【最終章】原作【推しの子】完全肯定論:結論(文化的キッズポピュリズムとの闘い)
In Defense of the Manga 𝑂𝑠ℎ𝑖 𝑛𝑜 𝐾𝑜:
The Definitive Refutation of Its So-Called Failure
【Final Chapter】
Conclusion: Against Cultural Kid-Populism
🟥 本章の要約(Summary of This Chapter)
漫画【推しの子】に対してネット世論が行った激烈なバッシングと一方的な「駄作認定」は、
ノイジーマイノリティを構成する低リテラシーキッズによる無教養な言説が文化空間全体を支配する、恐るべき「文化的キッズポピュリズム」の萌芽を示すものである。
故に、原作の極めて優れた芸術的表象を擁護し、かつ上記ポピュリズムの増殖と成長を僅かなりとも阻止すべく、
当該作のアニメ3・4期は断固、原作通りの脚本で制作されねばならない。
総目次(全11回)
【序論】原作【推しの子】完全肯定論[↩︎]
【第1章】有馬かなバッシングと処女性信仰①──絶望の枕営業篇[↩︎]
【第2章】有馬かなバッシングと処女性信仰②──愛の死体ビンタ篇[↩︎]
【第3章】「矛盾だらけ説」の検証──特に心中事件の時系列矛盾説について[↩︎]
【第4章】「未回収伏線だらけ説」の検証①──結末篇[↩︎]
【第5章】「未回収伏線だらけ説」の検証②──総合篇[↩︎]
【第6章】「心理描写が雑過ぎる説」の検証①──ルビー・有馬・あかね・カミキ篇[↩︎]
【第7章】「心理描写が雑過ぎる説」の検証②──アクア篇[↩︎]
【最終章】結論──文化的キッズポピュリズムとの闘い(本ページ)
【補論1】雑多なバカ批判を手短に論破する①──対人戦の部[↩︎]
【補論2】雑多なバカ批判を手短に論破する②──対AI戦の部[↩︎]
(外伝:【推しの子】アンチスレに凸ってみた結果…[↩︎])
(⬆︎前回)
🔷 何故ここまで叩かれたのか?──「文化的キッズポピュリズム」の胎動
◆「駄作認定キッズ」被害者の会──【推しの子】・呪術廻戦・アイアムアヒーロー
・赤坂アカ×横槍メンゴ【推しの子】[↩︎] 全16巻
(『週刊ヤングジャンプ』『少年ジャンプ+』2020-4年)
・芥見下々『呪術廻戦』[↩︎] 全30巻
(『週刊少年ジャンプ』『少年ジャンプ+』2018-24年)
・花沢健吾『アイアムアヒーロー』[↩︎] 全22巻
(『ビッグコミックスピリッツ』2009-17年)

──これら三作の、互いに全くジャンルと作風の異なる週刊連載長篇漫画に共通する点とは何か。
それは、連載開始直後から優れた作品として大きな話題を集め、原作漫画の進行を追って各種メディア化も行われ、多くの読者を集めたにも関わらず、
その完結までの間に多かれ少なかれ炎上やバッシングを引き起こし、最終的にはネット世論による一方的かつ断定的な「駄作認定」が行われるに至ったということである。
しかし、何を以って「駄作認定」が下されたと看做すか?
色々と考えられようが、一つの確かな指標は検索サジェストであろう。
いま試しにそれぞれの作品名を検索エンジンにぶち込んでみると、それこそ待ってましたとばかりに、
「推しの子 最終話 炎上」
「呪術廻戦 結末 ひどい」
「アイアムアヒーロー 最終回 ひどい」
──などとまあウジャウジャ湧いて来やがる。
これは序論[↩︎]でも触れた通り、極めて強力な心理的ネガティヴィティ・バイアスの発生源であって、「たかがサジェストでしょ」では全く済まぬ話である。
事実、これらのサジェストを一目見ただけで最悪の第一印象を植え付けられ、結果その作品とは永久にさようならしてしまう──そんな人々の総数は相当に多いはずなのだ。実に哀れという他あるまい。
と言うのも、彼らはどこまでも無責任な「駄作認定キッズ」どもの犠牲者なのだから。
────────
さて全11回の「原作【推しの子】完全肯定論」だが、その結論部たる本章ではまず、
上記の三作品がどうして、また如何にしてネット世論により「駄作認定」されるに至ったのかを、【推しの子】という具体例を巡るこれまでの議論を踏まえつつ考察したい。
「転生系アイドル漫画」に「呪術バトル漫画」に「ゾンビサバイバル漫画」──まるで共通点を欠くように見えるこれら三者三様の作品が、ネット世論の力により問答無用で「駄作」へと仕立て上げられて行った不可解極まる現象は、
実は同一の原理と力学によって引き起こされたものであったことが間も無く知れるであろう。
◆ アンチキッズの生態12ヶ条
【推しの子】がアンチキッズどもによって駄作認定されるに至った経緯は、これまでの各章にて散々述べて来た。
その要点のみ羅列すると以下のようになろう₍₁₎。
────────
キッズは現実とフィクションとを区別できない。
キッズはゲームと一本の物語とを区別できない。よって全ての物語に「トゥルーエンド」──つまりハッピーエンドを求める。
[1] - [2] により、キッズはバッドエンドを理解できない。メリーバッドエンドはもっと理解できない。
キッズは凡ゆる世界設定・物語展開・人間心理その他にセリフ・モノローグによる明確な説明を要求し、それが無ければ直ちに「矛盾だらけ」「伏線未回収」「心理描写雑過ぎ」などといったレッテルを貼る。
キッズは概ね無料スマホマンガで作品を読むので、作画の細部に込められた意図などには一切気付かず、かつ物語の大筋をすぐに忘却する。
キッズは「ペリペテイア」のような基本的作劇概念すら知らないし、また知りたいとも思わない。
キッズは「レッドヘリング」や「時系列シャッフル」のようなごく初歩的な叙述トリックすら理解できない。
キッズは、[1] - [7] の無知無能によって或るコンテンツを理解し得なかった時、自らの無知無能から目を背け、かつこれを隠す為、全てをコンテンツそのもののせいにしてこれを全否定し、声を限りに「駄作」呼ばわりする。
キッズは頭は弱いが声だけは大きい。ネット空間の力学はこの大きさを限り無く増幅する。
キッズは群れるのが大好きである。そして、他人と同じことを如何にもわかったような顔で復唱するのもまた大好きである。
キッズは [9] - [10] により、特定の問題について急速にノイジーマイノリティを形成し、容易に集合的デマゴーグと化す。
キッズは以上の [1] - [11] により、高尚にして彼らの理解を超えたコンテンツを問答無用で「炎上」させ(また「炎上した」という既成事実を創り上げ)、以って不可逆的駄作認定を行う強大な力を有する。
────────
──さて、勘の良い読者は夙うにお気付きであろうが、筆者はこれら12条の法則を以って、
【推しの子】とはまるでジャンルの異なる『呪術廻戦』と『アイアムアヒーロー』とが「駄作認定」されるに至った理由もまた、概ね説明できるものと考える。
…がしかし、【推しの子】についてこれまで行って来たような具体的検討を、いま再び両作に即して繰り返した所で余りに芸が無かろう。
よって本章では、また新たな観点からこれらの三作品を論じてみたい。
──即ち、「カタルシス」と「王道展開」である。
◆ 渋谷事変とカタルシスジャンキー
まず『呪術廻戦』だが、ネット世論における本作の評価が下がり始めたのは専ら、構成上「第二部」とでも言うべき「死滅回游」篇以降(16-30巻)であった。
逆に言えばそれまで──特に第一部の山場である「渋谷事変」篇[↩︎](10-16巻)においては、読者らはもう諸手を挙げて各回の展開を称賛していたのである。
これはまあ当然であった。何故か?
──「何故か」って?
だってもう、クッッッッッッッッソほどカタルシスがあるからさ。
なんたってあの名高い渋谷駅ダンジョンを舞台に、人外術師一個小隊と狂った呪霊どもの殺し合いですぜ? たまたま居合わせた有象無象の一般市民どもが理由も無く巻き込まれて死にまくりですぜ? それもよりにもよって2018年10月31日の、あのホモサピエンスの恥みたいなカスハロウィン暴動の真っ最中と来てやがる。挙げ句の果てにはあのクソやかましくて薄汚ぇだけの肥溜めみてぇな渋谷の街が、なんか知らんが小規模核爆発みたいなので丸ごと吹っ飛んで、塵一つ残らぬ更地になっちまうんですからねえ! そうだいいぞもっと殺せ!! 一切構わずブチ殺せ!!! 男も女も老いも若きも善人も悪人も、一人残らず皆殺しにしちまえよウォォォイ!!!! ヒィャァッッハァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!



────────
────さて、お分かり頂けたろうか。
いわゆるところの「カタルシス」とは、つまりこういうことなのだ。
がしかし、流石に上のような浅ましい本心をベタ起こししてコメントやレビューその他に書く訳にも行かぬので、まあ誰しも
「うん、まあ、この展開には結構カタルシスがあるかな(スン…)」
──などと体よく言い繕って済ますのである。
ところがその実態は、もう単純に脳汁ドッバドバのトランス状態なのだ。
今にも失神して果てそうな恍惚状態のおサルさんなのだ。
破壊と殺戮の悦楽にほとほと酔うておるのだ。
…さて決して勘違いして貰いたくないが、だから『呪術廻戦』が非倫理的だ、有害図書だ──といった天与偽善呪縛者式のアホ抜かすつもりなどあるはずも無い。

本題から逸れ過ぎるのでいま本格的に論ずる訳には行かないが、筆者もまた渋谷事変篇を非常に高く評価している。
……いやというか、シンプルに大好きである。
が、その根拠が上のようにごく単純な「カタルシスを与えてくれるから」などではないということだけ述べておけば、今は十分だろう。
と言うのも、他ならぬこの「カタルシス」こそが、渋谷事変篇の後にゆっくりと、しかし着実に生じた反転アンチたちの増殖と、最終的な「駄作認定」の主要因となったからである。
まあ早い話は渋谷事変篇を通じて、『呪術廻戦』読者は悉くカタルシス耐性・脳汁耐性を得てしまったのだ。
魂の形を変えられてしまったのだ。
治療不能のカタルシスジャンキーと化してしもうたのだ。
「主よ主よ主よ主よ芥見主よ、早く早く早く、今すぐ渋谷事変以上の興奮を!快楽を!脳汁を!クァタrrrrrrrrrrrrrrrrrrスィスを我にお与え下さァウィヒィ!!!ゥオォォゥフゥゥゥゥゥ!!!!ヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィィィィィィ!!!!!!!!!!!!カタルシスカタルシスカタルシスカタルシスカタルシスカタルルルルルシスカルタルシスカタシスカルタシスカルタシスカルタシスカルタシスカルタルタルタルソースシルカタコシニカタルカスシスヒィィィッッ…………ウェッ??!!!!……ウェウェウェッ?!????????」

(『呪術廻戦』9巻74話79頁)
──とまあ、大体こんな状態のド廃人ジャンキーキッズどもに、明らかにライアーゲーム/デスノート的知能戦がメインの死滅回游篇なんぞ読ませたら一体どうなるやら、説明するまでもあるまい。
(作者の主たる関心が元々、ヒャッハー系脳筋バトルよりも寧ろこうした緻密な知能戦の方にあったこともまた自明であろう)
結局、死滅回游篇やそれに続く「人外魔境新宿決戦」篇に対する批判は種々あれど、まあざっと九割七分がとこは、このカタルシス禁断症状にヒィヒィ苦しむ哀れなジャンキーどもが、無い頭を絞ってヒィヒィ捻り出したものと見て差し支え無い。つまりはゴミである₍₂₎。
(え、死滅回游篇の呪術設定が「難解過ぎる」って批判ですか? ご安心を、それはそいつがバカ過ぎるだけです)
◆「盛り上がり過ぎ」の罪?
さて、「或るエピソードが盛り上がり過ぎた為に、その後に手の平返しの猛批判を食らう」というこの構図、何かと似ていなかろうか。
──もうお分かりだろう。2.5次元舞台篇である。
あれは盛り上がり過ぎたのだ。

(6巻60話184頁、2期18話[↩︎])
そして、「復讐譚」という【推しの子】本来のシリアスなメインストーリーから見れば飽くまでもサイドエピソードに過ぎなかったにも関わらず、2.5次元舞台篇は如何にも「熱血スポ根アイドル漫画」っぽかった。
故に、それに続くプライベート篇での宮崎旅行が物語を再びシリアス方向へと揺り戻したことなど無論、彼らジャンキーキッズどもの目には入っていない。
「ああ、やっぱりこれは『熱血スポ根アイドル漫画』だったんだ! ぼくの目に狂いは無かった! だからこれからもこのカタルシスをよろしく、アカ先生・メンゴ先生! アヒャ、アヒャヒャ、アヒャヒャヒャヒャ……ヒィッッ………」
──こんな状態のジャンキーモンキークレイジーキッズどもが、あの陰鬱極まる第二部、特に中堅篇・スキャンダル篇なんぞを読んでしまったならば一体どうなるか?
……もはや説明は不要であろう。
こうした「脳汁ドバドバ展開→シリアス展開」の転換点は奇しくも、
『呪術廻戦』:全30巻271話中の16巻137話
(136/271 ≒ 50%)
【推しの子】:全16巻166話中の9巻81話
(80/166 ≒ 48%)
──つまりは共にほぼ同じ話数割合での、明らかに意図的な物語の折り返し点として設けられていた。
(つまりは少しも「奇しく」などない)
この一致はそのまま、両作品の飢えたジャンキーキッズどもが立派な「アンチジャンキーキッズ」に成長する為に与えられた、豊穣なる変態期間の長さともまた符合していたのである。
おお、ウジ虫どもの青春…!
◆「王道の脳汁をください」
さて、続いて『アイアムアヒーロー』である。
全264話のこの作品は、【推しの子】や『呪術廻戦』のように二分割するよりも寧ろ、まず四分割して考えた方がよい。
まあざっとではあるが、
第一部「崩壊する日常篇」(起)
(1巻1話-6巻64話|64/264 ≒ 24%)
第二部「ショッピングモール篇」(承)
(6巻65話-8巻93話|29/264 ≒ 11%)
第三部「比呂美・小田篇」(転)
(9巻94話-16巻191話|98/26 ≒ 37%)
第四部「池袋決戦篇」(結)
(17巻192話-22巻264話|73/264 ≒ 28%)
──といった所だろう。(題目は適当に付けた)
流石に均等な話数配分とは行かないが、概ね計画された四部構成であったと見てよい。
で、『アイアムアヒーロー』の経時的評価遷移を連載当時まで遡って見て行くと、
『呪術廻戦』の渋谷事変篇や【推しの子】の2.5次元舞台篇に当たるカタルシスポイントは、明らかに第二部「ショッピングモール篇」であった。
(実写映画版が、未だ物語全体の35%にしか及ばないこのシーケンスを続篇無しのクライマックスとしたのもまあ当然だろう)
──ゾンビ&ショッピングモール。
もう王道中の王道、手垢に塗れてベットベトのド王道であるが、この王道展開にこそキッズは酔った。
もう脳汁ドヴヴァったよね。


ゾンビショッピングモールショットガン無双FPSドン!
(『アイアムアヒーロー』8巻84-5話54-6頁)
そして、それに続く第三部「比呂美・小田篇」・第四部「池袋決戦篇」において徐々に顕在化する反王道展開を見て、彼ら王道厨キッズは漸う発狂し始めたのである。
……いイやァそオユうのはいラランん, そいうウのは然エ全ンいイらんノヲでスからァア/いイまスぐ王ウ道のカカアタルルシスを; 道オゥウ玉ォゥの腦ォ汁ルヲクダサイッ!!__デでデでエでエないとヲ。。デエなイと惱ヲヂ汁ルゥノ禁ィンキィン斷ダン症ヲゥ狀ガアァッッ!!!!!}{ヒィィィィッッッ?!!!?!!笑🙃🙂🙃🤯!!!!!‼️!!!!!!❣️

(『アイアムアヒーロー』14巻163話124頁)
──こうした王道展開への強力な嗜好と、それに伴う反王道展開への激烈な嫌悪は、ジャンルの全き相違にも関わらず、やはり【推しの子】や『呪術廻戦』に対する典型的批判の根底にもまた容易に見て取れるのだ。
即ち──
Q.「転生系熱血スポ根アイドル漫画」としての【推しの子】の、あったかもしれない「王道展開」とは?
A. ──そうですね。無論、ひょんなことから転生してしまったイケメン主人公が芸能界で無双して(あ、またオレなんかやっちゃいました?)、まあ色々あってハッピーエンドを迎える展開でしょうね。
Q.「呪術系ヒャッハー学園バトル漫画」としての『呪術廻戦』の、あったかもしれない「王道展開」とは?
A. ──そうですね。無論、ひょんなことから強大な呪力を手に入れてしまった主人公が呪術界で無双して(え、それ弱すぎって意味だよな?)、まあ色々あってハッピーエンドを迎える展開でしょうね。
◆「逆張り」と「反王道」
【推しの子】、『呪術廻戦』、『アイアムアヒーロー』。
結局これら三作に共通するのは、当初こうした「王道」をなぞるかのように見えた物語が、次第に「反王道」へと転じて行ったことであった。
キッズどもがバカの一つ覚えのように絶叫する「逆張り展開」とは、つまりこの意味なのである。曰く、
「順張り=(ぼくが考える)王道。
逆張り=(ぼくが考える)反王道」
──であればこそ、「所詮は王道アイドル/バトル/ゾンビ漫画だろ笑」といったナメた覚悟でこれらの作品を読み始めた浅薄な連中は、
後々自分の理解が物語に追い付かなくなってからいよいよ引っ込みが付かなくなり、
とうとう自らの無知無能を棚上げして逆ギレした挙句、直ちに作品全否定系アンチへと身を堕とすことで、そのチンケなプライドを慰めた訳であった(第2章参照[↩︎])。
…がしかし、少し漫画を読み慣れた者ならば一目瞭然な通り、そもそもの初めからこれらは「反王道」を志向した作品であったのだ。
『呪術廻戦』と『アイアムアヒーロー』の本質的な反王道性を論じ始めるともうキリが無いので₍₃₎、ここでは【推しの子】についてのみ具体例を挙げよう。
まず、主人公が産婦人科医。
これのどこが「王道」だろうか。
(初期設定ではゴローはヤクザになるはずだった[↩︎]のだからもう尚更だ)

「いや『コウノドリ』があるぞ!」とか「『ブラックジャックによろしく』のNICU篇だってそうだ!」などと言われるかもしれないが、しかし『コウノドリ』も『ブラよろ』もそもそも「アイドル漫画」ではない。
つまりは「アイドル」と「産婦人科医」が結び付けられている時点で、初っ端からこの作品は「反王道」への志向を表明しているのだ。
要するに、「これから我々は、こうやってあなたがた読者の神経を逆撫でし続けますよ。それでもいいという方だけ付いて来て下さいね」と明確に宣言しておるのだ。

故に、検索サジェスト常連の定型句たる「推しの子 キモい」論を、この冒頭部の生殖と転生のモチーフから始める世の凡庸なるアンチどもは、初手から作者の術中に嵌っている訳である。
マルキ・ド・サド然り、ファン・ゴッホ然り、シェーンベルク然り。
いつにあってもこうした「キモさ」や「不愉快さ」こそ、退屈な時代に敢然と反逆する「反王道」の専売特許であったのだから。

西洋文化史の主潮流から見ればむしろ異常であり、
19-20世紀前半までの大衆や評論家たちにとっては概ね、
この種のイメージはただ「キモい」ものでしかなかった
(ファン・ゴッホ 1889『星月夜』)
◆「反王道」の不愉快さ
そう、「反王道」は大体において不愉快である。
その不愉快さにこそ価値があるのだ。(こんなクソ長大なnoteを奇特にもここまで読まれているような)ごく一部の知的な漫画読者たちに課せられた責務とは、そうした「不愉快さ」が有する文化史上の意義を冷静かつ客観的に評価することであって、
「今ぼくはこれを読んで不愉快に感じている❗️ 傷付いた❗️ 許せない❗️ よって当然ながらこれは駄作だ‼️」
──などと、世のキッズの如く私情に全てを委ねて浅ましくも泣き叫ぶことでは無論あり得まい。
繰り返すが、或る種の「不愉快さ」は紛れもない文化的価値を有するのだ。
(でなければ、どうして『ギルガメシュ叙事詩』[↩︎]の幾千年の昔から、「悲劇」という最も「不愉快」なる文学ジャンルが今日まで存続し得たというのか?)
そしてカントが言うように、
趣味は、快楽の為に刺激や感動の混合を必要とし、またそうした混合を即ち対象に与える賞賛の尺度とする時、常に野蛮なものとなる。
──言い換えれば、「不愉快さ」の反射的拒絶とは野蛮の証明なのである。
────────
……さてそれならば、アンチでも信者でもない中立的評価者としてのあなたは、【推しの子】のどこに「不愉快さ」を感じるだろうか。
「アイドルの妊娠」という冒頭部のモチーフそのものだろうか、
それとも「アイドルの子供に転生する」などという、実にキモヲタの妄想そのままのプロットだろうか?
「彼女だけは純真だ」と信じていたルビーのいわゆる「闇堕ち」だろうか(第7章参照[↩︎])、
それとも重曹氏による例の枕営業(第1章参照[↩︎])と死体ビンタ(第2章参照[↩︎])だろうか?
──いや、結局は何よりもあのバッドエンドであろう。
どうして「転生系熱血スポ根アイドル漫画」が、主人公死亡などという正真正銘のバッドエンドを迎え得るだろう?
結局、「転生」にも「熱血スポ根」にも「アイドル」にも、バッドエンドなどそぐわない。
第一に「転生もの」の意義とはそもそも、前世の不幸を来世の幸福へと転化することにこそあったはずではないのか。

(グリューネヴァルト c.1512–6
『イーゼンハイム祭壇画』「キリストの復活」)
第二に、「熱血スポ根もの」は世界大会だか全国大会だか地区大会だか、いや最低でもまあ県大会ぐらいは優勝して無難なハピハピに終わるのが常道であるし、
仮に無条件のハッピーエンドにはならなかったとしても、大抵は『スラムダンク』[↩︎]みたいに何らかの形での「救い」は担保された上で、明確なメリーバッドエンドとして幕が引かれるものだ。

(浦沢直樹 1993『YAWARA!』[↩︎]
小学館、29巻328話133頁)

(武田綾乃/京都アニメーション
『響け!ユーフォニアム』3期12話24:22[↩︎])

(石塚真一 2017『BLUE GIANT』[↩︎]
小学館、10巻80話193頁)
第三に「アイドルもの」だって、例え挫折を味わい夢が潰えかけたりしても、最後には『トラペジウム』[↩︎]のように、部分的にであれ結局その夢が叶えられて終わるのが普通である。
──であれば当然ながら、以上3要素の合成である「転生系熱血スポ根アイドル漫画」だってもちろんハッピーエンドでなければならない──というのがまあ「王道」的思考であろう。
(そもそも以上の論理自体、「合成の誤謬」[↩︎]という初歩的錯誤を犯している訳だが)
しかし逆に言えば、これら個別の「王道」を教養として既に熟知している読者にして初めて、「反王道」志向の作品は正当に評価可能なのだ。
悲劇を知る者だけが喜劇を知り、喜劇を知る者だけが悲劇を知る。
──型があっての型破り、王道あっての王道破り。
◆「芸術としての漫画」とその衰滅
まあ要するに、調性音楽/モダンジャズにすら全く馴染んでいない人間が、いきなり無調音楽/フリージャズなど聞いたところでそもそも仕様が無い道理であった。
問題は、その「調性音楽/モダンジャズにすら馴染んでいない」無教養な者たち──即ち「キッズ」の集合が、一個の作品を「駄作認定」する力を今や手にしてしまったことにある。
つまりは、TEZUKAやOTOMOを筆頭とするレジェンドたちの業績や『ガロ』文化その他によって夙うの昔に定着したはずであった、「漫画を芸術作品として読む」という知的スタイルの権威が、今や失われつつあるのだと言えよう。
(批評家気取りの【推しの子】アンチキッズどもの内で、まあ最低限の一般教養として、『アドルフに告ぐ』[↩︎]や『AKIRA』[↩︎]や「ねじ式」[↩︎]ぐらいは読んでいる者が一体どれだけいるだろうか?)


こうした文化的反知性主義が蔓延した原因としては、まあ退屈な一般論にはなるが、広告産業の肥大化に伴う情報の無料コンテンツ化、
情報産業の高速化に伴う単位情報あたりの価値の低減、
動画コンテンツと電子書籍(殊に無料スマホマンガ)の普及による静止画像情報の相対的軽視化……などがまず考えられよう。
がしかし結局のところは、「ネットがキッズの発言力を不当なまでに増大させてしまった」──この一点に尽きるかと思う。
早い話、【推しの子】バッシングの急先鋒を担った有象無象の年齢不詳低脳キッズども(ピュアキッズ、情弱キッズ、✞ヴァージンキッズ✞...etc.)は、
例えばこれが70年代であれば、サブカルの言論空間において一体どれだけの発言力を有し得ただろうか?
もちろん、知識人気取りの頭でっかちバカがメディアに「有識者」と祭り上げられ、何故だか知らんがいつの間にか不当に強い発言力を有してしまう──そんな現象はいつの時代にもあり得る。

しかし彼らはいずれバカには相違無いにせよ、ともかく知識や判断力は一応人並み以上に持っている場合がまあ無いことも無いので、
正真正銘のバカキッズがバカキッズ集団の内から無作為抽出され、これに問答無用で発言力が賦与されてしまう──といったもう滅茶苦茶な事態とはやはり訳が異なる。
がしかし、ネットはこの「滅茶苦茶な事態」を可能としたのである。
無論、バカキッズ一人一人の声はそれ自体では小さい。
されど歴史が明瞭に語る如く、大衆とは常に愚かであり、常に凡庸なものだ。
ここにこそ、夢の直接民主主義──「素晴らしき新世界」[↩︎]が到来するのであった。
つまりは、凡庸な知性と凡庸な感性と凡庸な正義感と凡庸な倫理観に満ちた凡庸な大衆こそ、この時代の「信ずべき世論」[↩︎]なのだと言えよう(特に第2章参照[↩︎])。
筆者はこうした現象を、仮に「文化的キッズポピュリズム」と称する₍₄₎。
──かくして、「芸術」は今に死に絶えるだろう。
何故なら「世論」とは「凡庸」の同義語であり、「凡庸」とは「芸術」の対義語であって、
故にエリック・サティ然り、パブロ・ピカソ然り、岡本太郎然り──古今の文化史に名を刻む芸術は常に、大衆と「王道」への怒りと反逆から生まれて来たのだから。
「今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない」
講談社、初出1954年、80頁[↩︎])

◆「反王道」と芸術的憤怒
そして【推しの子】もまたやはり、こうした「怒り」に終始貫かれた物語であったのだ。
「炎上」への怒り、「伝言ゲーム」への怒り、そして「運命」への怒り。
それらは結局、明確で具体的な報復対象を持たないという点で、無定形な「悪」そのものへの遣り所なき怒りに収斂する(第6章参照[↩︎])。

この怒りは正しく、アクアが15年に亘ってその激甚なる腐食作用に耐え続けた、あの遣り所なき復讐心の酸にこそ等しかろう(第7章参照[↩︎])。

であるから、「恋リア篇でのあかね炎上事件を通じた作者のSNS批判が、結局何を言いたいのかわからない」だの、「ただ漠然とネット世論への文句を言っているだけで、具体的な解決策が示されていない」だのといった非難は的外れもいい所である₍₅₎。
そもそもカミキが象徴するような無定形なる悪に対して、人間風情が一体如何なる「解決策」などを考え得ようか?
一個の人間に、また一人のクリエイターに出来ることなど所詮はただ一つ──ただ静かに、どこまでも個人的な「怒り」を表明し続けることだけなのだ。
然るにこの「怒り」という隠れた主題を見抜けないと、
「【推しの子】は人間讃歌を目指して失敗した駄作だ」
「あのバッドエンドは、作者による逆説的な『生命尊重』のメッセージだ」
──だのといった、まあ心底バカげた恣意的誤読を犯すことになる訳であった₍₆₎(第4章参照[↩︎])。


(『呪術廻戦』9巻76話110-1頁)
結局、一般に「反王道展開」に対してキッズ読者どもが見せるあの激烈な反発と嫌悪は、
「王道」という名の凡庸でリアリスティックな「常識」を、理解不能のフィクショナルな「怒り」によって揺るがされ、侵され、覆されたことに対する反射的・無意識的な防衛機制の表れである──とでも総括できよう₍₈₎。
(さながら、画面の中の憎たらしい悪役に対して本気で「怒り」狂う、純朴にして哀れなる餓鬼どもである)
かくして現代にあっては、時代と常識と伝統に挑戦する真に優れた作品は、凡庸と安逸と退屈をこよなく愛する衆愚の手により漏れ無く葬り去られる。


──その後にはただ、大衆という名の「純粋悪」に反逆し、
必然的に抹殺されたものが確かに存在したという事実と記憶だけが、
忘却の冷たい海中に沈み、歴史の暗い泥中に埋もれて、
丁重にして思慮深い両手によっていつの日かまた掘り出だされ、
あの静謐なる月の光を浴びて再び甦えるその時を、
闇の中で独り静かに待ち続けるだけ──ただそれだけなのだ。

🔷 結論
では以上全8章の議論よりただ一つ、筆者は次の結論を導く。
結論:
漫画【推しの子】の完結に伴ういわゆる「炎上」は、
極めて優れた文化的コンテンツが、ノイジーマイノリティを形成する低リテラシーの一部読者(キッズ)によってネット上で暴力的に貶められ、
一方的に「駄作」のレッテルを貼られるに至った悲劇的事例の一つであった。
他のクリエイターやその出資者、そして何より良識ある知的なコンテンツ消費者らがこの造られた「炎上」の既成事実を鵜呑みにすれば、
低リテラシーキッズによる暴論が支配する文化空間──即ち「文化的キッズポピュリズム」の世界が早晩成立しかねない。
そのような事態は決して有り得ぬと筆者自身は信ずるが、
しかし万が一にも【推しの子】アニメ3・4期において不必要な原作改変が行われ、原作の極めて優れた表象が「キッズに迎合する」というただそれだけの為に損なわれるようなことがあったならば、
それは日本が世界に誇るべき漫画文化の領野へと向けて、文化的キッズポピュリズムが進軍して迫る跫音の嚆矢となるだろう。
🔷 あとがき
◆「くたばれノイジーマイノリティキッズども」とSutarelaSは言った
無理なんだよ
— 『【推しの子】』TVアニメ公式 (@anime_oshinoko) November 4, 2025
奇麗でまっすぐにこの世界で売れるなんて
━━TVアニメ【#推しの子】━━
第1弾PV&メインビジュアル解禁
ED主題歌「#セレナーデ」#なとり
1/14(水)全国30局以上にて放送
ABEMAほか各配信サイトにて配信
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▼第1弾PV▼https://t.co/BPQEoLX2yy pic.twitter.com/LBpA2XLD4r
遡ること1ヶ月前の2025年11月4日21時(日本時間)、待望の【推しの子】アニメ第3期1stPVが公開された。
その各種コメント欄が忽ちわらわらと押し寄せた蛆虫キッズどもによって、
「今最も大胆なアニオリエンドが求められてるアニメ、それが【推しの子】」
「原作改変とアニオリをいっぱいやってくれ」
「このレベルの有名作品でアニオリが望まれるとか前代未聞だろ」
「このまま原作通りにやると十中八九せっかく育て上げたコンテンツパワーが死に絶えるの目に見えてるし、今こそアニオリ展開を頼む」
「有馬かなのスキャンダル編と死体ビンタを消してくれ」
「Let the anime drastically alter that awful ending!」
「赤坂明真你妈傻逼,写的什么狗屎」
「오리지널 엔딩 진짜 내라ㅋㅋ」
──などといった無知無能以外の何物も露呈せぬような低劣卑俗極まる大同小異の罵言・妄言・狂言(from インターナショナルバカキッズ連合)で埋め尽くされ、驚くなかれ、これらに怒涛の高評価が付き始めるのは間も無くのことであった。
(なお、筆者による原作絶対護持マジレスコメは一瞬で流され消失した笑笑🥺🥺🥺🥺)
それまで「いやいや……【推しの子】アニメ化スタッフはバチクソ有能やし、1期EDとかから散々あの結末へ向けての伏線入れとるから、流石に原作尊重しとくれるやろ……」と割に安心していた筆者はこれを見て、
「これはいよいよやべぇかもしれんぞ……」と俄かに恐ろしゅうなったのである。
何しろキッズは声がでかい。
上のコメ欄の如く、一瞬にして強力なノイジーマイノリティを形成してしまう。
何も知らぬ純朴なアニメ勢などは、この圧倒的多数派意見感にあっさり騙されてしまうのだ。
「頭の弱いキッズほどよく吠える」とはよう言うたものである。
(「『アニオリ希望』とさえ書けばもう自動的にいいねが付くから、キッズによる承認欲求充足の為の道具になっている」というフェンリス氏の指摘は全く正しい。「20XX年にまだ見てる人いる?」みたいなもんである)
そして4期にて当然ながらそのまま描かれるべきあの結末には、
それがアホキッズどもの扇動と切り取りとに起因するものであったとはいえ、ともかくも「一年前に炎上した」という既成事実が現に存在するのである(第2章参照[↩︎])。
例えアニメ制作陣が原作エンディングの価値を重々認めていたとしても、
わざわざ再炎上を起こすリスク(まあ十中八九はそうなるだろう、炎上大好きアホキッズが死に絶えることなど無いのだから)と、
無難な原作改変(例えば死体ビンタシーンのみカットとか…)によってそれを穏当に回避しようとするメリットとの勘案から、
製作委員会によって一体どんな結論が出されてしまうやら、筆者はいよいよ不安になって来たのであった。
何せ「アニオリ展開にしないなら動画工房の作品は二度と観ない」などという、如何にも自分を中心に世界が回ってると確信しているキッズらしい脅迫まがいのおバカコメントですら、マジのガチで結構存在するのである。
(そもそもアカ先生・メンゴ先生は連載中、こうした世界中からの脅迫・人格攻撃に耐え続けてとうとうあそこまで描き切った訳だが)
「世界の全てが自分の思い通りになるはずだ」という無邪気な確信──それがキッズクオリティ。
◆「立ち上がれサイレントマジョリティたちよ」とSutarelaSは言った
そうしたキッズ特有の無邪気さ故の強さに比して、原作擁護論者の声は押し並べて余りにも小さい。
たまに見掛けても「わいは原作も悪くないと思うけどな~」といった何とも消極的かつ弱気な言であり、従って高評価もインプレッションもさっぱり付いていない。
するとやはり、原作擁護論は絶滅危惧種の少数意見なのだろうか?
──断じて違う、と思うのだ。
あの比類無く美しい結末のエモさ、儚さ、切なさ、名状し難さを、正当に理解できる知性と感性とリテラシーを有した人々は、
「サイレントマジョリティ」とまで言えるかはわからないが、確かに相当数存在するはずなのである。

(3巻27話119頁、1期7話)
ただ各種SNSからは事実上撤退していて、ブログもnoteも書いておらず、YouTubeは普通に観るけれどもコメントはほぼしない、Amazonレビューなども全く書かない……
──そういった、そもそもネット空間での「発言権」を事実上持たない人々(普段の筆者がそうだ)にこそ漫画リテラシーの高い人々は多いのではあるまいか?
或いは、そうした人々は例え発言権自体は有していても、こういった面倒くさい論争に敢えて関わるのは避け、
せいぜいが「いうて原作もそこまで悪くないんじゃない?」という程度の甚だ消極的な発言しかしないのではないか。
ひとえにそれ故にこそのこの異様な静けさなのではないか──と、そう思われたのである。
従って本稿は一貫して、故意に "少しだけ" 攻撃的な調子で書いた。
愚かなアニオリエンディング論を叫ぶ低脳低リテラシー無知無感性無教養情弱キッズどもは、ただその存在自体が不愉快であるのみならず、
日本の(つまりは世界の)誇るべき漫画・アニメ文化を至って無自覚に、しかし確実に劣化・俗化・退化させて行くであろう、最も有害なる集団悪の権化にして人類共通の敵である。
こんな正真正銘のクズどもは、幾ら罵ろうが罵り足りるものではない。
ドイツの俚諺に言う如く、「劣悪な丸太には劣悪な楔が相応しい」のだ。
また吉祥寺先生のお言葉を借りれば、

──よって、「こんな言い方したら傷付く人が出るとか思わないんですか?😡💢」みたいなカスリプコメは等しく無視するので悪しからず。
……とは言え以上の経緯にも関わらず、元より本作アニメ制作陣のことは完全に信頼しているものの、仮にアニメ3・4期の脚本がどうなろうとも、
この極めて優れた芸術作品に対する最大級の讃辞と、それに向けてこれまで放たれて来た不当かつ蒙昧なる非難と罵倒に対するささやかな反対弁論とを一度表明したい──というのがやはり本稿執筆の主目的であった。
まあ要するに、かくも良質な芸術作品が、度し難いバカどもによって好き放題に罵られ続けている様にただただ我慢がならなかった訳である。

結局、筆者の最大の失策は、1年前(2024/11/14)の原作完結当時直ちに本稿を記さなかったことであろう。
もちろん1年前から筆者は既に、アンチキッズどもの唾棄すべき所業にはほとほと業を煮やしていた。
が、如何せんnoteを含めSNSの類を一切やっていなかったので、
この程度のごくごく無難な総評的作品解釈(≠ 考察₍₉₎)程度であれば、わざわざ浅学菲才の筆者などが書かずとも誰かがすぐに書いてくれるだろう──と強いて自分を納得させ続けておったのである。
そして豈に図らんや、そんなものは事実上誰にも書かれぬまま遂に1年後の今日にまで至ってしまった訳であった₍₁₀₎。不覚。
◆ おわりに
……さて、偏に怒りに任せて4週間で書き殴った計10万余字であるから(ド長文noteばっかでごめんなのだ🐹)さぞかし粗漏も多かろうが、
しかし少なくとも上記の至上目的ただ一つだけはともかくも達成し得たものかと愚案する。
誤植・事実誤認・出典表記ミス等の不備がもしあれば、お手数ながら各記事へのコメントにてご指摘頂けると大変幸いである。
(論旨そのものへの感想・疑問・批判・反論等もまた、もちろん大歓迎です。正直コメント皆無で割に虚しいのだ🥺)
────────
──では末筆ながら赤坂アカ・横槍メンゴ両先生に対し、世界漫画史上に間違い無くその名を刻むであろう珠玉の傑作をこの世に生み出して下さったことにつき、心より感謝を申し上げたい。
アニメ4期最終話にて完全に原作通り、あの「嘘つき…!」(CV:潘めぐみ)が聞ける日を切に待ちつつ……
了

(沙村広明 2009「シズルキネマ」
『シスタージェネレーター』[↩︎] 講談社、119頁)
──補論篇へ(もう少しだけ)続く──
◇ 註(Notes)
(1)なお既に序論にて断っている[↩︎]通り(またこれまでの文脈上も明らかな通り)、ここに言う「キッズ」とは年齢・性別・国籍不問の「幼児並みのリテラシーしか持たない人々」の集団を指す。
(2)尤も、死滅回游篇そのものに破綻が全く無いとまでは言っていない。設定上の矛盾点こそ特に見られぬものの、展開上割にスベってる所は正直ちょいちょいあると思う。(まあ23-4巻の米軍の下りとか…でもこれなどは、単行本幕間作者コメで「描ける!と錯覚してしまいましたすいません」って具合に十分自己批判されてる [23巻26頁] から…)
──がしかし言うまでも無く、26歳から(26歳からやぞ?)始めた6年越しの週刊長篇連載で一切の破綻無く物語を紡ぐなど、元より人の子の能く為すところではない。
かるが故に、独り「渋谷事変以上に脳汁ドバらせる第二部15巻分のネームを俺は絶対に描ける。もし描けなければ集英社ビルの玄関先で切腹してやるぜ」という不退転の縛りを自らに課せられる者だけが、芥見先生に石を投げよ。
(3)ここでは一点だけ、大筋の展開よりもディテールに関わる「反王道」要素として、死者の取扱いを挙げておきたい。
既に見た通り【推しの子】においては、「主人公の死後遺された者たちの心理描写が不十分である」という完全に誤った主張が、その駄作説の根幹に存在した(第6章参照[↩︎])。
同様に、作中でのメインキャラクターやサブキャラクターが死亡した際に、他の登場人物らが明確で強意的な悲嘆の感情を特に示さない例は、やはり『呪術廻戦』と『アイアムアヒーロー』にも顕著に見られるのだ。
即ち、『呪術廻戦』であれば天内理子や夏油傑死亡時の五条悟、また七海建人や釘崎野薔薇や五条悟 死亡時の虎杖悠仁。
『アイアムアヒーロー』であれば黒川徹子や小田つぐみ死亡時の鈴木英雄。
無論、それぞれの死に際して彼らが幾許かのショックを受けたという描写自体は存在するものの、如何にも少年漫画的な「大切な仲間の死」というお涙頂戴の愁嘆場にしても、また彼らがそこからどうやって「立ち直った」かの過程にしても、等しくほぼ描かれていないと言ってよい。
それらは第6章にて述べた通り[↩︎]、彼ら遺された者たちが本当は「立ち直る」ことなどできなかったのだが、しかしともかくも「立ち直った」ことにして生きていくしか、戦い続けるしかなかったことを明瞭に暗示する演出である。
──がしかし、全てをセリフで説明してくれるお子ちゃま向け少年漫画に慣れ切ったキッズどもの濁った目には、これらの高度な演出が押し並べて、「心理描写が雑過ぎる」「説明不足」「これ打切りだろ笑」…云々としか映らぬのであった。哀れ。
(『チェンソーマン』のデンジによる、実に王道派主人公らしからぬ以下のセリフと比較せよ。「マキマさんが死んだら……多分俺ぁしばらくヘコむけど...…3日後にゃあ楽しく毎日を過ごせると思うな。だって…朝昼晩食って寝て風呂入れりゃ俺、最高だもん…」[4巻29話78頁])
(4)「文化的キッズポピュリズム」とは、筆者がいま5秒で作った造語。めんどくさいから厳密な定義はしない。(意味としては、オルテガ・イ・ガセットの言う「幼児性主義」に近かろう。Ortega y Gasset 1930, 𝐿𝑎 𝑟𝑒𝑏𝑒𝑙𝑖𝑜́𝑛 𝑑𝑒 𝑙𝑎𝑠 𝑚𝑎𝑠𝑎𝑠[↩︎], chap.15, para.5)
なお "Cultural Kid-Populism" という英語ver.を見ての通り、語構成は「文化的-キッズポピュリズム」です。言い換えれば "Kid-Populism in Culture"。間違っても「『文化的なキッズ』が担うポピュリズム」の意じゃありませんよ。(んな幸福なポピュリズムがあってたまるか)
(5)GEMNとの対談(23:02)[↩︎]でのメンゴ先生による、「『[善でも悪でもない] グレーゾーンを上手くサヴァイヴしてね』っていうメッセージがあるよね。[赤坂]アカの漫画には」との発言参照。
(6)夏木バジル氏による最近のnote「『ルックバック』考察 ~二人はなぜすれ違ったのか~」[↩︎]などもまた、同様のバカげたヒューマニズム的誤りを犯している。
総じて噴飯ものの【推しの子】論(「シュレディンガーのミヤコ」説w[↩︎])と併せ見るに、夏木氏は何でもかんでも道徳の教科書レベルの低俗な美談や教訓譚に仕立て上げるのがお好きのようである。
しかしながら、もちろん『ルックバック』[↩︎]は「美談」でも「教訓譚」でもない。ただ不可知で不可避で不可逆的な運命に翻弄される者たちに捧げられた、怒りと悔恨と諦念──そして祈りの物語なのだ(実に反王道志向の作品と言える)。
故に、「藤野は、京本に画力の高さを自覚させることを怠」っただの、
「美大以外の選択肢や東京の美大を選ぶなどの方法で、お互いに歩み寄ることによって、かろうじてコンビを継続する道もあったかもしれない。そうすれば──京本は事件に巻き込まれずにすんだかもしれない」
──だのといった、藤野と京本が「あの時どうす "べき" だったか」という無責任で上から目線の問題設定そのものがナンセンスも甚だしい。
…尤も、あいにく藤本タツキ作品についてここで本格的に論ずる暇など無いし、夏木氏のそのお花畑な脳味噌だけはどうせ今更どうしようもあるまいから、慈悲の心を以って敢えて何も申し上げぬこととする。しかしまずは最低限、同作者の『ファイアパンチ』[↩︎]と『さよなら絵梨』[↩︎]ぐらいはご熟読になってから出直されるが宜しかろう。
なお、飽くまでも筆者の想像であるが、【推しの子】原作の赤坂アカ氏は「人間」や「生命」などというものを本心では寧ろ憎悪しているタイプのクリエイターではないかと思う。こうした本質的に厭世的・虚無的な作家性は大抵、ヒット作・代表作よりも初期作を見た方がよくわかる。本章にて言及した作家で言えば、赤坂アカなら『ib -インスタントバレット-』[↩︎]、花沢健吾なら『ボーイズ・オン・ザ・ラン』[↩︎]、藤本タツキなら上述の『ファイアパンチ』に加えて「予言のナユタ」[↩︎]。
特に藤本タツキについては、沙村広明との対談[↩︎]における以下の遣り取りが参考になる。
藤本:「僕の作品は、ひと通り漫画読んで飽きた人が読んでいる気がします」
沙村:「そうかもしれないですね。王道に飽きた人ですよね」
他には宮崎駿などもそうだが(「時々、人間文明の全てを滅ぼしてやりたくなる」みたいなことを『出発点』[↩︎]だか『折り返し点』[↩︎]だかで書いてたはず)、こうした人間性と人間文明一般への絶望と怒りは、いつの時代においても「反王道」を志向する創作者に共通する性格であろう。
(7)この「第百六十四話 終幕」のカット(16巻164話218頁)では言うまでも無く、月とスマホの灯りと柵と水平線が十字架を暗示している(西洋美術では常套手段)。もちろん、この日がクリスマスであったことも全く偶然ではない。(「有馬かな」=「マリアかな?」のアナグラムと比較せよ)
(8)ブルデュー曰く、
「趣味(表明された嗜好)とは、避け難く生ずる差異に対する実際上の肯定である。その趣味が自己を正当化せねばならない時、『他の趣味に対する拒絶』というネガティヴな形式を取るのは全く偶然でない。趣味に関しては、他の如何なる場合におけるよりも、あらゆる決定は即ち『否定』を意味する。そして恐らく、趣味とは何よりもまず嫌悪なのだ。つまり他の趣味(他者の嗜好)に対する嫌悪感や生理的不寛容(『吐き気がする...』)のことなのである。[…] その結果、他の趣味は自然に反するスキャンダルとして拒絶されることになる。こうした美的不寛容は、恐るべき暴力性を伴う」
(Pierre Bourdieu 1979, 𝐿𝑎 𝑑𝑖𝑠𝑡𝑖𝑛𝑐𝑡𝑖𝑜𝑛: 𝐶𝑟𝑖𝑡𝑖𝑞𝑢𝑒 𝑠𝑜𝑐𝑖𝑎𝑙𝑒 𝑑𝑢 𝑗𝑢𝑔𝑒𝑚𝑒𝑛𝑡 [↩︎], Paris: Les Éditions de Minuit. pp.59-60)
(9)本連載には便宜上「#推しの子考察」タグ付けてますが、一貫して「考察」というよりは「解説」のつもりで書いております。つまり「普通に読んだらまあこういう理解になるよね?」という必要最低限のことしか原則述べてません。(まあ多少「独自解釈」と言えなくもないのは、第2章後半の死体ビンタ論[↩︎]と、第7章のアクア心理分析[↩︎]くらいかな)
なので、上述した夏木バジル氏による妄想まみれの自称「考察」[↩︎]なんかとは一応はっきり区別して頂けると幸いです。
(10)「筆者の管見の限りまだ存在しない」ってことです。「総評」ではなくより各論的なものだと、noteであればひさし氏による一連の記事[↩︎]が最も優れている。
なお本稿執筆に当たって、【推しの子】の原作を主題に扱った膨大なnoteのうち、完結からこれまでに書かれたものはもう片っ端から読んだ。少なくとも完結後の投稿で最低限「 #推しの子 」タグが付いてるのは、スパム記事の類を除きほぼ全て読んだと思う。(一体いくつ読んだろう? 300から先は数えてない)
──がしかし、作品自体の総評として概ね妥当なことを言っていたのは、僅かに本アカウントで高評価してあるもの(10記事余り)[↩︎]だけであった……マジで。ちょっと酷すぎやしないか。(優れた記事で読み落としてるのがあったらすんません🥺)
で、目立ってよく読まれ、また高評価もされているnoteは、典型的な「私、ちょっと哲学と心理学と社会学かじった人です❗️」的語法で、まあ内容空疎なことをダラダラと書き連ねているだけのゴミ記事ばかり。つまりは「【推しの子】はオイディプスモチーフだ!」[↩︎]とか「【推しの子】は母胎回帰モチーフだ!」[↩︎]みたいなもう2秒で終わるようなサルでもわかる結論を、ロードローラーで延々引き延ばしました──みたいなペッラッペラの駄文揃いである。これは酷い。
……とは言え、これらのゴミは次回の補論1[↩︎]にて思う存分ぶっ叩く予定なので、今はまだ敢えて特に名指ししないでおく。今はまだ、な。
(サムネイル:アニメ2期21話9:18[↩︎]のMEM氏に加工)
