81.ラビ・マヒル
画像は以下のサイトから転載。
あらゆる秘儀の父
今回のキーとなる地名は、イタリア、ドイツ、ナルボンヌ(セプティマニア)です。
イタリアのユダヤ教の伝承には、アブ・アーロン(九世紀半ばごろ~)というメルカバ神秘主義者が登場します。
メルカバ神秘主義についてはすでにお伝えしています。ゲルショム・ショーレムがいうところの「ユダヤのグノーシス」で、キリスト教グノーシス主義の起源です。
アブ・アーロンは、九世紀半ばにバグダッドから移住してきたラビ、サミュエル・ハ・ナシの息子といわれています。資料では、アーロン、アブ・アーロン、マスター・アーロンなどと呼ばれています。
なにがマスターなのかというと、アブ・アーロンがイタリアに住んでいた数年間、聖なる名前の力によって不思議なことを行った、とされているからです。
なのでアブ・アーロンは、「あらゆる秘儀の父(av kol ha-sodot)」として知られていました。
のちのアシュケナージ・ハシディムの伝承によると、それらの新しい秘儀は、八七〇年ごろにイタリアのルッカのラビ、モーゼス・ベン・カロニモスがアブ・アーロンから学んだ、とされています。
アシュケナージ・ハシディムは、十二世紀から十三世紀のあいだにドイツのラインラントのユダヤ人たちが行った神秘的、禁欲的な運動のことを指します。
ググると近年のハシディズム(超正統派ユダヤ教運動)ばかりがヒットしますが、それとは別物です。
この共同体の指導者は、十世紀にドイツに移住したイタリア北部発祥のカロニモス家の子孫です。
カロニモス家は、九世紀から十三世紀にかけて、とくにライン近郊の都市で栄えた、ドイツで最も著名なユダヤ人一族の一つです。
そのメンバーには、ラビ、説教者、詩人、教師、作家、モラリスト、神学者がいて、この時代の著名な共同体指導者のほとんどがカロニモス家出身です。
そしてカロニモス家は、ダビデの系譜につながる学者たちの家系です。
イタリアにおけるカロニモス家の痕跡は、八世紀後半にはすでに見つかっていました。
それからモーゼス・ベン・カロニモスと息子たちは、ドイツのライン川流域に移住し、そこでアシュケナージ・ハシディムの神秘主義の伝統を築きはじめました。
一部の文献では、モーゼスたちにドイツ移住を命令した王として、シャルルマーニュ(カール大帝)の名前が明示的に記されています。
ただ現在では、その王はシャルルマーニュの孫のシャルル二世(八二三年~)であったにちがいない、とされています。いずれにせよカールたちは神秘主義ユダヤ人と能動的に接触していたようです。
ピピン三世やカールたちに限らず、キリスト教世界の人たちは、神がダビデ王の末裔に「地の果てまで永遠に支配する」報酬を約束した、ということを知っていました。
イスラム教徒も同様に知っていました。さらにいうと、ダビデ王の子孫は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒から有能な指導者として珍重されていました。
ダビデ王の子孫と結婚すれば、ヨーロッパでの成功を保証できます。みんなダビデの血をありがたがっているからです。
そして生まれてくる子は実際に、ダビデの血を引いています。有能かどうかはともかくです。
そこでフランクとユダヤの婚姻関係がはじまった、とつづくとエキサイティングですが、ユダヤとの婚姻関係はカロリング朝にはじまった話ではありません。
カロリング朝の時代には、キリスト教徒とユダヤ教徒が協力してイスラムの勢力に対抗していました。なのでダビデかどうかはともかく、ユダヤ人との婚姻はふつうのことでした。
ですが中世が進むにつれ、キリスト教グノーシス主義の勢力が強くなり、ユダヤ人出身の貴族や王族はユダヤの先祖を隠さなければならなくなりました。
十世紀以降、ヨーロッパ社会はさらに反ユダヤ的になり、ダビデの一族は系図や文書を改竄せざるを得なくなりました。
なのでカロリング朝はメロヴィング家の出自に結びつけられ、授業でもそのように教わるようになりました。もちろん教科書にはユダヤのユの字も出てきません。
カロリング朝は実際は、ユダ族のダビデ家の男系直系子孫でした。
「あらゆる秘儀の父」アブ・アーロンの息子は「聖地のアフナイ(Ahunai of the Holy Land)」です。このアフナイは、義理の父でエクシアルク(指導者)だったヘマン・ベン・シャルムが殺されたあと、バグダッドから西側に移住したようです。
へマンは、「表面上はイスラム教徒になったユダヤ人たち」の長でした。六六〇年ごろに殉教し、プンペティタのユダヤ人たちはへマンをメシアに認定しました。
「聖地のアフナイ」の息子はエウデス(マル・ユダ・ザッカイ)です。エウデスはアキテーヌ・ユダヤ人の指導者として、のちにカール・マルテル(六八八年ごろ~)と同盟を結び、ウマイヤ朝イスラムとの戦いに参加しました。
そしてエウデスの息子が、マヒル・ベン・イェフダ・ザッカイ、ラビ・マヒルです。
『セフェル・ハ=カバラ』の伝説
ドイツのヴォルムスは、ユダヤ人と関連が深い都市です。
ヴォルムスは、十世紀半ばのユダヤ人の移住によって発展しました。ドイツ最初のユダヤ人墓地もヴォルムスのものとされています。
一〇三四年以前にはシナゴーグなども建設されていたのですが、第一回十字軍に関連してユダヤ人迫害が発生しました。
そしてユダヤ人は、一三四八年のペストのあと、さらなる迫害に苦しめられることになります。
話は逸れますが、ユダヤ人の迫害については、異論を唱える余地なくキリスト教徒が悪い、ということになっています。
「ペスト」については何度もお伝えしていますが、ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたのであれば、迫害されて当然です。
「井戸に毒投げ入れ説」は、荒唐無稽な話ではありません。何度も繰り返しお伝えしているのでここでは省略します。
「ペスト」は十四世紀以前にも流行っていました。
ペストはともかく、ヴォルムスについては、ウィキペディアにこうあります。
カール大帝時代、アーヘンとヴォルムスは大帝の「お気に入りの滞在地であり、・・・、玉座 regnum の主要な所在地 sedes principales」であった[5]。
ヴォルムス出身のタルムード学者、ヴォルムスのエレアザール(一一七六年~)は、カロニモス家についてこのように記しています。
かれら(カロニモス家の人たち)は皆、師から師へと、ラビ・サミュエル・ハ・ナシの子アブ・アーロンに至るまで、真の祈りの秘伝を受け取った。かれ(サミュエル・ハ・ナシ)は不慮の事故のためにバビロニアからやって来て、(罰として)あちこちを放浪する羽目になったが、ロンバルディア(北イタリア)のルッカという町に来て、そこでピユート(礼拝用の詩)『エイマット・ノロテハ』を書いたラビ・モーセを見つけ、かれ(アブ・アーロン)はその秘伝のすべてをかれに伝えた。かれはラビ・ユダの子、(モーセス・ベン・)カロニモスの子、ラビ・モーセであった。かれはロンバルディアを最初に去った者であり、かれとその息子たち、ラビ・カロニモス、ラビ・ジェクティエル、そしてかれの親戚のラビ・イティエル、その他の重要な人々であった。シャルル王がロンバルディアの国からかれらを連れて来て、マインツに定住させたからである。
カロニモス家の系譜については、整理しようと学者たちのあいだで何度も試みられたのですが、似たような名前ばかり出てくるので現在も正確にはまとめられていません。
スペインのコルドバ出身のユダヤ人、アブラハム・イブン・ダウド(一一一〇年~)は、一一六一年ごろに著書『セフェル・ハ=カバラ』を記しました。
「伝統の書」という意味で、当時「カバラ」という語にはまだ神秘的な意味合いはありませんでした。
『セフェル・ハ=カバラ』が書かれたのは、カライ派への反論のためです。
カライ派は、モーセ五書のみを権威とする原理主義的なユダヤ教の一派で、創始者は八世紀半ばのバビロニアのラビ、アナン・ベン・ダヴィドです。
ラビ・ユダヤ教(ユダヤ教の一派)は、タルムードなども権威として認めていました。先のエレアザールの引用に出てきたカロニモスのラビたちのユダヤ教一派、つまり神秘主義者たちの一派です。
タルムードの中身は、イエス・キリストへの憎悪で満ちあふれています。
カライ派は当然、ラビ・ユダヤ教を攻撃しました。おまえたちとおまえたちのやっていることは歴史的に正当性があるのか、という攻撃です。
アブラハム・イブン・ダウドは、カライ派への反論の中で、バグダッド以外にユダヤ教の学問所が(正当に)出現したことを説明するために、ユダヤ史で「四人の捕虜」として知られる物語も伝えています。
九六〇年ごろ、イタリアのバーリ港からバビロニア・アカデミーのラビ会議に出席する途中だったスーラの四人のラビが、悪名高い海賊イブン・ルマヒスによって捕らえられました。
スーラは地名で、プンペティタとともにタルムード研究の中心地でした。
四人のラビたちは身分を明かさなかったのですが、その後さまざまな港で売られたり、身代金を要求されたりしました。売られた場所はそれぞれ、アレクサンドリア、チュニジア、コルドバ、名前がわからない都市です。
そしてそれぞれの土地で、四人のラビたちはラビ学院の創設者となりました。
四人の中の一人、モーセ・ベン・ハノクは、コルドバのハスダイ・イブン・シャプルート(九一五年ごろ~)の庇護を受け、コルドバのラビ兼ダイヤーン(審判者)となりました。
ハスダイも重要人物なので以下の記事をお読みください。
ベン・ハノクは、ハスダイとともにコルドバにタルムード学派を創設しました。スーラの役割と重要性が弱まると、ハスダイはそこの図書館の一部を買い、コルドバに移させました。
コルドバ学派の影響は、さらに三五〇年スペインに及びました。
この海賊とラビの物語の正当性は、十世紀以前、ユダヤ教の宗教的指導力がバビロニアのゲオニム(タルムード学院の校長先生)に集中していたことに拠ります。
ユダヤ教史では、この時代をゲオニムの時代と呼びます。
その後まもなく、ヨーロッパと北アフリカの各地に独立したユダヤ教の学問の中心地が生まれはじめ、バビロニアのゲオニムの影響力は激減しました。
原理主義者カライ派への反論は、ようするに「バビロニアの偉大なラビが(苦難の旅のすえに)コルドバやヨーロッパ各地に学院を創設したんだから正当性があるんですよ」ということです。
そして実際、ユダヤ神秘主義の活動の中心地は上記のようにヨーロッパに移りました。
たいへん重要な歴史的経緯なのですが、「イエスは排泄物に煮られて罰せられた」などという書物を研究する人たちなので、キリスト教徒にとっては迷惑極まりない話です。
そして反ユダヤの感情が高まり、ユダヤ人は歴史的にも実際的にも身を潜めることになります。
タルムード研究は、ナルボンヌ、ドイツ(バイエルン)、イタリアでも行われるようになり、これらの地域のつながりもカバラの資料から明らかとなっています。
ナルボンヌの王子
『セフェル・ハ=カバラ』には、ダビデ王の末裔であるラビ・マヒルがカール大帝の治世中に家系を設立した、という伝説が記載されています。
わずかに話が逸れますが、ラビ・マヒルは、中世ヨーロッパ史における最重要人物の一人です。
ですが例によって、「ラビ・マヒル」とググってもゲームの記事や画像しか出てきません。さらに賢いAIは例によっててきとうな説明を垂れ流しています。
Google scholarで検索しても該当する日本語の論文はひとつも出てきません。
日本でラビ・マヒルを知っているのは百人くらいだと思われますので、これを機に知っておいてください。
そんなラビ・マヒルは、おそらくバビロンのユダヤ人のエクシアルク、つまりナシ(王子、統治者)でした。
カール大帝はアッバース朝との同盟関係構築のため、第五代カリフのハールーン・アッ=ラシード(七六三年~)と使節団を送り合っていたのですが、あるときカールは、ダビデの家系のラビを派遣するようハールーン・アッ=ラシードに要請しました。
派遣の要請をしたのはカール・マルテルともいわれていますが、そうしてヨーロッパにやってきたのが、ラビ・マヒルです。
ラビ・マヒルの父、アキテーヌ・ユダヤの指導者だったエウデス(マル・ユダ・ザッカイ)は、七三五年以降、退位してバビロンのエクシアルクの宮廷に入っていました。いわばUターンです。
カリフの承認を得てマヒルをカール大帝かカール・マルテルに送るよう勧めたのは、おそらく父のエウデス(マル・ユダ・ザッカイ)です。
いずれかのカールは、サラセン人のナルボンヌを征服したあと、マヒルに都市の三分の一を与えました。
『セフェル・ハ=カバラ』にはこうあります。
この町を占領したとき、王はこれを三つに分けた。ひとつはこの町の支配者、その名はドン・アイメリクに与えた。 第二の部分は町の司教に与えた。 そして第三の部分はラビ・マヒルに与え、かれをベン・チョーリン(自由人-おそらく貴族の意味)とし、その愛ゆえに、王の印が押されたキリスト教文書に書かれて封印されているように、この町に住むすべてのユダヤ人のために良い法律をつくり、[その文書は]今日までかれらの手中にある。
そしてラビ・マヒルは、都市の貴族の中から妻を娶った、とあります。そしてナルボンヌでナシになり、マヒルの子孫は代々、王と密接に関係しながら統治していきます。
またラビ・マヒルは、重要なタルムード学院をナルボンヌに設立しました。
ラビ・マヒルの妻はだれかというと、カール・マルテルの娘アルダです。
そしてカール大帝の母は、ラビ・マヒルの妹ベルトラーデです。
カール大帝はたいていの方はご存じかと思いますが、歴史の先生はこういったことは教えてくれません。
繰り返しになりますが、カロリング朝はダビデ家の男系直系子孫、ユダヤ系カトリック教徒の家系です。
カール大帝のユダヤ名はダヴィド・カロニモス・ベン・アッバといいます。
「カール」という語はもともと狼を意味します。「カールマン」は狼男です。
その語がやがて否定的な意味を持ちはじめたので、カロニモスなどの「いい名前」風の語が生まれました。ドイツではウルフはヴォルフになりました。
ラビ・マヒルのほうにも、カール大帝のようにフランク風の別名がありました。娘は「ベルトラーデ」です。
こちらのほうがカール大帝のユダヤ名よりも深刻です。カールやユーグやウイリアムと聞いてユダヤやタルムードを連想する人はまずいないからです。
ユダヤをユダヤと認識できないということは、そのまま歴史の誤認につながります。
そしてわたしたちの誤認は、百パーセントではないにせよ意図されたものです。
以下の系図でラビ・マヒルの正体を突き止めてみてください。ちなみにこの系図は一部まちがっています。
ユダヤの十字軍
カロニモス家の人たちは、上記のとおり、ドイツのマインツにタルムード研究をもたらしました。
マインツのイェシヴァ(タルムード学院)は、ゲルショム・ベン・ユダ(九六〇年~)の指導の下、タルムード研究の中心地になりました。
ゲルショム・ベン・ユダは、「流謫者の光」と呼ばれて敬われました。流謫(るてき)というのは罪によって遠方に追放されることを指します。
サミュエル・ハ・ナシのエピソード、そして四人の偉大なラビ学者のエピソードと類似しています。とにかく正当性が求められていたようです。
そしてゲルショム・ベン・ユダは、ラビ・マヒルの兄弟です。どちらが兄で弟なのかはわかりません。
ゲルショムはマヒルとともに、生まれ故郷のナルボンヌからマインツに移り住みました。
そしてゲルショムは当地でボンナ・バット・カロニモスと結婚し、その後すぐに、フランス、ドイツ、イタリアを代表する律法学者として認められるようになりました。
弟子や信望者たちは、マインツとヴォルムスのタルムード学院でゲルショムの研究を引き継ぎ、最終的にはフランスにも研究が広まりました。
またゲルショムは、武勲詩『ジラール・ド・ヴィエンヌ』の主人公ジラール・ド・ヴィエンヌその人です。
『ジラール・ド・ヴィエンヌ』の作者はベルトラン・ド・バール゠シュル゠オーブで、別の武勲詩『エメリ・ド・ナルボンヌ』のエメリ・ド・ナルボンヌは、ラビ・マヒルです。
これらは有名な『ローランの詩』の前日譚にあたる武勲詩で、カール大帝も登場します。一読して主人公がユダヤ人ラビだと気づく人ははだれひとりいないでしょう。
ダビデの血統を偽装するために書かれた、というと飛躍しすぎですが、騎士道物語はユダヤ的、カバラ的です。
ラビ・マヒルの子孫と王たちの婚姻も含めた関係は、その後の十字軍およびテンプル騎士団の創設、レコンキスタ、聖杯伝説へとつながっていきます。
のちにもお伝えする予定ですが、中世ヨーロッパで確立された騎士道の理想を体現する九人の人物をまとめて「九偉人(ナイン・ワース)」といいます。
スタメンを列挙すると、中世ヨーロッパにおける「騎士道」がどういうものだったかがうっすらと見えてきます。
トロイの英雄ヘクトール
アレクサンドロス大王
ユリウス・カエサル
モーセの後継者ヨシュア
ダビデ王
マカバイ戦争の指導者ユダ・マカバイ
アーサー王
カール大帝
第一回十字軍の英雄ゴドフロワ・ド・ブイヨン
第一回十字軍は、別名「王子(ナシ)たちの十字軍」といいます。
その後のテンプル騎士団のユダヤぶり、オカルトぶりは、そもそもユダヤだったからということです。
そしていまのわたしたちの耳に届くのは、カールやユーグやウイリアムといった西洋風の(耳に心地よい)名前ばかりです。
九偉人はリアルとフィクションがごっちゃになっています。何度も繰り返しお伝えしていますが、このごっちゃぶりこそが歴史です。
歴史の勉強において伝説を軽んじるわたしたちは、実際のところ伝説を史実だと信じ込まされているのです。
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