51.ソル・インウィクトス①
画像は以下のサイトから転載。
サトゥルナリア
後期のローマ帝国は、十二月二十五日にソル・インウィクトスの降誕祭を祝いました。
ソル・インウィクトスは、それっぽくありませんが神の名前です。「不敗の太陽」という意味で、兵士に崇拝されました。
いかにもローマ、という響きがあり、少しかっこいいです。
イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーによると、ソル・インウィクトスの降誕祭は、古代バビロニアで行われていたザクムクを取り入れたものでした。
紀元前二一七年、ローマ帝国は第二次ポエニ戦争でカルタゴに大敗を喫しました。ポエニはフェニキアのラテン語です。
フェニキア人は事実上イスラエル人と同じで、バアル崇拝を行っていました。カルタゴはフェニキアの植民都市として生まれたので、バアル崇拝と生贄儀式も当たり前のように受け継がれました。
しかもカルタゴのバアル崇拝はかなり悪質と評判でした。
ローマ帝国は第二次ポエニ戦争後、サトゥルヌスを祝うお祭り、サトゥルナリアの大改革を行いました。

それまではローマの慣習に従って祝祭日が祝われていたのですが、『シビュラの書』を参照し、ギリシャの儀式(カルト)、クロニアが採用されました。クロニアはクロノスのお祭りです。
サトゥルナリアのお祭りは、フォロ・ロマーノにあるサトゥルヌス神殿で行われました。内容は例によって、生贄、バカ騒ぎ、贈り物、身分の入れ替え(奴隷が主人になる)などです。

ギャンブルも許され、主人は奴隷にサービスを提供しました。そして最後に「イオ・サトゥルナリア」と叫び、幸運を祈りました。
ローマの伝統によると、最古の『シビュラの書』は、ソロンやキュロス二世(紀元前五七六年ごろ~)の時代、イダ山のゲルギス (Gergis) で作成された、とのことです。

神託はゲルギスからエリュトライに渡り、「エリュトライのシビュラの神託」として有名になりました。
この神託が古代ギリシャの都市クマエに渡り、そこからローマに渡ったようです。
イダ山では大地母神キュベレーが崇拝されていました。キュベレーはヤバい女神で、ローマではイデーア・マーテル(イダ山の母)とも呼ばれていました。
シビュラは、恍惚状態になりながら信託を告げる巫女です。クマエのシビュラは、クマエのアポロンの神託を司っていました。

ウェルギリウス(紀元前七〇年~)の『アエネーイス』には、クマエのシビュラが登場します。『アエネーイス』は、ローマ皇帝アウグストゥス(紀元前六三年~)が「ユリウス家はトロイ人の祖先である」という箔づけのために書かせたものです。
イタリアに到着したアエネーイスは、クマエのシビュラに導かれて冥界に下り、父を訪ねます。とりあえず重要な役まわりだったので、クマエのシビュラはローマで有名になりました。
『シビュラの書』を入手したのは、王政ローマ第五代の王、ルキウス・タルクィニウス・プリスクス(在位:紀元前六一六年~五七九年)です。
『シビュラの書』は、カンピドリオの丘のユピテル(ゼウス)神殿に保管され、緊急時にのみ参照されていました。カルタゴに大敗したのはかなりの緊急事態です。
その後『シビュラの書』は、アウグストゥスによってパラディウムの丘のアポロン神殿に移されました。
サトゥルナリアはクリスマスの起源で、サトゥルヌスはサンタの元ネタです。
主人が奴隷になるなど楽しげなお祭りですが、サトゥルヌスだけあって楽しいだけでは終わりません。
ジェームズ・フレイザーによると、祭りの最中、ローマの兵士たちは自分たちの中から一人の男を選びます。
選ばれた男は「失政の王」として三十日間過ごし、その後サトゥルナリアの祭壇で喉を切られました。
バビロニアの「神聖な王殺し」の伝統が受け継がれています。
当時の王は太陽の化身だったので、老衰や病気などで弱ると作物の収穫などに影響を及ぼします。民衆も不安がります。
なので関係者としては、とりあえず次の王を立てなければなりません。弱った王はどうなるかというと、いらないので殺されます。
また古代では、祭司(王)を殺すと祭司になれる、という伝統がありました。はじめから世襲ではなかったということです。
ローマの兵士は、兵士なので常に死と隣り合わせです。そのうえ「弱い者は死あるのみ」という超体育会系の社会で生きていました。
これらを鑑みると、サトゥルナリアでの「失政の王」という演目も、少し理解できるところがあります。死はずっと身近なもので、恐れていてははじまらないのです。
この行事が行われたのは、ドナウ河畔のドゥロストルムでした。
ドナウ川といえば、一番はじめにミトラ教の神殿(洞窟)が建立された場所です。

「失政の王」を選ぶ慣習もクリスマスに引き継がれました。イングランドではミスルール卿、スコットランドでは不合理修道院長、フランスではプリンス・デ・ソットとして、クリスマスの時期にくじ引きで任命され、愚者の祝宴を取り仕切る役員になりました。
ユリア・ドムナ
ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス(紀元後二〇四年ごろ~)は、ユピテルに代えてソル・インウィクトス崇拝を導入し、ミトラ崇拝と調和させました。

このマルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスは、セウェルス朝の皇帝で、五賢帝の人ではありません。
女装好きの変人だったので、むしろ賢人とは真逆に位置する人です。
ソル・インウィクトスをローマにもたらしたのは、やはりというか、小アジアでした。
シリアのエメサの祭司王、ユリウス・バッシアヌス(紀元後二世紀後半~)は、太陽神殿でエル・ガバル(エラガバルス)の大祭司を務めていました(アラブ人)。
エル・ガバルは山の神という意味で、バアルから派生した神です。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスはエル・ガバルを崇拝していたので、そのままエラガバルスというあだ名で呼ばれるようになりました。
バッシアヌスの娘ユリア・ドムナ(アラブ人)は、のちのローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(カルタゴ人。紀元後一四五年~)と結婚し、セウェルス朝を創始しました。

セウェルス朝は一九三年から二三五年にかけてローマ帝国を支配しました。つまりアラブ人とカルタゴ人のバアル崇拝者がローマに君臨していたわけです。
ユリア・ドムナは事実上の女帝でした。夫が政敵の退治のために出ずっぱりだったからですが、女が権力を行使するのはやはりよく思われていなかったようです。
またユリア・ドムナは、エメサの祭司王ソハエモスとマウレタニア王国(北アフリカ)の王女ドルシッラの息子、ガイウス・ユリウス・アレクシオンの子孫です。
アレクシオンは父のあとを継ぎ、エル・ガバルの祭司を務めていました。
ウィキペディアによると、エメサの霊廟にはこのような碑文が現存しています。
ガイウス・ユリウス、ファビア、サンプシケラモス、またの名をセイラス、ガイウス・ユリウス・アレクシオンの息子は、まだ生きていたとき、自身とその家族のためにこれをつくった、三九〇年。
ガイウス・ユリウス・アレクシオンの子孫には、パルミラ帝国の女帝ゼノビアが含まれている可能性があります。パルミラ帝国は、いわゆる「三世紀の危機」ののちにローマ帝国から分離独立した国家です。
サンプシケラモス家も含め、エメサの祭司の血統はかなり重要なはずなのですが、ガイウス・ユリウス・アレクシオンもまた、日本語のウィキペディアのページが存在しません。
テュアナのアポロニオスという人物がいます。新ピュタゴラス主義の哲学者、宗教家、魔術師です。
ローマ帝国時代の著述家フィロストラトス(紀元後一七〇年ごろ~)は、『テュアナのアポロニオス伝』という著作を残しています。
『テュアナのアポロニオス伝』によると、アポロニオスはピュタゴラスを信奉し、西はヒスパニア、東はインドまで弟子と遍歴し、疫病退散、悪魔祓い、死者蘇生、瞬間移動、千里眼、復活などの奇跡を行ったそうです。
かつてニネヴェの古都に住んでいた、決して愚かではないダミスという男がいた。かれは知恵を学ぶためにアポロニオスのもとを訪れ、かれの海外放浪の記録を書き記した。そして、かれの意見と言説とすべての予言を記録している。そしてダミスのある近親者が、これまで知られていなかったこれらの文書を含む文書で女帝ユリアの注意を引いた。
ダミスの文書を手にしたユリア・ドムナは、アポロニオスの生涯をまとめるようフィロストラトスに依頼しました。
アポロニオスは、イエス・キリストと同じ年に生まれたとされています。
そしてアポロニオスがイエスなら、ダミスは福音記者です。
死者の蘇生や裁判、復活などのほかにも、アポロニオスとイエスには類似点があります。
サモスのピュタゴラスの信奉者たちは、かれ(アポロニオス)についてこんな話をする。かれはイオニア人ではなく、かつてトロイにいたときはエウポルボス(トロイ戦争で戦った伝説の人物)であり、死後に生き返ったが、ホメロスの歌にあるように死んだのだ、と。そして、かれは動物の死体からつくられた衣服の着用を拒否し、純潔を守るために、すべての肉食と生贄に動物を捧げることを禁じたという。祭壇を血で汚したくなかったからである。
アポロニオスはイエスとイコールだと指摘する人もいますが、もちろんその説は受け入れられていません。
ユリア・ドムナがフィロストラトスに編集を依頼したのは、イエスに対抗するためという説もあります。なぜそのまま公表しなかったのかというと、ダミスがとっちらかった書き方をしていたからです。
フィロストラトスが依拠した資料の中に、モエラゲネスという人物が書いた『魔術師であり哲学者であったテュアナのアポロニオスの回想録』があります。
この著作について、フィロストラトスは「信憑性に欠ける」とし、魔術師としてのアポロニオスのイメージを払拭しようとしました。
変人エラガバルス
ユリア・ドムナの息子は、有名なカラカラ(紀元後一八八年~)です。
カラカラはセプティミウス・セウェルスのあとを継ぎ、二一七年に殺され、世継ぎがいなかったのでセウェルス朝は断絶しました。
次の皇帝はマクリヌス(紀元後一六五年ごろ~)です。この人は元老院の経験がなかったにも関わらず、結局皇帝に選出されました。
なぜかというと、セウェルス朝はかなり人気がなかったからです。
ユリア・ドムナの姉はユリア・マエサで、ユリア・マエサの娘はユリア・ソエミアスです。

ユリア・ソエミアスは、マクリヌスという簒奪者を許しませんでした。母と手を組み、息子のマルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス(エラガバルス)をバッシアヌス家の血を引く者(カラカラの落とし胤)として反乱を起こしました。
結果、紀元後二一八年にマクリヌスは殺され、エラガバルスが皇帝になりました。
そして前述のとおり、エラガバルスはローマにソル・インウィクトス崇拝を導入することになります。
古代ローマの歴史家ヘロディアヌス(紀元後一七〇年ごろ~)は、『マルクス帝没後のローマ史』で、エラガバルスについて語っています。
かれは自分の寝室に、ローマ人が人知れず崇拝しているパラス(アテネ)像を持ち込んだ。この像はトロイから運ばれてきたときから、ウェスタ神殿が火事で焼失したとき以外は動かされることがなかったにも関わらず、エラガバルスはいまになって動かし、自分の神と結婚させるために宮殿に持ち込んだ。
どこかケンとバービーのお人形遊びを思わせます。
エラガバルスの女装は有名なのでお伝えしませんが、ほかにもイカレたエピソードがあります。
しかし、自分の神は鎧を着た戦争の女神(アテネ)を喜ばないと宣言し、カルタゴ人とリビア人がとくに崇拝しているウラニア像を送り込んだ。
リビア人はこの女神をウラニアと呼ぶが、フェニキア人はアストロアルケとして崇拝し、月と同一視している。エラガバルスは、自分が太陽と月の結婚を手配していると主張し、女神像と神殿にあるすべての黄金を取り寄せ、……女神像が到着すると、エラガバルスは女神像を神とともに安置し、ローマとイタリア全土のすべての人々に命じ、神々の結婚を祝って、公的にも私的にも豪華な祝宴と祭りを催させた。
ローマ郊外に、皇帝は非常に大きく壮麗な神殿を建て、毎年真夏になると、そこに神を呼び寄せた。……かれは太陽神を金と宝石で飾った戦車に乗せ、都から郊外に連れ出した。
……だれも手綱を握らず、だれも戦車に乗らず、まるで太陽神自身が戦車乗りであるかのように、戦車は護衛されていた。エラガバルスは戦車の前を後ろ向きに走り、神と向かい合い、馬の手綱を握った。かれは神の顔を見上げながら、この逆走で全行程を行った。
行き先が見えないので、つまずいたり転んだりしないように金粉が敷き詰められ、怪我をしないように護衛が両脇を支えた。民衆は松明を持ち、花輪や花を投げながら、かれと並行して走った。すべての神々の彫像、神殿の高価な供物や神聖な供物、皇帝の装飾品、貴重な家宝は、太陽神を讃えるために騎兵隊と近衛兵全員によって運ばれた。
こうして神を運び出し、神殿に安置したあと、エラガバルスは上述の儀式と生贄を捧げ、自分が建てた巨大な高い塔に登って、金銀の杯、衣服、あらゆる種類の布を無差別に下の群衆に投げ捨てた。かれはまた、フェニキアの習慣に従って豚を避けた以外は、あらゆる種類の飼いならされた動物を配った。
その結果、(群衆が贈り物に群がったので)多くの者が命を落とした。兵士たちの槍に突き刺さったり、踏みつけられて死んだりした。
こうして皇帝の祝宴は多くの人々に悲劇をもたらした。
ヘロディアヌスの記述から、エメサの信仰はバビロニアのアキトゥ祭に触発されたものだと思われます。
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