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六月の鯨 第十話


鯨の初ステージは当初、クリスマスのミニコンサートがいいのではと打診された。しかしカレンダーのイベントごとや忘年会シーズンは店の書き入れ時なので、残念ながら鯨も清も辞退した。その代わり、市の行事の招待演奏や小規模イベントのコンサート、高齢者施設の慰問演奏などには積極的に参加しようということでまとまった。入団したからには目標がほしいし、できるだけ人前で演奏する機会も作りたい。
楽団の練習は週に二回、平日の夕方に開かれており、それがない日は鯨と清で料理の練習をしている。店を閉めたあとに二人でキッチンに立ち、鯨の立ち合いのもと、清は簡単なものから少しずつレパートリーを増やしている。
まずはサラダから始まり、次にサンドイッチやトースト、スープなどの軽食系、慣れてきたらパフェやパンケーキなどのスイーツ系、そして具材の少ないパスタやグラタンなどの主食系……というように、工程が難しくないものから順を追うように鯨は丁寧に指導した。
その甲斐あって、素人、もしくは家庭料理の域を出なかった清の料理は時間をかけて上達していき、年明けの新年会シーズンには簡単なものなら任せてもらうまでに成長した。雪が本格的になる頃にはメインのメニューもいくつか作れるようになり、結果、鯨の負担も減り、清はできることが増え、店も今までよりスムーズに回るようになった。
鯨の仕事は楽になるし、清は料理の技術が身に付くし、鯨の時間に余裕が生まれたぶん、新しい料理のアイデアを試すこともできる。いいことずくめだと、清は思っていた。

大粒の雪がちらつく夜だった。清が風呂を済ませて部屋に戻ると、いつもなら布団の上でスマホゲームに興じている然が正座して待っていた。
「清、ちょっとここ座って」
珍しく真面目な顔をしているので大事な話かと思い、清も素直に言うことを聞く。しかし清には思い当たることがない。いったい何の話だろう。店のことだろうか。それとも家のこと? まさか私たちのこと?
どうしたの、と聞こうとした清を、然はおもむろに腰を上げるとぎゅうっと抱きしめた。
「然?」
然が甘えるとはずいぶん珍しい。特に結婚してからの然は、夫としてしっかりしなければという思いが芽生えたのか、独身時代よりも愚痴や弱音を吐くことが少なくなっていた。
清が料理の腕を磨く傍らで、然も店の経営計画や宣伝に力を入れていたし、鯨も楽しそうに楽団に通っている。充実して過ごす家族の姿を然はいつだって嬉しそうに見守っていた。すべては順調なはずだった。なのに然は、こうして清に甘えている。
清はそっと然に腕を回した。然の広い背中を抱きしめながら、ぽんぽんと子供にするように優しく背を叩く。
「然、どうしたの」
声をかけてみるも、然は唸るばかりではっきりしない。きっと何か訴えたいことがあるのだろうが、それが清には分からない。
「ねえ、言ってくれなきゃ分かんないよ」
見たところ、然は熱があるわけでも、具合が悪いわけでもないらしい。ただ清の肩口に顔を埋めて、清が逃げないように囲っている。こんなに煮え切らない態度の然は初めてだ。ひょっとして働きすぎて疲れてしまったのだろうか。
清がもう一度、然、と呼ぼうとしたときだ。
「……あんまり兄貴とばっか話すな」
消えてしまいそうなほどの小さな声に、清は目を丸くした。
「どういうこと?」
「最近、兄貴といるほうが俺といるより楽しそうだから……」
然はくぐもった声で呟くと、清を抱きしめる腕に力を込めた。
確かに、鯨が楽団に入った辺りから仕事でもプライベートでも、清は鯨と二人でいる時間が増えた。然は料理は不得意だといって調理は自分たちに任せているし、学生時代から野球一筋で楽器を吹いた経験もない。しかし趣味が合わないのは結婚前から分かっていたことで、それに自分たちは補い合うために出会ったんだと話していたのは然のほうなのに、どうも納得していない様子だ。
「もしかして嫉妬してる?」
「そうだよ」
清は茶化してごまかそうと思ったが、然が素直に認めたので止めておく。
然はどちらかというと支えられるより支える側で、こうして甘えるということはよほど精神的に参っているということだ。ストレスを我慢しないで伝えてくれたのはいいことだと、清は然の体を安心させるようにぎゅうと抱く。
「大丈夫だよ。私が好きなのは然だよ」
髪もくしゃくしゃにかき回した。よしよし、いい子、とでも言いたげに。
「ほんとに?」
心配そうに然は呟く。然の使ったシャンプーの匂いがふわりと香った。
「ほんとだよ」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんと。嘘じゃないよ」
子供の遊びみたいなやり取りに清はふふ、と笑った。然と触れ合ったところに熱が生まれて温かい。然の筋肉質な体つきが逞しくてほっとする。この幸せな温もりが清は好きだ。
然は良い夫だ。明るくて優しくて頼りがいがあって、でもこうしてときどき弱いところも見せてくれる。弱みをさらけ出せるのは強さでもあるし、自分を信頼してくれている証拠でもある。全力で自分に向き合ってくれる然のことを、清も大好きなんだと思っていた。
「じゃあ俺、清の子供がほしい」
その気持ちは嘘じゃない。然と結婚して良かったと本気で清は思っているし、この先だってきっとそうだ。
それだけは間違いないと断言できるのに、ならどうして、いいよ、と今すぐ返事ができないのか、清は思考を巡らせた。

その後、然は夜布団に入ると、頻繁に清、と呼ぶようになった。隣の布団から手を伸ばしてきた然に触れられると、清の体は強張ってしまう。そのたびに今日はごめんと断るか、寝たふりをするのが日常になっていた。
平日は疲れているから、と言い訳できる。でも次の日が休みだったりするとそうはいかない。今日は料理の練習をするからとか、映画のサブスクを観たいから、などと理由をつけて清はなんとか然が先に眠るように仕向けようとした。然はいちおう寝てくれるけど、そのたびに清の良心はじくりと痛んだ。
セックスを断っても然が不機嫌になることはない。怒ったり泣いたりすることもない。そう、分かったと言って眠るだけだ。
もどかしい思いをさせているのは分かっている。きっと心も体も辛いだろう。でも然の気持ちは受け入れられない。それがどうしてなのか清は分からない。いつからそうなってしまったんだろう。もしかして然のことが本当は好きではなくなってしまったんだろうか。
清は誰にも相談できないまま、どうしたらいいのかいつまでも答えを出せずにいた。

いつものように清と鯨は楽団の練習が終わると、二人で市内路線バスに乗り、家の最寄りの停留所で降車した。
乗っているときから雪がちらつき始め、歩いていると積もるのではないかと思うほど勢いが強まってきた。天気予報では深夜から天気が崩れると言っていたのに外れてしまった。折りたたみ傘を持ってこなかったことを清は後悔する。濡れるのは楽器にも良くないので急いだほうがいい。しかし家に帰れば然がいる。もしかして今夜も求められるのだろうかと思うと気が重い。
すると隣を歩いていた鯨が清ちゃん、と声をかけた。
「最近大丈夫? また無理してない?」
いつの間にか俯いていた清が顔を上げると、鯨が心配そうに清を見下ろしていた。
「元気がないように見えるから」
鯨は清が夏に倒れたのをずっと気にしている。あのときは清が予定を詰めすぎて寝食をおろそかにしたのが原因だったのに、鯨は自分にも責任があったと思い込んでいる。実際、鯨は何も悪くないし、今回だって無関係なのに、知らない間に不安にさせていたことを清は申し訳なく思う。
「大丈夫です。寒いから顔色が悪く見えるのかも」
鯨の心配を払拭するように、清は努めて明るく振る舞った。然とのことは話せない。これは喧嘩ではないし、ごくプライベートな二人の問題だ。
「でも」
「清! 兄貴!」
鯨が何か言いかけたとき、元気な声がしたのでよく見てみると、前方の暗がりで傘を差した然がこちらに手を振っている。
「然、迎えに来てくれたのか」
然は二人に駆け寄った。
「兄貴たち、傘持っていかなかっただろ。濡れたら寒いし、風邪引くから」
何も知らない鯨はありがとう、と言って然の持ってきた傘を受け取った。
「清も」
寒さで頬を赤くした然が清に微笑みかける。清も何でもないように、ありがとう、と言って受け取った。赤と青と緑、傘の花が三つ咲く。然と鯨が並んで前を歩き、清が後ろを付いて歩く。二人の話は弾んでいて、清がどんな顔をしているかなんて気が付かない。
家に着くと、然は夕飯まで用意していた。
「珍しいな。いつも僕か清ちゃんが作ってたのに……然もいよいよ料理に目覚めたか」
「俺だって一人暮らしが長かったんだから、食べれるくらいのものは作れるよ」
「それもそうか」
楽しそうに然も鯨も笑っている。
然の変化は分かりやすい。前より笑うことが増えたし、いつもならやらないような家事を手伝ってくれるようになった。家にいる時間も長くなり、清とコミュニケーションを取ろうと必死だ。この変化を鯨も気付いていないはずがない。
その夜も然は布団に入ると、清、と呼びかけた。
「ごめん。今日は疲れちゃった。おやすみ」
清は然に背を向けて眠りに入った。少しして然も、おやすみ、と言って清に背を向けた。

三月に入り、世の中では送別会の季節が訪れた。
ディナータイムは予約で埋まり、三人とも連日働き詰めだった。そのさなか、ある日然は両手を合わせて鯨に頭を下げた。
「兄貴、本当にごめん! 前の職場の後輩が異動になるらしくて、今週末送別会なんだ。夜の予約のあと、俺だけ早く抜けてもいいかな」
然はこれまで有給も使わず店を第一にして働いてきた。鯨もそれを分かっているので、二つ返事でいいよ、行っておいでと快く送り出した。
然が送別会に出かけていった夜、清が風呂から上がるとスマホに着信が入っていた。然かと思って履歴を見ると、会社員時代の後輩、畑中からだった。畑中は今日然が呼ばれた送別会の主役のはずだ。
折り返し電話をかけると、彼はすぐに出た。
「清さん、お久しぶりです。すみません、然さんなんですけど飲みすぎて潰れちゃって……今夜は僕んちに泊めていいですか。酒の量セーブできなくてすみません」
清は驚いた。然は今まで一度だって酔い潰れたことがない。アルコールには強いほうだし、自分の飲める量をきちんと把握している、それなのに。
「久しぶりに会えて嬉しかったんだね。いいよ、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
畑中くんも新天地で頑張ってね、と清はエールを送り、電話を切った。そしてその場でふう、と大きく息を吐く。然をそうさせたのはきっと自分が原因だ。おそらく鬱憤が溜まっていたのだろう、久しぶりに楽しい席にいられて、羽目を外しすぎたのかもしれない。
清は部屋を出て、居間でテレビを観ていた鯨に畑中の電話の旨を伝えた。
「珍しいね。よっぽど楽しかったのかな」
清は曖昧に笑う。本当のことなんて言えない。鯨にはごまかし続けるしかない。
清が部屋に戻ろうとすると、鯨は清ちゃん、と呼び止めた。
「清ちゃん、然と何かあった?」
清はびくりと立ち止まる。そっと振り返ると、やはり心配そうに自分を見つめる鯨がいた。
困った。どうしよう。いつかは聞かれると思っていた。またこの前みたいに適当にはぐらかしてしまおうか。逃げてしまったほうがきっと楽だ。
「僕に言えないこと?」
清が答えに窮して黙っていると、鯨はテレビを消して気遣わしげに清を見上げる。鯨の善意に決意が揺らぐ。いつまでも隠しているわけにもいかないし、自分たちが気まずいと鯨にも気を遣わせる。それにこのままではいずれ自分たちは破綻する。何より、清自身がすでに限界を迎えていた。
清はきゅっと結んでいた口を開いた。
「然に子供がほしいって言われたんです」
硬い声が出た。体中が緊張して強張っているのが分かる。鯨は思いがけない回答に目を丸くして、子供、と小さく繰り返した。
「然のことは好きなのに、いいよって言えなくて。なんで言えないのか、自分でも分からなくて」
そこまで説明して、清は口ごもった。
鯨も何も言えないでいる。デリケートな問題だと思ったのだろう、しばらく考え込んでから、やがて言葉を選んでぽつぽつと話し始めた。
「然は不器用だから……焦ってしまったのかもね」
鯨は持ち前の冷静さで二人の問題点を分析する。
「でもこういうのはお互いの気持ちが大事だから、まだ無理しなくていいんじゃないかな。僕から然に言ってみようか」
優しく賢い鯨は優等生の答えを導き出した。万人を懐柔してしまう微笑みを携えて、まるで然は間違っている、僕は清ちゃんの味方ですみたいな顔をして。けれど然には残酷で冷たいことを言っている。それを分かっているのだろうか。
鯨の本心が見えないことに腹が立ったのかもしれない。鯨に当たるのは違うと思いながら、清は止めることができなかった。
「鯨さんは、私たちに子供ができたらどう思いますか」
ずっと疑問だった。鯨は自分のことをどう思っているのか。ただの後輩から家族になってしまった自分たちを、義理の兄と妹という立場に収まってしまった現実を、少しでも悔やむことがあっただろうか。
「嬉しいよ。可愛い弟と妹の子供だもの」
鯨は顔色一つ変えず即答した。清は胸が詰まって苦しくなる。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんと。清ちゃんは僕になんて言ってほしいの」
この前、然とした押し問答を今度は自分が鯨としている。然はあのとき、きっと今みたいな心細さのなかにいたんだとやっと分かった。もっと優しくしてやればよかったと今なら思う。そうしたら、不安になった然はあんなことを言わなかったかもしれない。
鯨は呆れたように笑っている。その余裕が、清は我慢ならなかった。
「嫌だって言ってほしい」
鯨の顔から表情が消えた。
「僕の子供がほしいって言ってほしい」
「……清ちゃん」
「鯨さんのことが好き。昔から、ずっと」
清は泣きそうに鯨のことを見ていたかもしれない。胸が苦しい。息ができない。心臓がばくばくして、まるで広い海で溺れているようだ。
鯨の次の言葉が怖い。聞きたくない。聞かなくていい。世の中には知らなくていいことがたくさんある。今だってそうだ。永遠に時が止まってしまえばいいと、清は本気で願った。
だが鯨はしばらく黙っていたのち、うん、と言ってぽつりと呟いた。
「僕は然に幸せになってほしいんだ」
清の顔が歪む。そんなことは分かっていた。鯨の一番はいつだって然だ。きっと昔からそうだった。鯨はいつも自分を犠牲にする。
ほんのちょっと、あの頃より仲良くなれたと思っていた。もしかしたら鯨も自分のことを好きなんじゃないかと思っていた。でもそれすらも、然のためなら我慢できるとこの人は言う。その事実に耐えられず、清の口が勝手に動いた。
「じゃあ私、鯨さんが抱いてくれたら然とセックスする」
しんと静まり返る室内。鯨はうなだれたまま動かない。
二人とも微動だにせず、しばらく膠着状態が続いたが、やがて鯨は立ち上がり、清の横をすり抜けて居間を出ていってしまった。
トン、と彼の部屋の襖が閉まる音がして、清の体の力がどっと抜けた。どうしよう。やってしまった。鯨の優しさを跳ね除けてしまった罪悪感と、本当は自分はそう思っていたんだという喫驚。言ってしまったことは取り消せない。だが然とだけでなく、鯨とまで気まずくなったら自分はこの家にいられない。
これからどうすべきか清は迷い、ひとまず明かりを消して部屋に戻ろうとすると、鯨が再び出てきて清の前に立ちはだかった。
「鯨さん?」
鯨は清の手を取り、自分の部屋に向かって歩き出す。清を暗い室内に入れて襖を閉めると、窓際のベッドに座らせて自分も隣に腰掛けた。
鯨は状況を飲み込めないでいる清の体にそっと腕を回し、耳元で囁いた。
「これが終わったら然の言うことを聞いて」
清は息を飲んだ。鯨に振り返るも、部屋が暗くて表情が読み取れない。
時計の音だけが規則的に響いている。鯨の呼吸すらも分からない。こんなに静かな夜を清は知らない。耳の横で脈がうるさく鳴っている。
清は無言でこくんと頷いた。それを合図に鯨は眼鏡を外し、清の口を塞いでゆっくりとベッドに押し倒した。

朝早い時間に鯨は部屋を出た。シャワーを浴びて、そのまま部屋には戻ってこなかった。店のほうから音が聞こえる。鯨はもう仕込みを始めているようだ。
清は気だるい体を緩慢に起こし、脱いだ服をかき集めてそっと風呂場に向かった。シャワーを浴びたあとはいつも通り朝食を作った。三人分。鯨は食べるか分からない。
清がひとりで食べ終わるころに玄関のほうから音がした。ただいま、と然の気まずそうな声が響く。おかえり、とキッチンにいた鯨が明るく出迎えた。



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