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94.トロワ公会議

画像は以下のサイトから転載。


カリストゥス二世

前回お伝えしたとおり、一一二八年、シャンパーニュのトロワにおいて公会議が開催され、ローマ教皇ホノリウス二世(一〇六〇年~)はテンプル騎士団を正式に承認しました。

ホノリウス二世は、クリュニーや十字軍の一族とつながりのあるカリストゥス二世(一〇六五年ごろ~)とともに、いわゆる叙任権闘争に深く関わりました。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ三世(一〇一六年~)は、アキテーヌ公ギヨーム五世の娘アグネス・フォン・ポワトゥーと結婚しました。

アキテーヌ公ギヨーム五世はポワティエ家で、先祖にはノルマンディー公ロロの娘アデルがいます。

ロロはギヨーム・ド・ジェローヌの曾孫、ポッパ・ド・バイユーと結婚しました。ギヨーム・ド・ジェローヌはギレム家の人間で、ダビデの血統です。

アグネス・フォン・ポワトゥーは、ブルゴーニュ伯オットー=ギヨーム(九五五年/九六二年~)の孫です。

オットー=ギヨームの最初の妻はエルマントルド・ド・ルシーで、この人はオットー大帝(九一二年~)の妹ゲルベルガ・フォン・ザクセンの孫です。

オットー=ギヨームの息子のブルゴーニュ伯ルノー一世(九八六年~)は、ノルマンディー公リシャール二世の娘アデライード・ド・ノルマンディーと結婚しました。

ルノーの息子にはブルゴーニュ伯ギヨーム一世(一〇二〇年~)がいます。ギヨーム一世の息子にはブルゴーニュ伯エティエンヌ一世がいます。

エティエンヌ一世の娘イザベルは、テンプル騎士団の創始者シャンパーニュ伯ユーグと結婚しました。

またエティエンヌの弟にギーという人がいますが、この人は一一一九年にクリュニー修道院でカリストゥス二世として教皇に選出されました。

そして教皇グレゴリウス七世とハインリヒ四世(一〇五〇年~)のあいだではじまった叙任権闘争に深く関わることになります。

カリストゥス二世の一族は、ヨーロッパで最も有力な貴族ネットワークを形成していました。

イタリア王アルドゥイーノ(九五五年~)は、カリストゥス二世の従兄弟にあたります。またカリストゥス二世の妹ジゼルは、サヴォイア伯ウンベルト二世(一〇六五年~)と結婚し、その後モンフェッラート侯ラニエリ一世(一〇八四年~)に嫁ぎました。

カリストゥス二世の別の妹クレマンスは、 フランドル伯ロベール二世(一〇六五年ごろ~)と結婚しました。

このロベールは第一回十字軍での活躍によって、ロベール・ド・エルサレム、十字軍戦士ロベールとしても知られています。

カリストゥス二世の別の妹シビーユは、ブルゴーニュ公ウード一世(一〇六〇年~)と結婚しました。

カリストゥス二世の兄のレーモン・ド・ブルゴーニュ(一一〇七年ごろ~)は、レオンとカスティーリャのアルフォンソ六世(一〇四〇年ごろ~)の娘ウラカと結婚し、のちのレオン王アルフォンソ七世をもうけました。

ウラカの母はコンスタンス・ド・ブルゴーニュで、コンスタンスはクリュニーの修道院長、クリュニーのユーグの姪にあたります。

クリュニーのユーグは、クレルモン公会議で軍事遠征(十字軍)を呼びかけた教皇ウルバヌス二世(一〇四二年~)に多大な影響を与えた人です。

カリストゥス二世の弟ユーグは、ブザンソンの大司教を務めました。

カリストゥス二世自身は、一一一九年、ローマ教皇に選出されました。

その翌年、第一回十字軍によるユダヤ人襲撃がはじまりました。ヨーロッパじゅうで五千人のユダヤ人が虐殺されたとのことです。

そこでカリストゥス二世は、同年の一一二〇年ごろ、Sicut Judaeis(ユダヤ人について)という教皇勅書を出しました。

この勅書は、ユダヤ人の財産を奪い取ることの禁止、祝祭の自由など、ユダヤ人を守ることを目的としていました。

これによって、ユダヤ人が「合法的自由を楽しむ」資格があるといった教皇グレゴリウス一世や、のちのアレクサンドル三世などの立場にも影響を及ぼしました。

ホノリウス二世

カリストゥス二世の選挙は、先にお伝えしたとおり、クリュニー修道院で行われました。

参加者は、次代教皇ホノリウス二世となるランベルト・スカナベッキ枢機卿(一〇六〇年~)など九人です。

ランベルトは低い身分ながら枢機卿を務めた人です。一一二四年、カリストゥス二世が死んだあと、ランベルトは教皇に選出されました。

教皇選挙ではテオバルト(対立教皇ケレスティヌス二世)が選出されたのですが、貴族のフランジパニ家が異議を唱え、ランベルトに教皇の祭服を着せて選出を強行し、ホノリウス二世と称させました。

ホノリウス二世は、何度もお伝えしているとおり、トロワ公会議でテンプル騎士団を承認した人です。

この調子なので、ローマではしばらくのあいだ、争乱と破壊がつづいたといいます。

ホノリウス二世は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世の死後、後継を巡って争うコンラートとロタール三世の抗争に介入し、後者を支持しました。

ホノリウス二世になったランベルト枢機卿のもう一つの目的は、尊者ピエール(一〇九二年ごろ)をクリュニー修道院長として個人的に復職させることでした。

ピエールは、コーランの最初のラテン語訳を含む、十二世紀で最も重要な文書のいくつかを作成しました。

コーランのラテン語訳は、ベネディクト会の標準テキストとなり、十字軍の説教師が使用していました。

ホノリウス二世は、ボードゥアン二世のエルサレム王としての選出を再確認し、ボードゥアンをテンプル騎士団の後援者に定めました。

聖ベルナール

トロワ公会議の中心人物は、クレルヴォーの修道院長の聖ベルナール(一〇九〇年~)でした。

聖ベルナールはシトー修道会を発展させた人物です。シトー会はクリュニー会と対峙する立場を取りました。

テンプル騎士団について聖ベルナールが作成した規則では、騎士団は清貧、貞潔、服従の誓願に縛られ、神の母(Mere de Dieu)に身を捧げます。

ちなみにクリュニー修道院の二代修道院長オドンは、マリアに対して特別な信仰心を抱くようになり、生涯を通じて「慈悲の母」という称号でマリアに呼びかけました。

そして幼いオドンを育てたのは、ギレム家のアキテーヌ公ギヨーム一世です。

テンプル騎士団は、当時シトー派によって改革された聖ベネディクトの規則を採用しました。

そしてシトー会の白い修道服を身に着け、そこに十字軍の典型的なイメージとしてよく知られている赤い十字架「パット」を加えました。

https://cbgerty.weebly.com/the-first-templar-trainer.htmlより転載

聖ベルナールは、当時最も称賛された聖職者でした。

https://www.knightstemplarorder.com/st_bernard_of_clairvaux

ベルナールの両親は、フォンテーヌ=レ=ディジョンの領主テセラン・ド・フォンテーヌとアレト・ド・モンバールで、ともにブルゴーニュの最高貴族の一員でした。

アレトの弟は、テンプル騎士団の第五代グランドマスター、アンドレ・ド・モンバールです

一一一五年、クレルヴォーにシトー会修道院を設立するために聖ベルナールに土地を与えたのは、シャンパーニュ伯ユーグでした。

聖ベルナールは、三十歳以上でなければならないという規則にもかかわらず、二十五歳で修道院長になりました。ベルナールを高名にしたのもシャンパーニュ伯ユーグでした。

ユーグはやはり、秋元康的な役まわりを演じています。

シトー修道会を設立する前、聖ベルナールはイギリス生まれの修道士ステファン・ハーディング(一〇六〇年ごろ~)に助言を求め、ブルゴーニュのシトー修道会に入ることを決めました。

中世のブルゴーニュには、クリュニー、シトー、ヴェズレーなど、西洋で最も重要な教会や修道院がありました。

クリュニー地方、とくにシャロン=シュル=ソーヌに住んでいたユダヤ人たちは、自分たちの宗教的安全を確保するために修道院に金を貸し、取引を行っていました。

尊者ピエールはこの慣習に反対し、ユダヤ人からの借金を明確に禁止しました。

一〇七〇年、トロワにラシのイェシヴァ(タルムードを学ぶ場所、学院)が設立されました。有名なラシ・ド・トロワのイェシヴァです。

ラシはシャンパーニュ伯ユーグと懇意にしていました。十字軍前夜、ユーグは何度もラシを賓客として招いていました。

ラシのイェシヴァのメンバーは、シトー修道院のステファン・ハーディングの協力者でした。

トロワの大市には大勢のユダヤ人が参加し、とくにラシの時代には世界各地から多くの商人兼学者が集まり、トロワはヘブライ語テキストの研究の中心地となりました。

一一〇九年、ハーディングはラテン語聖書の訂正に着手しました。

そのためにハーディングは、ユダヤ教のラビたちに助言を求めました。

ハーディングにつづいてもう一人のシトー会修道士、ニコラス・マンジャコリアも、ラシの著作を通じてアクセスできるようになったタルムードやミドラシュの文献から広範に借用しました。

ハーディングは「ハーディング聖書」の主著者です。なぜ聖書を訂正したのかというと、ユダヤ人を改宗させるためです。

旧約聖書については、ラビに連絡を取り、ハーディングはカルデア語版とヘブライ語版を借り、問題のある箇所を解決し、翻訳の正確さを保証するために修道院長と緊密に協力しました。

聖ベルナールはハーディングの弟子でした。聖ベルナールもまたラビたちと密接に接触していたことはまちがいありません。

そのためか、聖ベルナールは権力を握ったあと、ユダヤ人たちを保護するようになりました。

第一回十字軍と同様、第二回十字軍でもユダヤ人襲撃は起こりました。

ラドルフという狂信的なフランス人修道士は、ラインラント、ケルン、マインツ、ヴォルムス、シュパイヤーでユダヤ人虐殺を鼓舞していたといわれています。

ケルンの大司教とマインツの大司教はこれらの攻撃に激しく反対し、聖ベルナールに糾弾を求めました。

ベルナールは虐殺者たちを糾弾しましたが、その後もつづいたため、フランドルからドイツに渡り、直接対処しました。

そしてマインツでラドルフを見つけ、修道院に戻しました。

点と点

ベルナールはユダヤ人迫害に対する抗議文を作成し、イギリス、フランス東部、ドイツに送りました。

この書簡の中で、ベルナールはユダヤ人に関する一般的な方針を示しました。それ以降、ローマ・カトリック教会はこの方針に従っています。

ベルナールによると、ユダヤ人は受難の生ける象徴なので、妨害したり滅ぼしたりしてはいけない、だがユダヤ人は最終的には改宗するだろう、とのことです。

手紙の中にはこうあります。

ユダヤ人に触れてその命を奪う者は、イエスご自身を傷つける者と同じです。ユダヤ人女性の息子であるイエスは……そう、ユダヤ人でした。

https://templarsin250facts.wordpress.com/2025/01/18/bernard-respected-and-protected-the-jews/

百万回くらい繰り返していますが、「ユダヤ人」というのはローマ時代の他称なので、イエスはユダヤ人ではありません。

ですがこの時点ですでに千年以上もの月日が経っています。それほど経ったのであれば「ユダヤ人」と名乗ってもいいのではないか、という気もしてきます。

そして罪のない「ユダヤ人」がいる中で、ディケンズやジョージ・オーウェルの著作にも出てくる、嫌われ者で実際にイヤな感じの「赤毛のユダヤ人」も存在します。

ハザール人は赤毛で、のちに東に逃れ、東欧ユダヤ人、アシュケナージ・ユダヤ人と呼ばれるようになった人たちです。

アルメニア人は伝統的に、マゴグの甥、ゴメルの息子アシュケナズの子孫だと自認しています。

https://forward.com/news/205371/ashkenazi-jews-descend-from-350-people-scientists/より転載。赤毛で白いアシュケナージ・ユダヤ人。

アルメニア人も嫌われ者で、ユダヤ人よりは蛇を信じろ、だがアルメニア人は信じるな、という格言(?)があるほどです。

十字軍はキリキアの地において、アルメニア人に取り入りました。キリキアはミトラ教の発祥の中心地でもあります。

このように、十字軍、テンプル騎士団、修道院、ダビデの血とユダヤ人、これらは密接に関連しています。

また、何度もつづいたユダヤ人の虐殺と糾弾、という流れを鑑みると、あえて虐殺をけしかけた可能性もあります。「かわいそうなユダヤ人」の先駆けです。

新イスラエル人

聖ベルナールは、ユダヤ教のラビと親しく接することで、ユダヤ教を理解し、尊敬するようになりました。

それによって、シャンパーニュ伯ユーグほか十一人の騎士が「テンプル騎士団の宗教」(新イスラエル人)に改宗することが受け入れやすくなりました。

一一一二年、聖ベルナールは三十五人の親戚や友人とともにシトーに到着し、修道院に加わりました。

一一一五年、ステファン・ハーディングは、ブルゴーニュとシャンパーニュの国境にあるクレルヴォーに修道院を設立するため、ベルナールに小規模の修道士の共同体を率いるよう命じました。

シトーには四つの子院がありました。ポンティニー、モリモン、ラ・フェルテ、クレルヴォーです。

一一一四年に設立されたポンティニー修道院は、シトー修道院の四大修道院子院の二番目でした。

ハーディングは聖ベルナールの友人で近親者でもあったマコンのユーグを筆頭に、十二人の修道士を派遣し、新しい修道院を設立させました。

新しい修道院は「司教の揺りかご、偉人の亡命先」として知られるほどの名声を高めました。それによってさらに二十二のシトー会修道院を設立することができました。

そして一一二八年、マコンのユーグは聖ベルナールとともにトロワ公会議に参加することになります。

ハーディングの修道会たちは、ブルゴーニュ公ウード一世に支援されていました。

ウード一世は、繰り返しになりますが、カリストゥス二世の妹シビーユ・ド・ブルゴーニュと結婚しました。

ウード一世はアンリ・ド・ブルゴーニュ(一〇三五年ごろ~)の次男で、ブルゴーニュ公ロベール一世(八九八年ごろ~)の孫にあたります。

聖ベルナールの父テセランは、マスタードで有名なディジョンからパリへ至る道を守るシュヴァリエ、騎士でした。

このテセランは、アンリ・ド・ブルゴーニュの家臣でした。

アンリ・ド・ブルゴーニュは、のちに一一〇一年の十字軍に参加し、そこで戦死しました。

息子のウード一世は、兄のユーグ一世(一〇七六年~)の退位に伴い、ブルゴーニュ公爵となりました。

ユーグ一世が退位したのは、クリュニー修道院の修道院長になるためでした。ちなみにクリュニーのユーグとは別人です。

ユーグ一世は、教皇カリストゥス二世の兄であるブルゴーニュ伯エティエンヌ一世の娘イザベルと結婚しました。

エティエンヌ一世の妹クレメンティア(クレマンス)は、フランドル伯ロベール二世(一〇六五年ごろ~)と結婚しました。

ロベール二世はテンプル騎士団の創始者ゴドフロワ・ド・サントメールを家臣として第一回十字軍に参加しました。

ロベール二世の叔母はマティルダ・オブ・フランダースで、マティルダはウイリアム征服王と結婚し、イングランド王ウイリアム二世(一〇六〇年ごろ~)の従兄弟になりました。

ウイリアム二世の妹アデル・ド・ノルマンディーは、シャンパーニュ伯ユーグの異母兄、ブロワ伯エティエンヌ二世と結婚しました。

エティエンヌ二世とは別人のエティエンヌ一世は、一〇九七年、兄ルノー二世が第一回十字軍のさなかに戦死したため、同年伯位とブルゴーニュを継承しました。

エティエンヌ一世自身も一一〇一年にブロワ伯エティエンヌ二世軍の指揮官として十字軍に参加しました。

ステファン・ハーディングの下、聖ベルナールによってシトー修道会の修道者の数が著しく増加したことで、修道会は植民地への派遣を開始しました。

一一一九年、聖ベルナールは、ハーディングが招集したシトー修道会の最初の総集会に出席し、この年に教皇カリストゥス二世が承認した 「慈善憲章(Charter of Charity)」の規定と修道会の定款に決定的な形を与えました。

シトーの規則はクリュニー修道院から批判を受けました。聖ベルナールは弁明書を発表し、弁明しました。

聖ベルナールがクリュニーのベネディクト会士たちに対する深い尊敬の念を表明すると、クリュニー修道院長のペトロス・ヴェネラピリス(一〇九二年ごろ~)は、聖ベルナールに大いなる賞賛と心からの友情を保証しました。

そのあいだ、クリュニーは改革を行い、フランスのルイ六世の政治顧問だったサン=ドニの修道院長シュジェール(一〇八一年ごろ~)も、聖ベルナールに贅沢な生活を非難され、心を入れ替えました。

後年、聖ベルナールは『雅歌』についての説教を書きました。

『雅歌』といえばもちろん、いわゆる旧約聖書における重要な書で、神を具体的に描写したメルカバ神秘主義の文献の一つ『シウール・コマ』と結びついています。

聖ベルナールはキスについて説教しています。

今日、わたしたちが学ぶべき書物は、わたしたち自身の経験の書物である。したがって、あなた方は内側に注意を向けなければならない。各自が、これからわたしが話すことについて、自分自身の特別な意識に注意を払わなければならない。わたしは、あなた方の中に、心からこういうことができた人がいるかどうかを探ろうとしているのだ。「どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください(『雅歌』一章)」。この言葉を心から口にする機会に恵まれた人は比較的少ないが、少なくとも一度でもキリストの口からこの神秘的な接吻を受けた人は、その親密な体験を再び求め、その頻繁な更新を切望する。

https://www.pathsoflove.com/bernard/songofsongs/contents.html

昨日、わたしたちは魂の進歩の三つの段階について、三つの口づけに例えてお話ししました。今日も、神のいつくしみにより、必要な人のためにこの話をつづけるつもりである。覚えていると思うが、これらの接吻は足、手、口の順に行われるといった。第一の接吻は純粋な回心のしるしであり、第二の接吻は進歩しつつある人に与えられるもので、第三の接吻はより完全な一部の人だけが経験するものである。われわれが解説しようとした聖典の書(『雅歌』)は、この最後の接吻からはじまるが、最後の接吻をよりよく理解してほしいという願いから、ほかの二つを付け加えた。

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最初の口づけの話題を紹介したあと、わたしは神の霊的な足について、その意味と名前について、かなり長々と説明した。さて、あなたは二度目の口づけをする手について尋ねようとした。

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昨日お約束したように、そして皆さんもよく覚えているように、今日は最高の口づけについてお話しする。ほかのどんなものよりも精神に甘く、稀有な体験であり、理解するのがより難しいこのテーマに、いつも以上に注意を払って耳を傾けなければならない。

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キスはともかく、レコンキスタも含めてすべてがつながっている、と感じたのではないでしょうか。

次回はイベリア半島に飛びます。レコンキスタです。

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謎の賢人 この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。