52.ソル・インウィクトス②
画像は以下のサイトから転載。
今回は前回のつづきです。
パルミラ帝国
セウェルス朝の創始者セプティミウス・セウェルス(紀元後一四五年~)はバアル崇拝でおなじみのカルタゴ人で、妻のユリア・ドムナ(アラブ人)はシリアのエメサの大祭司、エル・ガバル(バアル)崇拝者のユリウス・バッシアヌス(紀元後二世紀後半~)の娘でした。
これらの息子の一人がカラカラ(一八八年~)です。

名前がローマなのでなんとなくスルーしてしまいますが、実際はアジア(シリア)の王朝でした。
そして女装でおなじみの変人、バッシアヌス家出身のエラガバルス(二〇四年~)は、ローマにソル・インウィクトス崇拝を導入しました。

エラガバルスのあとを継いだのは、従兄弟のアレクサンデル・セウェルス(紀元後二〇九年~)です。この人でセウェルス朝は終了します。
アレクサンデルとエラガバルスは、どちらも女帝ユリア・ドムナの姉ユリア・マエサの孫です。

二三五年、アレクサンデルは自軍の叛乱によって殺害されました。これによって軍人皇帝時代とも呼ばれる「三世紀の危機」がはじまります。
皇帝が乱立しまくった結果、帝国の権威が失墜し、ゲルマン民族やササン朝ペルシャなどの外敵の侵略も頻発しました。
そして二六八年までに、ローマ帝国、ガリア帝国、パルミラ帝国の三つに分裂しました。
パルミラ帝国は、ローマ帝国の属州だったシリア、パレスチナ、アラビア・ペトラエア、小アジアの大部分を支配していました。

二六七年、ウァバッラトゥスはパルミラ帝国の王位を継承しました。ですが名目上の皇帝で(当時十歳)、実際に支配していたのは女王ゼノビア(紀元後二四〇年ごろ~)でした。

ゼノビアもエメサの祭司王の子孫、ガイウス・ユリウス・アレクシオンの子孫です。
アレクサンドリアの司祭アタナシウス(紀元後三二八年~)は、ゼノビアについてこのように報告しています。
サモサタのパウロ、マケドニア人、ノヴァティアンに対する断片(Migne xxvi.1293, 1313-1317)。このうち最初のものは本物であろう。Hist.Ar.71の、「ゼノビアはユダヤ人であった」という(誤った)記述を繰り返している。
サモサタはコンマゲネの首都です。コンマゲネは、マギの伝統、すなわちミトラ教を仲介したとされる小王国です。
サモサタのパウロはアンティオキアの司教で、ゼノビアの庇護を受けていました。
サモサタのパウロは、ユダヤ教徒として知られていました。ゼノビアはユダヤ教の信者だったわけです。
アタナシウスはサモサタのパウロがキリスト教にユダヤ教を導入しようとしている、と非難していました。
三二五年の第一回ニカイア公会議の公文書にはこうあります。
カトリック教会に避難してきたパウロ派の人々については、ぜひとも再洗礼を受けさせなければならない。
アタナシウス派は、キリスト教の正統派として認められた一派で、通常はニカイア派と呼ばれます。
サモサタのパウロは、同じユダヤ教でも異端的なユダヤ教の影響を受け、グノーシス主義を信奉していました。イエスは神のロゴスを吹き込まれ、人から神になった、という教えです。
グノーシスなので、パウロ派の人たちはすべての物質は堕落していると考えていました。
パウロ派にとってのイエスは、神から遣わされた天使です。母はマリアではなく天のエルサレムで、この考え方はカバラのシェキナに由来します。
パウロ派は、「イエスを信じることだけが人を裁きから救う」とイエス自身が教えていると主張したので、祈りの集いの場でさえ不道徳だと非難されていました。
皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(紀元後二一四年~)の治世は、二七〇年から死ぬまでつづきました。この人はゼノビアを捕らえ、パルミラ帝国に勝利し、ローマ帝国を再統一しました。
アウレリアヌスはローマ帝国のソル(太陽)崇拝を徹底的に改革し、太陽神を最高の神格に押し上げました。ローマにはソル・インウィクトスに捧げられた神殿が少なくとも四つあったそうです。
パルミラ帝国では太陽神マラクベルが崇拝されていました。これは「ベルの天使」という意味で、結局バアルです。
マラクベルはローマのソルと同一視されていました。ソル・インヴィクトゥス、エル・ガバル、マラクベルはどれもシリア起源です。
ソルの祭司は単なる司祭で、ローマの下層社会に属していましたが、このころには「教皇」として元老院エリートの一員になっていました。
イエスの死後から二百年ほどが経っていますが、オカルトは相変わらず元気に活動していました。
ラバルム
イエスが子であり神であるという信条は、三二五年、コンスタンティヌス(二七〇年代前半~)が個人的に招集したニカイア公会議で、正統派として正式に認められました。
コンスタンティヌスは、はじめてキリスト教を信仰したローマ皇帝として有名ですが、いろいろ怪しいところがあり、キリスト教に改宗しなかったともいわれています。
コンスタンティヌスはセウェルス朝の創始者、セプティミウス・セウェルス(カルタゴ人)の子孫です。ミトラ教の血統に属する支配者の最後の一人です。
そしてソル・インウィクトス崇拝も、コンスタンティヌスによってつづけられていました。
三二一年、コンスタンティヌスは、キリスト教徒とそれ以外が一致団結して太陽の日(日曜日)を守るように、と指示しました。
三一二年、ミルウィウス橋の戦い(支配権争いの一環)の勝利の直前、コンスタンティヌスは空に吊された輝く十字架を見たといわれています。

その十字架には、「この印をもってあなたは征服する」と刻まれていました。
これを受けてコンスタンティヌスは、自軍の盾にラバルムを刺繍するよう命じました。
ラバルムというのはローマ帝国の正規軍が用いた軍旗の一つで、クリストス(Christos)の最初の二文字で形成されたモノグラムです。最初の二文字はカイ(χ) とロー(ρ)です。

カイは太陽のシンボルで、クロノス(Chronos)の略称として使われていました。
ローマとギリシャの伝説では、ゼウスはサトゥルヌスの息子でした。サトゥルヌスは英語のサターン、つまりサタンで、クロノスとも呼ばれます。
catholic.comではこのように説明されています。
ギリシャ文字XとPを組み合わせたモノグラムは、キリスト教以前のコイン(アッティカ帝国のテトラドラクマやプトレマイオス朝のコインなど)にも見られ、キリスト教時代のギリシャ語写本の中には、CHRONOS、CHRUSOS、CHRUSOSTOMOSといった単語の省略形として使われているものもある。
Xはエゼキエル書に出てくる「車輪の中の車輪」、天の赤道と黄道の交点、ミトラ教のレオントセファルスを象徴しています。

背教者ユリアヌス
コンスタンティヌスの甥でローマ皇帝のユリアヌス(三三一年~)は、キリスト教化に反抗した人物で、背教者として知られています。

ユリアヌスは、ローマ帝国を衰退から救うには、古代ローマの価値観と伝統を回復する必要がある、と考えました。
そこでローマのカルトを優遇し、キリスト教の影響を最小限に抑えるような勅令を出しました。
三六三年に書かれた『ヘリオス王の賛歌』で、ユリアヌスはソルの祭典について言及しています。
年が明ける前、クロノスにちなんで呼ばれる月の終わりに、われわれはヘリオスに敬意を表して最も華麗な競技を祝い、その祭りを無敵の太陽に捧げる。
『ヘリオス王の賛歌』は、ミトラ崇拝から着想を得て書かれました。ヘリオスは太陽神です。
わたしたちもミトラを崇拝し、四年ごとにヘリオスを讃える祭りを行っているといえば、少し最近の風習について話すことになる。しかし、はるか昔の証拠を挙げる方がいいだろう。一年の周期のはじまりは、民族によって異なる時期に置かれる。ある者は春分の日に、ある者は夏の盛りに、そして多くの者は晩秋にそれを置くが、かれらはそれぞれ、そしてすべて、ヘリオスの最も目に見える贈り物を賛美する。
ユリアヌスは、哲学者イアンブリコス(二四五年~)の教義に影響を受けたと記しています。イアンブリコスはエメサの祭司王の子孫で、リアルに邪教を復活させようとした人です。
ユリアヌスにとってのミトラは太陽で、アポロン、パエトンと一体でした。その神に『ヘリオス王の賛歌』を捧げ、はじめてアテネでタウロボリアが祝われました。
タウロボリウムは、フリギアのキュベレー崇拝に出てくる最も厳粛な儀式です。

塹壕のような通路を掘り、その上に格子状の棚を乗せます。棚の上で雄牛が殺され、通路にいる信者は全身に血を浴び、生まれ変わります。
キュベレーはローマではマグナ・マーテルとして知られています。シビュラの神託によると、カルタゴとの戦いでローマ軍に勝利をもたらしたのはキュベレーとのことだったので、急いで小アジアから持ち込まれた、という経緯があります。
ユリアヌスの『マグナ・マーテル賛歌』では、ミトラ教の秘儀について記しています。
もしわたしが、カルデア人が神的な熱狂の中で七つの光の神を讃えた秘儀の教えにも触れなければならないとしたら、わたしは一般の群衆には理解できない、いや、まったく理解できないが、幸福な神働者にはよく知られたことを言うことになるだろう。だから、わたしはいまのところ、この話題については黙っておこう。
ユリアヌスはユダヤ人も支援していました。敵の敵は味方というわけです。なのでユダヤ人たちは、ユリアヌスを「へレネーのユリアヌス」と呼びました。
ユリアヌスはヘレニズムの実践者としてヘレネーという造語をつくり、明確に定義しました。伝統的なグレコローマンカルトの実践者、という意味です。
三六三年、ペルシャとの戦いを開始する前、ユリアヌスはキリスト教に対抗するため、ユダヤ人にエルサレム神殿の再建を許可しました。
紀元後七〇年、エルサレム第二神殿は破壊され、イエスの予言が成就しました。ユリアヌスはそれを無効にしようとしたわけです。
ユリアヌスは莫大な費用をかけ、アンティオキアのアリピウスという人にエルサレム神殿の再建を託しました。
歴史家アンミアヌス・マルケリヌス(三二五年~)は、著書『歴史』でこう記しています。
しかし、アリピウスは精力的に作業に取り組み、州知事もかれに協力したにもかかわらず、恐ろしい火の玉が土台の近くで絶え間なく噴出し、何人かの作業員が焼かれ、その場所にはまったく近づけなくなった。
五世紀のキリスト教教会史家、コンスタンティノープルのソクラテス(三八〇年ごろ~)はこう記しています。
長いあいだ、神殿を再建してそこに生贄を捧げる好機を得たいと願っていたユダヤ人たちは、この仕事に精力的に取り組んだ。さらに、かれらはキリスト教徒に対して非常に横柄な態度で接し、自分たちがローマ人から受けたのと同じような災いをかれらに加えると脅した。皇帝(ユリアヌス)は、この建造物の費用を国庫から支出するよう命じたので、木材や石材、焼いたレンガ、粘土、石灰など、建造に必要なあらゆる資材がすぐに用意された。……その翌日の夜、大地震が神殿の古い土台の石を引き裂き、隣接する建造物とともにすべてを吹き飛ばした。そのため、ユダヤ人たちはこの出来事に恐怖し、その報告によって、遠く離れた場所に住んでいた多くの人々がその場所に集まった。火は天から下ってきて、建設者たちの道具をことごとく焼き尽くした。
これによってヘロデ大王からはじまったエルサレム神殿再建プロジェクトは中止となってしまいました。
神殿の存在は、連綿とつづいてきた生贄崇拝をローマ世界に表立ったかたちで復活させることになります。
火の玉はともかく、大火事や地震は実際にあったのかもしれません。これらの現象は当然、イエスの神性の証拠として信じられていました。
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