六月の鯨 第一話
中学二年生の高野清は吹奏楽部に転部したばかり。友人たちとうまくいかず、演奏会のあと一人で楽器の搬出をしているところを高校生の佐伯鯨に手伝ってもらう。
鯨のひと言で一歩を踏み出し、音楽が楽しめるようになった清は、大人びているもどこか寂しげな鯨に惹かれていく。
鯨に思いを伝えられないまま時は経ち、清は同じ会社の栗原然と付き合っていた。プロポーズを一度は了承したものの、然は結婚と同時に会社を辞め、兄のカフェを手伝いたいという。然の兄とはどんな人なのか、店に行ってみるとそこにいたのは鯨だった。
然と結婚生活を送りながら再び鯨に惹かれていく清。三人の結末は――?
演奏会が終わったあとの中学校はとても騒がしい。白の二トントラックが駐車場のあちこちに停まっていて、みんな自分の学校の楽器の搬出はまだかまだかとそわそわしている。
市内ではいちばん大きい、けれど駐車場の狭いこの市立中学校の駐車場は、各校の吹奏楽部の演奏を楽しんだ保護者や観客たちの自家用車でごった返していた。日曜の夕方、学校を出た先の幹線道路が渋滞気味なのもあって、車の列はなかなか進まない。できる限り公共交通機関のご利用を、と演奏会を知らせるポスターで呼びかけてはみたものの、この秋田の田舎町、移動するのに自家用車は必須であり、あまり意味をなしていない。
車が動かないとトラックも動けない。清は今日の朝早く、この体育館に自分の中学校の楽器を搬入したのと同じように、一箇所にまとめられた楽器たちを搬出しようと待機していた。けれど思った以上に前の学校の搬出に時間がかかり、自分たちの番が来たときにはみんなどこかに消えていた。
幸い、マリンバやティンパニーなどの大型の楽器は先に積んであったので、ほとんどは小型のパーカッションか管楽器だ。それでもチューバやユーフォニアムなんかは残っていて、それらは小さい子供ほどの大きさがあって重い。しかもわずかにでもぶつけることを許されず、それは今年の春まで楽器に触れたことのなかった清にとって、神経も体力も使う重労働だった。
運転手は顧問に用があるとかでどこかに行ってしまった。清はよいしょとひとつずつ丁寧に楽器を持ち上げる。体育館と校舎を結ぶ渡り廊下から楽器たちを運び出し、目の前に停まっているトラックの荷台に運んでいく。荷台と地面の間はアルミの板で橋渡しをしてあり、誰でも簡単に中に入ることができる。作業内容としては難しくないけれど、清の通う中学の吹奏楽部員数は多いほうだ。全部運ぶのにどれほど時間がかかるのか。
まだ六月の夕方なのに、陽射しは強くて汗が噴き出す。体育館内も人の出入りが激しいためか冷房の効きが悪かった。こめかみを伝う汗をセーラー服の袖で拭う。耳にかけたボブの髪と、まっすぐに切りそろえた前髪が額に張り付いて気持ち悪い。家に帰ったら即シャワーと洗濯だな、と清は心に決めた。
「君、ひとりでやってるの?」
荷台の中から振り返ると、知らない男のひとがこちらを見ていた。薄い水色のシャツに青みがかったチェックのスラックス。この地域の進学校であり吹奏楽の強豪校、葉輪高校の生徒のようだ。長身で色白、フレームの細い銀色の眼鏡をかけている。線が細いひとだな、と清は思った。知らない顔だから、少なくともうちの中学の出身ではないはずだ。それか、学年が三つ以上離れているか。
清は迷いつつもこくんと頷き、すぐに間違えた、と思った。これではぼっちです、と自ら説明しているようなものだ。ひとりで作業しているとどうしても目立ってしまう。これまでも後ろを通り過ぎる他校の生徒たちに不思議そうに覗き込まれていた。なんでひとりで作業してるのって。もしかしてあなた浮いてるのって。やっぱりみんなが戻ってくるまで待つべきだったかもしれない。もしくは、搬出の順番が来たことを知らせに行けばよかった。
「他のみんなは?」
「……待ってる間にいなくなっちゃって」
「手伝うよ。重いよね」
清が返事をする前に彼は手近にあった黒いケースを二つ手に取ると、慣れたようにトラックに運び込んだ。さすが、男子高校生は体力が違う。確かに彼の言うとおり、楽器はひとつひとつが重いし、一人で全部運ぶのは時間もかかる。それに学校へ帰ったらこれらを音楽室に戻して、ミーティングだって出なければならない。ひとりでやったら体力が保たない。
清はありがとうございます、助かりますと言って廊下と荷台を往復した。
「君、一年生?」
「いえ、二年です」
彼は荷台から手を伸ばして清の荷物を受け取った。二人同時に同じ動きをするより、リレー式に運んだほうが早いと判断したらしい。
「じゃあ、今回は二回目の合同演奏会かな」
「いえ、初めてです。今年になって転部したので」
「転部? 前は何やってたの」
「陸上です。ハードルをやってました」
「ふうん。足、速かったんだね」
彼は勝手に納得すると、その後は黙々と作業に徹した。ときどき配置を確認しては、こっちのほうが動かなくていいかな、と言って手直しをしている。
清は転部の理由を聞かれなくてよかった、と思った。楽器を渡すために渡り廊下から外に出たとき、明るみになった膝の傷跡が見えないことを祈った。ハードルの選手にとって足の怪我はよくあることだ。清もよく転んだ。でも、これは競技中にできた傷ではない。意図的に転ばされたのだ。自分より成績が良いことに嫉妬した、同じ陸上部の先輩によって。
清は昔から足が速かった。陸上でハードルを選んだのは面白そうだったからだ。何もない状態で走ったときと障害物がある状態とでは、どれほどタイムに差が出るのか知りたくて。
本格的にトレーニングを開始してすぐ、清は県大会で六位に入った。これは先輩たちより良い成績だった。嬉しかった。努力が伴った結果に満足していた。
けれど喜んでいたのは清だけだったようだ。先輩たちから疎まれて、清は休み時間に足を引っ掛けられて転んだ。しかもそこは階段だった。清は頭こそぶつけなかったものの、あちこち打ち付けて膝の傷もその時にできた。先輩たちは目撃者によって教師と保護者に知らされ、形式上は謝ってもらえた。しかしそれ以降、清は怖くてハードルを跳べなくなった。部活にも行けなくなり、二年生になった清は転部を決意した。
暑さと疲労で清の息は上がってきたが、廊下に残った楽器が順調に減っていくのにほっとする。幸い落としたりぶつけたりすることなく着々とトラックに積み込めている。もっとも、清はいま自分が運んだケースに何の楽器が入っているか、まだ判別がつかないが。
「吹奏楽、楽しい?」
はっきりした声だった。清は反射的に振り返る。荷台から清を見下ろす彼の顔は影になっていて、表情をうまく読み取れない。微笑んでいるような気もするし、どこか冷めているようにも見える。
清は黙り込んだ。彼はどうしてそんなことを聞くんだろう。答えはある。でも本音を会ったばかりの人に説明するのもどうかと思う。問題のある子だと思われて、どこかでうちの中学に伝わり、今後の活動に支障が出るのもできれば避けたい。でも、これだけ自分を助けてくれる人に嘘をつくのは、あまりにも誠意がないとも言える。
清が考えあぐねていると、他校の生徒たちが後ろを慌ただしく駆けていった。忙しない上履きの音に清ははっとして、足元の古い段ボールを持ち上げる。次の学校が待っているのだから急がなければならない。箱には楽譜か何かが入っているのか、紙の重さがずし、と腕に来た。清の疲労は限界だった。思いやる、とか取り繕う、とかが、今はできそうになかった。
「人間関係が面倒なことを除けば、たぶん」
彼に段ボールを渡しながら、清はどこか他人事のように彼を見上げた。
放課後の自分を思い出す。ほかの人と音がきれいに重なると、その美しさに感動する。歌うようなハーモニーを聴くと、自分もあんなふうに吹いてみたいと憧れる。しかし清は、先輩たちや友達とはまだ距離感がつかめないでいた。女子が大部分を占めるこの部活で、彼女らは陸上部とは違う難しさがあった。直接手は出さないものの陰口が多い。誰が練習しないとか、誰の指導方法が納得いかないとか。人数が多い部活だからこそまとまるのも難しいのかもしれない。だからといって、わざわざ居心地を悪くするように動く彼女らのことを、清は心底理解できないでいた。
荷台に立って答えを聞いた彼は、きっと笑うか諭すかすると思っていた。先輩という生き物はみんなそうだ。偉そうに、分かったように、本当のことはごまかすような口ぶりで。
しかし、彼はふっと息を吐いた。
「だよね。みんなひとつかふたつしか歳が違わないのに、偉そうだし、口も悪いし。そんなことをしたくて入部したわけじゃないのに」
彼がなんでもないように清の手から段ボールを奪うと、ふわ、と腕が軽くなる。清が立ちつくしている間に彼はそれをさっと運び込み、まだある? と次の荷物を催促した。清は慌てて廊下に戻っていく。
清は初めて部活の悩みを人に話した。それも初対面の、たぶん経験豊富な先輩に。先輩とは逆らえない、絶対的な人たちなんだと思っていた。自分たちだって後輩だった時期があるくせに、学年が上がった途端高圧的になる。でもこういう人も存在するのだと、清は心に風が吹いた気分だった。
「これで全部かな」
最後の荷物を乗せると、彼は手をパンパンとはたきながら荷台を降りて辺りを確認した。たぶん、清の学校の楽器はもう残っていない。もしあったら、顧問の乗ってきた車で運んでもらおうと思った。
「すみません、助かりました。本当にありがとうございました」
荷台を下りた彼に清は深く頭を下げた。お礼を述べた程度じゃ全然足りない。それくらい、清は心から感謝していた。
大きな楽器はすべて彼が運んでくれたし、荷台のなかはパズルを組み合わせたみたいに寸分の隙もなくケースが並べられている。これならトラックが多少揺れても、楽器が動いて傷付いたりはしないだろう。
それに、否定しないでいてくれた。見ず知らずの、他校の後輩部員の些細な悩みを。
「これは、吹奏楽歴六年目の言い分なんだけど」
清はそっと頭を上げた。
「本当に嫌なら逃げたほうがいいと思うんだ。心が壊れると一生辛いからね。でもどうせ辞めるなら、音楽の楽しさを知ってからだと嬉しい」
見上げた彼はほのかに笑っていた。落ち着き払って、悠然とそこにいる。凪いでいる人だ、と清は思った。
鯨に似ている。大きくてゆったりとしていて、海の中をゆうゆうとすべるように泳ぐ大きな鯨。群れることなく、広く深い海を渡っていく。それはきっと孤独な旅に違いない。
「鯨! 先生呼んでるぞ!」
彼の友達らしき人が呼びに来て、彼は振り返る。じゃあね、と手を振ると『けい』さんは友達と一緒に走っていった。
まるで夢の中のできごとみたいだった。辺りが急に静かになって落ち着かない。二人の足音はもう聞こえないのに、彼らが去っていった廊下の奥を清はただ見つめている。
こんなとこで突っ立ってないで、早く先生に報告にいかなくちゃ、と思っていると、やがて後ろから大勢の走る音が近付いてきた。
「ごめん清、留守番させて……って、もう全部積んじゃった?」
同じ学年でトランペットの彩夏が辺りを見渡した。あれ、もうないや、とか遅かったかー、とか、彼女たちは申し訳なさそうに口にする。逆に一年生は分かりやすくまずい、という顔をしている。楽器の運搬は一、二年生の仕事だから、三年生の先輩たちは先に学校ごとに割り当てられた教室に戻っている。
「ごめんごめん、去年まで顧問だった先生がいてさ、そしたら一年生が小学校で教わったことがあるって言うから――」
「なんで先生がここにいろって言ったのに、勝手にいなくなるの?」
清が強い口調で咎めると、ざわめきは一瞬で静まった。
「私、楽器の扱いまだ分かんないし、重いし量も多いし、葉輪高校の人が手伝ってくれなかったらひとりでやってたんだよ。みんな無責任すぎるよ!」
清がそう叫ぶと、なあなあだった空気がピリ、と張りつめたのが分かった。きっとみんな軽い気持ちだったに違いない。この場所を離れることがそんなに重大なミスだと思っていない。それに部に入りたての、初心者の清がこんなに怒るなんて、誰も思っていなかったはずだ。
そのうち、彩夏が苦い顔をしたまま口を開いた。
「だからさ、ごめんって――」
「でも私、楽しかった!」
みんなの目が一様に見開かれる。
「初めてステージに上がって、みんなと一緒に吹いて……今まででいちばんいい演奏ができたって思った、楽しかった! これからもみんなと吹きたい、やらせてほしい」
「……清」
「これからも、よろしくお願いします!」
清は勢いに任せて頭を下げた。まるでくらくらして、めまいがしそうな頭で思ったことをそのまま叫んだ。みんなに届くかどうか分からない。でもこうしないと自分はずっと一歩引いたところにしかいられない、清はそう感じていた。
「こっちこそ、よろしく」
清はおそるおそる顔を上げる。
「ごめんね」
彩夏は困ったように笑っている。後ろにいるみんなもそうだ。口々にごめんね、と顔をのぞかせた。一年生なんかは、清さん、かっこよすぎです、とか言っている。
「当たり前じゃん! 清はすごいんだよ、初出場のハードルの大会で県の六位に入ってさあ」
「あっ、それはまだ傷が癒えてないから」
ムキになった彩夏に清はストップをかけた。
「そうなの?」
「あれ痛かったもんねえ」
続けたのはホルンの瀬奈だ。
「えっ、あの傷まだ治ってないの!?」
「傷ってそういう意味じゃなくて」
驚いたパーカッションの穂波にサックスの伊織が突っ込んで、みんなに笑顔が戻って清はほっとした。誰かの悪口で盛り上がるより、こっちのほうがずっといい。
楽器を吹くのは楽しいと思う。でもみんなと合わせるのはもっと楽しいと今日知った。そのために腕を磨きたい。その気持ちを今度こそ大切にしたいと、清は強く願った。
*
夕飯前、鯨は自室でノートパソコンを開いていた。検索窓に打ち込んで志望校のホームページに飛び、スクロールして来年度の新入生募集要項を確認する。
試験内容は筆記試験と面接、書類審査があるらしい。願書の受け付けは十一月からで、それまでに必要書類を揃えて送付すればいいようだ。
次に偏差値を調べようとしたとき、コンコンと部屋のドアがノックされて慌ててパソコンを閉じた。代わりにあらかじめ開いておいた参考書を手前に引き寄せ、書きかけのノートの上でシャープペンシルを素早く手に取った。
鯨の父親はノックはするが返事をする前に部屋に入ってくる。今日も、鯨がどうぞ、と言うのと彼が入ってきたのは同時だった。
「鯨、決めたのか」
父親の言いたいことはすぐに分かった。鯨は察して、クリアファイルに挟んでおいたプリントを取り出すと「ここに決めたよ」と目の前の彼に差し出した。
彼は受け取るなり、難しい顔つきでひとつひとつを検分する。鯨は微笑みを貼り付けたまま動かない。さも余裕そうに、自信ありげに見えるように。
「国立が一つに、私大が三つか。……うん、いいところを選んだな」
彼が頷きながら満足げに口端を上げたことに鯨はほっとする。今日は彼の機嫌を損ねなかったみたいだ。
「法学部といっても、学費のことは心配しなくていい。上を目指したいなら目指しなさい。鯨ならやれる。父さんは信じているよ」
「うん。ありがとう」
彼はプリントを返すと、満足げに部屋を出ていった。足音が階段を下りていき、ふう、と大きく鯨は息を吐く。今日の合同演奏会に出たことでまた小言を言われるかと思ったが、今ので帳消しになったようだ。ちなみに彼は鯨のステージに一度も来たことはない。
「……兄ちゃん」
黙ってそれを見ていた中学生の弟が、心配そうに声を出した。この子は自分と違って、本当に今の今まで勉強していた。なかなか成績が上がらず、激昂した父に叩かれた左頬が痛々しい。それでも彼は学年で十番以内に入っている。決して努力していないわけではない。
「大丈夫。ちゃんと行きたいところに行くよ」
「でも」
彼はさっきまで開いていたパソコンに目を向けた。兄が何を調べていたか知っているようだ。
鯨は再びパソコンを開いて、さっきまで見ていた調理師学校のページを消した。印刷はできない。父親が鯨の本心を知ったとき、何が起こるか予想がつかないからだ。
鯨は大丈夫、ともう一度呟いた。それは弟に向けたのか自分に言い聞かせたのか、鯨自身にも分からなかった。
*
