90.ブルガリアのアガサ
画像は以下のサイトから転載。
聖マーガレットの母
ブルガリアのアガサについては、だいぶ前にお伝えしています。
アガサは、亡命者エドワード、エドワード・アシリング(一〇一六年~)の妻で、娘は有名な聖マーガレット・オブ・スコットランドです。

一〇一六年、イングランドはデーン人に侵略され、デンマーク王子クヌートがイングランド王に即位しました。
クヌートは、剛勇王エドマンド二世(九九〇年ごろ~)の子エドワード・アシリングとエドマンド・アシリングを大陸に追放しました。エドワードは生後数か月でした。
殺すようにとの指図書きとともにスウェーデン王オーロフの王宮に連れて行かされたのですが、エドワードは密かにキエフに運ばれました。キエフ大公ヤロスラフ一世の王妃インゲゲルドがオーロフの娘だったからです。
エドワード・アシリングは、さらにキエフからハンガリーに移されました。そしてアガサと結婚することになります。
長い年月が経ち、クヌートが死んだあと、エドワードの叔父のイングランド王エドワード懺悔王(一〇〇四年ごろ~)は、エドワード・アシリングが生きていたことを知ります。
そして自分の継承者にするため、エドワードをイングランドに呼び戻しました。もちろん奥さんのアガサも同行しました。
アガサは南フランスのギレム家、ハザール人の血を引く東欧の一族、そしてスペイン貴族たちの婚姻関係を象徴する人物です。
少し時間を戻します。
シフィエントスワヴァ・ポルスカは、ポーランド王ミェシュコ一世(九三五年~)とドゥブラフカの娘です。

このシフィエントスワヴァは、のちのスウェーデン王妃、デンマーク王妃で、シグリッドとして知られています。
シグリッドは旦那のスウェーデン王エリク六世(九四五年~)が九九五年に死ぬと、デンマークのスヴェン一世(九六〇年~)と結婚しました。
一〇一三年、スヴェン一世はイングランドへの本格的な侵攻に着手しました。
剛勇王エドマンド二世の父、無策王エゼルレッド二世(九六八年~)は、スヴェン一世の襲撃を受けてノルマンディーに逃亡しました。これによってスヴェン一世はイングランド王として受け入れられました。
エゼルレッド二世はノルマンディーの地で、ノルマンディー公リシャール一世(九四二年~)の娘エマと結婚しました。
スヴェン一世が死んだあと、エゼルレッド二世はイングランドに戻って王に返り咲きましたが、二年後に死んでしまいました。
エゼルレッド二世とエマの息子、剛勇王エドマンド二世は、スヴェン一世の息子のクヌート率いるデンマーク軍に立ち向かいました。
エドマンド二世は結局、クヌートに敗北しました。そしてエドマンド二世の息子エドワード・アシリングは、クヌートによって追放されることになります。
ザーリアー朝のコンラート二世(九九〇年~)は、一〇二七年、教皇ヨハネス十九世によって神聖ローマ皇帝として戴冠されました。
クヌートはこの教皇に大きな影響を受けていました。コンラートの戴冠の際も、ブルゴーニュのルドルフ三世(九七一年~)とともに儀式に参加していました。
このクヌートは、ポーランド公ボレスワフ一世(勇敢王)の同盟者でもありました。
勇敢王ボレスワフ一世は、ミェシュコ一世とドゥブラフカの息子です。
つまりシグリッドの兄妹です。年上なので兄です。
ハインリヒ仮説
アガサの出自は定かではなく、さまざまな仮説が展開されています。マーガレット・オブ・スコットランドの母親なので出自は重要です。
マーガレットはケルト教会優勢のスコットランドにローマ・カトリック教会を導入し、教会の行事や典礼をケルト式からローマ式に改革した人です。
もちろん死後列聖されましたが、この時期に教会権力を広めた人は怪しい人たちばかりでした。
そもそもクリュニー修道院を創建したのは、「ユダヤ人」ギレム家のアキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)です。
アガサの名前がはじめて登場するのは、『アングロサクソン年代記』です。
『アングロサクソン年代記』の一〇五七年の記録にはこうあります。
エドワード王子がイングランドにやって来た。かれはエドワード王の弟エドムンドの息子で、その勇敢さから『アイアンサイド』と呼ばれていた。クヌート王は(エドワード・)アシリングをハンガリーに追放したが、かれはそこで神が与えた恵みによって偉大な人物となり、皇帝の親族を妻に迎え、その子孫として美しい家族を築いた。彼女はアガサと呼ばれた。
一〇五七年。この年、エドマンド王の息子エドワード・アシリングがこの地を訪れ、間もなく死去した。その遺体はロンドンにある聖パウロ大聖堂に埋葬されている。
一〇六七年の記録では、このように曖昧に述べています。
彼女(アガサ)の母の家系は、ローマを支配した皇帝ハインリヒに遡る。
このハインリヒが、神聖ローマ皇帝のハインリヒ二世なのかハインリヒ三世なのかはいまもって定かではありません。
お伝えしたとおり、ハインリヒ二世はルクセンブルク家のクニグンデと結婚しました。クニグンデはカール大帝の孫のカール二世と、ギヨーム・ド・ジェローヌの孫娘エルマントルド・ドルレアンの子孫です。
つまりアガサはダビデの血統ということになります。カール大帝のカロリング朝は、ピンと来ないかもしれませんがユダヤ系カトリックの家系でした。
ギヨーム・ド・ジェローヌについてもすでにお伝えしています。クリュニー修道院をこしらえたギレム家の人間で、ギヨーム・ド・ジェローヌ自身もジェローヌ(現サン=ギレム=ル=デセール)に修道院をこしらえました。
ウスター修道院の修道士ジョンは、ラテン語の年代記『クロニコン・エクス・クロニキス(年代記からの年代記)』を記しました。
その関連系図である『Regalis prosapia Anglorum(イングランド貴族の血統)』では、アガサの父はハインリヒ三世と明記されています。
エドワードは、ドイツ皇帝ハインリヒ三世の娘アガサと結婚し、その結婚からスコットランドの女王マーガレット、聖クリスティーナ、およびエドガー・アシリングを授かった。
ですが正しい翻訳は次のようです。
たしかに、エドワードは皇帝ハインリヒのgermanusの娘アガサと結婚した。
このgermanusは関係性をあらわす言葉で、つまりアガサはハインリヒ三世の娘ではないということです。
リーボウのアイルレッドは、『Genealogia Regum Anglorum(イングランド王の系譜)』を著しました。
この人は、アガサの孫のスコットランド王デイヴィッド一世(一〇八四年~)に仕えていました。アガサについて直接聞き出せる立場にあったわけです。
著作には多くの矛盾があるようですが、アガサの娘マーガレットはイングランドとハンガリーの王家の血統から生まれた、と記されています。
ブルガリア仮説
アガサの親がだれであるかは多くの説があります。
キエフ大公ヤロスラフ一世(九七八年ごろ~)は、父親の可能性があります。
繰り返しになりますが、赤ん坊のエドワード・アシリングは、殺すようにとの指図書きとともにスウェーデン王オーロフの王宮に連れて行かされました。
ですが殺されず、密かにキエフに運ばれました。ヤロスラフ一世の王妃インゲゲルドがオーロフの娘だったからです。
ポーランド王のミェシュコ二世(九九〇年~)という説もあります。ミェシュコ二世の奥さんはオットー二世の曾孫、ロタリンギアのリヘザです。
オットー二世の父はオットー大帝(八五一年~)です。オットー大帝の母親はオーダ・ビルングで、オーダはイタリア王のピピン(七七七年~)とトゥールーズのベルタの孫娘です。
トゥールーズのベルタは、ギヨーム・ド・ジェローヌと妻ギブールの娘です。やはりダビデの血統です。
さまざまな資料によると、エドワード懺悔王がエドワード・アシリングを呼び戻した際、エドワード・アシリングとアガサがハンガリーにいたことは確実なようです。
ただ、資料を詳細に検討すると、アガサのハンガリー王族説は記述が非常に疑わしく、ロシア王族説は後世の挿入である可能性が高い、とのことです。
ミシガン大学の歴史学者イアン・ムラジョフは、二〇〇三年の論文で「ブルガリア仮説」を発表しました。
ムラジョフによると、アガサはブルガリア王ガヴリル・ラドミールの娘で、ハンガリー王ゲーザ一世の母方の孫娘で、ハンガリー王アバ・サミュエルの継娘であると提唱しました。
ガヴリル・ラドミールの奥さんはハンガリー王女で、ゲーザ・アールパードとアデライーデの娘です。この王女は夫ガヴリルに追放されたのですが、その際に妊娠していたのがアガサだったということです。
このハンガリー王女、アガサの母であろう女性は、ハンガリーのマーガレットです。
アガサの娘はマーガレット・オブ・スコットランドです。娘に母の名前をつけるのは非常によくあることです。
ですがこれは素人の憶測に過ぎません。
そしてハンガリーのマーガレットについては、日本語はおろか英語のウィキペディアにもページが存在しません。
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