93.テンプル騎士団
画像は以下のサイトから転載。
https://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/templar-church-claim-0019108
おさらいと大局
テンプル騎士団は、陰謀論者にもたいへん人気です。中世ヨーロッパ史に興味のない方でも名前だけは知っていたりします。
理由は「はだしのゲン」や「ユダヤ人」やビートルズと同じで、ある勢力が力尽くで拡散している(いた)からです。
以前もいいましたが、理由はわからないけど知っている、というのは、ある勢力によるプロパガンダの成果です。エイズも恐竜も石油危機もそうです。
実際のところは、原子爆弾は爆発せず、ユダヤ人はユダヤ人ではなく、ビートルズはドラッグの広告塔として結成されました。
しつこくお伝えしていますが、クリュニー修道院は「テンプル騎士団の背後にある騎士団」だったと疑われています。
十字軍は、一〇九五年一一月二七日のクレルモン公会議からはじまりました。
教皇ウルバヌス二世(一〇四二年~)は公会議において、イスラム教徒からエルサレムと聖地を奪還するための軍事遠征を呼びかけました。
このウルバヌス二世は、かつてクリュニー修道院の院長でした。
その前に修道院長を務めていたクリュニーのユーグ(一〇二四年~)は、ウルバヌス二世に多大な影響を与えた人物です。

そのためクリュニーのユーグは、十一世紀後半における最も影響力のある人物の一人となりました。
ときに「偉大なユーグ」と呼ばれたクリュニーのユーグは、十一世紀最後の四半世紀、南フランスとスペイン北部に修道院を持つクリュニー会派の運動の原動力となりました。
一〇九九年、いわゆる「エルサレム攻囲戦」で勝利したあと、十字軍の指導者の一人ゴドフロワ・ド・ブイヨン(一〇六〇年~)はエルサレム王国の初代統治者になりました。

ですがゴドフロワは王の称号を拒否しました。「キリストがいばらの冠をかぶせられた場所で金の冠をかぶるのは断る」とのことで、王子の称号を用いました。
南フランス、ナルボンヌを首都とするセプティマニアの世襲的指導者が用いた称号ナシも、王子という意味です。
セプティマニアはユダヤ人の王国でした。
クレルモン公会議が行われたクレルモンは、シャンパーニュのトロワから車で四時間ほどのところにあります。
トロワといえばトロワ公会議です。この会議でテンプル騎士団は正式な修道会として認められました。
当時のシャンパーニュ地方は、シャンパーニュ伯ユーグ(一〇七四年ごろ~)によって統治されていました。

十一世紀当時の西ヨーロッパは反ユダヤ感情が強かったのですが、トロワは親ユダヤ的でした。
シャンパーニュ伯ユーグは、テンプル騎士団の創設メンバーでもあります。
トロワでもう一つ思い出されるのは、トロワの大市です。大市による経済的発展は、いわゆる暗黒時代からの脱却の一助となりました。
テンプル騎士団は、そのトロワの大市において特権を与えられ、かなりの大儲けをしました。テンプル騎士団は銀行屋としても有名です。
そしてシャンパーニュ伯ユーグとテンプル騎士団の初代グランドマスター、ユーグ・ド・パイヤンは、修道院創建のために各地を巡り資金調達を行いました。
点と点がつながり、陰謀めいたものが浮かび上がってきます。実際テンプル騎士団は、バフォメット(頭蓋骨)を崇拝していました。
ちなみにユーグ・ド・パイヤンのウィキペディアのページは、キャッシュだけを残して削除されています。
キリキア王国
一一〇〇年、ゴドフロワの弟ボードゥアン一世(一〇六五年ごろ~)が兄のあとを継ぎ、初代エルサレム国王となりました。
十字軍はキリキアで勢力を増し、セルジューク朝などの侵略を受けていたアルメニア人はゴドフロワを救世主と仰ぎました。
キリキアは、ミトラ教を生み出した陰謀のまさに中心地でした。
また、首都のタルススは聖パウロの生誕地でもあります。
聖パウロはイドマヤ人のヘロデ家と親しくしていました。イドマヤ人はエドム人で、エサウに遡れる赤毛の「ユダヤ人」です。
パウロ書簡の一つ、ローマの信徒への手紙の一六章にはこうあります。
同族のへロディアンに挨拶を。
キリキア王国の起源は、アルメニアのバグラトゥニ王朝の分派ルーベン王朝が建国した国です。

一一九八年にキリキア侯レヴォン二世が王として認められるまでは、代々の君主は侯(prince)でした。
プリンスといえば王子です。
キリキア王国はアルメニア高地の外に位置し、古代のアルメニア王国とは区別され、アレクサンドレッタ湾北西のキリキア地方を中心としていました。
セルジューク朝のアルメニア侵攻から逃れたアルメニア難民は、中世中期にキリキア王国を形成しました。
一〇八〇年、アルメニア王子ルーベン一世(一〇二五年~)の指導の下、独立したキリキア王国とのちの王国の基礎が築かれました。
一〇九五年にルーベン一世が死ぬと、息子のアルメニア公コスタンディン一世(一〇三五年~)が要塞を中心としてルーベン公国を統率しました。
ゴドフロワとボードゥアン一世の従兄弟、エルサレムのボードゥアン二世は、メリテネという都市の統治者だったアルメニア貴族ガブリエルの娘のモルフィアと結婚しました。
そしてこのガブリエルの妻は、アルメニア公コスタンディン一世の娘だったという資料があります。
https://gw.geneanet.org/comrade28?lang=en&n=melitene&p=gabriel+of
ハッラーンの戦いは、一一〇四年に現在のトルコ南部で発生した戦闘です。
アンティオキア公国、エデッサ伯国の軍勢からなる十字軍と、セルジューク朝率いるムスリム軍団が激突し、セルジューク朝の勝利で決着がつきました。
エルサレムのボードゥアン二世は、ハッラーンの戦いでセルジューク朝の軍隊に捕らえられたのですが、その後解放され、エルサレム王になりました。
騎士団結成
十字軍のエルサレム征服から十年後の一一一九年ごろ、シャンパーニュ伯ユーグの家臣だったユーグ・ド・パイヤンは、エルサレム王ボードゥアン二世に修道会の設立を持ちかけました。理由は巡礼者保護のためです。
この修道会は、ゴドフロワ・ド・サントメールやアンドレ・ド・モンバールを含む九人の騎士によって設立されました。
エルサレム王のボードゥアン二世は、アル=アクサー・モスクを修道会の本部として与えました。
アル=アクサー・モスクはエルサレムの神殿の丘にあり、元の神殿の遺構の上に建てられました。
そのため十字軍はその神殿を「ソロモン王のエルサレム神殿」と呼んでいました。
ちなみにボードゥアン二世が捕まったあと監禁されていたのもアル=アクサー・モスクでした。
修道会の騎士たちは、自分たちをミリテス・クリスティ(キリストの兵士)と名乗りました。
ですがエルサレム神殿の遺構の上に建てられたモスク(修道院)を本部としていたので、伝統的にはナイト・テンプラー(神殿の騎士)、あるいはテンプル騎士団として知られるようになりました。
テンプル騎士団といえば、地下トンネルです。トンネルは神殿のある丘の地下にあり、考古学者によってすでに発見されています。
この地下トンネルは、テンプル騎士団が神殿跡で聖杯や聖櫃、「契約の箱(アーク)」を発見した、などといった伝説の起源となっています。発見した財宝を地下トンネルを利用して密かに運び去った、というわけです。
裕福でコスモポリタンなトロワの町は、毎年国際的な大市が開催されていました。
トロワの大市では、ユダヤ人が重要な役割を果たしていました。トロワはラシ・ド・トロワ(一〇四〇年~)の故郷で、シャンパーニュ伯ユーグの居城もあった町です。
どちらも十字軍に大きく関わった人物です。ラシ・ド・トロワはカロニモス家の出身で、セプティマニアの統治者(ナシ)、ラビ・マヒルの子孫でした。
シャンパーニュ伯ユーグは、十字軍に参加したブロワ伯エティエンヌ二世の異母弟です。
ユーグは一一〇四年から一一〇八年にかけてエルサレムに滞在し、のちにテンプル騎士団に加入しました。
ユーグには二人の側近がついていました。ユーグ・ド・パイヤンとゴドフロワ・ド・サントメールです。
ユーグ・ド・パイヤンの故郷パイヤンは、トロワから一キロメートルのところにありました。
伝説によると、ユーグ・ド・パイヤンとゴドフロワ・ド・サントメールはとても貧しく、二人は一頭の馬しか持っていませんでした。
この伝説から、テンプル騎士団の有名な印章、一頭の馬に乗った二人の男という図が生まれました。

寄進また寄進
テンプル騎士団のグランド・マスター、ユーグ・ド・パイヤンは、自分の所有地を騎士団に譲り、より多くの寄進を求める運動をはじめました。
シャンパーニュ伯ユーグの甥であるブロワのティボー二世は、テンプル騎士団にバルボンヌの家、邸宅、牧草地、および一カルケートの借地を贈与し、自分の家臣に自分の土地から贈与する権利を与えました。
ちなみに一カルケートは、一耕作シーズンに八頭の牡牛でプラウ耕作できる土地の広さ、なのだそうです。だいたい百二十エーカーで、東京ドーム十個分です。
ユーグ・ド・パイヤンは、フランドル伯ギヨーム・クリトン(一一〇二年~)から、アンジューとポワティエの領地を拝領しました。
ちなみにギヨームの添え名クリトンは、アシリングと同じく王子という意味です。
そしてギヨームは死後、サン・ベルタン修道院に埋葬されました。
シャンパーニュ伯ユーグはイングランドでも活動し、ロンドンのテンプル教会の原型となったものも含むいくつかの寄進を受けました。
イングランド王スティーブン(一〇九二年~)も同様に多額の贈与を行いました。スティーブンはまた、テンプル騎士団の税金をすべて免除しました。
この気前がよすぎる一連の流れは、ダビデの血のつながりによるものです。
ほかの貴族たちもテンプル騎士団を受け入れました。騎士団は速やかに西ヨーロッパ全土に支部を設立し、支部長を配しました。
聖ベルナール
ユーグ・ド・パイヤンを中心とする団員は、全員が血縁関係で結ばれていました。最初の九年間、騎士団は新しい会員を認めませんでした。
そして同時代の記録からは、テンプル騎士団が巡礼者の保護という活動に従事していたことを示す証拠はありません。
それにもかかわらず、テンプル騎士団は無私の 「キリストの兵士」としてヨーロッパ中で有名になりました。
一一二七年までに、騎士団のほとんどはヨーロッパに戻りました。
一一二八年、クレルヴォー修道院の院長、聖ベルナール(一〇九〇年~)は、ユーグ・ド・パイヤンの依頼により、『新しい騎士団の賛美』と題する小冊子を出版しました。

有名な聖ベルナールは、テンプル騎士団の創設メンバー、アンドレ・ド・モンバールの甥です。
『新しい騎士団の賛美』の中で、聖ベルナールは修道士と騎士の新しい組み合わせを強調し、次のように書いています。
かれは本当に恐れを知らない騎士であり、あらゆる面で安全である。かれの肉体が鋼鉄の鎧で守られているように、かれの魂も信仰の鎧で守られているからだ。
第一章の出だしはこうです。
最近、新しい騎士団が地上に出現したようだ……いま、主はその力強い者たちの手によって、不信仰の子らを一掃し、散らされる。いまもなお、主はそのしもべダビデの家系にかけて、わたしたちのために再び救いの角笛を掲げ、その民の贖いを実現される。
一一二八年、聖ベルナールに触発されるかたちでトロワ公会議が開催されました。
ローマ教皇ホノリウス二世(一〇六〇年~)は、第一回十字軍で功績のあったテンプル騎士団を、キリスト教の守護に献身する宗教的、軍事的騎士団として正式に承認しました。
テンプル騎士団がオカルト団体ではなかったとしても、修道院創建を絡めた世界的(イングランドヨーロッパ的)な結束は、並々ならぬものを感じさせます。世を動かす、という明確な意図です。
そしてスペインには「敵」がいます。事を起こすには敵の存在は必要不可欠です。
レコンキスタにおけるクリュニーを筆頭とした修道院の政治的影響力は、偶然ではなかったということです。
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