83.王子たちの十字軍②
画像は以下のサイトから転載。
騎士道と聖杯伝説
前回に引きつづき十字軍についてお伝えしていきます。
第一回十字軍は、クレルモン公会議での教皇ウルバヌス二世(一〇四二年~)の呼びかけによってはじまったとされています。
クレルモン公会議は一〇九五年十一月に開かれました。

そして諸侯(王子)たちが北フランス、南フランス、フランドル、ドイツ、南イタリアからそれぞれ出発したのは一〇九六年の夏ごろです。あまりに速やかです。
前回お伝えしたテンプル騎士団の創設メンバー、シャンパーニュ伯ユーグ(一〇七四年ごろ~)は、主にフランク貴族で構成されたネットワークの一員でした。

このユーグは、第一回十字軍には参加しませんでしたが、「十字軍ネットワーク」と呼べる一族のうちで最も頻繁に聖地巡礼を行った貴族の一人です。
「十字軍」の定義は実際には難しく、武装してエルサレムに行けば、それもまた「十字軍」です。
ユーグが率いた「十字軍」は、一一〇四年から一一〇七年、一一一四年から一一一六年の二回でした。ウィキペディアには当然のように載っていません。
そしてユーグは、自分たちの一族が「十字軍」という活動に関与していることを認識していました。
ユーグの最初の妻は、フランス王フィリップ一世(一〇五二年~)の娘コンスタンス・ド・フランスです。完全な勝ち組です。
コンスタンスは、一〇九五年から一一〇三年にかけて発行されたユーグの六三通のチャーター(勅許状、認可状など)に登場します。このチャーターでは、ユーグは常にフランス王室との繋がりをアピールしていました。
ですが一一〇四年になると、コンスタンスは突然言及されなくなりました。配偶者に結婚の解消を要求されたからです。
離婚はいとこどうしだったという理由で一一〇四年に認められました。当然ユーグの評判は傷つきました。
その後ユーグは、十字軍を権力と威信の舞台として利用することにしました。そして第二回の遠征からテンプル騎士団の設立へとつながっていきます。
「十字軍ネットワーク」の諸侯(王子)たちは、第一回十字軍で聖地エルサレムを奪還しました。
詳細は省きますが、聖地奪還は一〇九九年のことです。当時勝ち組だったシャンパーニュ伯ユーグは、参加はしなかったものの動向は知っていました。
そして第一回十字軍の王子たちは、中世ヨーロッパにおける「騎士道」の基礎を築きました。この騎士道はのちに聖杯伝説として記されることになります。

中世ヨーロッパの騎士道精神というものは、それまで存在していませんでした。武装して馬に乗った人はもちろんいましたが、その精神性において、わたしたちが認識しているいわゆる「騎士」ではありませんでした。
十字軍の結果としてあらわれた騎士道精神は、中世ヨーロッパの社会全体に計り知れない影響を与えることになります。

コップ座
繰り返しになりますが、十字軍の諸侯たちはネットワークを形成していました。ただの同盟関係などではなく、家族、血統、「血」による結束です。
血の象徴といえばワイン、ワインといえば杯です。
聖杯伝説における聖杯(Grail)は、キリスト教の聖餐に用いられる杯のことではありません。

「杯」という言葉をはじめて使ったのは、あのプラトンです。プラトンは著書『ティマイオス』で「ミキシング・ボウル」という概念を持ち出しました。
プラトンはまた、ピュタゴラス学派と同様、宇宙を「洞窟」と見なしていました。
洞窟は『オデュッセイア』にも比喩的に登場します。赤ん坊のゼウスがかくまわれていたのもクレタ島の洞窟です。
クロノスは海中に洞窟を造って子供たちを隠しました。デメテルはニンフたちとともに洞窟でペルセポネを育てました。
洞窟といえばミトラ教です。
ミトラ教には七段階の秘儀があり、アウルス・コルネリウス・ケルスス(紀元前二五年ごろ~)が定義した「七つの門を持つ梯子」は、秘儀において魂が七つの惑星圏と恒星圏を昇ることをあらわしています。
七つの惑星を昇るといえばグノーシスしかありません。フリーメーソンを持ち出すまでもなく、段階的な秘儀参入儀式はカルトの定番です。
十字軍は遠征中、キリキアのアルメニア人のあいだで勢力を拡大しました。キリキアのアルメニア人はセルジューク朝をはじめ諸勢力の侵略を受けていたので、ゴドフロワを救世主とみなしました。
このキリキアは、ミトラ教を生み出した陰謀のまさに中心地でした。カルトの薫陶を受けるにはもってこいの地です。
ちなみにキリキアの首都タルソスは聖パウロの生誕地です。
Grailという言葉はクラテル(Crater)に関連すると考えられています。古フランス語のgraal、graelに由来し、中世ラテン語のgradalis(杯、皿)から派生しました。
gradalis(杯、皿)は俗ラテン語のcratalisに由来します。cratalisは「混ぜるための器」、ミキシング・ボウルという意味です。
十字軍とプラトンがつながってしまいました。
古代ローマの詩人マルクス・マニリウス(一世紀ごろ~)は、占星術師でもありました。
マニリウスは黄道十二宮をそれぞれ支配する神々を定めた人で、『アストロノミコン』という怪しげなタイトルの叙事詩を書いた人でもあります。
マニリウスは、クラテルをGratus Iaccho Craterと記述しています。「偉大なるイアッコスの杯」という意味です。
イアッコスはギリシャ神話の小神です。ペルセポネまたはデメテルの子で、デュオニソスと同一人物(?)とされています。
女神デメテルのカルト、エレウシスの秘儀についてはだいぶ前にお伝えしました。
デュオニソスは、ローマではバッカスです。ちなみにイアッコスはオリオンとも同一視されています。
バッカスカルトの「飲酒」による狂いぶりについてはこちらをお読みください。
アメリカの神智学者アルヴィン・ボイド・カーンは、以下のように記しています。
酒に酔うバッカスの祭りは、後世の儀式がどれほど官能的であろうとも、天の酒を分かち合う魂の正当かつ祝福された恍惚の象徴であった。葡萄の木とミキシング・ボウルは、天体の象徴として星座化された。後者はコップ座(クラテル)、またはGoblet、聖餐用の杯(the sacramental cup or grail)と呼ばれる星座である。葡萄の果汁はエジプトの聖餐においてホルスまたはオシリスの血であった。

聖杯伝説の聖杯(Grail)は、バッカスのコップでした。プラトンを含むカルトから借用したことになるので、十字軍もテンプル騎士団も立派なカルトです。
ミキシング・ボウルの中身は、その名のとおりなにかが混ざり合っています。四元素かもしれませんし、ハオマなどの向精神薬かもしれません。ワインを飲んだくらいで雄牛を素手で引き裂くなどの蛮行はできないでしょう。
ダビデの血との縁組みによる「血」のネットワークは、オカルト的に突き詰めると精液と経血の混合(ミキシング)に行き着きます。
精液は白で、経血は赤です。キリスト教におけるパンとブドウ酒です。
白と赤といえばこれです。


アレクサンドリアの錬金術師、ユダヤ人のマリアは、このような言葉を残しています。
男と女を結合させなさい。そうすれば求めているものが見つかるでしょう。
タントラにおいては、精液や経血の混合物をボディシッタといいます。ボディシッタは儀式的に摂取されることもあります。
タントラの実践的サーダナ(霊的修行)であるヴァーマチャラには、「ミトゥナ」と呼ばれるセックス儀式があります。
これはグノーシスの「神聖な結婚」と同等のもので、バビロニアのアキトゥ祭での演目と同様、男女は神になってセックスします。
グルと配偶者が儀式的なセックスをすることで発生する精液や経血は、とくに力があるとされます。
王子たちの十字軍に参加した一族は、表向きはみなキリスト教徒でした。
そして第一回十字軍のあとにあらわれたのは、ユダヤ的、カルト的な聖杯伝説や騎士道やテンプル騎士団です。
十字軍の真の目的は、自分たちの一族を「エルサレムの王」として確立することでした。
聖杯伝説における聖杯は、王子たちの系譜がダビデ王に遡るという証で、メシアを生むと期待されている血筋を象徴するものです。
ダビデの血族がエルサレムに君臨すれば、だれも認める世の覇者になれます。王子たちはオカルトと血によって結束し、隠然とヨーロッパの覇権を狙っていたのです。
ブロガーやユーチューバーによると、キリスト教徒の十字軍は、行く先々でイスラム教徒、ユダヤ教徒の別なく、神の名の下に虐殺、略奪しまくったのだそうです。
さらに以下の動画によると、第一回十字軍の諸侯たちはバカな野蛮人だったのだそうです。
上記を踏まえたうえで視聴してみてください。
新しい財団
指導者の一人ゴドフロワ・ド・ブイヨン(一〇六〇年~)は、エルサレム陥落のあとエルサレム王国の初代統治者になりました。
ですが「王」という称号は拒否し、王子(princeps)という称号を用いました。
ナルボンヌ(セプティマニア)の指導者となったダビデの血統、ラビ・マヒルとその子孫は、王子(ナシ)という称号を世襲的に用いていました。
シャンパーニュ伯ユーグと仲良くしていたラシ・ド・トロワ(一〇四〇年~)は、カロニモス家の出身で、ラビ・マヒルの子孫でした。
このように、十字軍はどこまでもダビデ、ユダヤに取り巻かれています。
繰り返しになりますが、十字軍後に結成されたテンプル騎士団はトロワ公会議で「修道会」として正式に承認され、フランス国王によってシャンパーニュの大市における特権を与えられました。

修道士であるテンプル騎士団は大いに儲けました。公会議も大市の開催地もユーグのトロワ、ラシのトロワです。
なぜテンプル騎士団は修道会として誕生したのでしょうか。
ラシ・ド・トロワとゴドフロワ・ド・ブイヨンには、このような伝説が残されています。
タルムード学者のゲダリヤ・イブン・ヤヒヤ(一五二六年~)の著書『シャルシェレト・ハ=カバラ』によると、ゴドフロワ・ド・ブイヨンは十字軍遠征にあたり、助言を求めるためにラシ・ド・トロワの元を訪れました。
ラシはこう答えました。
「あなたはエルサレムを征服し、三日間支配するでしょう。しかし四日目にはイシュマエル人があなたを追い出し、あなたは逃げるでしょう。あなたは三頭の馬と共にこの都市に戻ってくるでしょう」
それに対してゴドフロワはこう返しました。
「あなたのいうことは実現するかもしれないが、もし四頭の馬で戻ってきたら、あなたの肉を犬に与え、フランスのすべてのユダヤ人を殺す」
四年後、ゴドフロワは四頭の馬を連れて戻りました。さっそくラシをいったとおりの目に遭わせようとしたのですが、四頭目の馬と乗り手が門の梁から落ちてきた石に当たって死んでしまいました。
ゴドフロワはラシの前にひれ伏すために探しましたが、ラシはすでに他界していました。
ただの嘘っこ伝説だったとしても、だれかがラシとゴドフロワを結びつけようとした結果です。なのでこのつながりには意味があります。
そして話の筋はいかにもという感じです。
ゴドフロワはテンプル騎士団とは関係ありませんが、騎士道の理想を体現する英雄としてどんどん伝説化していきます。
ですが実際のゴドフロワは、十字軍の指導者の一人に過ぎませんでした。
クレルモン公会議でエルサレム奪還を呼びかけた教皇ウルバヌス二世はまず、司教座都市ル・ピュイ=アン=ヴレの司教アデマール・ド・モンテイユと、トゥールーズ伯レイモン四世(一〇五二年~)の支持を得ました。どちらも南フランスの最も重要な指導者です。
南フランスといえば、ナルボンヌのセプティマニアです。ユダヤです。
教皇ウルバヌス二世は、かつてクリュニー修道院の有力な修道院長でした。

クリュニー修道院を創設したのはアキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)です。

ギヨーム一世はギレム家の人間です。ギレム家の創始者はオータン伯ティエリーです。
ギレム家はのちにセプティマニアに領地を広げました。そしてオータン伯ティエリーは、前々回のなぞなぞの答えになりますが、ナルボンヌのナシ、ラビ・マヒルの変名です。
つまり有名なクリュニー修道院を創設したのはユダヤ人でした。またユダヤです。
第一回十字軍がエルサレムを奪還したあと、ユーグは一一〇四年にパレスチナに向かい、一一〇七年まで滞在しました。
その後いったんシャンパーニュに戻り、一一一四年、臣下を連れて再びエルサレムを訪れました。
このユーグに同行した臣下というのが、テンプル騎士団の初代グランドマスター、ユーグ・ド・パイヤンです。
一一一六年、シャンパーニュ伯ユーグはユーグ・ド・パイヤンとともに帰国しました。
一年前の一一一五年、シャンパーニュ伯ユーグは、クレルヴォー修道院を設立するためにシトー派に自分の土地を寄進しました。
勅許状には、クレルヴォーの領地とその付属施設、田畑、牧草地、ブドウ畑、森、水を新しい財団に譲渡した、とあります。
ユーグ・ド・パイヤンもまた、帰国後自分の土地を寄進し、イングランドなどに赴いては修道院設立のための寄付を呼びかけました。
修道院のために土地を寄進するというのは、一見善い行いです。ですが読まれている方はもはや、こいつらの行動を額面どおりには受け取っていないと思われます。
ご想像のとおり、修道会、修道院は、明らかに隠れ蓑です。
現在の「ユダヤ人」億万長者も、財団を設立しては寄付しています。理由はもちろん社会貢献ではなく、税金逃れその他です。
このような修道院の乱立によって、ユダヤ的、ダビデ的ネットワークがこっそりと広がっていきました。事情を知らない貴族や平民は、キリスト教のお坊さんが増えている、くらいにしか感じなかったことでしょう。
だからテンプル騎士団は修道会だったのです。「そうだ修道院にしよう」ということです。
クリュニーだけでなく、シトー会の修道院もどんどん増えていきます。そしてレコンキスタにおいて、修道院は強大な政治的影響力を発揮することになります。
一部の学者たちは、クリュニー修道院を「テンプル騎士団の背後にある騎士団」だったと考えています。
シャンパーニュ伯ユーグは、フランス王フィリップ一世とのつながりを失ったあと、十字軍によって威信の回復を目指しました。
一一二五年、ユーグは伯爵を退位し、エルサレムに向かい、テンプル騎士団に入団しました。裕福なフランス貴族がわざわざ貧しい修道士になったわけです。
ユーグの死は一一二六年とされていますが、ノートルダム修道院の憲章によると、一一三〇年九月、ユーグはまだ生きていました。
つまり一一二九年のトロワ公会議でテンプル騎士団が最初の会則を受け取ったとき、ユーグはまだ生きていたことになります。
ユーグは二度の結婚のあとは独身を貫き、修道士としてエルサレムで死にました。
何度もお伝えしていますが、テンプル騎士団はフランス国王からシャンパーニュの大市での特権を与えられました。
シャンパーニュ伯ユーグにとっては、これは一つの勝利です。
そして修道会としてのテンプル騎士団は、保有資産の管理のために財政システムを発達させ、現在の国際銀行の先駆けとなりました。

十字軍とオカルトは、地続きで現代につながっています。権力維持の両輪はカネとオカルトによる結束です。
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