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六月の鯨 第十一話


「然、これとこれ、二番テーブルに運んで」
「了解!」
「清ちゃん、付け合わせのサラダ三つお願い」
「はいっ!」
「次、牛すじカレーと春野菜のパスタ、ローストビーフ丼……カレー足りるかな」
「兄貴、日替わりランチ二つ!」
「了解。あっ、清ちゃん、それできたら三番に食後のダージリン用意して」
「はいっ!」
アコースティックギターの店内BGMが流れ、楽しそうに談笑する客で埋まったホール。その裏で「六月の鯨」のキッチンは今日も慌ただしい。
日曜のランチタイムは一週間のなかで最もめまぐるしい。お客さんはひっきりなしで、料理は手早く作るよう心がけているけれど、待たせてしまうこともしばしばだ。
幸い、クレームのようなものはほとんど来たことがなく、ネット上での評価もまあまあだ。お待たせしました、と清や然が料理を運んでいくと、客のほとんどは嬉しそうに顔をほころばせる。会計のときにごちそうさまでした、美味しかったですと笑顔で言ってもらえると、清たちはこの仕事をやっていて良かったと思う。飲食店経営の醍醐味だ。
清は鯨のアシスタントをしながら、手が空くと然の手伝いに回る。注文を聞いて、作って、運んで、会計をし、皿を洗う。その繰り返しだ。動いていると考える暇がないのがいいと清は思う。会社員時代もそうだったが、少し忙しいくらいのほうが自分には合っているのかもしれない。こういうのをきっと貧乏性というのだろう。
鯨とはあの一晩限りで、二人の関係に変化はなかった。今まで通り義兄と義妹で、上司と部下で、生活を共にする家族だった。二人きりになってもあの日の話題が出ることはない。きっとお互いに気を遣っている。その優しさが、清はありがたかった。
然とはときどき体を重ねるようになった。然は情熱的に清を愛した。清もできる限りの愛を伝えた。然と結ばれると嬉しいし幸せだ。嘘ではない。一緒に果てて、清は然の腕の中に収まった。然が緩慢に清の後ろ髪を撫でる。疑いようのない幸福。できるといいな、と然は言った。そうだね、と清も答えて然の背中に腕を回した。暖かい布団で二人で眠る。鯨もきっとそれを知っている。

季節は五月になった。今年は暑くなるのが早くて、大型連休中から連日夏日が続いている。
暑さに身体が慣れていないので、入浴や運動でできるだけ汗をかきましょう、とテレビで言っていた。清はできるだけぬるいお湯に浸かって汗をかき、楽団の練習は目的地よりひとつ早くバス停を降りて歩くようにした。それでも体の怠さはなかなか抜けない。冷たいものを多く飲んでいるせいか、胃の調子も悪かった。自分はこんなに暑さに弱かっただろうか。もしかしてこれも加齢が原因のひとつだったりするんだろうかと自分なりに原因を考えた。
もしかしたら忙しさのせいかもしれない。先日、地域密着型のローカル雑誌に「六月の鯨」が紹介されてから、ずいぶんと客足が伸びている。然のSNS戦略がうまかったのも一因だ。インスタグラムに店の開店時間や毎月の営業日をアップして固定表示にし、新作のメニューを定期的にアップした。余計なものは載せない。分かりやすさを第一にした「映える」投稿は人気で、フォロワー数はあっという間に四桁になった。そろそろ本格的に人を雇おうか、という話も出たくらいだ。
その日は平日で、ランチタイムが過ぎると客が減り、業務に余裕ができた。それがまだ幸いした。動いていたときは気付かないふりをしていたが、清は食べ物の匂いが嫌で嫌で仕方なかった。換気はしているが食べ物の匂いはどうしても残る。カフェタイムの途中で清はいよいよ胃のむかつきが限界になり、吐き気が我慢できずトイレに駆け込んだ。
「清、大丈夫か?」
戻していると、心配した然が追ってきて背中を撫でた。
「うん……戻したら少し楽」
とは言ったものの、ホールに近付くと再び吐き気が襲ってくる。清は立っていられず、その場にしゃがみ込んだ。
「今日はもう上がっていいよ。平日だから混まないし、無理しないで」
鯨がそう言ったのに清は甘えて、二階に下がることにした。然が布団を敷いてくれたので横になる。ただの夏バテだったならいい。でももし感染症や食中毒だったらと思うとぞっとする。清だけではなく、然や鯨も感染していたら客に移る可能性もあるからだ。保健所に連絡して指示を仰がなければならないし、評判も落ちて客足だって遠のくだろう。どうか杞憂でありますように、と清は祈る。
体は怠いし吐き気が消えないので、とにかく気を紛らわせようと部屋の中をあちこち見渡した。ふと、机の上に置きっぱなしだった化粧品が目に入った。そういえば、ファンデーションがそろそろなくなりそうだっけ。近いうちにドラッグストアに行かないと。ついでにほかに買うものは……リップクリームもシャンプーもあるし、飲み物やお菓子はこの前スーパーで買ってきた。あと生理用品はあったかな、と思い返して気が付いた。そういえば最近使った記憶がない。生理が最後に来たのっていつだっけ。思い出せないくらい前だった気がする。もしかしてこの吐き気って。まさか。

妊娠検査薬の結果を持参して産婦人科に行き、いよいよお墨付きをもらうと、然も鯨も手放しで喜んでくれた。
「清、よくやった!」
「清ちゃん、おめでとう」
然は歓喜で目を潤ませているし、鯨もにこにことして嬉しそうだ。予想通り、清のお腹には命が宿っていた。
「無理するなよ。つわりもあるし、しばらく店のほうは休もう」
「それがいいね。しばらくお客さんもセーブしよう。もちろん、つわりが落ち着いたらいつでも戻ってきていいよ」
「ありがとうございます」
清は店に出ない代わりに家のことを引き受けた。食事の支度はできないが、洗濯、掃除、買い出しに洗い物。食べ物の匂いがなければ動いていられる。なるべく今までどおりを心がけつつ、無理をしないように清は気を付けた。
楽団の練習はできるだけ参加した。楽団の皆に祝福され、茅原や小宮などの先輩ママから出産の経験談を聞いて震え上がったりした。それでも我が子への愛おしさと家族が増える楽しみのほうが勝っている。きっと然や……おそらく鯨も、同じだと信じている。

本格的な暑さを乗り越え、九月に入ってようやく清のつわりが落ち着いた。もう食べ物の匂いに反応して嘔吐することもない。問題なくホールに出られるし、調理もできる。ただし、体が丸みを帯びてお腹の大きさが目立ってきた。胎動を感じることもしばしばだ。お腹の中で我が子が動くたび、この子が懸命に生きていることを実感する。
出産予定日は十二月だ。あと三ヶ月。子供の成長は順調で、検診で姿を確認するたびに早く会いたいと願う。然は早くも子ども用のおもちゃを用意し、鯨は産着を買ってきてくれた。
どうか無事に生まれてきてほしい。そう祈りながら、清はいつも通りに仕事をこなした。

その日はランチタイムが終わり、カフェタイムになっても珍しく客が訪れなかった。九月が終わりに近付いても暑さは和らぐことなく、日差しが強くてみんな外に出たがらない。鯨は思い切って店を閉め、午後は細かい事務作業に徹することにした。
レジを閉じ、パソコンで売り上げの計算をする鯨。タブレットでSNSの更新用の画像を作る然。冷蔵庫と収納棚を見ながら、食材の注文の数を決めていく清。
「俺、幸せだなあ」
客用のテーブルで作業していた然がしみじみと呟いた。清も鯨も手を止めて然に目を向ける。
「兄貴の夢だった店に兄貴と清がいて、清のお腹には俺の子供がいてさ。こんな幸せなことってないよ」
然の口元が緩んでいる。よほど噛みしめているのだろう、タブレットを打つ手がいつの間にか止まっている。
「何言ってるんだ。これから然は父親になるんだぞ。もっと幸せになるんだよ」
そう釘を刺す鯨も嬉しそうに笑っている。
「そうだよ。お父さん、頑張らないと」
清も然を激励した。その言葉には妻として、母としての強さと責任感を含んでいる。
「そうだけどさあ」
然は頬杖をつき、やっぱ恵まれてるわ、と嬉しそうに繰り返した。
鯨は安心したように然を見つめている。鯨の希望は然が幸せになることだから、鯨の願いも叶ったということだろう。然と清の子が生まれたらもっと幸せになるはずだ。四人での暮らしはどんなだろう。
清は調味料の在庫の確認作業に戻ると鯨を呼んだ。「やっぱりハーブソルトが足りなくなりそうです。今注文しても間に合わないんで、明日の分だけ買ってきますね」
「いや、僕が行くよ。お腹の大きい人にこんな暑いところ歩かせられないからね」
「いや兄貴、俺が行く。まだ仕事終わってないんだろ」
「然こそまだ終わってないでしょ。それ、今日中に更新するんじゃなかった?」
然はう、と詰まる。来月の店の営業日と予約の状況を画像にしてSNSにアップする。パソコン作業は然の得意分野だから、この仕事は然に一任していた。
鯨は手早く作業を終わらせると、店の財布を持って玄関に回った。
「すぐ帰るよ。行ってくるね」
「気を付けて」
「行ってらっしゃい」
清と然が声をかけると足音が遠のいていき、玄関のドアがバタン、と閉まった。

鯨は夜になっても戻らなかった。スーパーはここから歩いて十五分のところにある。仮に一時間かけて買い物してもこんなに遅くなることはない。どこかで知り合いにでも会ったのだろうか。しかしそれなら連絡をくれるはずだ。鯨が断りもなく予定変更するなんてありえない。スマホに電話をかけても出ないし、ラインのメッセージにも既読がつかない。何かあったのではないかと、清も然も不安になってきた。
このまま待つべきか、警察に相談するべきか。二人で迷っていると店の電話が鳴り、走って然が取りに行く。
「お電話ありがとうございます、『六月の鯨』です!……はい、はい。栗原はうちですが。……はい、栗原鯨は私の兄で……え?」
会話の途中で然の声音が変わった。
「はい、すぐ行きます。……はい、失礼します」
然は受話器を置くと呆然と佇んだ。立っているのに力が抜けて、今にも倒れてしまいそうだ。
「然?」
不審に思った清は然を呼んだ。聞こえているのかいないのか、然は反応を示さない。心配になった清がもう一度大きい声で然、と呼ぼうとすると然は険しい顔で振り返る。
「清、警察行くぞ」
「警察?」
清は顔をしかめた。
「兄貴が、死んだ」

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