97.アルフォンソ六世
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サンチョ三世
レオンとカスティーリャのアルフォンソ六世(一〇四〇年ごろ~)は、「勇敢王」とも呼ばれ、中世スペインの王の中で最も偉大とされている人です。
もちろんレコンキスタにおいても、重要な役割を果たしています。
このアルフォンソ六世は、クリュニー修道院の支援者でもありました。
そしてサンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼の組織化にも尽力しました。
そのためレオン王国は、イベリア半島において最も重要な王国でありつづけました。
大王としても知られるナバラのサンチョ三世(九九四年ごろ~)は、一〇二〇年代にカスティーリャを占領し、晩年はレオンを統治し、ガリシアを一時的に独立させました。

ガリシアは、のちにサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂のお膝元となる地方です。
このサンチョ三世はアルフォンソ六世の祖父で、後ウマイヤ朝のカリフ、アブド・アッラーフマン三世(八八九年~)の叔母トダの曾孫です。
トダの母親の最初の夫は、後ウマイヤ朝の第七代アミール、アブドゥッラー・イブン・ムハンマド(九一九年~)でした。
修道士たちによると、スペインのキリスト教徒は「真のイスラエル」で、神によって選ばれながら不服従の罪のためにうち捨てられた民で、その罪滅ぼしとして異教徒と戦っている、という設定でした。
ですが実際には、異教徒と結婚したりしています。
政略結婚は自然な成り行きです。対してキリスト教VSイスラム教の戦い、という設定は、落ち着いて考えるとわかりますが、不自然です。
キリスト教VSイスラム教の戦いは、人為的に設定、ルールが定められたゲームです。自分も含めて人が死ぬゲームなので、見返りがなければだれもやりません。
サンチョ三世は一〇〇四年に王位に就きました。このころはアル=アンダルスのカリフたちがタイファどうしで内部抗争を繰り広げ、混乱に陥っている時期でした。
タイファというのは、イベリア半島の歴史においては、イスラム教徒が支配する独立公国のことです。
レコンキスタ(再征服)の絶好のチャンスのように思われますが、サンチョ三世はイスラム教徒との争いを避け、イスパニアのキリスト教徒諸侯の支配に乗り出しました。
戦争とはそういうもの、という見本の一つです。

サンチョ三世は、一〇〇四年から一〇三五年に死ぬまでパンプローナの王でした。
アラゴン伯領を支配し、婚姻によってカスティーリャ伯領、ナバラ西部のアラバ、モンソンも支配しました。
その後ソブラルベ(一〇一五年)、リバゴルサ(一〇一八年)、セア(一〇三〇年)を加え、一〇三四年にはレオン王国に介入し、首都レオンを手に入れました。
パンプローナ、ソブラルベ、リバゴルサはスペイン辺境領と呼ばれ、カール大帝によって戦略的に設置された辺境領です。
地図の黄色い部分、アラゴン王国は、ナバラ王国の分家としてはじまりました。
フェルナンド一世
サンチョ三世は、広大な領土を息子たちに分割して与えました。以前もお伝えしましたが、領土を分割して息子たちに与えるのは蛮人の昔からの慣習です。
サンチョの嫡男、パンプローナのガルシア・サンチェス三世(一〇一二年ごろ~)は、嫡男だけにパンプローナの王位を受け継ぎました。
のちにアラゴン王国となる土地を与えられたのは、非嫡出子(私生児)のラミロ一世(一〇〇七年ごろ~)でした。ガルシア・サンチェスより年上ですが、私生児なので嫡男にはなれません。
ソブラルベとリバゴルサは、四男のゴンサロ(一〇二〇年ごろ~)に与えられました。
嫡男のガルシア・サンチェス三世は、兄弟たちの領主、という立場になりました。三男のフェルナンド一世(一〇一五年ごろ~)にも同様に宗主権を主張しました。

フェルナンド一世は、父の下でカスティーリャ伯として活躍し、名目上はレオン王国の支配下にありましたが、実際は父親のサンチョ三世の個人的な支配下に置かれていました。
レオンのフェルナンド一世は、十一世紀半ばのレコンキスタの中心人物でした。ゲームを積極的に行ったわけです。
フェルナンド一世はイスラム教徒に対し、「神がおまえたちとわれわれのあいだに裁きを下すまで、われわれはおまえたちから背を向けることはない」などと愚弄したことで知られています。
一〇五〇年代から一〇六〇年代にかけて、フェルナンド一世はほとんどすべてのイスラム王国に対して襲撃をし、勝利を収めました。
このフェルナンド一世の襲撃と領土拡大は、当然ながらローマ教皇庁の承認を得ていました。
このころのローマ教皇庁は、帝国の権威としてまとまりはじめていました。新しい改革運動、とりわけブルゴーニュの修道会クリュニー会による改革運動によって、これまで欠けていたイデオロギー的、制度的な一貫性がもたらされていました。
一つ賢くなった、ということです。そして何度も何度もお伝えしていますが、賢さをもたらしたクリュニーは、ユダヤ人が創建した修道院です。
教会は、勝者であるフェルナンド一世のイベリア半島全域の領有権主張を支持し、聖職者たち、とくにローマ教皇庁とクリュニーに関係する人たちは、キリスト教のレコンキスタ(再征服)の概念と「イスラム教徒スレイヤー」聖ヤコブの崇拝を積極的に推進しました。
ですが実際にサンティアゴの地に眠っているのは、聖ヤコブではなくグノーシス的神秘主義者のプリスキリアヌスです。
フェルナンド一世は見返りとして、ローマ教皇庁とクリュニー会を支援し、現金、土地、影響力のある地位などを寄進しました。
敵対するキリスト教国、アラゴン、カタルーニャ、ポルトガルの騎士たちは、聖ヤコブを取られたので、代わりに聖ゲオルギウスを持ち出し、「イスラム教徒スレイヤー」として活躍させました。
クリュニーとアルフォンソ六世
フェルナンド一世の父、サンチョ三世は、カトリック教会やクリュニーと同盟を結んでフランク王国からの軍事的支援を求めることが政治的に有利、と最初に認識した人でした。
つまりほかのキリスト教国と戦うためにイスラム教国と戦った、ということです。
これが真の政治、戦争というものですが、映画化しても複雑すぎるのでだれも見ません。
なのでできるだけわかりやすく、単純化します。映画マンガアニメだけでなく、歴史そのものも同様のプロセスを経ています。
サンチョ三世はクリュニー会の修道士をスペインに招き、クリュニーもまたスペインの修道士を受け入れて訓練しました。
三人の息子、レオンのフェルナンド一世、アラゴンのガルシア・サンチェス三世、ラミロ一世もこの伝統を引き継ぎました。
十一世紀最後の四半世紀、南フランスとスペイン北部に修道院を持つクリュニー会修道院の活動の原動力となったのは、クリュニーのユーグ(一〇二四年~)でした。

フェルナンド一世は、クリュニーに毎年金貨千枚の莫大な貢納を行うことを約束しました。
その後、息子のアルフォンソ六世は、一〇七七年にクリュニーへの貢納を倍増させました。

アルフォンソ六世はさらに、ユーグの要請に応じたかたちの一〇九〇年の勅許状で、「かくも名高く、試練に満ちた、聖なるクリュニー修道院」に言及し、「かの地において神と聖ペテロのために戦う修道僧たちの共同体」を要請し、ローマ典礼を導入し、さらに貢納を倍増させました。
クリュニーのユーグは、一〇八八年から、クリュニー第三聖堂を含む大規模な建築計画に着手しはじめました。

ユーグの計画に充てられた資金は、ウィキペディアによると、「カスティーリャ王アルフォンソ六世などのパトロンの寄付によって賄われた」とのことです。
実際は、イスラム教側の独立国、タイファから貢納された年貢の大半が充てられていました。
クリュニー第三聖堂の建築がはじまったきっかけは、かつての修道院長、グンツォの幻視だとされています。
グンツォはクリュニー修道院の病床で重篤な病に伏していました。
ある夜、グンツォの元に使徒ペテロと聖パウロが聖ステファノを伴ってあらわれました。そこで聖ペテロはグンツォに、現在の修道院は狭すぎる、と告げました。
そして拡張すべきバシリカの正確な寸法を示し、この神の指示を修道院長ユーグに伝えるよう命じました。
さらなる保証として、ペテロはグンツォに「この伝言を届けたらさらに七年の命を授ける」と約束しました。
あまり聖人らしくない物言いですが、いずれにせよ修道院建設の理由ができました。
ちなみに「神殿の正確な寸法」といえば、旧約聖書の預言者エゼキエルです。
神はエゼキエルに幻のエルサレム神殿を見せ、寸法を事細かに伝えました。
目端の利く支配者は、こういった伝説を一笑に付したりしません。結局のところ、伝説のとおり神殿(第三聖堂)ができあがったからです。
なぜ神殿ができあがったかというと、力が働いたからです。知恵のある者はそこに着目します。伝説が生まれた理由にです。
なので伝説は、ひとまずは信じるべきです。ほかの有力者もまた信じています。
そして歴史を学び、元ネタはエゼキエル書、と判明すると、伝説は魔力を帯びはじめます。
われわれ庶民は、なんの疑いもなく信じ込むか、バカバカしいと捨てるかのいずれかです。そしてひたすらいまを生き、死ぬまで支配されつづけます。
クリュニー第三聖堂の建設は、半ば秘められた計画でした。
クリュニー第三聖堂は、十六世紀にローマのサン・ピエトロ大聖堂が再建されるまで、ヨーロッパ最大の建物でありつづけました。
フランス革命の際、クリュニー第三聖堂はアンシャン・レジーム(古い体制)の行き過ぎた例とみなされ、大部分が破壊されてしまいました。
市民にしては的確な歴史認識です。
アルフォンソ六世とユダヤ人
アルフォンソ六世の兄、カスティーリャのサンチョ二世(一〇三六年ごろ~)は、父フェルナンド一世の王国の再統一を望み、のちにエル・シッドとして知られる有名なロドリゴ・ディアスを従え、兄弟を攻撃しました。

エル・シッドは、小貴族の一員として生まれました。
フェルナンド一世の宮廷で育ち、そこでサンチョ二世に仕えました。
一〇六五年、サンチョ二世が即位すると、エル・シッドはカスティーリャの司令官になりました。
そしてエル・シッドは、サンチョ二世の弟、アルフォンソ六世とガリシアのガルシア二世に対する軍事作戦や、アル=アンダルスのイスラム王国の攻略を指揮しました。
サンチョ二世は、サモラの包囲戦で戦死しました。
「三サンチョの戦い」とされる戦いでは、サンチョ二世は従兄弟のナバラ王サンチョ四世とアラゴン王サンチョ一世を破り、ブレバ、アルタ・リオハ、アラバを征服しました。これらの土地もかつてはフェルナンド一世の領地でした。
一〇六八年、サンチョ二世は次弟アルフォンソ六世と交戦しましたが、一〇七一年に一転して手を結び、末弟ガルシア二世をセビリアへ追放、ガリシアを征服しました。
翌一〇七二年、サンチョ二世はアルフォンソ六世を裏切りました。エル・シッドの活躍もあり、アルフォンソ六世を破って王位を奪い、レオンも併合しました。
アルフォンソ六世はブルゴスで幽閉されましたが、サモラ領主で八歳年上の姉ウラカの手引きでトレドに亡命しました。

サンチョ二世の征服行は、残るはサモラのみとなっていました。ですがウラカはサモラを要塞化し、アルフォンソ六世の家臣ペドロ・アンスレスと結託して頑強に抵抗しました。
そして攻城戦の最中の十月七日、ベイード・ドルフォスという男がサンチョ二世を暗殺しました。
暗殺事件の黒幕はアルフォンソ六世とウラカであるといわれていますが、定かではないようです。
またこの二人は、近親相姦の関係にあったという噂も流れていました。ウラカは弟のアルフォンソ六世の教育係で、母性的な強い愛情を抱いていたようです。
サンチョ二世が死んだあと、弟のアルフォンソ六世はレオン、カスティーリャ、ガリシアを支配しました。
晴れて王となったアルフォンソ六世は、一〇八五年、強大なタイファ王国の一つ、トレドを征服しました。

トレドはかつて西ゴート族の王国の首都でした。これは非常に重要で象徴的なレコンキスタとなりました。
なのでアルフォンソ六世は、この征服によってキリスト教世界にその名を轟かせることになりました。
アルフォンソ六世のタイファに対する積極的な政策は、タイファの王たちを悩ませました。クリュニー第三聖堂建設に使われた例の貢納などです。
そこでタイファの王たちは、アフリカのムラービト朝に助けを求めました。ムラービト朝はいうまでもなくイスラム教の王朝です。
一〇八六年、ムラービト朝の君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンは、セビーリャの諸侯ムータミドの救援要請に応じ、カスティーリャのアルフォンソ六世とサラカの地で会戦を行いました。
アルフォンソ六世は千五百騎を含む二千五百人の兵を率いて戦場に向かいましたが、そのうちの七百五十人は騎士で、中にはユダヤ人もいました。
一時期、アルフォンソ六世の軍には四万人のユダヤ人がいましたが、黒と黄色のターバンでほかの戦闘員と区別されていました。
そしてユダヤ人部隊のために、安息日が過ぎるまで戦闘を行わないことになりました。
戦いの前、アルフォンソ六世は司教たちだけでなく、ユダヤ人学者や占星術師も呼び寄せ、戦いの結果を占わせました。
ユースフ・イブン・ターシュフィーンは、カスティーリャ人にイスラム教への改宗、貢納(ジズヤ)、戦い、の三つの選択肢を提示したと言われています。
結果的にカスティーリャはほとんど領土を失うことなく、前年に占領された重要な都市トレドを保持することができました。
ですが両陣営が再編成するあいだ、キリスト教側の進撃は数世代にわたって止まることになりました。
いわゆるレコンキスタは、八世紀初頭から一四九二年のグラナダ開城までを指しますが、ずっと戦いつづけていたわけではありません。
少し考えれば不可能だとわかります。資源的にもそうですが、イデオロギーによるある意味仕組まれた戦いなので、人間の本性的につづけられないのです。
サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の建設
ユダヤ人に寛容だったアルフォンソ六世は、ローマ教皇アレクサンデル二世の称賛を得ました。
アルフォンソ六世は、政権を握った直後、裕福で勤勉なユダヤ人をムーア人に対抗させるため、ユダヤ人にキリスト教徒との完全な平等と、貴族に与えられる権利まで与えました。
ユダヤ人はアルフォンソ六世の下で繁栄し、一〇九八年には五万人都市トレドに一万五千人近くのユダヤ人が住むようになりました。
アルフォンソ六世のユダヤ人への偏愛ぶりは、教皇グレゴリウス七世が「ユダヤ人にキリスト教徒を統治させるな」と警告するほどでした。
結果、キリスト教徒のユダヤ人への憎悪と嫉妬を招くことになりました。
そしておなじみの展開になりました。一一〇八年、トレドで反ユダヤ暴動が発生し、多くのユダヤ人が殺害され、家屋やシナゴーグが焼かれました。
現在のサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の建設は、アルフォンソ六世と司教ディエゴ・ペラエスの庇護の下、一〇七五年にはじまりました。

十世紀にはわずかな巡礼者が、十一世紀には多くの巡礼者がサンティアゴを訪れたことが記録されていますが、サンティアゴがローマやエルサレムと並んで中世の巡礼の一大目的地になったのは、十二世紀初頭、とくにディエゴ・ゲルミレス大司教(一一〇〇年~)の推進によるものでした。
最初のカテドラルは墓の跡地に建てられ、次第にブルゴーニュのクリュニー修道士やフランスのカンタル地方のオーリヤック修道士など、発展する巡礼路に沿って修道院が建てられるようになりました。
教会と修道院、司教司祭と修道士はなにがちがうのか、と思われたことがあるかもしれません。
このNoteをこれまで読まれてきた方は、なんとなくでも理解できたのではないでしょうか。
修道制という概念はローマ時代にはすでにありましたが、中世に入って修道院を創建しはじめたのは「ユダヤ人」です。
歴史を語るうえで、「ユダヤ人」は避けては通れません。ですがケン・フォレットの歴史大河小説『大聖堂』シリーズには、ユダヤ人がただの一人も登場しません。
勝者が記し、それが広まれば、それは「歴史」です。先にお伝えした伝説と同じです。
大半の人は、「歴史」をそのまま信じ込んでいます。「歴史」が帯びた魔力は、わたしたちの人生に影響を与えています。
ここまでお伝えしても、読者の方のほとんどは健康診断に行き、ガンなどといわれ、カネを払って自ら毒を打ち、苦しみながら死ぬのでしょう。
頭の出来ではなく、単に魔術にかかっているからです。魔法は実在します。
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