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六月の鯨 第九話


寒さも本格的になってきた十二月の定休日、清は店のキッチンに立っていた。今日は鯨も然も買い出しに出かけていて家にいない。二人とも徒歩で出て行ったので、帰ってくるまで時間がかかりそうだ。
そういうとき、清はこっそり料理の練習をすることにしていた。それも、店に出すほうの。
清は夏に自分が倒れた際、この店で料理ができるのが鯨しかいないことに危機感を覚えた。この先鯨に何かあったとき、ほかに作れる人がいないと店を開けられない。たとえ短期間であっても、一度客が離れれば戻ってくる保証はない。それを防ぐためにも清も一品でも何か作れるようになれないか画策し、鯨からレシピ帳を借りて少し前から練習するようになった。
今までも忙しいときは鯨の補助に入っていたが、それは野菜を刻んだりサラダを皿に盛り付けたりする程度で、実質的な調理には関わらせてもらっていない。然は料理はからっきしだし、やるなら清しかいないのだが、鯨に教わろうにも決して料理が得意とは言えない清が彼の目の前で鍋を振るうのは気が引けた。
そういうわけで、鯨のレシピ帳をちょっと見てもいいですかと言って拝借し、こっそりコピーしたものを見ながらこうしてしばしば挑戦している。
今日のチャレンジはオムライスだ。さっき作ったチキンライスはまあまあうまくできたはずだ。玉ねぎもピーマンも均等にみじん切りできたし、ご飯は水っぽくならずケチャップがうまく絡んでいる。デミグラスソースは小麦粉を炒めるのが難しく、狙ったような色にはならなかった。ダメ元で水と赤ワインを足して煮込んだら、酸味が飛んでなんとかカバーできたのではないかと思う。
最後は玉子だ。卵に牛乳を加えてかき混ぜておき、熱したフライパンにバターを置いた。じゅわっといい音が鳴り、全体に回したら卵を入れる。軽く菜箸で混ぜ、固まりきらないうちにチキンライスの上にそっと乗せる。半熟の玉子がとろりとほぐれて見た目にも美味しそうだ。ここにソースをぐるりと回しかけ、最後に生クリームを一筋。これで完成だ。
清はさっそく、できたてをスプーンですくって口に運んだ。ぱくりと含んで咀嚼し、細かいところも気が付くようにできるだけよく味わう。
ごくんと飲み込んでもう一口。さらにもう一口。何度か続けて食べると、うーん、と清は首をひねった。食べられないことはない。ものすごくまずいわけでもない。美味しいといえば美味しい。しかしこれは鯨の味ではない。材料も、分量も、火加減だってレシピ通りに作ったはずだ。なのに何度やっても成功しないのはなぜだろう。鯨の作り方といったい何が違うのか。知らないうちにどこかで手順を間違っただろうか。
ひとまずソースをもう一度、と思っていると、玄関のほうでただいま、と声がした。今のは鯨だ。まずい、と思った清の気持ちとは裏腹に、鯨はそのまま二階へ行ってくれればいいものを、足音はまっすぐキッチンへ向かってくる。清が片付け終わらないうちに彼は顔を出し、広がっている光景に目を見張った。
「レシピ帳を貸してほしいって言うから、何してるのかと思えば」
冬になって店も寒くなるから、と言って客用のブランケットを買いに行った鯨は、おそらく以前から目星をつけていたんだろう、思ったよりも早い帰宅で清の予定が狂ってしまった。あくまでこっそり練習するつもりでいた清の計画は、あっさりと幕を閉じた。
「オムライス、美味しそうだね。お昼ごはん?」
「いえ、お店に出す料理の練習してたんです」
「店に?」
今さら嘘をついてもしょうがないと観念し、清は正直に打ち明けることにした。
「今後もし鯨さんに何かあったらこのお店開けないでしょう? だからもう一人作れる人がいたほうがいいなって夏に倒れたときに思ったんです。でもレシピ通りに作ってるのにどうしても鯨さんの味にならないんです。どうしてだろう」
清が首を傾げたのになるほど、と納得した鯨は清の隣にやって来て、カトラリーからスプーンを取り出すと 冷めてしまった清のオムライスを一口すくった。
「いただきます」
ぱく、と口に含んで清と同じようによく味わった。二、三口食べると、やがてうんうん、と分かったように頷いた。
「これはこれで美味しいよ」
「はっきり言ってください。お金をいただく料理に『これでいいや』ってものは出したくないので」
清が主張すると、鯨は少し考え、真面目な顔で清を見つめた。
「じゃあ、正直に言うね」
清はごくりと喉を鳴らした。
「清ちゃんの味は未熟だ。店に出せる料理じゃない」ずき、と胸が痛んだ。分かっていたことだが、はっきり言われるとやっぱり傷付く。実はこのオムライスを作るのは三回目だ。出来は毎回安定しないし、どれも鯨の味とは違っていた。
清が落ち込んでいると、鯨はでも、と明るく続けた。
「もっと練習すれば整っていくと思うんだ。がむしゃらじゃなくて、まずはスープから作ってみたらどうかな。簡単なものから、少しずつ難しいものに挑戦していこう。楽器の練習みたいに」
前向きな鯨のアドバイスに、清は心に明かりが灯った気分になった。鯨の言う通り、楽器の練習だって指が回らなかったら遅いテンポから練習するし、高音も低音も美しく鳴らすには基礎練習が鍵だ。料理も同じで、いきなり本番はできないということか。清は肩の力が抜けて、はい、と返した声には元気が戻っていた。
立ち直った清に安心したのか、鯨はホールに回って買ってきたものを袋から出し、値札をはさみで切っていく。くすんだ赤や黄の、北欧柄の可愛いブランケットがテーブルいっぱいに広がっている。それらを鯨は一枚ずつ客用の椅子に置いていく。寒くてもスカート姿で来店する女性客も多いから、冷えやすい店内できっと重宝されるだろう。
その間に清は残りのオムライスを平らげ、広げていた調理道具を片付けた。
「鯨さんはもう楽器吹かないんですか?」
洗い物をしながら、清はホールにいる鯨に声をかけた。
ずっと気になっていた。実力があるはずの鯨が、高校で吹奏楽を辞めてしまうのはもったいない。卒業後に大学に入っていれば吹奏楽のサークルで活動できただろうし、そうでなければ自分で楽器を用意して、楽団に入ることだってできたはずだ。しかしそんな余裕はなかった鯨だから、本当は吹きたいのに吹けなかったのではないかと清は邪推していた。いつかの夕飯のとき、点けていたテレビの吹奏楽特集を見て、いいなあ、と彼が呟いたのを清は聞き逃さなかった。
清の質問に鯨は少し悩んだのち、ちょっと待ってて、と言って母屋の二階に上っていった。彼はすぐに下りてくると、手にしていたのはトロンボーンの楽器ケースだった。
鯨がホールに回ったので、片付け終わった清も付いていく。鯨が床の上でケースを開けると、よく使い込まれた古いトロンボーンが顔を出した。
「これは祖父の形見なんだ」
鯨の祖父のことなら以前聞いたことがある。確か喫茶店を経営していて、ビッグバンドを組んでいたと言っていた。もしかして彼もトロンボーン吹きだったのか。
「僕が吹奏楽を始めた頃に祖父が亡くなって、形見分けでもらってきたんだ。中学も高校も、ずっとこれを吹いてた。社会人になってからは、ほとんど息を通してないんだけどね」
鯨は懐かしそうに楽器を見つめる。
「もう手放そうかと思ったんだけど、できなくて」
楽器は長く使われただけあって色が鈍い。しかし傷も凹みもほとんど見当たらない。不具合が起きるたびにリペアしながら、鯨も鯨の祖父も大切に使ってきたのだと伺えた。
「まだ吹けますか?」
「どうかな。もうずっと吹いてないし」
清は鯨の音を聴きたかった。清が鯨の音を聴いたのは、沙知絵と行った葉輪高校の定期演奏会が最後だ。楽しそうにビッグバンドをしていた鯨を思い出す。生き生きとして、自由で、明るくて、あれが本当の鯨なのだと清は信じている。
清は楽器を見つめる鯨を遮り、そっと腕を伸ばしてマウスピースを手に取った。年季を感じさせるマウスピース。清はそれを鯨に差し出した。これだけなら、店の中で吹いても近所迷惑にはならない。鯨は吹いてくれるだろうか。
鯨は逡巡し、清からマウスピースを受け取ると、一度キッチンに戻って水洗いし、軽く息を吸ってその場で吹き込んだ。ブーッとマウスピース特有の振動音が店に響く。ブランクがあるわりには、思っていたよりずっとしっかりして大きい音だ。鯨はそのまま音階をつけて鳴らしてみて、やがて我慢できなくなったのか本体を手に取って組み立てる。
動きに迷いはなかった。鯨は立ち上がって背を伸ばし、正しい姿勢で楽器を構える。顔は真っすぐに前を向き、清は鯨の真剣な横顔から目が離せない。
アンブシュアを作って大きく息を吸い、いよいよ、というところで鯨はぴたりと動きを止めた。
「さすがに、ここじゃあね」
鯨はバツが悪そうに楽器を下ろした。金管楽器の音は大きいから、店の中で吹いたら確実に近隣から苦情が来る。店を経営する上では致命的だ。しかしそれでも後ろ髪を引かれるのだろう、なかなか片付けられないでいる鯨に、言うなら今だ、と清は勇気を出した。
「鯨さん、うちの楽団来ませんか」
鯨は驚いたように清に振り返る。
「トロンボーン、人が足りないんです。来てくれたらみんな喜びます」
すかさず清は畳みかけた。鯨はきっと遠慮する。それは店が第一だからだ。そんなことは清も織り込み済みなので、どうしたら彼をその気にさせられるかを考える。
「でも、ディナーがあるし」
思った通り、鯨は反論した。
「今までだって私がいないときは予約入れなくても回ってたじゃないですか。なんとかなりますよ」
「清ちゃん、はっきり言うね」
鯨は苦笑いする。彼の気持ちはまだ動かない。
「でもコンクールに出るのは難しいよ。店も休みにしなくちゃならないし」
「うちの楽団、コンクール以外にもけっこう出番ありますよ。何かのイベントとか、あと学校に指導で出向くこともありますし」
楽団の活動内容はコンクールだけではない。定期演奏会をはじめとして、地域のイベントごとやお祭りなどに呼ばれて小さなコンサートをするのはしょっちゅうだ。そもそも吹奏楽はみんなで演奏して、それを聴いて喜んでくれる人たちがいるから楽しいのだ。コンクールで良い成績を収められればもちろん嬉しいが、みんなで合わせる楽しさは何物にも代えがたい。
「僕はきっと頻繁には出れないよ。ブランクもあるし」
「来れる時だけ来て吹いていく人もいますし、イベントも出られるメンバーで回してます。とりあえず一度来てみて、出られそうな演奏会にひとつ参加するくらいの気持ちでいいんじゃないですか」
清の熱心な説得に、鯨はうーん、としばらく考え込んだのち、やがてうん、と頷いた。
「じゃあ、行ってみようかな。まずは見学だけ」
清はぱっと顔を輝かせた。鯨の気持ちが変わらないうちに動いてしまえと、清はその場で楽団の団長に連絡を入れ、了承を得た。約束さえ取り付けてしまえばこっちのものだ。説得こそ清がしたものの、決断したのは鯨自身だ。今さら止めるなんて言えないだろう。
そして鯨はさっそく次の練習日、清と一緒に楽団の練習に行くことが決定した。清はずっとそわそわしていたが、鯨はいつもと変わらず、その日を迎えた。

「君が清ちゃんのお義兄さんだね。話は聞いてるよ」
ベテランのチューバ奏者の櫻井智彦団長は、今日ここに来てからずっとにこにこしてご機嫌だ。不足しがちだったトロンボーンの希望者が来たのがよほど嬉しいらしく、今日はいつもの二割増しで饒舌だ。鯨が正式加入すれば演奏会のたびにほかの楽団からヘルプを呼ばなくていいし、もっと単純に楽団の仲間が増えるのは誰にとっても喜ばしい。
「義妹がお世話になってます。今日はよろしくお願いします」
鯨が挨拶すると、鯨は櫻井によってさっそくトロンボーンパートに案内された。ほかのパートより明らかに少ないメンバーと顔合わせを済ませると、さっそくケースから楽器を出して音を鳴らす。離れていた期間が長かったものの、息を吹き入れるとポーンと伸びやかな音がして、それほど技術が落ちているようには思えなかった。ロングトーンやコラールなどの基礎を吹いたあと、試しに直近のイベントで演奏する楽譜をもらって吹いてみると、初見にも関わらずほとんどスムーズに吹くことができた。
おお、とパートメンバーから拍手が湧く。さすが強豪校とか、次の演奏会出れる? とか、次はこれ合わせてみようとか、早くも馴染んだようだった。
その様子を見て清は安堵した。メンバーとも相性がいいようだし、この調子なら今日は見学だけの予定だったが、正式に入団してもらえるかもしれない。
鯨の望みがまたひとつ叶ったことに清はほっとする。清は鯨には幸せになってほしかった。これまで努力を怠らなかった分、報われればいいと思っていた。けれどそれ以上に、清は憧れの鯨と一緒に吹く昔からの目標がやっと達成できるのだ。清はこの先が楽しみでしょうがない。
「清ちゃん、嬉しくてしょうがないって顔してる」
清の隣で吹いていた小宮がそっと話しかけた。
「昔から知り合いだったんだものね。夢が叶って良かったわね」
「はい!」
その後の合奏で鯨は現役勢にも劣らない腕を見せ、周囲の歓迎ムードも手伝い、そのまま正式加入となった。トロンボーンパートでは近いうちに歓迎会を開くことまで決まっていた。あのパートはなぜかみんな酒に強いので、あくまで平均的な飲み方をする鯨が潰れないといいなと、清はほんの少し危惧している。
練習も終わり、清と鯨は並んで帰路についた。街はクリスマスムード一色で、至るところでクリスマスソングが流れている。イルミネーションが煌びやかに光り、街行く人はどこか浮かれて、そわそわするような、どきどきするような、賑やかな季節がやってきたのを実感する。
「今日、どうでしたか」
二人で歩きながら清は尋ねた。鯨は歩く速さを清に合わせてくれている。ほう、と鯨が息を吐くと、白い息がゆるやかに後ろに流れていく。
「楽しかったよ。やっぱり合わせるのはいいね」
鯨の声は弾んでいた。いつも落ち着いているはずの彼の様子に、清はようやくほっとした。本当は無理やり入団させたんじゃないかと少し心配だったのだ。杞憂だと分かり、清は胸のつかえが取れた気がした。
「団長も喜んでました。たくさん出てほしいみたいだったけど、そのへんはお店の予定を見ながら」
「そうだね。無理はしないよ」
順調な滑り出しができて良かったと清は思う。鯨が音楽に対して前向きになり、また楽しく吹いてくれたら誘った本人としてもこんなに嬉しいことはない。
鯨が清ちゃん、と呼んだので清は振り向いた。
「誘ってくれてありがとう。あのとき吹かせてくれなかったら、きっと今も変わらないままだった」
鯨は目を細めて清に笑いかけた。その幸せそうな表情に、清も胸がいっぱいになる。鯨はいつだって冷静だ。昔から凪いだ姿勢を崩さない。けれど高校生のころの、どこか寂しそうな気配をまとっていた鯨はもういない。彼は孤独な鯨ではなくなったのだ。二人の白い息が流れていく。
「練習どうだった?」
家に帰ると、然が夕飯を温めて待っていてくれた。今夜は清が作り置きをしていったので先に食べていても良かったのに、二人が帰ってくるまで待っていたらしい。
「楽しかったよ。正式に入団の申請をしてきたところ」
鯨がマフラーを外しながら報告すると、然はよかった、と顔をほころばせた。
「俺、兄貴がまた楽器吹いてくれたらいいなってずっと思ってたんだ。今まで忙しくてやりたくてもやれなかっただろ。店も軌道に乗ってきたし、気兼ねなく吹いてきなよ」
これには鯨も驚いたようだ。然まで自分の心配していたとは思わなかったらしい。願いを叶えるのは案外己次第だったのだと、鯨はようやく気が付いたみたいだ。
「清も。お疲れ」
然は清にも労りの声をかけた。ありがとう、と清は答えて、一度部屋に荷物を置いてから居間に向かった。
手を洗って三人で食卓につく。いただきます、と手を合わせ、然の温めてくれた食事をほおばった。今日はいい一日だった、と清は幸せを噛みしめる。鯨が嬉しくて然が優しくて、一足早くクリスマスプレゼントをもらった気分だ。
清と鯨は今日の練習の話が弾み、然がそれに相槌を打つ。和やかな団欒のなかにいたのはいつもと同じ明るい然だった。このとき清は舞い上がっていて、然の不安に全く気が付いていなかった。

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