85.ギレム家
画像は以下のサイトから転載。
十字軍の後援者
クリュニー修道院については何度もお伝えしていますが、フランスのブルゴーニュ地方のソーヌ=エ=ロワール県・クリュニーという場所に創建されたベネディクト会修道院です。

創建したのはアキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)で、この人はギレム家の家系です。

ギレム家は、ダビデの血統を持つユダヤ人の家系です。
つまりキリスト教のクリュニー修道院を創建したのはユダヤ人だったということです。
クリュニー修道院はその後権威を増し、西方の修道会のリーダーとして知られるようになりました。
どのようにして権威を増していったのかはのちほどお伝えしますが、現在の学者たちは、クリュニー修道院が十字軍の準備および利益獲得に大きな役割を果たした、と結論づけています。
修道院は、金儲けとは真逆のイメージがあります。クリュニー修道院はベネディクト会の修道院で、ベネディクト会の戒律は「服従」「清貧」「童貞(純潔)」です。
同じ修道会であるテンプル騎士団も次第に金儲けと道楽の度が増していき、「テンプル騎士団のように飲む」などと揶揄されるまでになりました。
そして金儲けといえばユダヤ人です。
アキテーヌ公ギヨーム一世は、ギヨーム・ド・ジェローヌ(七五五年~)を祖先とする聖杯一族ネットワークの重要な一員でした。

ノルマンディー公爵を通じ、フランスのアンジュー家ともつながり、これによってイングランドのプランタジネット朝が生まれ、「王子たちの十字軍」を後援した一族としてのネットワークの基盤を成しました。
エドワード・ゲレスは、著書『Jewish Journey, The: A Passage through European History』にこう記しています。
かれ(ギヨーム・ド・ジェローヌ)のキリスト教徒の子孫は、ウィリアム征服王やその配下の貴族、ギーズ公家、ロレーヌ公家、ハプスブルクのロレーヌ家、エステ家など、数多くの王室・貴族家系を数える。
有名なウイリアム征服王(一〇二八年ごろ~)やプランタジネットなどは、じつはユダヤの血を引くダビデの血族だったのです。
ギヨーム・ド・ジェローヌ
ギヨーム・ド・ジェローヌは、英雄として名高い人物です。日本語ウィキペディアのページもあります。
ギヨーム・ドランジュともいい、このドランジュは d'Orange、オランジュ(オレンジ)の地のことです。
後ウマイヤ朝のヒシャーム一世(七五七年~)は、七九三年、キリスト教徒に対しジハードを行うと宣言しました。
十万の兵を集め、半数はアストゥリアス王国に侵攻し、残りはナルボンヌを通過しラングドックまで侵攻しました。

ギヨーム・ド・ジェローヌは結局、ラングドックにおける戦いに勝利しました。
また八〇一年、アクィタニア王ルートヴィヒとともにフランク人、ブルグント人、プロヴァンス人、アクィタニア人、ガスコーニュ人(バスク人)およびゴート人を率いて遠征を行い、ムーア人(イスラム教徒)からバルセロナを奪いました。

場所を見るとけっこうな戦果です。
八〇四年、ギヨームはジェローヌ(現サン=ギレム=ル=デセール)に修道院を創建しました。サン=ギレム=ル=デセール修道院です。

ギヨーム・ド・ジェローヌが修道院に与えた財産の中には、カール大帝(七四二年ごろ~)から贈られた聖十字架も含まれていました。
聖人伝『Vita sancti Willelmi』によると、カール大帝はその聖遺物をエルサレム司教座から受け取った、とされています。
八〇六年、ギヨームは隠居して修道士になり、八一二年または八一四年に死去しました。ギヨームが死んだ際、オランジュの鐘がひとりでに鳴ったといわれています。
ギヨームは死後聖人とされ、実在の人物ですが伝説的な英雄として武勲詩に描かれるようになりました。
ここまではウィキペディア、つまり常識的な説明です。
「修道院を創建」と聞いて即座に怪しいと考えた向きは、すでにオカルト大好きです。おめでとうございます。
ギヨーム・ド・ジェローヌは生前、トゥールーズ伯、アキテーヌ公、セプティマニア公としても統治していました。
アメリカ人歴史家のアーサー・ズッカーマンによると、ギヨーム・ド・ジェローヌは、オータン伯ティエリー、つまりラビ・マヒルの息子とのことです。
ギヨーム・ド・ジェローヌはダビデの血統です。もちろんギヨーム・ド・ジェローヌの子孫もダビデです。
ギヨーム・ド・ジェローヌの子孫であるアキテーヌ公ギヨーム一世も、クリュニー修道院を創建しました。そして第一回十字軍の成功につながっていきます。
十字軍の目的は、自らの一族をエルサレム王として擁立することでした。ダビデのネットワークたちの思いはもちろん推し量ることしかできませんが、箔づけと呼ぶにはあまりに切実です。オカルト的な切実さです。
カロリング朝と「ユダヤ人」
中世の武勲詩、シャンソン・ド・ジェストは、いくつかの「サイクル」に分類されます。
十二世紀から十三世紀にかけて書かれた「ガラン・ド・モングラーヌのジェスト」は、ガラン・ド・モングラーヌの曾孫とされるギヨーム・ド・ジェローヌを主人公とした武勲詩たちです。
この武勲詩たちの一つに、『エメリ・ド・ナルボンヌ』という詩があります。
エメリ・ド・ナルボンヌは詩の中で、カール・マルテル(六八八年ごろ~)の娘アルダまたはアルダナと結婚し、ギヨーム・ド・ジェローヌの父になります。
つまりこのエメリは、オータン伯ティエリー、ラビ・マヒルのことです。
ですが実際のところは、ギヨーム・ド・ジェローヌはラビ・マヒルの息子ではないようです。
マニアックすぎるネタなので必要とする人がどれだけいるのかわかりませんが、ギヨーム・ド・ジェローヌは、ラビ・マヒルの息子ネヘミア・ハ・マキリの息子です。
ラビ・マヒルにはギヨームという息子がいます。ネヘミア・ハ・マキリの弟です。
武勲詩ではラビ・マヒルもネヘミア・ハ・マキリもエメリとして描かれていました。なのでアーサー・ズッカーマンはそれぞれの息子のギヨームたちを混同したようです。
ちなみにギヨーム・ド・ジェローヌのユダヤ名はイサク・カロニモスといいます。ラビ・マヒルの息子ギヨームはナタン・カロニモスです。
カロニモス家については以前お伝えしました。イタリア北部発祥で、九世紀から十三世紀にかけてとくにライン近郊の都市で栄えた、ドイツで最も著名なユダヤ人一族の一つです。
ギヨーム・ド・ジェローヌは、カロリング朝と「ユダヤ人」の融合を象徴する人物です。
コルドバ出身のラビ、カバラの父とされるアブラハム・イブン・ダウド(一一二五年ごろ~)の著書『セフェル・ハ=カバラ』によると、ラビ・マヒルとその子孫はカール大帝とそのすべての子孫と「親密」だったとのことです。
この親密さは、相互に「関係」していたという意味に取ることもできます。
ギヨーム・ド・ジェローヌの母はカール・マルテルの娘で、ギヨームはカール大帝の従兄弟にあたります。

カロリング朝は、ユダ族のダビデ家の男系直系子孫でした。ミトラの血統でもあります。
そしてカール大帝のユダヤ名はダヴィド・カロニモス・ベン・アッバです。カロニモスつながりです。
そもそもカロニモスは、カール(狼)、カールマン(狼男)という名前から派生した語で、派生した理由はカールという名前の響きが野蛮で好まれなくなったからです。
それが証拠に、のちの貴族たちにカールという名前は見られなくなりました。
カール・マルテルの次男、ピピン三世(七一四年~)は、七五九年にナルボンヌからイスラム教徒を追放し、ピレネー山脈の向こうに追い返しました。
そして八年に及ぶ戦争ののち、アキテーヌを征服しました。

カール大帝は父ピピンにつづいてアキテーヌを掌握し、後見人であり従兄弟のギヨーム・ド・ジェローヌなどのフランク人やブルゴーニュ人を伯爵に任命しました。
これは戦略的な意図もあり、トゥールーズをアル=アンダルス、イベリア半島への遠征の拠点とするためでした。
カール大帝はアキテーヌ人を押さえ込み、イスラム教徒の侵攻からカロリング帝国南部の国境を守るための小王国を組織しようとしました。
七八一年、カール大帝の息子ルイ(当時三歳)は、ギヨーム・ド・ジェローヌの監督の下でアキテーヌ王に即位しました。
そしてルイは、セプティマニアとウマイヤ朝ムーア人とのあいだの軍事的緩衝地帯として機能する辺境地方の責任者を務めました。
もちろん名目上で、そばには英雄となるギヨーム・ド・ジェローヌがついています。
実際、ギヨーム・ド・ジェローヌはカール大帝の最も優秀な兵士の一人となりました。合わせて助言者としても信頼されていました。
七九〇年、ギヨーム・ド・ジェローヌはトゥールーズ伯になりました。そして七九三年、お伝えしたとおりヒシャーム一世がジハードしましたが、ギヨームは返り討ちにし、ルイ敬虔王とともにバルセロナを占領しました。
十字軍以前、ギヨーム・ド・ジェローヌに関する叙事詩が少なくとも六つ書かれています。
ギヨームとイスラム教徒との戦いの軌跡は、これまた先にお伝えした「ガラン・ド・モングラーヌのジェスト」で謳われています。
武勲詩によると、エメリ・ド・ナルボンヌはカール大帝とともにスペインから戻ったあと、ナルボンヌを領地として与えられました。
ギヨーム・ド・ジェローヌのオラニエでのムーア人討伐は、十二世紀の『オランジュの陥落』で伝説的に描かれています。これも「ガラン・ド・モングラーヌのジェスト」に含まれています。
オランジュは英語のオレンジです。八〇〇年ごろ、ギヨーム・ド・ジェローヌはムーア人との戦い、南フランスとスペイン辺境の再征服という功績に対し、オランジュ公国を与えられました。

オランジュ公国は、元々は神聖ローマ帝国のブルゴーニュ王国に属するオレンジ伯領として成立しました。
ギヨームの系図
ギヨーム・ド・ジェローヌの息子ベルナール(七九五年~)は、八二六年から八三二年までフランク王国のセプティマニア公、八三五年から処刑されるまではバルセロナ伯を務めました。
ベルナールは、生涯を通じてルイ敬虔王の側近の一人でした。八二四年、ガスコーニュ公サンチョ一世の娘ドゥオダと結婚し、ギヨーム、ベルナール・プランタピローサをもうけました。
息子ベルナール二世は、八六八年以前にはセプティマニア辺境伯に任ぜられました。八八五年にはフランク王カール三世よりアキテーヌ侯の地位を与えられました。
プランタピローサという名前は、プランタジネットを彷彿とさせます。
ベルナール二世はオーヴェルニュ伯ベルナール一世の娘エルマンガルドと結婚し、少なくとも二人の子女をもうけました。
アデリンダという娘と、クリュニー修道院を創建したアキテーヌ公ギヨーム一世です。
ギヨーム・ド・ジェローヌのきょうだい、イダ・レドブルガは、ウェセックス王エグバート(七六九年ごろ~)と結婚したという説があります。
年代記によると、レドブルガはオーディンの直系子孫とのことです。
エグバートはアングロサクソン人で、ブリトン人を追っ払い、七王国のイングランドをはじめて統一した王として知られています。

一部の記録によると、カール大帝は八〇〇年、エグバートとレドブルガの結婚をアレンジしました。
エグバートは、マーシア王オファによってカール大帝の宮廷に追放されたあと、八〇二年にイングランドに戻り、ウェセックス王となり、イングランド全土の王となりました。
エグバートの息子はエゼルウルフは、母がダビデの血統なのでユダヤ人ということになります。
エゼルウルフは父にならってローマへの巡礼を行いました。辺境の島国の王が巡礼にやって来たということで、当時のローマでは一大ニュースになったようです。
イングランドでは、キリスト教を信仰することが文明的と見なされていました。なのでエゼルウルフは、八三九年に王位についた際、フランク王国の儀礼にならい、聖油を額などに注ぐ聖別を導入しました。
この聖別は、現在もイギリスで王が戴冠するさい、カンタベリー大主教が行っています。
エゼルウルフの息子にはアルフレッド大王(八四九年~)がいます。この人も親父とともにローマに行きました。
ついでにエゼルウルフは帰りに西フランク王国に立ち寄り、カール二世(八二三年~)の娘ユーディスと再婚しました。名前のとおりユダヤの娘です。
アルフレッド大王は、衰退したイングランドのキリスト教文化を復興し、古英語での読み書きを習慣化した王として知られています。また「アングロサクソン人の王」という新たな称号を創設しました。
アングロサクソン人の王という称号は、アルフレッド大王の息子、エドワード長兄王(八七〇年代~)も継承し名乗りました。
ノルマンディー公爵は、九一一年、ヴァイキングのロロ(八六〇年ごろ~)がカール三世(八七九年~)と会い、サン=クレール=シュール=エプト条約を結んだ際に創設されました。

この条約では、ロロがキリスト教に改宗し、カールの家臣となることが定められました。見返りとしてロロはノルマンディー地方をもらい、ノルマンディー公となりました。
そしてロロは、ギヨーム・ド・ジェローヌの曾孫、ポッパ・ド・バイユーと結婚しました。
ポッパの家族については、中世の系図の専門家たちのあいだでさまざまな意見があります。
フランスの系図学者、クリスチャン・セティパニによると、ポッパの両親はギ・ド・サンリスと、ヴェルマンドワ伯ピピン(八一七年~)の娘クネグンディスだと述べています。
ピピンの父はイタリア王ベルナルド(七九七年ごろ~)で、母親はキュネゴンドです。キュネゴンドはギレム家の出身と考えられています。
セティパニの説は、キュネゴンドがトゥールーズのヘリベルト(七八〇年ごろ~)の娘で、ヘリベルトがギヨーム・ド・ジェローヌとキュネゴンドの息子である可能性を示唆する、より広範な再構築の一部です。
ヨーロッパ貴族は血統、ブラッドラインを非常に重視しますが、フランクやヴァイキングなどの蛮族は、もともと血など気にしていませんでした。
ヴァイキングに至っては文明と呼べるものすら存在せず、平気で娘とやったりしていました。
貴族たちに血統の重要性を持ち込んだのは「ユダヤ人」です。
中世の平民は喜怒哀楽が激しく、その暴力性も含めて非常に西洋人でした。
ユダヤの血は、貴族たちに秘密結社的オカルトネットワークという「手法」を与えました。
この手法に従っていれば、政治的にうまく立ちまわれます。カネも儲かります。
ですが西洋貴族は、ときに無謀で愚かで自滅的な行為に走ることがあります。あのナポレオンも途中から調子に乗ってお上のいうことを聞かなくなりました。
ひとえに蛮族の血の成せる業です。トラウマも含め、血はすべてを記憶しているのです。
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