六月の鯨 第五話
楽団の練習が終わって清が解体したフルートを片付けていると、先に片付け終わったクラリネットの茅原聡子が、ねえ清ちゃん、と声をかけた。
「このあとクラで飲みに行くんだけど、清ちゃんも行かない? 馬場の慰め会なんだけど」
「慰め会?」
清はクロスで楽器を磨く手を止め、目の前に立っている茅原を見上げた。
「振られたらしいんだよ。重いって」
「重いってなんすか! 俺は普通に愛情表現してただけっすよ」
同じくクラリネットの馬場宏斗は茅原にプライベートを暴露され、マウスピースにスワブを通していた手を止めすかさずたてついた。
「好きだって毎日伝えてたし、連絡もマメにしてたし、休みの日も一緒に過ごして……なのにユカちゃん、『怖い』とか言い始めて」
威勢の良かった馬場の表情はどんどん陰っていき、やがてその場に頭を抱えてうずくまってしまう。
「俺の何がそんなにいけなかったんだ……」
「そりゃ職場の飲み会もNG、同窓会もNG、あげく人のスマホ勝手に見る束縛男じゃ嫌われるわ」
茅原は馬場の欠点を指折り数えると、呆れたように見下ろした。
「いくらなんでもやりすぎよ」
「俺はユカちゃんが心配で……!」
馬場の反論を茅原はあのね、と強く遮った。
「いくら心配でもやっていいことと悪いことがあるの! それって彼女を信用してないってことでもあるんだよ。信用っていうのはね、してることじゃなくてしないことで築かれるものなのよ」
茅原はきっぱりと言い切ると、納得いかない様子の馬場を親指で指して、ね、こういうところよ、と清に同意を求めた。清も初めは振られた馬場を気の毒に思ったが、それなら自業自得だと考えを改める。
「まあ、人のスマホ見ていいことは何もないですよね」
「清さんまで……」
馬場は女性陣の否定っぷりに本気で落ち込んだらしく、同じくクラリネットの先輩の小野寺に、まあまあ、今日は飲もうぜ、なんて慰められている。
「すみません、今日は私、先約があって」
清は磨き終わった楽器をケースに納めて専用の鞄に入れると、横に置いていた荷物をまとめて立ち上がる。
「もしかして彼氏?」
からかうような口調の茅原に指摘され、清は曖昧に笑ってごまかした。練習が終わってすぐスマホを確認したら、恋人の然からラインが入っていた。
『創作料理と焼き鳥、どっちがいい?』
清は迷わず焼き鳥、と返事を打った。するとすぐに、然の予約した焼き鳥屋の店名と場所が送られてきた。
『先に入って待ってる』
というわけで、清は急がなくてはならない。金曜の夜、仕事が終わったあとの練習はいつものように午後八時まで行われた。ただでさえ遅い時間なのに、然をこれ以上待たせて酔っぱらいにするわけにはいかない。
「清さんばっかりずるいっすよ! 俺だって、俺だって本当なら今日――」
「分かった分かった、話なら店で聞くから。清ちゃんごめんね。また来週」
「お疲れさまでした!」
片付け終わってわめく馬場を小野寺は引っ張り、二人は賑やかに練習室を出ていった。
「あいつに次の春が来るのはまだ先だね」
二人を見送った茅原はため息をついて苦笑いした。茅原の言うとおり、あの様子では反省するどころかしばらく未練たらたらで、今日はみんな彼女への想いを日付が変わるまで聞かされるに違いない。クラリネットパートのみんなに同情しつつ、馬場もいつか本当の幸せを見つけられたらいいな、と清は願う。
「清ちゃんも今の人と長いんだっけ。なんかされたら言いなよ。ぶっ飛ばしてあげるから」
「ありがとうございます」
清はふふ、と控えめに笑った。清は茅原のこういう正義感が強くてはっきりしているところが好きだ。茅原は元航空自衛官で、かつて音楽隊に所属していた。結婚を機に退職し、それから長いことこの市民吹奏楽団でコンサートミストレスを務めている。
一方の馬場は去年から楽団に加わった清より四歳年下の看護師で、大学時代から付き合っていた彼女にベタ惚れしていたので有名だった。周囲からは結婚も間近か、なんて言われていたので、振られたショックも相当だろう。
「さ、行った行った。彼氏待たせちゃ悪いもんね」
「すいません、お先します。お疲れさまでした」
「お疲れ」
清は練習室を出ると早足で外に向かった。今日の練習場所は仙台市内の市民センターの一室だ。団員の集まりは毎回およそ六割程度。社会人楽団は練習場所も毎回あちこち変わるし、それぞれ子育てや仕事の都合があったりしてなかなか全員は揃わない。それでも本番までにはきっちり仕上げてくるのだから、やっぱりみんな音楽が好きなんだと清は感じている。
清は建物を出ると最寄りのバス停に向かい、十分後に来た市内バスに乗車してあおば通駅で降りた。そこからは徒歩で国分町方面に向かう。時刻はすでに九時近く、街は二次会の時間に入っている。夜はまだ冷える四月のはじめ、仙台随一の歓楽街の人出は多く、あちこち陽気で機嫌がいい。人も音も賑やかな通りの裏手に入って然の待っている店を見つけると、清はカラカラと引き戸を開けて予約です、栗原で、と店員に伝えた。話はすぐに通じて、お席こちらです、と案内された。
「ごめん、遅くなって」
清に気が付いた然はソフトドリンクのグラスを傾けていたのを止め、ぱっと笑顔になって出迎えた。
「全然。とりあえずビールでいい? あと料理、好きなの選んで」
仕事用のスーツ姿からパーカーにジャケット、チノパンの私服に着替えた然は、仕事が終わって一度自宅に戻ってから改めて出てきてくれたんだろう。手間をかけさせて申し訳ないと清が思うのを、彼はちっとも気にしていない。然はメニュー表を清に渡すと呼び鈴で店員を呼び、生ビールひとつ、あとも枝豆と冷奴も、と注文した。
「練習どうだった?」
清が料理を決めている間、然は清のビールが来るまで食事の手を止めた。お通しのほうれん草のごま和えの入っていた小鉢はすでに空になっており、食べ終わった焼き鳥の串が何本か空いた皿に乗っている。
「いつも通りかな。飲みに誘われたけど、断っちゃった」
「悪いことしたな。今度行ってきなよ」
「いいよ、慰め会だって言ってたし」
清は注文を決めるとメニュー表を置き、代わりにおしぼりの袋を破って手を拭いた。
「慰め会?」
「そう。彼女に振られた人がいてね」
清がさっき聞いたことをかいつまんで説明すると、然もそりゃだめだな、と苦笑いした。
「人のスマホ見たっていいことなんもないぞ」
「私もそう思う」
二人で笑っていると、お待たせしました、とすぐに清のビールが運ばれてきた。ついでに次の注文を済ませると、それでは、と言って、二人で冷えたグラスをカツンと鳴らして乾杯した。
然は清と同じ事務用品の会社で働く同期だ。六年前、入社してすぐの新人オリエンテーションで同郷だということを知り、二人はすぐに仲良くなった。
何回かグループワークで話すうち、然は営業に、清はマーケティング部に配属された。部署は違うものの同期の集まりは定期的に開催され、清と然はよく話すほうだった。清が大学まで吹奏楽をやっていて、と打ち明けると然も興味をもってくれたのか話が弾み、その後清が入団した吹奏楽団の演奏会を然が聴きに来て、惚れました、付き合ってくださいと言われて今に至る。
今思えば、スポーツマンタイプの然は吹奏楽なんてちっとも分からなかっただろうに、それだけ自分を愛してくれた事実に清は今でも胸がいっぱいになる。
然は明るくさっぱりした性格で、本音を内に秘めやすい清とは正反対だ。逆に然は繊細なことが苦手で、俺たち、補い合うために出会ったのかもな、と以前嬉しそうに話していた。
いつも一生懸命で楽しそうにしている然を清は好ましく思う。将来一緒になるならこういう人がいいと理想の人でもある。でもたまに、特に清が家族について話をするとき、然はどこか苦しそうな顔になる。もちろん本人がそう言ったわけではないし、あくまで清の目にそう映るだけだ。しかし然は自分の家族について話したがらない。言いたくない事情があるのだろうと察しているが、然との将来を考える上でこの話題は避けては通れない。
しばらく然と楽しく話をしていたが、今日の然はアルコールを頼まないことに清は気が付いていた。
「然、今日お酒飲まないね。具合でも悪い?」
清が指摘すると、然はう、と詰まって黙ってしまう。心配した清が水を頼もうとすると、然は思いつめたような表情で「聞いてほしい話があるんだ」と切り出した。清は呼び鈴に伸ばしかけた腕を下ろし、姿勢を正した然に向き合った。
「俺が家族の話をしないってもう気が付いてると思うんだけど、俺んち、ちょっと複雑なんだ」
「うん」
清は然のペースを崩さないように、言葉を選んで話す然をじっと待つ。
「俺の両親、俺が中学生の頃に離婚してるんだ。父親が今で言うモラハラってやつで、ときどき暴力的になる人でさ。母さんが俺と兄貴を連れて、中二のときに三人で家を出たんだ。でも母さん一人で俺たちを育てるのは限界があって……俺よりずっと頭が良くてなんでもできる兄貴が進学せずに働いて、そのお金で俺を大学に入れてくれたんだ。頭上がんないよ」
然はまいったよ、というように俯いて口元を押さえた。
「俺が大学に行ってる間に母さんも病気で亡くなって、今は肉親は兄貴しかいない。その兄貴が、働きながらずっと料理の勉強してて、今度やっと仙台で店を開くことになったんだ。自分の店を持つのが兄貴の夢だって俺、子供の頃から知ってたから……嬉しくて」
「そっか。大変だったんだね」
いつも快活な然が瞳を潤ませて説明するので、清も胸が熱くなる。清は然と三年付き合って、今日初めて然の家族の話を聞いた。兄がいるというのは聞いていたが、こうしてすべてを清に話せるようになるまで、然自身も自分の気持ちを整理するのに時間がかかったということだろう。それだけ彼は家庭のことで傷付き、長い間一人で抱え込んでいたのだと思うと清は今すぐ抱きしめてやりたい気持ちになる。
「俺も、できるかぎり兄貴の力になりたいと思ってるんだ。恩返しするなら今だって思うし、兄貴は断るだろうけど、これだけは譲れない」
然は穏やかに、けれど決意のにじんだ声で続けた。義理堅い然に、清はこの人を好きになって良かったと思う。然の困った人を放っておけないところも、助けてもらったら感謝を忘れないところも、清が然を好きな理由のひとつである。
「それでさ、こんな俺でもよかったら、なんだけど」然はそっとうかがうように清を見上げた。
「清さえよければ、俺と結婚してくれませんか」
突然のプロポーズに清は目を丸くする。
「お願いします」
然はテーブルに頭がくっつきそうなほど、深く深く頭を下げた。予想外の展開に清は声が出ない。然が急に静かになって、店の音がやけに大きく聞こえた。お客さんの笑い声に、焼き鳥が焼ける音。二人ともどうすることもできずにしばらくそのままでいたが、やがて然、と清が声を出したので然はびくりと頭を上げる。
「もうちょっとロマンチックなとこで言いなよ。ここ、焼き鳥屋だし。煙たいし。私、飲んでるし」
予想外の指摘に然はえ、とかう、とか漏らしてしどろもどろだ。まさかダメ出しされるとは思わなかったらしい。すっかり青くなったその様子に、清はふふ、と笑みをこぼした。
「でも、然らしい。いいよ。プロポーズ、お受けします。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
今度は清が頭を下げた。然は自分から言いだしたくせにぽかんとしている。やがて少しずつ頬が赤くなり、うんうん、とひとりで納得するように頷いて、ありがとう、嬉しいよと泣きそうに笑った。
「じゃあ、今夜はお祝いだね。然も飲もう。何がいい? ビール?」
清がメニュー表を開くと、いや、まだ、と然が制した。
「実は、もうひとつ大事な話があるんだ」
「もうひとう?」
プロポーズ以上に大事な話なんてあるのかと清が疑問に思っていると、然は先ほど以上に真剣な表情で切り出した。
「俺、会社辞めようと思うんだ」
清の呼吸が、止まった。
*
