95.カミーノ・デ・サンティアゴ
画像は以下のサイトから転載。
「再征服」のはじまり
繰り返しになりますが、学者たちはクリュニー修道院が十字軍の準備に大きな役割を果たし、さらにそこから利益を得ていた、と考えています。
クリュニーと十字軍の関係については、いくつかの(英語の)ブログでも読むことができます。
ただし日本語ウィキペディアの「クリュニー修道院」のページには十字軍の十の字も出てきませんし、日本語ウィキペディアの「十字軍」にはクリュニーのクの字も出てきません。
もちろん言及している日本語のブログもありません。せいぜい教皇ウルバヌス二世がクリュニー修道院出身だった、くらいです。
クリュニー会はまた、スペインのレコンキスタに対しても重要な役割を果たした、と考えられています。
レコンキスタは、ご承知のとおり「再征服」という意味です。イベリア半島はかつて、白人の蛮族、西ゴート族が支配していました。
レコンキスタの真の目的は、自分たちの「第二の聖地」を確立するためでした。サンティアゴ・デ・コンポステラです。

当時のクリュニー修道院は、教会にとっての最強の武器でした。
なのでスペインの支配者たちにとって、クリュニーの後援者になるのはそのまま利益になりました。
クリュニーの修道院長たちは、ムーア人(イスラム教徒)に対抗し、スペイン北部のキリスト教王国を支援する、という教会の決定を支持しました。
スペインのキリスト教王国たちとブルゴーニュとの政治的な結びつきは、クリュニーと密接に関係しています。ブルゴーニュはクリュニー修道院のお膝元です。


レオンとカスティーリャの王アルフォンソ六世(一〇四〇年ごろ~)は、コンスタンス・ド・ブルゴーニュと結婚しました。

コンスタンスは、クリュニーの大修道院長、クリュニーのユーグ(一〇二四年~)の姪です。母のエリー・ド・スミュールはクリュニーのユーグの実姉でした。
コンスタンスは、第一回十字軍を開始させたローマ教皇ウルバヌス二世への影響力を通じ、十字軍に重要な役割を果たしました。
そして甥のレーモン・ド・ブルゴーニュ(一一〇七年~)と従兄弟のアンリ・ド・ブルゴーニュ(一〇六六年~)がアルフォンソ六世の娘と結婚したことで、サンティアゴ騎士団、カラトラバ騎士団、モンテサ騎士団、聖ジョージ騎士団、キリスト騎士団などのテンプル騎士団の生き残りとなる騎士団を生み出すことになりました。
九世紀、第五代クリュニー修道院長聖オディロン(九六二年~)の指導の下、クリュニー修道院は広範なネットワークを活用し、コンポステラへの巡礼を奨励、発展させました。
結果起きるのは、宗教戦争です。
聖ヤコブの道
カミーノ・デ・サンティアゴは、フランス語では「le chemin de Saint Jacques」、「聖ジャックの道」と呼ばれます。英語では「聖ヤコブの道」です。

聖ヤコブは、イエスの十二使徒の一人で、エルサレムで殉教したとされる人物です。
「聖ヤコブの道」は、ご覧のとおり、サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂にある聖使徒ヤコブの墓に至る巡礼路ネットワークです。
サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂は、スペイン北西部のガリシア地方にあります。ローマそのものを除いて中世キリスト教世界で最も重要な聖堂で、巡礼の中心地でした。
四つの主要な巡礼路は、フランスを通過しています。サンティアゴ・デ・コンポステラへのルートを守るためにスペインに入った軍事支援もフランスからでした。
ギヨーム・ド・ジェローヌ(七五五年ごろ~)については、以前お伝えしました。母はカール・マルテルの娘で、カール大帝の従兄弟にあたります。
父は日本語のウィキペディアにページがないオータン伯ティエリーで、アメリカ人歴史家アーサー・ズッカーマンによると、ティエリーはナルボンヌのナシ(王子、統治者)、ラビ・マヒルと同一人物です。
つまりギヨームは、ダビデの血を引く「ユダヤ人」です。
八〇四年、ギヨーム・ド・ジェローヌは、サン=ギレム・ル・デゼール修道院を創設しました。

クリュニー修道院を建てたのも、同じギレム家のアキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)です。
サン=ギレム・ル・デゼール修道院は、巡礼者の主要な立ち寄り地でした。ほかにもサンティアゴ・デ・コンポステラへ至る巡礼路沿いには、クリュニー会に属する多くの修道院がありました。
聖ヤコブはスペインの守護聖人で、何百年ものあいだ、スペインの偉大なキリスト教伝道者だったと信じられています。

伝説によると、ヤコブの遺骸はサンティアゴ・デ・コンポステラに保管されています。
ヤコブはゼベダイとマリア・サロメの息子で、使徒ヨハネの兄弟です。
中世の伝承では、マリア・サロメは聖アンナの娘たち、三人のマリアの一人に数えられていて、イエスの母マリアの姉、または異母姉にあたります。
紀元後四四年、ヤコブはヘロデ・アグリッパによってエルサレムで斬首されました。
その遺体は天使たちによって引き上げられ、舵のない石造りの船でガリシア地方のサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂のある場所まで運ばれました。
その後、聖ヤコブの聖遺物の発見は、巡礼者たちの注目を集めました。
ですが現在でも、ガリシア地方の多くの人々は、聖ヤコブの遺骸はアビラのプリスキリアヌスのものだと信じています。
プリスキリアヌス
アビラのプリスキリアヌスはスペインの司教で、キリスト教会史上はじめて異端が理由で処刑された人です。
イベリア半島北部で殉教者として広く崇拝されていたのですが、プリスキリアヌスのガリシア教団に取って代わるためにヤコブ教団が設立された、という可能性はあるようです。
プリスキリアヌスはメリダやコルドバを中心に、秘密結社的な活動をしていました。
その活動の中で信望者たちには、物質は悪で霊は善、というグノーシスやマニ教的な二元論を説いていました。
プリスキリアヌスは多くの異端的な教義の中で、天使と人間の魂は神から発していて、肉体は悪魔によって創造され、人間の魂は罪の罰として肉体に結合される、と説きました。
やはり完全なグノーシスです。
信望者たちはグノーシスの例に漏れず、禁欲的な修行を通じてより高いステージを目指し、あらゆる快楽、結婚、ワインや肉の接種を絶っていました。
プリスキリアヌスの教えは現在、キリスト教の一派プリスキリアズムとして知られています。
プリスキリアズムはスペイン西部、南部、南ガリアに広がり、スペインの教会を混乱させました。
このような禁欲主義は、一見よさげに見えます。修道士も同じです。
ですがこれらの信念は、キリストの人間性を否定することにつながります。
三八五年ごろ、プリスキリアヌスは魔術を行った罪に問われ、ローマ皇帝マグヌス・マクシムスの権威によってトリアーで処刑されました。
プリスキリアヌスは処刑前、わいせつな教義を研究し、夜な夜な女性たちと集会を開き、裸で祈っていたと「告白」しました。
真偽のほどはともかく、このように告白したからにはプリスキリアズムは下火になるはずなのですが、禁欲運動はイスパニアとガリアで六世紀後半までつづけられました。
プリスキリアヌスと信望者たちの教典は、一八八五年に発見され、一八八九年に出版されました。
サンティアゴに向かう主要な巡礼ルートは、プリスキリアヌスの遺体が埋葬のために持ち帰られたルートだといわれています。
プリスキリアヌスは次のような慣習を推進していました。
祈りの時間には、女性が男性と一緒にいることを禁じる。
日曜日の断食は非難される。
四旬節のあいだ、だれも自宅や山に隠遁してはならない。
聖体は教会で受け、家に持ち帰ってはならない。
破門された者は司教に保護されてはならない。
聖職者は、より完璧な生活を送ることを動機として修道士になることを禁じる。
だれも「博士」(ラテン語で教師を意味する)の称号を名乗ってはならない。
女性は四十歳に達するまで「処女」とは見なされない。
四世紀、プリスキリアヌスは斬首の刑に処され、五世紀にスペイン北部に礼拝堂と埋葬地が建設されました。
そして九世紀、スペイン北部で聖ヤコブの遺骨が発見されました。
もともと人気の巡礼地だったので、一からプロデュースするよりも「刷新」したほうがお手軽です。ヨーロッパ規模の仕事なので、ガリシア地方の人たちが裏を知っていようがお構いなしです。
事実、わたしたちのほとんどは真相を知りません。日本で知っているのは百人くらいだと思われます。
トゥールのマルティヌス(三一六年ごろ~)は、ヨーロッパ初の聖人です。
マルティヌスの遺体が埋められた場所には大聖堂が建てられ、巡礼の中心地となりました。
マルティヌスは生前、プリスキリアヌスの命を必死で救おうとしていました。結局プリスキリアヌスは斬首の刑に処せられ、マルティヌスはそのことを大いに嘆いたといわれています。
マルティヌスの大聖堂は、皮肉にもサンティアゴへの伝統的な通過地点でした。
次回も引きつづきレコンキスタについてお伝えします。
いいなと思ったら応援しよう!
この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。