【第7章】原作【推しの子】完全肯定論:「心理描写が雑過ぎる説」の検証②(アクア篇)
In Defense of the Manga 𝑂𝑠ℎ𝑖 𝑛𝑜 𝐾𝑜:
The Definitive Refutation of Its So-Called Failure
【Chapter 7】
The “Too Sloppy Psychological Descriptions” Claim (II):
Aqua
🟥 本章の要約(Summary of This Chapter)
【推しの子】第二部において主人公たるアクア・ルビーの心理が直接的にはほぼ描かれなくなったことは、当該作の心理描写が「雑」であるという通説的批判の一根拠となっているが、
実のところこれは作者による全く意図的な演出であり、かつそもそもごく定番の表現技法であった。
また、当該作がいわゆる「転生もの」であることにのみ注目し、転生後のキャラクターのパーソナリティを単純に転生前の年齢と合算した「精神年齢」に基づいて評価し、以って「実質もう50近いおっさんのラブコメとかキモすぎw」などと切り捨てる非常にありがちな批判は、
発達心理学的・SF的知識の致命的欠如に起因する極めて幼稚な誤りである。
総目次(全11回)
【序論】原作【推しの子】完全肯定論[↩︎]
【第1章】有馬かなバッシングと処女性信仰①──絶望の枕営業篇[↩︎]
【第2章】有馬かなバッシングと処女性信仰②──愛の死体ビンタ篇[↩︎]
【第3章】「矛盾だらけ説」の検証──特に心中事件の時系列矛盾説について[↩︎]
【第4章】「未回収伏線だらけ説」の検証①──結末篇[↩︎]
【第5章】「未回収伏線だらけ説」の検証②──総合篇[↩︎]
【第6章】「心理描写が雑過ぎる説」の検証①──ルビー・有馬・あかね・カミキ篇[↩︎]
【第7章】「心理描写が雑過ぎる説」の検証②──アクア篇(本ページ)
【最終章】結論──文化的キッズポピュリズムとの闘い[↩︎]
【補論1】雑多なバカ批判を手短に論破する①──対人戦の部[↩︎]
【補論2】雑多なバカ批判を手短に論破する②──対AI戦の部[↩︎]
(外伝:【推しの子】アンチスレに凸ってみた結果…[↩︎])
(⬆︎前回)
🔷 アクア・ルビー・エレン──読者を「突き放す」主人公たち
◆ 作劇技法としての心理的「突き放し」
「推しの子でガッカリさせられたのは、主人公を絶体絶命の状況に追い込んで、さあここから大逆転劇だ!どうやって乗り越えるんだろうってお膳立てしたところで、作者がその策を思いつかなかったのか何の捻りもないまま物語閉じたって感じだったな」
──上に某所コメント欄から引いたのは、本作の結末に対する極めてありがちな批判の例である。
本章ではまず、この主張が果たして正当であるのかを検討したい。
なるほど、カミキ殺害時のアクアの行動には確かに杜撰さが目立つことには前章[↩︎]でも触れた。
しかしこのこと自体は、
(1)ハッピーエンド匂わせ(154-7話)後のペリぺテイア(前章参照[↩︎])をなるべく急転直下で行わねばならず、絶対にダラダラさせられないという作劇上の必要
(2)現実的な残り話数との兼ね合い(正確に全166話で終わらせる予定だったと思われる₍₁₎)
(3)何よりアクア自身が全てを平和的に終わらせることを(そして晴れて自分自身の人生を歩むことを)心底望んでいたので、その希望がニノのルビー襲撃によって潰えた際にはいよいよ冷静に考える余裕を失ってしまった
──以上3点から十分納得できよう。
しかし、特にこの点がアンチによる「悪質な逆張り説」(第3章参照[↩︎])の強い論拠とされるに至ったのには、また別の理由があった。
第一部ではそれなりに描かれていた主人公たるアクア(とルビー)の心理が、第二部ではほぼ間接的にしか描かれなくなったことである。
(宮崎旅行以降アクアが有馬から露骨に距離を置いていた理由の説明が、彼自身の独立したモノローグによってではなく、下のようにわざわざ狂言回しのMEMちょを介して間接的に為されているのがその典型)

「原則、主人公の心理を言語化して説明しない」というこの第二部特有の演出方針(もちろん画力ある漫画家だけに許される高度な技巧₍₂₎)が、あの結末部に至るまで完全に貫かれたが故に、
「アクアはもうヤケになって、何も考えずカミキに特攻した」
「さっさと完結させたい作者が、アクアの心理を考えることを放棄した」
「いや、そもそもアクアの心理描写は始めから意味不明だった」
──などと、完結後一年経った今日まで散々に言われ続けている訳である。
しかし例によって結論から言えば、「それまで読者を大きく感情移入させていた人物の心理を、或る決定的な場面より以降は全く描かなくすることで、読者を "突き放す"」──というのは元よりド定番の作劇技法なのだ。
『進撃の巨人』の中盤で、メインキャラクターたちが願い叶って「海」を見て以降、やはり主人公であるエレンの心理がまるで描かれなくなる例などがわかりやすいだろう。

(諫山創 2020『進撃の巨人』講談社、31巻123話29頁)
『進撃の巨人』でも物語の構成上、「海」を見る前と後とで第一部・第二部に分けられていると看做せるから、いよいよ【推しの子】の場合と事情が似ている。
つまりエレンにとっての「海」が、アクア(とルビー)にとっては自らの死体だったのである。
それは夢の終りであり、現実の始まりであった。
彼らの本当の復讐はここから始まるのだ。

(諫山創 2017『進撃の巨人』講談社、22巻90話185頁)

(【推しの子】8巻77話132頁、2期23話[↩︎])
そう、もはや全てを捨て去り、常識や良識で理解されることなど放棄してしまった彼ら復讐者に、どうして「理解」される為の「心理描写」など必要だろうか?
……が、それをキッズは許さない。
「こんなに感情移入してたキャラにいきなり突き放された❗️ 悲しい‼️ 傷付いた‼️ 許せない‼️ だからこれは駄作確定だ‼️ おぎゃあおぎゃあ、バブバブおぎゃあぁぁ~~~🍼👶🍼👶🍼👶」
◆ なぜキッズは『進撃の巨人』を「駄作認定」しなかったか?
さて、『進撃の巨人』は物語構成上の類似の他、【推しの子】同様、いわゆる「メリーバッドエンド」であるという大きな共通点を有している。
が、少なくとも第二部においてエレンの心理を隠した点が「欠陥」として批判されることなどまずあるまい。
この違いは一つには、皮肉にも【推しの子】(『週刊ヤングジャンプ』)と『進撃の巨人』(『別冊少年マガジン』)とのそれぞれの本掲載誌が想定する「購買層」に反して、
寧ろ前者における「読者層」の平均精神年齢・読解力の方が致命的に低かった──という悲劇によるものであった。
これはもちろん、【推しの子】が『少年ジャンプ+』において、本誌連載から1週間遅れで無料掲載されたことに専ら起因する₍₃₎。
(「【推しの子】は少年漫画である」という根強い誤解もまたここから来ている)
であればこそ特に【推しの子】の場合、第二部に至って物語がキッズには理解不能な領域に突入した途端、彼ら乞食キッズ読者どもは手の平を返したのであった。
しかし、相違点はもう一つある。
【推しの子】第二部と比べて、『進撃の巨人』第二部がキッズ読者・キッズ視聴者を置き去りにする度合いが小さかったのは、
後者が主人公としてのエレン退場後、ミカサ・アルミン・ジャン・コニー・リヴァイ・ハンジといった馴染み深い(つまりはマーレ側でない)人々を事実上の準主人公格へと比較的スムーズに据え得た為であろう。
多くのキッズ読者が連載当時唖然としたであろうマーレ篇(23-5巻)さえ抜けてしまえば、ともかくも明確な「読みの視点」が定まってくれた。
これだけでもうキッズは安心できるのである。
(最終話までにガビさんというキャラクターに感情移入できたキッズが、一体どれだけいるだろうか?)


憎むべき「敵」であるガビさんに感情移入などできないので、
彼らにとってマーレ篇はただの長い長い拷問となる(同185頁)
一方で【推しの子】第二部は、そうした安易な「読みの視点」を定めてくれる存在──謂わば「手頃な推し」を欠いていた。
(……とキッズは遍く思った)
信頼していた主人公アクアへの感情移入がもはや(彼らには)困難となるに至り、孤独なキッズたちを慰めてくれるであろうキャラクターの候補としてはもちろん、まずルビー・有馬・あかねの三人がいた。
しかしルビーはゴローせんせの復讐を誓った後はいわゆる「闇堕ち」状態で、心理が直接的にはほぼ説明されないし、
有馬はスキャンダル篇の展開に発狂した✞ヴァージンキッズ✞どもによって一方的にオワコンの烙印を押されてしまっている(第1・2章参照[↩︎])。

(アニメ3期相当)を嫌うのは、
彼らのいわゆる「闇堕ち」によって
安易な感情移入を拒絶するようになった
ルビーに対する一種の女性恐怖症ゆえでもあり、
処女性信仰に基づく有馬バッシング(第1章参照[↩︎])
と表裏を成している(8巻79話68頁、2期24話[↩︎])
一方のあかねには格別そういうネガティヴな要素は無かったものの、第二部ではいよいよ人界を超越した全知なる聖母みたいな存在へと進んでしまった為、
年甲斐も無くバブりたいおぢさん諸氏による人気は依然高かったものの、思春期キッズが堂々と推す対象としては少々気恥ずかしいキャラクターになってしまったのだ。
(『チェンソーマン』のマキマと比較せよ。前章参照[↩︎])
……そして誰もいなくなった。
かくして、物語に「突き放される」ことに全く慣れていない無知でピュアなキッズ読者らは一切の拠り所を失い、当人には原因不明の耐え難い孤独と苦痛を味わうこととなった。
(実のところはこの孤独感こそ、一般に物語を読む醍醐味の一つであるはずなのだが)
途方に暮れた彼らはもはや、作品そのものや特定キャラクターを徹底的に全否定し、作者を人格攻撃し、「アニオリハッピーエンド希望‼️」などと顔を真っ赤にして絶叫するより他にすべきことを見失ったのである。
お゙ぎゃあ゙、お゙ぎゃあ゙ぁぁ~~~👶👶👶
◆ 憤怒の酸と嘘の仮面
さて一応付け加えれば、第二部に入ると共に一転して読者を「突き放す」こうした戦略は、もちろん作者の意図[↩︎]によるものであった。
それにより読者が味わう感情は、第二の生をアイの為の復讐にのみ捧げると誓い、その覚悟を誰にも(厳密にはあかねにさえ)決して明かさぬと固く決めたアクアが、
あの日から最期の時に至るまで絶えず噛み締めて来たであろう途方もない孤独にこそ、僅かなりとも類似していよう。
ルビーとアクアは等しく、アイの「嘘吐き」としての才能を継いだ。
アイドルとしての嘘の才はルビーに、役者としての嘘の才はアクアに。
であってみれば、アイの神性を継承する者たるべく "正当に" 転生したのはそもそも妹のみであり、
一方、飽くまでも特例中の特例として「生まれ変わりなんて "ズル" を神が許した」だけに過ぎぬ平凡な兄の存在意義など初めから、
「純粋悪」からの庇護者として彼女に全てを捧げることより他にはあり得なかったのである₍₄₎(第5章参照[↩︎])。
故に、「ズル」によって一時的に生かされているだけの彼が、遅かれ早かれその役目を終えて死なねばならぬことは構成上、冒頭部から既に決まっていたのであって、
「当初の構想通りの結末になった」という作者自身の発言[↩︎]は、この点にもまず当て嵌まると素直に解すべきである。

「そう、これこそが君の『使命』だったんだよ」の意
(16巻162話282頁)
従って、「あの結末はハッピーエンドへの読者の期待を裏切る為だけの唐突な『逆張り』だ」などというお定まりの非難は、100%不当なる言い掛かりなのだ。
そう、「唐突」でもなんでもない。
アクアは終始、我が身を焼く復讐心の酸をその掌から零すこと無く、
その顔を蝕む嘘の仮面を一時も取り除けること無く、
終始一貫した意志と決意の下、完璧に嘘を吐き通した。
その一環として、例えばあかねのことは「復讐の為に利用しているだけだ」と繰り返し自らに言い聞かせ、
また有馬についても、「自分は彼女に対し故意に思わせ振りな態度を取って、やはり復讐の為の道具としていいように弄んでいるだけだ」と自己暗示を掛け続けることによって、
「最悪の場合はカミキと差し違える」という自らの覚悟を決して揺らがせぬように──つまりは、間違っても「やっぱり生きたい」などと思ってしまわぬように絶えず努めたのである。


その嘘が唯一綻んだのは正しく最期の瞬間、彼が感じた一抹の──実にただ吹き出し二つ分の「後悔」と「生きたい」(16巻161話212頁)の思いにおいてであったが、
しかしその時にはもう、舞台の幕は下りつつあった(第4章参照[↩︎])。
こうして彼もまた、あの天性の「嘘吐き」の才を継ぐ者であったことを確かに証明したのである。
なら騙し切ってやるさ。この嘘は暴かせない。
🔷 ペルソナ・タナトス・アモルファス──生の希望と叶わぬ夢
◆ 「アクアは実質50近くのおっさん」説?
[アクアが] 実際には年齢合算で50近くのおっさんであるというのだからキツすぎる。[…] 勿論、精神年齢が肉体年齢に追い付くという謎設定があるのは知っているが、その設定のせいで主人公のキャラが崩壊し、余波を受けて周りのキャラもメンヘラ化し、ストーリーがつまらなくなったのだから何の意味もない。
上に引いたのは、3年前から今日に至るまで最も広く読まれている【推しの子】アンチnoteの一つである。(いや♡1158って…)
その内容と言えばまあお粗末なもので、「物語の構造」ということについて何一つ知らぬ思い上がったバカ中のバカが、延々知ったような口を聞いてイキり散らかしてるだけ、そんな正真正銘のゴミnote・オブ・ゴミnoteである。
……しかしまあ、この阿呆は後の【補論】にて思う存分ぶっ叩く予定であるから、今は一旦お預けとしよう。
本章ではただ一点、「心理描写が雑過ぎる説」の主要根拠でもある、この「アクアの意識とゴローの意識」問題についてのみ簡潔に論じておきたい。
即ち、果たして上のバカが言う通り、アクアの精神年齢は実質「50近くのおっさん」であり、それが本作の恋愛描写を「キツすぎる」ものにしてしまっているのだろうか?
また、「ゴローの精神年齢が次第にアクアの肉体年齢に近付く」という作中での設定は、「主人公のキャラが崩壊し、余波を受けて周りのキャラもメンヘラ化し、ストーリーがつまらなくなった」だけの無意味な「謎設定」だったのだろうか?
◆ 「魂」という幻想
ではまず、件の「謎設定」を原典に即して確認しておこう。
恋リア篇終盤にて図らずもアイ/あかねに惚れ掛けてしまい、結果として転生者としての自我の拠り所が揺らぎ始めたアクアが、あかねでもルビーでもなく有馬を誘い、学校サボってまで何故かキャッチボールをしに行く[↩︎]。
──そんな(実は物語上かなり重要な)日常エピソードにおける、アクア自身の独白が以下である。


仮にも元医師のアクア当人による以上の説明が、現実の発達心理学(特に動的システム理論やソマティックマーカー仮説)的にも、またSF(特にサイバーパンクSF)的設定としても至って理に適っているのは言うまでもあるまい。
もしこれに強い違和感を覚えるというのなら、それは発達心理学の「は」の字も踏まえない古今東西の転生ものファンタジー(『新約聖書』や仏典含む)が創り上げた、
「完全に取り替え可能な『器としての肉体』と『独立した魂』」という強固な宗教的幻想(ないしデカルト的物心二元論)に毒されている証拠である。
(アクアとルビーが前世から継承したものが、飽くまでも「魂」ではなく「記憶と意思」だけであったことは、第4章参照[↩︎])
──という訳だから、この説明を「"謎" 設定」などと問答無用で切り捨てている時点でもう、上述のゴミnote著者の度し難い無知っぷりが知れよう。
(それともこの馬鹿は、『GHOST IN THE SHELL』の草薙少佐のことも「50近くのババア」呼ばわりするのだろうか?)

識るところ童子の如く、
慮るところ童子の如くなりしが、
成人て童子の事を棄たり」
(押井守/Production I.G『GHOST IN THE SHELL』
1:26:32-45、『コリント第一書』13:11より)
◆ 自我・肉体・仮面
さて、アクアの自我形成(そしてゴローの自我 "再" 形成)において当然ながら最も決定的であった出来事、アイの死は、彼自身が上に指摘する「幼児期健忘」が終わるか終わらぬか──そうした3歳の折に起こった₍₅₎。
(繰り返すが、その当事者は決して「30前後のおっさん」などではない。発達心理学上、飽くまでも他人よりは些か知識の豊富な3歳児であった)
第4章[↩︎]でも触れた通り、彼女の死を目の当たりにした彼がその自我の根底に植え付けられたものとは本来、悲しみでも喪失感でも無力感でも罪悪感でも怒りでも復讐心でもなくて、ただ原初的な「不気味さ」だったはずである。

無論、医者としてのゴロー(の記憶)は人の死など散々見て来ていたはずなのだが、しかしこの「死」だけは格別だった。
何しろ彼女は、最期の最期までいつもの「仮面」を被ったまま死んで行ったのだから。
故に、「死に際のアイは初めて素に戻って二人に『愛してる』と言えたのだ」──という如何にも感動的な通説的解釈は、実は正しくない。
アイが本当に「素」に戻ると、眼の星が黒くなる。

それはあかねの分析によれば、アイが決して表には出そうとしなかった、その内側に燃え滾る「怒り」の表象である(13巻129話166頁)。

(14巻136話110頁)
しかしこの時、彼女の星は飽くまでも白いまま段々と小さくなってゆき、そして消えた。

その意味で、彼女はやはり最期まで嘘を吐き続けたのである。
(故に、「アイの心理が作中で全然描かれてない」などという典型的非難はナンセンスも甚だしい)

(赤坂アカ 2015『ib -インスタントバレット-』
KADOKAWA、4巻19話136頁)

アクアも気付いていた(3巻29話166頁、1期8話)
それこそあの死顔が放つ異様なまでの物質性・無機質性・非現実性──即ち不気味さの所以であろう。
アクアはそれを刻み込まれたのだ、奥深く、細胞の一つ一つまで、宿命的に。
彼の怒りも悲しみも罪悪感も、全てそこから噴出している。
ルビーのそれとは明確に異なる、冷たい仮面を被り続ける特異な才能もまたそうだ。
それはアイとカミキから受け継いだ遺伝的素質はもちろんながらも、殊にこの時の経験が強烈な後天的因子となって発現した──いや発現させられた形質であったろう。
言い換えればこの時にこそ、軽薄な女たらしにしてお人好しの雨宮吾郎は本当に死んで、後にはただ「仮面」だけが残ったのだ。
何故なら、本来アクアとなるはずの胎児に魂は宿っていなかったのだから(8巻75話96頁、2期23話)、
その肉体に急遽投げ入れられただけのゴローの魂が死んでしまっては、後にはただ無機的な仮面より他に残らぬ──また残し得ぬのも当然の道理であった。
(その後アクアの心象世界に度々現れるゴローの風貌は、如何にも亡霊だ)


成長した彼の人格に認められるあの徹底した冷淡・超然・無関心は、決して「アイの復讐を誓ったことで性格の変わってしまった雨宮吾郎の性格」だとか、ましてや「復讐に全てを捧げるべくそういった性格を演じている星野アクアの性格」などではない。
ただの仮面──ありのままに冷淡で超然的で無関心なだけの仮面なのである。
◆ ペルソナ・タナトス・アモルファス
2.5次元舞台篇で感情演技を試みた彼があれほどまで取り乱した原因は、作中では単に、アイの死を思い出してしまうことによるPTSDと説明されている。
しかしこれは、上述した仮面の比喩によってもやはり説明できるのである。
感情を直接表に出すには、誰しも仮面を外さねばならない。
普通はその下に抑圧された影が存在するものだが、しかしアクアにおいては文字通り何も無かった。
ただ底知れぬ闇だけが、空虚に、濃密に、どこまでも広がっていたのではなかろうか。
その闇に呑まれ掛けたアクアは、ただ純粋にして原初的な恐怖から、ああして我を失ったのであろう。
その無定型な恐怖が最も手頃な表象としてアイの死を選び、特にその姿を取ってアクアの意識下に具象化しただけだったのだと考えられよう。
(だから、あかねがそんな彼を「母性愛」というやはり最も原初的な安心によって咄嗟に保護したのは、極めて適切な対応であった)


彼が間も無く学んだ「自分にも可能な感情演技」の技法とは、厳密に言えば作中で説明されているような、ただ単純に「アイがあの時もし生き返っていたら?」という想像を用いたものではなかったかと思われる。
それは深淵を覆う仮面をただ僅かにずらし、忽ち湧き上がる死の欲動という闇の呼び声──「早くアイと同じ所へ行ってしまいたい」という抗い難い誘惑を、仮面の上で捉え、押し付け、変形させて、理性的仮定法の力を以って改変し、
「生き返ったアイと『同じ所で』また会う」という倒錯した設定の下で、自らの生を否定すること無くして仮想的に実現させたことにしてしまう──という甚だ込み入った過程を意味していた。



──以上のプロセスが結果として、常人にとっての「感情」を、彼の冷たい仮面の表面において模倣し得ていたのだろう。

上の極めて印象的なセリフは、もちろんアクア自身は復讐相手への「怒り」に注目して言っているのだが、
前述のプロセスが言わば自殺願望を飼い慣らす術であってみれば、「俺にとって演じる事は、"死を思い出す事" だ」と言い換えることも可能だろう。
それは単にアイの死を「思い出す」ことではなく、遠からず来るべき自らの死を予め「思い出す」ことでもあった。
仮面の下の深淵より出たるタナトスの声に従うことは、即ち自分自身への懲罰──「復讐」だったのだから。
◆ 叶えられなかった祈り
さてアイの死後、アクアが明確に生の感情を露わにしたのは、作中僅かに4回だけであったと言ってよい。
(1)2.5次元舞台での感情演技の時₍₆₎(7巻65話96頁、2期20話)
(2)「復讐相手はもう死んでいた」という生の希望を打ち砕かれた時(10巻95話)
(3)カミキへの復讐が完遂したかと思われた時(16巻154話44頁、同155話54頁)
(4)死の瞬間(16巻164話215-7頁)
(1)は既に論じた。
(2)と(3)に共通するのは、それが「これで自分自身の人生を生きられる」、つまり「もう死ななくてもいい」との希望──生の欲動が萌したり、また否定されたりした折の出来事だったということである。
(2)のアクアはその盲目性をあかねや壱護によって即座に察知されるほどに、復讐の決意に疲れ、生に飢えていた(第3章参照[↩︎])。

(3)については、アクアがビデオレターをカミキに観せた時点で、これで本当にカミキが「改心」するなどと彼がどれだけ期待していたかは定かでない。
とは言え、あの涙は単にアイの復讐をとうとう果たしたことに伴う達成感のみによってではなく、やはり(2)と共通する心情によっても流されたものだったろう。

もちろん、アクアは初めからカミキが「純粋悪」であることを正確に認識しており、彼に「後悔」も「改心」も元よりあり得ない、よってこの後やはり殺すしかないだろうとわかっていた──という可能性は十分にある(前章参照[↩︎])。
しかし仮にそうであったとしても、カミキにアイのビデオを観せながら、彼が「万が一、ひょっとしたら」を心の底で願わなかったなどとは決して言えまい。
──そう、彼はやはり願ったはず、祈ったはずだ。
俺はやっぱり死にたくない、殺したくもない、
ただあいつらと一緒に普通の人生を生きたい、
生きたいんだ、
だから生かしてくれ、殺させないでくれ、
もう後悔も反省も贖罪もしなくていい、
だからただ余計なことだけはしないでくれ、
そのままここから立ち去って、
二度と俺たちの前には姿を現さないでくれ、
頼む、ただそれだけでいいんだ、
だから──────────と。
その切実な祈りが、彼にあの涙を流させたのではなかったか?


そして、その祈りは受け容れられなかったのである。
◆ 仮面の下

(4)──その最期の瞬間に至って初めて、
彼は「仮面」を外せたのだろう。
それは殺意を秘める復讐者の仮面であり、
正体を覆う庇護者の仮面であり、
恋情を欺く伊達者の仮面であり、
恬澹を彩る良夫の仮面であり、
そして何より、全てをその下に仕舞い込み
決して外へと出すこと無く、
最期の瞬間まで凡ゆる痛みを
ただ自分一人で受け止め続けると、
過ぎしあの日にそう決意した
心優しき苦役者の仮面であった。
──かくして、
秘めた殺意に弑せられた男一人は泥中に沈み、
正体を覆われた女
恋情を欺かれた女
恬澹を彩られた女は、
一人残らず地上に──いや天上に残った。
そうして当の苦役者はただ一人海中に在り、
生涯最大の、そして最後の苦役に耐えている。
ふと、天上より差し入る月の光が仮面の紐を緩め、
その光に乗り来れる妙なる歌声が、
張り付いた仮面を彼の膚から優しく剥がす。
苦役者の仮面がいま漸う、
彼の顔から外れ、離れ、浮かび上がる。
しかしそこにあったのは
決して虚ろな深淵などではなかった。
そう、そこには──
世の中の理不尽と不条理に怒り、
人並みに恋愛に興味があって、
挫折に苦しみながらひたすらに努力する若者で、
親譲りの嘘つきだけど、
自分の妹や周囲の人間を愛していた、
そんな……
──そんな、18歳の子供の顔があった。

──最終章へ続く──
◇ 註(Notes)
(1)第4章[↩︎]でも述べた通り、全166話の1・6・6がそれぞれアイ・アクア・ルビーを表すものと思われる(「6」は胎児の記号化)。
(2)説明的モノローグの原則使用禁止を公言している漫画家に、例えば浦沢直樹がいる(『浦沢直樹の漫勉』S2E2「花沢健吾」29:00-30:04[↩︎])。実際、特に『MASTERキートン』[↩︎]や『Happy!』[↩︎]以降の作品の読者にはよく分かろうが、吹き出し外モノローグはもちろん、心内語を表す雲吹き出しですら稀にしか使われていない。それ以外のキャラクターの心理は全て、表情や身振りや暗喩的な風景描写のみで表現されているのである(日本人離れした片眉上げジェスチャーとか。浦沢漫画あるある)。
…とまあこれだけ周到に「絵で語っている」ものを、【推しの子】同様にスマホの小さな画面ですいすい読み飛ばされて、やはり「心理描写が雑」「登場人物が何考えてるのか全然わかんない」などと断ぜられていてはやり切れぬ訳で、同氏がつい最近(2021年)まで作品の電子書籍化を避けていたのも無理の無いことであろう。
(3)よりリテラシーの高いユーザーが多い(はずの)『ヤンジャン+』のみでの無料配信であれば、総読者数こそかなり減ってしまったろうし、ここまで注目される作品となり得たかも怪しいが、しかし全読者に占めるアンチキッズの割合もまた相当に減っていただろう。
まあ岡目八目ではあるが、『ジャンプ+』での異様な炎上が常態化して以降は、少なくともコメント欄だけはさっさと閉鎖してしまった方が良かったろうと思う(そもそもこのサイト自体、コメ欄民度は他作品も大概だが)。
さて実のところ、アンチキッズどもが欲するのは本当は作品叩きそのものではなく、「みんなと同じことをやっている、みんなとこの気持ちを共有している」という盲目的な共同体感覚の陶酔である。これには、「ぼくが今『ここで』読んだものを、みんなと一緒に『ここで』叩いている。ぼくもこの偉大な集団の一人なんだ。何て誇らしいんだ」という風に、場所の固定性・安定性が大きく作用する。「ここに行けば必ずぼくも仲間に入れて貰える」という安心感が必要なのだ。
YouTubeやTwitterはこの要素が比較的小さい。コメント欄にせよスレッドにせよ、話題そのものがすぐに流れて行ってしまい安定しづらいからである。2chやまとめサイトにはこの安定性がそれなりにあるが、「読んですぐ、この場で叩く」というインスタントな快楽では『ジャンプ+』コメント欄にどうしても劣る。
群れたイキりキッズの刹那的な団結力は、溜まり場さえ失えば忽ち崩れ去るものである。また「俺たちの意見は読者の意見を代表している。だから作者は当然これに従う義務があるんだ」という、「逆張り論」の根底にある傲慢な自信と万能感を得る場を一旦剥奪されてしまえば、所詮他人の尻馬に乗るしか能の無い内弁慶型アンチキッズどもへの打撃は大きかろう。
加えて、何も知らない初読者が試し読みしに来て、コメ欄が「駄作駄作」の嵐だったからそのまま読まずに帰った──という悲しむべき例も今なお相当に生まれているはずである。
従ってコメント欄閉鎖に対する反発・批判の不利益よりも、アンチキッズの溜まり場(というか巣窟)を根絶やしにする利益の方が長期的に見て大きかったのではないかと思われる(事実、炎上により閉鎖された作品の例はある)。特に今後、一見キッズ向けのようでいてしかし実はキッズの理解を超えたシリアス青年漫画(特にメリーバッドエンドもの)を発表する際の教訓ではなかろうか。
(尤も、【推しの子】に対し問答無用で貼られたような「炎上商法」という不当かつ無礼極まる印象操作レッテルを、良心あるクリエイターと良識ある編集者が許容できるか次第だろうが)
(4)第3章[↩︎]でも触れた、横槍メンゴ『めがはーと』[↩︎]第3話の兄妹愛(性的な意味で)モチーフと比較せよ。
(5)11巻105話96頁に「当時4歳」とあるのは「約4歳」の意で、満年齢では3歳。
(6)それにしても『東ブレ』でのアクアは、初演以降の感情演技は一体どうしていたんだろうか。初演のあれを毎度繰り返したとはちょっと考え難い(心身が持つまい。それこそPTSDになる)。アクアはあかねと似て、客観的な演技のトレース自体は得意だから(アイからの遺伝)、初演で摑んだ身体的な感覚のみの再現をそれ以降は繰り返していたのではあるまいか。つまり、毎度毎度あの「アイが生き返ったら」空想を使ってマジ号泣していた訳では多分ないだろう(知らんけど)。よって本稿でも『東ブレ』における彼の感情の発露は、飽くまで初演のみの一回として仮に数えた。
(サムネイル:アニメ1期ED[↩︎]1:54)
