79.カロリング朝
画像は以下のサイトから転載。
ローマ人からフランク人へ
前回お伝えしたとおり、スーラのサアディア・ベン・ヨセフ(八八二年/八九二年~)、別名サアディア・ガオン(校長先生)は、著書『信仰と意見の書』によって、ユダヤ神学と古代ギリシャ哲学を体系的に統合した人です。
またサアディア・ガオンは、アシュケナージ・ハシディムに形成的な影響を与えた人でもあります。
アシュケナージ・ハシディムは、「ドイツの敬虔な人」という意味で、十二世紀から十三世紀にかけてドイツのラインラントで起こったユダヤ教の神秘的で禁欲的な運動です。
「『アシュケナージ・ハシディム』のどこにドイツが入っているんだ」と思われたかもしれませんが、のちほど説明します。
サアディア・ガオンがドイツに伝導した東洋の神秘思想は、のちに南フランスでカバラとして発展することになります。
ドイツと南フランスのカバリストたちは、自分たちはダビデ王の子孫だ、という主張を共有していました。「ドイツの敬虔な人」たちのほとんどが、イタリアのルッカに住む名家カロニモス家と結びついていたからです。
「またダビデかよ」といった趣がありますが、ダビデの血は超重要です。西洋史はダビデの血を基礎にしてつくられているといっても過言ではありません。
カロニモス家については次回にお伝えする予定です。
ヘレニズム時代のアレクサンドリアで生まれたユダヤのグノーシスであるメルカバ神秘主義、およびカバラの書『セフェル・イェツィラー』(形成の書)の教えは、九世紀後半にはイタリアと南フランスのユダヤ人社会に広まっていました。
その影響は、中近東と、その後のドイツや南フランスのセプティマニアでのカバラの発展とを繋げる役割を果たしました。
念のため付け加えておきますが、セプティマニアは地名です。「鉄道マニア」のような語感でなんとなく違和感があるのですが、地名です。
紀元後六世紀には、いわゆるフランスのマルセイユ、アルル、ユゼス、ナルボンヌ、クレルモン=フェラン、オルレアン、パリ、ボルドーにユダヤ人がいたことが記録されています。
これらの地は一般に、ローマ帝国の行政の中心地で、主要な貿易ルート上に位置していました。
貿易、商売といえばユダヤ人です。ユダヤ人は土地を所有することを禁じられていたので、よく知られているように、商人、または徴税人、水夫、医師として活躍していました。
六二九年、フランク王のダゴベルト一世(六〇三年~)は、キリスト教を受け入れないユダヤ人の追放を企てました。この人はメロヴィング朝でリアルに王権を振るえた最後の王様です。
メロヴィング朝の創始者は、フランクスという人です。この人はカロリング朝の祖でもあります。
またフランクスはトロイ人の末裔で、シャルルマーニュ(カール大帝、七四二年~)の祖父でもあります。
ですが七世紀のフランク人の年代記『フレデガリウス年代記』によると、シャルルマーニュはフランクスの子孫ではない、とのことです。
つまりフランクスは、メロヴィング朝の学者たちが創作した伝説上のフランク王でした。ですが「だからなんだ」では済ませません。
帝政ローマの皇帝アウグストゥス(紀元前六三年~)は、詩人ウェルギリウスに『アエネーイス』を書かせました。これによってユリウス・クラウディウス家はトロイ人の末裔、ということになりました。
トロイ人も重要です。トロイ人はゼラを通じて生まれたユダの子孫で、つまりセムの子孫、メシアの系図だからです。
ローマ人はイスラエル人のゼラ・ユダ族の子孫だった、ということです。アブラハムに託された予言も当たり、ローマ人は広く世界を手にしました。
メロヴィング朝の王たちも、輝かしい血統を得るために『アエネーイス』を模倣したわけです。
ちなみにメシアの系譜などが真実かどうかは、あまり関係ありません。嘘といえば嘘なのですが、それによって歴史が動いた、という事実のほうが重要です。
「ユリウス」はアエネーアスの息子ユルスに由来し、ユルスはアスカニオスとしても知られています。
そしてアスカニオスは、聖書のアシュケナズと同一視されています。
エゼキエル書の三十八章にはこうあります。
ゴメルとそのすべての軍隊、北の地のトガルマの一族とそのすべての軍隊、また多くの民もあなたと共にいる。
ゴメルはアシュケナズの父です。ここではゴメルはマゴグの地のゴグの同盟者として言及されています。
ゴグとマゴグについてはしつこいほどお伝えしてきましたので、54.アルタイ山脈から66.オークニー諸島までをお読みください。
ラビの文献では、アシュケナズ王国ははじめスキタイの地と結びつけられ、次はスラブの地に結びつけられ、十一世紀以降はドイツと北ヨーロッパに結びつけられました。
なのでアシュケナージ・ハシディムは、「ドイツの敬虔な人」という意味なのです。
伝説は永久不滅ですが、伝説の裏づけとなる土地や人物は時代によって変わるようです。
ユリウスたちはもちろん帝政ローマ時代の主役です。そして中世ヨーロッパの主役はフランク人たちです。
そしてどちらもトロイ人の子孫ということになりました。事実上の権力委譲の一環として、ユリウスたちの設定も引き継いだわけです。
その設定の仕方は、アシュケナズ王国の設定と同じく、非常にユダヤ的です。
シカンブリア
七世紀に書かれた『フレデガリウス年代記』には、フランク人とトロイ人を結びつける中世最古の伝説が記されています。
九世紀のウェールズ人修道士ネンニウスによるとされている『フランク史書』には、プリアムスとアンテノールに率いられた一万二千人のトロイ人が、トロイからロシアのドン川(スキタイ人の故郷)に航海し、さらにドナウ川沿いのローマ帝国の属州だったパンノニア(現在のハンガリー、オーストリア、バルカン半島北部の一部)を目指した、と記されています。



そこでトロイ人たちはシカンブリアと呼ばれる都市を築き、これがシカンブリア人の名前の由来となりました。メロヴィング人はシカンブリア人の子孫に当たります。

祖先がトロイからはるばるドイツ、オランダあたりにやってきたということなので、子孫であるフランクたちはもちろん栄えあるトロイ人です。
トゥールのグレゴリウス(五三八年ごろ~)は、著書『フランク史』で、フランク王国の(本当の)初代王クローヴィス(四六六年ごろ~)が洗礼を受けた際にシカンブリア人と呼ばれたことを記しています。
かれ(クローヴィス)が洗礼を受けるために入場すると、神の聖人は話しはじめた。「そっと首を曲げなさい、シガンベール。焼いたものを拝みなさい。拝んだものを焼きなさい」
このシガンベールは、もちろんシカンブリアのことです。シカンブリ族はフランク人の一派をなすドイツ人部族でした。
『フレデガリウス年代記』によると、フランク人はシカンブリ族をスキタイかキンメリアの血を引く部族だと考えていて、紀元前一一年に酋長フランコを称えてフランク人と改名した、と記しています。
このように「シカンブリア」は重要なはずなのですが、日本語のウィキペディアにはページが存在しません。
重要な人物や項目はことごとく存在しません。陰謀論的に考えることもできますが、実際は歴史における「伝説」を軽視しているからだと思われます。
ミトラの血統
七五一年、ゲルマン系のフランク王国を支配していたメロヴィング朝は、教皇庁と貴族たちの同意の元に倒され、ピピン三世(短躯王)がフランク王として即位しました。
ピピンの父親のカール・マルテルもカロリング家の人で、カロリングはメロヴィングと入れ替わりで登場したわけではありません。メロヴィングを政治的に打倒し、台頭したということです。
カロリング朝の王たちは、ヘロデ家、ユリウス・クラウディウス家、コンマゲネ家、エメサの祭司王の婚姻によって生まれたミトラ教の血統を受け継いでいました。
これらの家々、そしてミトラ教については、過去記事をお読みください。
この血統は、二つの重要な方面に分岐しました。
一つはコンスタンティヌス一世(二七〇年代前半~)を輩出した皇帝の血統、もう一つは新プラトン主義者のシリア人イアンブリコス(二四五年~)を含む血統です。
コンスタンティヌスは皇帝としてはじめてキリスト教を信仰した人ですが、いろいろいわくのある人です。
キリスト教に改宗しなかったともいわれていますし、実際ソル・インウィクトス(敗れざる太陽)崇拝はコンスタンティヌスによってつづけられました。
コンスタンティヌスはセウェルス朝の創始者、セプティミウス・セウェルス(カルタゴ人)の子孫です。ミトラ教の血統に属する支配者の最後の一人です。
そして以前お伝えしたように、ラバルムもじつはクロノスに由来するものでした。

イアンブリコスに至っては、邪教をまじめに復活させようとした人物です。この人はエメサの神官王の子孫です。
この二つの分派は、メスの司教アルヌルフ(五八二年~)によって再統一されました。
アルヌルフは五九六年ごろ、貴族の娘ドデ(もしくはドダ)と結婚しました。
そしてアルヌルフの次男のアンセギセルは、ピピン一世(五八〇年ごろ~)の娘ベッガと結婚し、ピピン二世(六三五年ごろ~)の父になりました。
つまりアルヌルフは、ピピン二世の男系の祖父、カール・マルテルの曾祖父、シャルルマーニュ(カール大帝)の五世の祖にあたるわけです。
カール・マルテルはフランス史上最も英雄的なキャラクターで、この人のおかげでイスラム教徒はイベリア半島に留まらざるを得なくなりました。
ユダヤとの共闘
メロヴィング朝のダゴベルト一世の治世とカロリング朝のピピン三世(七一四年~)の治世のあいだには、ユダヤ人についての記述は見つかっていません。
ですが当時セプティマニアとして知られていた南フランスでは、ユダヤ人は繁栄をつづけていました。

セプティマニアはナルボンヌが首都で、ムーア人(イスラム教徒)の自治公国でした。コルドバ(スペイン)のアミール(君主)には名目上の忠誠を誓っているだけでした。
セプティマニアのムーア人はナルボンヌから北上を開始し、リヨンなどのフランク王国領の奥深くの都市を占領しました。
ですが七九八年までに、カール・マルテルがムーア人を追い返し、逆にセプティマニアに侵攻し、都市を包囲しました。まだメロヴィング朝のころです。
ナルボンヌはユダヤ人とムーア人によって守られ、難攻不落でした。カール・マルテルは七四一年に死去し、息子のピピン三世があとを継ぎました。
ピピンの軍は七年間もナルボンヌを包囲しつづけたのですが、ムーア人とユダヤ人たちは耐え切りました。まだメロヴィング朝のころです。
そこでピピンは、ナルボンヌのユダヤ人と密かに協定を結びました。まだメロヴィング朝のころです。
ピピンは七五一年、豪族たちや司教たちから国王として推戴され、ここからカロリング朝がスタートしました。
アメリカ人歴史家のアーサー・ズッカーマンによると、七五九年、ナルボンヌのユダヤ人は、突然イスラム教徒の守備隊に反旗を翻し、虐殺をはじめました。
そしてピピンのために城門を内側から開放しました。はるか昔、ユダヤ人はバビロンでもバビロニア人に対して同じことをしました。キュロス二世はユダヤ人のおかげで、ほとんど戦わずにバビロンを落とすことができたといわれています。
そしてユダヤ人は、キュロス二世を唯一の非ユダヤ人メシアと評したように、ピピンも名目上の支配者として認めました。
もちろん主張もしました。聖書の正当な継承権です。ピピンは約束を守り、七六八年、セプティマニアにユダヤ公国が誕生しました。
初期中世ヨーロッパにユダヤ人の国が存在していたのです。以下のサイトなどもあり、日本でも八百人くらいは知っているのではないかと思われます。
ですが日本語ウィキペディアの「セプティマニア」のページには、ユダヤのユの字も出てきません。
コルドバ生まれの占星術師で歴史家で哲学者のユダヤ人、アブラハム・イブン・ダウド(一一一〇年~)は、著書『Sefer Haqabbalah』で、ナルボンヌの町を征服したフランク王がユダヤ人に与えた贈り物のことを書いています。
この町を占領したとき、王はこれを三つに分けた。ひとつはこの町の支配者、その名はドン・アイメリクに与えた。 第二の部分は町の司教に与えた。 そして第三の部分はラビ・マヒルに与え、かれをベン・チョーリン(自由人-おそらく貴族の意味)とし、その愛ゆえに、王の印が押されたキリスト教文書に書かれて封印されているように、この町に住むすべてのユダヤ人のために良い法律をつくり、[その文書は]今日までかれらの手中にある。
ラビ・マヒルは一つの記事になるほど重要な人物です。なのであらためてお伝えします。
セプティマニア公国はピピンに名目上の忠誠を誓っていましたが、実質的には独立していました。
そしてセプティマニアの統治者は、正式にダビデの子孫して認められました。先ほど出てきたラビ・マヒルの子孫たちです。
ラビ・マヒルの子孫たちは、ピピンだけでなく、バグダッドのカリフからもダビデ王の子孫として認められていました。
絶頂期のセプティマニアは、スペイン北東部、ピレネー山脈、そしてセプティマニア地方を支配下に置いていました。
なにかが起きそうな状況ですが、やはりなにかが起きました。修道院の設立、そして有名な十字軍です。
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