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88.ハンガリー王国

画像は以下のサイトから転載。


ハザールとポーランドとオットー

一〇二五年、ローマ教皇ヨハネス十六世はポーランドに王冠を送り、ボヘミア公のボレスワフ一世(九六七年~)はポーランド王国の初代王となりました。

教皇が戴冠すると王になる、というルールは、カロリング朝の祖ピピン三世(七一四年~)と二人の幼い息子、カール(大帝)とカールマンの聖別からはじまりました。

つまり教皇庁は、「ローマ皇帝」を指名する権利があると主張しているわけです。なんとか国の王は勝手になれますが、由緒正しいローマ貴族としての皇帝、王になるには戴冠してもらわなければなりません。

ちなみに教皇ヨハネス十六世は、娼婦マロツィアの子孫です。

マロツィアとポルノクラシーについては前回お伝えしました。この時代のローマ教皇は実質的に娼婦が指名していました。

ボレツワフ一世は、「残酷な者」として知られるボレスラフ一世(九一五年ごろ~)の孫です。同じ名前でややこしいのですがよくあることです。

https://slovensko.stvr.sk/rubriky/aktualne-rubriky/219937/boleslav-chrabryより転載。残酷な者ボレスラフ一世。

ボレスラフのプシェミスル朝は、ハザール帝国のヨセフ王に宛てたハスダイ・イブン・シャプルート(九一五年~)のいわゆる『シェクター写本』の運び手でもありました。

ボレスラフ一世の息子のボレスラフ二世(九二七年~)は、エドワード長兄王(八七〇年代~)の娘でオットー大帝(九一二年~)の最初の妻エドギダの妹アディーヴァと結婚しました。

ボレスラフ二世の姉ドゥブラフカは、ポーランドの最初の王朝、ピャスト朝の創始者ミェシュコ一世(九六〇年ごろ~)と結婚しました。

ドゥブラフカ

ミェシュコ一世とドゥブラフカの息子は「勇敢王」ボレスワフ一世で、ボレスワフ一世の息子のミェシュコ二世(九九〇年~)はオットー二世の曾孫、ロタリンギアのリヘザと結婚しました。

オットー二世の先祖、ザクセンのリウドルフ(八〇六年ごろ~)は、ビルング家のオーダと結婚しました。

https://jp.pinterest.com/pin/570549846514550565/より転載。オーダ・ビルング。

オーダ・ビルングはトゥールーズのベルタの孫娘でもあります。

トゥールーズのベルタは、ギヨーム・ド・ジェローヌと妻ギブールの娘です。

ダビデの血はポーランドにも流れています。

ハザールとハンガリー

「残酷な者」ボレスラフ一世は、九五五年にオットー大帝と同盟を結んだチェコ軍を率いてマジャール軍に勝利し、独立を果たしたボヘミアの最初の王になりました。

ですが八世紀末、ボヘミアは近隣の大モラヴィアやハンガリーと同様に、マジャール人の手に落ちてしまいました。

マジャール人は、ハザール人から分かれた複数の部族からなる人たちです。

最盛期のハザール帝国は、ウクライナ、南ロシアからコーカサス山脈、カザフスタンとウズベキスタンの西部からアラル海までの地域を支配していました。

ハザール・カガン国の版図(650年頃が赤、750年頃が橙、850年頃が薄い橙)

ドニエプル川の「岸辺の地」を意味するキエフは、ハザール帝国西部の交易と行政の中心地として八世紀はじめに建設されました。

九世紀末、ハザールはアールパード(八四五年ごろ~)という人物をハンガリー王国の指導者に任命しました。

アールパードの指導の下、マジャール人の七つの部族とハザール人の三つの部族からなるハンガリー王国が形成されました。

そしてアールパードは、アールパード朝初代の君主、ハンガリー大公になりました。

一二〇〇年ごろに書かれた初期ハンガリー史の歴史書『ゲスタ・フンガロルム』(「ハンガリー人の業跡」の意)によると、マジャール人はスキタイ人で、元々はマゴグの末裔だったとのことです。

https://perspectivia.net/servlets/MCRFileNodeServlet/pnet_derivate_00006791/kolt_migration.pdf

http://s155239215.onlinehome.us/turkic/20Roots/260Convergence/Hungarians/EndreyASonsOfNimrodCh1-3.pdf

マジャール人は、ヤペテの子孫で最初のスキタイの王マゴグから名前を得ました。その血統から有名なアッティラも生まれました。

『ゲスタ・フンガロルム』はさらに、アッティラが四五一年に大軍を率いてスキタイからパンノニアにやってきて、ローマ人を追い出してこの地を征服した、と説明しています。

トゥルール

八一九年、同じくマゴグの子孫であるスキタイの王子オギェクは、エメセという女性と結婚することを決めました。

https://www.alamy.com/this-1360-manuscript-page-from-the-kpes-krnika-depicts-eld-a-hungarian-chieftain-holding-a-spear-and-leaning-on-a-turul-shield-the-work-is-an-important-medieval-hungarian-illustration-of-leadership-image665143882.htmlより転載。盾にハヤブサ。

エメセは超自然的な幻を見ました。それはトゥルールの形をしていて、エメセの体に降り注ぎ、妊娠させました。

トゥルールというのは、ハザール人のトゥグルルと同じく、ハンガリー神話に登場する巨大なハヤブサのことです。

エメセとハヤブサ

このトゥルールは神の使いで、ハンガリー神話に出てくる生命の樹(「égig érő fa」または「életfa」)の頂上、つまり宇宙そのものの上に住んでいます。

生命の樹

この生命の樹は、北欧神話のイグドラシルに類似していますが、ハンガリーの樹は北欧神話インスパイアではなく、シャーマニズムの起源とされる北ユーラシアの古代の慣習に遡る可能性があるとのことです。

北ユーラシアのシャーマニズムといえば、アルタイ山脈です。

ハンガリー語で夢はalomと呼ばれることから、エメセの子はアルモスと名付けられ、アールパードの父になりました。

また、エメセ、シリアのエメサは、シュメール語で「祭司」を意味します。

トゥルールはエメセ(祭司)とその息子に地位をもたらした、というわけです。

https://www.angelfire.com/wy/bwty/turtlehawk.html

アールパードと一族は西に進出をはじめ、最終的には現在のハンガリーに定住し、九七一年、アールパードの曾孫であるハンガリー人の大公ゲーザ・アールパード(九四〇年~)によって統一マジャール国が樹立されました。

ゲーザは異教徒でしたが、支配者となった九七二年に神聖ローマ帝国とビザンツのあいだで締結された同盟により、キリスト教への改宗を余儀なくされました。

ゲーザは九八五年に洗礼を受けたのですが、メルゼブルク司教によると、異教の神々を崇拝しつづけていたようです。

またゲーザは、タクソニー大公とハザール人、ペチェネグ人またはヴォルガ・ブルガリア人の妻の息子でした。

十三世紀に編纂された『ハンガリー・ポーランド年代記』によると、ゲーザはミェシュコ一世とドゥブラフカの娘アデライーデと再婚しました。

年代記によると、アデライーデは聖シュテファンの幻を見ました。

シュテファンはアデライーデに息子が生まれることを告げ、シュテファンにちなんだ名前をつけるよういいました。

なのでアデライーデの息子はイシュトヴァーン一世(九七五年~)になりました。初代ハンガリー王で、一〇八三年に教皇グレゴリウス七世によって列聖されました。

イシュトヴァーン一世は、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ二世(九七三年~)の妹ギーゼラと結婚しました。

ミェシュコ二世の娘、ポーランドのリグザはイシュトヴァーン一世のいとこで、ハンガリー王アンドラーシュ一世のあとを継いだハンガリー王ベーラ一世(一〇一六年~)と結婚しました。

ベーラ一世の娘は、のちのハンガリー王妃ソフィアです。

オーダ・ビルングのビルング家は、五代に渡ってザクセン公国を統治しました。

黒公ハインリヒ九世(一〇七四年~)の義父、ザクセン公マグヌス(一〇四五年~)が跡継ぎの男子がないまま死去すると、ビルング家はヴェルフ家およびアスカニア家に統合されました。

ビルング家の財産は、ザクセン公マグヌスの妻、ハンガリー王妃ソフィアの二人の娘に分割されました。ザクセンのウルフヒルト・ビルングとアイリカ・フォン・ザクセンです。

ウルフヒルト・ビルングは、ヴェルフ家の黒公ハインリヒ九世と結婚しました。

アイリカはアスカニア家のオットー・フォン・バレンシュテットと結婚しました。

財産とともにダビデの血が保たれたわけです。

次回はブルガリアで生まれた異端キリスト教、「サタニスト」と呼ばれたボゴミル派についてお伝えします。

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謎の賢人 この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。