六月の鯨 第七話
黒のカフェエプロンを身に着けた鯨に案内され、窓際のテーブル席に清と然は腰かけた。すぐにお冷とおしぼりが目の前に置かれ、少々お待ちください、と鯨は他人行儀に頭を下げてカウンター裏のキッチンに戻っていく。
メニュー表はまだないらしい。事前にアレルギーの有無や苦手な食べ物は然を経由して伝えておいた。今日はどんな料理が出てくるのか、清も然もまだ知らない。鯨は二人のために何を用意したんだろう。
店内の音響設備もまだ整っていないようで、静かな店に調理の音が大きく響く。冷蔵庫から何かを取り出す音。シンクに水を出す音。鍋のぶつかる音。そして、包丁の音。それらを遮るように、然は清、とテーブルに身を乗り出して話しかけた。
「清は兄貴とどこで知り合ったの?」
然は興味津々といった様子で清を見つめた。然が鯨を連れてきたとき、然が紹介するより先に「清ちゃんだよね」と鯨が尋ね、清も「鯨さんですよね。お久しぶりです」と答えたのがまだ飲み込めていないらしい。
清は出されたばかりのおしぼりの袋を破って手を拭う。
「吹奏楽の合同演奏会だよ。私がまだ中学生で部に入りたてのころ、演奏に使った楽器の搬出を手伝ってもらったの」
然も清に倣って袋を破いた。
「清が中学生ってことは、兄貴はそのとき高校生だよな。学校が違うのにやってくれたんだ」
「そう。こんないい人が世の中にいるんだって思った」
「さすが兄貴」
然は手を拭いながら自慢そうに鼻を鳴らした。清も曖昧に頷くと、鯨の置いてくれたお冷のグラスに手を伸ばした。水面が窓の外の光を反射して、きらきらとまぶしく輝いている。口をつけるとほのかにレモンの香りが抜けていく。こういう細やかな気遣いが鯨らしい。
鯨と再会し、清はあの頃の記憶が一瞬で蘇った。合同演奏会で初めて鯨と会ったこと。合評会で名前を聞かれたこと。コンクールで思いをぶつけたこと。そして、定期演奏会でブーケを渡せなかったこと。
清は驚くほど落ち着いていた。昔好きだった人に会ったら、もっと動揺するんだと思っていた。然がいるからかもしれない。自分は然が好きだから、こんなに冷静でいられるのかもしれない。
あの頃は子供だった。人生経験が少ないゆえに視野が狭く、無知で、世間知らずで、純朴な女の子だった。いまは世の中にはいろいろな事情を抱えた人がいると知っている。鯨や然もその一人だ。
あの頃、どうして鯨があんなに凪いで見えたのか今なら分かる。然の話を聞く限り、鯨はかなり我慢をして育ったみたいだ。父親に抑圧され、好きなことを好きと言えない環境が当たり前だった。住む場所が変わっても別の理由で耐えることを強いられ、選択の自由がなかった人生はどれほど辛かっただろうと想像する。清はなにか話し続ける然の向こう、鯨のいるキッチンを気付かれない程度にそっと見やる。鯨はいま幸せだろうか。念願だった自分の店を持つことができて、人生を謳歌できているだろうか。
「婚約者が兄貴の知り合いだなんて、なんか運命みたいだな」
然が感慨深そうに呟いて、清の意識がはっと戻される。そうだね、と清が答えると、然は嬉しそうにはにかんだ。清もほほえみ返して、揺れるグラスの水面をまた見つめた。
今日のメニューはサラダとスープ付きのカレードリアだった。まだ店が開店していないので、材料の都合上、今回はこれで、と鯨は説明した。
熱々のできたてが運ばれてくるなり、清と然はいただきます、と言ってスプーンで表面の焦げたチーズをかき混ぜた。カレーの香辛料のいい匂いが辺りに漂う。おなかを空っぽにしてきたのは正解だったかもしれない。見た目は合格なので、あとは味だ。
清はふうふうと冷まして口に運ぶ。ぱくりと一口。咀嚼しながらじっくりと味わう。やがてごくんと飲み込み、清は正直驚いた。美味しい。忖度なしに本当に美味しい。近所のファミレスレベルを想像して内心みくびっていた自分が恥ずかしくなる。
まず、甘めのカレーが溶けたチーズとよく合っている。具も大きめのチキンがごろっと入っていて、みじん切りの玉ねぎが甘くておいしい。ご飯もカレーによく絡み合い、粒が立っていて水っぽさもない。
「兄貴、これすごく旨い」
然は感動の面持ちで料理を見つめている。また腕上げたんじゃないの、と嬉しそうに鯨を見上げ、清もそれに続いた。
「然の言う通り、本当に美味しくてびっくりしました。辛すぎないし甘すぎないし、具も大きくてすごく贅沢」
テーブルの前で二人の感想を聞いていた鯨は、予想以上の高評価にほっと胸をなで下ろす。
「良かった。研究した甲斐があるよ」
「これなら辛いのが苦手な人や子供でも食べられるし、チーズがたっぷり入ってて嬉しいです」
「スープもいい感じ。さらっとしてて、塩味も旨味もちゃんと効いてて、でもメインの料理の邪魔をしないし」
「サラダも新鮮でシャキシャキだし」
「ドレッシングも酸味があって爽やかだし」
「良かった。もう感想はいいから、ゆっくり食べて」
照れたように鯨は言い残し、片付けのためキッチンに戻っていった。清も然も美味しい美味しいと繰り返しながらひたすら口を動かし、あっという間に平らげた。それだけ鯨の料理は絶品だった。これならほかの料理も期待できる。
二人が食べ終わると鯨は皿を下げる代わりに、熱い紅茶を持ってきてくれた。
「口に合ったようでよかったよ。他に何か改善点があれば教えてほしい」
鯨は隣の席の椅子を引っ張り、清と然の間に腰掛けた。エプロンのポケットからペンとメモ帳を取り出し、二人の顔を見比べる。
然は特に思い付かないのか、うーん、と腕を組んで唸っている。
「改善点って言っても、ほんとに美味しかったしなあ」
「料理のことじゃなくてもいいよ。本当になんでもいいんだ。清ちゃんは? 遠慮なく言って」
鯨に促され、清は考えながらそうですね、と前置きする。
「お料理の味は文句なしだと思います。このレベルなら他のレストランと遜色ないんじゃないでしょうか。むしろ上のほうだと思います」
「本当に? それは嬉しいな」
清の分析に鯨は顔をほころばせた。
「それ以外だと、まずはメニュー表ですね。多少労力を使ってでも、写真はきれいに撮るべきだと思います。いかに美味しそうに、映えるように撮るか。いまはメニュー表もスマホで撮られて、レビューとしてネットに載ったりするので」
「なるほど」
鯨は頷くと、清のアドバイスをさっそくメモ帳に書き込んだ。清の詳しい説明は続く。
「それから、お冷。私はレモンが入っているのが気に入りましたけど、苦手な方もいるので普通のお水もあるといいと思います。あと、食後の紅茶はすごく嬉しい。これもコーヒーと選べたらいいかも」
「うん」
清は鯨のメモを取るペースを見て続けた。
「壁の調度品はもう少し足してもいいですね。有名な画家じゃなくても、安くて可愛い布をファブリックパネルにしても映えます」
「なるほど、いいね」
「本があるのも気に入りました。混んできたら待ち時間ができると思うので、その間に読めるくらいの厚さの本があるといいですね。あと私としては、もう少しサブカルな分野の本があっても」
「さ、清、ちょっとストップ」
アドバイスの止まらない清に、ついに然が間に入って制止した。
「いろいろ言ってくれるのはありがたいんだけど、ここ、いちおう兄貴の店だし、兄貴の考えもあるだろうし」
然が鯨と清の顔を見比べる。鯨は性格的に声を荒げることはないだろうが、気分を害していないか気になるらしい。
「でも、私もここで働くから」
「えっ?」
然も鯨も目を丸くする。
「だって鯨さん、この席の数でワンオペは絶対無理でしょう。人を雇うにしても、オープニングスタッフに仕事教えるって大変ですし。内装もおしゃれだし、お料理もこのおいしさだし、絶対人気が出ると思うんです。この前、然に言われたんです。鯨さんのお店を手伝いたいから、清もついてきてくれって」
鯨は目を瞬かせた。どうやら然の計画は寝耳に水だったらしい。然も清にあっさり作戦を暴露されてうろたえたものの、ならば今がチャンスだとばかりに畳みかける。
「だって兄貴、料理の勉強はしても経営については初心者だろ。俺と清がいれば会社で培った知識も役に立つし、兄貴も料理に専念できると思ったんだよ。……黙っててごめん」
「いや、なんとなくそんな気はしてた」
然はまたえっ、と声を出す。
「僕が店を出すって言ったとき、然は『俺に任せて』って言っただろう。何か企んでるなって思ったんだよ。お前、分かりやすすぎ」
鯨の突っ込みに然は額を抑えて天を仰ぎ、鯨は呆れたように笑っている。そして心配そうに清に振り返った。
「清ちゃん、本当にいいの? 仕事まで辞めなくていいんだよ」
鯨は心苦しいのだろう。今まで自己犠牲をしてきた鯨だから、清が無理をしていないか気になるのだ。
しかし清の答えは決まっている。
「いいんです。私、今日はそれを決めるためにここに来たんです。私、このお店気に入っちゃいました。ぜひ手伝わせてください」
「清あ……!」
然は清に向かって身を乗り出して、もはや泣きそうな顔になっている。
「俺、嬉しいよ。三人で兄貴の夢叶えられるなんてさ。俺、頑張るから。絶対繁盛させような」
「でも、ひとつ条件があります」
然はまたえっ、と声を出した。今日の然は赤くなったり青くなったり忙しい。
「然と私の式を、ここでやらせてください」
清の提案に鯨と然はぽかんと口を開けた。二人で顔を見合わせてしばらく固まっていたが、沈黙を破ったのは鯨だった。
「いいけど……でもここ、そんなに人数入らないよ」「清、いいのか? 友達たくさん呼びたいんじゃないのか」
二人とも心配そうにしているが、清は笑顔で彼らの不安を払拭した。
「いいの。本当に大切な人たちとここで結婚の報告ができたら、それだけで嬉しい。私、ここで鯨さんのお料理を食べながらみんなと楽しくお喋りしたい」
清の率直な気持ちに、徐々に二人の顔がほころんでいく。
やがて鯨が頷いた。
「かわいい義妹の頼みだ。頑張らないとね」
「忙しくなるな。店の開店準備と式の準備が同時進行なんだから」
鯨と然は顔を見合わせて、何から手を着けたらいいかとか、ひとまず店が先だとか、式は誰を呼ぶとか、楽しそうに計画を練り始めた。
清ははしゃぐ二人を見ながら、これでよかったのだと思うことにした。鯨のためにも、然のためにも、これが最善の選択のはずだ。
二人に言ったことは嘘ではないし、本心だ。清が好きなのは然であり、これから然の妻になる。その決意は今もこの先も変わらないし、いつか子供ができたら今よりずっと忙しくなって、よけいなことも考えない。大丈夫。鯨への気持ちはあの演奏会の日に置いてきた。万が一の間違いなんて起きるはずがない。私が好きなのは然なのだから――清は決意を固めるようにテーブルの下で両手をぎゅっと握った。
「そういえばこの店の名前、まだ聞いてなかったよね。もう決めた?」
然の言葉に、そういえば表に看板がなかったな、と清は思い出した。名前は大事だ。インパクトがあれば、それだけで記憶に残りやすい。
「六月の鯨」
鯨は即答した。六月の鯨。清と然は首を傾げた。「鯨」は店主である鯨の名前から取ったのだろう、理解できる。では「六月」というのは。
「なんで六月?」
清と同じく、然は不思議そうな顔をしている。
「六月は始まりの季節だから」
「普通、それって一月とか四月じゃない?」
「僕にとっては六月なんだ」
「ふうん?」
納得できていない様子の然に、鯨は続けた。
「店も六月にオープン予定なんだよ」
「ああ、なるほど」
然はようやく腑に落ちて、いいんじゃない、と肯定した。
「インパクトあって覚えてもらえそう」
な、と然が清に同意を求めると、清もうん、と頷いた。二人が何か話しているあいだ、清は鯨と出会ったあの日を思い出していた。鯨と初めて話したのも六月だった。合同演奏会のあと、髪が額に張り付くほど暑い日の夕方。あれから全ては始まった。
このとき鯨が何を思っていたのか清は知らない。本当は何が始まったかなんてきっと自分は知らなくていい。清はすべてに気が付かないふりをして、手元の紅茶を飲み干した。
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