六月の鯨 第十二話(最終話)
清と然が警察で聞いた話はこうだ。
鯨は徒歩で近所のスーパーへ向かった。店内で目的のものを買ったあと、そこから歩いて十分ほどの書店に寄り道し、料理の本と子供向けの絵本を買って店に帰る途中だった。
鯨は歩道を歩いていたが、後ろから走ってきた車が蛇行運転をしていた。それに鯨は気が付かなかった。飲酒運転の車だったらしい。車は大きくセンターラインをはみ出し、対向車線を飛び越えて、歩いている鯨を後ろから――……。
「この店どうする?」
黒の礼服を着た然が、鯨の部屋に安置したお骨の前に座って呟いた。店は臨時休業にさせてもらった。予約の入っていた客には謝罪して、別の店の予約を斡旋した。
家中に線香の匂いが漂っている。いつもなら美味しそうな食べ物の匂いで満ちているのに。鯨の作った料理が店のテーブルに並んでいるのに。料理を教えてくれる人も、一緒に楽団の練習に行く人も、清ちゃん、と優しく呼んでくれる人も、この世のどこにももういない。
「私がやる」
黒のワンピース姿の清は然の隣に座ってそう宣言した。
「私が鯨さんの味を継ぐ」
「でも兄貴のレシピを全部作れるわけじゃないだろ。それにこの先、お腹の子だって」
「メニューを減らすのは仕方ない。でもレシピ帳はあるから練習していずれ全部作れるようになる。さすがにこの子を産んだあとはしばらくお休みするけど……でも絶対に店は再開する」
「そんなことできるのかよ」
力説する清に反して然は冷静だ。然はあくまで現実を見て判断しようとしている。そういうところがやっぱり然と鯨は兄弟なんだと清は実感する。しかし今回の然の意見には賛同できない。鯨の店を継ぐことは、葬儀の最中から清の中で決まっていたことだ。
「できるかできないかじゃない。やるのよ」
「店を辞めて会社員に戻る道だってあるんだぞ」
「私はこのお店をなくしたくない。なくさない。私が生きている限り、このお店を続けたい」
清は膝のうえで硬く拳を握った。然の言うとおり、必ずしもこの店を続ける義務はない。どうしても料理をしたければ、別の店で働くという手もある。
鯨の店を継ぐか、継がないか。料理を続けるか、続けないか。世の中は厳しい。働かないと食べていけない。綺麗ごとだけでは生きていけない世界だ。もうすぐ子供だって生まれる。この子が生きるのに困らない道を、親として整えてやらなければならない。だけど。でも。
「一時の感情で判断するな。先は長いんだ。そんなに捨て身にならなくてもいいんじゃないか」
然の諭すような口ぶりに、清はカッと頭に血が上った。
「然はこのお店なくなってもいいの!?」
「そんなわけないだろ!」
思わず叫んだ清に然も怒鳴り返した。こんなことは初めてだ。今までお互いに一度だって大きい声を出したことはない。それだけ鯨に守られていたということだ。清と然の雲行きが怪しくなると、間に入ってくれたのはいつだって鯨だった。
やがて然は、ただ俺は、と顔を歪めて蚊の鳴くような声で訴えた。
「兄貴のいないこの場所にいるのが、辛い」
然は俯き、目頭を押さえた。しんと静まり返った部屋に然の嗚咽する声が響く。清ははっとし、やっと我に返った。悲しいのは然も同じだ。同じどころか、生まれたときから鯨と一緒にいたのだから、清よりずっと傷付いているかもしれない。
「然、ごめん」
清は力なくうなだれる然に体を近付け、寄り添った。
「ごめん……」
清は然にそっと腕を回し、抱きしめた。さっきまで熱かった頭が冷えていく。代わりに抑えていた感情がよみがえり、ぽろ、と雫が然の背に落ちた。目からこぼれた熱い涙は頬を伝って落ち続け、止まることなく然の背を濡らしていく。
どうしてこんなことになったんだろう。どうして鯨は死ななければならなかったんだろう。次の日の分の調味料くらい、いくらでも替えは利いたのに。その日だけメニューを替えることだってできた。注文されたら断ったってよかった。自分が余計なことを言わなければ。出かけようとする鯨を押し切って、自分が買い物に出ていれば。
後悔したってもう遅い。鯨は二度と戻ってこない。きっと然も同じことを考えている。清は然を抱きしめる腕に力を込めた。
ふと、お腹の子が足を動かすのが分かった。清は一度然から離れ、蹴られたお腹にそっと手を触れる。逞しい子だ。こんなときでもこの子は生きようとしている。こちらの事情なんてなんにも知らずに、ただ、自然の理に従って。
気が付いた然も同じように清のお腹に手を当てた。また子どもが足で蹴ったのが伝わった。然もそれを感じ取り、ふふ、と二人の顔が思わずほころんだ。
「まるで喧嘩しないでって言ってるみたいだね」
「俺たちのこと見てるみたいだな」
親としてどうあるのがこの子にとって良いのか考える。どんな背中を見せたら手本になれるのだろう。どうしたらこの子をよりよい方向に導いてあげられるのだろう。
清と然に共通しているのは、まずはこの子を幸せにすること、そしてこの店をなくしたくないということだ。
迷ったら勇気が必要なほうへ。然と結婚するときに清が沙知絵に言われた言葉だ。正解なんて分からない。選んだ道を正解にしていくしかない。しばらく二人で話し合い、出した結論は――……。
*
清と然の息子の貫太は三歳になった。健康で元気で、何にでも興味津々、一度熱中するとなかなか離れようとしない、ちょっとマイペースで可愛い子に育った。
子供の成長というのは著しい。毎日いろいろなことができるようになっていく。体も言葉も、心の成長だってとにかく早い。日々、感動の連続だ。
今日はあまりに天気がいいので、清と然は店を臨時休業にして、三人で広瀬川沿いの公園にピクニックに出かけた。店の近くに借りたマンションを出て、三人で手を繋いで散歩する。公園に到着すると遊具近くの木陰にレジャーシートを敷き、みんなで清の作った玉子とハムのサンドイッチを食べた。貫太は遊具で遊んだり、然とボール遊びをしてはしゃいだあと、地面にアリの行列を見つけてそこからぴたりと動かなくなった。
その様子を清と然は木陰から静かに見守った。何かあればすぐに駆け付ける。しかしそうでないなら好きなようにさせておく。適度に放っておくのも子育てでは重要なことなのだと、二人はようやく分かってきた。
アリに夢中になっている貫太を眺めながら、レジャーシートでくつろいでいた然は口を開いた。
「あいつ、兄貴の子だろ」
公園には気持ちのいい風が吹いている。ときおり頭上の青葉がざざ、と鳴った。少し遅れて、然の隣で体育座りした清の髪もふわりとたなびいた。
「こんなに広い公園に来て、アリの行列眺めてるんだぜ。熱中する癖、兄貴そっくり」
貫太は列を成して行進するアリたちを一生懸命見つめている。今日は日差しも強いが、風があるし帽子は被せてあるから熱中症は大丈夫だろう。でももう少ししたら水を飲ませたほうがいいかもしれない。清は貫太から目を離さない。
「俺、営業の奴らと飲みに行っただろ。あのとき、わざと酔っ払ったんだ。清と兄貴が二人きりになるようにして、何か起きたらいいなって思ってた。兄貴が、清のことを好きだって見てて分かったから」
然も貫太から目をそらさずに、俺ってブラコンだったんだな、と苦笑いしながら付け加えた。日なたは暑くても木陰は熱が遮られてまあまあ涼しい。貫太も早くこちらに来るといいなと清は思う。しかし彼にその気配はない。
「でも俺、どっちでもいいんだ。貫太が俺の子だったらもちろん嬉しいけど、兄貴の遺伝子が残ったんだとしたらそれでもいいって思う。歪んでるかな」
公園には別の家族がやってきて、さっそく子供が駆け回って遊んでいる。きゃあきゃあと無邪気にはしゃいで喜ぶ様子を、その子の両親も笑顔で見守っている。
川の流れる音。青々とした葉の匂い。また風が吹いて、緑色の葉が一枚、清の膝に落ちてきた。気が付いた清はそれを拾い、日の光にかざしてよく観察する。
「私は貫太も然も幸せにするよ。あの子が私の子だっていうのは絶対だから。然のことも大好きだから」
葉脈が細かなところまで透けて見える。こんなに小さな葉でも、木の枝から切り離されるいまこのときまで生きていた。仲間とはぐれたこの葉は可哀想だろうか。清はそう思わない。このあと長い時間をかけて土に還り、やがて木を成長させる養分になる。葉はいつまでも木のなかで生き続ける。
「……そっか」
清は手にしていた葉を然に託すと、立ち上がって貫太のもとへ歩んでいく。飽きずにアリを眺める貫太の隣にしゃがみ込むと、何してるの、お母さんにも見せて、と言う。
「ありさん! 並んでるんだよ。どこにいくのかなあ」
「付いていってみようか」
然はアリの行列をたどる二人を見守った。清と貫太はゆっくりと歩みを進めていく。このアリの行列はどこまで続いているのだろう。続いた先には何があるのか。甘い花の蜜に辿り着くのか、獲物になった昆虫の死骸に行き着くのか。そういえば自分はこうしてアリを追いかけたことはなかったな、と然は思い出した。
清に渡された葉を顔に近付けると、みずみずしい香りがすんと漂った。青い匂い。柔らかくて、まだ若い香りがする。
空を見上げると、早くも遠くに白い雲がもうもうと立っていた。飛んできた小鳥たちがのどかに囀る。季節は初夏だ。六月がやってきた。
終
