42.ヘロデ神殿
画像は以下のサイトから転載。
ミトラ教の生みの親たち
ローマ帝国で最も人気があったカルトは、ミトラ教です。

エゼキエルの幻視とヨハネの黙示録の「生き物」は、ミトラ教の秘儀、ライオンの頭を持つ像にも類似しています。

ミトラ教は、新プラトン主義、グノーシス主義、ヘルメス主義と共通する信仰を多く持っており、最終的にはカトリック・キリスト教の形成に影響を与えました。
ミトラ教のカルトを発展させたのは、ヘロデ家、コンゲマネ家、シリアのエメサの祭司王たちの婚姻によって広まった子孫たちです。
今回から数回は、ミトラ教の誕生に向けた前振りになります。
エドム人
上記の婚姻関係によって、ヘロデ家は発展しました。
ヘロデ大王として知られるヘロデは紀元前七三年ごろに生まれた人物で、ヘロデ王国と呼ばれたユダヤの盟邦王(ローマ帝国のクライアント・キング)でした。

ヘロデは「ユダヤ人」ではなく、イドマヤ人です。
イドマヤ人は、ユダ南部のエドムに定住していたエドム人の子孫でしたが、紀元前一三〇年から一四〇年にユダヤ教への改宗を求められました。
紀元前六世紀のいわゆる「バビロン捕囚」のあと、バビロンはペルシャの手に落ちました。その後キュロス二世の勅令によって、捕囚された人たちは解放されました。
実際にエルサレムに帰ったのは四万人だけで、この一部がエルサレムと周辺に定住しました。
エズラ記十章にはこうあります。
祭司エズラは立ってかれらに言った。「あなたがたは罪を犯し、異邦の妻をめとり、イスラエルの不法を増やした。
ゆえにいま、あなたがたの先祖の神、主に懺悔し、主の御心を行ない、土地の民からも、異邦の妻からも離れなさい」
帰ったあとまたしても罪を犯したわけです。「異邦の妻」とは、イスラエル人の旧敵、バアル崇拝でおなじみの呪われたカナン人です。
イスラエル人が捕囚されたあと、ユダの地は空っぽだったかというともちろんそうではなく、エドム人が移住していました。
エドム人はイサクの子エサウの子孫です。創世記三十六章にはこうあります。
エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。
エサウはカナンの娘たちのうちから妻をめとった。
紀元前一三〇年までには、エルサレムの民は大祭司マカバイの元でかなり力をつけていました。そしてマカバイ戦争と呼ばれる叛乱を起こし、セレウコス朝シリアから独立しました。
その後カナン人とエドム人を征服し、「ユダヤ教」に改宗させました。
このユダヤ教は、すでにギリシャやローマで知られていた「ユダの宗教」という意味の語です。自称ではなく他称です。
そしてイスラエルの旧敵だった人たちも含め、同じく他称で、ユダの人、「ユダヤ人」として知られるようになりました。
ユダヤ教に改宗して割礼を実践するようになると、ユダの真のイスラエル人たち(四万人の子孫)は、エドム人やカナン人と再び婚姻関係を結ぶようになりました。今回はユダヤ教どうしなので罪悪感はありません。
そして紀元前八〇年までには、多くのエドム人がユダ王国の権威ある地位に就きました。とくにヘロデの一族です。
ヘロデ大王は、紀元前四〇年ごろ、マカバイ派の最後の一人を殺害しました。そしてマルクス・アントニウスに賄賂を送り、ローマの元老院に認められ、紀元前三六年ごろ、ユダ王国の王となりました。
その後はエルサレム神殿の大祭司などの役職は単なる政治的な道具になり、何年にも渡ってヘロデの友達や近親者が大祭司などの役職に任命されることになります。
この慣習は紀元後七〇年のエルサレム第二神殿の破壊までつづきました。
そしてその後のディアスポラ(離散)は、かつてイスラエルとして知られていた神の民の離散ではありませんでした。むしろ神とキリストの敵のディアスポラでした。
エルサレム第二神殿
ヘロデ大王はカイサリア・マリティマという港町、マサダの要塞、さらには自分の名前を冠した要塞都市ヘロディウムを建設するなど、ユダヤ全土で大規模な建築事業を行いました。
そして極めつけは、エルサレム第二神殿の改修です。元の第二神殿はかなりショボいつくりだったのですが、これによって大規模で壮大な神殿に生まれ変わりました。
繰り返しになりますが、例の神殿(嘆きの壁含む)をこしらえたのはエドム人の子孫だったわけです。
ヘロデ大王は暴君で、キリスト教徒からもユダヤ教徒からも等しく嫌われていた希有な人物でした。
一般のユダヤ教徒は、イスラエル人やエドム人、カナン人を含む、ふつうの人たちです。ですがヘロデと支配階級は、他称「ユダヤ人」ですが、わたしたちが現在認識しているユダヤ人ではありませんでした。
イエスは自分と「ユダヤ人」を明確に区別していました。
かれら(ユダヤ人)はイエスに答えて言った。「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスはかれらに言われた。「もしあなたがたがアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざを行うであろう」
多くのユダヤ人は、豊穣と宇宙全体の調和は復活した神殿の儀式にかかっている、と信じていました。
なのでヘロデ大王によって壮麗に生まれ変わった第二神殿は、ユダヤの神秘宗教の象徴となりました。神殿カルトの誕生です。
イエスはエルサレム神殿で暴れまくったあと、パリサイ派と律法学者にこう言います。
蛇よ、蝮の世代よ。あなたがたはどうして地獄の刑罰を逃れることができようか。
もはや難しく解釈する必要はないでしょう。「ユダヤ人」がイエスに怒られた理由も、もうおわかりになったかと思います。
アモス書の五章にはこうあります。
わたしはあなたがたの祭りを憎み、かつ卑しめる。そしてわたしは、あなたがたの聖会のうちで、においを嗅ぐことをしない。
あなたがたが燔祭や素祭をわたしに捧げても、わたしはそれを受け入れない。あなたがたの肥えた獣の供え物も、わたしは顧みない。
あなたがたの歌の騒音を、わたしから取り去れ。わたしはあなたがたの琴の音を聞かない。
預言者イザヤも「ユダヤ人」にうんざりしていました。イザヤ書の一章にはこうあります。
もうむなしい供え物を持って来るな。薫香はわたしの忌むべきものである。新月、安息日、会合の招集にわたしは耐えられない。それは不義である、厳粛な集会であっても。
あなたがたの新月と定められた祭日を、わたしの魂は憎む。わたしはそれに耐えるのに疲れた。
あなたがたが手を広げるとき、わたしは目を隠す。あなたがたが多くの祈りを捧げても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。
生贄はともかく、香さえも否定しています。キリスト教の慣習、教会での典礼でさえ、人気取りのために邪教の要素を取り入れたものでした。
このような「厳粛な」儀式はすべてカルトから来ています。


神殿カルトで思い起こされるのが、フリーメーソンです。前回お伝えしたとおり、神殿は終末論とその「運用」において大変重要な要素です。
ソロモン神殿の至聖所には、契約の箱が置かれていました。中には十戒の石版が入っていて、箱の上には二体のケルビムが乗っています。


第二神殿の再建中は、石工の技術を持つユダヤ人祭司だけが至聖所に入ることができました。ヘロデ大王でさえ入室を許されませんでした。
なぜなら至聖所では、ケルビムが性的な抱擁に包まれるというエロい秘密が守られていたからです。バビロンからつづく「神聖な結婚」の伝統です。儀式では王と巫女がセックスし、「神」になります。
巡礼者たちは、豊穣の儀式である仮庵の祭りでのみケルビムを見ることができました。そしてそのあとは性的に大爆発し、とことん快楽にふけりました。
カナン人の面目躍如といった風情です。そして現在ユダヤ人と呼ばれている人たちは、一体何者なのでしょうか。
ギリシャ人の飼育
シリアの王アンティオコス四世エピファネスは、紀元前二一五年ごろに生まれた人です。
この王の治世に、ユダヤ人の叛乱、マカバイ戦争が起きます。そしていわゆるユダヤ人は、ハスモン朝として独立します。
アンティオコス四世は、紀元前一六八年、エルサレム第二神殿を略奪しました。どちらが悪かったのかと問われれば、ほとんどの人はシリアだと答えるでしょう。
ですが実際は、アンティオコス四世に邪教の偶像を発見されてしまったからでした。表向きは一神教だったので、恥をかいたわけです。
そしてユダヤ人は、神殿内でギリシャ人を飼育していました。
帝政ローマ期のユダヤ人著述家フラウィウス・ヨセフス(紀元後三七年~)は、著書『アピオンへの反論』で、エジプト人アピオン(紀元前三〇年ごろ~)の記述を伝えています。
長いですがおもしろいので引用します。
アンティオコスは、われわれの神殿に寝台があり、そこに男が横たわっているのを発見した。寝台の前には小さな食卓があり、海の魚や陸の鳥の珍味でいっぱいであった。
この男は……王がやって来ると、即座に王を慕い、王が可能な限りの援助を与えてくれることを期待し、ひざまずき、右手を王に差し伸べて、解放を懇願した。
王はかれの前にすわり、自分が何者で、なぜそこに住んでいるのか、かれの前に置かれたさまざまな種類の食べ物の意味はなんなのかを話すように命じた。男は嘆き悲しんで訴え、ため息をつき、目に涙を浮かべながら、自分が置かれた苦痛についてこのように説明した。
自分はギリシャ人で、生計を立てるためにこの地方を巡っていたところ、突然、外国人に捕らえられ、この神殿に連れてこられた。そしてここに閉じこめられ……こうして置かれたこれらの奇妙な食事によって肥え太った。
最初はこのような予期せぬ恩恵は、大きな喜びのように思われた。しばらくすると、それらは疑念をもたらし……ついに自分のところに来たしもべたちに尋ねたところ、かれらから、ユダヤ人の掟を果たすためであり、(本当は)おまえに言ってはならないことだが、と(前置きされたうえで)このような食事を与えられた(理由)を知らされた。
そして、かれらは毎年決まった時期に同じことをしていたこと、毎年ギリシャ人の外国人を捕らえ、こうして太らせてから、ある木に導き、殺し、慣例の厳粛さで生贄に捧げ、その内臓を味わい……ギリシャ人と永遠に敵対することを誓ったこと、そして、惨めで哀れな者の残りの部分をある穴に投げ込んだことを告げられた。
こうしてアピオンの著作を伝えたあと、ヨセフスは反論します。
アピオンは嘘が好きで、かれの著作を読めばすぐにわかることだが、嘘が好きで好きでたまらないのである。ユダヤ人全員がこの生贄に集まり、一人の男の内臓を何千人もの人が味わうのに十分であるということが、どうしてあり得るのか。
紀元後十世紀の東ローマ帝国の『スーダ辞典』にはこのようにあります。
ユダヤ人について、歴史家ダモクリトスは、かれらは驢馬の黄金の頭を崇拝し、三年ごとによそ者を狩って襲った、と述べている。かれらはかれの肉を薄く切り裂き、このようにしてかれを殺した。
『スーダ辞典』は反ユダヤ的な書物なのかというとそうではなく、ヨセフスについては、「ユダヤ人、真理を愛する者、先駆者について、またわれわれの主、神、救い主イエス・キリストについて語る」と好意的に書いています。
同様の告発は、紀元前一世紀、ポセイドニオスとアポロニウス・モロンによってすでになされていました。アピオンの記述が本当かどうかはわかりませんが(とくにアンティオコスその人がギリシャ人を発見したくだり)、広く知れ渡っていたネタを流用したのかもしれません。
ヨセフスは、ヘロデ大王が完全に神殿を再建したことも記録しています。そのため新・エルサレム第二神殿は、ヘロデの神殿として知られるようになりました。
またヨセフスは、ヘロデ大王は夢中になって神殿を再建しているあいだ、エッセネ派を支持していたと記しています。
この義務(ヘロデへの忠誠)から免除されたのは、わたしたちの中でエッサイオイと呼ばれる者たちである。これは、ピュタゴラスによってギリシャ人のあいだに確立された生活様式を遵守する人々である。
なぜエッセネ派に好意を寄せていたかというと、以前お伝えしたとおり、メンバーの一人がヘロデが王族になることを予言していたからです。
ヘロデはパレスチナのユダヤ人建築家を採用していたのですが、秘教的な象徴表現の技術が高いアレクサンドリアのユダヤ人職人ギルドにも頼っていました。
ピュタゴラスの象徴主義が、ユダヤの神殿カルトに大きな影響を与えたのです。
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