86.オットー朝
画像は以下のサイトから転載。
ビルング家
オットー朝は、東フランク王国の王朝です。
フランク王国の分割についてはすでにお伝えしています。
オットー朝は、カロリング朝の断絶後、フランケン朝につづいて九一九年に成立しました。ザクセン朝ともいいます。
ザクセン人のハインリヒ一世(八七六年~)は、フランク人以外で王になった最初の人です。一般にはドイツの創始者と考えられています。
ハインリヒ一世の父は、神聖ローマ帝国のオットー一世(八三〇年ごろ~)です。オットー貴顕公、オットー栄光公とも呼ばれます。

オットー一世の母親はオーダ・ビルングです。

オーダは名前のとおりビルング家の人で、イタリア王ピピン(七七七年~)の孫娘です。
ややこしいので丁寧に遡りますが、イタリア王ピピンは元々カールマンという名前で、有名なカール大帝(七四二年ごろ~)の息子です。
また、オーダ・ビルングはトゥールーズのベルタの孫娘でもあります。
トゥールーズのベルタは、これまた有名なギヨーム・ド・ジェローヌと妻ギブールの娘です。
またしてもダビデの血統です。ギヨーム・ド・ジェローヌについては前回お伝えしました。
イタリア王ピピンは、敬虔王ルートヴィヒ(ルイ)の兄弟です。幼いルートヴィヒには強力なギヨーム・ド・ジェローヌがそばについていました。
イタリア王ベルナルド(七九七年ごろ~)は、ピピンの隠し子です。オーダ・ビルングの母、イタリアのアデライーデは、このベルナルドの義理のきょうだいでした。
カール大帝は蛮族のフランク人の王でしたが、東ローマ皇帝コンスタンティノス六世(七七一年~)の後継者として戴冠し、それによって「ローマ皇帝」になりました。
息子のルートヴィヒ(ルイ)一世も「皇帝」の称号を受け継ぎました。皇帝の称号は代々受け継がれ、イタリアのベレンガーリオ一世(八四五年~)までつづきました。
ハインリヒ一世の息子はオットー大帝(九一二年~)です。
九二四年、オットー大帝は神聖ローマ皇帝として戴冠しましたが、在位は九二四年から九六二年と比較的短いものでした。

この在位期間は、フランク帝国から神聖ローマ帝国への移行を示すものと考えられています。
ちなみに神聖ローマ帝国という国号は、一二五四年にはじめて登場しました。
オットーの帝国は、同時代の認識では、あくまでカール大帝のカロリング帝国の延長です。
オーダ・ビルングならびにビルング家は、念のためお伝えしますが、ナルボンヌのナシ、ラビ・マヒルの血を引いています。
ビルング家は、オーダの夫、ザクセン公リウドルフにちなんでリウドルフィング家とも呼ばれます。
十世紀半ば、リウドルフィング家のザクセン公たちがドイツ王にもなったころ、オットー大帝は公権力を次第にヘルマン・ビルング(生年不明)に委ねはじめました。
ビルング家は五代に渡ってザクセン公国を統治しましたが、黒公ハインリヒ九世(一〇七四年~)の義父、ザクセン公マグヌス(一〇四五年~)が跡継ぎの男子がないまま死去したあと、ビルング家はヴェルフ家およびアスカニア家に統合されました。
ビルング家の財産は、ハンガリー王妃ソフィアの二人の娘に分割されました。
ソフィアの父はハンガリー王ベーラ一世(一〇六〇年~)で、母はポーランドのリグザです。
リグザはポーランド王国の初代王、ボレスワフ一世(九六七年~)の孫娘です。
ボレスワフ一世は一〇二五年、教皇ヨハネス十六世によって王冠を送られました。カール大帝以後の、教会が戴冠した人が王になる、というルールに則っています。
黒公ハインリヒは、ザクセン公マグヌスの娘ヴルフヒルトと結婚しました。
息子の傲慢公ハインリヒ十世(一一〇〇年ころ~)は、ザクセン公兼神聖ローマ皇帝のロタール三世(一〇七五年~)の娘、ゲルトルートと結婚しました。
息子の獅子公ハインリヒ(一一二九年ごろ~)は、マティルダ・オブ・イングランドと結婚しました。
マティルダは、イングランド王ヘンリー二世(一一三三年~)とアリエノール・ダキテーヌの娘です。
アリエノールのダキテーヌは「アキテーヌの」という意味で、祖先のアキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)はクリュニー修道院をこしらえた人です。
ギヨーム一世はギレム家の人間です。ギレム家の創始者はオータン伯ティエリー、ラビ・マヒルです。
ドイツとフランス
九世紀後半には、のちにフランスとなる西フランクと、のちにドイツとなる東フランクのカロリング朝の支配者たちが、「皇帝」の称号を巡って争いはじめました。

そして八八八年にカール三世(八三九年~)が死ぬと、カロリング朝は分裂し、もう復活することはありませんでした。
九一一年、カロリング朝のルートヴィヒ四世(八九三年~)は、十七歳の若さで死にました。
跡継ぎを残さなかったため、東フランクはドイツ公のコンラート一世(八八一年~)を東フランク王として選出しました。
コンラートはカロリング朝以外の最初の王で、フランク王国の中で貴族によって選ばれた最初の王でした。
コンラートにも跡継ぎがいなかったので、臨終の際、宿敵のハインリヒ一世に王位を譲りました。王国の分裂を防ぐためです。
ハインリヒ一世は九一九年、フリッツラーで国王に選出されました。
ハインリヒ一世が死ぬと、息子のオットー大帝がアーヘンで「皇帝」に選出されました。
オットー大帝の子孫はオットー朝として、その後一世紀に渡って「東」の王国を支配しつづけました。
皇帝ということなので、カロリング朝時代の東フランク王国の大部分は神聖ローマ帝国の領土になりました。
オットー大帝の妹のハトヴィヒは、西フランクのユーグ大公(八九八年ごろ
~)と結婚しました。

このユーグ大公は、ギヨーム・ド・ジェローヌの直系子孫です。
ユーグ大公の長男は、ユーグ・カペー(九四〇年ごろ~)です。このユーグは名前のとおり、カペー朝を開いたフランス王です。
一八四八年に第二共和政が成立するまで、すべてのフランス国王はユーグ大公の子孫でした。
つまりそれまでのフランス国王は全員ギヨーム・ド・ジェローヌの子孫だったということです。当然このフランス国王たちは、ラビ・マヒルの子孫ということになります。
ラビ・マヒルは中世ヨーロッパ史における最重要人物の一人と以前お伝えしましたが、この人をヨーロッパ(南フランス)に呼びつけたのはカール大帝の祖父、カール・マルテル(六八八年ごろ~)です。
女悪魔メリュジーヌ
オットー大帝は、エドワード長兄王(八七〇年代~)と二番目の妻エルフラドの娘エドギタ(イーディス)と結婚しました。
その後オットー大帝はアデライーデと結婚し、その息子は神聖ローマ帝国の皇帝オットー二世(九五五年~)になりました。
オットー二世は、ビザンツ帝国の皇帝ヨハネス一世ツィミスケス(九二五年~)の姪テオファヌと結婚しました。
息子のオットー三世(九八〇年~)の死後は、ハインリヒ二世(九七三年~)が神聖ローマ帝国の皇帝になりました。
ハインリヒ二世は、オットー大帝の弟のバイエルン公ハインリヒ一世(九二〇年ごろ~)の孫です。
ハインリヒ二世はルクセンブルク家のクニグンデと結婚しました。このクニグンデは、カール大帝の孫のカール二世と、ギヨーム・ド・ジェローヌの孫娘エルマントルド・ドルレアンの子孫です。
ルクセンブルク家は、祖先であるクニグンデの父、アルデンヌ伯ジークフリート(九二二年ごろ~)を通じ、メリュジーヌの子孫だと主張していました。

メリュジーヌは上半身は美女ですが、下半身はヘビです。
スキタイの地は、かつてドラカイナが支配していました。このドラカイナも上半身が女で下半身がヘビで、大地の女神でした。

つまりスキタイ人の祖先はドラカイナです。そしてギリシャ神話のエキドナと同一視されました。
ザクセン人は、英語ではサクソン人といいます。
サクソンという呼び名は、スキタイの一部族、サカエから来ています。
プリニウスは、「サカエはスキタイの最も優れた民族の一つで、アルメニアに定住し、サカエ=サニと呼ばれた」と記しています。
https://www.originofnations.org/books,%20papers/history_by_sharon_turner.htm
古代ローマの学者クラウディオス・プトレマイオス(八三年ごろ~)は、メディアから来たサカエから派生したスキタイ人をサクソン人と呼んでいました。

歴史家ヘロドトス(紀元前四八四年ごろ~)は、メディア人をアリアン人と呼んでいました。
そして十九世紀の啓蒙思想の学者たちは、このアリアン人(メディア人)を「純潔のアーリア人」としました。超白人です。
「アーリア人」の祖はドラカイナというわけです。ルクセンブルク家の人たちはこのことを知っていて主張したのでしょう。
ちなみにスキタイ(白人)のルーツはヤペテで、セム系のユダ族の血ではありません。
ルクセンブルクは、ローマ帝国時代の砦を発展させた城を中心に築かれた都市です。
かつての砦は「ボック」と呼ばれる岩の上に築かれ、ルクセンブルクの城はヨーロッパで最も防御力の高い城として有名でした。
九六三年、この城の跡地を購入したジークフリートは、女悪魔メリュジーヌと結婚したといわれています。
メリュジーヌは結婚に先立ち、週に一度、だれにも会わない日をつくることを要求しました。
数年が経ち、ジークフリートの好奇心は強くなっていきました。そしてついに入浴シーンを盗み見ました。
奥さんの正体を知ったジークフリートはあまりの光景に驚き、悲鳴を上げました。するとメリュジーヌは窓からボックの崖に飛び降り、雷鳴とともに姿を消しました。
https://luxembourg.public.lu/en/society-and-culture/history/fondation-du-luxembourg.html
メリュジーヌの足は、魚として描かれることもあります。ドラカイナの足は魚にも見えます。
この人も足が魚です。

この人は足が蛇です。

『蛇と白鳥:民間伝承と文学における動物の花嫁』という書籍によると、「メリュジーヌ」という名は「Mere des Lusignan(リュジニャンの母)」の略称として用いられたのことです。
https://atlanteangardens.blogspot.com/2019/12/legend-of-melusine-and-royal-houses-of.html
リュジニャン家はフランス起源の王家で、中世の十二世紀から十五世紀にかけて、ヨーロッパ、及びエルサレム王国、キプロス王国、アルメニア王国を含むレバント地域の複数の公国を統治していました。
エルサレム王国といえば、十字軍です。
「白鳥の騎士」の物語については、以下でお伝えしました。
家系図では、プリンセス・メリュジーヌ・ド・ルジーナという人を見つけることができました。
メリュジーヌは七三二年生まれで、父親はスコットランド王エリナス、母親はプレシーヌです。
プレシーヌの伝説によると、十字軍遠征の時代、アルバン王エリナスは狩りに出かけ、森の中で美しい貴婦人を目にしました。
貴婦人の名前はプレシーヌといいました。エリナスはプレシーヌを説得し、結婚に同意させました。
ですがプレシーヌは、出産時や子供たちの入浴時には決して寝室に入ってはならない、という約束を要求しました。
夫婦はしばらく幸せに暮らしましたが、プレシーヌが三つ子を産んだ際、エリナスはお約束どおり約束を破りました。
プレシーヌは三人の娘たちとともに王国を離れ、失われたアヴァロン島に向けて旅立ちました。
家系図によると、三人の娘はメリュジーヌ、メリオール、パラティーンです。
十五歳の誕生日、長女のメリュジーヌは母に、なぜ自分たちを父から引き離してアヴァロンへ連れてきたのか、とたずねました。
父の約束破りを知ったメリュジーヌは復讐を企てました。そして姉妹を率い、エリナスを捕らえ、山の中に閉じ込めました。
娘たちの行いを知ったプレシーヌは、罰を下しました。それからメリュジーヌは毎週土曜、腰から下が魚に変わることになりました。
伝説の別バージョンでは、メリュジーヌは毎週土曜に腰から下が蛇に変わります。

リュジニャン家もルクセンブルク家と同様、メリュジーヌの子孫を主張していました。
編年史家のジェラルド・オブ・ウェールズ(一一四六年~)によると、イングランドの獅子心王リチャード一世(一一五七年~)は、自分をアンジュー伯夫人(実体はメリュジーヌ)の子孫とする物語を好んで語っていた、とことです。
そしてリチャード一世は、自分たちの一族を「悪魔から来て悪魔へ帰る」と結論づけたといいます。
このリチャード一世の母はアリエノール・ダキテーヌです。

アンジュー家の伝説によると、初期のアンジュー伯は遠い地で美しい女と出会い、結婚したとのことです。
そして女は四人の息子を産んだあと、不審な行動を取りはじめます。めったに教会に通わず、ミサの本番がはじまる前には必ず退出していました。
ある日、伯は四人の家臣に命じ、妻が教会を出ようとした際に無理やり拘束させました。
女は家臣をかわし、年少の二人の息子を抱きかかえると、参列者の目の前で二人空中に持ち上げ、教会の最上部の窓から飛び去りました。
女と二人の息子は二度と姿を見せませんでした。そして残された息子の一人が、のちのアンジュー伯およびイングランド王家の祖先であると主張されました。
メリュジーヌの物語は山ほどあり、どれもだいたい同じです。

このような浮き彫りや像も山ほど存在します。




悪魔の子孫であることが誇らしいという考えには、「自分たちは特別」という優生学的思想も含まれているのでしょう。
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