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92.聖マーガレット

画像は以下のサイトから転載。


ウスタシュ二世

ダビデの血を引くウイリアム征服王(一〇二八年ごろ~)は、一〇八七年に死にました。第一回十字軍の直前に死んだことになります。

十字軍の指導者で、伝説の九騎士(ナイン・ワース)の一人になったゴドフロワ・ド・ブイヨン(一〇六〇年~)は、ブローニュ伯ウスタシュ二世(一〇一五年ごろ~)の息子です。

ウスタシュ二世

ウスタシュ二世はヘイスティングスの戦いに参加していたのですが、評判の悪いウイリアム征服王の味方についた数少ない貴族の一人でした。

ゴドフロワ・ド・ブイヨンも、ダビデの血統につながるとされていた人です。ダビデネットワークでつながっていたと考えると、むしろ味方したのは納得です。

当然ウスタシュ二世は、ウイリアムによってイングランドの多くの土地を与えられました。

ウスタシュ二世の父は、ブローニュ伯ウスタシュ一世です。

ウスタシュ一世はフランドル家のブローニュ氏族の祖で、ランスの伯爵でもありました。

一〇二八年、ウスタシュ一世はランスの城に大修道院を設立しました。史料によると一〇三六年ごろ、ランスはフランドルのボードゥアン五世に譲渡されたとのことですが、ランスはウスタシュ一世の死後、息子のランベールに譲渡されました。

フランドル伯のボードゥアン四世(九八〇年~)がフランドルを支配していたころ、ウスタシュ一世の祖父であるブローニュ伯アルヌール三世は、フランドルを出て独立した王子として活動していました。

九九五年、成人したボードゥアン四世は、独立領だったいくつかの城を取り戻し、フランドルの国境を広げようとしました。

これによってボードゥアン四世とウスタシュ一世の父とのあいだに亀裂が起きましたが、一〇三五年にボードゥアン四世の息子ボードゥアン五世(一〇一二年ごろ~)が後を継ぐと、いくつかの勅許状や、フランドルのサン・ベルタン大修道院を含むいくつかの大修道院のカステラン=擁護者の権限制限など、いくつかの事業で協力しました。

ボードゥアン五世の娘マティルダは、ウイリアム征服王と結婚しました。

ウイリアムはヘイスティングスの戦いで勝利した直後、クリュニー修道院に多額の寄進を行っています。

ダビデの血と修道院のセットは、これまで何度もお伝えしてきました。キリスト教の修道院設立に携わっているのはなぜかユダヤの血統です。

ウスタシュ一世は、息子のウスタシュ二世とエドワード懺悔王(一〇〇四年ごろ~)の妹ゴーダとの結婚によって、ノルマンディー公家とも同盟を結びました。

ノルマンディー公家の祖はヴァイキングのロロ(八四六年ごろ~)で、ロロはギヨーム・ド・ジェローヌの曾孫のポッパ・ド・バイユーと結婚しました。ノルマンディー公家もダビデの血統です。

ウスタシュ二世は一〇五一年にイングランドを訪れ、エドワード懺悔王の宮廷で歓待を受けました。

そしてウスタシュ二世は、のちにロレーヌ家のイド・ド・ブローニュと結婚し、ゴドフロワ、ボードゥアン一世、ブローニュ伯ウスタシュ三世(一〇五〇年ごろ~)をもうけました。

十字軍メンバーです。

スコットランドへ

一〇六七年、ウイリアム征服王がイングランドを征服したあと、ブルガリアのアガサは子供たちを連れ、スコットランドに逃れました。

謎めいた女性、アガサについては、すでにお伝えしています。ハンガリーのマーガレット(王妃)の娘ではないか、という結論でしたが、出自は今後も謎のままでしょう。

アガサの娘、聖マーガレット・オブ・スコットランドは、スコットランドのマルカム三世(一〇三一年~)と結婚しました。

マルカムとマーガレットの娘メアリーは、ブローニュ伯ウスタシュ三世(一〇五〇年ごろ~)と結婚しました。ウスタシュ三世はウスタシュ二世の息子です。

さっそく修道院がちらついてきました。

メアリーの弟は、スコットランド王のデイヴィッド一世(一〇八四年~)です。この人はハンティンドン女伯モードと結婚しましたが、モードの母親ジュディス・オブ・ランスはウイリアム征服王の姪です。

デイヴィッド一世の治世は、「デイヴィッド革命」と呼ばれるほどすごいものでした。

自治都市の設立に、グレゴリウス改革の実現、修道院の設立、スコットランド政府のノルマン化、そして移民のノルマン騎士やアングロ・ノルマン騎士、フランドル人入植者による封建制度の導入、などが含まれます。

これによってスコットランドは「国家」と呼ぶにふさわしい国に発展しました。ですが実際はイングランドの封臣で、デイヴィッドは自分の姪のマティルダに忠誠を誓っていました。

このマティルダは、マティルダという名前が多すぎるために「モード皇后」として区別されています。あのモードです。

デイヴィッド一世の母、聖マーガレット・オブ・スコットランドとそのきょうだいたちは、クリュニー修道院をモデルとし、スコットランドの修道制の改革をはじめました。

デイヴィッド一世はこの改革を支援し、西ヨーロッパの他の地域とより近い形態の教区組織化にも貢献しました。

建ちつづける修道院たち

マーガレットの娘、メアリー・オブ・スコットランドとウシュタス三世の娘に、マティルド・ド・ブローニュがいます。

マティルドの父方の叔父には、第一回十字軍の指導者ゴドフロワ・ド・ブイヨンとエルサレム王ボードゥアン一世がいます。

マティルドはイングランド王スティーブン(一〇九二年~)と結婚しました。スティーブンの治世は、有名なモード皇后との内戦で起きた無政府時代が有名です。

ですが元をたどると、すべてブルガリアのアガサにつながります。ダビデの血を引く身内たちがごたごたを起こしているわけです。

逆にいえば、お互いごたごたを起こせる身分になれたのは、ひとえにダビデの血のおかげです。

スティーブンとモードのいがみ合いと内戦、無政府状態は、「改革」のために創出されたものかもしれません。歴史を通観すると考えられることですが、考えすぎかもしれません。

このスティーヴンは、アデル・ド・ノルマンディーの息子です。

アデル・ド・ノルマンディーは、ウイリアム征服王とマティルダ・オブ・フランダースの娘です。

マティルダの父は、お伝えしたとおり、フランドル伯ボードゥアン五世です。

スティーブンの父親はブロワ伯エティエンヌ二世です。エティエンヌ二世は第一回十字軍の指導者の一人でした。

エティエンヌ二世は十字軍のあいだ、主要な軍隊の一つを率い、奥さんのアデル・ド・ノルマンディーに軍の進捗状況についてしばしば熱心に手紙を書いていました。

またエティエンヌ二世は、一〇九七年のニカイア攻囲戦では軍評議会の長でした。

そしてアンティオキア包囲戦が長引いた一〇九八年、エティエンヌ二世は聖地エルサレムまでの道を築くという十字軍の誓いを果たすことなく帰国しました。

エティエンヌ二世は奥さんに怒られました。二度目の巡礼をするように迫られ、一一〇一年の十字軍に参加しました。

この十字軍は、第一回十字軍を途中で引き返してきた人たちが多く参加していたので、「小心者の十字軍」「臆病者の十字軍」と呼ばれました。

エティエンヌ二世は一一〇二年、ファーティマ朝との第二次ラムラの戦いに参加して戦死しました。五十七歳でした。

ゴドフロワ・ド・ブイヨンの兄ウスタシュ三世は、エルサレム王に就いていた弟のボードゥアン一世が死んだことで、次のエルサレム王位が提案されました。

とりあえずエルサレムに向かったのですが、ウスタシュ三世の縁戚のボードゥアン・デュ・ブールがエルサレム王に即位したという報告を受け、ブローニュに戻りました。

その後ウスタシュ三世は、リュミリーにクリュニー会派の修道院を設立し、日本語ウィキペディアによると、修道士として余生を過ごしました。

実際のところは、ウスタシュ三世は修道院を設立したあと、テンプル騎士団の後援者になりました。

ウスタシュ三世の娘マティルド・ド・ブローニュも、テンプル騎士団の支援者でした。

マティルドは一一三七年、エセックスにクレッシング寺院を、一一三九年にオックスフォードシャーにカウリー寺院を創建しました。

マティルドとスティーブン王は、マティルドの父ウスタシュ三世を迎え、スティーブンの母アデル・ド・ノルマンディーが生前に隠居していたクリュニー会派と家族ぐるみで親密な関係をつづけました。

マティルドの母、メアリー・オブ・スコットランドは、一一一五年にクリュニー会派のバーモンジー修道院に埋葬されました。

繰り返しになりますが、クリュニー修道院を創設したのはギレム家のアキテーヌ公ギヨーム一世です。

イングランドとスコットランドの話のわりに、かなりグローバルな内容でした。

ブルガリアのアガサに見られるように、なじみの薄いハンガリーやポーランド、ブルガリアなどの王侯も、しっかりと「中世ヨーロッパ史」に絡んできています。

そしてその先(東)にはハザールがいました。青白い顔に赤い髪の、広義のスキタイ人です。

さらに歴史を遡れば、コーカサス山脈を越えた南にはアルメニア、トルコ、シリア、ペルシャ、そしてイスラエルがあります。

エジプトの影がすっかり薄くなっているのも興味深いところです。

「ヨーロッパ」とオリエントは、十字軍というかたちで再度巡り会いました。これまで見てきたとおり、地理的な実際の移動も、歴史的な血によるつながりも、すべてユダヤ(ダビデ)の力の成せる業です。

次回はテンプル騎士団です。

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