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六月の鯨 第四話


暑さの落ち着いた九月下旬、葉輪高校の定期演奏会が高校の体育館で開催された。清が沙知絵と二人で訪れると、さすが強豪校だけあって観客の数も桁違いだ。学生だけでなく、OBや地域の人たちも大勢来ていて、駐車場だけでは来場者の車が収まらず、近辺の臨時駐車場も満車になるほどだ。
顧問である咲村の「聴いたら勉強になるよ」との助言で、清の中学の吹奏楽部員も大半が聴きに来ていた。清と沙知絵はまず体育館の入り口で入場料を支払い、チケットの半券とパンフレットを受け取った。体育館の席は開場して間もないのに八割ほど埋まっていて、それだけこの部活が地域に愛されているとうかがえる。
今日のプログラムは休憩を挟みながら第一部から三部まで用意されており、第一部はコンクールの課題曲や自由曲などのクラシック、第二部はジャズ特集、第三部は流行に乗ったポップスステージ、というように、テーマがそれぞれ決まっている。これにアンコールが何曲かあるはずだから、全体としては二時間強くらいのコンサートになる。
パンフレットの後半にはパートごとの部員紹介コーナーが載っていて、それぞれ写真やイラスト付きでパートメンバーを面白おかしく紹介している。清はまずトロンボーンのページを開き、後輩たちと一緒に肩を抱いて控えめに笑う鯨を見付けた。紹介文を書いたのはパートリーダーの鯨自身らしく、メンバー紹介の最後に自分の特技は料理、と書いてあった。
鯨の意外な趣味に清は驚いたが、彼なら何でもそつなくこなせそうだと納得する。彼の得意料理はなんだろう。和食? 洋食? それともお菓子とか? 彼の手料理をいつか食べてみたいと思うと同時に、家庭科の調理実習すらしどろもどろな自分に危機感を覚えた。自分が鯨の歳になったとき、同じことが清も自然とできるようになっているとは限らない。彼の隣に並ぶには、彼にふさわしい人間でいなければと、清は常々思っていた。
「鯨さん、料理するんだね」
同じページを見ていた沙知絵が呟いた。
「鯨さんと付き合ったら、将来、清ちゃんも手料理食べさせてもらえるかもね」
「そんなの、まだ分かんないし!」
清の初心な反応に沙知絵は楽しそうに笑った。そうなのだ。いろんなことがまだ分からない。未来のことなんて、ほんの少し先のことすら誰にも分からない。

ふざけている間に照明が落とされ、主役である葉輪高校の生徒たちがひな壇のステージに上がった。全員が着席し、観客席が静かになるとクラリネットのファースト、つまり奏者側のリーダー役であるコンサートミストレスがロングトーンを吹き込んだ。チューニングが始まり、まっすぐなBべーの音に各楽器の音が少しずつ重なる。徐々にふくよかになっていく音は旋律のようだった。まるで交響曲の一節を思わせる。音楽の技術というのはメロディだけではなく、こういう基礎の部分に現れるものなんだ、と清は身にしみて理解した。
音が止むとブラックスーツに身を包んだ指揮者の男性顧問が現れて、観客席に恭しく礼をした。清たちは拍手を送り、彼は登壇して譜面台のスコアをめくる。奏者たちと顔を合わせ、呼吸を整えると両手を上げた。全員が楽器を構え、ふっと右手の指揮棒が動くと体育館に華やかなマーチのイントロが響き渡る。
一曲目は清も聴き慣れたコンクールの課題曲だ。心なしか、大会のときよりもリラックスして聴こえる。審査員による評価を気にしなくていいから、楽しむことを優先して吹いているのかもしれない。
その次に演奏された自由曲も同様だった。あのときより技術が向上したというのもあるのだろうが、みんなほどよく力が抜けて余裕がある。他にも数曲、吹奏楽の世界で有名なラヴェルやガーシュウィンなどのクラシックが続き、どれも迫力があって感動的で美しかった。最後に観客の拍手で締めくくられ、第一部が終了する。
「やっぱりうまいね。さすが葉輪高校」
休憩に入り、いったん明るくなった体育館で、沙知絵はうっとりした様子でほうとため息をついた。
「大会のあと、短期間でこれだけ仕上げてくるのってさすがだよ。レベルが違う」
「音の厚みがすごいよね。私たちも高校生になったらこんなふうに吹けるのかな」
「どうだろう。練習も厳しそう」
清も沙知絵も圧倒されて言葉がない。単なる部員数の差だけではなく、ひとりひとりの技術の最低ラインがハイレベルだ。これだけ吹けるようになるにはどれほど練習を重ねたらいいのだろう。基礎練習をおろそかにしないことやスコアを読み込むことだけではなく、総合的な音楽の知識量も膨大な気がする。
「沙知絵ちゃんは将来、葉輪高校に進学するの?」
清は前々から気になっていた。沙知絵はせっかくオーボエの技術もあるし、もっと吹奏楽で上を目指せる高校に進学したいんじゃないかと思っていた。来年は自分たちも受験生だし、そろそろ現実的な進路を考え始めなければならない。
沙知絵はうーんと考え込み、やがてうん、と頷いた。
「まだ分かんないけど、そうしたいかな。進学校だから勉強しないと」
「沙知絵ちゃんなら大丈夫だよ」
沙知絵はそうかなあ、と困ったように笑うが、彼女ならきっとできると清は思う。沙知絵は楽器の腕がいいだけではなく、学力だって学年で上から数えたほうが早かった。できれば清もそれに続きたい。沙知絵と同じ高校で、鯨の後輩になってみたい。そのとき鯨が近くにいなくても、鯨と仲良くなるためにはそれが最も近道に思えた。
そういえば、鯨は進路をどうするのだろう。三年生の秋なら、もう行きたい大学は決まっているはずだ。願書を取り寄せたり赤本を読んだり、本格的に動き出さないと間に合わない。大学や専門学校はこの近くにほとんどないから、地元就職でなければ実家から離れて一人暮らしを始めるのは確定だ。
もうすぐ鯨と会えなくなるという事実に清はとたんに寂しくなる。年齢の差は埋められない。しかし、今日は少しでも鯨に近付くために作戦を用意してきた。
清の膝に置いたトートバッグには、鯨をイメージした青い花のブーケが入っている。今日は何か記念になるものを鯨に贈りたい、と沙知絵に相談したら、花束がいいよと勧められた。沙知絵によると、演奏会の贈り物で花束は定番なのだそうだ。
清は初めて花屋で花を注文した。相場が分からず、花は思ったよりも高価だということを初めて知った。財布は寂しくなったが、鯨のためなら惜しくない。
演奏会が終わったら、これを自分の連絡先を書いた手紙と一緒に鯨に渡すつもりだ。鯨は優しいから、きっと返事をくれるに違いない。そうしたら今までよりずっと親しい間柄になれる気がする。
もしそうなったら何を話せばいいのか、何から始めればいいのかと考えていたら、突然何人かの部員が楽器を持ってステージに登壇した。メンバーは全部員の半分もおらず、トランペットとトロンボーン、サックスが数人ずつに、クラリネット、弦バス、ドラムにコンガ、そしてピアノが一人ずつだ。
全員が位置につくなり、ドラムの奏者がおもむろにタムを刻み始めた。トロンボーンの特徴的な低音にトランペットが高々と重なる。即席のビッグバンド。イントロだけで何の曲か清はすぐに分かった。パワーにあふれて陽気で明るい曲。少し前に女子高生ジャズバンドの映画で有名になった。サックスの主旋律が鳴る。やっぱりそうだ。「シング・シング・シング」というスウィングジャズの名曲だ。
ほかの観客たちも覚えがあるようで、メロディが始まるとすぐに手拍子がついた。誰かの冷やかしの指笛が鳴る。管楽器の勢いのいいスウィングが体育館じゅうに響き渡る。少人数なのに大音量で、奏者も観客もみんなが体を揺らして曲に乗る。
「すごい……!」
その中には鯨の姿もあった。気持ちよさそうに伸びやかに音を鳴らす。みんなでアイコンタクトを取りながら、自由に、けれど決めるところはきちんと決める。パーカッションのノリの良さが全員を引っ張った。すごい。かっこいい。聴いているこちらまで楽しい気持ちになる。
パンフレットにはない、幕間の突然の演奏に会場の熱気は最高潮だ。体育館にいる全員がリズムを刻む。鯨が吹きながら笑顔になっているのが見えた。その様子が無邪気でかわいい。どうしても音楽が好きだ、というのが伝わってくる。
最後にみんなで音をかき鳴らし、曲は終わりを迎えた。清は手が痛くなるほど拍手を送る。クラシックの粛然とした空気が一変して、会場は和やかな空気に包まれた。
それ以降は、進行役の放送部員の軽妙なトークでプログラムが進んでいき、ときおり無茶振りされた部員のアドリブコメントが面白くて何度も笑った。演奏は何を聴いても一級品で、みんな楽しそうに吹いているのが印象的だった。清は絶えず手拍子を鳴らして体を揺らし、沙知絵がそっと、来てよかったね、と耳打ちしたので、清もうん、と素直に頷いた。

演奏中の鯨は輝いており、清の目はずっと彼に向いていた。楽器に懸命に息を吹き込む彼は真剣で、曲が終わって拍手をもらうと柔らかい笑みを浮かべた。たまに隣の後輩と何か打ち合わせているのが、素の彼を見ているようで嬉しかった。
清は吹奏楽をしている鯨しか知らない。だから、これからもっと鯨のことを理解したかった。好きなものはなんだろう。苦手なものはなんだろう。休日は何をして、普段はどんな服を着て、どんな人たちと付き合うんだろう。将来の夢は? 住んでみたい場所は? 彼の世界の一員に清も加わりたい。彼にもう一度、清ちゃんと呼んでほしい。
ああ、もうすぐ演奏会が終わってしまう。このアンコールが終わったら、私は、鯨さんに。

「以上をもちまして、本日の演奏会は終了させていただきます。お帰りの際はお忘れ物のないようお気を付けください。本日はご来場、誠にありがとうございました」
演奏会終了のアナウンスが流れると、体育館は再び拍手に包まれた。暗かった体育館は明るくなり、観客たちも次々と席を立つ。清も沙知絵と立ち上がり、人の流れを邪魔しないよう体育館の端にひとまず避けた。やがて奏者たちも動き始め、演奏会は片付けの作業に入るようだった。
「私、去年まで先輩だった人に挨拶してくるね」
沙知絵も沙知絵で会いたい人がいるらしい。辺りをきょろきょろと見渡して、目あての人を見付けるとぱっと顔が明るくなる。
「清ちゃんも頑張って!」
沙知絵はぽん、と軽く清の背を叩いて行ってしまった。清はひとり残され、急に心細くなる。
しかし今日は鯨と確実に会える最後のチャンスだ。気後れしている暇はない。清も覚悟を決めて彼を探した。観客席のパイプ椅子が徐々に減っていく中、奥のほうで初老の男性と会話する鯨を見付けた。二人は知り合いなのか話し込んでおり、会話が一段落して男性が手を振って別れたところに清はすかさず駆け寄った。
「清ちゃん、来てくれたんだ」
鯨は清だと認識するなり、いつものように柔和な笑みを浮かべた。これだけ熱の込もった演奏をしたあとなのに、鯨はやっぱり凪いでいる。鯨という名の通り、大きな鯨みたいだと清は思う。
「あの、今日の演奏、とっても良かったです! すごく楽しかったです、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しんでもらえたようで嬉しいよ」
清が何を言っても鯨は完璧な微笑みを崩さない。どんなに清が熱くなっても鯨はいつだって余裕がある。この前、東北大会のあとに駐車場で話したとき、一瞬揺らいだところを見たような気もするが、それは清が来ていることを知らなかった鯨が驚いただけかもしれない。
鯨と二人でいるとき、いつだって心を乱されているのは自分だけな気がして、清はほんの少し悔しくなる。
「それで、あの、これ」
清はトートバッグから青いブーケを取り出した。
「僕に?」
「鯨さん、今日で引退なんですよね。三年間お疲れさまでした。大学でも吹奏楽頑張ってください。それからこれ、私の――」
「僕はもう吹かないよ」
連絡先を渡そうとした清を遮り、鯨ははっきりと宣言した。え、と清は顔を上げる。
「吹奏楽は高校で終わり。これはもう決まったことなんだ。だから君とは一緒に吹けない」
予想外の返事に清が言葉を失っていると、鯨は笑みを絶やさず淡々と続けた。
「何か期待させてしまったのならごめん。でも今日で全部終わりだよ。僕を追いかけるのは止めて、清ちゃんは清ちゃんで頑張るといい」
清は鯨の主張を受け止めきれない。今日で終わり? 全部って何のこと? 楽器のこと? 音楽のこと? それとも私と話すこと?
「鯨! 三年生で写真撮るって!」
遠くから彼の友人らしき人が呼びかけると、鯨はいま行く、と振り返って叫んだ。
「さよなら」
そう言い残して彼は去っていってしまった。同じ学年の生徒たちだろう、ひな壇の前で固まって何やら盛り上がっている。そのうちの何人かはちらりとこちらを見やり、ひそひそと何か囁いていた。
清は一歩、二歩と後ずさりし、やがてくるりと踵を返して早足で体育館を出た。入り口で待っていた沙知絵がどうだった、と聞いて間もなく、彼女は鯨に渡すはずだったブーケを清が持ったままなことに気が付いた。
「清ちゃん……?」
きっとひどい顔をしていた。清は沙知絵の顔を見られなかった。言葉が何も出てこない。沙知絵に今あったことを説明したいのに、ちっとも頭が回らない。
「……」
どうすることもできないでいる清を、沙知絵はそっと清の手を引いて連れ出した。体育館から逸れて昇降口の見えないところまで来ると、下駄箱の影に隠れて清の抱えたブーケごと、沙知絵は清をぎゅうっと抱きしめた。
「頑張ったね」
ぽんぽん、と沙知絵は清の背を撫でた。瞬間、清の目から涙がこぼれた。鯨への思いがこみ上げる。ひとりでいた自分を助けてくれた鯨。清の名前を覚えてくれた鯨。たくさんの人でごった返すなか、自分を見つけて叫んでくれた鯨。
振られたのだ。思いを伝えることなく、清は玉砕した。鯨のことを、自分はなんにも分かっていなかった。ひとりで盛り上がって、楽しい未来を想像して、これじゃまるで馬鹿みたいだ。
「沙知絵ちゃん」
清は声を絞り出した。
「私、明日から何を目標に生きていったらいいのかな」
清は震えていた。沙知絵を困らせたくないのに、落ち着きたいのに、体がまるで言うことを聞かない。沙知絵はひたすら清の背を撫でながら、ごめん、私にも分からないや、と言ったのに清はまた泣いた。

定期演奏会から何日も経たないうちに、鯨は母と弟とともに家を出た。父が出張で不在のタイミングを見計らい、三人で市内にある母子生活支援施設に引っ越したのだ。
母は傍若無人な父に耐えられず、やっと離婚を決意した。けれどあの人が素直に離婚届に判を押すはずがない。なので彼が仕事でいない隙に、記入済みの離婚届を置いて三人で出ていくことにした。
母は前々から、こっそりと市の女性相談窓口に通っていたらしい。そこのアドバイスで、子供が十八歳未満であることを条件に入居できる福祉施設を利用することにした。そこなら、仮に激怒した父親が追いかけてきたとしても、中に入ってまで自分たちを問い詰めたりすることはできないらしい。
あらかじめまとめておいた少ない荷物を持って、鯨は家をあとにする。曲がりなりにも十八年住んだ家だ。多少寂しい気もするが、これであの父と決別できると思えば胸がすく。新たな生活は不安だが、あの息苦しさに耐えるよりははるかにましに思えた。
幸い、弟は通学距離は遠くなるが転校の必要もなく、鯨も高校卒業まではここにいられることになっている。だが問題はその後だ。
「ごめんね。進学はさせられない」
あの夜、母は鯨の手を握って謝罪した。母は父の希望で専業主婦になったので収入がない。これから就職先を探すつもりではいるが、鯨を進学させるとなると学費も生活費もかかるため希望を叶えるのは難しい。鯨がアルバイトでこつこつ貯めた夢のための軍資金は卒業後の鯨自身の生活費に回し、施設を出て就職したら給料の一部を母と弟の生活費に充てることになった。
「鯨、ごめん。本当にごめんね」
「母さん、気にしないで。僕なら大丈夫だから」
涙を浮かべて何度も何度も謝罪する母を鯨は懸命になだめた。計画がこんな形で終焉を迎えたことに悔しさがないわけではなかったが、それ以上に自分が家族を守るのだと覚悟が決まった。今は夢より生活の安定が最優先だ。不安はあるが、今より悪くなることなんてきっとない。そう信じることだけが鯨の希望だった。
未来のことなんて、ほんの少し先のことすら誰にも分からない。どうせ信じるなら、良い方の未来を信じてみたい。
もしかしたらあのときの清もそうだったのかもしれない。だが鯨は目の前のことで精一杯で、誰かを想う余裕などなかった。これは正しい判断だったのだと自分に言い聞かせて、鯨はまた大事なものを諦めた。


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