、ローマ教皇フォルモスス(八一六年ごろ~)を支持した歴代教皇に対しても名誉剥奪を行なったりしました。
フォルモススは、死後、異様な死体裁判にかけられたことで知られています。
詩人で司祭のエウゲニオス・ウルガリオス(八八七年~)によると、教皇セルギウス三世(娼婦の愛人)は九〇四年、対立教皇クリストフォルスと前教皇レオ五世を獄中で絞殺するよう命じました。
イギリスの歴史家エドワード・ギボンは、マロツィアについてこう記しています。
マロツィアとテオドラ(娼婦の母)という二人の娼婦の影響力は、彼女たちの富と美貌、政治的・恋愛的な陰謀に根ざしていた。彼女たちの最も熱心な愛人たちはローマの司教冠を授与され、その統治は暗黒時代の人々に「女性教皇の伝説」を想起させたかもしれない。マロツィアの私生児、二人の孫、二人の曾孫、そして一人の玄孫というまれに見る系譜の者たちが聖ペテロ(教皇)の座に就き、そのうちの二人目は十九歳で教会の首座となった。
マロツィアは十五歳のとき、教皇セルギウス三世の愛人になり、のちの教皇ヨハネス十一世(九一〇年~)を産みました。
その後スポレート公アルベリーコ一世と結婚し、のちのアルベリーコ二世(九一二年~)を産みました。
九二六年にアルベリーコ一世が死ぬと、マロツィアはトスカーナ侯グイードと再婚しようとしました。
この結婚は、教皇ヨハネス十世(八六〇年ごろ~)の権力に対抗するためでした。ちなみにマロツィアはヨハネス十世の愛人でもありました。
グイードとの結婚をヨハネス十世に反対されたので、グイードとマロツィアはクーデターを起こし、ヨハネス十世を投獄し、ローマの権力を掌握しました。

その後の教皇レオ六世とステファヌス七世は、どちらもマロツィアの傀儡でした。
九三一年には、教皇セルギウス三世(娼婦の愛人)に、自分の息子を教皇ヨハネス十一世として押しつけることさえできるようになりました。
夫のグイードが九二九年に死ぬと、マロツィアは「イタリア王」の称号を持つアルルのユーグ(八八〇年~)と三度目の結婚をしようとしました。
ですがユーグはグイードの異父兄(どちらも母親がロタール二世の娘ベルタ)だったので、再婚は禁じられていました。
そこでマロツィアは、グイードとユーグは実の兄弟ではないとでっちあげ、九三二年にヨハネス十一世(娼婦の私生児)の祝福の下、ハドリアヌス帝の墓室でユーグと結婚式を行い、サンタンジェロ城を新居としました。
同年の九三二年、アルベリーコ二世(娼婦の息子)は、なぜかマロツィアとユーグに反旗を翻し、結婚式の最中にサンタンジェロ城を攻撃しました。
ユーグはローマから逃れましたが、マロツィアは牢獄に囚われました。ユーグは何度もローマを攻撃したのですが、アルベリーコ二世はローマを守り抜き、母のマロツィアは牢獄で獄死しました。
娼婦の孫の戴冠
ポルノクラシーを終わらせたアルベリーコ二世(娼婦の息子)は、九五五年に教皇ヨハネス十二世になったオクタヴィアヌスの父でもありました。
九六〇年ごろ、ヨハネス十二世(娼婦の孫)は、ベネヴェントとロンバルド公国に対して自ら軍を率いて攻撃を仕掛けました。おそらく教皇領の一部を取り戻すためだったと考えられます。
そしてのちにイタリア王ベレンガーリオ二世(九五〇年~)になるイヴレア辺境伯ベレンガーリオと戦って大敗を喫し、逆に攻め込まれる羽目になりました。
ヨハネス十二世は東フランク王国の国王オットー大帝(九一二年~)に救援を要請し、九六二年、援軍をローマに迎えることで窮地を脱しました。
ローマに到着したオットー大帝とヨハネス十二世(娼婦の孫)は、九六二年、有名なディプロマ・オットニアヌムという協定を結びました。
ディプロマ・オットニアヌムは、以前のピピン三世の寄進を確認し、教皇領の支配権を教皇に与え、教皇選挙を正規化し、教皇と神聖ローマ皇帝との関係を明確化した協定です。
この協定によって、皇帝は教皇領、南はナポリ、カプアから北はラ・スペツィア、ヴェネツィアまでの独立を保証することになりました。これは約一〇〇年前にカロリング帝国が崩壊して以来初めての効果的な保護保証でした。
教皇とローマ貴族たちはこれに対し、オットーに忠実であること、敵であるイタリアのベレンガーリオ二世や息子アダルベルトを援助しないことを誓いました。
そしてオットー大帝は、教皇(娼婦の孫)を防衛するために全力を尽くすことを誓いました。
余は神聖ローマ教会とその支配者であるあなたを最大限に称揚する。
ヨハネス十二世はその後、オットー大帝をベレンガーリオ一世(八五〇年~)以来となる西方皇帝に即位させました。
しつこいようですが、オットー大帝を戴冠し西方皇帝を復活させたのは娼婦の孫です。
そんなヨハネス十二世は、血の成せる業か、スキャンダラスな不道徳行為で悪名高い人物でした。
オットー大帝の支持者でもあったクレモナのリウドプランド(九二〇年~)は、九六三年、ローマのシノドスでヨハネス十二世にかけられた罪状を詳述しています。
……かれ(ヨハネス十二世)は、レイニエの未亡人、父の愛人ステファナ、未亡人アンナ、そして自身の姪と不義を犯し、聖なる宮殿を娼館に変えた。かれら(証人)は、かれが公然と狩りに出かけたこと、かれの聴聞司祭ベネディクトを盲目にしたこと、その後ベネディクトが死亡したこと、ヨハネスという大司教補佐を去勢したあと殺害したこと、火を放ち、剣を帯び、兜と鎧を着用したことなどを述べた。聖職者も一般人も、かれがワインで悪魔に乾杯したと宣言した。かれらは、サイコロ遊びの際に、かれはジュピター、ヴィーナス、その他の悪魔を呼び出したと述べた。
邪教の導入
教皇セルギウス三世(娼婦の愛人)は、ベネディクト修道会の清貧で厳格な精神性を復活させるため、クリュニー修道院の設立を支援していました。
この「理由」を真に受ける方はもはやいないと思います。
当時のローマは混乱の極みで、司祭も司教も自分の立場が確実だと感じられなくなっていました。社長の愛人が気ままに社員を持ち上げたりクビにしたりするようなものです。
この状況が気に入らないのであれば、強大なテオフィラクト家に立ち向かうことになります。それでも抗議の声を上げる少数派がいたほどでした。
セルギウス三世の息子ヨハネス十一世も、クリュニー修道院に多くの特権を与えました。
このような支援があったおかげで、クリュニー修道院はのちの教会改革の有力な担い手となりました。
ベルノンが修道院長を辞任すると、修道院は親戚のウィドンと弟子のオドンに分割して与えられました。
まだ幼かったオドンは、まずアンジュー伯フルク二世(九〇五年ごろ~)の宮廷に送られ、その後アキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)の宮廷で侍従になりました。
そしてオドンはマリアに対して特別な信仰心を抱くようになりました。生涯を通じ、「慈悲の母」という称号でマリアに呼びかけました。
母子崇拝は、バビロニアのセミラミス、タンムズにまで遡れます。
優しい母(処女)と聖なる息子、というテンプレの組み合わせです。
セミラミスとしては息子を推していたのですが、そのうち母のほうが人気になり、母単独の崇拝が定着しました。マリア崇敬は、セミラミス、レア、イシス、アルテミス、キュベレー、ヴィーナスなどの流れにつづくものです。
オドンはギレム家から異端の教えを授かったようです。
教皇ヨハネス十三世はマロツィアの甥で、教皇ベネディクトス八世、ヨハネス十六世、ベネディクトス九世、対立教皇ベネディクトス十世も娼婦の子孫です。
クリュニーの「改革」は、ベネディクトス八世(娼婦の子孫)によって支持されました。
ベネディクトス八世は、クリュニーの第五代修道院長オディロン(九六二年ごろ~)と親交がありました。

オディロンの在位中、クリュニー修道院は西ヨーロッパで最も重要な修道院となりました。
ヨハネス十六世(娼婦の子孫)は、兄ベネディクトス八世(娼婦の子孫)のあとを継ぎました。教皇に在位しているほとんどの期間、ヨハネス十六世はオディロンと親密な関係を保ち、修道院の特権を二度に渡って承認しました。
強大化するのも当然です。
そしてオディロンは、オドンからの流れでマリア崇敬の実践を奨励しました。
それだけでなく、オディロンは「万聖節(オール・ハロウズ・デイ)」を規定した人でもあります。
万聖節は十一月二日に開催され、現在では「死者の日」「万霊節」と呼ばれています。キリスト教のすべての死者の魂のために祈りを捧げる日です。
前日の十一月一日は、現在では「諸聖人の日」などと呼ばれています。これもかつては万聖節に含まれていました。
十一月一日の前日は、ハロウィンです。

ハロウィンも万聖節に含まれていました。そして万聖節は、秋分点に対応しています。
ついにアストラルの要素まで登場しました。ついでにサタニストのカレンダーでは、ハロウィンはオール・ハロウズ・イブで、激しいセックスと生贄の日です。

一部の研究者は、ヨーロッパの民間伝承と民間信仰における万霊節(オール・ソウルズ・デイ)の起源は、世界中で実践される先祖崇拝の習慣と関連している、と指摘しています。
インドのピトゥル・パクシャ、中国の鬼節、日本のお盆、メキシコの死者の日などの行事です。
ローマの風習には「レムリア」があり、この祭りの期間中、ローマ人は死者の悪霊を家から追い出すための儀式を行っていました。
お盆を祝う人に「それは邪教の風習だ」というと頭がおかしい人だと思われるでしょうが、クリュニー修道院はキリスト教の修道院です。しかも厳格な戒律を持つベネディクト会に所属している修道院です。
さらなる強大化
オディロンは、オットー大帝の妻、イタリアのアデライーデと親しくしていました。
またオディロンは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ二世の元に何度も訪問し、ハインリヒ二世と対立する人々との仲介役を果たしました。
一〇〇四年にハインリヒ二世がイタリア王に即位した際、オディロンは式典に出席しました。
ハインリヒ二世は子供ができなかったため、オットー朝は一〇二四年、ハインリヒ二世の死によって途絶えました。
そして王権は、オットー大帝の娘リウトガルトの曾孫であるザーリアー朝のコンラート二世(九九〇年~)に継承されました。
オディロンはコンラート二世の即位式にも出席し、コンラート二世とも同様の良好な関係を築きました。まめな人です。
そしてクリュニー修道院に恩恵を与えるよう説得することに成功しました。
コンラート二世は、シュヴァーベンのギーゼラとともに、一〇二七年のイースターにサン・ピエトロ大聖堂で華々しい戴冠式を執り行いました。
ギーゼラは、シュヴァーベン公ヘルマン二世とゲルベルガ(ブルグント王コンラートの娘)の娘で、両親はどちらもカール大帝の子孫です。
ゲルベルガの父はブルグント王コンラート一世(九二五年ごろ~)で、このコンラート一世の妹、イタリアのアデライーデはオットー大帝の妻です。
アデライーデは先にお伝えしたように、クリュニー修道院、とくにオディロンと密接な関係を維持していました。
夫のオットー大帝もまた、オディロンと長いあいだ親密な関係にありました。
ゲルベルガの妹ベルタは、ブロワ伯ウード一世(九五〇年~)と結婚しました。
ゲルベルガの弟、ブルゴーニュのルドルフ三世(九七〇年~)は、一〇三二年に後継者なしで死亡しました。そしてブルゴーニュ王国の主権は、甥である皇帝コンラート二世に封土または遺贈として移譲されました。
教皇ベネディクトス九世(一〇一二年ごろ~)は、ポルノクラシーでおなじみのテオフィラクト家が出した最後の教皇です。
一〇三六年、ベネディクトス九世は、一時ローマを追われましたが、コンラート二世の助けを借りてローマに戻りました。
ベネディクトス九世は史上最も若い教皇で、退位と復位を繰り返して三期にわたって在位した唯一の人物で、また教皇位を売却した唯一の人物でもあります。
このベネディクトス九世の治世も、やはりというべきかスキャンダラスでした。
後年、教皇ウィクトル三世(一〇二六年~)は、『対話』第三巻の中で、「かれの強姦、殺人、その他のいいようのない暴力行為とソドミー」について言及しています。
かれの教皇としての生涯は嫌悪すべきもので、腐りきったもので、忌まわしいものでしかない。わたしは身震いを禁じえない。
ベネディクトス九世はローマを追われ、シルウェステル三世が後継者に選出されましたが、ベネディクトス九世と支持者たちは数ヶ月後、シルウェステルの追放に成功しました。
ベネディクトス九世はその後、名付け親(代父)のグレゴリウス六世のために退位することを決意しました。
クリュニー修道院は、かなりめちゃくちゃな時代に創建されました。
その後諸侯を巻き込んでは力を蓄え、のちの第一回十字軍を後援し、テンプル騎士団という秘密結社カルトを生み出しました。
クリュニー修道院は、以前お伝えしたように、「テンプル騎士団の背後にある騎士団」だったと疑われています。
そしてのちのレコンキスタでは、修道士たちはキリスト教徒対イスラム教という構図を無理やりつくり出すため、喜んで歴史を捏造し、文書を偽造し、系図をでっち上げました。
戦を終えたくないといわんばかりです。実際問題、戦争の支援は儲かりますし、政治的影響力の維持にも欠かせないツールです。
この修道士や司祭たちによると、スペインのキリスト教徒は「真のイスラエル」で、神によって選ばれながら不服従の罪のためにうち捨てられた民であり、その罪滅ぼしとして異教徒との地上での戦いを行っている、とのことです。
この設定の次に来るのは、巡礼です。スペインが真のイスラエルなのであれば、キリスト教徒は巡礼したくなります。
巡礼もまた儲かります。

一つ付け加えておくと、中世人は現代人のような冷めた物質主義者、唯物論者ではありませんでした。
説明しづらいのですが、教皇セルギウス三世(娼婦の愛人)も、打算のみでクリュニー修道院を支援したわけではありません。半ば本気で「ベネディクト修道会の清貧で厳格な精神性を復活させるため」と考えていました。
そして一方では、娼婦マロツィアとセックスしたり放蕩に明け暮れたりしていました。
そんななか、ふと悔悟の気持ちが芽生えます。セルギウス三世が実際に行ったかどうかはわかりませんが、反省して滂沱の涙を流したり、断食したり、罪のリストを書き記したり、日に何度も祈りを捧げたりしました。
感情の揺れ動きが非常に激しかったということです。セルギウス三世の生涯を通すと、クリュニー修道院の支援と娼婦とのセックスは矛盾した行いなので、現代人は「修道院の支援は裏があったのだな」と結論づけてしまいます。
繰り返しますが、修道院の支援は半ば本気です。レコンキスタを煽った聖職者たちも本気です。
打算はもちろんありますが、中世人は感情の揺れ動きのほうがはるかに勝っていた人たちなのです。
系図を捏造するときも、「主の御心にかなった行いなのだ」といちいち言い訳するまでもなく、本気です。
後悔の涙は、嘘ではありません。その日の晩にまた娼婦とやったとしても、です。
ここが中世ヨーロッパを理解するうえで難しく、ややこしいところです。
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