ろろろのめ第54回 Deadlineのその先へ。~2026年、フェス文化の終焉~
Deadlineのその先へ。~2026年、フェス文化の終焉~
2026年1月16日にBLACKPINKを東京ドームで観た。BLACKPINKの単独に行くようになったのはサマソニ2019で観たおかげだ。2026年1月30日にLady Gagaを東京ドームで観た。Lady Gagaの単独に行くようになったのはサマソニ2009深夜のSONIC STAGEで衝撃を受けたからである。
日本の音楽フェスシーンは、2026年にして決定的な分岐点を迎えた。「フジロック」が象徴する、選別された良質な音楽のみを培養する「無菌室」。そして「サマソニ」が突きつけた、なりふり構わぬ動員とアジアの熱量を混濁させた「暴力的な正解」。この対照的な構図は、もはや単なるラインナップの是非ではなく、日本の音楽受容における知性と生理の敗北を露呈させている。



「ロッキンOS」という均質化の呪縛
現在の日本において、フェスの基準は「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」が作り上げたフォーマットに完全にハックされた。「フェスに行く」という行為がイオンモールを歩くような日常の延長線上へと民主化された功績は大きい。しかし、その代償として、ファッション、観客の振る舞い、ルール、そしてアーティストブッキングに至るまでが単一のOS(基本ソフト)で上書きされた。
【ARABAKI ROCK FEST.26】
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⿻ 安全対策に向けたご案内
⿻ 主催者からのメッセージ
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■安全対策に向けたご案内
ARABAKI ROCK FEST.では、会場内でのダイブ・モッシュなどの危険行為を禁止しております。
例年は退場などの措置は行っておりませんでした。
しかしながら昨年、会場内で負傷者が発生したことを受け、改めて安全対策と運営体制を見直し、今年から対応を強化することといたしました。
日本初開催だった「HEAD IN THE CLOUDS」で見られた光景がその象徴だ。アジアの境界線を揺さぶるはずの祝祭は、日本に上陸した瞬間に「ロッキン・フォーマット」という強力なフィルターを通り、記号的に消費される安全なアトラクションへと去勢された。この「イオンモール化」した空間では、未知への畏怖や野蛮な刺激は徹底的に排除される。音楽に合わせて体を揺らすでもなくスクリーンに繰り返し映される厳重な規制の元管理された空間でカルチャーの匂いを全く漂わせず「Fxxk the ruuuules」と繰り返し歌う88risingの「Midsummer Madness」が流れる皮肉。日本初開催の「HEAD IN THE CLOUDS」はフィルターバブルの外を巻き込むほどの風を起こせずに終了した。多幸感溢れるLAのHEAD IN THE CLOUDSの映像がただ虚しく流され続ける日本の現場は多幸感とは真逆の光景、これが日本の現状なのだ。(幕間に流れた映像はLAのHEAD IN THE CLOUDSとJAPAN JAMとサマソニとグリーンルームとLIVE AZUMAの宣伝だった)





フジロックの停滞とサマソニの特異性
フジロック2026は、The xx、Khruangbin、Massive Attackという、音楽ファンが「正解」と見なすヘッドライナーを並べた。しかし、そこには既視感という名の停滞が漂う。XGによる「逆オファー」という異物が混入しなければ、それは古いOSを再生産し続けるだけの閉鎖的な村社会に過ぎなかった。結局は時代に無理矢理適応しつつ「無菌室」を再生産し続ける事しか出来なかったのだ。そこの閉塞感は否めない。

一方でサマソニ2026は、ヘッドライナーとして決まりきらなかったASAP Rockyという「不在」の穴を、Ado、L'Arc-en-Ciel、そしてThe Strokesという極端な三頭体制で埋めた。JENNIE(BLACKPINK)を筆頭とする豪華な布陣を含め、この米欧圏の論理では決してキュレーション不可能な独自のラインナップこそ、日本の市場が持つ「歪な特異性」の現れである。しかし、このカオスを「面白い」と肯定できず、格やバランスの議論に終始する日本人の姿は、文化的許容の拡張に失敗した末路を物語っている。
「洋楽・邦楽」という死語の埋葬
Ye(カニエ・ウェスト)の最新作『BULLY』に野田洋次郎が深く関わり、チャーリー・プースと宇多田ヒカルが私的な情動を「Home」という一曲に結晶化させる現代において、国籍やジャンルで音楽を隔離して楽しむ時代は終了した。「BULLY」を聴いてなお、パスポートの色で音楽を仕分けようとする態度は、もはやナンセンスを通り越して滑稽ですらある。
2024年10月頃東京にて、はじめて友人経由でYeに呼ばれた。リリース直前だというアルバムにひと晩、思い浮かんだアレンジを好き勝手加えるだけのはずが、アルバムに参加することになり、生音レコーディングを手伝うことになった。最終的に僕たちの録音は5曲で使われることになったようです。時間のない中尽力してくれたミュージシャンの方々ありがとうございました。

「動員のためにアイドルやK-POPに頼った」という言説は、彼女たちが鳴らす音の強度を、外見というノイズだけでシャットダウンしている知的な怠慢に過ぎない。極端にインディーやニッチな音楽を良しとする風潮も、もはや大海に放流されたポップミュージックの前では意味をなさない。
音楽メディアとプロモーターの死
このドラスティックな変化に最も適応できていないのは、既存の音楽メディアとプロモーターである。1ドル160円という経済的限界を前に、文脈(コンテクスト)を紡ぐことを放棄したプロモーター。そして、Yeのような世界の地殻変動を直視せず、箱庭の議論に終始する音楽ライター。Yeに関してはオファーすらしないプロモーター。
近年インディー客にも増えてきた「数万円のチケット代を軽く払える若い世代」に関しては2024年以降の新NISAによって20代から70代までの投資人口が日本の人口の3割に到達したという事実を考慮すれば納得の現実。リスクの少ない日経平均インデックスファンドだけでも2024年1月に35400円だったのが2026年4月現在53000円。乱高下の現在でもびくともしないくらいお金はある。高いチケットが即完するのも当然。音楽メディアや音楽プロモーターは彼らの動向をつぶさに追わなければならないし彼らに向けて取材やブッキングをしなければならない。
彼らが「OSの書き換え」を怠り、古い評価軸にしがみついている間に、リスナーの耳はとうの昔に大海へと漕ぎ出している。ストリーミングのプレイリストにおいて、あらゆる音楽が等価に並ぶフラットな生態系。そこにあるのは「音の強度」という真実だけだ。
諦念と諦観のその先へ
文化的許容の広さを獲得できなかった日本において、もはやシステムの機能回復を期待するのは無意味である。「ヘッドライナーの意味がわからない」観客を大量に取り込まなければ成立しなくなったフェスは、特定のファンコミュニティの集金装置へと変質した。
この「死んだ世界」で音楽と対峙するには、システムへの期待を捨て、自ら「視察者」として現場に立つしかない。ノイズから隔離されたプラチナエリアという防波堤を確保し、イオンモール化した群衆を俯瞰しながら、ただ「音楽」そのものの粒子を浴びる。
「格」を語る者は過去を語り、「音楽」を聴く者は未来を掴む。
古いOSを書き換え、境界線のない音楽の景色を咀嚼できない限り、日本の文化は先細る一方だ。
不感症のメディアやリスナーを置き去りにして、とっとと、先に行く。
