106.アーサー王
画像は以下のサイトから転載。
前回、前々回と、聖杯伝説およびアーサー王物語についてお伝えしてきました。
グラストンベリーのジョン
グラストンベリーのジョン(活動時期一三四〇年ごろ)は、「重要なのに日本語のウィキペディアにページが存在しない人たち」の一人です。
英語のウィキペディアの記述も簡素なものです。
ジョンは一三五〇年ごろ、『Cronica Sive Antiquitates Glastoniensis Ecclesie(グラストンベリー教会の年代記または古代史)』を書きました。
この書は多くのアーサー王物語たちに影響を与えました。
『Cronica』によると、アリマタヤのヨセフはイギリスに到着した際、「聖杯」という言葉は使わなかったものの、キリストの血と汗が入った容器を持っていた、とのことです。
https://www.betemunah.org/kabbalah-gershom-scholem.pdf
アリマタヤのヨセフは、イエス・キリストの遺体を引き取ったことで有名な人です。
「どうしてパレスチナの人間がわざわざイギリスに行ったんだ」と思った方は、前々回から通しでお読みください。
グラストンベリーのジョンは、ベネディクト会の修道士で、『Cronica』を書いただけあり年代記作家でもありました。
『Cronica』は、グラストンベリー修道院の創設からジョン自身の生涯を記した「年代記」です。
『Cronica』はアーサー王の伝説に何度も言及し、マルムズベリーのウイリアムの『De Antiquitate Glastonie Ecclesie(グラストンベリーの古代史)』を広く引用していました。
ジョンはさらに、アリマタヤのヨセフの子孫の一人がアーサー王である、と主張していました。
Helaius、(アリマタヤの)ヨセフの甥、Josusを生んだ、
Josueはアミナダブを生んだ、
アミナダブは息子を生んだ、
その子はYgernamを生んだ、
その娘からペンドラゴン王が生まれ、
高貴にして名高いアーサー王を生み、これによりアーサー王がヨセフの血筋に属することは明らかである。
ここで「バカバカしい」と思われた方は、やはり前々回から通しでお読みください。
この「バカバカしさ」は、学校で習う歴史の「バカバカしさ」に通じるものがあります。
歴史の授業は退屈でしたでしょうが、頭から「バカバカしい」とは思わなかったはずです。「歴史」というものに対し、ある程度のリスペクトは持っていたのではないでしょうか。
なぜなら「事実」だからです。歴史は事実の記録であり、なんぴともねじ曲げることはできません。

ベイドン山の戦い
五世紀後半から六世紀初頭にかけて、ポストローマ時代のブリテンを舞台に、「ベイドン山の戦い」と呼ばれる戦いが起きました。

ブリトン人(ローマ化したケルト人)とアングロサクソン人による戦いだったのですが、ブリトン人が大勝利を収め、しばらくのあいだアングロサクソン王国の西方侵攻を食い止める結果になりました。
アーサー王は、ベイドン山の戦いに参加したとされています。もちろん一兵卒ではなく、ブリトン軍の長としてです。
ベイドン山の戦いとアーサーを関連づけて言及した最古の文献は、ウェールズの修道士ネンニウスの著作とされる九世紀初頭の『Historia Brittonum(ブリトン人の歴史)』です。
第十二の戦いはベイドン山で起きた。この日、アーサーの一撃で九六〇人が倒れた。かれらを打ち倒したのはアーサー以外にはいなかった。
六世紀に書かれた宗教論争家ギルダスの説教『De Excidio et Conquestu Britanniae(ブリタニアの滅亡と征服について)』にも、ベイドン山の戦いが記されています。

ですがこちらには、アーサー無双どころかアーサー王その人すら言及されていません。
尾ひれはともかく、アーサーが実在した偉大な人物だったのであればもれなく言及されるはずです。
アーサーは、有名な『アングロ・サクソン年代記』にも言及されていません。
また四〇〇年から八二〇年のあいだに書かれた現存する写本にも名前が登場しません。
歴史家ベーダ・ヴェネラビリス(六七二年ごろ~)の『イングランド教会史』は、ローマ支配後の歴史の重要な一次史料で、ベイドン山の戦いも記されています。

やはりアーサーは『イングランド教会史』にも登場しません。歴史家デイヴィッド・ダムヴィルはこのように記しています。
アーサーについては簡単に片づけられると思う。かれが歴史書に登場するのは「火のないところに煙は立たぬ」学派のせいだ……実際のところ、アーサーに関する歴史的証拠は存在しない。われわれは歴史からかれを排除し、なによりも書籍のタイトルからかれを排除しなければならない。
火のないところに火をつけるタイプの人たちについては、これまで何度もお伝えしてきました。
わざと自分の都市を破壊して「敵」のせいにしたりなどは、いまも昔も支配と戦の常套手段です。
そして「歴史」においても、盛大に火をつける人たちがいました。
モンマスのジェフリー
のちの作家たちが受け継いだアーサー像をかたちづくったのは、おもにモンマスのジェフリーの功績です。
先ほど出てきたネンニウスの著作とされる『ブリトン人の歴史』は、トロイのブルータスをトロイ戦争後の英雄たちの離散(ディアスポラ)と結びつけ、モンマスのジェフリーのような「ファンタジー作家」たちに素材を提供しました。

トロイのブルータスは、トロイの英雄アエネーアスの子孫で、ブリテンの建国者にして最初の王とのことです。
アエネーアスが主人公のラテン語叙事詩『アエネーイス』については、だいぶ前にお伝えしています。
ユリウス・クラウディウス朝の初代皇帝アウグストゥス(紀元前六三年~)は、ローマの詩人ウェルギリウス(紀元前七〇年~)に『アエネーイス』の執筆を依頼しました。
理由は、ユリウス・クラウディウス家を、ローマとトロイの始祖、英雄、神々の子孫として正統化するためです。
モンマスのジェフリーの作とされる『Historia Regum Britanniae(ブリタニア列王史)』は、トロイのブルータスによる移住からはじまります。
それから紀元前五世紀ごろのレイア王の物語、紀元前一世紀のクノベリヌス王の物語、ユリウス・カエサルのブリタニア侵攻、五世紀後半のアーサー王の伝説、七世紀のグウィネズ王、カドワラドルスの死などが描かれていきます。
アーサー王に関する文献的資料は、通常、モンマスのジェフリーの『ブリタニア列王史』以前と以後に分けられています。当然の対応のように思われます。
『The Island of Avalon(アヴァロンの島)』の著者フランシス・ロットによると、ブロワのヘンリーは一一三五年から一一三九年のあいだに偽物の歴史書『ブリタニア列王史』を執筆する際、モンマスのジェフリーの名を筆名として使用しました。
ブロワのヘンリーかもしれないモンマスのジェフリーは、『マーリンの予言』も創作しました。
ブロワのヘンリーは、ウィンチェスター司教でグラストンベリー修道院の修道院長でした。
ウィキペディアには例によって、ブロワのヘンリーのブの字も出てきません。そして『マーリンの予言』はモンマスのジェフリーの作ということになっています。
この「ジェフリー」は、古典作家、聖書、ケルトの伝統を引用することで、古代イスラエルの歴史とある程度並行するブリテン王国の物語をつくり出しました。
繰り返しになりますが、「ジェフリー」はトロイのブルータスの入植からカドワラドルスの死までのブリテンの「歴史」を記していました。
トロイのブルータスは、シルウィウスの息子です。シルウィウスはアスカニウスの息子で、アスカニウスはトロイ戦争の英雄アエネーアスの子孫です。
かつてのユリウス・クラウディウス朝も、祖先イウルスはアエネーアスの息子アスカニウスと同一人物だった、などの家系伝説を発展させていました。
学者たちはこのアスカニウスを、ノアの子孫の一人アシュケナズと結びつけています。
ノアの子孫がアシュケナズというのは、創世記によると、です。
これがある意味、真の歴史です。歴史は捏造するもの、といっても過言ではありません。
もちろんすべてが悪意を持って行われるわけではありませんが、広島に原爆が落ちてどうのという物語を書いてほしいといわれたら、たいていの漫画家は了承するはずです。
印税ウハウハは確約されています。罪悪感など一瞬で吹き飛ぶでしょう。
原子爆弾は爆発する
このNoteでもよく小ネタとして使っていますが、一九四五年八月、広島と長崎の上空で原子爆弾が炸裂しました。

ナノ秒の閃光によって、十万人以上の日本人が蒸発しました。一九四五年の秋からは、日本のあちこちの病院で核放射線によってたくさんの被爆者たちが死にました。
原子爆弾による放射性降下物の影響について、一九四五年八月九日から調査が開始されました。八月六日からわずか三日後のことです。
学者たちは放射性降下物の影響について、かねてから関心があったのでしょう。原子爆弾が炸裂したのは人類史上初なのですが、いつ炸裂しても現地に向かえるよう入念に準備を整えていたはずです。
そしてふつうに命がけの調査です。ですが学者というものは命がけで調査をするものです。
八月十日、銅線から放射線が検出されました。調査開始からわずか一日後のことです。
一九四五年八月一一日には大阪大学が、一九四五年八月一三日と一四日には京都大学が、やはり調査のため現地に向かいました。
この人たちも放射線を検出しました。爆心地の近くや、そのほかの場所でです。
爆心地に近い場所で高線量を浴びた人のほとんどは、即座に、あるいはその日のうちに死亡しました。これは当局の調査による報告です。
調査をした学者のほとんどは死んでしまったのでしょう。ですが学者というものは命がけで調査をするものです。
ちなみに黒い雨のサンプルも採取されましたが、なぜか一九六七年のことでした。
学者たちは、広島と長崎で生き残った被爆者数百人の妊婦を調査しました。なぜ生き残ったのかはさておくとしてです。
結果、新生児被爆者の四分の一に精神遅滞が見られました。
四分の一が知恵遅れで構成された町は、なかなか想像できません。ですが事実は事実です。
そして被爆者の大多数が、十年後には脱毛しました。なぜ生き残ったのかはさておくとしてです。
老いも若きもハゲで構成された町は、なかなか想像できません。
ですが事実は事実です。
ウェールズの起源
ブロワのヘンリーかもしれない「モンマスのジェフリー」のマーリンは、中世ウェールズの伝説に登場する預言者にして狂人のマルジン・ウィスト(野人マルディン)に基づいています。

マーリンはまた、エムリス・ウセディグのインスパイアでもありました。
エムリスは、ネンニウスが言及した五世紀のローマ指導者アンブロシウス・アウレリアヌスを部分的にモデルとしたキャラクターです。
ネンニウスによると、アンブロシウスは、ブリトン王ヴォルティゲルンがディナス・エムリス(エムリスの都)に塔を築こうとした際に「発見」されました。
塔は完成を見ず、何度も崩れ落ちました。ヴォルティゲルンお付きの賢者たちは、父なし子の血を基礎にまくことが唯一の解決策だ、と助言しました。
王の御前に連れてこられた父なし子のアンブロシウスは、塔の基礎の下に湖があり、二匹の竜が戦っていると明かしました。

ヴォルティゲルンは丘を掘り起こして竜を解放しました。最終的に勝ったのは赤い竜のほうなのですが、少年アンブロシウスは王に、白い竜はサクソン人の民、赤い竜はウェールズ人の民を象徴するのだと告げました。
ヴォルティゲルンの民たちはのちにウェールズ人となり、赤い竜を紋章として使いつづけました。

アーサー王の歴史
「ジェフリー」は『ブリタニア列王史』で、アンブロシウスの物語を脚力して再掲し、父なし子をマーリン・アンブロシウスと名づけました。
このマーリンは、インキュバスという悪魔が王の娘に授けた子、とのことです。
「ジェフリー」の記述によると、マーリンはアウレリウス・アンブロシウスの埋葬地としてストーン・ヘンジをつくり、その魔法によってアーサー王が誕生しました。
めまいがしてきたでしょうがまだつづきます。
ペンドラゴンは敵対していた国の王妃イグレインに恋をし、王妃を奪うためにコーンウォールに攻め入りました。
それからマーリンの力を借りて敵の王ゴルロイスに姿を変え、王妃とセックスしました。
一方、本物のゴルロイスは戦死していました。ペンドラゴンとイグレインは結婚し、子供をマーリンに預けました。
この子供がアーサーでした、とのことです。
ペンドラゴンの死後、十五歳のアーサーはブリタニアの王位を継承し、『ブリタニア列王史』に記載された一連の戦いを繰り広げ、ベイドン山の戦いで頂点を迎えます。
ベイドン山の戦いに至るまで戦場を十二回変えて戦ったのですが、アーサーはベイドン山の戦いで聖母マリアの名を叫びながら四七〇人の敵兵を殺しました。
ネンニウスは九六〇人と報告していますが、数は気にしないことです。
そのあとアーサーはピクト人とスコット人を打ち破り、アイルランド、アイスランド、オークニー諸島を征服して「アーサー王帝国」を築きました。
十二年の平和が流れたあと、アーサーは再び帝国拡大に乗り出し、ノルウェー、デンマーク、ガリアを掌握しました。
アーサーとケイとベディヴィアとガウェインとその他の戦士たちは、ガリアでローマ皇帝ルキウス・ティベリウスを破りましたが、ローマへの進軍を準備中、イギリスの統治を任せた甥のモルドレッドが妻のグィネヴィアと結婚して王位を奪った、という報告を受けました。
アーサーは当然、帰国してモルドレッドを殺しました。ですがその戦いによってアーサーは致命傷を負ってしまいます。
アーサーは王冠を親族のコンスタンティヌスに託し、傷を癒やすためにアヴァロン島に運ばれました。
それからアーサーは二度と姿を見せることはありませんでした。
ベリ・マウル
アーサー王はローマ皇帝コンスタンティヌスと血縁関係にあったとのことですが、コンスタンティヌスもマルクス・アウレリウス(トラヤヌス帝の孫)の末裔でした。
トラヤヌスとマルクス・アウレリウスがペンドラゴン家に採用されたのは、スキタイに起源を持つ竜の軍旗(ドラコ)を使用していたからです。
のちに『アングル人の歴史』の著者ハンティングドンのヘンリーによって語られ、「ジェフリー」によって広められた伝説によると、コンスタンティヌスの母の聖ヘレナは、ブリトン人とローマの戦争を避けるためにコンスタンティヌスと同盟を結んだブリテン王コール・オブ・コルチェスターの娘だとのことです。
このコールはマザー・グースで歌われているコオル老王です。

なので聖ヘレナの祖母は、コオル老王の血を引く聖グラディス・オブ・ブリテンとなり、ベリ・マウルの血筋を引くことになります。

ハーレイアン写本3859として知られるウェールズの系譜集によると、ベリ・マウルは「聖母マリアの従妹」とされるアンナと結婚していました。
このアンナは、アリマタヤのヨセフの娘とされています。
この設定によって、アンナはイエスの脇腹を刺したロンギヌスの娘で、ロンギヌスはユリウス・カエサルの私生児だったという捏造につながりました。
めまいが止まらないでしょうがもう少しつづきます。
ベリ・マウルはまた、トロイのブルータスの子孫でもあったとされています。
ベリは「ジェフリー」の『ブリタニア列王史』に、ディグエイリウスの息子で、ルッド、カッシベラヌス、ネンニウスの父であるブリトン王ヘリとして登場します。
ウェールズのジェラルド(一一四六年~)は、一一九〇年代にこのように報告しています。
ウェールズの吟遊詩人や歌い手たちは、これらの(北ウェールズと南ウェールズの)王子たちの系図を古い写本に正確に記録していた。当然ながらそれらはウェールズ語で書かれている。かれらは記憶からこれを暗唱し、ロドリ・マウルから聖母マリアの時代まで遡り、さらに(ブルータスの父)シルウィウス、アスカニウス、アエネーアスへとつづく。そしてその系譜はアダム自身にまで遡るのである。
真実の歴史はまだつづきますが、いまはゆっくりと静養してください。
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